今日の中国ニュース(2022年10月17日分)

【産経抄】10月17日 - 産経ニュース

 5年に1度の中国共産党大会が北京市で昨日開幕した。習近平*1総書記(国家主席)は慣例を破って3期目入りするのか。「建国の父」である毛沢東が生涯手放さなかった「党主席*2」を復活させて自らが就任する、との観測さえある。
▼習氏といえば15歳から7年間にわたって、辺境の農村で洞窟生活を送った経歴がよく知られている。党の幹部だった父親の習仲勲*3は(ボーガス注:いわゆる反党小説劉志丹事件で)1962年に、毛沢東により失脚、投獄される。4年後に文化大革命が始まると、「反動分子」となった習氏は「下放」される。
 なぜ、父親の敵(かたき)であり、自分の青春を台無しにした毛沢東にあこがれ、その権威に近づこうとしているのか。
▼長年の疑問が、月刊「文芸春秋」11月号の論考「愛憎渦巻くファミリーの歴史」で氷解した。著者の北海道大学大学院教授の城山英巳さん*4によれば、改革派として党内で尊敬を集めながらも権力闘争に敗れた父親を「反面教師」にして、権力への階段を上ってきたというのだ。

 吹き出しました。アンチ習近平の立場に立つウヨ連中(産経や文春)が「そういうことにしたいだけ」でしょう。
 しかし今時「習近平毛沢東を目指してる」ねえ(呆)

 農工業の増産をめざす「大躍進政策」の失敗により、(ボーガス注:党主席には残留しても国家主席の座は劉少奇に譲り)国家主席の座から退いた毛沢東は、権力を取り返すために政治キャンペーンを仕掛ける。それが文革だった。
▼大会初日、習氏は過去10年の業績を「歴史的勝利」と自賛した。とはいえ、貧富の格差や民族問題など問題は山積みである。
 毛沢東を「正面教師」とする習氏が、権力の維持に不安を感じた時、切り札として仕掛けるのが「台湾統一」であろう。

 吹き出しました。
 「台湾が独立宣言(国連加盟申請など独立宣言も同然の行為も含む)しない限り侵攻しない」とする習氏が台湾侵攻の際に予想される「国連総会の非難決議」「欧米の経済制裁」(ロシアのウクライナ侵攻で実施)を覚悟して侵攻しなければいけない理由はどこにもないでしょう。
 そもそも「ウクライナと台湾、ロシアと中国は違う」とはいえ「NATOの軍事支援を受けるウクライナにロシアが苦戦」してるのを見れば「台湾侵攻時に米国の軍事支援を受ける台湾が中国を苦戦させるのではないか」ということも容易に予想もつく。
 「武力侵攻もあり得る」アピールは「独立を画策してるかのような反中国態度」を取る蔡英文政権への政治的牽制に過ぎません。
 【1】蔡英文が何らかの理由で、今の反中国的な態度をより親中国的な物に改めるか、【2】蔡が(リクルート辞任の竹下氏のように)失脚するなり(大平氏、小渕氏のように)病死するなりし、後釜(民進党であれ国民党であれ)が親中国的な態度を取れば中国も今の態度を変えるでしょう。蔡の前任・馬英九総統時代は今と違い「それなりの中台友好関係が成立していた」わけです。
 但し「台湾が独立宣言すれば」、中国としても面子の問題から侵攻せざるを得ないでしょう。ただし、その場合も「経済制裁をかけて撤回を迫る→撤回に応じないので侵攻」と言う形であり、即時侵攻などしないでしょうが。

