新刊紹介:「歴史評論」8月号(追記・訂正あり)

特集『院政期王家論の現在』
歴史評論」8月号の全体の内容については「歴史科学協議会」のサイトを参照ください。
http://wwwsoc.nii.ac.jp/rekihyo/

■『院政期「王家」論という構え』(遠藤基郎)


■『〈王家〉をめぐる学説史』(高松百香
(内容要約)
「王家」概念は、黒田俊雄「中世天皇制の基本的性格」(初出1977年)「朝家・皇家・皇室考」(初出1982年)で表明された(後にいずれの論文も黒田著作集1巻「権門体制論」(1994年、法蔵館)に収録)。
黒田が天皇家にかわって「王家」概念を提出した理由としては
1「中世資料においては王家の方が天皇家よりも資料に頻出すること」
2「天皇家と呼ぶことで、世界各国の『王家』との比較が難しくなったり、『天皇家崇拝』に荷担したりしてしまう危険性があること 」であった。
この黒田の提唱後、中世史においては「天皇家」よりも「王家」が使われるようになる(黒田が「王家」概念を提唱する前は現在、「王家領」と呼ばれることが多い概念は「天皇家領」「皇室御領」などと呼ばれることがあった)。
(黒田の提唱後に天皇家が使われた例外的論文として、野村育世「中世における天皇家」・前近代史研究会「家族と女性の歴史:古代・中世」(1989年、吉川弘文館)、伴瀬明美「中世の天皇家と皇女たち」(『歴史と地理』597号(2006年))がある。ただし、野村氏は1989年論文を著書「家族史としての女院論」(2006年、校倉書房)に収録したときは「王家」と書き改めており改説したと見られる(ただし改説理由は明確ではないようだ)。また伴瀬氏は「王家」概念も使用しており何らかの使い分けがされているようである)
 なお、黒田が「王家」概念を提唱した理由自体は、黒田の提唱した有名な「権門体制論」(黒田による中世史理解の枠組みの一つ)と直接には関係ない事、したがって「王家」概念使用者は権門体制論支持者と限らないこと(たとえば野村『家族史としての女院論』の場合、題名から分かるように家族史という要素が強い)、ただし黒田においては「王家」概念と権門体制論は密接に関わっていること(王家=権門の一つ)に注意が必要である。


■『内親王女院と王家―二条院章子内親王からみる一試論―』(野口華世)
(内容要約)
・難しいが無理矢理要約(この論文に限らないが私は「権門体制論って何?」「准母って何?」と言う人間なので)。
・章子内親王院号宣下は彼女が初めての「国母(皇太子の母)でない女院」であったため、院分受領を得られないという差別待遇を受けた。この時の反省から白河上皇は同じく、「国母でなかった」てい子内親王(後の郁芳門院)に院号宣下する前に堀河天皇の准母にするという行為を行ったと見られる。この結果、郁芳門院は院分受領を得られないという差別をさけることが出来た。


■『白河院政期の王家と摂関家―王家の「自立」再考―』(樋口健太郎
(内容要約)
白河院政期の摂政・藤原忠実を例に王家と摂関家の関係を分析。

藤原忠実」(ウィキペ参照)
 嘉承2年(1107年)、忠実と摂関家にとって最大の危機が鳥羽天皇践祚にと共に起こった。鳥羽天皇践祚に尽力した藤原公実閑院流)が天皇外戚である事を理由に摂政の地位を望んだのである。白河法皇も一時迷うが、院庁別当源俊明の反対でその望みは斥けられた。

 何故忠実を天皇は選んだのか?。それは忠実の「家」(御堂流)は代々摂関家を務めた格式のある家であったからである。
 まだ幼児の鳥羽天皇を支えるには外戚という天皇との関係よりも、「家の格」を重視したと言うことである。
 ただし忠実は摂政就任時、まだ若く、また、父、祖父もなくなっていた上、外戚でもなかったため、白河上皇自ら彼に故実伝授をするなどかなりのバックアップが必要であった。そう言う意味でこの時期に摂関家の権威が低落したと見なすべきではない。
 むしろ白河上皇のバックアップにより摂関家の権威は支えられたのである。

法皇により忠通(忠実の長男)と公実の娘・璋子の婚姻の話がもちあがる(ウィキペ「藤原忠実」)

