新刊紹介:「歴史評論」2021年2月号

 小生がなんとか紹介できるもののみ紹介していきます。正直、俺にとって内容が十分には理解できず、いい加減な紹介しか出来ない部分が多いですが。
特集「女房イメージをひろげる」
◆女房制度の成立過程(岡島陽子)
(内容紹介)
 宇多天皇の時代に成立した女房制度について、「それ以前の女官制度(後宮十二司という)と何が違うのか」「何故宇多天皇の時代に成立したのか(何故、後宮十二司が形骸化したのか)」が論じられていますが小生の無能のために詳細な説明は省略します。
 なお、岡島氏に寄れば第21回〈日本歴史学会賞〉を受賞した論文『女房の成立』 (『日本歴史』第853号〈2019年6月号〉掲載)と内容的にかぶるところがあるとのこと。

参考

https://kaken.nii.ac.jp/ja/report/KAKENHI-PROJECT-16J05960/16J059602016jisseki/
◆特別研究員 岡島 陽子 京都大学, 文学研究科, 特別研究員(DC1)
◆研究実績の概要
 一年目である本年は、史料の収集と整理を中心にしつつ後宮職員令に規定された後宮十二司が平安時代初期から変化をみせ女房という新しい女官が台頭していく過程を明らかにすることに努めた。
 分析に際して特に注目したのは女房の語の早い使用例である『寛平御遺誡』である。現在複数の翻刻がされているものの、重要な部分に虫損がありその部分の確認のため現存する最古写本である国立歴史民俗博物館蔵田中本の閲覧に赴くなど字句の確認にも努めた。その結果『寛平御遺誡』の内容を分析していく中で女房の原形は更衣・女蔵人であること、また両者の成立事情と職掌の分析から、光孝朝の特殊な後宮状況から起こった更衣の女官化が、宇多朝に女蔵人と結びついて女房という体系的な制度に発展していったことが明らかとなった。
 また女官制度を検討する上であまり重視されてこなかった女官の昇殿制についても、女房の本質的な要件と捉え検討を加えた。検討の対象としては食膳への女官の奉仕に注目した。特に陪膳という職掌天皇に近侍して奉仕するものであり、殿上に昇ることが許される存在である。従って陪膳に従事する者の検討から女官の昇殿制の変化を読み取ることが可能と考えた。そこで注目したのは仁和四年の内宴陪膳に関わる記述である。その記述から従来は平安初期の女蔵人の成立と結びつけて論じられてきた昇殿制は、実際は光孝天皇のころにはいまだ定まっていなかったことが明らかになった。一方で『寛平御遺誡』から寛平年間には女蔵人に対して殿上での日給が行われており、昇殿制の成立を見ることができ、宇多朝において女官の昇殿制が成立したことが分かる。これは男官の昇殿制の成立と時期的に一致する。
 以上のように、一年次は女官の平安時代における変化を明らかにした。その結果女房制度の成立の経過とそれに伴う後宮十二司の解体過程をほぼ明らかにしえたものということができる。

第21回日本歴史学会賞発表! - 株式会社 吉川弘文館 安政4年(1857)創業、歴史学中心の人文書出版社
 日本史研究の発展と研究者への奨励を目的とする「日本歴史学会賞」は、本会評議員の推薦に基づき、理事会における選考の結果、下記の通り第21回受賞者を決定しました。なお、本年の評議員総会および学会賞贈呈式は、新型コロナウイルス感染拡大防止のため中止となりました。賞状等は後日受賞者にお届けします。(2020年6月)
◆受賞者 岡島陽子氏
受賞論文
『女房の成立』 (『日本歴史』第853号〈2019年6月号〉掲載)
◆受賞者略歴◆
岡島陽子(おかじま・ようこ)
1990年7月、愛知県生まれ
2020年3月、京都大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学
現在、京都大学花園大学非常勤講師
◆選考の経緯
 昨年本誌に掲載された論文31本を対象に、本学会評議員の推薦に基づき理事会で慎重に審議した結果、若手研究者への奨励という本賞の趣旨に鑑み、岡島陽子氏の標記論文を本年度受賞作に決定した。
 岡島論文は、律令制下の後宮十二司から平安時代中期以降に長らく朝廷の運営を支える女官、すなわち女性官僚がどのように生成したかという問題に取り組んだものである。(ボーガス注:女房として)注目度の高い(ボーガス注:『源氏物語』の作者)紫式部や(ボーガス注:『枕草子』の作者)清少納言は「(ボーガス注:朝廷ではない、上流貴族の)家の女房」という非公務員であり、朝廷を支える「上の女房」が本筋であるが、実態はなお不明であった。従来は十二司の中心である内侍司からの展開で説明するのが通説であるが、十二司とは別に女房という枠組みが成立し、内侍司を吸収したことを明らかにした点は、女官研究に新たな視座を呈したと言えよう。史料の的確な分析も高く評価された。
 論旨展開がやや生硬な点もあるが、今後さらに論考をまとめる中で研鑽して欲しい。女官研究の新たな地平を築くことを大いに期待したい。


女院女房の荘園知行(野口華世*1
(内容紹介)
 「女院に仕える知行者の女房」として

【安楽寿院領荘園】
◆四条局(伊予国吉岡荘)
◆三位局(讃岐国富田荘)
 九条兼実の妻で、九条良輔の母である「八条院三位局(高階盛章の娘)」の事と思われる
丹波尾張国狩津荘)
◆高倉局(河内国高向荘)
 八条院高倉の事と思われる
◆播磨局(播磨国大塩荘)

などを分析。
 「女房の荘園知行」と「男性官僚の荘園知行」について、その性格に目立った差異が認められないこと、つまりは、女房の地位の社会的高さが指摘される。

参考

女院

  平徳子建礼門院徳川和子東福門院と呼ぶのは何故ですか。
回答
 これは<女院>というものです。「○○院」というのは,もともとは譲位後の居所などにちなんだ上皇の呼称が死去後に,その天皇に対する呼称ともされたことに由来していて,宇多天皇以降,わずかな例外を除いて江戸中期の光格天皇の一代前まで続くのですが,皇女や皇后(中宮)・女御のうちで上皇に準ずる待遇を与えられた者にも同様の「○○院」という号が与えられていきます。それが女院号で,一条天皇の母・藤原詮子が最初で,八条院領(八条女院領)の由来になった鳥羽院の娘・八条院もそのようにして院号を与えられた女性です。
[2004.05.24]


鎌倉時代の女房の後半生(土谷恵*2
(内容紹介)
 「鎌倉時代の女房の後半生」として
1)日記文学たまきはる(建春門院中納言日記)』の著者として知られる建春門院中納言八条院中納言
2)新三十六歌仙及び女房三十六歌仙の一人として知られる八条院高倉
が取り上げられている。「鎌倉時代の女房の後半生」として特徴的なこととして「尼としての出家」が指摘されている。


◆宮廷女房文学としての「とはずがたり」(田渕句美子*3
(内容紹介)
 後深草院二条によって書かれた女房文学「とはずがたり」が論じられていますが小生の無能のために詳細な説明は省略します。

参考

とはずがたり - Wikipedia
 この日記は、宮内庁書陵部所蔵の桂宮家蔵書に含まれていた桂宮本5冊のみ現存する。1940年(昭和15年)山岸徳平により紹介されるまでは、その存在を知る者も少なかった。一般への公開は1950年(昭和25年)の桂宮本叢書第15巻が初である。
◆他の文学作品との関係
◆『源氏物語』からの影響
 『とはずがたり』前半部の展開や和歌には、紫式部の小説『源氏物語』(11世紀初頭)からの強い影響が見られる。
 後深草院は自身の乳母であり、かつ想いを寄せる「新枕」の女・大納言典侍(だいなごんのすけ)の娘である二条を引き取るが、これは『源氏物語』の若紫(後の「紫の上」)を連想させる。
西行法師からの影響
 『とはずがたり』後半部の展開や和歌には、『山家集』を初めとする西行法師(元永元年(1118年) - 文治6年(1190年))の和歌や生涯からの強い影響が見られる。
◆『増鏡』への影響
 歴史物語『増鏡』(南北朝時代成立)には、『とはずがたり』の文章が数段にわたって用いられている。

後深草院二条 - Wikipedia
◆実在性について
 二条に関する来歴のほとんどは『とはずがたり』によるもので、同時期の外部資料から二条の存在を裏付ける手がかりが少ないことから、その実在性には疑問符が付けられている(松村雄二*4とはずがたり』のなかの中世』(1999年、臨川書店))。例えば、二条は『とはずがたり』の作中で105首の和歌を作成し、歌人としての才能を明らかにしているものの、同時期に編纂されたどの歌集にも二条の名はない。また、『とはずがたり』作中で二条を「雅忠卿の女(むすめ)」と呼ぶ場面が読み取れるが、貴族の家系資料である『尊卑分脈』では、久我雅忠(源雅忠)の項からは娘の存在が確認できない、という点が指摘されている(松村雄二・前掲書)。
 『増鏡』の「さしぐし」の巻の中で、『とはずがたり』の時期にあたる正応元年(1288年)に「久我大納言雅忠の女」という女房が登場し、三条という女房名を貰って悔しさのあまり泣いて慰められたという記述があり、この女房を二条と同定する説がある。しかし、正応元年は『とはずがたり』の中で二条が内裏を去り尼僧として旅にでるまでの空白の3年間と時期が重なり齟齬が生じている。また、『増鏡』の他の記述に『とはずがたり』からの引用が見られることから、純粋な外部資料とは見なし難いと指摘されている(松村雄二・前掲書)。

967夜『とはずがたり』後深草院二条|松岡正剛の千夜千冊
 いちいち書かないが、こうした源氏と似た出来事の自分の身への照射が『とはずがたり』にはしばしば出てくるのだが、それを思うと、いったい作者は事実を書いたのか、『源氏』を下敷きにした(ボーガス注:虚構を書いた)のか、わからなくなるようなところも少なくないのである。

いま、息をしている言葉で、『とはずがたり』を読む|千花物語|note
Twitterで、光文社古典新訳文庫から『とはずがたり』が出版されたというのを知ったとき、あ!と声をあげた。
 本書の訳者である佐々木和歌子さんには『やさしい古典案内』(角川選書、2012年)という著書があり、奈良時代の『万葉集』から江戸時代後期の『東海道中膝栗毛』あたりまでの古典文学作品の紹介と解説をしている。
・いつかこの著者による『とはずがたり』の本を読みたいなと思っていたら、先年の秋、現代語訳を上梓された。しかも古典の新たな可能性や魅力を切り開こうとしている光文社古典新訳文庫で!文庫の趣旨である「いま、息をしている言葉で、もういちど古典を」を実現するのに、ぴったりな人を選んだものだと感心した。
・この光文社古典新訳文庫の『とはずがたり』の訳文には、いくつかの特徴がある。
 登場人物に対する会話文以外の敬語(尊敬語、謙譲語、丁寧語)の訳出が極力おさえられ、一文一文が短く、独特のスピード感というか緩急があるので、通常の古典の現代語訳を読むとときにつきまとう、まどろっこしさやくどくどとした感じがない。
 王朝文学は、書き手(語り手)が主に中流貴族の女性であり、登場人物が天皇とそれをめぐる皇族、上流貴族たちであるため、どうしても敬語が発生する。最近、作家角田光代さんが訳された『源氏物語』の読みやすさが評判になっているが、会話文以外の敬語を意識的に抑えたというのをインタビュー記事で読んだ。やはり原文にある敬語をどこまで訳出するかは、現代語訳の読みやすさにもかかわってくるようだ。
 また、一文一文が短く、独特のスピード感、緩急があるのだが、訳者が自身の解釈に基づいて意図的にそのようにしたという。どのような解釈かはこの現代語訳の“核心”でもあるので、ぜひ本書を手にとって「訳者まえがき」を読んでほしい。
・特に私がおもしろいと思ったのは、ところどころに「コーディネート」「自粛ムード」「ノリノリ」「アンニュイ」「センチメンタル」などの、現代のカタカナの言葉が使われていることである。「イヤ」とか「ダメ」も用いられている。
 参考までに「アンニュイ」という言葉が使われている場面を、代表的な現代語訳の一つでもある瀬戸内晴美(現、寂聴)さんの訳と比べてみると・・・
◆瀬戸内訳(『とはずがたり新潮文庫 92ページ)
 隙ゆく駒の速さは早瀬川のようで、一度越えてしまえば元に返らない年波が、我が身に積り重なるのを指折り数えてみると、今年ははや、十八になっていました。百千鳥の囀る春の日影ののどかなのを見るにつけても、何とはなしに心に湧く物想いが忘れられる時もなく、御所の中がいくらはなやいでいても、一向に心がひきたちません。

