新刊紹介:「歴史評論」4月号

特集「現代アメリカの出現と暴力」
詳しくは歴史科学協議会のホームページをご覧ください。
http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/
 なおタイトルは暴力だがこのタイトルのさす暴力がかなり広い意味での暴力だと言うことは「断種」や「第一次世界大戦時の在米日本人にとっての徴兵制」という「一応当時としては合法な代物」があがってることでわかるだろう。


■「アメリカの断種と売春婦 ―20世紀前半を中心に―」(森田麻美)
(内容要約)
・20世紀前半のアメリカにおいては断種は「犯罪者や精神病者」といった劣悪な遺伝子を社会に残さないための善行として実施された。
 また売春婦は「劣悪な遺伝子」が原因と見なされ、彼女らへの断種も正当化された(「犯罪歴がある精神病の売春婦」など断種して当然の存在となるのであろう)。「犯罪者、売春婦=社会構造が生み出す問題」「精神病者=被保護者」と認識されていないことが重要である。


■「フィリピン脱植民地化における暴力の軌跡 ―1930年代の反フィリピン人暴動と暴力批判―」(岡田泰平)
(内容要約)
・フィリピンの独立は「独立戦争を経たもの」ではなく、アメリカとの政治的合意によるものであった。アメリカは「アメリカの統治によりフィリピンは近代化し独立が可能になった」との論理で「フィリピン独立」を説明し、フィリピン側も早期独立実現を重視し、そうしたアメリカの「植民地主義正当化」の態度には異を唱えなかった。異を唱えるグループは存在したが、その政治的影響力は乏しかった。
 「1930年代にアメリカで起こった反フィリピン人暴動(在特会みたいな奴)」に対しても「アメリカの理念・自由と民主主義に反する」という批判がフィリピン側からなされたが、「アメリカの植民地主義」自体に対する批判は乏しかった。


■「20世紀初頭ハワイにおける日本人移民と徴兵 ―第一次世界大戦の選抜徴兵制と国家の「暴力」―」(伊佐由貴)
(内容要約)
第一次世界大戦においてアメリカは兵士不足を解消するため、従来の志願兵制度にかえて徴兵制を導入する(ただし徴兵登録が必要)。この徴兵制は外国人も対象であった。当時のアメリカでは日本人排斥の風潮が強く市民権獲得は至難であった。そのため、この徴兵制に応じて徴兵登録を行い、日本人の地位向上につなげようとする動きが日本人移民社会で見られた(ただし応じたからといって当然に市民権付与で有利な取り扱いがされる訳ではなかった。また「日系アメリカ人」ではなくて「日本人」なので仮に「日本の徴兵」とバッティングした場合、厄介な手続きが発生するらしい)。徴兵制に応じることは在米日本人にとって義務ではないが、応じないと「市民権取得などでデメリットが生じかねない」と言う意味で在米日本人にとって「ある種の強制制(ある種の暴力性)」が徴兵制にはあった。
 当時のアメリ
「ジャップが第一次世界大戦での徴兵制に応じれば市民権付与で有利に取り扱ってもいいよ、取り扱うと確約はできないけどな。敵性国民のジャップだからな」
(なお、第一次世界大戦(1914〜1918年)後の1924年にいわゆる排日移民法が成立している)
「一応建前は自由だが、徴兵制に応じなかったら後でペナルティがあるかもしれん。覚悟しとけよ、ジャップ」
「所詮ジャップはジャップ」
(太平洋戦争が起こると)「敵性国民のジャップは強制収容所送りに決まってるだろ」
 なんというか読んでて「橋下の朝鮮学校への態度」を連想した。そうは思いませんか、無償化除外を主張する「守る会」会員でありながら「朝鮮学校無償化問題については意見保留」と逃げ続ける卑怯者のid:noharraさん。
 「お前の要約じゃわからない」ですか?。じゃ是非、歴史評論を読みましょう。