のも筆者に寄れば、外戚でない忠実をバックアップするための政治工作だったという。

筆者の理解が正しければ白河院政初期において、白河と忠実は良好な関係だったわけだが

が、璋子にはその素行に噂があったこと(注:要するに男性関係が奔放と言うことだろう)や忠実は閑院流を快く思っていなかった(注:璋子は忠実から摂政ポストを奪い取ろうとした藤原公実の娘)ために、破談となっていた。ところが、永久5年(1117年)璋子*1鳥羽天皇に入内する。忠実は衝撃を受け、さらに鳥羽天皇の希望もあり、保安元年(1120年)娘・勲子を入内させようと工作を始めた。だが、以前入内の勧め*2を断りながら鳥羽天皇の希望を受けて再度入内させようとしたことに法皇は激怒し、ただちに忠実の内覧は停止された。内覧は天皇に奏上される文書を見る職務であり、この職務を剥奪されることは事実上関白を罷免される事に等しかった。忠実はこの後、宇治で10年に及ぶ謹慎を余儀なくされる。なお、次男頼長が生まれたのはこの謹慎中のことである。
 大治4年(1129年)に白河法皇崩御鳥羽院政が始まると忠実は政界に復帰を果たし、天承2年(1132年)再び内覧の宣旨を得る。また、白河法皇の遺言に反して、長承元年(1133年)忠実は自らの娘・勲子を鳥羽上皇の妃とし、異例の措置で皇后となり(勲子は泰子に改名する)、さらに院号宣下を受けて高陽院となる。忠実は前回の失脚の反省からか、鳥羽上皇の寵妃・藤原得子や寵臣・藤原家成とも親交を深めて、摂関家の勢力回復につとめた。しかし、忠実が再び内覧となり政務を執る一方で、忠通が名ばかりの関白になってしまったことで、父子の関係は次第に悪化していく。忠実が失脚している間に白河法皇によって取り立てられ関白となった忠通に対して、才気ある次男頼長を忠実は偏愛する。(ウィキペ「藤原忠実」)

と晩年は白河と、忠実は冷戦関係になり、それは「忠通と頼長の対立」を招き、保元の乱の一原因ともなってしまう。



■書評「後多田敦『琉球救国運動:抗日の思想と行動』」(照屋信治)
(内容要約)
うまくまとまらなかったのでネット上の書評を紹介してみる。

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-172984-storytopic-6.html
琉球救国運動 抗日の思想と行動』 新たな史実と論点提示
 歴史上の勝者と敗者の関係は、しばしば勝者によって歪曲/隠蔽される。明治前半期の日琉関係もその一例と言うべきであろう。
 松田道之*3編『琉球処分』、それをベースにした研究や小説の類が、勝者の目線から、明治政府の琉球併合に異議申し立てした琉球人を「頑迷固陋」と決めつけ、彼らの生き残りを懸けた政治運動を「時代錯誤」の盲動として描き出したことは周知の通りである。
 しかし他方で、敗者の目線から歴史の真相に迫ろうとする試みも、着実に積み重ねられてきた。その試みの一つの集成として、本書を位置づけることができる。
 本書は先行研究を踏まえながらも、インターネットの「アジア歴史資料センター」や明治30年代以降の「琉球新報」などに丹念にアクセスして得られた諸資料をベースにして、新たな史実と論点を提示した労作である。
 本書で提起された注目すべき論点の一つは、救国運動の時期について、幸地朝常(向徳宏)の清国亡命(1876年12月)から儀間正忠の福州引き揚げ(1937年7月)までの半世紀余りの期間としていることである*4。救国運動の内容と方法にかかわる論点として注目したい。
 第二に、「1880(明治13)年には宮古八重山に対する沖縄からの分離独立が合意され*5」たが、「これは尚泰(注:琉球最後の国王)が反対して立ち消えになった」という論点である。救国運動の歴史的意義にかかわる重要な論点であって、徹底的な論議が必要であろう。
 第三に、松田琉球処分官や西村(注:捨三)県令の分析/解説に依拠して「日本政府の琉球国解体・併合に徹底して抵抗した琉球人の党派」は「亀川党から黒党、そして、黒頑派へ」と継承され、黒党は「清国ニ全属シ琉球ヲ再興スヘシ」と主張したという論点である。運動主体の名称とその思想をどのように受けとめるべきか、慎重に検討すべきであろう。
 以上の論点のほかにも、本書には多くの重要な論点が提示されている。さらなる探求を期待したい。
(西里喜行・沖縄大学教授)

