新刊紹介:歴史評論3月号

・「歴史評論」3月号(特集/1929年世界恐慌と日本社会)の全体の内容については「歴史科学協議会」のサイトを参照ください。
http://wwwsoc.nii.ac.jp/rekihyo/

・以下は私が読んで面白いと思った部分のみ紹介します。(詳しくは3月号を読んでください)

■「大恐慌期の経済統制と日本社会」(平沢照雄)
(内容要約)
大恐慌への対応として日本は重要産業統制法(大企業が対象)、工業組合法(中小企業が対象)を制定した。
・なお、こうした経済統制による不況克服が模索されたのは日本だけでなく他の欧米諸国も同様であった(不況の原因は過剰生産であり、一定のコントロールが必要という判断なのだろう)。
・日本の経済統制はアメリカのNIRA(全国産業復興法)とは、労働統制(労働組合、労働者保護)がない点が大きな違いである。戦前日本にはついに労働組合法は誕生しなかった。
・こうした状況を打開しようと当時のナショナルセンター日本労働総同盟が行った活動が産業協力活動である。企業が労働組合の活動を認める代わりに経営側に協力するという路線である。
 ただし、これに対し、労働組合を排除した「工場委員会」制度の導入で対応する企業もあり、産業協力活動には一定の限界があった(労働組合法がないため、労使の力関係と、企業側が労組に理解があるかどうかに大きく影響される)。
・なお、筆者には既に、本論文と同様の問題を取り上げた平沢「大恐慌期日本の経済統制」(2001年、日本経済評論社)と言う著書があるとのこと。


■「昭和恐慌期の貧困救済―救護法と方面委員」(菅沼隆)
(内容要約)
・「救護法」とは現在の生活保護法、「方面委員」とは現在の民生委員に当たる役職である(ただし方面委員は国の制度ではない)。
・なお、方面委員は無給の名誉職であり、ある程度、生活の余裕がある人間(地主、自営業者、公務員等)でなければ出来ない役職であった。裏返せば方面委員は一定の政治力を有していたと言うことである。
・1929年、田中義一内閣(立憲政友会)により、救護法は制定された。しかし、田中が救護法制定に動いたのは、与野党伯仲状態で、実業同志会武藤山治)の協力を得るためであった。政友会は必ずしも、救護法制定に前向きではなかった。
満州某重大事件(張作霖暗殺事件)の処理で昭和天皇の信任を失った田中は内閣総辞職。後継内閣として、浜口雄幸内閣(立憲民政党)が誕生した。浜口は緊縮財政路線を採用、予算のめどが立たないという理由で救護法の実施を無期限延期にしてしまう。
・これに反発した、全国の社会事業家(方面委員を含む)は、政府(首相、蔵相、内務相など)、官庁(大蔵省、内務省)、与野党幹部、地元選出代議士に陳情を行った。また、非常手段として最後には、天皇への上奏を実行した。
・当初、政府(特に井上蔵相)は「自己責任論」的な立場から、救護法実施には消極的であった。しかし、救護法問題が政治問題化し、内閣が倒れることを恐れ、何とか予算を捻出し、実施する方向で動き出す。政府は競馬法の改正(従来1人1枚しか馬券を買えなかったのを1人で複数枚購入を可能とする)で予算を捻出することを決定する(なお、これには不況で収益が低迷していた競馬業界の要請もあったという)。これには「バクチを財源とするとは何事か。しかも射幸性を高めるのは問題だ。」(スポーツくじ(いわゆるサッカーくじ、トト)を批判したときの共産党のようだ)、「競馬の収益は馬事振興のためである。内務省の事業は内務省予算から出すべし」(競馬所轄官庁の農林省の批判)と言う批判もあったが、結局競馬収益を当てることで決着する。
・救護法の実現要因としては1)与野党伯仲という政治状況、2)方面委員を中心とする社会事業家のロビー活動(裏返せば、社会事業家以外に生活困窮者という弱者の声を届ける政治勢力がほとんどなかったということでもあるが)があげられる。
・なお、方面委員は「天皇への上奏」からも分かるように、別に「左翼的思想」の持ち主ではなかった点に注意。保守主義と弱者救済は矛盾するわけではないので不思議ではないが(最近は賞賛する場合でも非難する場合でも「弱者救済=左翼」扱いが多いけれど)


■「「高橋財政」に対する新聞論調―『東京朝日新聞』社説の分析―」(中村宗悦)
(内容要約)
・『東京朝日新聞』は高橋の前任の井上財政(緊縮財政)を評価しており、当初、「不況克服のためとはいえ放漫財政はいかがなものか」、と高橋財政(積極財政)に批判的であった。
・しかし、高橋財政が景気回復に一定の成果を上げると論調は好意的に変わっていく。その場合でも、高橋が発行した巨額の国債の処理と、日中戦争の泥沼化もあって増大する一方の軍事費には危惧の念が表明されていた。
・こうした声に応え、高橋は公債漸減主義を打ち出す。しかし、高橋が二・二六事件で暗殺されたことにより、高橋財政は「途中中断」した。
・高橋の後任の馬場財政は公債漸減主義を放棄、積極財政を打ち出す。軍事費は増大し、日本は準戦時体制へと突入していく。
(なお、筆者は馬場の積極財政を朝日が批判しなかったとした上で、その理由を馬場が増税方針を打ち出したからではないかとしている)
・なお、筆者には既に、本論文と類似の問題を取り上げた中村「金解禁をめぐる新聞メディアの論調」(岩田編「昭和恐慌の研究」(2004年、東洋経済新報社)所収)と言う論文があるとのこと。


