新刊紹介:「前衛」8月号(その1:沖縄戦とダルトン・トランボ)

「前衛」8月号の全体の内容については以下のサイトを参照ください。興味のある内容だけ簡単に触れます。
http://www.jcp.or.jp/web_book/cat458/cat/
特集「ふたたび「戦争する国」にすすむのか」
■「沖縄戦と戦争孤児が問う「戦争」」(浅井春夫*1
(内容紹介)
 『沖縄戦と孤児院:戦場の子どもたち』(2016年、吉川弘文館)を出版した浅井氏へのインタビュー。
 氏は「戦争孤児問題」は「歴史学がまだ充分研究していない部分」として、本庄豊氏*2、平井美津子氏*3ら他の戦争孤児研究者とともにさらに研究を進展させたいとしている。

参考
【沖縄の戦争孤児】

http://www.min-iren.gr.jp/?p=23637
■民医連新聞『戦争反対 いのち守る現場から 立教大学 浅井春夫教授 孤児12万人生んだ先の大戦 二度とくり返さないために』
 医療・福祉の現場から「戦争反対」の声を発信するシリーズ。今回は初めて福祉分野からの発言です。立教大学で児童福祉を研究する浅井春夫教授に聞きました。戦争と福祉について考える書籍を最近出版しています。(田口大喜記者)
 私は以前、児童養護施設に勤めていました。児童養護施設は歴史をたどれば、戦災孤児や浮浪児を“収容”する施設につながっています。
 日本の社会福祉事業は、“戦争の後始末”を担ってきました。戦争で夫を亡くした女性と子どもたちのための母子寮、戦争で重傷を負った傷痍軍人のための身体障害者施設など、戦争犠牲者のためのケアと救済の制度として再出発をすることになりました。戦争と福祉は相反する関係です。「戦争に反対することは福祉分野にとっても第一の使命」だと言い続けなければならないと考えています。
 立教大学コミュニティ福祉学部の理念は「いのちの尊厳のために」です。平和であってこそ、いのちは守られます。戦争がひとたび始まれば、「殺し殺される事態」は必ず起こってしまいます。
 これまで広く使われてきた「戦災孤児」という用語には、どこか自然災害のように原因と責任が曖昧にされている問題があります。一方、「戦争孤児」は戦争政策の犠牲者であるという本質を表現する言葉です。
 一九四八年に行われた厚生省による全国一斉孤児調査では、孤児の数は一二万三五一一人とされています。しかし国は、この調査結果について当初は三〇〇〇人程度だと発表していました。戦後三年経過して全国一斉孤児調査を実施している点からみても、戦後行政は子どもの福祉に対して後ろ向きでした。
 戦後何十年と援助もなく、生きていかざるをえなかった戦争孤児たちの戦後史は苦難をきわめました。
 終戦直後、児童養護施設は八六施設にまで減少しており、施設に入れたのは孤児総数一二万人のうちわずか一割。国が施設を増設しなかったことで、ほとんどがホームレス=浮浪児となってしまったのです。
 東京でも上野の地下道は戦争孤児であふれ、大勢の孤児たちが餓死、凍死していました。生き残った孤児たちも地獄の生活でした。全国から上野の地下道や駅の構内に浮浪児が集まりました。新聞売り、靴磨き、盗み、ヤクザからの覚醒剤や密造酒の密売などで生活の糧を得ていました。生きるためには何でもやらなければならなかったのです。
 四年前、国内留学で沖縄国際大学に一年間研究員として在籍しました。住居は普天間基地の外縁フェンスからわずか一〇メートルほどの場所。飛行機やヘリの爆音と、禁止されているはずの夜間訓練も常に行われていて、沖縄の状況を身をもって知ることができました。
 戦争を経験した沖縄の高齢者は戦後七〇年となるいまも「足が焼け付くように痛い」などPTSDに悩まされています。
 そんな沖縄との関わりの中、「私にできることはないものか…」と考え、沖縄戦と孤児院の研究をはじめました。
 沖縄戦は日本軍が「軍官民共生共死ノ一体化」の方針を貫いたため、多くの住民が命を落とし、戦争孤児が大量に生まれました。戦争孤児を収容する孤児院は、第二次大戦後の処理的施策として沖縄で初めて開設されました。しかし、米軍の支配のもと、孤児院は邪魔者の隔離政策でしかなく、孤児たちは大切にされませんでした。