参考

排日移民法(ウィキペ参照)
 1924年7月1日に施行されたアメリカの法律。正確には1924年民法、またはジョンソン=リード法であり、日本人移民のみを排除した法律ではない。
 この法律では、各国からの移民の上限を、1890年の国勢調査時にアメリカに住んでいた各国出身者の2%以下にするもので、1890年以後に大規模な移民の始まった東ヨーロッパ出身者・南ヨーロッパ出身者・アジア出身者を厳しく制限することを目的としていた。特にアジア出身者については全面的に移民を禁止する条項が設けられ、当時アジアからの移民の大半を占めていた日本人が排除されることになり、アメリカ政府に対し日本人移民への排斥を行わないよう求めていた日本政府に衝撃を与えた。
■概要
 この法律の内容を簡単に言えば、アメリカへの移住を希望する各国の移民希望者に関して国別の受入数制限を定める内容であったが、日本人に関しては移民入国が全面的に不可能となる規定を持っていた。
 なお、正確に言えば「排日移民法」という名前の独立した法律があるわけではなく、既存の移民・帰化法に第13条C項(移民制限規定)を修正・追加するために制定された「移民法の一部改正法」のことを指す。「排日移民法」という呼称はその内容に着目して主に日本国内で用いられる通称である。運用の実態はともかく、移民制限規定そのものは日本人のみを対象としていない。その点より、この通称は不適切であるとする意見もある。

■アジア系移民の歴史
 1870年制定のアメリカ連邦移民・帰化法は「自由な白人およびアフリカ人*1ならびにその子孫たる外国人」が帰化可能であるとしていた。ここで言う「自由な白人」が指すものは当初は明確ではなかったものの、判例の積み重ねなどでそれは「コーカサス人種」であるとされ、また中国系に関しては1882年のいわゆる中国人排斥法で明示的に移民が禁止されることになった(当初10年間の時限措置だったが後に延長がなされた)。

■日本人移民への排斥活動とその対応 
 日本人移民排斥行動が典型的に現れたのが1906年、サンフランシスコ市の日本人学童隔離問題であった。同年の大地震で多くの校舎が損傷を受け、学校が過密化していることを口実に、市当局は公立学校に通学する日本人学童に、東洋人学校への転校を命じたのである。この隔離命令はセオドア・ルーズベルト大統領の異例とも言える干渉により翌1907年撤回されたが、その交換条件としてハワイ経由での米本土移民は禁止されるに至った。
 この背景としては、日露戦争に伴ってアメリカが外債の消化や平和交渉など日本を影から支援したにも関わらず、日本が門戸開放政策を行わなかったことへの不満も挙げられる。

■日米紳士協定とその後
 日本政府もここへきて危機感をもつ。こうして1908年、林董外務大臣とオブライエン駐日大使との間で「日米紳士協定」が締結され、米国への移民は日本政府によって自主的制限がされることとなった。この協定により旅券発行が停止されたのは主として労働にのみ従事する渡航者であり、引き続き渡航が可能だったのは一般観光客、学生および米国既在留者の家族であった。この紳士協定による自主規制の結果として以後10年ほど日本人移民の純増数(新規渡米者−帰国者)はほぼ横ばいに転じる。
 紳士協定の「米国既在留者の家族は渡航可能」という抜け道を活用する形でこの頃盛んとなったのが「写真結婚」による日本人女性の渡米である。米国既在留者は男性独身者比率が高く、若い女性の「需要」は高かった。そこで彼らの出身地の親戚や縁故との間で写真や手紙だけを取り交わして縁談を成立させ、花嫁が旅券発給を受けて入国したわけであるが、見合結婚の習慣のないアメリカ人にとってこの形態は奇異であり、カリフォルニア州を中心として非道徳的として攻撃された。背景には、独身日本人男性が妻帯しやがて子供も生まれることで(アメリカの国籍法は出生地主義のため出生児は自動的に米国市民権を得る)日系人コミュニティーがより一層発展定着することへの危機感があったことが考えられる。結局、写真結婚による渡米は日本政府により1920年禁止される。
 一方「単純労働者から脱却し定着を図る日系人」への警戒感は、その土地利用への制限となって具現化する。1913年カリフォルニア州ではいわゆる外国人土地法が成立、移民・帰化法でいうところの「帰化不能外国人(勿論日本人を含む)」の土地所有が禁止された。法人組織を通じて土地を購入する、あるいは米国で誕生した自分の子供(前述の如く米国市民権を得ている)に土地を所有させ、自らはその後見人となり更に子供から土地を賃借する、など様々の脱法的土地利用方法が駆使されたが、1921年の土地法改正により、これらの法的な抜け道はすべて否定された。
 なお、米国全土でみると移民排外主義はいわゆるWASPに支持者が多かったが、東部から中西部ではむしろ被差別の対象であった南欧・東欧出身者(特にイタリア系貧困労働者)が排日運動において積極的役割を果たしたことが特徴的であった。
 さまざまな圧迫の中で、1920年には米国全土で約12万人、カリフォルニア州で7万人(州総人口の2%)の日系人が生活していた。
 日本政府は、1918年のパリ講和会議で人種差別撤廃案を提案したがウィルソン大統領の反対により可決しなかった。

