特集『災害と都市の比較史』
興味のある論文だけ紹介する。
詳しくは歴史科学協議会のホームページをご覧ください。
http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/
■「ロンドン大火後の市参事会の活動」(菅原未宇)
(内容要約)
1666年のロンドン大火後の市参事会の活動を紹介。従来の研究は「国家の政策」に着目する傾向があったがロンドン市も「国家の下請的機能」にとどまらない自主的な活動をしていたことを指摘する。
■「1563年のイスタンブル大洪水:大河なき都市を襲った水害」(澤井一彰)
(内容要約)
1563年のイスタンブル大洪水の説明。イスタンブルには大河がないため、当時の土木技術の限界もあり、洪水対策は「排水溝の拡張」という消極的なものにならざるをえなかった。
■「1911年の江南の水害とその影響」(堀地明*1)
(内容要約)
1911年の水害に対する清朝と辛亥革命後の中華民国政府の対応について説明。
■私の歴史研究「青木美智男*2:日本近世農民運動史から生活文化史研究へ」(聞き手:大橋幸泰、野尻泰弘)
(内容要約)
・この歴史評論インタビューは2012年9月16日に行われたとのこと。
・2013年7/18の新聞を読んで驚いた。青木氏が不幸にして誤嚥性肺炎でお亡くなりになられたとのこと。謹んで哀悼の意を捧げる。
青木氏はインタビューで「死ぬまでに佐々木潤之介氏の評伝を何とか書き上げたい」「学恩もあるし、日本近世史研究に与えた影響も大きい」としておられたがそれは叶わぬ夢と成ってしまったのだろう。
参考
http://hysed.human.niigata-u.ac.jp/blog/2013/07/19/237
新潟大学人文学部日本近世史研究室『青木美智男さんの訃報に接して』
近世史研究の大先輩である青木美智男さんが、去る7月11日に旅先での不慮の事故がきっかけで亡くなったことを人づてに聞いたのは、実は7月14日のことでした。そのときはまったく実感がわかず、信じられない、嘘であって欲しいと願ったものです。しかしその後、7月17日になって報道なども行われ、じわじわと事実として迫ってきました。
(中略)
今日、『歴史評論』760号が届きました。手にとって表紙を見た私は、しばらく絶句してしまいました。何という巡り合わせか、今号には青木さんの「【私の歴史研究】日本近世農民運動史から生活文化史研究へ」が掲載されていたのです。昨年秋に行われたインタビューを構成したものですが、まさに青木さんの遺言となってしまいました。
青木さんはこのインタビューで「重い病気でもしなければ、まだ少し時間があると思いますので、次のこと*3をやり遂げたいと思っております」と、今後の計画を語っています。長く患ったのではなく、不慮の事故に基づくだけに、さぞ無念であったのではないかと、胸が潰れる思いです。青木さんのやり残した課題は、私たちの肩に掛かっています。
ご冥福をお祈りします。
■書評「小野寺史郎『国旗・国歌・国慶:ナショナリズムとシンボルの中国近代史』(遊佐徹)」
(内容要約)
・なお、国慶とは「国慶節(中国)」「中華民国国慶日(台湾)」などの「国民の祝日」のことだ。
参考
国慶節(ウィキペ参照)
中国(中華人民共和国)の法定休日の一つ。日付は10月1日。
「国慶節」の制定は1949年9月に中国人民政治協商会議において10月1日を「国慶節」と定めたことに由来する。これは、1949年10月1日に天安門広場にて毛沢東により新中国の成立が宣言されたことにちなむ。中国ではこの日をはさむ約1週間が大型連休となる。
中華民国国慶日(ウィキペ参照)
別称は双十節。1911年10月10日に発生した武昌起義を記念している。武昌起義は辛亥革命の発端となり、その2か月後には中国各地で革命運動が続発し清朝が崩壊し、アジア初の共和制国家である中華民国が成立した。
(注:なおウィキペ「中華民国国慶日」はこの日を建国記念日としているが、中華民国の建国記念日は臨時大総統・孫文が中華民国建国を宣言した1912年1月1日なので間違い)
・評者は本書の対象領域が「清朝から南京政府時代・中華民国」であることを指摘した上で「毛沢東中国」や「台湾」での『国旗・国歌・国慶』に触れていないことを「中国文化におけるナショナルシンボルの創設」と言う意味では欠落があるとしている(ただし著者の課題としているわけでは必ずしもなく、あくまでも「中国におけるナショナルシンボルの創設」を論じる上での課題としている)。
最後にググって見つけた書評を紹介。
http://blog.goo.ne.jp/shoujo/e/f3187c0c57ab73c2414659e830f50101