 沖縄では戦後、一三の孤児院が設置されましたが、田井等(たいら)孤児院、コザ孤児院でも相当数の子どもたちが衰弱死したと職員だった人の話から分かりました。
 戦争は戦中も戦後も、国の役に立たない人間を福祉の対象としなかったのです。
 二度と子どもたちに戦争を体験させてはいけません。そのことを言い続けなければならないと思っています。若い人たちにも、戦争によってこうした事実があったことを、受け継いでもらいたいと願います。

http://www.fben.jp/bookcolumn/2016/05/post_4690.html
弁護士会の読書『沖縄戦と孤児院』
 いい本です。戦争の悲惨さ、残酷さが、戦争孤児の実相を通じて明らかにされています。
 沖縄戦の前にサイパンでも大量の戦争孤児が生まれていたんですね。知りませんでした。
 沖縄出身の企業家(ボーガス注:松本忠徳)が孤児院の改善に全力でつとめたというのです。涙なしには読めない本でした。
 戦争は戦争孤児を生み、家族を失った孤老を巷に放り出し、夫を失った寡婦・母子世帯をつくり出し、戦争で傷ついた傷痍軍人を戦後の社会に残すことになる。戦争の体質は、誰も戦争で幸せになることはないということである。
 孤児院で暮らし、今も社会にいて働いている人は、「自分のそれまでの人生をコンクリートに固めて、海に捨てたかった」と言う。
 沖縄戦は、住民を巻き込んだ地上戦が3ヶ月も続いた。沖縄戦とは、県民の4分の1がなくなった戦争である。地域によっては、住民の死亡率が50%をこえるコミュニティもあり、一家全滅という家庭も多かった。
 沖縄戦で多発したのは、国家と軍隊に強制・誘導・教唆された集団死である。
 1945年3月26日にアメリカ軍が慶良間諸島へ侵入し、4月1日に沖縄本島に上陸した。6月23日に牛島満中将が自決して組織的な戦闘はほぼ終息し、7月2日にアメリカ軍は沖縄戦の終了を宣言した。それでも一部の日本軍守備隊が抵抗し、ようやく9月7日に降伏調印した。
 この沖縄戦で、日本人18万8136人が死亡(うち軍人は2万8千人で、一般人のほうが多くて9万4千人)、アメリカ人は1万2520人が死亡した。
 沖縄の収容所内に設置された孤児院における子どもの衰弱死は、組織的虐待としてのネグレクト死だった。死亡した子どもは栄養失調による。子どもは、逃亡しても、どこにも居場所がないことから、逃亡はほとんどなかった。むしろ、収容所は子どもの安全が保障された場所だった。
 サイパン島には、戦前から多くの日本人が住んでいて、アメリカ軍が上陸したとき、日本人2万人がいた。そして、サイパン戦で死亡した日本人(軍民)は、3万3千人で、生きて捕虜となった日本人は1万7千人いた。ただし、サイパンの日本軍兵士の生存する率は3.7%でしかなかった。
 サイパン孤児院が新設され、松本忠徳が院長となると、悲惨な状況が一変した。栄養剤、食料、衣類が優先的に配給されるようになり、ミルクも配給された。医師も訪問するようになった。松本忠徳は、その後、沖縄に戻り、座間味村長に就任している。
 サイパンで孤児院にいれられていた娘が、沖縄に戻ってから両親と再会できた状況が紹介されています。
 親は「あなたを捨てたんじゃない、戦争だったんだ。親を恨んではいけない。戦争を恨みなさい」と言った。娘は親に言った。「赤ちゃんのように、抱いてほしい。赤ちゃんと思って自分を抱いて。赤ちゃんのときに別れわかれになったんだから、赤ちゃんのように抱いて・・・」
 これって、本当に泣けてきますよね・・・。
 サイパン島では、日本の民間人2万人のうち1万2千人がアメリカ軍によって収容され、生き残った。日本軍は2万3811人が戦死し、921人が捕虜となった。
 そして、沖縄の孤児院には、日本軍から解放された「慰安婦」の女性たちが生活の場としてたどり着いた先のひとつになっていた。戦前(戦中)、沖縄には131カ所の「慰安所」があった。その慰安所から「解放」された朝鮮人女性が孤児院や養老院に入って、生き延びるための施設としていた。