◆新訳(『とはずがたり光文社古典新訳文庫 129ページ)
 時というものは早馬のように、急流のように、あっという間に過ぎていくもの。建治元年(一二七五)正月元旦の今日、この体に積み重なった年月を数えてみれば、私は十八になっていた。鳥たちがさえずりわたる春のうららかな陽の光を見ても私の心はいつもアンニュイで、この鬱屈した気持ちは片時も心からなくなることがない。私が仕える富小路の御所がいくら新年の晴れがましさの中にあっても、私は到底はしゃぐ気になれなかった。

 出だしの一文は、瀬戸内訳が「駒」「早瀬川」「よる年波」など和歌に使われる言葉をそのまま文の中に練り込みながら、原文の息の長さを生かした文体に仕上げている。
 それに対して新訳の方は、「早馬のように」「急流のように」と、その文意や言葉のニュアンスを損なうことなく、現代でも使うわかりやすい端的な言葉を重ねる。そして、時の速さと自身の年齢に対する感慨を二つの文に分けて、文末表現から丁寧語を外すことで、女性とも少女とも言えない年齢のぶっきらぼうな思考回路が表現されている。もっともこれを書いている二条は実際には50に手がとどこうかという年齢だったと思うが・・・。
 私は新訳の「アンニュイ」の一文を読んだ瞬間に、「ああ、たしかに10代の春って、気候や人が明るければ明るいほど、自分のもやもやした気持ちをもてあます、けだるい季節だったな・・・」という気持ちがわきおこり、二条の気持ちにダイレクトにつながった。
 瀬戸内訳の「百千鳥囀る・・・物想いが忘れられる時なく・・・」も古典を読んでいる安心感と満足感はあるのだけれど、だからこそ遠い時代の人の気持ちなんだなという気がして、身近に感じることはない。
 もちろん、文章の好みは読む人それぞれだし、どちらがいいわるいというのではない。この一段落からでも、新訳の趣旨「いま、息をしている言葉で、もういちど古典を」が実現されていることを感じてもらえるのではないか。

【感想】「とはずがたり」を読んで、文化や歴史に思いを馳せたら深い充足感に包まれた。 | やーさんブログ
 この「とはずがたり」は様々な方の手によって訳されたり、その話をモチーフに小説が書かれたりマンガになったりもしています。
 ぼくはまだ未読ですが、瀬戸内寂聴(瀬戸内晴美)さんが「中世炎上」というタイトルで小説化された作品も有名だそうで。
 今回、ぼくが読んだ本は光文社発行の古典新訳文庫から2019年10月に刊行されたもので、佐々木和歌子さんによる現代語訳がされたものでした。
 佐々木さんの現代語訳がとても秀逸で、カタカナ語(例えば”アクセサリー”や”アンニュイ”みたいな言葉)も多用されていて、よくある古典文学の言葉遣いの難しさに読みにくさを感じるといったことが全く無くサクサクと読めて内容にしっかりと集中できましたよ。
 古典が苦手!という方でも、かなり読みやすい文章になっていると思います。
 作中に和歌もたくさん出てきますが、分かりやすい現代語訳や注釈もついているので安心です。
 「とはずがたり」は、現在では桂宮本と呼ばれる江戸時代前期の写本5冊のみしか現存していないところから”天下の孤本”とも呼ばれています。
 700年以上前の鎌倉時代に書かれましたが、多くの人がこの書物を知ることになったのはそこまで昔のことではなく、なんと昭和に入ってからだったそうで、その存在は宮内庁書陵部で偶然発見されました。
 当初この作品は「地理」の分類で書籍目録に分類されていたそうで、そのタイトルを不思議に思った国文学者の山岸徳平という方が探し出して内容を確認すると、平安時代藤原道綱母が残した「蜻蛉日記」にも対等する素晴らしい女流日記であると直感したそうです。
 それが昭和13年(1938年)のことで、その2年後の昭和15年(1940年)に山岸徳平により「とはずがたり覚書」というもので紹介がされましたが、それはかなり限定的なものであったようで(時代的に日中戦争下にあり、現天皇に連なる宮中でのスキャンダラスな内容を含んだ書物は敬遠された背景があったとか)、一般への公開は更に10年後の昭和25年(1950年)になってからだったそうです。

続・UFO目撃記録の初出は『とはずがたり』である。 : やた管ブログ
 『とはずがたり』は孤本(一つしか写本が存在しない)である。どの活字本も同じものをもとにしているのだが、肝心の底本がはなはだ怪しいものだから、翻刻や解釈に違いが出やすい。

『とはずがたり』始めました : やた管ブログ
 『とはずがたり』の伝本は、いわゆる天下の孤本で、宮内庁書陵部本しかない。国文学研究資料館の新日本古典籍総合データベースと、笠間書院刊行の影印本で見られるので、これらを使って翻刻し本文を作成してゆく。
 伝本が一つしかないので、他の本を参照する必要はないが、そのぶん誤写を訂正するのが難しくなる。『とはずがたり』の写本は、誤写が多いので有名である。研究者によって説が別れているものも多く、いちいち注釈書を確認しなければならない。
 極めて個人的な内容なので、ちょっと読んだだけでは、理解するのが難しい。『沙石集』のような、さっぱり分からない単語が頻出するということはないが、会話文の主語が誰かとか、どこで文が切れるのかなどの判別が難しい。

『とはずがたり』は難しい : やた管ブログ
1.主語が分からない
 『とはずがたり』は後深草院二条の日記なので、自分は当然省略される。後深草院もいるのが当たり前だからよく省略される。関係した男たちは、はっきりかくとヤバいから省略される。なんだか暗闇の中で会話を聞いている感じだ。
 主語が分からないというのは、僕の読解力のせいだけではない。現在でも説が分かれているものがたくさんあるのだ。
3.平仮名で書かれた仏教語
 『とはずがたり』の前に『沙石集』をやったから、仏教語にはかなり詳しくなったつもりだが、平仮名で書かれるとこれがまた何が何やら。
 御けんしやせうくうか命にかはりける本そんにやゑさうのふとう御前にかけてふししゆ行者ゆ如はかほんつちひみつしゆ生々にかことてすすをしすりて・・・
 こんなの分からん。答えは次の通り。
 御験者、証空が命に代はりける本尊にや、絵像の不動御前にかけて、「奉仕修行者、猶如薄伽梵、一持秘密呪、生々而加護」とて数珠押しすりて・・・
4.やたらと多い誤写
 誤写が多いのは有名なので、最初から覚悟していたが、なにをどう間違ったのか分からない誤写が多い。なにしろ天下の孤本なので対校することもできない。さらに上の1~3が加わるので、文脈の想定ができなくなり、さっぱり読めなくなってしまう。
 これだけ誤写が多いということは、おそらく書写者も読めていなかったのだろう。ここで「読めていない」というのは解釈できていないということだ。読めなければまともな写本は作れない―翻刻も同じ―という好例である。僕の師匠はこの作品の初期の訳注(角川文庫)を作った人だが、よくもまあ三十代後半でこんなのできたものだと感心する。

『とはずがたり』の電子テキストを公開しました : やた管ブログ
 僕の師匠は『とはずがたり』の初期の訳注(角川文庫)を書いた人で、よく「一つの作品を通して注釈をやると実力がつく。論文は書けなくなるけどな」と言っていました。まあ注釈をやれば実力がつくのは当たり前ですが、今回『とはずがたり』のテキストを作って、言っている意味がよく分かりました。
 そりゃ、こんなのやったら実力付くよ!!
 「論文は書けなくなるけどな」の意味も分かりました。
 こんなのやってたら論文なんか書いてる暇ねぇよ!!
 まあ、僕の場合そうでなくても書けないんですけどね。
 『とはずがたり』は、とにかく知識が試される作品です。内容はWikipediaのとはずがたりの項におまかせしますが、ちゃんと理解するにはさまざまな知識を必要とします。言葉・歴史・地理・有職故実・仏教・民俗・和歌・音楽・説話・平安朝の物語


◆戦国期の室町幕府女房衆(木下昌規*5
(内容紹介)
 幕府政治に大きな影響を及ぼした「戦国期の室町幕府女房衆」について論じられていますが小生の無能のために詳細な説明は省略します。

参考

清光院 - Wikipedia
 室町幕府第12代将軍足利義晴に近侍した。通称は佐子局(さこのつぼね)。出家後は清光院とも称したが八瀬に隠居したことから八瀬局とも呼ばれた。
 義晴の側室ではなく養育係の1人であったと推定される。義晴の将軍就任以降、佐子局が記録上に登場するようになる。佐子局の記録上の初出は『尚通公記』大永3年(1523年)正月16日条で、以降幼少の義晴に近侍して諸事の取次を務め、仮名書きの奉書や御内書の添状を発給している。
・参考文献
 設楽薫「将軍足利義晴の嗣立と大館常興の登場:常興と清光院(佐子局)の関係をめぐって」(初出『日本歴史』631号(2000年))/後に、木下昌規編『シリーズ・室町幕府の研究第三巻:足利義晴』(戒光祥出版、2017年)に収録


◆近代女官とその機能の変化(小田部雄次*6
(内容紹介)
 「機能の変化」としてまず上げられるのは「側室機能の消滅」ですね。大正天皇の母「柳原愛子」は正室で無く「側室(女官)」でしたが、昭和天皇の母親は貞明皇后という正室(皇后)だった(ただし知られざる天皇家の「闇」をあぶり出した、ある女官の手記(原 武史) | 現代ビジネス | 講談社(1/6)によれば大正天皇には側室自体はいたようです)。
 昭和天皇に至っては側室制度が正式に廃止されました。
 そこには1)側室の存在は国民の皇室への敬愛の念を阻害するという判断と、2)医学の発達により幼児の死亡が減り、側室を用意してまで沢山の子供をもうける必要がなくなったという認識(なお、現在、皇位継承権のある男性皇族が悠仁君しかおらず女性天皇導入論が出ている)があったわけです。
 今や、さすがにウヨ連中ですら「側室制度復活」なんていう奴はほとんどいません。
 また昭和天皇の時代には「側室制度廃止」以外にも

【昭和天皇の87年】ひげをたくわえた皇太子 結婚を機に女官改革に乗り出した(4/6ページ) - 産経ニュース
・女官は華族、京都士族、社寺家出身の未婚女性が勤める一生奉公で、皇居外に出ることはほとんどない。しかし裕仁皇太子は、結婚を機に既婚女性も採用し、通勤制を取り入れた。階級も女官長、女官、女嬬の3つとし、人数も大幅に絞った

ということで様々な改革がされたわけです。
 で戦後ですが、「天皇国家元首の地位から象徴に変わったこと」「国家神道の廃止(政教分離)」「大量の皇族の臣籍降下」「華族制度の廃止」「旧華族出身でない美智子の皇太子妃就任」などで、皇室が一定の変化を余儀なくされたこともあり女官の地位や扱いも戦前とは変わってきます。
 例えば

4年半ぶりに決まった「雅子妃の女官長」のお役目 | デイリー新潮週刊新潮 2015年8月13・20日夏季特大号
 4年半という空白の時間にピリオドが打たれた。
 皇太子妃に仕える東宮女官長*7。長きにわたり不在という異例の状態が続いていたが、7月31日の閣議で(ボーガス注:中国大使などを務めた故・西宮伸一*8氏の未亡人である)西宮幸子氏(58)の就任が決定されたのである。
 女官長雅子さまに仕える側近で、国内外のご公務に付き添う渉外役を担う。採用にあたり大事な条件があると話すのは、皇室ジャーナリストの神田秀一氏だ。
 前任の木幡(こわた)清子氏も、シリア大使を務めた木幡昭七氏の未亡人。ご主人が雅子さまの実父・小和田恆*9と外務省の同僚だった縁で1993年に東宮女官となり、2003年から女官長を務めたが11年に退任していた。
「彼女は津田塾大を卒業後、銀行勤務を経て外交官の西宮伸一氏と結婚しますが、彼は民主党政権下の12年、中国大使に任命された直後に急死してしまいました。子供たちも独立し、雅子妃のお世話に専念できる状況にあります」(同)
 朗らかな人柄との評判だ。夫がニューヨーク総領事として赴任した際は、夫婦で当時ヤンキース松井秀喜氏の表彰式に出席したことも。茶会、朗読会などのレセプションを取り仕切るなど海外経験も積んできたが、皇室にかかわる公職の経験はない。
「人選の責任者は小町恭士*10東宮大夫。外務省出身の彼の周囲で了承を取り付けられた適任者は西宮さんしかいなかったワケですが、これで雅子妃の本格的なご公務再開に向けての体制は整った格好です」(神田氏)

