今日の産経ニュース(4/29分)(追記・訂正あり)

■【伊勢志摩サミット】朴槿恵大統領が初訪日見送り 日本政府、サミット招待を断念
http://www.sankei.com/world/news/160429/wor1604290056-n1.html
 朴政権の任期は「2013年2月〜2018年2月」ですから残り任期はもう半分(2年半)を切っています。
 任期が半分過ぎても隣国の首脳が訪日しないのは明らかに異常事態でしょう。もちろん日韓関係を冷え込ませた安倍のせいです。

日韓関係筋によると、朴大統領は5月下旬、フランスとアフリカを歴訪することになり、訪日の時間を調整できなかったという。

 これを向こうの言い分通りに信用するとしてもそれは「フランスやアフリカへの訪問の方が日本より大事です」つうことでちょっと困るというか絶句するというか。

 08年7月の北海道洞爺湖サミットの際には、韓国の李明博(イ・ミョンバク)大統領(当時)が福田康夫首相(同)の招待を受けて訪日している。

 福田時代は今と違って冷え込んでないですからね。


■【野球賭博】笠原容疑者「胴元側」認定 暴力団の関与は?「逮捕は入り口」
http://www.sankei.com/affairs/news/160429/afr1604290032-n1.html

 当初、警視庁は笠原容疑者はあくまで野球賭博の「客」とみていた。捜査では笠原容疑者が賭け金の収集など、斉藤聡容疑者(38)が胴元だった野球賭博に能動的に関与していた実態が浮かんだ。「単純な客ではなく、笠原容疑者と斉藤容疑者は一体だった」と捜査関係者は話す。

 タイトルで唖然ですね。プロ野球選手が胴元扱いされて逮捕されるとは。


■岸田外相が訪中、日本の外相として4年半ぶり 「日中関係の歯車回す」
http://www.sankei.com/politics/news/160429/plt1604290041-n1.html
 4年半も外相会談がなかった*1のが恐ろしいですね。まあ、安倍政権はもちろん4年半も続いてはおらず、「野田政権の尖閣国有化」問題からの話ですがだからといって「安倍政権は悪くない」なんて言えるわけもない。

 岸田氏は同日午前、出発に先立ち、羽田空港で記者団に対し「新しい時代にふさわしい日中関係を開く一歩にしたい。両国関係の歯車を回す訪問にしたい」と意欲を示した。

 まあ普通こう言うでしょう。産経のような中国敵視はできる話じゃない。とはいえ「新しい時代にふさわしい日中関係」というのが「安倍政権という新しい時代を理解しない中国が悪い」と言う意味なら困り者です。


■【正論】共産党は国民を熱中させる「中国の夢」を煽り続けている 東京国際大学教授・村井友秀
http://www.sankei.com/column/news/160429/clm1604290005-n1.html
 「中国の夢」とは「AIIBに代表される国際社会での地位向上」や「経済的繁栄(まだまだ内陸部は貧乏なようです)」のようですがそれを煽ってることが「何か日本にとって問題なの?」で終わる駄文です。


元朝主筆の若宮さん悼む声、中韓参加者から相次ぐ「韓国の古い友人亡くした」
http://www.sankei.com/entertainments/news/160429/ent1604290026-n1.html

 元朝日新聞社主筆若宮啓文*2さんがパネリストとして出席予定だった29日の日中韓3国協力国際フォーラムでは、参加者から突然の死を悼む声が相次いだ。
 開会式で司会を務めた中国の李肇星*3元外相は「若宮さんは日中友好日中韓交流に力を注いできた」とあいさつ。韓国の金章洙駐中国大使も「韓国の古い友人が亡くなった。哀悼の意を表したい」と述べた。
 自民党二階俊博*4総務会長は演説で「中国、韓国の皆さんが若宮さんの活躍を評価してくれた。帰国したら皆さんのご厚意を伝え、尊敬の念を語り継ぎたい」と応じた。

 まあさすが朝日OBと言うべきでしょうか。産経OBではありそうもないことです。


■【戦後71年 楠木正成考<第1部>】多聞誕生(1)「公」を忘れた日本人へ 貫いた忠義と仁、失われた「心」戦後日本を象徴
http://www.sankei.com/west/news/160429/wst1604290001-n1.html
 「ああ、皇国史観的な意味での天皇制万歳か」ということで実に困ったもんだ*5と思いますがそれはさておき。
 実際の楠木正成がどうだったかはともかく、正成イメージが「信念に殉ずるイメージ」「私欲をむさぼらないイメージ」なのは確かでしょう。一方正成を持ち出すウヨの多くが「どう見ても正成のような公正無私とは思えない」、それどころか「私欲まみれ、自分勝手」なのには本当にうんざりします(例:豪華海外出張の石原慎太郎)。
 単に「お前らも正成が後醍醐天皇に仕えたように俺に従え*6」といいたいだけで、彼らウヨは「自分が正成として何かに殉じる気」は全くないのでしょう。全くもって不愉快です。
 まあ戦前だって「インパール作戦の牟田口第15軍司令官」だの「自分勝手な人間」はごろごろいたわけですが。