 そういうこともあったのですね・・・。戦争の現実を知らされる本です。貴重な資料が発掘されています。大切にしたい本です。

http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2016060500011.html
朝日新聞『(書評)『沖縄戦と孤児院 戦場の子どもたち』 浅井春夫〈著〉』(評者:保阪正康*4
 戦争孤児の実態について、とくに沖縄戦における内実はほとんど検証されていない。著者はその空白の領域に挑んだ。
 もともと沖縄には孤児院や養老院は存在していなかった。共同体での扶助の精神があったからだろう。それが戦争によって崩壊していく。沖縄本島への米軍上陸(4月1日)と同時につくられた収容所、そこには孤児だけの施設もできる。本書によると13カ所が確認されている。瓦ぶきの立派な建物を利用したコザ孤児院では、沖縄戦終結後に600人余の孤児が収容されていたとの説もある。
 こうした施設では、米軍将兵の協力、日本人院長、教育者や慰安婦たちの孤児を見つめる目が支えだった。しかし両親を失った孤児たちが残飯をあさり、収容所に入っても多くの差別を受けた話など「戦争被害」の裾野の広さに愕然(がくぜん)とする。沖縄の孤児院研究のために「歴史の事実を銘記し共有」すべきだとの提言に納得する。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik16/2016-07-02/2016070214_01_1.html
赤旗沖縄戦体験者と志位委員長が懇談、野党共闘「すごく期待」、身元不明孤児問題いまも』
 具志堅隆松さん(62)は、米軍収容所で孤児になりながら、自分の名前もわからないまま戦後71年を過ごしてきた身元不明孤児の問題を紹介し、「戦争責任として国に対応してほしい」と訴えました。
 志位氏は「身元不明孤児の問題は党としてもしっかり受け止め、政府に対策を求めていきたい」と約束しました。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201606/CK2016061902000120.html
東京新聞沖縄戦収容所 消えぬ記憶 孤児たち次々衰弱死』
 沖縄戦では、米軍保護下にあった民間人収容所でも多くの死者を出した。特に犠牲が大きかったのは、米軍の攻撃からの逃避行中に親と死に別れ、戦争孤児となった幼子たちだった。収容所に送られた体験者は「衰弱して死んでいった子どもたちの姿が忘れられない」と語る。
 七十一年前の七月、当時二十歳だった本村つるさん(91)=那覇市=は、胡差(こざ)(現沖縄県沖縄市)にあった収容所にいた。その一角にあった孤児院の中の光景が、今も脳裏に浮かぶ。
 「瓦ぶきの民家と農作物の倉庫などを改造した孤児院の中は、ベニヤ板に仕切られた狭い部屋がいくつもあり、孤児たちが床に寝かされていました」
 陸軍病院の看護要員として学徒動員された本村さんは、その十日ほど前、教師や他の女学生とともに米兵に捕らえられた。別の民間人収容所で看護師として一週間ほど働いた後、二十人ほどの戦争孤児たちとともに、トラックで胡差まで運ばれた。
 当時、米軍は各地の民間人収容所内に計十三カ所の孤児院を設置し、親を失った子どもを収容していた。胡差の孤児院も、その一つだった。
 本村さんは「子どもたちは下痢が続いている状態で、汚れた部屋を水で流すのが最初の仕事でした」と振り返る。
 胡差の収容所では、五百四十人の収容者が死亡したが、そのうちの四割近い二百八人は孤児だった。
 その胡差の孤児院にいたのが、当時八歳だった神谷洋子さん(79)=同県うるま市。家族との逃避行の途中、潜んでいた壕(ごう)の入り口付近に爆弾が落ち、母と弟を失った。戦場をさまよう中、米兵に保護されトラックで孤児院に送られてきた。
 「仏壇の前の狭いスペースに、十歳未満の孤児五〜六人と一緒だったのを覚えている。首から下げたおわんにおかゆやミルクを出されたが、みんな衰弱していた」と神谷さんは当時の記憶をたどった。