孫文は革命派のシンボルとして青天白日満地紅旗*4を用いたが、実際の辛亥革命の過程では様々な意匠の旗が用いられ、中華民国が成立すると「五族*5共和」を表象するものとして五色旗が採用されてしまい、1920年代の国民革命と「北伐*6」の時期には、五色旗と青天白日満地紅旗の二つの国旗が中国国内で併存している状態になった。
なかなか面白そう。いうまでもなく最終的には「青天白日満地紅旗」が国旗となったわけだ(今の台湾の「国旗」もそうだ)。
そこにはどういうプロセスがあったのか書いてあるのだろうか。まあ、ウィキペ「中華民国の国旗」によれば「五族*7協和を建前とした満州国の国旗も五色旗」だそうなので明らかにそれが影響してるのだろうとは思うが。
ちなみにウィキペ「中華民国の国旗」によれば、「日本李登輝友の会などの台湾独立を主張する団体」は青天白日満地紅旗を「国旗として認めてない」らしい。
不満な点を一つ挙げるとすれば、あるナショナルなシンボルが正統性をもつにいたる要因の分析が弱いことである。日本の「君が代」の歌詞が日本国民に十分理解されているとは言い難いように、国旗や国歌がナショナルなシンボルとして定着するためには、意匠や曲それ自体の魅力よりも、政治体制の強さや安定性、そうしたシンボルが背負っている国民的な経験や記憶の共有といった要素が重要になる。大衆映画のテーマ曲に過ぎなかった「義勇軍行進曲」が国歌として採用され定着していったのは、まさに抗日戦という国民的な経験が決定的であった。あるいは歴史学者として、こうした言わば社会学的な問題については敢えて深入りしなかったのかもしれないが、国旗や国歌を研究する場合には避けて通れない問題であると考える。
まあ、「義勇軍行進曲の国歌化」と言う問題はあまり論じてないっぽい。
参考
義勇軍進行曲(ウィキペ参照)
中華人民共和国の国歌。日本語では義勇軍行進曲とも表記される。
田漢作詞、聶耳作曲。元々は1935年に作られた抗日映画「風雲児女」の主題歌であった。抗日戦争中、各地の文工団などで代表的な抗日歌曲として広く歌われ、民衆の間に浸透していった。1949年9月中国人民政治協商会議で正式な国歌が制定されるまでの暫定的な国歌として決定されたが、別の正式な国歌は結局制定されなかった。
文化大革命中は作詞者の田漢が批判・迫害されたこともあって、毛沢東を讃える歌『東方紅』が事実上の国歌として扱われた。
2004年、中華人民共和国憲法が改正され、中国国歌は「義勇軍進行曲」であることが正式に明記された。歌詞直訳
起て!奴隷となることを望まぬ人びとよ!
我らが血肉で築こう新たな長城を!
中華民族に最大の危機せまる、
一人ひとりが最後の雄叫びをあげる時だ。
起て!起て!起て!
我々すべてが心を一つにして、
敵*8の砲火をついて進め!
敵の砲火をついて進め!
進め!進め!進め!
http://www.peopleschina.com/maindoc/html/200607/15zhuanwen38.htm
中日を結んだ天才音楽家・聶耳
新中国が成立した翌年の1950年、藤沢市に住む福本和夫さんは、『人民中国』(英語版)で、新中国の国歌と聶耳に関する記事を読んだ。そしてすぐに、葉山ふゆ子*9さんに、この記事と『義勇軍行進曲』の歌詞の翻訳を頼んだ。
ふゆ子さんの翻訳によってこれが日本全国に伝わり、人々は、この才能豊かな作曲家を敬慕し、彼の愛国精神に感動した。
多くの藤沢市民は、聶耳が藤沢と縁があることから、彼に敬意と追悼の意を表したいと考えた。そこで彼を記念する自発的な活動が展開された。
1950年11月には、「聶耳記念の夕べ」が藤沢市で挙行され、『義勇軍行進曲』が初めて日本で歌われた。翌年には、藤沢市に日中友好協会を設立するための準備会議が招集され、そこで福本さんが聶耳の記念碑を建てようと提案した。
1954年、聶耳の記念碑は完成した。当時はまだ中日両国は国交を正常化していなかったが、双方の努力によって、11月、訪日中の中国紅十字会の李徳全会長が箱根へ行く途中、鵠沼海岸を通過する際に記念碑の除幕式に出席した。その後、郭沫若*10、廖承志*11ら多数の中国の要人たちが、ここに来て故人を偲んだ。
(中略)
藤沢市民が聶耳の碑を建て、さらにその碑を大切にしているということは、聶耳の故郷の人々を感動させた。中国の改革・開放が絶えず発展するのにつれて、雲南省昆明市*12と藤沢市との友好往来は日増しに活発になっていった。
1981年11月5日、藤沢市と昆明市は姉妹都市となった。ここから両市の政治、文化、経済、スポーツ、芸術、教育などの各分野での協力と交流が展開されていった。
http://www.city.fujisawa.kanagawa.jp/shougai/page100072.shtml