1924年排日移民法
 以上のように、米国における日本人の移民活動は紳士協定に基づいた日本の自主規制と州レベルでの排斥活動の間で微妙なバランスを保ちつつ進行していたが、1924年にはいわゆる排日移民法が米国連邦議会で審議され成立することで大転換を迎える。

■法案の内容
 1921年、米国連邦議会は移民割当法と通称される法案を成立させていた。同法では、1910年国勢調査における各国別生まれの居住者数を算出、以後の移民はその割合に比例した数でのみ認められるとしていた。しかし、1910年という基準年次が南欧・東欧系に有利(比率が高い)点で不満が高まり、基準年次を南欧・東欧系移民が未だ少数だった1890年に後退させる改正案が急浮上した。1924年の移民・帰化法改正はこのような背景でまず下院で提起され、そこには排日といった要素はもともと含まれていなかった。仮に1890年基準年次をとった場合日本の移民割当数は年間146人となるはずであった。 ところが反東洋系色の強いカリフォルニア州選出下院議員の手によって「帰化不能外国人の移民全面禁止」を定める第13条C項が追加される。「帰化不能外国人種」でありながらこの当時移民を行っていたのは大部分日本人だったため、この条項が日本人をターゲットにするものであるのは疑いようもなかった。
 下院で同法案は可決され審議は上院に移った。この時点では、より地域利害に影響されにくい上院では同法案は否決、あるいは大幅に修正されるであろう、その結果日本は理想的には現在の紳士協定方式の維持、悪くとも割当移民方式の対象国となるのではないか、との観測を米国務省、在ワシントン日本大使館ともに抱いていた。しかし上院では、日本からの移民流入が米連邦政府のコントロール下になく、内容の曖昧な紳士協定に基づいて日本政府が行う自主規制に依拠している点が外交主権との観点で問題とされた。

■埴原書簡問題
 米国務長官ヒューズと駐米大使埴原正直は、紳士協定の内容とその運用を上院に対して明らかにすることが、排日的条項阻止のために不可欠であるとの判断で一致した。こうして、埴原がヒューズに書簡を送付、ヒューズがそれに意見書を添付して上院に回付する、という手はずが整った。ところが、埴原の文面中「若しこの特殊条項を含む法律にして成立を見むか、両国間の幸福にして相互に有利なる関係に対し重大なる結果を誘致すべし」(訳文は外務省による)の「重大な結果 (grave consequences)」の箇所が日本政府による対米恫喝である、とする批判*2が排日推進派の議員により上院でなされ、法案賛成の雪崩現象を呼んだ。「現存の紳士協定を尊重すべし」との再修正案すらも76対2の大差で否決された。クーリッジ大統領は「この法案は特に日本人に対する排斥をはらんでいるものであり、それについて遺憾に思う」という声明を出して否定的な立場をとったが、議会の排日推進派による圧力に屈する形で拒否権発動を断念、日系人は「帰化不能外国人」の一員として移民・帰化を完全否定された。

■成立の背景
 この対日排日法の成立について、通俗的には埴原書簡中の「重大な結果」という不注意な文言が上院の雰囲気を逆転させた、と理解されているが、書簡の有無にかかわらず同法成立は時代の必然だった、とする分析も有力である。理由として以下のようなものが挙げられる。

第一次世界大戦後の孤立主義モンロー主義)的風潮の下で、日米両政府が立法府(米議会)の関与できない協定を結び、米国の主権を侵害することに対する反発は議会内で非常に強く、その流れを読めなかった国務省、在米大使館は楽観的過ぎた。
1924年連邦議会選挙年であり、上下両院議員とも妥協的な態度はとり難かった。
・同年は大統領選挙年にもあたっており、前年にハーディング大統領の急死により副大統領から昇格したクーリッジ大統領は当初、「この法案は特に日本人に対する排斥をはらんでいるものであり、それについて遺憾に思う」という声明を出し、成立には否定的な態度であったが、当時人口増加で重要州となっていたカリフォルニアの意向を無視できなかった。