ネトウヨさんに対するネタとして書き換えてみよう。

西蔵救国運動 抗中の思想と行動』 新たな史実と論点提示
 歴史上の勝者と敗者の関係は、しばしば勝者によって歪曲/隠蔽される。中国・西蔵関係もその一例と言うべきであろう。
 中国共産党編『西蔵解放』、それをベースにした研究や小説の類が、勝者の目線から、中国政府の西蔵解放に異議申し立てした西蔵人を「頑迷固陋」と決めつけ、彼らの生き残りを懸けた政治運動を「時代錯誤」の盲動として描き出したことは周知の通りである。
 しかし他方で、敗者の目線から歴史の真相に迫ろうとする試みも、着実に積み重ねられてきた。その試みの一つの集成として、本書を位置づけることができる。

他にもいくつか書評などを紹介。
沖縄ブログ「琉球救国運動」
http://dotouch.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-0bab.html
海邦小国
琉球救国運動」
http://kaihousyoukoku.asablo.jp/blog/2011/02/11/5676027
「幸地朝常の手紙」
http://kaihousyoukoku.asablo.jp/blog/2009/08/12/4507335

「公同会運動」(ウィキペ参照)
 最後の琉球国王尚泰の子である尚寅、尚順らが中心となって起こした運動。復藩運動とも言う。
 1896年ごろ、尚寅らが琉球人の一致を目的として、公同会を結社、この公同会が沖縄県の執政権(知事職)を尚家が世襲制とすることを目指して運動を起こした。
 1897年(明治30年)、公同会の代表が上京し、政府に対して請願した。
 請願の主な内容としては
1.沖縄県の執政者を尚家に任せること。
2.執政者は政府の監視下で沖縄県の行政を担当させること。
3.沖縄県に強い自治権を与え、議会を設けること。
 しかし、日本政府はこの請願を却下、公同会運動は終息にむかった。

「林世功」(ウィキペ参照)
 琉球王国末期の官僚・政治家。大和名は名城春傍。
 明治政府による琉球の扱いに危機感を抱き、1876年に幸地朝常とともに密使として清国に渡り脱清人となる。以後、福建省を舞台に総理衙門など要路に琉球の危機を訴え続けるが、1879年の琉球処分沖縄県の設置)に至る。翌1880年清朝要人に直接琉球救援を訴えるために北京に向かうが、途中の天津で日清間の先島割譲交渉(分島増約案)を知って絶望し辞世の句を残して自刃した。享年40歳。

■書評「井本三男『水橋町*6富山県)の米騒動』」(斉藤正美)
(内容要約)
うまくまとまらなかったので斉藤氏ご本人によるネット上の書評を紹介してみる。

http://d.hatena.ne.jp/discour/20110331/p1
■「井本三夫『水橋町(富山県)の米騒動』から思い出して拙稿をアップしました」より一部引用
 井本三夫『水橋町(富山県)の米騒動桂書房は、一九一八年七月上旬、富山県下新川郡東水橋町(現・富山市)の陸仲仕(おかなかせ)の女親方がリーダーの集団で米移出商にかけあってきたことを米騒動の発端とすることを、当時の米騒動に参加した女性たちの証言から明らかにしている本です。今ごろ、当事者の語りが文字化されて刊行されるのはほんとに奇跡ともいえることだという気がしています。