雅子さまを支える宮内庁側近職員「オク」とは?|NEWSポストセブン女性セブン2016年10月6日号
 現在、雅子さまのお世話係のトップ・東宮女官長は、昨年7月に就任した西宮幸子さんが務めている。
「2011年1月に前東宮女官長だった木幡清子さんが退職して以来、西宮さんが就任するまで4年半にわたって東宮女官長は空席でした。西宮さんは、2012年に中国大使に任命された直後に急逝した外交官・西宮伸一氏の未亡人。」

雅子皇后の好調を支える「名女官長」と「上皇后さまからの解放」 | デイリー新潮週刊新潮 2019年7月25日号
皇后陛下のご体調が現在、順調なのは侍従職の“シフト”も大きいでしょう」とは、さる宮内庁関係者。
「お世話係のトップである西宮幸子女官長の存在が大きい。彼女自身が外交官の妻だったこともあってお話も合うようで、4年前に東宮女官長に就任して以降、皇后陛下とは良好な関係を築いてきた。」

雅子皇后の「好調」を支える女官 上皇ご夫妻のお引っ越し進まず (1/2) 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)週刊朝日2019年8月16日‐23日合併号
 雅子さまが好調な背景には、西宮幸子女官長の存在がある。元駐中国大使の妻で4年前に東宮女官長に就いた。語学や外交儀礼にも通じており、何より雅子さまとの関係が非常に良い。
「ご静養中のご一家が那須どうぶつ王国を訪れたとき、ふと見ると、雅子さまが隣の女性と声をたてて笑っているのです。そんなに打ち解けている相手は誰だろうと、不思議に思っていたら、東宮女官長に就任したばかりの西宮さんだったのです」(皇室記者)

ということで「雅子皇后の女官長(木幡・元シリア大使(故人)の未亡人である木幡清子氏、西宮・元中国大使(故人)の未亡人である西宮幸子氏)」は明らかに「皇室関係」で選ばれてないですね。もちろん旧華族でもない(もちろん当たり前ですがもはや側室機能なんかありません)。
 どう見ても、父親である「小和田恒・元外務事務次官」つながりで選ばれてるわけです(まあ、雅子自身も外務官僚出身ですが)。そうでなかったら外務省関係者(?)が女官長になることはないでしょう(まあ、雅子皇后の周辺の宮内庁幹部は西宮女官長だけでは無く小田野展丈*11侍従長など他にも外務省出身者が多いわけですが)。
 そしてこうした「配慮の理由」の一つはどう見ても「うつ病への配慮」でしょう。
 こういう辺りが産経などのウヨ連中にとって「雅子皇后は特別扱いで、甘やかしだ」などと、おそらく「不愉快」であることは間違いないでしょう。
 一方で「雅子皇后」ではなく美智子上皇后の場合は

「サンデー毎日」(平成30年7月1日号)の記事について - 宮内庁平成30年7月18日
 サンデー毎日7月1日号の「勁つよき声~美智子さまとその時代」と題する工藤美代子氏*12の連載(第3回後編)において,東宮妃殿下時代の皇后さまにお仕えした故牧野純子*13東宮女官長(以下「故女官長」という。)の友人の娘で,97歳になる「香子」という仮名の人物が,自分の母親又は故女官長から直接聞いたという話を基に,皇后さまと故女官長との間の不和を取り上げる記事が掲載されています。
 まず,ご成婚後の伊勢神宮参拝時の皇后さまのお洋服に関し,「スカートがパーッて広がっていて,針金がぐるぐる入っている・・・宝塚みたいなスカートをお召しになっていらした」とし,故女官長が「こうしたお洋服は伊勢神宮ではお召しにならないから,ちょっと針金を取らせていただくことにした」が,「妃殿下が針金をまた付け直していらしたんですって」との談話が記述されています。
 しかし,この時,皇后さまがお召しのご参拝服に針金は入っていません。後年,ご処理の時に「覚え」として職員が残した絵型の付記からも明らかですが,何よりもこのことは,当時,このご参拝服が用意された経緯から言ってもあり得ないことです。
(中略)
 事実が基にあれば,それに対する様々な見方があって構いません。
 しかし,今回の記事は,実際にあった事実を基にするのではなく,母親を介し,又は自らが伝聞したという「香子」さんの記憶だけを採録し,それを事実として筆者自身の「見方」を述べたものです。宮内庁としては,ご譲位を来年に控え,ご高齢のお体で最後のお務めを果たされている両陛下について,今更のように第三者の語る当時の噂話が十分な検証や当時の状況説明もなく世間に流布されることは放置すべきでないと考え,宮内庁ホームページで改めて当時の事実関係を説明すると共に,筆者及び出版社にこの内容を通知することにしました。

ということで「真偽は不明」なものの「皇太子妃時代に古参女官長にいじめられた」つう話が出てくるわけです。
 あるいは美智子上皇后の場合は

井上和子さんが死去 元女官長: 日本経済新聞
 昭和天皇の側近だった木戸幸一内大臣の三女。1990~2004年まで皇后さまのお世話をする女官長を務めた。

ということで、女官長は「元侯爵・木戸幸一*14の娘」という元華族の訳です。
 一方で雅子皇后の場合はその種の女官による「いじめ」は皇太子妃時代からどう見てもないでしょう。何せ女官長を父親の知人(外務省関係)から持ってきてますからね。そして女官は元華族でもない。まあ、大分、女官の性格も変わってますね。
 そう言う意味では「美智子上皇后」に比べれば「雅子皇后」の精神的負担の方が「産経などウヨ連中の雅子バッシング」を考慮しても、「かなり軽いはず」です。美智子上皇后からすれば「(当時はそんなこと無理だったが)私だって女官長に知人のつながりを持ってきたかった」といいたいでしょうが、雅子皇后がうつ病になるつうことは、やはり、「いわゆる民間人からの皇族入り」つうのはそれだけでそれなりの「精神的ストレス」ではあるんでしょう。

【参考:大正天皇の側室問題&昭和天皇の女官制度改革】

【試し読み③】女官、究極の女性社会。三浦は震え、原は興奮した。『皇室、小説、ふらふら鉄道のこと。』 | カドブン
原武史*15
 山川三千子という元女官が書いた『女官 明治宮中出仕の記』(現在は講談社学術文庫)という本がありますが、これを読むと、女官の世界は大変に禍々しい感じがします。
 山川は明治の末から大正にかけての数年間、明治天皇の皇后である昭憲皇太后に仕え、皇太后の死を機に宮中から退き、半世紀近く経ってから一気に書きあげた。初めて知るような宮中の秘話が満載されているんですが、この本が書かれたミッチーブームの頃が一番皇室も開かれていましたから、可能だったのでしょう。
 文面から感じられるのは、貞明皇后大正天皇の皇后)への感情の激しさです。この激しさは山川三千子に特有かというと、決してそんなことはない。椿という源氏名*16をもった女官は大正天皇にかわいがられましたが、やはり貞明皇后が如何にヒステリックだったかを、「おきちがいさんみたいに」などと平気で語っている(『椿の局の記』山口幸洋、近代文芸社、2000 年)。これは天皇に対するタブーが皇后にはないためにバイアスのかかった書きかたをしているのか。それとも本当にそういう風に思っているのか。

知られざる天皇家の「闇」をあぶり出した、ある女官の手記(原 武史) | 現代ビジネス | 講談社(1/6)2016.8.6
 近代天皇制研究の最大の難点は、御製(ぎょせい)と呼ばれる和歌を除いて、天皇や皇后(皇太后)が書いたものがほとんど公開されていないことである。
 確かに最近では、『明治天皇紀』に続いて『昭憲皇太后実録』や『昭和天皇実録』が刊行されるなど、研究環境が整ってきているように見えるが、こうした資料は宮内省宮内庁が編修しており、基本的に天皇や皇后の生涯を顕彰するという政治的意図が込められていることに注意しなければならない。
 つまり、マイナスの情報ははじめから遮断されているということだ。
 2002年から11年にかけて公開された「大正天皇実録」も、学業成績や病気の詳細な診断が書かれた部分については黒塗りされていて見ることができない。
 したがって、公式の資料だけを見ていても、天皇や皇后の実像に迫るには限界がある。
 むしろそれらが取り上げない宮中関係者の私的な回想録のなかにこそ、生身の人間性を剝き出しにした天皇や皇后の等身大の姿が描かれている場合があるのだ。
 皇太子明仁(現天皇)と正田美智子(現皇后)が結婚した翌年に当たる1960(昭和35)年に公刊された本書(『女官 明治宮中出仕の記』(現在は講談社学術文庫))は、このタブーを初めて破り、一人の元女官がそれまで誰も知らなかった近代の天皇や皇后に関するエピソードを生々しく記した点で、きわめて衝撃的であった。
 本書の著者、山川三千子(1892~1965)の旧姓は久世(くぜ)で、1909(明治42)年に宮中に出仕した。
 本書では、大正天皇に関して、それまで決して聞いたことのなかったエピソードが語られている。
 大正になったばかりの頃、三千子は御内儀の廊下で天皇にばったり会ってしまったことがあった。大正天皇が「自分の写真を持っていないか」と言いながら三千子に迫ってきた体験を語るくだり(224~225頁)は、本書の読みどころの一つといえる。
 おそらくこうした体験があったからだろう。三千子は皇后宮職に移って大正天皇と貞明(ていめい)皇后に仕えることを拒み、「今まで通り皇太后宮様にお使い戴くなら奉職いたしたいと存じますが、こちら様に御不用ならば生家に帰らせて戴きます」と女官の最高位に当たる典侍柳原愛子(やなぎわらなるこ)(大正天皇の生母)に言った(228頁)。
 愛子から露骨に嫌な顔をされながらもこの願いは聞き入れられ、三千子は宮城(皇居)へは行かずに皇太后の住む青山御所にとどまり、女官の地位も本官の権掌侍へと上がった(236頁)。
 それでも、大正天皇の執心はおさまらなかった。天皇は、何かと理由をつけては青山御所にやってくると、「〔三千子の〕姿の見えない時までも必ず名指しをしてお召になって、何かとお話かけになる」(238頁)。
 三千子の気持ちを察し、天皇がやってくるときに三千子を病気欠勤にしたのは、昭憲皇太后であったようだ。
 三千子は1914(大正3)年に退官し、翌年に山川黙(しずか)と結婚するが、なぜか天皇は結婚披露宴の日を知っていて、三千子の弟で侍従職出仕の久世章業に見に行くよう命じたという。三千子は、「こんなつまらぬ話をどこからおききになったのか、なぜそうまで御心におかけ下さるのか、どうもちょっと」(315頁)と本音をぶちまけている。
 三千子は、女官に採用されるさい、「別の日に出られた烏丸(からすまる)花子さんが、東宮さまの方へゆかれることになったのだそうでございます」(17頁)と述べている。
 つまり三千子は皇后宮職の女官になったのに対して、花子は東宮職の女官となったわけだ。この違いが二人の運命を分けた。花子もまた大正天皇お気に入りの女官になるが、1917(大正6)年に退官している。
 それを伝える記事が、同年12月29日付の『時事新報』に掲載された。この記事を見た作家の徳冨蘆花は、「初花の内侍(烏丸花子のこと:引用者注)が宮中を出た、と新聞にある。お妾の一人なんめり」と日記に書いている(『蘆花日記』6、筑摩書房、1986年)。
 花子は大正天皇の「お妾の一人」であり、天皇との間に性的な関係があったと推察しているのだ。これがもし事実ならば、二人の運命の違いはまことに大きかったと言わねばなるまい。
 ちなみに烏丸花子が退官したときには、徳冨蘆花は「お節(さだ)さんのいびり出しだ」と推測している(前掲『蘆花日記』6)。貞明皇后の名は節子(さだこ)であるから、「お節さん」は皇后を意味する。
(中略)
 大正天皇を失われてからの皇后は、まるで「黒衣の人」といわれてもよいような、黒一色の生活をされ、自分自身の手で加えられるそのような鞭はなにがため、とありましたが、その謎はやはりご自分の心だけがとかれるものでしょう。お四かたの皇子もあげられたのですから、お睦まじい時もあったのでしょう。
 御賢明にわたらせられすぎて、となげいた人もあったとか。亡き天皇をしのばれる時があるなら、ふと浮ぶざんげのお心持がなかったとは申せませんでしょう。
 天皇があられたればこそ、皇后になられたのですから。
(325~326頁)
 不思議な文章である。一読しただけでは、何が言いたいかよくわからないからだ。
 だがよく読むと、三千子は大正天皇貞明皇后との仲を疑っていることがわかる。天皇が女官に手を付けたがるのは、必ずしも天皇だけの問題ではない──三千子はこう言っているのだ。
 三千子自身も(ボーガス注:大正天皇との男女関係があると)誤解されたように、貞明皇后は嫉妬深い性格であった。そして大正天皇の体調が悪化すると、天皇をさしおいて大きな権力をもつようになり、まるで自分が天皇であるかのごとく振る舞っているように、三千子には見えたのではないか。
 「天皇があられたればこそ、皇后になられたのですから」という最後の一文は、貞明皇后は決して自らの力で皇后になったのではないのに、本人はそのことをまるでわかっていないと(ボーガス注:皮肉や悪口を)言っているようにも読み取れよう。
 管見の限り、公式の資料だけではわからない宮中という世界の「闇」をこれほどあぶり出した書物はない。