■後年への影響
 この排日移民法によって日本は大きな移民先を失ったため、その代替として満州を重視せざるを得なくなり満州事変につながったとする見方*3が古くから存在する。昭和天皇が敗戦後、日米開戦の遠因として「加州移民拒否の如きは日本国民を憤慨させるに充分なものである(中略)かかる国民的憤慨を背景として一度、軍が立ち上がつた時に之を抑へる*4ことは容易な業ではない(『昭和天皇独白録』より)」と述べているのが好例である。
 一方で、同法によって日本人移民が全面禁止されなくとも、上述の紳士協定下で日本からの移民はもともと制限されており、更に法が成立しなくとも割当制が必至とすれば日本が期待できたのは年間146人に過ぎず、日本が現実に失った利益は小さい、とする見解もある。移民法の成否にかかわらず、日本の対米移民はもともと対中国大陸に比べてはるかに小さな比重を占めていたに過ぎないのだから、同法の成立は後の日本の大陸進出とは関連がない、という説である*5
 なおアメリカが連邦レベルで移民・帰化関連法規を改正し、人種的制限が撤廃されるのは1952年、カリフォルニア州で人種による土地所有・賃借の制限が消滅するのは1957年のことである。


■歴史のひろば「20世紀初頭における朝鮮人「写真新婦」の渡米」(田中景)
(内容要約)
・いわゆる「日本人写真花嫁」は「写真で女性を選ぶ日本の野蛮な慣習」と見なされるとともに、「在米外国人が増加すると弊害が生じる」との論理から、日本人排斥運動の一理由となり、入国審査も厳格であった。
 一方、「朝鮮人写真花嫁」は(相対的な違いでしかないが)「日本人写真花嫁」に比べアメリカ社会は寛大であった。
 その違いが生じた理由としては
1)人数の違い(日本人のほうが数が多かった)
2)「国力の違い」(アメリカの脅威、ライバルとなるかもしれない日本と、日本に植民地支配されているかわいそうな朝鮮)
であったと見られる。


■歴史の眼「育鵬社版教科書採択の背景と採択制度の課題」(石山久男)
(内容要約)
・「育鵬社版教科書採択の背景」としてタカ派首長の政治的圧力の行使がある(例:東京都の石原、杉並区の山田宏横浜市中田宏)。
 1)そのような不当な政治的圧力の行使に抗議するとともに
 2)そのような不当な圧力の生じないような制度構築を目指すこと
 3)そのような首長が選挙で選ばれないようにすること
が必要であろう。  


■書評:本多隆成*6著『定本 徳川家康』(鈴木将典)
(内容要約)
・要約つうかコメントしてみる。
・筆者によれば鈴木氏は静岡大学名誉教授。そのため、本の内容は静岡時代の家康(秀吉によって関東に転封されるまでと大御所として駿府に居を構えて以降)がメインになっている。書評曰くそこが長所でもあり欠点でもあるとのこと。
ググって見つけた書評も紹介してみよう。

http://sengoku.at.webry.info/201101/article_2.html
 考えてみれば、徳川家康のこれほどのボリュームをもった本格的評伝を読むのは、はじめてかもしれません。より一般向けのちくま新書の二木謙一著『徳川家康』(最近、店頭で見かけないけど品切なのかな?)や、静新新書の小和田哲男*7著『駿府の大御所徳川家康』以来でしょうか。現在刊行中の『愛知県史』や研究者による新説を取り扱ってくれており、最新の家康研究書となっています。


■書評: 野口朋隆著『近世分家大名論』(三宅正浩)
(内容要約)
・要約つうかコメントしてみる。
・副題は「佐賀藩の政治構造と幕藩関係」。ということでもっぱら佐賀藩が検討されている。にもかかわらず「近世分家大名論」と名前をつけるのはどうなのだろうか、と評者は疑問提示している。ただし「近世分家大名」全体に対する分析はその後出版された「江戸大名の本家と分家」でなされているのかもしれないが(なお、「近世分家大名」という概念が有効かどうかについても評者は疑義を呈している)
・野口氏は著書で分家大名(支藩)は本家に従いながら、将軍とも主従関係を持つ「二重主従制度」と記述しているが、分家大名の幕府や本家大名との関係を「二重主従制度」という新概念で表現する事にも疑義を呈している。ただし勿論評者は疑義を提示しているだけではなく「従来の研究が本家大名の分家大名への専制性を強調しすぎた点を批判し、双務的な性格があることを指摘した点」など評価もしているが。