http://d.hatena.ne.jp/discour/20101119/p1
■「井本三夫、勝山敏一による富山・米騒動研究書の刊行」より一部引用(注:勝山本の解説については引用省略する)
 米騒動研究にとって大きな意義を持つ本が2冊続けて出た。(注:2010年)9月には、井本三夫『水橋町(富山県)の米騒動』が桂書房から出ている。そして11月に、勝山敏一『女一揆の誕生ー置き米と港町』(桂書房)という本が出たばかりである。米騒動から92年の今、新たに刺激的な知見が提示されたことを喜びたい。
 井本さんの『水橋町(富山県)の米騒動』は、魚津から始まったとされることが多い1918年富山・米騒動が「東水橋」に端を発したものであることを、だれがどう動いたかという40年前の詳細な聞き書きを甦らせることによって解明している。
 なぜ「東水橋」かという点は、米の積み出し港であり、廻船問屋があり、米の移出商もあった。そこで32貫(120㎏)の荷物を1人で運んでいた力丈夫な「仲仕(なかせ)」の女たちがいたこと、そして彼女らの中に、米の移出商の家に出向いて「米をよそへ出すな」と交渉するが絶対に物に手をかけさせない、警察に弾圧の口実を与えないなど非常に統率力のあるリーダーが何人かいたことであった。すなわち、口火を切ったのが東水橋町西浜町の女仲仕たちであり、組織的で統率のとれた行動をとれたことが成功に至った要因としている。「漁師のおかみさん」だからではなく、「仲仕」だからできた統率力であり、知力、胆力にすぐれた女性たちであったようだ。漁師であってもそれだけの統率力は難しいというほどの采配ぶりだったという。当時は、米さえあれば塩か梅干しで餓えがしのげる時代*7である。ちなみに、角川書店創始者角川源義は、この東水橋西浜町で1918年米騒動の1年前に生まれている。生家は米屋だったという。
 しかも、1918年7月上旬という早い時期からの行動であったことを、参加者が存命中の1968年という年の取材テープから明らかにしている。米騒動から50周年記念に取り組まれた、社会運動家である松井滋次郎氏(注:戦後、日本共産党富山県委員会委員長)による1968年時のインタビューを再生させた部分、ならびにその解説が井本本の重要な部分をなしている。というのも、この松井氏が『赤旗*8紙上で発表されている貴重な聞き取りの取材結果や取材記録がこれまで多くの米騒動研究から排除されてきたために、これまで知られてきた史実が偏っていたということがあったようだ。これも研究としてあるまじきことだが、社会運動や政治活動に対する研究者の偏見*9がなせるわざなのだろう。
 他にもいろいろと紹介したい点がある。井本さんのご著書は、富山米騒動研究の決定的な一冊である。1918年米騒動から90年というこの時代に、古いテープに日の目をあててよくぞこれほどの解明がなされたと思う。それと、歴史研究としては、オーラルヒストリーとして大変の労作であることも付記したい。松井氏が、これをしなかったら後に残らないと、社会運動のありようをつぶさに残したいという強い思いから生き残りの方を訪ね歩き、聞き書きをされたことも大きい。また、1980年代以降、この地を足で歩いて回られた井本さんだから、松井滋次郎さんの遺作との出合いがあったのだと思う。井本さんにしても、ごく普通の「おばば」たちの証言を後世に残す意義があるという強い思いがあったからこそ、これほどの豊饒な歴史を甦らせたのだろう。オーラルヒストリーとしても画期となる書だと思った。研究内容と手法については、簡単な紹介しかできていないがいずれも極めて重要な提起をしていることだけは確かである。また、機会を改めて触れたいと思っている。

【追記】
このエントリについて、斉藤正美氏のエントリ「研究に入り込む研究者の視点」(http://d.hatena.ne.jp/discour/20110809/p1#)で紹介いただきました。ありがとうございます。
書評紹介ありがとうございますとのことですが、大した紹介じゃないですけどね(苦笑)
歴史評論の紹介はもちろん斉藤氏のブログ上の紹介とかなりかぶりますが、一度皆様もお読みになってはいかがでしょうか。

*1:後に崇徳・後白河両天皇の母

*2:白河が入内をすすめたことも筆者の理解では、白河による忠実の政治的バックアップの一つである。なお、我が九条『院政のはじまりー白河院ー 』(http://d.hatena.ne.jp/Wallerstein/20100624/1277392138)によると入内拒否理由は「泰子が鳥羽に入内するのは建前で、実際に泰子を求めているのが白河である、と疑ったため」であり、白河の要請は拒否したのに鳥羽の直接の要請を拒否しなかったのは「白河の熊野詣の留守中に話が進んだため、白河の影は排除されている」からだという。

*3:琉球処分の実行者の一人

*4:照屋氏も指摘しているが一般には、日清戦争での清朝の敗北により、(救国運動は清朝の政治力を利用し独立回復しようという運動なので)琉球の独立回復の可能性はなくなったと見なし「琉球救国運動」は終了したと見なすのが通説的見解だそうであり、是非はともかく、後多田説はその点で興味深い。

*5:清朝と日本の間で「宮古八重山清朝領土とする」と言う条約が締結されそうになったことを指す。救国運動派の一部(全てではない)はこれをてこに、宮古八重山の独立国家化を目指していたようだ(中国を宗主国とする形の琉球国家復興?)。いずれにせよここから「明治時代においては沖縄が日本領と言うことは当然の事実ではなかったこと」「日清戦争以前においては日本が清朝ともめるのを嫌っていたこと」がわかる

*6:今の富山市にある

*7:つまらない揚げ足取りすれば「しのげる」というより「貧乏なのでしのぐしかない」「それが出来る丈夫な人が多かった」のほうが正しい気がするが。今の豊かな日本では考えられんな

*8:歴史評論の書評に寄れば赤旗日曜版1968年7月28日号。

*9:つうか「反共」?