新刊紹介:「歴史評論」6月号

特集「世界史認識と東アジアⅡ」
詳しくは歴史科学協議会のホームページをご覧ください。俺が理解できてそれなりに要約できそうなものだけ紹介する。
http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/

■「織豊期王権の成立と東アジア」(堀新*1
(内容要約)
・信長の右大臣、右大将辞任を「朝廷離れ」と見なすべきではない。辞任後も信長は朝廷から与えられた正二位の地位にはとどまったからである。また京都馬揃えも朝廷に対する恫喝などという意味合いを認めることはできない。
 なお、ウィキペ「織田信長」によれば堀氏は馬揃えを

誠仁親王の生母である万里小路房子の死去に伴う沈滞した朝廷の雰囲気を払拭するために、朝廷から依頼され、信長が安土城で行わせた大規模な左義長を再現したとみる

やや特異な説のようだ(俺の理解では単に武田氏、北条氏、毛利氏など服従しない勢力への軍事的アピールと見るのが通説ではないかと思う。つまり自衛隊とか先軍朝鮮とかの軍事パレードと同じですね)。信長政権と朝廷の関係は対立関係(例:立花京子『信長権力と朝廷』(岩田書院))にあったと見なすべきでなく基本的には協力関係にあったとみなすべきである。
・信長政権時代の朝廷権威の上昇を過大評価する議論(例:今谷明戦国大名天皇』(講談社学術文庫))は支持できない。室町幕府の財力によって支えられていた朝廷権力が幕府没落により権威失墜したのを、新しい権力者である信長が財政的に支え「権威が回復した」にすぎない。主導権は信長ら武家の方が握っている。
・信長が秀吉のような「朝鮮、中国への軍事的侵略」を構想していたかどうかは不明である。信長生前時に服属しない大名として、東北の伊達、関東の北条、越後の上杉、中国の毛利、四国の長宗我部、九州の島津がいたことを考えれば、いかに当時、最も強大な勢力が信長とは言え、そして浅井、朝倉、武田などの敵対大名を次々打倒していった実績があるとは言え、信長以外に天下布武を目指してる大名がいないとは言え、そんな「対立勢力を完全になめてるとしか思えない」構想はなかったかもしれない。ただし宣教師・フロイスが「信長に対外侵略の意図がある」と記録していること、実際に対外侵略を実行した秀吉が信長政権の重臣であることを考えればそのような構想があったとしても不自然ではないと思われる。信長の三職(太政大臣、関白、征夷大将軍)推任辞退も「中国、朝鮮までも支配する東アジアの支配者としてふさわしいポスト(新しく発明する?)を求めた」と理解することも可能ではないか。
・秀吉は当初次のような対外支配構想を持っていた。
1)明を征服し、天皇を北京に移し、秀吉政権の新たな都とする。
2)関白豊臣秀次を明の関白に就任させる
3)朝鮮については宇喜多秀家五大老の一人)か豊臣秀勝(秀次の弟)に支配を任せる
4)明征服後は天竺(インド)に侵攻する。

 しかしこうした構想は明・朝鮮の抵抗で挫折せざるをえなかった(文禄の役)。
 だが、秀吉は対外侵略自体はあきらめずあきらめたのは、明、天竺支配に過ぎなかった。朝鮮支配を目指し再度出兵するが結局目的は達成できず、戦争は秀吉の病死で終結した(慶長の役


■「毛沢東期の中国における支配の正統性理論と社会」(三品英憲)
(内容要約)
・この文章において取り上げられている題材は1946,47年の中国共産党支配地域での「共産党支部からの中央への報告」と「それへの中央からの指示」である。したがってそうした点(1946,47年の状況は単純に他の時代にスライドできないのではないかとか、報告書の内容をそのまま事実と見なしていいのかとか)には注意すべきだろうとは思う。
・遵義会議において王明ら、ソ連留学組から権力を奪取した毛沢東が自らの政治的正当性の根拠としたのは当初から「民衆の意思」であった。
・しかしこうした「民衆の意思」は別に選挙や世論調査で発見されるわけではないことに注意が必要である(一応、毛沢東期も全人代とか政治協商会議とか選挙による機関があるのではあるが)。中国共産党にとって「先進的な革命精神」が認められればそれはたとえ少数派でも「民衆の意思」であり、「革命精神」が認められなければ多数派でもそれは、党が指導ないし打倒すべき革命対象でしかない。「民衆の意思」が少数派である場合は時に「反右派闘争」「文革」といった大規模な革命的行動が党によって実行されるわけである。
 結果的に「多数派=党にとっての『民衆の意思』」であったとしてもそれは結果論に過ぎず、「党が多数決で決定したこと」を意味していない(ただし、共産党の名誉のために断っておけば、俺が思うにライバル政党たる国民党も民意への態度は似たり寄ったりではないかと思うし、独裁国家の政党などどこでも大なり小なりそうじゃねえのと思うが。だから問題ないといいたいわけでなく、そう言う民意への対応は「発展途上国的」とはいえても果たして「中国的」とか「中国共産党的」とか言えるんだろうかとは思った)。
・そして毛沢東支配期においては党は事実上「毛沢東」とイコールであり、彼の権威に対抗できる者はいなかった。
 そうした絶大な権力、権威を元に毛は後に廬山会議での彭徳懐(初代国防相)打倒、文化大革命での劉少奇国家主席)、トウ小平(国務院副総理)ら打倒を実行する。
・今の中国には毛のようなカリスマはいないが、こうした「党の無謬性」的な考えはどれほど清算されたのであろうか。
・まあ、感想は「ふーん」という感じ。俺の頭の悪さによる読解不足は当然あるだろうが「そりゃそうなんだろうね」感と「何かなあ」感があるな。
・「そりゃそうなんだろうね」感について。
 「中国共産党の無謬性」とか「毛沢東の絶大な権威」とかは、あまり意外な結論ではない。もちろん「意外な結論」でないから意味がないという話ではないわけだが。
・「何かなあ感」について思ったことを適当に書いてみる。
1)何つうか「自分に都合のいいのが正しい民意」って、「どこの大阪府だよ」という気がするね、やっぱり。しかし「毛沢東が登場する前は、清朝支配→軍閥支配(統一国家じゃなかった)」プラス「海外列強の支配(もちろん日本含む)」で、まともな民主政治の経験がなく、かつ文盲率も高かった当時の中国なら同情の余地があるけど日本はそうじゃないから。絶望するよな。
2)こうしたかなり強引なやり方が通用したことについて、三品氏は「内戦の混乱もあって、共産党に対抗できる政治勢力がなかったこと」を強調していると俺は理解した。そう言う要素もあるのかもしれないが、「共産党の指導を自ら進んで受け入れる」という要素もゼロではなかったと思うのだが。「自主的に応じた側面」に触れないと「善良だがたやすく操作される無能な民衆と、狡猾で強力な共産党」というかなり問題のある見方にならないか。
3)「党が民意を決定する」というのはまあ理解できる。俺がどうしても理解できないのは「党=毛沢東」となり、そのあげく、毛沢東が自爆行為としか思えない文革劉少奇ら幹部を虐待し国を大混乱に陥れた)を実行し、それがまかり通ったことをどう理解すべきなんだろうかと言うことだ。
 まあ、そういうこと(文革の理解)はこの報告の主題じゃないんだろうし、そう簡単に理解できることでもないだろうが。

*1:著書『織豊期王権論』(2011年、校倉書房