参考

http://www.saga-s.co.jp/news/machi-wadai.0.2119967.article.html
佐賀新聞
佐賀大博士研究員、野口さん「江戸大名の本家と分家」出版
 佐賀大学大学院経済学研究科の非常勤博士研究員の野口朋隆さん(40)が『江戸大名の本家と分家』を出版した。佐賀藩をはじめ全国諸藩の事例を調べ、大名の本家と分家には、従来考えられていた封建的な上下関係として一様にはとらえることができない、多様な関係性が存在したことを明らかにしている。
 大名家と分家に関する研究は、各地の大名ごとに自治体史などで研究されてきた。野口さんは全国の事例を調べ、近世の幕藩体制の中で、大名家本家と分家の関係がどのように機能したかを総合的に考察した。
 『江戸大名の本家と分家』では、全国の大名家における本家と分家の状況、分家が創設される事例、本家と分家を結びつける同族関係などについて詳述。分家大名は本家に従いながら、将軍とも主従関係を持つ「二重主従制度」であり、必ずしも本家大名だけに支配される存在ではなかったことを明らかにした。
 その上で、本家と分家が血統で結びつき、互いに「家」の存続を目指し、さまざまな形で相互に補完し合う関係性があった、とした。
 佐賀藩についても、佐賀藩小城藩など3支藩*8との関係や歴史的な経緯を詳しく紹介。1683(天和3)年に2代藩主鍋島光茂が支藩統制令「三家格式」を定めるなど、本藩と支藩が合意の上で、藩の基礎となる政治的な枠組みを形成したことを指摘している。
 野口さんは埼玉県出身。2006年に九州大大学院博士後期課程を修了した博士(比較社会文化)で、福岡大学非常勤講師も務める。本家と分家は学生時代からの研究テーマで、研究成果を分かりやすくまとめ、吉川弘文館「歴史文化ライブラリー」として刊行。佐賀藩の事例を詳細に論究した研究書『近世分家大名論』も出版した。
 

 ▽ともに吉川弘文館刊。『江戸大名の本家と分家』は四六判、224ページ、定価1785円。『近世分家大名論』はA5判、297ページ、定価1万1550円。問い合わせは吉川弘文館、電話03(3813)9151。

ウィキペで「佐賀藩支藩」の関係についてみてみる。

佐賀藩肥前藩鍋島藩)」(ウィキペ参照)
 35万7千石の大藩でありながらその実情は、3支藩(蓮池、子城、鹿島)・鍋島4庶流家(白石、川久保、村田、久保田)と龍造寺4分家(多久、武雄、諫早、須古)の各自治領があったため、藩主の実質知行高は6万石程度であった。
■家臣団の特質
旧主龍造寺一族の藩政への関与
龍造寺高房(注:お飾りの藩主で事実上の藩主は鍋島家だったようだが、彼の死後に家老だった鍋島一族が名実ともに藩主となる)の没後も、龍造寺一族は健在であり、領内において広大な所領を有していた。それら一族は、鍋島家の藩政のもと、重臣として藩政を左右する枢要にあったが、鍋島家に遠慮して、龍造寺の姓を改めている。村田家・諫早家・多久家・武雄鍋島家・須古鍋島家はいずれも龍造寺一族である。
■家臣団
 佐賀藩の家臣団の序列は、「御三家」・「親類」・「親類同格」・「家老」・「着座」・「独礼」・「侍」・「手明槍」・「徒歩」・「足軽」となっている。これ以外にも、上級家臣と主従関係を有する陪臣や被官といった身分が存在し、手明槍以下は、日常は農商業に従事して生活を営んでいた。

・上級家臣団
1.御三家(蓮池鍋島家・小城鍋島家・鹿島鍋島家の三支藩
2.親類(白石鍋島家・川久保鍋島家・村田鍋島家・村田家。村田家のみ龍造寺一門)
3.親類同格:龍造寺四家(諫早家・多久家・武雄鍋島家・須古鍋島家)
 鍋島氏の旧主筋である、龍造寺一門。当初は「親類」としていたが、1699年に村田家以外は新たに「親類同格」となり、「親類」とは差を付けた。
4.家老(横岳鍋島家・神代鍋島家・深堀鍋島家・姉川鍋島家・太田鍋島家・倉町鍋島家・山代鍋島家)
5.着座(納富鍋島家・石井家・成富家・岡部家・坂部家・千葉家・岩村家・中野家・大木家・江副家・執行家・有田家・深江家など概ね18家前後)