大正天皇に「側室」はいたのだろうか? 『近代皇室の社会史』 | J-CAST BOOKウォッチ2020/4/27
 平成から令和になってまもなく一年。本書『近代皇室の社会史』(吉川弘文館)は明治以降の皇室史を「家族」や「家庭」という視点からとらえなおしたものだ。
 著者の森暢平さんは1964年生まれ。京都大学文学部史学科卒業。成城大学文芸学部教授 。著書に『天皇家の財布』(新潮社)、共著に『「昭和天皇実録」講義』(吉川弘文館)、『皇后四代の歴史』(吉川弘文館)がある。副題は「側室・育児・恋愛」。純然たる学術書なので、女性週刊誌的なミーハーなノリではない。
 森さんは問いかける。
 「天皇睦仁(明治天皇)に側室がいたことは、その親王内親王がすべて庶子であることから明らかである。一方、その孫・裕仁昭和天皇)に側室がいなかったことは、『牧野伸顕日記』に記されている宮中女官改革の経過などによりまた、明らかであろう。では、その間にいる嘉仁(大正天皇)はどうであっただろうか」
 結論として、大正天皇が一夫一婦であったことは先行研究で「おおむね一致する」。ではなぜそうなったのか、というのが著者の問題意識だ。
 伝統的に側室制(一夫多妻制)をとってきた皇室が変化したとすれば、それは社会の変化の反映だと考え、本書では具体的に「高等女官」の任用、天皇の周囲にどのように女官が配置されたかを分析している。つまり、「(ボーガス注:明治)天皇睦仁と(ボーガス注:後に大正天皇となる)皇太子嘉仁の女官を比較」することを通して考察している。具体的に当時の女官たちの名前、家格、肩書、源氏名の詳細な一覧表が掲載されている。
 著者は記す。
 「明治中期までの上流階層では、側室は『家』存続戦略として当然視されるものであった。正室を持たず、庶子を多く儲けていた山階宮晃久邇宮朝彦はこうした前近代的な家族慣行を保持し続けていた皇族であった」
 明治の皇室典範庶子皇位継承を認めていたそうだ。では、宮家皇族についてはどうするか。いろいろ議論があったことも紹介されている。1910年になって「皇室親族令」が制定された。そこでは庶子について、他の皇族と宮内大臣が否認の申し立てができる条文があるそうだ。本書はこうした規制が、庶子抑制に効果を持ったことを認めつつ、それ以上に、「明治期皇室が近代家族化の波のなかにいたことが大きいだろう」としている。
 宮家皇族における最後の庶子北白川宮の第五王女で1895年。明治天皇に最後の庶子が生まれたのは1897年だという。
 もっとも、昭和戦前期にも皇族の私生児問題は内々に問題になったことがあるそうだ。主として皇族が「芸者」や「玄人」と関係したことによるという。著者は、皇族が側室を公然と置いていた明治中期までとは、「問題の水準が全く違う」「私生児として秘匿される状況こそ、皇室における庶子排除の帰結であるといえよう」と書いている。
 著者は天皇一家をめぐる図像に注目している。1890年制作の御一家の「錦絵」では、天皇、皇后、皇太子のほかに「女官」が描き込まれている。しかし、1898年の家族がそろった「皇室御親子御尊影」では、「これまでの錦絵・石版画には盛んに描かれてきた子どもの生母(睦仁の側室である柳原愛子*17・園祥子*18)は描かれず、存在が隠蔽される」。
 天皇一家の「家族アルバム」を想起させる「皇室御親子御尊影」からは、皇室が「家族モデル」にもなり、親子が相親しむ一家団らんの近代家族が、次第に人々の理想となっていく時代の変化がうかがえる。しかし、「現実の皇室には、それを目指したくても目指せない天皇睦仁の家族固有の問題があった」と著者は注記する。
「(ボーガス注:明治天皇)睦仁に側室がいること、子どもたちが(ボーガス注:明治天皇の皇后)美子の実子でないことである。このときに登場するのが、(ボーガス注:後に大正天皇となる)皇太子嘉仁とその妃となる九条節子であった」。
 大正天皇の「側室廃止」は、明治後期に形成されつつあった近代家族像の延長線上にあったというわけだ。

昭和天皇の「女官制度」改革|高森明勅 公式ブログ | 天皇、皇室、皇位継承問題
 明治の皇室典範では「庶出(非嫡出)子孫にも皇位継承資格を認めていた。
 しかし、昭和天皇はそれを事実上、無効にする女官制度の改革を断行された。
 側室制度を廃止されたのだ。
「女官には公的な『お役女官』と、(男系男子の)皇嗣(こうし)を絶やさないために側室を務める『オソバサン(お后〔きさき〕女官)』がいた。御側(おそば)女官は権典侍(ごんのてんじ)で、公(おおやけ)の場所にはいっさい出なかった」
「こうした…女官制度に、若い皇太子(後の昭和天皇)は反発した。
 大正11年(1922)1月28日、牧野(伸顕)宮相(宮内大臣)は皇太子に呼ばれた。
『殿下仰せに、自分の結婚も其(その)内行う事とならんが、夫(そ)れに付(つき)特に話して置き度(た)く考うるは女官の問題なり、現在の通り、勤務者が奥に住み込む事は全部之(これ)を廃止し日勤する事に改めたし』(『牧野伸顕*19日記』同日条)
…女官を日勤制にし、朝夕のことは女中(じょちゅう)任せにしてはどうかと、日頃考えてきたことを整然と語った。旧慣にズバリと挑戦したのである」
「女官制度の改革については、結婚のころまでになんとか形ができあがった。…最大のものは、女官を既婚の女性とし、側室制度を宮中から追放したことだ。大正天皇のときも『お控え』はいたが、皇后の監視が厳しかったという話もある。昭和元年(1926)12月31日の『東京朝日新聞』には、『廃止に決定した宮中大奥の制度…新帝の畏(かしこ)き思召(おぼしめ)し』とある」(高橋紘*20『人間昭和天皇*21』上巻)
 現在および予想し得る将来において、側室制度を復活させたり、皇室典範を改正して非嫡出子孫にも皇位の継承資格を認めたりする事は、およそ想像し難い。


◆歴史の眼『首里城火災と被災文化財』(安里進*22
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。

訓練や役割分担「不十分」 首里城火災の中間報告書: 日本経済新聞2020年9月11日
 2019年10月末の首里城那覇市)の火災に関する沖縄県の「再発防止検討委員会」は11日、夜間の火災を想定した訓練や警備員らの役割分担が不十分で「実質的な初期消火活動に至らなかった」とする中間報告書を玉城デニー知事に提出した。
 委員長を務める阿波連光弁護士から受け取った玉城氏は「内容を真摯に受け止め、首里城の管理者として今後の防火対策にしっかり取り組み、管理体制の構築に生かしたい」と述べた。委員会は来年3月までに、再発防止策を盛り込んだ最終報告書をまとめる。
 中間報告書は火災報知機の作動が遅れ、焼失した正殿内の消火器などを使えなかったと指摘。那覇市消防局への情報伝達や連携が不十分で「消防隊の到着時点で、城郭内に入る通路の車両進入止めや複数の門扉が施錠されたままで、消火活動の障害となった」と結論付けた。防火扉のない部屋に文化財を保管していた点も問題視した。
 その上で、首里城再建では初期消火を容易にする設備を導入した上で、管理体制の確保や訓練が極めて重要とした。

首里城の火災から1年 二度と繰り返さないための対策など課題 | 首里城火災 | NHKニュース2020年10月31日
 沖縄の首里城の火災から31日で1年です。火災で失われた「正殿」の6年後までの再建に向けた準備が始まった一方で、大規模な火災を二度と繰り返さないための、防火対策や管理体制の見直しが大きな課題となっています。
 去年10月31日の未明に起きた首里城の大規模な火災では、「正殿」を含む6棟が全焼し、警察と消防は出火原因について、電気系統のトラブルの可能性が高いものの、原因は特定できないと結論づけました。
 一方、火災の再発防止策を検討する沖縄県の第三者委員会は、先月の中間報告で、夜間の火災を想定した警備員の訓練不足などから、実質的な初期消火ができなかったと指摘していて、大規模な火災を二度と繰り返さないための防火対策や管理体制の見直しが大きな課題となっています。


◆書評:松田英里著『近代日本の戦傷病者と戦争体験』(2019年、日本経済評論社)(評者:岸博実*23
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。