 本村さんは一九四六年一月まで、孤児院内に開設された小学校の教師も務めた。
 「戦争さえなければ、あの子たちは親元で育てられていたはずなのに…。今でも悔しい思いでいっぱいです」 (編集委員・吉原康和)

http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=115492
沖縄タイムス沖縄戦 7歳一人ぼっち 戦災孤児の戦後70年』
 今から70年前に、沖縄戦がありました。沖縄戦で家族を亡くして、孤児になった人は数千人もいると言われています。激しい地上戦によって、人も家も物も焼けて失われました。孤児たちは戦争中だけでなく、戦争が終わってからもたくさんの苦労をしてきました。その一人、石原絹子さん(77)=那覇市=に体験を聞きました。

http://www.yomiuri.co.jp/local/okinawa/feature/CO008511/20140624-OYTAT50068.html
■読売新聞・沖縄版『わらばーの沖縄戦<下>:母失い孤児院転々』
 沖縄戦戦没者の冥福を祈る「慰霊の日」の23日、那覇市の嘉陽宗伸さん(76)は、自宅の仏壇前で静かに手を合わせた。
 父は南方戦線で戦死、沖縄に残された母と祖父も、戦闘に巻き込まれて命を落とした。69年前、突然ひとりぼっちになった嘉陽さん。「子供時代の楽しい思い出は何一つない」と、孤児として生きた人生を振り返った。
(中略)
 戦場を一人さまよい、夜は壕ごうや林の中で寝泊まりし、泥水をすすって渇きを癒やした。ある日、トラックから降りてきた若い米兵に、荷台へと運び上げられた。着いた先が、米軍が民家を接収してつくった「コザ*5孤児院」(沖縄県沖縄市)だった。
 「ただただ、ひもじかった」。
 そこでの暮らしに話が及ぶと、嘉陽さんは口数が少なくなる。
(中略)
 嘉陽さんは県内の孤児院を転々とした。胸の奥にはいつも、「強く生きなければ」という思いがあった。新聞配達などをしながら大学まで卒業し、地元の新聞社に就職。仕事に打ち込み、子会社の役員を最後に65歳で退職した。
(中略)
 3年前から毎年、コザ孤児院の出身者たちと集い、亡くなった仲間の慰霊祭をしている。孤児院だった民家は、居住する久場良行さん(75)の理解を得て当時のまま残されることになっている。嘉陽さんは訴える。
「戦争で犠牲になるのはいつも子供たち。大切なものを奪われた私のような思いは、二度とさせてはならない」
(この連載は藤井慎也、坂田元司が担当しました)
沖縄県全体で1000人以上収容
 沖縄戦に伴う孤児院について研究している立教大の浅井春夫教授によると、終戦直後には、沖縄県内に少なくとも13か所あり、コザ孤児院は最大の施設だった。県内全体で1000人以上が入っていたとみられるが、名簿類が残っておらず、詳細は今も不明という。

http://www.qab.co.jp/news/2015061667140.html
琉球朝日放送『戦後70年 遠ざかる(ボーガス注:戦争の)記憶、近づく(ボーガス注:戦争の?)足音:戦争孤児となった女性の訴え』
 沖縄戦の被害者や遺族たちが国に謝罪と損害賠償を求めている裁判があります。その原告にアメリカから参加した女性がいました。彼女が子どもたちにも話せなかった壮絶な戦争体験、家族の沖縄の旅に密着しました。
・新垣勝江ガーナーさん
「私にとって、70年とは思えない、身近です、今も…私にあの戦争はくっついています。」
 70年前の戦争の記憶を話すのはアメリカ・ジョージア州に住む新垣勝江ガーナーさん。彼女には壮絶な戦中、戦後の体験があります。
・新垣勝江ガーナーさん
「自分1人、みんな亡くなりましたね。自分1人になった。孤児ね。」
 沖縄戦で両親を失い、7歳で戦争孤児となったガーナーさん。戦後は祖父母に育てられましたが貧困と苦労の連続でした。高校卒業後はアメリカ軍基地で働き、そこで知り合ったアメリカ軍人と結婚し、渡米します。ところが、ベトナム戦争に従軍していた夫は、戦地から帰ってきた後、戦争のトラウマから自ら命を絶ってしまいました。ガーナーさんは沖縄戦、そしてベトナム戦争と言う2つの戦争に翻弄されました。