・御三家(三支藩
 蓮池藩(蓮池鍋島家)
 江戸時代初期に初代佐賀藩主・鍋島勝茂の五男・直澄が佐賀藩領内の佐嘉郡・神埼郡杵島郡松浦郡藤津郡において5万2000石を与えられたことに始まる。

 小城藩(小城鍋島家)
 江戸時代初期に初代佐賀藩主・鍋島勝茂の長男・元茂が佐賀藩領内の佐嘉郡・小城郡松浦郡において7万3000石を与えられたことに始まる。

 鹿島藩(鹿島鍋島家)
 佐賀藩の初代藩主・鍋島勝茂の弟・忠茂が慶長16年(1610年)、佐賀藩より2万石分与され忠茂が元々領していた下総国香取郡内の5000石を加え、2万5000石で立藩した。

「鍋島直愈」(ウィキペ参照)
 小城藩の第7代藩主。宝暦6年(1756年)3月15日、第6代藩主・鍋島直員の次男として生まれる。宝暦14年(1764年)5月に父が隠居したため、家督を継いだ。直愈の頃になると小城藩では財政悪化が問題化していたが、それを示す逸話がある。安永3年(1774年)2月、幕府は有栖川宮織仁親王の江戸下向に対して、直愈を御馳走役(現代でいう接待役)に任じた。親王を迎えるとなると経費は莫大になるが、直愈はその必要経費である9500両のうち2000両ほどしか調達できなかった。このため、幕府に対して7000両の拝借金を嘆願したが、幕府はこれに激怒し、接待が終わった後に「不届き」であるとして直愈、そして本家の第8代佐賀藩主・鍋島治茂(もともとは第5代鹿島藩主だったが7代藩主・重茂の子がなかったため、8代藩主に就任)を2ヶ月間の差控(登城停止)にした。

 まあ、「鹿島藩主が佐賀本藩主に就任」とか「小城藩の失態(そもそも小城藩に9500両調達させようとする幕府のほうが無茶だと思うが)で佐賀本藩も処分」とか本藩・支藩の密接な関係を示すエピソードともいえる。
 最後にウィキペ「支藩」を見てみる。

支藩(ウィキペ参照)
 江戸戸時代の藩主家一族が、弟や庶子など、家督相続の権利の無い者に所領を分与するなどして新たに成立させた藩のことである。このほか有力家臣の所領も支藩という場合がある。
■役割
 支藩を創設することは、ある藩が新たに別の藩を創設することであり、幕府の認可が無ければ正式に立藩することはできなかった。ただし、江戸時代における支藩の意義は大きく、参勤交代による本家当主不在時などに本家の代理として活動したり、本家の当主が幼少である場合の後見役としても活動したりした。例として盛岡藩の南部利用が幼少で藩主となると、支藩七戸藩の南部信鄰が藩政後見を行っている。
 また本藩において藩主が早世したり世子が無かったときには、支藩から養子を迎えることで、無嗣断絶の危機を逃れる例が少なくなかった。
 例として、伊勢津藩の藤堂氏においては、第4代藩主・藤堂高睦の子がことごとく早世したが、支藩の伊勢久居藩より養子を迎え、断絶を免れている。
■本藩との関係
 本藩と支藩のつながりの度合いは事例によって異なる。本藩とは全く別個の場所に支藩が存在する「領外分家」と、本藩の内部に支藩が存在する「領内分家」に分かれる。「領内分家」の中でも、将軍から直接朱印状を受けている支藩を分知分家あるいは別朱印分家と称し、本藩の朱印状の中に支藩についても併記され、朱印状を直接交付されない支藩を内分分家と称した。さらに、内分分家でも新田開発によって増加した分を元に成立した内分分家を、特に新田支藩とも呼ぶ。この場合、新田支藩に与えられた石高は幕府の朱印状には記載されていないため、こうした新田に基づいて成立した支藩も朱印状に記載されない場合があった。
 完全に本藩の統制下にあるケースもあれば、本藩の統制より独立しているケースもある。その度合いは、幕府が発行する所領安堵の朱印状などの書式で規律されることが多い。
■主な支藩の一覧
七戸藩(本藩・盛岡藩
黒石藩(本藩・弘前藩
一関藩、岩沼藩、宇和島藩(本藩・仙台藩
白河新田藩(本藩・白河藩
岩崎藩、久保田新田藩、亀田藩(本藩・久保田藩
大山藩、松山藩(本藩・庄内藩
黒川藩、三日市藩(本藩・郡山藩
三根山藩小諸藩(本藩・長岡藩)
沢海藩(本藩・新発田藩
高徳藩(本藩・宇都宮藩)
佐野藩(本藩・佐倉藩
富山藩、大聖寺藩(本藩・加賀藩
敦賀藩(本藩・小浜藩
埴科藩、沼田藩(本藩・松代藩
大多喜新田藩(本藩・大多喜藩
荻野山中藩(本藩・小田原藩
野村藩(本藩・大垣藩
久居藩(本藩・津藩)
彦根新田藩(本藩・彦根藩
鹿奴藩、若桜藩(本藩・鳥取藩)
広瀬藩、母里藩(本藩・松江藩
姫路新田藩(本藩・姫路藩
生坂藩鴨方藩(本藩・岡山藩
三次藩広島新田藩(本藩・広島藩
岩国藩徳山藩、豊浦藩(本藩・山口藩)
秋月藩(本藩・福岡藩
高瀬藩宇土藩(本藩・熊本藩
佐土原藩(本藩・鹿児島藩