■「満州移民計画の形成と「国策化」」(加藤聖文)
(内容要約)
満州移民*1計画について、農林省も拓務省も現実性の観点(農業経営の困難さや、現地武装勢力の襲撃の危険性など。日本で難しい農業経営が、外国へ行ったら簡単にできるというものではないことは当然だろう)からあまり乗り気ではなかった。その結果、満州移民計画は陸軍主導のものとなり、南米移民などと比べてきわめて国策色、軍事色の強いものとなった。
(なお、本論文によれば、そもそも拓務省は独自業務が南米移民ぐらいしかない(他の業務は台湾総督府朝鮮総督府などとかぶる)政治力の極めて弱い省で、当時、省から院への組織縮小が議論されるほどだったと言う)
・国策色が強くなることによって村ぐるみの移民などが増えていく。これには「知り合いの集まりなので協力し合うことが出来る」というプラス面と「同調圧力で移民から撤退したくとも簡単に撤退できない」と言うマイナス面とがあった。


■「「亜細亜民族運動」と外務省―その認識と対応」(河西晃祐)
(内容要約)
・「亜細亜民族運動」について1920年代において、外務省は、その力をほとんど評価していなかったが、1930年代になると一定の力を有していることに気づかざるを得なくなる(インドにおける英印円卓会議の開催。フィリピンの独立に否定的な発言をした副総督ギルモアを現地の反対運動で辞任に追い込んだ事件。イヤン・ベイ事件(ベトナム国民党による反フランス武装蜂起)など)。
・一方で、外務省はこうした「亜細亜民族運動」が「植民地支配を行う日本に対して批判を行うこと」や「共産主義勢力と連携を行うこと」(ホーチミン毛沢東金日成のように「独立運動家=共産主義」と言うケースもあるわけだが)を強く警戒した。
・なお、「こうした外務省の態度に対し、日本人を含む亜細亜主義者はどう考えていたのか」「後に大東亜共栄圏を日本政府が唱えるようになったことと、1930年代の外務省の態度との関係をどう理解すべきなのか」とふと思った。


■「新体制期*2における人権・主権の転換に関する一考察―国家総動員法大政翼賛会をめぐる憲法議論から―」(林尚之)
(内容要約)
国家総動員法大政翼賛会を合憲と主張した憲法学者・黒田覚(近衛文麿のブレーン)と、それを批判した憲法学者・佐々木惣一、大石義雄が取り上げられている。「新体制には新しい憲法理解が求められている」(黒田)と「それは違う」(佐々木、大石)と言う争いがあり、前者が勝利したが、それは日本の人権保障にとって不幸なことだったと言うことだろうか?(佐々木、大石も天皇主権は否定していない(否定できない)ので、人権保障の観点では限界があるが)
・しかし、「政治家ブレーン」「国家総動員法を支持」「憲法学者」ということでカール・シュミットナチスドイツ時代の憲法学者)を連想してしまったが、そう言う理解でいいんだろうか?(カール・シュミットのことも全然知らないけどね)


■科学運動通信「水損史料修復ワークショップ参加記」(宇野淳子)
(内容要約)
 巧く要約できないので本文を一部紹介。

 具体的な方法*3はぜひ松下氏、河野氏編の「水損資料を救う」(岩田書院、2009年)をお読みいただきたい。


■書評:中野光浩『諸国東照宮の史的研究』(曽根原理)
(内容要約)
 巧く要約できないので本文を一部紹介。

 本書の刊行以降にも(中略)山澤学氏の著書(「日光東照宮の成立」思文閣出版)が刊行されて(中略)いる。ついでながら、一般向けのスタイルだが、評者も著書を公刊した(「神君家康の誕生」吉川弘文館・歴史文化ライブラリー)。
 わずか一年強の間に、本書を含むこうした論考が世に出ていることは、この分野の研究の活性化を物語る。
 (中略)
 だが、その一方、決して一筋縄には行かない研究状況が明らかになりつつある。著者によるなら、農民にとって東照権現の権威や信仰は大きな位置を占めておらず、諸大名も幕府も東照宮を統制・利用する意図は基本的に強くなかったという。いささか単純化するなら「東照宮が社会の中で果たした役割」を追求した結果、「東照宮は大きな役割を果たしていなかった」と言う結論になりかねないのである。評者は必ずしもその結論に全面的に同調するものではないが、仮に的確な手続きを経てそこに至ったとしたら、次の問題となるのは「それでは何が近世の社会統合の中核的機能を果たしていたか」と言う問題であろう。
 (中略)
 その点で、本書はなお、論じ残したことが多いと言えるかもしれない。

*1:移民には昭和恐慌による失業者救済という意味もあった。つまり移民は必ずしも農業経験者ではなかったこと、非農業経験者に農業をやらせるという困難さもあったことに注意。

*2:いわゆる「近衛新体制」のこと

*3:水損資料の修復方法