楠木正成(ウィキペ参照)
・1336年、九州で軍勢を整えた足利方が、再び京都へ迫った。この頃正成は、力を持った武士階級を統制して社会を静めるにはもう公家政治では無理であること、そして武士を統制できる武家政治の中心となれるのは足利尊氏以外にいないと考えていたようである。正成は、後醍醐天皇新田義貞を切り捨てて尊氏と和睦するよう進言したが容認されず、次善の策として進言した、京都から朝廷が一時退避して足利軍を京都で迎え撃つ策も却下されてしまう。絶望的な状況下、義貞の麾下で京都を出て戦うよう出陣を命じられ、湊川兵庫県神戸市)で足利軍と戦うが敗れ、弟・正季と共に、自害して果てたとされる。享年43歳。
・江戸時代には水戸学によって、正成は忠臣として評価された。会沢正志斎や久留米藩の神官・真木保臣*7楠木正成をはじめとする国家功労者を神として祭祀することを主張した。その動きはやがて後の湊川神社の創建に結実し、他方で靖国神社などの招魂社成立に大きな影響を与えた。
・明治になり南北朝正閏論を経て南朝が正統であるとされると「大楠公」と呼ばれるようになり、講談などでは『三国志演義』の諸葛孔明の天才軍師的イメージを重ねて語られる。また、皇国史観の下、戦死を覚悟で大義の為に従容と戦場に赴く姿が「忠臣の鑑」、「日本人の鑑」として讃えられた。
・戦後は価値観の転換と歴史学における中世史の研究が進むといわゆる「悪党」としての性格が強調されるようになる。もっとも「悪党」という歴史学用語が一般に普及していないため、NHKのテレビ番組『堂々日本史』において「建武新政破れ、悪党楠木正成自刃す」というタイトルで1997年に番組が放送された際、湊川神社が抗議する事件が起きている。


■【戦後71年 楠木正成考<第1部>】多聞誕生(2)「公」を忘れた日本人へ 祖父の代、駿河から河内に
http://www.sankei.com/west/news/160430/wst1604300001-n1.html

 正成の父の名が特定できないのだ。『太平記』には、楠木氏は橘諸兄*8(もろえ)の後裔(こうえい)と書かれているが、それを証明する資料は他にない。正成の祖先は謎に満ちていると言っていい。
 「だから悪党という評価が広まっているが、正成の生涯は決して悪党のものではない。皇室を敬い、敵を無用に殺さないところに相当の教養を感じます」
 同神社の垣田宗彦宮司はそう話す。

 中世史用語としての「悪党」とは確か「鎌倉幕府支配下にない武士」程度の意味であって、決して「人間のくず」「外道」「鬼畜」「人非人」と言う意味ではないのですが『堂々日本史』(1997年放送)に「正成は悪党ではない、皇室を敬う立派な人間だ」と抗議した湊川神社関係者はそれが未だに理解できていないようです。「困った人たち」としか言いようがない。
 これが「悪党ではない、北条家の支配下にあった」というならまともな反論ですが。

 「最近の研究では、楠木氏の故郷は河内から遠く離れた駿河国静岡県)の入江荘楠木村にあったと考えられています」
 そう話すのは『楠木正成』(吉川弘文館)の著者で、独協大の新井孝重*9教授である。
 「ここと河内はともに北条得宗家(執権家)の支配下にあり、観心寺荘を領地化した際、楠木村の得宗被官だった楠木氏が、代官として入ったのではないでしょうか」

 これが事実なら「北条家の家臣=楠木氏」ですから「悪党ではないこと」になると思いますがこの点は小生全く無知なのでこれ以上はコメントしません。


■【産経抄鬼平なら身銭を切った 4月29日
http://www.sankei.com/column/news/160429/clm1604290003-n1.html
 小説での鬼平長谷川宣以)の行為を美談にするのは相当問題があると思うんですけどね。何故なら鬼平の行為は本来「江戸幕府から経費を支出されて当然」だからです。
 それはともかくブクマに書きましたが「石原が海外豪華出張してもろくに批判しなかった産経」が「舛添の海外豪華出張は問題だ」といっても説得力皆無です。産経がそんな事を問題にしてるんじゃないことはモロバレです。おそらく「韓国学校への都有地貸与」が気にくわないのでしょう。
 恐らく舛添氏が「石原の同類極右」なら必死に擁護してることでしょう。
 今後この件がどうなるか分かりませんが「石原*10の豪華出張が過去に事実上黙認された以上」、さすがに舛添氏*11も「今後は気をつける」とは言い、いわゆる豪華出張はなくなるとしても、「産経が希望する舛添辞任などなく」それで終わり*12となる可能性は否定できません*13。まあ、「共産党ならともかく」産経について言えば石原を擁護した自業自得ですね。