【参考:反党小説劉志丹事件

反党小説劉志丹事件 - Wikipedia
 1936年に戦死した劉志丹を題材に書かれた小説『劉志丹』が反党文書だと攻撃された事件。
 劉志丹は1920年代から活躍した軍人で、長征の先頭に立ち高崗*5らと共に中国西北部の陝甘辺ソビエト政府(陝北省ソビエト政府)の確立に尽力した。1936年2月21日、毛沢東の「北上抗日」という指示で東征を行い、山西省に入ったところで同地を支配していた国民党の閻錫山*6軍に敗北し、4月14日に退却の途中に射殺されている。この一件で彼の故郷である保安県は新中国建国後に志丹県と名を変え、追悼大会が盛大に行われた。
 1954年、党中央宣伝部の指示で、彼を題材にした小説『劉志丹』が弟劉景范の妻で、自身も陝北で活動していた李建彤によって執筆が始められ、1959年までに初稿を書き終えた。その後、1936年当時に陝北省ソビエト政府主席であった国務院副総理習仲勲の助言を得て、1962年までに完成した。だが既に失脚していた高崗や1930年代に共産党極左偏向路線を主導した王明*7に関わる内容であったことから、陝北地域の党責任者だった賈拓夫は中央宣伝部の審査を仰ぎ、周揚副部長は問題なく出版は可能と結論。出版にこぎつけた。
 ところが光明日報、工人日報(中国のナショナルセンター(全国規模の労組団体)である中華全国総工会の機関紙)、中国青年報(中国共産主義青年団共青団)の機関紙)などに連載されると閻紅彦(雲南省党委員会第一書記)が「内容は党中央の評価が必要だ」と発表に反対し、その報告を受けた康生*8によって「政治問題であり、処理を求める」と楊尚昆*9に命じた。
 1962年8月、第8期党中央委員会第10回全体会議(第8期10中全会)予備会議で小説『劉志丹』は高崗の名誉を回復し、党を攻撃する文書と非難され、9月24日に開催された第8期10中全会で毛沢東は「小説を書いて反党反人民をするとは、これは一大発明だ」と批判した。この結果、習仲勲らが反党集団と認定され、習仲勲は党、政府の役職をすべて解任された上に下放された。
 また毛沢東にかつて英雄と好意的に評価された劉志丹自身もその記念碑が紅衛兵によって破壊された。
 1978年の第11期3中全会以降、冤罪事件の再評価が始まり、1979年には「小説『劉志丹』の名誉回復に関する報告」で「すばらしい革命文化作品であり、高崗の再評価問題など存在しない」と評価され、10月には再刊された。しかし、一部古参同志が事実と異なると指摘したため、1986年に習仲勲が調査した結果、「党の歴史的人物の描写は歪曲してはならない」と決定され、胡耀邦*10党総書記の指示で再度発禁となった。その後、小説に描かれた関係者がほとんど逝去した2009年に至って江西教育出版社から再刊された。

志丹県 - Wikipedia
 志丹県のような「革命烈士」にちなむ地名には他に子洲県(1929年に獄死した共産党員・李子洲)、子長市(1935年に死去した共産党員・謝子長)、左権県(1942年に戦死した共産党員・左権)、黄驊(こうか)市(1943年に殺害された共産党員・黄驊)、靖宇県(1940年に戦死した共産党員・楊靖宇)、尚志市(共産党員・趙尚志)がある。

*1:福州市党委員会書記、福建省長、浙江省党委員会書記、上海市党委員会書記、党中央軍事委員会副主席、国家中央軍事委員会副主席、国家副主席などを経て党総書記、国家主席党中央軍事委員会主席、国家中央軍事委員会主席

*2:1982年の党大会で廃止され、代わって党総書記ポストを設置

*3:党中央宣伝部長、副首相(反党小説劉志丹事件前)、広東省長、党委員会第一書記、全人代副委員長(文革終了後)を歴任

*4:時事通信社北京特派員、編集委員を経て現職。著書『中国臓器市場』(2008年、新潮社)、『中国共産党天皇工作」秘録』(2009年、文春新書)、『中国人一億人電脳調査』(2011年、文春新書)、『中国消し去られた記録:北京特派員が見た大国の闇』(2016年、白水社)、『マオとミカド:日中関係史の中の「天皇」』(2021年、白水社)、『天安門ファイル:極秘記録から読み解く日本外交の「失敗」』(2022年、中央公論新社)、『日中百年戦争』(2022年、文春新書)

*5:1905~1954年。党中央東北局第一書記、東北人民政府主席、中央人民政府副主席など歴任。1954年に毛沢東(当時、中央人民政府主席、中国共産党主席)、劉少奇(当時、中央人民政府副主席)、周恩来(首相)らの批判を受けて失脚し、その後服毒自殺。死後、党から除名された。

*6:山西都督(袁世凱政権)、山西省政府主席、中華民国首相兼国防相蒋介石政権)など歴任。国共内戦では蒋介石らと共に台湾に逃亡

*7:1904~1974年。毛沢東との権力闘争に敗れ、1956年に「病気治療」の名目でソ連に事実上亡命し、モスクワで逝去した。

*8:1898~1975年。文革期に内モンゴル人民革命党粛清事件 - Wikipedia内モンゴル自治区党委員会書記だったウランフが失脚)など数々の冤罪捏造に関わったことで知られる。1975年に膀胱癌で死去。康生が死んだ時の党内の序列は毛沢東党主席、周恩来首相、王洪文党副主席(文革終了後、四人組の一人として終身刑判決を受け獄中で病死)の次の第4位であった。追悼会では毛沢東から「プロレタリア革命家」「マルクス主義理論家」「反修正主義における輝ける戦士」と数々の賛辞を受けたが、毛沢東の死後、1980年10月16日に中国共産党は、康生を林彪江青反革命集団の一員として除名した

*9:党中央宣伝部長、党中央弁公庁主任を歴任するが文革期に「彭真(当時、北京市長)・陸定一(当時、文化相)・羅瑞卿(当時、国防副大臣)・楊尚昆反革命集団事件」で失脚。文革終了後、復権全人代副委員長、党中央軍事委員会第一副主席、国家中央軍事委員会第一副主席、国家主席など歴任

*10:中国共産主義青年団中央書記処第一書記、陝西省党委員会書記、党中央組織部長、党中央宣伝部長を経て党総書記