・新垣勝江ガーナーさん
「人間として生まれて、人間じゃないような死に方して、人間として生まれて、人間じゃないような生き方をした。」
 先月23日、法廷に立つために沖縄を訪れたガーナーさん、今回は長女のポーラさんと孫のジョナサンくんと一緒に里帰りしました。
・新垣勝江ガーナーさん
「(沖縄戦で)心に深い傷を負って、精神的にも深い傷を負っていました。子どもを傷つけたりしないようにね、そのために話さなかった。」
 ガーナーさんは壮絶な体験を聞いた子どもたちがショックを受けるのではと心配し長い間、家族に戦争のことを話せずにいました。しかし戦後70年という月日のなかで、自身の体験を次の世代に伝えなければならないと思うようになりました。
・ポーラさん
「母はいつも心の中に、戦争の痛みを抱えて生きてきました。沖縄に帰るのもとても勇気がいることだと思います。辛い思いがあふれ出てしまうから。私たちは母の裁判を応援しています。」
 ガーナーさんが原告として加わっている「沖縄戦訴訟」には沖縄戦の被害者や遺族など79人が原告に加わっています。ガーナーさんはこの訴訟をインターネットで知り原告に加わることを決めました。
・瑞慶山茂弁護団
「国外に住んでいる沖縄戦の被害者が原告に加わったというのは、国際的にみても、この運動が広がっているという点があるんですね。そういう意味では、沖縄の原告に対する励みにもなっているんですね。」
 先月27日の裁判で証言台に立ったガーナーさん、娘と孫の2人が見守るなか、壮絶な沖縄戦の体験を語りました。
「おばさんが艦砲射撃で首を飛ばされました。私を大切にしてくれたおばさんでとっても悲しかったです。母とはぐれた時のことなど戦争での出来事を毎日思い出します。」
・ポーラさん
「戦争の体験者は戦争のトラウマ体験や悲しい記憶と生きてきたからこそ、平和の希望を見つけられるのだと思う」
・新垣勝江ガーナーさん
「私はものすごく惨めな、悲惨な目に遭いました。国に謝罪してほしいです。そして償いをしてほしいです。」
 これまで語れなかった沖縄戦の体験。彼女を決意させ、口を開かせたのは、子どもたちに戦争の悲惨さを伝えたい、平和な世界を築いてほしいと願う母、祖母としての強い思いでした。

http://www.qab.co.jp/news/2015081169434.html
琉球朝日放送『戦後70年 (ボーガス注:戦争の)記憶、近づく(ボーガス注:戦争の?)足音:沖縄戦で孤児になった女性』
 さて、この3000という数字。何を意味していると思いますか?。この数字は、沖縄戦で、沖縄本島で戦争孤児になった18歳未満の人の数です。ただこれは戦後8年たった時の調査ですので、終戦直後はもっと数多くの孤児が生まれたと推定されています。今回、この中の一人、沖縄戦で母と弟を失い、わずか7歳で孤児になったある女性を追いました。
・神谷洋子さん
「母ちゃんと一緒に逃げるんだよと言われて、手をひかれて。あの優しさ、本当の母のぬくもりっていったらこれだけですね。」
 沖縄戦の最中に感じた、母のぬくもりについて語るのは、神谷洋子さん(78)。神谷さんは、母と弟と南部に逃げようとした途中、休もうとした壕に、艦砲弾が落ち2人を目の前で亡くしました。
(中略)
 わずか7歳で孤児になった神谷さん。戦場でひとり、どこに逃げていいのか、何を食べたらいいのか逃げ惑っていました。そして、久しぶりに貰ったカンパンを、味方だと思っていた日本兵に奪われました。
・神谷さん
「(日本軍に)お前が食べたら国のためにならんから、俺が食べたら国のために戦っているから、この食べ物よこしなさいって奪われたんですけどね。私のものですって泣いてすがるんですけど、革靴でけられてね。」
 誰ひとり助けてくれない戦場。艦砲も人間も全てが怖かったと言います。
・神谷さん
「お母さんがいないから、泣きませんから助けてっていっても、絶対誰も助けてくれない。こっちいらっしゃいという人は一人もいませんでしたね。」