■書評:池川玲子著『「帝国」の映画監督・坂根田鶴子』(石崎昇子)
(内容要約)
・要約つうかコメントしてみる。
・本書は優れた女性史の業績に対して、東京女子大学女性学研究所が授与する「女性史青山なを賞」 を受賞したそうである(2011年度、第16回)。
 「青山賞」の過去の受賞者を紹介する東京女子大女性学研究所のサイトを参考までにリンクを張っておく。
http://lab.twcu.ac.jp/iws/nawo.htm
・坂根の「満州映画協会(満映)初の女性映画監督」という経歴から、「村上もとか愛好家」は気付いたかもしれないが、坂根は村上の漫画「龍-RON-」に出てくる「田鶴てい」のモデルである(田鶴というのは坂根の名「田鶴子」からとったのだろう)。
 ただこの書評を読むだけでも実際の坂根と、田鶴がまるで違うことがわかるが。
(漫画ではもともとも女優志望で、映画監督への道を歩むのは満映入社後という設定だが、実際の坂根は女優志望などではなく、日本にいたときから監督志望だった。また、漫画では田鶴が撮影するのは「武侠映画」だが実際の坂根が撮ったのは満州開拓者の生活を描いた記録映画「開拓の花嫁」である。)
・なお、書評によれば著者は満映が女性監督というマイナーな存在を受け入れたのは満鉄調査部が転向左翼(例:石堂清倫)を受け入れたのと同じような要素があるのではないかと見ているらしい。要するに「満州に行くような人間は国内では職がない人間が多く」「満州側もあまり贅沢は言ってられないので、左翼がどうとか女がどうとか言ってられず」ある種の自由があったと言うことだろう(そう言う「条件付きの自由」については過大評価は禁物だが)。

*1:いわゆる黒人(アフリカ系アメリカ人)のこと

*2:ジャップごときがアメリカ様に対し何様だと言うことですね、わかります

*3:ただの居直りじゃねえか。

*4:よく言うぜ、抑えるどころか結果オーライで黙認してたくせに

*5:こっちの説の方が正しいだろ、常識で考えて

*6:著書『初期徳川氏の農村支配』(2006年、吉川弘文館

*7:個人サイト(http://ameblo.jp/owashiro/)。『豊臣秀吉』(1985年、中公新書)、『石田三成』(1997年、PHP新書)、『明智光秀』(1998年、PHP新書)、『徳川秀忠』(1999年、PHP新書)、『史伝・伊達政宗』(2000年、学研M文庫)、『史伝・武田信玄』(2001年、学研M文庫)、『豊臣秀次』(2002年、PHP新書)、『今川義元』(2004年、ミネルヴァ日本評伝選)、『近江浅井氏の研究』(2005年、清文堂)、『山内一豊』(2005年、PHP新書)、『戦国武将の手紙を読む』(2010年、中公新書)など著書多数。

*8:蓮池藩小城藩鹿島藩