一橋大学大学院社会学研究科・社会学部
論文題目:近代日本の戦傷病者と戦争体験
著者:松田英
1、 本論文の概要
 いわゆる傷痍軍人は、戦前の日本国家が遂行した戦争において傷病を負った名誉ある軍人として賞賛される一方で、その障害や貧困のゆえに蔑視される存在でもあった。本論文は、その傷痍軍人たちが生きた軌跡を、次の2つの問題の分析を通じて明らかにしている。第一は、当時、「廃兵」と呼ばれた日露戦争傷痍軍人の恩給増額・待遇改善運動の分析である。この問題では、戦争体験の問題と関連づけながら、運動に参加した「廃兵」の意識の特質が具体的に明らかにしている。第二は、1936年に創設された大日本傷痍軍人会の活動の実態分析である。同会は傷痍軍人の活動を統制し、彼等に「精神修養」と「再起奉公」を促す組織だった。しかし、本部が創設されたものの、支部や分会の設立には遅れが目立ち、その支持基盤は意外に脆弱だった。本論文では、分会の下部組織である班レベルの活動にまで分析の対象を広げながら、大日本傷痍軍人会の活動実態を丁寧に明らかにしている。以上が、本論文の概要である。
2、 本論文の成果と問題点
 成果としては、次の三点を指摘することができる。第一には、日露戦争の「廃兵」による恩給増額・待遇改善運動に着目することによって、その運動を支えていた彼等の自己認識のありようを、戦争体験の問題と関連づけながら明らかにしたことである。彼等は、兵役義務を果し戦争で傷病を負った名誉ある軍人であるという強い自負心を有していた反面で、「廃兵」の存在を忘却し、時には彼等を蔑視する社会や国家に対する強い批判的意識=「棄民」意識をも有していた。そして、戦争体験に裏打された、こうした意識こそが彼等を運動に駆り立てる原動力となっていたのである。近年、出征軍人やその留守家族、あるいは戦死者の遺族に対する軍人援護行政の研究がすすみ、戦争や軍隊を支えた「銃後」の体制が具体的に解明されつつある。しかし、それらの研究は、「廃兵」の運動に言及することはあっても、基本的には国家の側の対応の問題、軍事行政の研究にとどまっている。これに対して、本論文は傷痍軍人の意識や言動、生活実態などに着目することによって、彼等の運動を内在的に分析することに成功している。
 第二には、第一の点と不可分の関係にあるが、最終的には国家による統合に導かれてしまうような「廃兵」の独特の意識を明らかにしたことである。彼等は名誉ある傷痍軍人としての強い自負心を有していたが、それは一般の障害者と自らを峻別する特権者的意識と表裏一体のものだった。また、戦争体験へのこだわりは、戦死者に対して感じる生き残った者としての強い負い目の感覚とも相俟って、戦争体験に国家的な意味づけを付与しようとする意識を生み出し、「大日本帝国」の対外的な膨張を正当化する「帝国意識」の形成に帰結していったのである。
 第三には、大日本傷痍軍人会研究への貢献である。関連史料が乏しいため不充分さが残るが、次の点は今後の研究にとってあらたな出発点となる。一つは傷痍軍人の多くは兵役免除によって軍籍を持たないため、公的には軍人としては遇されない不安定な存在であったことを明らかにしたことである。もう一つは傷痍軍人と言えば、どうしても戦傷者に目を奪われがちであるが、アジア・太平洋戦争の時期ともなると、結核マラリアを発症した多数の戦病者が存在していた事実を明らかにしたことである。彼等は傷痍軍人会の活動に必ずしも積極的ではなかった。本論文で明らかにされた大日本傷痍軍人会の活動の立ち遅れも、この二点の問題と関連があるように思われる。
 以上のように、本論文には貴重な成果が認められる。しかし、問題点も存在する。
 第一には、傷痍軍人の行動や言動に即して、彼等の戦争体験の持つ意義を内在的に明らかにするという問題意識はよく理解できるが、日中戦争以降の分析に関しては、この問題意識が後景に退いていることである。そのため第1~4章までの分析と第5章の分析とのつながりが読み取りにくい。このことは戦争体験、戦場体験、銃後体験という三つの概念の定義が曖昧なこととも関連していよう。第二には、傷痍軍人としての体験の固有性という問題が十分に考慮されていない点である。日露戦争後に、抑圧されている人々の間から自らの人格の承認要求が様々な形で噴出してくることはよく知られているが、「廃兵」のそうした要求が「帝国意識」と結びついてゆくプロセスを明らかにするためには、体験の固有性という問題を重視する必要があるだろう。第三に、方法論等の問題で言えば、軍事援護行政と「廃兵」の運動とが二項対立的にとらえられている嫌いがある。兵役義務者及廃兵待遇審議会の問題にしても、民衆史、社会史の側から制度史をとらえ直していくようなアプローチが考えられるのではないだろうか。また、差別の重層性という問題では、目に見える障害を持った傷痍軍人の身体性の問題を掘り下げる必要がある。そうした傷痍軍人に対する社会や民衆の差別的な眼差しの問題に関しては、簡単な言及があるものの、もう少し具体的分析がほしい。
 もちろん、以上のような問題点は、本論文の学位論文としての価値を損うものではなく、松田英里氏自身もその問題点を充分に自覚しているところである。今後の研究の中でこうした問題点は克服できるものと判断する。


◆書評:小都晶子著『「満洲国」の日本人移民政策』(2019年、汲古書院)(評者:玉真之介*24
(内容紹介)
 これについては、小都著書と同様の問題意識に基づく小都氏博士論文『「満洲国」の日本人移民政策と中国東北地域社会の変容』の要旨を「かなり長くなりますが」紹介しておきます。

博士論文『「満洲国」の日本人移民政策と中国東北地域社会の変容』の要旨
Ⅰ 問題の所在
 本論文の目的は,中国東北地域社会における「満洲国」(以下,括弧省略。「満洲」についても同様)政府の日本人移民政策実施過程を実証的に分析することによって,満洲国の統治に対する社会の側の積極的な関与を把握することにある。
 1932年から45年までの14年間に,約27万人の日本人が「移民」または「開拓民」として満洲国に送出された。すでに,こうした満洲移民に関しては,戦前の移民政策の展開,送出過程,営農実態などを中心に,実証分析が積みあげられてきた。しかし,これらのほとんどは,移民を日本との関係でのみ切りとって議論している。これに対して,本論文では,満洲移民を中国東北地域社会の歴史的な過程のなかにおいてとらえなおすこと,すなわち満洲移民という傀儡政権の一「国家」政策と現地東北地域社会の相互関係を考察することを課題とした。これによって,中国東北地域社会を単なる満洲移民の客体ではなく,移民すなわち植民地権力と双方向的な関係をもつ能動的な存在であったことを確認できるであろう。その際,戦後への連続性のなかで,日本の統治を選択的に咀嚼,吸収した社会の側の変容過程に着目したが,これは日本の植民地支配の肯定を意図するものではなく,社会の「主体性」をとらえようとしたものである。
Ⅱ 各章の概要
 本論文は,第1部「『満洲国』政府の日本人移民政策」と第2部「中国東北地域社会における日本人移民政策」という2つの部分によって構成されている。
 第1部「『満洲国』政府の日本人移民政策」では,満洲国政府による日本人移民政策の実施を,移民行政機関の変遷とその中心的業務となった移民用地取得業務を中心に検討した。ここでは,日本人移民政策における満洲国政府の位置づけが決定的に転換した「満洲開拓政策基本要綱」(1939年12月)によって,2期に区分した。
 第1章では,前半の1932年から39年までを対象とした。当初,満洲国政府は移民政策に関与できなかったが,地域社会からの反発を受け,関東軍はこれを移民行政に組みこんだ。さらに,1939年12月に発表された「満洲開拓政策基本要綱」によって,満洲国政府に国内の政策権限が委ねられた。これに先駆けて,1939年1月,満洲国政府は拓政司を開拓総局に拡充し,その機構を整えた。しかし,関東軍は,総務庁に設置された委員会を通して,政府機構に「内面指導」の経路を確保していた。満洲国政府の日本人移民政策は,関東軍のコントロールを受ける構造を組み込みつつ,その制度化を進めたといえる。
 第2章では,後半の1940年から45年までを対象とした。1940年以降,満洲国政府は,開拓総局を中心として,日本人移民政策実施のための諸体制を整備した。満洲国の移民政策には地域社会の「利害や要求」が反映され,日本側とは異なる論理によった「自立的」な政策実施が目指された。しかし同時に,日本人官僚の転入によって,機構内部で「日満一体化」が進行し,満洲国の移民政策に日本の方針が直接反映される体制が形成されていた。これにより,太平洋戦争時期,日本側の要請にそった「開拓増産」の遂行が可能になった。
 第2部「中国東北地域社会における日本人移民政策」では,満洲国の移民政策が個別の地域社会でどのように実施されたのかを,3つの地域における事例研究から検討した。
 第3章では,「北満」に位置する三江省樺川県をとりあげて,初期における日本人移民用地の取得と,これに対する地域社会の抵抗の様相を分析した。土龍山事件という武力による抵抗は,関東軍の移民用地取得に変更を迫った。また,用地取得事務を引継いだ満洲国政府は,地域社会との交渉のなかでさまざまな妥協や譲歩を強いられた。満洲国政府は中国東北地域社会の「利害や要求」を無視しえず,取得用地は当初の計画から変更,縮小された。中国東北地域社会の直接的,間接的な抵抗に対して,満洲国政府はこれを統制することができなかった。
 第4章では,「南満」に位置する錦州省盤山県をとりあげて,「満洲開拓政策基本要綱」以後の移民用地取得において目指された「未利用地開発」の実態について検討した。1930年代後半,満洲国政府は各種の土地調査を実施し,「未利用地開発」計画を立案していた。盤山県では,この事業の一環として,大規模なアルカリ地の「改良」工事が実施され,これが日本人移民用地に充当された。日本人は水田耕作に従事したが,未利用地に入植した彼らは敗戦から引揚げまでの被害が小さかった。これは土地収奪によった樺川県の開拓団とは対照的であり,「土地改良事業」によった移民用地取得が地域社会の「利害や要求」に与える影響を軽減させていたといえる。
 第5章では,「中満」に位置する吉林省徳恵県をとりあげて,「未利用地開発」がより収奪的側面を強めていった時期の政策を分析した。太平洋戦争時期,満洲国の「土地改良事業」は,既利用地を収奪し,「開発」する「緊急農地造成計画」に組みかえられていった。この計画によって,徳恵県では,大規模な既利用地収奪や労働力動員がなされたが,満洲国統治の社会への浸透によって,地域社会からの「利害や要求」の表出はもはやみられなくなっていた。
Ⅲ まとめ
 日本人移民政策の展開にしたがって,満洲国政府は,その行政機関を整備,拡大し,政策実施のための諸体制を整えていった。しかし,その過程において,満洲国政府は,中国東北地域社会の「利害や要求」と日本本国の「意思や利害」との間でジレンマにあった。そして,これは日本の「意思や利害」が強まるにつれて,深刻な矛盾を呈していった。
 地域社会の「利害や要求」は,初期には武装暴動という直接的な抵抗によって,後には陳情や交渉という間接的な抵抗によってあらわれた。社会の抵抗が満洲国の統治体制を通してあらわされるようになったことから,その統治はかなりの深度で社会に浸透していたといえる。樺川,盤山,徳恵へと移民政策が展開するにしたがって,移民用地の取得はより円滑に実施されるようになった。しかし同時に,その過程において,満洲国は地域社会から多くの譲歩や妥協を強いられた。移民用地取得の過程からは,満洲国下の中国東北地域社会が「自立性」をそなえ,満洲国の統治はその深層には到達しえていなかったとすることができる。太平洋戦争時期,戦時体制への移行にしたがって,満洲国の移民用地取得は「未利用地開発主義」を放棄し,暴力的な収奪を強めていった。「緊急農地造成計画」の実施にみられるように,土地や労働力などの資源の抽出において,満洲国は高い能力を発揮した。しかし,すでにこれを効果的に利用する時機は失われていた。
 また,満洲国の移民用地「開発」は,「治安維持」や「近代化」,戦時動員といったその時期の統治の要請にあわせて進められていた。移民用地「開発」は,地域社会の「利害や要求」に矛盾しなかった場合には受容され,大きく矛盾した場合には抵抗にあった。満洲国の「開発」のいくつかは,地域社会からも自主的かつ選択的に吸収されたといえる。こうした農地「開発」や各種のインフラ整備は,戦後の中国東北地域社会に継承された。
 満洲移民研究において,「支配と抵抗」の二項対立的なモデル,あるいは「北満」移民引揚げの「悲劇」のモデルが,満洲国統治下にあった中国東北地域社会への視角を閉ざしてきた。
 日本人移民の入植地は,政策の拡大にともなって,いわゆる「国防第一線」とよばれる国境地域から,全国へ広がっていた。末期には,開拓増産の展開によって,都市近郊や鉄道沿線などへ集中的な入植がみられた。すでにみてきたように,この背景には,一方で,中国東北地域社会の「利害や要求」が反映され,他方では,日本の戦時体制が反映されていた。満洲国の移民政策は,中国東北地域社会の抵抗に規定され続けていた。満洲国の統治下にあって,中国東北地域社会は「主体性」をもってこれを吸収し,変容していったといえる。

 赤字強調しましたが

満洲移民研究において,「(ボーガス注:日本の)支配と(ボーガス注:現地中国住民の)抵抗」の二項対立的なモデル,あるいは「北満」移民引揚げの「悲劇」*25のモデルが,満洲国統治下にあった中国東北地域社会への視角を閉ざしてきた。*26
・中国東北地域社会を単なる満洲移民の客体ではなく,移民すなわち植民地権力と双方向的な関係をもつ能動的な存在であった
満洲国政府は,地域社会との交渉のなかでさまざまな妥協や譲歩を強いられた。満洲国政府は中国東北地域社会の「利害や要求」を無視しえず,取得用地は当初の計画から変更,縮小された。中国東北地域社会の直接的,間接的な抵抗に対して,満洲国政府はこれを統制することができなかった。

満洲国の移民政策は,中国東北地域社会の抵抗に規定され続けていた。満洲国の統治下にあって,中国東北地域社会は「主体性」をもってこれを吸収し,変容していったといえる。
・その際,戦後への連続性のなかで,日本の統治を選択的に咀嚼,吸収した社会の側の変容過程*27に着目したが,これは日本の植民地支配の肯定を意図するものではなく,社会の「主体性」をとらえようとしたものである。