 来る日も来る日も1人で逃げ続けたある日。壕の前に座り込んでいた神谷さんの前に現れたアメリカ兵がトラックに乗せ、連れて行ったのがコザ孤児院でした。当時、県内には孤児院が13ヵ所あったとされ、中でもコザ孤児院は最も大きかったといわれています。
・神谷さん
「70年前とそのまま。(Q:全部そのまま残っているんですか?)そのままですね。思い出しますよ。泣いても泣いても母はいないし、もうあの苦しみは大変ですよ。」
 孤児院でもさらに苦しみは続いたと話す神谷さん。当時17歳で、コザ孤児院の先生となった、元ひめゆり学徒の津波古ヒサさんは当時の状況をこう話します。
津波古ヒサさん
「寝る間際になるとみんな西の空にむかって、母ちゃんよーして泣いて、わずか2、3歳の子が一番大事な人を失ってそれも分からないで、いつかくるんだ、いつか(両親が)迎えにくるんだという希望をもってただいるっていうこと。それ考えたらかわいそうで、すぐ抱きしめてあげた。」
 親を呼んで泣く声がやまず、毎日何人もの子どもたちが栄養失調やけがで亡くなっていったといいます。
・神谷さん
「子どもたちが亡くなってかたまって、外に出されるのをみて、自分もあんな風になるのかなと思った。あの辛さ、怖さ、あの恐怖感。あれは忘れることはできません。」
 神谷さんは、戦後、子ども6人、孫13人に恵まれ、長女のたえこさんと鮮魚店を営んでいます。そして、時には、依頼を受け、修学旅行生などに戦争の残酷さや平和の大切さを伝えています。
・神谷さん
「お父さんお母さんの事守ってね。大事にしなさいねというのは自分ができなことだから言うんですよ。私みたいな苦しみが起こったら大変なことになりますから。戦争を起こしてはいけないんですよ、絶対に。平和でなければ。」
 神谷さんに取材して、一番犠牲になるのは弱い立場のこどもたちだと、何度も何度もおっしゃっていたのが印象的でした。
 つらい過去を語るだけでも苦しくなると思うけど、話してくださるのは、同じ体験を子供たちにさせたくないという一心で語ってくださるんですよね。私たちもこの思いを受け継いでいかなければなりません。

http://ironna.jp/article/2585?p=1
■月刊ウィル『沖縄戦は終わっていない』佐野眞一*6(ノンフィクション作家)
 戦後七十年の日本人というと思い出す女性が二人いる。
 いずれもウチナーンチュ(沖縄人)で、一人は沖縄戦の孤児で現在七十五歳を超えている。
 もう一人は津波古ヒサさんといい、沖縄戦の最後を戦った“ひめゆり部隊”の生き残りである。昭和二年生まれだから今年九十歳近い。
 二人の今日までの来歴は、戦後七十年の日本人そのものである。
(中略)
 津波古さんが摩文仁海岸を逃げ回って捕虜になり、百名(現南城市)の病院勤務を経て、コザ(現沖縄市)孤児院で約百名の子どもたちの世話をすることになったのは、昭和二十年六月末のことだった。
 彼女は手記で、そのときの様子を次のように述べている。
〈到着したのは、焼け残った瓦葺の大きな家で、孤児たちが大勢収容されていました。私たちは、ここで乳幼児の世話をすることになりました。子どもたちは、栄養失調で精気もなく泣いていました。私たちにこの子たちの面倒が見られるのか、一緒に泣き出すのではないかと不安でした〉
 津波古さんがコザ孤児院に赴任したのは、僅か十七歳のときである。大勢の栄養失調の孤児たちを前にして、泣き出したくなる気持ちがよくわかる。
 南風原市の沖縄県公文書館に、コザ孤児院の子どもたちを目隠し鬼ごっこして無邪気に遊ばせる津波古さんの写真が所蔵されている。お下げ髪で手を叩く津波古さんは先生というより、ちょっと年上のお姉さんである。その幼い姿が戦争の痛ましさを無言で語って胸を衝く。
・コザ孤児院では、毎日のように子どもが亡くなったようですね。
「そうですね。小さい子、二、三歳の子は、今日来たかと思ったら翌日にはもう亡くなっていました。もう埋めるところがなくて、弾が落ちた跡の大きな穴に、そのまま埋葬もしないでなかに落としていました」
・死因は何が多かったんですか?