中華人民共和国国歌の作曲者聶耳(ニエアル)
中華人民共和国の国歌「義勇軍行進曲」の作曲者である聶耳は、1912年(明治45年)2月15日、雲南省昆明市で誕生しました。父は漢方医で薬局を営み、母と3人の兄、2人の姉で生活を送っていました。
4才のときに父親を肺結核で亡くし、治療のため家の財産を使い果たしてしまいました。このときの葬儀の費用を親戚友人の援助を頼らなければならず、母が引き続き薬局を経営したが、貧しい生活を送っていました。
親戚友人から学費を立て替えてもらい、昆明県立師範附属小学校に入学、勉学に励み、成績はいつも優秀でした。この頃から笛を学び、その後、胡弓、月琴や風琴などの民族楽器の演奏を学びました。音楽では全校に並ぶ者はなく、音楽の才能を発揮していました。
その後、貧しい生活の中、雲南第一連合中学を卒業、母親を説得し、親戚や友人の援助を受け、昆明省立第一師範学校高級部外国語組英語学科で学んでいました。
卒業後、演劇学校音楽班でピアノ、バイオリンなどの演奏知識を学び、その間、マルクス主義の書物に親しみ、学生運動にも進んで参加していました。
1930年に上海に渡り、貧しい生活を送りながらもバイオリンの独学を休まず続け、翌年、「明月歌舞団」のバイオリニストに採用され、職業音楽家として作曲の理論や和声学を学びました。このころから作曲を手掛けるようになりました。
「義勇軍行進曲」を作曲した年の1935年(昭和10年)、日本を訪れていた聶耳は7月17日の午後、友人と遊泳中の鵠沼海岸で帰らぬ人となりました。
「義勇軍行進曲」は1949年(昭和24年)に中華人民共和国の国歌となりました。
■聶耳記念碑
「義勇軍行進曲」が中華人民共和国の国歌となった1949年(昭和24年)に藤沢市民有志により聶耳を記念する運動が起こり、1954年(昭和29年)に記念碑が建てられ、11月1日に中国の紅十字会長、李徳全女史を迎え、除幕式が行われました。その後、多数の中国要人が記念碑を訪れています。
■昭和40年に再建された記念碑
1958年(昭和33年)、狩野川台風による高波により記念碑が流失しましたが、1965年(昭和40年)に記念碑保存会により、記念碑の再建運動が始まり、同年9月に再建されました。
多数の藤沢市民と関係者列席により、盛大な除幕式が行われ、その年には多数の中国要人の方々が記念碑を訪れました。
■聶耳没後50周年事業と碑前祭
1986年(昭和61年)、聶耳没後50周年記念事業として、藤沢市民と関係者の浄財で聶耳の胸像(レリーフ)を建立するとともに、神奈川県や藤沢市の協力により、記念碑とその周辺を整備し、現在の聶耳記念広場となりました。
聶耳の命日にあたる7月17日には聶耳に敬意を表し、偲ぶことを目的として、聶耳記念碑保存会により毎年、聶耳記念広場において碑前祭を開催しています。
碑前祭では「義勇軍行進曲」の吹奏のもと、黙祷を捧げ、保存会会員をはじめ来場者の方々が献花を行います。
■中国語石碑の完成
この記念碑には、中国全土から大変多くの方々が参拝に訪れています。ところが、聶耳記念広場には中国語による案内標記がありませんでしたので、聶耳にゆかりの深い雲南省から石を取り寄せ、「聶耳の略歴」と「聶耳の生涯と聶耳記念碑保存会の活動など」を中国語で彫刻した石碑を建造しました。
2010年(平成22年)12月11日、澄みわたる青空のもと、多くの皆様にご参列いただき、除幕式を盛大に執り行いました。
*1:著書『明清食糧騒擾研究』(2011年、汲古叢書) 、『明治日本と中国米──輸出解禁をめぐる日中交渉』(2013年、中国書店)
*2:著書『近世尾張の海村と海運』(1997年、校倉書房)、『百姓一揆の時代』(1999年、校倉書房)、『深読み浮世風呂』(2003年、小学館)、『近世非領国地域の民衆運動と郡中議定』(2004年、ゆまに書房)、『文政・天保期の史料と研究』(2005年、ゆまに書房)、『文化文政期の民衆と文化』(2009年、文化書房博文社)、『藤沢周平が描ききれなかった歴史:『義民が駆ける』を読む』(2009年、柏書房)、『小林一茶:時代をよむ俳諧師』(2012年、山川出版社日本史リブレット人) 『小林一茶:時代を詠んだ俳諧師』(2013年、岩波新書)
*3:その一つが既に小生が指摘したが佐々木潤之介氏の評伝である。
*4:単に青天白日旗と呼ばれることもある
*5:漢民族、満州民族、モンゴル民族、ウイグル民族、チベット民族
*6:1928年の張学良の帰順により北伐は終了した
*10:文学者。全国人民代表大会常務副委員長、中日友好協会名誉会長など政府の要職を歴任。
*11:中日友好協会初代会長