などの指摘が重要でしょう。満州国の政策は「日本側」と「現地住民側」との政治的力関係で決定されたのであり、日本の思惑が常に貫徹したわけではないが、だからといってそれは「現地住民の要望に一定程度対応した」からといって「侵略ではない」とはいえないという話です。


◆書評:舟橋正真*28著『「皇室外交」と象徴天皇制・一九六〇~一九七五年:昭和天皇訪欧から訪米へ』(2019年、吉田書店)(評者・吉次公介)
(内容紹介)
 小生の無能のため、上手く「吉次書評」の内容が紹介できず大変残念ですが、副題から分かるように船橋本は「一九六〇~一九七五年における昭和天皇の訪欧、訪米の動き」を中心に話をしています。
 これに対して、吉次氏は「昭和天皇時代の皇室外交」を論じるには
1)昭和天皇以外の皇族の外遊、たとえば

天皇・皇族の外国ご訪問一覧表(戦後)(昭和28年~昭和63年) - 宮内庁
◆昭和28年(1953)
 皇太子(現在の上皇)の英国女王戴冠式参列(訪英)
昭和35年(1960)
 高松宮宣仁親王*29・同妃のハワイ向け官約移住75周年記念式典参列(ハワイ訪問)
 皇太子・同妃(現在の上皇上皇后)の日米修好100年記念訪米
◆昭和37年(1962)
 皇太子・同妃(現在の上皇上皇后)のフィリピン訪問
◆昭和39年(1964)
 皇太子・同妃(現在の上皇上皇后)のタイ訪問
◆昭和40年(1965)
 三笠宮崇仁親王*30・同妃の第11回国際宗教史会議出席(訪米)
◆昭和42年(1967)
 秩父宮雍仁親王*31妃・勢津子*32のロンドン日英協会創立75周年記念式典臨席(訪英)
◆昭和43年(1968)
 常陸宮正仁親王*33・同妃のハワイ日本人移民100年記念祭臨席(ハワイ訪問)
◆昭和45年(1970)
 皇太子・同妃(現在の上皇上皇后)のマレーシア、シンガポール訪問
 秩父宮雍仁親王妃・勢津子、高松宮宣仁親王・同妃の韓国・旧王族李垠氏葬儀参列(訪韓
◆昭和46年(1971)
 常陸宮正仁親王・同妃のニューヨーク日米協会ジャパン・ハウス開館式臨席(訪米)

など、特に米国、英国、韓国、東南アジアなど日本の戦争被害国訪問、例えば「昭和天皇訪米前の高松宮常陸宮によるハワイ訪問(言うまでも無くハワイ攻撃で太平洋戦争は始まりました)」「昭和天皇が訪問しなかった東南アジア諸国への皇太子(現上皇)の訪問」など
2)昭和天皇の「訪欧、訪米」以外の外交的言動、たとえば

昭和天皇 - Wikipedia
◆中国の国連加盟問題
 1971年(昭和46年)6月、佐藤栄作*34首相がアーミン・マイヤー*35米国駐日大使と会談した際、天皇から「日本政府が、しっかりと蔣介石(台湾の中華民国政府)を支持するよう促された」と伝えられていたことが、秘密情報解除されたアメリ国務省の外交文書で判明。しかし、国連代表権は同年10月の国連総会で採択され中華人民共和国に移行した(ボーガス注:これについては、例えば昭和天皇というのも、時代錯誤な人だ - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)参照)。
◆訪中意欲(?)
 1975年(昭和50年)にタイム誌のインタビューで中華人民共和国訪問の希望を語っている。1978年(昭和53年)10月に中国の指導者として初めて訪日した鄧小平副首相と会見した際は天皇から「あなたの国に迷惑をかけて申し訳ない」と謝罪(?)したとされる。

人民中国『鄧小平氏は日本をどう見ていたか
 日本は、鄧小平氏の訪問に対し、元首レベルの最高の礼遇を与えた。彼が東京に到着した次の日に、天皇、皇后両陛下は会見し、昼食会を開いて中国代表団一行をねんごろにもてなした。
 天皇陛下は鄧小平氏に対し「両国の長い歴史の中で、不幸の事件もございました」と述べた。私の記憶では、天皇が中国の指導者の前で、戦争について間接的に触れたことも、「不幸」という言葉を使ったことも初めてであった。

も論じる必要があり、それが今後の一つの課題であろうとしています。もちろん、これが「昭和天皇と皇室外交」ではなく「皇室外交全般」となれば「宮沢*36内閣での明仁天皇訪中」「元外務事務次官を父とし、自らも元外務官僚である雅子皇后の存在」など議論すべき事は更に増えていきます。


【参考:吉次公介氏】

吉次公介 - Wikipedia
 1972年生まれ。立命館大学教授(日本政治外交史)。
昭和天皇の親米的発言を示した公文書の発見
 2005年6月、立教大(当時)の中北浩爾*37教授との共同研究において、1953年から1972年にかけて昭和天皇が日米の外交官や米軍幹部に対し、米軍の日本駐留継続を希望し米国の日本への援助に謝意を表明するなど親米的な発言をしていたことが記された公文書6点をアメリカ国立公文書記録管理局で入手した(「昭和天皇、米重視の発言、53~72年、公文書6点 」朝日新聞2005年6月1日・朝刊)。
◆著書
『池田政権期の日本外交と冷戦 : 戦後日本外交の座標軸1960-1964』岩波書店、2009年
『日米同盟はいかに作られたか : 「安保体制」の転換点 : 1951-1964』講談社選書メチエ、2011年
日米安保体制史』岩波新書、2018年

吉次公介『日米同盟はいかに作られたか』 - Sightsongから一部引用
 日本の再軍備は、敗戦後の再独立を待たずして開始された。それはソ連、さらにその後建国される中国の共産主義を脅威とみなしたアメリカの意向に他ならなかった。
 その過程においては、新憲法(1947年施行)で「象徴」とされ、政治・外交に関与できなくなったはずの昭和天皇が、大きな役割を果たしていた。昭和天皇は、敗戦後すぐにマッカーサー連合国軍最高司令官と頻繁な面談を行い、1947年には沖縄をアメリカに長期貸与する「天皇メッセージ」を発したのだが(豊下楢彦*38昭和天皇マッカーサー会見*39』)、本書によれば、その後も、アメリカへの軍事的依存の意向を示し続けた。1951年にはダレス*40国務長官顧問やリッジウェイ連合国軍最高司令官マッカーサーの後任)に対し米軍の日本駐留への共感を伝え、また、1955年に重光*41外相がダレスと会う前の「内奏」においては、米軍全面撤退という重光の意向に「不可」との発言をしているという。

読書備忘録
2012年3月9日
1月,2月の読書備忘録です。(最初にある日時は Twitter にてツィートした日時です)
(中略)
2/7
 吉次公介『日米同盟はいかに作られたか 「安保体制」の転換点1951-1964』(講談社選書メチエ)を読了。
 第1章は,日米安保条約から新安保条約までの経緯が,アメリカが日本にどのような「負担分担」を求め,日本がいかに交渉・妥協したのかを軸として,コンパクトにまとめられている。第2章以降が本書のメインで,池田*42内閣の政策が論じられている。アメリカの政策に抗って経済的手段を重視しつつも,反共外交を展開するなど,アメリカの「主要同盟国」「大国日本」を志向する様子が描かれています。岸*43内閣と佐藤内閣にはさまって穏健なイメージがありますが,日米安保体制が定着するうえでの池田内閣の役回りの重要性が伝わってきます。 なお,安保条約のおかげで日本は軍事支出を最小限にとどめて経済発展に励むことができた,との論理が,池田内閣のもとで日米安保体制を定着させるために作り出された,との指摘は重要です。


【参考:昭和天皇の訪欧、訪米】

昭和天皇 - Wikipedia
◆1971年の訪欧
 1971年(昭和46年)には9月27日から10月14日にかけて17日間、イギリスやオランダ、スイスなどヨーロッパ諸国7か国を訪問した。訪問先には数えられていないが、このとき、経由地としてアラスカのアンカレッジに立ち寄っており、エルメンドルフ空軍基地内のアラスカ地区軍司令官邸でワシントンD.C.から訪れたアメリカ大統領のリチャード・ニクソン*44と会談、実質的にアメリカも訪問している。
 なお、この昭和天皇ニクソン大統領との会談は当初の予定になく、欧州歴訪のための給油にアメリカに立ち寄るだけの予定であったのだが、アメリカ側の要望で急遽、会談が決定した。日本側は要望を受け入れたものの、佐藤内閣外相・福田赳夫*45(後に首相)は牛場信彦*46駐米大使に「わが方としては迷惑千万である。先方の認識を是正されたい」とする公電を送っている。これは当時、天皇との会談をニクソン訪中で悪化した日米関係を修復するのにニクソンが利用しようとしているのではないかと福田が懸念し、国内外から「天皇の政治利用」と批判されることを恐れたからであった。
 非公式訪問となったフランスでは、当時イギリスを追われ事実上同国に亡命していた旧知のウィンザー公と隠棲先で50年ぶりに再会して歓談。ウィンザー公と肩を組んでカメラにおさまった姿が目撃されている。
 しかし、第二次世界大戦当時に植民地支配していたビルマシンガポールインドネシアなどにおける戦いにおいて日本軍に敗退し、捕虜となった退役軍人が多いイギリスとオランダでは抗議運動を受けることもあった。特に日本軍に敗退したことをきっかけにアジアにおける植民地を完全に失い国力が大きく低下したオランダにおいては、昭和天皇のことを恨む退役軍人らから生卵や魔法瓶を投げつけられ、同行した香淳皇后が憔悴したほど抗議は厳しいものであった。
◆1975年の訪米
 1975年(昭和50年)には、当時の米大統領ジェラルド・R・フォード*47の招待によって9月30日から10月14日まで14日間に亘ってアメリカを公式訪問した。天皇の即位後の訪米は史上初の出来事である。

 なお、吉次氏は米国側が「日米友好をアピールしたこと」もあり魔法瓶投擲などを招いた「訪欧」に比べれば「政治的に成功した(昭和天皇自民党の思惑をある程度は達成した)」ものの、昭和天皇が訪米を終了して帰国後の記者会見で例の「言葉の綾」発言を行い、国内外の批判を招いたことで「かえってその後の天皇外交に障害を招いた」と見ています。

【参考:言葉の綾発言】

澤藤統一郎の憲法日記 » 「あの無謀な戦争を始めて、我が国民を塗炭の苦しみに陥れ、日本の国そのものを転覆寸前まで行かしたのは一体だれですか」 ― 天皇(裕仁)の戦争責任を追及する正森成二議員の舌鋒
 天皇裕仁)が、自分の戦争責任についてどう自覚しているかについて、国民に語る機会はほぼなかった。もちろん、詫びることもない。唯一、その肉声が漏れたのは、1975年10月31日皇居「石橋の間」で行われた日本記者クラブ主催の記者会見での発言である。彼が、常に何を考えていたのかが垣間見えて、印象的であった。
 その問答の記録の全文が以下のとおりである。
◆中村康二(ザ・タイムズ):
 天皇陛下ホワイトハウスにおける「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」というご発言がございましたが、このことは、陛下が、開戦を含めて、戦争そのものに対して責任を感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。また陛下は、いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか、おうかがいいたします。
天皇
 そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしてないで、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えができかねます。
◆秋信利彦(中国放送):
 天皇陛下におうかがいいたします。陛下は昭和22年12月7日、原子爆弾で焼け野原になった広島市行幸され、「広島市の受けた災禍に対しては同情にたえない。われわれはこの犠牲をムダにすることなく、平和日本を建設して世界平和に貢献しなければならない」と述べられ、以後昭和26年、46年とつごう三度広島にお越しになり、広島市民に親しくお見舞の言葉をかけておられるわけですが、戦争終結に当って、原子爆弾投下の事実を、陛下はどうお受け止めになりましたのでしょうか、おうかがいいたしたいと思います。
天皇
 原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾には思ってますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思ってます。 
 戦争責任を「言葉のアヤ」程度の問題と捉え、原爆投下を「戦争中のことですから、やむを得ない」と言ってのけたのが、敗戦後も生き延びた帝王の見解。こんな人物の名において行われた戦争で、無数の人々が死に、数え切れない悲劇が生まれた。人間らしい感情を持たない鉄面皮な人、というのが彼に対する私の印象だった。