「栄養失調だったと思います」
・寝るときは子どもたちと一緒ですか?
「はい、ずっと一緒でした。子どもたちは夜になると泣いて。わあわあ泣くんだったらまだいいんですけど、しくしく泣くんです」
・それは辛いですね。
「だから、とにかくぐっすり寝かせることを考えて、昼間は鬼ごっこで駆け回らせたりして疲れさせるんですけど、やっぱり熟睡はしないですね」
・いくら昼間、疲れても?
「夕方になると、小さな子が『おっかあ、おっかあ』と言って泣くんです。あのときは、私も泣きたくなるくらいでした」
 津波古さんに特になついた子は、名前はわからなかったが、地名のコザから“コザヨシコ”と名付けられた。
 二〇一〇年六月、コザ孤児院で“同窓会”が開催された。この模様は、NHKのドキュメンタリーでも放映された。
 この番組の白眉は、同窓会に参加した六十八歳の“コザヨシコ”さんが、頭を包帯でぐるぐる巻きにされた少女の写真を見て「これは私かもしれない」と叫ぶ場面である。
・彼女とはNHKの番組で六十数年ぶりに再会したわけですが、津波古先生が大きくなった“コザヨシコ”さんを抱きかかえて、「これからは私をお母さんと思ってね」と言ってネックレスを渡すシーンは本当に感動しました。あれ以来、彼女から連絡はないのですか。
「ありません」
・それはなぜなんですか。
「いつでも訪ねてきてねって言って、手紙を出そうとしたんですが、住所も言えないんです。学校にも行けず、字もまったく読めないから……」
 衝撃的な話だった。沖縄戦で孤児になった少女は孫を持つ身になっても、自分の本当の名を知らないばかりか、読み書きもできない。
 戦争はそれほど不幸な人間を生み出す。
 戦後七十年、沖縄戦はいまだ終わっていない。

【沖縄以外の戦争孤児】

http://www.yamashita-yoshiki.jp/archive/column/1134221396.html
■山下よしき*7サイト『海老名香葉子さんの講演に泣きました』
 海老名香葉子さんをご存知でしょうか?。そうです。エッセイストであり、故・林家三平師匠の夫人、9代目・林家正蔵師匠(林家こぶ平さん)の母でもある、あの海老名香葉子さんです。
(中略)
 東京に戦火が迫るなか、海老名さんは学童疎開でおじさんの住む静岡県沼津に行くことになります。
(中略)
 終戦の年の3月10日夕暮、疎開先の沼津からも東京の空が真っ赤になっているのが見えました。東京大空襲です。海老名さんは、赤い空を見ながら家族のことを案じ祈ります。
「どうか神様、家族を守ってください。もう髪の毛をなめる悪い癖は直します。勉強も一所懸命します。だから助けてください…」
 しかし海老名さんの願いは届きませんでした。次兄以外の家族は炎に囲まれてみんな亡くなります。数日後、突然訪ねてきた次兄からそのことを聞き、二人で抱き合って泣きました。次兄は、おじの家に二人も世話になるのは申し訳ないと、当てのない東京に戻ります。そこから、戦災孤児となった海老名さんのつらい時代が始まるのです。
 おじさん、おばさん宅にも居ることができなくなり、遠い親戚、知人の家を3日、10日と転々とする日々。きょうはどこで寝ようか、明日は何を食べようかと、毎日毎日そればかり心配して暮らしていました。学校に行きたいと、住み込みの子守をしますが、夜明け前から3人の幼子の面倒を見るだけで精一杯。やはり学校に行くことはできませんでした。
 「ああ、なんでこんなことになっちゃったんだろう…」。