なお、

江戸町奉行というのは、今でいえば、東京都知事と警視総監、東京地裁所長を兼ねたようなポストだった。

という「裁判所判事と捜査官の兼務」は現代ではあり得ません*14が当時は「三権分立」という概念がありません(なお、首長業務と捜査官と裁判所の三職兼務は京都町奉行大阪町奉行など他の奉行も同じです)。
 それはともかく、都知事業務があるため町奉行所がなかなか犯罪者摘発まで手が回らないために「火付盗賊改役制度の誕生」ということでしょう。


参考

長谷川宣以(ウィキペ参照)
 安永3年(1774年)、31歳で江戸城西の丸御書院番士(将軍世子の警護役)に任ぜられたのを振り出しに、翌年には西の丸仮御進物番として老中・田沼意次へ届けられたいわゆる賄賂の係となり、天明4年(1784年)、39歳で西の丸御書院番御徒頭、天明6年(1786年)、41歳で御先手組弓頭に任ぜられ、順調に出世していった。火付盗賊改役に任ぜられたのは天明7年(1787年)9月9日、42歳の時である。
 寛政の改革で人足寄場(犯罪者の更生施設)の建設を立案し、石川島人足寄場の設立で功績を挙げた。しかし、この時上司である老中首座・松平定信に予算の増額を訴え出たが受け入れられず、やむなく宣以は幕府から預かった資金を銭相場に投じるという方法で資金を得る。このような手法はかつての田沼意次を思い起こさせるものであり、このため意次を毛嫌いしていた定信とは折り合いが悪かった。定信は自伝『宇下人言』において敢えて名を呼ばず「長谷川某」と記し、功績は認めたものの「山師などと言われ兎角の評判のある人物だ」と述べたほどであった。
 寛政7年(1795年)、8年間勤め上げた火付盗賊改役の御役御免を申し出て、認められた3ヵ月後に死去した。

*1:【追記】「これは外相として4年半ぶりの訪中という意味であって、外相会談自体はあったんじゃないんですかね。」という指摘を頂きました。愚かにも気付きませんでしたが多分そうでしょう。言い訳すればそれにしたって状況が異常であることに変わりはないでしょうが

*2:著書『ルポ・現代の被差別部落』(1988年、朝日文庫)、『忘れられない国会論戦:再軍備から公害問題まで』(1994年、中公新書)、『戦後保守のアジア観(新版)』(2006年、朝日選書)、『新聞記者:現代史を記録する』(2013年、ちくまプリマー新書)、『戦後70年・保守のアジア観』(2014年、朝日新聞出版)、『韓国知識人との対話1:日韓の未来をつくる』(2015年、慶応義塾大学出版会)など

*3:駐米大使、外相など歴任

*4:小渕、森内閣運輸相、小泉、福田、麻生内閣経産相を歴任

*5:コメ欄でご指摘頂きましたがこういう時に「新田義貞」など他の南朝の武将でない点、明らかに正成は特別扱いです。

*6:なお、そもそも相手を従わせるには「人徳か利益提供か暴力・圧力か」になるでしょうがこの種のウヨは人徳もなければ相手に利益提供などする意志もないけちなので「暴力・圧力」がよく発動されるわけです。

*7:禁門の変蛤御門の変)を起こすが敗れて自決した。享年52歳。

*8:大納言、右大臣、左大臣を歴任した奈良時代の政治家。

*9:著書『中世悪党の研究』(1990年、吉川弘文館)、『悪党の世紀』(1997年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『東大寺領黒田荘の研究』(2001年、校倉書房歴史科学叢書)、『黒田悪党たちの中世史』(2005年、NHKブックス)、『蒙古襲来』(2007年、吉川弘文館)、『楠木正成』(2011年、吉川弘文館)、『日本中世合戦史の研究』(2014年、東京堂出版

*10:福田内閣環境庁長官、竹下内閣運輸相、都知事、維新の会共同代表、次世代の党最高顧問などを歴任

*11:第一次安倍、福田、麻生内閣厚労相

*12:まあ減給ぐらいはあるかも知れません。

*13:正直、現時点では石原や猪瀬に比べたらずっとマシに見えるので「辞任する必要はない」とは言いませんが、一方で辞任論を声高に言う気は俺にはないですね。

*14:共産国の場合でも「完全な三権分立かどうか」はともかく少なくとも「裁判所判事と捜査官の兼務」はないでしょう。