◆紹介:服藤早苗*48・高松百香*49編著『藤原道長を創った女たち』(野口孝子)
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。

『藤原道長を創った女たち』 道長が権勢を獲得できたのはなぜか|じんぶん堂
◆通説への疑問から
 高校のある教科書(日本史A)には、次のような説明がある。

 10世紀後半から11世紀中ごろまでの藤原氏中心の政治を、王朝国家の政治のなかでも摂関政治という。とくに藤原道長は、娘をつぎつぎと天皇や皇太子の后妃とし、天皇外戚として権勢をふるい、息子の頼通は約50年間も権力をにぎった。

 道長にとって娘たちは外戚天皇の母方の親族)として摂関の地位を得る手段でしかないのか。これでは近世の「腹は借り物」と同じではないか。女性史やジェンダー分析研究者として疑問を持つのは、私一人ではなかった。
 本書『藤原道長を創った女たち――〈望月の世〉を読み直す』は、このような疑問から出発し、道長の権勢がさまざまな女性たちによって創り出されたことを明らかにする。母、妻、娘、女房たちといった道長をめぐる女性たちを一堂に紹介する書籍は、これまでにない取り組みである。
◆摂関は国母の政務代行!――摂関政治の再検討
 9世紀後期に置かれた摂政は、執務室である直廬(じきろ)を自らの娘や姉妹である后妃の住む宮中の殿舎の一隅に置き、そこで幼い天皇に代わり政務を行った。つまり、天皇の生母である国母(こくも/こくぼ)の殿舎で政務を行っていたのである。朝廷が手本とした中国では、幼帝の場合、先代皇帝の皇后だった皇太后(当代皇帝の生母とは限らない)が政務をとる「皇太后臨朝」を行ったが、我が国では国母が政務を実質的に代行・後見した。
 摂関政治とは、国母が幼帝に代わって政務を行い、後見することであり、摂関は、いわば国母の代行としてそれを公的に公表する職務だった、といっても過言ではない。
◆上東門院彰子が院政の魁――院政の再検討
 国母たちが実際に重要な政務にかかわっていたことを示す史料も多い。たとえば朱雀天皇村上天皇の国母藤原穏子、一条天皇の国母東三条院詮子は歴史物語の『栄花物語』『大鏡』のみならず、貴族の日記からも検証されており、よく知られている。
 さらに後一条天皇後朱雀天皇の生母、後冷泉天皇後三条天皇の祖母、白河天皇の曾祖母として実際に政務を行ったのは、藤原道長の娘、一条天皇中宮藤原彰子、後の上東門院である。筆者は、先ごろ刊行した『藤原彰子』(〈人物叢書294〉、吉川弘文館、2019年)において、彰子が実際に政務や人事に関与し、后妃を決定し、道長の政務を否定した史料さえも提示し、実証した。「約50年間も権力をにぎった」とされる頼通など、いかに姉彰子に依存していたか、明らかにした。
 しかも、院政期になると、天皇の父である院は、政務への関与の根拠を上東門院彰子の先例に求めており、女院の先例は「吉例」と認識されていた。つまり、院政を実質的に開始したのは国母彰子であり、そのあり方は天皇の父母、親権による政務行為として継承されたのである。
道長を創った女たち――ジェンダー分析の必要性
 道長の権勢を創ったのは、娘上東門院彰子だけではない。まずは、姉で一条天皇の国母東三条院詮子。道長の兄道隆が糖尿病で死去した後、道隆の息子伊周と道長との政権獲得闘争が起こった。当時の一条天皇は道隆の娘中宮定子を寵愛していたにもかかわらず、天皇に迫り政権の後継者を道長に決定したのは、国母詮子であった。
 道長の正妻源倫子は、宇多天皇の孫左大臣源雅信の娘であり、高貴な出自を誇り、夫を輔佐した史料は夥しい。そもそも道長の聟取りを決定したのは雅信の妻藤原穆子だった。当時は婿取婚、すなわち妻方居住婚だったから最初は同居していたが、別の邸宅に暮らすようになった後も、道長・倫子夫妻に対し、亡くなるまで衣服等の生活支援を行っていたのだった。倫子の配慮が詮子を動かし、道長の権勢を不動のものにしたことも明らかになる。ここにも世を動かした女性の姿がある。
 本書『藤原道長を創った女たち』ではこのほかにも、母倫子と性格が似ており派手好みの次女姸子、彰子の二人の息子と結婚した三女威子と四女嬉子、道長のもう一人の妻源高明娘明子が生んだ寛子や尊子、孫娘の禎子内親王・章子内親王・馨子内親王、さらに紫式部赤染衛門、他の女房たちといった、大勢の女性たちが道長の権勢を創り出したことが、興味深いエピソードとともに明らかになる。
 従来の道長研究には、女たちはほとんど姿が見えず、また脇役でしかない。本書によって、その認識が大きく揺さぶられ、ジェンダー分析の必要性が理解されることは間違いないと思う。


◆紹介:伊藤康子*50著『市川房枝』(2019年、ドメス出版)(評者:伊藤めぐみ)
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。

私の市川房枝論④「婦人運動を育てる」伊藤康子さん(元中京女子大学教授) - 公益財団法人市川房枝記念会女性と政治センター
 伊藤康子さんは元中京女子大学教授で、近現代女性史研究者。2005年から2016年まで市川房枝記念会の市川房枝研究会主任研究員を務め、『市川房枝の言説と活動』年表3部作、『写真集 市川房枝』を出版した。『闘う女性の20世紀』『草の根の女性解放運動史』『草の根の婦人参政権運動史』『市川房枝―女性の1票で政治を変える』等の著書がある。
 講座では、「市川房枝の婦選獲得運動方針」「市川が婦人運動から逃げなかったのはなぜか」「理想選挙の道を開く」「平和と女性の地位向上のための共同行動」「「市川への一貫した評価」等のテーマで語った。
 婦選獲得同盟(←婦人参政権獲得期成同盟会)の第1回総会(1925.4.19)で、市川は運動方針を宣言した。男子普通選挙法が成立し、女性は政治圏外に取り残された。女性は人間として国民として参政権を必要とする。「普選獲得の歴史に倣い、外、婦選獲得の実績に鑑み、一致団結の力」で「目的を参政権獲得の唯一に限り」運動して行くこととする。総務理事久布白落実(日本基督教婦人矯風会)は「小異を捨てて大同につく 婦人の一致した議会への運動」という大まかな方針を示したが、その中身を充実させたのは会務理事市川房枝だった。
 どうして具体的な方針を掲げ、思想や宗教も異なる各界の女性たちを運動に誘い込むことができたか。そこには、新婦人協会の経験と反省があったという。平塚らいてうは「女性の権利獲得のため団体活動をすべきときに至った」と総合的、大規模な構想を打ち出し、市川はこの構想を生涯大事にした。新婦人協会は女性の政治的権利を目的とする最初の組織で、その後の婦人運動の基盤になったことの意義は大きい。しかし、構想・組織・資金・活動は活動家全員によって検討、合意され組織的に進められたとは言えないという反省である。
 1921年新婦人協会から身を引いた市川は世界の婦人運動を見るためアメリカへ行く。1924年帰国後ILO職員として働きながら獲得同盟の活動もしていた市川は、1927年末ILOを辞任。獲得同盟に専念することを決意した。
 1930年久布白の総務理事辞任により、市川が総務理事に就任、「名実ともに」獲得同盟の代表になる。市川は運動の基礎である調査、資料収集、読書・研究が好きだったが、「たまたま運動の先頭に立つところに置かれた」。獲得同盟は婦選関係団体、無産婦人団体、市民団体との共同運動を組織したが、後にこの共同行動は「つらかった」し、「大変だった」と市川は述べている。
 運動は公民権を獲得できるのではないかと期待するところまで行ったが、1931年満州事変が勃発。1925年10月に設立されながら自然消滅していた婦人問題研究所を、1939年12月に再建する。研究機関であって実際運動には参加しない、婦人運動の支援機関というべきものであり、これを根拠地に人材育成と資料保存に努力する。戦争がいずれ終ったときにすぐ活動できるような態勢と人材育成であった。1940年、運動から撤退し、婦選獲得同盟の解消を決定する。
 1945年12月、日本の女性は参政権を得た。市川が敗戦直後の戦後対策婦人委員会の結成、新日本婦人同盟(→日本婦人有権者同盟)の結成と素早い立ち上がりを見せたところに、1947年、公職追放にあい、政治活動が不能になる。追放解除後の1953年参院選への出馬に理想選挙を掲げ当選し、在野の3年を除いて1981年まで無所属の議員として活動した。衆参婦人議員団(→衆参婦人議員懇談会)、売春防止法制定、連座制強化の選挙法改正提案、ストップ・ザ・汚職議員の運動等々、法律を作る、提案する、あるいは団体を作る。国際婦人年連絡会は平和と女性の地位向上のための共同行動であり、1976年、婦人参政権行使30周年記念大会は「婦人の1票が政治を変える」のスローガンを、1980年、国連婦人の10年日本大会では「平和なくして平等なく、平等なくして平和なし」の言葉を残した。1972年、朝日賞ほか日本だけではなく海外からも多くの賞を受けたが、女性の地位向上と民主主義の確立に尽したという評価は一貫している。
 最後に「市川に日本国民が捧げた表彰状というべき『票』」として、6回の参院選の票数、1953年、191,539票から1位当選の1980年、2,784,998票までを列挙し、日本の中で一番の女性政治家だと認められる政治家になられた一生だったと述べた。最新刊『市川房枝』の副題は「女性の1票で政治を変える」。「女性の1票が政治を変える」ではないとこだわりをみせた伊藤さんは、自身の疑問や市川房枝への想いも交えながら語り終えた。

*1:共愛学園前橋国際大学教授

*2:著書『中世寺院の社会と芸能』(2001年、吉川弘文館

*3:早稲田大学教授。著書『阿仏尼とその時代:『うたたね』が語る中世』(2000年、臨川書店)、『中世初期歌人の研究』(2001年、笠間叢書)、『十六夜日記』(2005年、山川出版社)、『阿仏尼』(2009年、吉川弘文館人物叢書)、『新古今集後鳥羽院と定家の時代』(2010年、角川選書)、『異端の皇女と女房歌人式子内親王たちの新古今集』(2014年、角川選書)、『女房文学史論』(2019年、岩波書店)など

*4:国文学研究資料館名誉教授(松村雄二 - Wikipedia参照)。

*5:大正大学准教授。著書『戦国期足利将軍家の権力構造』(2014年、岩田書院)、『足利義晴畿内動乱』(2020年、戎光祥出版)など

*6:静岡福祉大学名誉教授。著書『徳川義親の十五年戦争』(1988年、青木書店)、『雅子妃とミカドの世界』(2001年、小学館文庫)、『四代の天皇と女性たち』(2002年、文春新書)、『ミカドと女官』(2005年、扶桑社文庫)、『華族:近代日本貴族の虚像と実像』(2006年、中公新書)、『華族家の女性たち』(2007年、小学館)、『李方子』(2007年、ミネルヴァ日本評伝選)、『皇族:天皇家近現代史』(2009年、中公新書)、『天皇と宮家』(2010年、新人物往来社)、『昭憲皇太后貞明皇后』(2010年、ミネルヴァ日本評伝選)、『近現代の皇室と皇族』(2013年、敬文舎)、『皇族に嫁いだ女性たち』、『昭和天皇と弟宮』(以上、2014年、角川選書)、『49人の皇族軍人』(2016年、洋泉社歴史新書y)、『大元帥と皇族軍人(明治編)(大正・昭和編)』(2016年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『百年前のパンデミックと皇室』(2020年、敬文舎)など

*7:役職は当時。雅子が皇后になったことで現在は「女官長

*8:ザンビア大使、エクアドル大使、北米局長、ニューヨーク総領事などを経て中国大使に任命されるが着任前に病死(西宮伸一 - Wikipedia参照)

*9:外務省条約局長、外務事務次官国連大使国際司法裁判所(ICJ)所長など歴任(小和田恆 - Wikipedia参照)

*10:駐米公使、駐英公使兼ロンドン総領事、駐ロシア公使、外務省欧州局長、駐オランダ大使、駐タイ大使、東宮大夫など歴任(小町恭士 - Wikipedia参照)

