【産経抄】4月14日
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130414/dst13041403020001-n1.htm
この産経抄の本筋には関係ないんですが産経らしい文章だと思います。まず第一に淳仁を流罪にしたのは、彼を廃位し重祚した孝謙上皇(重祚後は称徳天皇)であるわけです。流罪において道鏡の影響もあったのかもしれませんが、「上皇が天皇を流罪にした」と言う異常事態をぼかすところが産経らしいなと思います。「悪いのは道鏡で称徳天皇じゃないんだもん!」と産経は言いたいんでしょうか?。後の「宇佐八幡宮神託事件」についてのイメージから「この頃から道鏡は天皇位をねらっていたんだよ!」「だから邪魔な淳仁を抹殺したんだよ!」とでも印象操作したいんでしょうか?。俺も歴史学に詳しい訳じゃないですが、さすがにこの時点では道鏡の即位なんて誰の頭の中にもないと思いますね。単に上皇と天皇の権力争いでしょう。
「道鏡が悪い、道鏡が悪い」って戦前の皇国史観かよ。後の「保元の乱(崇徳上皇VS後白河天皇)」などでもわかるように別に「上皇VS天皇」の権力争いなど歴史上、珍しくないし、その場合「側近が悪い、天皇や上皇は悪くない」ってのはおかしいと思いますけどね。産経みたいな皇国史観論者でなければ普通に「上皇VS天皇の権力争い」と理解できる話なんですが。
第二に流罪のキッカケとなった恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱について全く触れない点も産経らしい。天皇が上皇相手に乱を起こしたかもしれないと言う事実をそんなに触れたくないんでしょうか?(押勝の乱に天皇自身が関与していたか、押勝同様に上皇に不満を覚えたもののさすがに乱実行まではしていなかった、つまり押勝の単独犯行かは学者の間で争いがあるようです)
参考
ウィキペ「淳仁天皇」
天平宝字6年6月3日(762年6月28日)、孝謙上皇は再び天皇大権を掌握することを目的に、「今の帝は常の祀りと小事を行え、国家の大事と賞罰は朕が行う」と宣告した。この宣告によって、政治権力が孝謙上皇のもとに移ったとする見解と、御璽を保持しつづけていた淳仁天皇が依然と権能を発揮していたとする見解があり、まだ研究者間でも確定されていない。なお、佐藤長門「古代天皇制の構造とその展開」(初出:『歴史学研究』755号、2001年、後に佐藤『日本古代王権の構造と展開』吉川弘文館、2009年所収)は孝謙上皇と淳仁天皇の対立の本質を天武天皇皇統でも傍流(舎人親王系)の天皇を自己の「臣」とみなす上皇(『続日本紀』天平宝字8年10月壬申条)と自己を孝謙天皇の皇太子ではなく「聖武天皇の皇太子」として即位したとみなす天皇(『続日本紀』天平宝字3年6月庚戌条)の間に発生した王統及び皇位継承に関する認識の差として捉え、たとえ恵美押勝(藤原仲麻呂)や道鏡がいなかったとしても2人の対立は避けられなかったと指摘する。