*11:外務省儀典長ミャンマー大使、EU大使、宮内庁式部官長、宮内庁東宮大夫などを経て侍従長小田野展丈 - Wikipedia参照)。

*12:皇室関係の著書として『香淳皇后と激動の昭和』(2006年、中公文庫)、『国母の気品:貞明皇后の生涯』(2008年、清流出版)、『母宮貞明皇后とその時代:三笠宮両殿下が語る思い出』(2010年、中公文庫)、『皇后の真実』(2017年、幻冬舎文庫)、『美智子さまその勁き声』(2019年、毎日新聞出版)(工藤美代子 - Wikipedia参照)

*13:父は白石鍋島家(佐賀藩主鍋島家親類の重臣家)の男爵鍋島直明。夫は伯爵牧野伸顕の長男で式部官の牧野伸通(牧野純子 - Wikipedia参照)。

*14:明治の元勲・木戸孝允の子孫。第一次近衛内閣文相、厚生相、平沼内閣内務相、内大臣など歴任。戦後、終身刑判決を受けるが後に仮釈放(木戸幸一 - Wikipedia参照)。

*15:放送大学教授。皇室関係の著書として『昭和天皇』(2008年、岩波新書)、『「神々の乱心」を読み解く:松本清張の「遺言」』(2009年、文春新書→後に『松本清張の「遺言」:『昭和史発掘』『神々の乱心』を読み解く』と改題して2018年、文春文庫)、『皇居前広場』(2014年、文春学藝ライブラリー)、『大正天皇』(2015年、朝日文庫)、『「昭和天皇実録」を読む』(2015年、岩波新書)、『皇后考』(2017年、講談社学術文庫)、『〈女帝〉の日本史』(2017年、NHK出版新書)、『平成の終焉:退位と天皇・皇后』(2019年、岩波新書)、『天皇は宗教とどう向き合ってきたか』(2019年、潮新書)(原武史 - Wikipedia参照)

*16:「桐壺」、「玉鬘」、「藤壺」、「夕顔」、「若紫」など『源氏物語』に登場する女性の名前などにちなんで女性に付けられた(あるいは女性が名乗った)名前のこと。当初は中世から近世にかけて朝廷や公家に仕えた女官の名のことだったが、後に武家の奥女中においても用いられるようになった。また、遊女には、平安時代から本名とは異なる雅な名前を名乗る慣習があり、江戸時代の遊廓で遊女が源氏名を使用した。この段階で『源氏物語』とはあまり関係のない「源氏名」が多くなったとされる。現在では水商売や風俗店で働くホステスやホストなどの名前のことを源氏名と呼ぶようになっている(源氏名 - Wikipedia参照)。

*17:大正天皇の生母(柳原愛子 - Wikipedia参照)

*18:明治天皇崩御後は貞明皇后女官長となった(園祥子 - Wikipedia参照)。

*19:第1次西園寺内閣文相、第2次西園寺内閣農商務相、第1次山本内閣外相、宮内相、内大臣など歴任。明治の元勲・大久保利通の次男。吉田茂元首相の義父(牧野伸顕 - Wikipedia参照)

*20:著書『象徴天皇』(1987年、岩波新書)、『陛下、お尋ね申し上げます:記者会見全記録と人間天皇の軌跡』(1988年、文春文庫)、『皇位継承』(所功との共著、1998年、文春新書)、『象徴天皇の誕生:昭和天皇と侍従次長・木下道雄の時代』(2002年、角川文庫)、『昭和天皇1945‐1948』(2008年、岩波現代文庫)など(高橋紘 - Wikipedia参照)

*21:2011年、講談社

*22:沖縄県立芸術大学名誉教授。著書『グスク・共同体・村:沖縄歴史考古学序説』(1998年、榕樹書林)、『琉球の王権とグスク』(2006年、山川出版社日本史リブレット)など

*23:著書『視覚障害教育の源流をたどる:京都盲唖院モノがたり』(2019年、明石書店)、『盲教育史の手ざわり:「人間の尊厳」を求めて』(2020年、小さ子社)

*24:徳島大学教授。著書『農家と農地の経済学』(1994年、農山漁村文化協会)、『日本小農論の系譜』(1995年、農山漁村文化協会)、『主産地形成と農業団体:戦間期日本農業と系統農会』(1996年、農山漁村文化協会)、『グローバリゼーションと日本農業の基層構造』(2006年、筑波書房)、『近現代日本の米穀市場と食糧政策』(2013年、筑波書房)、『総力戦体制下の満洲農業移民』(2016年、吉川弘文館)、『日本小農問題研究』(2018年、筑波書房)など(玉真之介 - Wikipedia参照)

*25:山崎豊子大地の子』などによって小生のような戦後世代においてもそうした「悲劇の存在」はよく知られているところです。

*26:評者・玉氏はこうした小都氏による「過去の満州移民研究」への批判的評価(もちろん全否定では無く、視点が一面的すぎたという話)に好意的なようですが実際の所、「過去の満州移民研究」がどうなのかは俺は無知なので何とも言えません。もちろん玉氏も小都氏も「支配と抵抗」「引き揚げの悲劇」と言う視点を否定してるわけでも無ければましてや、「日本の満州統治を美化」しているわけでもありません。以前、id:Mukkeが「植民地支配を美化はしないが、植民地支配によって社会が近代化し平均寿命が延びたりする面がある点には注意したい」云々と書いていた記憶があります(「チベット問題でid:Bill_McCreary氏が書いてることもそういうことだよね?。なんでそれなのにid:Mukkeid:Bill_McCreary氏に悪口雑言するの?。解放前チベットがバラ色の世界だったとでも言うの?。中国が解放したから近代化して、平均寿命も延びたんじゃん」と俺が書いたら「中国のチベット統治を美化するのか!」と「ダライ盲従分子」id:Mukkeに逆ギレされましたが。)。ここで玉氏や小都氏が言っているのはおそらくはid:Mukkeと似たような話です。あるいは「支配と抵抗」と言う描き方では「ダライのように反乱はしなかったが毛沢東べったりでは無く文革時には投獄されていたプンワン(プンツォク・ワンギャル)」などは描きづらくなるわけです。世の中「支配と抵抗の二項対立」というほど話は単純ではありません。「面従腹背前川喜平氏)」とかいろいろあるわけです。もちろん一方で「玉氏や小都氏のような物言いで」、しかし本心は露骨に未だに「日本植民地支配(台湾であれ、韓国であれ、満州であれ)美化」の産経ら歴史修正主義ウヨ連中もいるわけでその点に警戒や批判は必要です。また、産経ら歴史修正主義ウヨの存在から「玉氏や小都氏のような物言い」に「産経らの同類では無いのか」と警戒や疑念を感じる方も居るでしょうが「歴史評論の玉書評」を読む限りではまともな議論を展開しているように感じました(そもそも歴史評論自体が産経のようなウヨ雑誌ではないですが)。

*27:つまりは日本の満州中国東北部)での農業開発、工業開発が「戦後の中国東北部の経済発展に一定程度貢献した」ということでしょうがこれは、もちろん「事実の指摘」にすぎず、それ自体は必ずしも「日本の植民地支配の肯定を意図するもの」ではないわけです。「中国のチベット統治で経済が発展した(例:青海チベット鉄道など)」と指摘すること「それ自体」は必ずしも「中国のチベット支配の肯定を意図するもの」ではないのと同じです。

*28:立教大学助教

*29:大正天皇の三男(高松宮宣仁親王 - Wikipedia参照)

*30:大正天皇の四男(三笠宮崇仁親王 - Wikipedia参照)

*31:大正天皇の次男(秩父宮雍仁親王 - Wikipedia参照)

*32:外務次官、駐英大使、駐米大使、宮内大臣などを歴任した松平恒雄の長女(雍仁親王妃勢津子 - Wikipedia参照)

*33:昭和天皇の次男(常陸宮正仁親王 - Wikipedia参照)

*34:運輸次官から政界入り。自由党幹事長、吉田内閣郵政相、建設相、岸内閣蔵相、自民党総務会長(岸総裁時代)、池田内閣通産相科学技術庁長官などを経て首相(佐藤栄作 - Wikipedia参照)

*35:国務次官補代理、駐レバノン大使、駐イラン大使、駐日大使などを歴任(アーミン・マイヤー - Wikipedia参照)

*36:池田内閣経済企画庁長官、佐藤内閣通産相、三木内閣外相、福田内閣経済企画庁長官、鈴木内閣官房長官、中曽根、竹下内閣蔵相などを経て首相。首相退任後も小渕、森内閣で蔵相(宮澤喜一 - Wikipedia参照)

*37:1968年生まれ。立教大助教授、教授などを経て一橋大教授、著書『経済復興と戦後政治:日本社会党 1945-1951年』(1998年、東京大学出版会)、『1955年体制の成立』(2002年、東京大学出版会)、『日本労働政治の国際関係史 1945-1964:社会民主主義という選択肢』(2008年、岩波書店)、『現代日本の政党デモクラシー』(2012年、岩波新書)、『自民党政治の変容』(2014年、NHKブックス)、『自民党』(2017年、中公新書)(中北浩爾 - Wikipedia参照)。

*38:著書『イタリア占領史序説』(1984年、有斐閣)、『日本占領管理体制の成立』(1992年、岩波書店)、『安保条約の成立:吉田外交と天皇外交』(1996年、岩波新書)、『集団的自衛権とは何か』(2007年、岩波新書)、『「尖閣問題」とは何か』(2012年、岩波現代文庫)、『昭和天皇の戦後日本:〈憲法・安保体制〉にいたる道』(2015年、岩波書店)など(豊下楢彦 - Wikipedia参照)

*39:2008年、岩波現代文庫

*40:アイゼンハワー政権で国務長官ジョン・フォスター・ダレス - Wikipedia参照)

*41:戦前、東条、小磯内閣外相。戦後、戦犯として禁錮7年の判決を受け、公職追放されるがいわゆる逆コースによって公職追放が解除され政界に復帰。改進党総裁、日本民主党副総裁、鳩山内閣外相など歴任(重光葵 - Wikipedia参照)

*42:大蔵次官から政界入り。自由党政調会長、吉田内閣蔵相、通産相、石橋内閣蔵相、岸内閣蔵相、通産相などを経て首相(池田勇人 - Wikipedia参照)

*43:戦前、満州国総務庁次長、商工次官、東条内閣商工相を歴任。戦後、日本民主党幹事長、自民党幹事長、石橋内閣外相などを経て首相(岸信介 - Wikipedia参照)

*44:アイゼンハワー政権副大統領を経て大統領(リチャード・ニクソン - Wikipedia参照)

*45:大蔵省主計局長から政界入り。岸内閣農林相、自民党政調会長(池田総裁時代)、幹事長(佐藤総裁時代)、佐藤内閣蔵相、外相、田中内閣行政管理庁長官、蔵相、三木内閣副総理・経済企画庁長官などを経て首相(福田赳夫 - Wikipedia参照)

*46:駐カナダ大使、外務事務次官、駐米大使など歴任(牛場信彦 - Wikipedia参照)

*47:ウォーターゲート事件によるニクソンの大統領辞任によって、ニクソン政権副大統領から大統領に昇格(ジェラルド・R・フォード - Wikipedia参照)

*48:埼玉学園大学名誉教授。著書『家成立史の研究』(1991年、校倉書房)、『平安朝の母と子』(1991年、中公新書)、『平安朝の女と男』(1995年、中公新書)、『平安朝の家と女性』(1997年、平凡社選書)、『平安朝 女性のライフサイクル』(1998年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『平安朝に老いを学ぶ』(2001年、朝日選書)、『平安王朝の子どもたち』(2004年、吉川弘文館)、『平安王朝社会のジェンダー』(2005年、校倉書房)、『平安朝の父と子』(2010年、中公新書)、『古代・中世の芸能と買売春:遊行女婦から傾城へ』(2012年、明石書房)、『平安王朝の五節舞姫・童女天皇大嘗祭新嘗祭』(2015年、塙選書)、『藤原彰子』(2019年、吉川弘文館人物叢書)など(服藤早苗 - Wikipedia参照)

*49:東京学芸大学特任准教授

*50:著書『戦後日本女性史』(1974年、大月書店)、『女性史入門』(1992年、ドメス出版)、『闘う女性の二〇世紀』(1998年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『草の根の女性解放運動史』(2005年、吉川弘文館)、『草の根の婦人参政権運動史』(2008年、吉川弘文館)など(伊藤康子 - Wikipedia参照)