 悲しくて、寂しくて、生きていくのが嫌になったとき、海老名さんの心の中にはお母さんの声が聞こえたそうです。
 「かよちゃん、がんばるんだよ」。
 そして海老名さんは空に向かって三度叫んだそうです。
「おとーちゃーん、おとーちゃーん、おとーちゃーん」。
 すると心が落ち着いて、よしがんばらなくっちゃと思えたんだそうです。
 そんな焼け野が原となった東京で必死で生きていた少女の海老名さんを、先代の三遊亭金馬師匠が「お姉ちゃん、いい子だね。うちの子におなりよ」と引き取って育ててくれることに。その夜、あたたかいお布団に入った海老名さんは、「やっと安心して寝られる。これで生きていける」と思ったそうです。

三遊亭金馬(三代目:ウィキペ参照)
 趣味は釣りで、『江戸前つり師:釣ってから食べるまで』(1988年、徳間文庫)、『江戸前の釣り』(復刻版、2013年、中公文庫)という釣りに関する著書もある。
 お気に入りの釣竿(和竿)があり、それを作る職人(江戸竿師)「竿忠」の娘が海老名香葉子であり、幼いころから家族ぐるみの交流があった。香葉子は、東京大空襲で一夜にして父を含む家族のほぼ全員(兄の中根喜三郎はただ一人空襲を生き延びている)を失い、みなし子となった。竿忠の安否を気遣って焼け跡に探しに行った金馬は、生き残った香葉子を見つけ、「ウチの子におなりよ」と声をかけ、連れ帰った。
 こうして香葉子は金馬の事実上の養女として育ててもらった。金馬は東宝名人会の専属であり、東宝名人会の同僚に7代目林家正蔵*8がいたが、その7代目正蔵の子は、のちに「爆笑王」として人気を馳せる初代林家三平であった。このような縁もあり、香葉子と初代三平が結ばれることになった。

http://www.sankei.com/life/news/141005/lif1410050006-n1.html
■産経【書評】『浮浪児 1945−戦争が生んだ子供たち』石井光太
〈現在の私には死よりほか、苦しみを救つてくれるものはございません。(中略)いまの私には、死はただ一ツの人間らしい道を歩んだということのできる方法です〉
 自死した15歳の少年のそんな遺書から始まる。本書は、先の戦争で家族を失い、上野を中心に「浮浪児」となった子供たちの実態を、残された資料と当人たちの証言から追いかけた力作だ。
 私はかろうじて町で「傷痍(しょうい)軍人」を見かけた世代だが、路上をさまよう浮浪児の存在は、野坂昭如火垂るの墓』や木内昇『笑い三年、泣き三月。』などで読んだにすぎなかった。戦災孤児が約12万人いて、1948(昭和23)年版『朝日年鑑』によると浮浪児数は推定3万5千人にのぼったそうだ。
 上野駅の通路を住処(すみか)にした彼らは、野良犬と一緒にゴミを漁(あさ)り、犬や虫を貪(むさぼ)り、闇市で食べ物を盗んで食いつないだ。警察の「狩り込み」によって収容された施設で、いわれなき体罰を受けるなどして脱走。路上に舞い戻り、愚連隊(ぐれんたい)になるより他に道がない者も多かったと本書でリアルに知り、彼らこそ戦争の一番の被害者だった、戦後の重要な裏面史だと強く思った。
 おにぎり一つのために体を売る女の子。寝床を「ヌマカン(沼津旅館)」に求める−沼津行きの最終列車に無銭乗車し、朝に戻って来る子。ホステスの家に身を寄せるが、夜な夜な「下半身を舐(な)める」ことを強いられる男の子。精神を病んで、犬の糞(ふん)を口に入れて亡くなる子。100人近くに取材した著者は、その壮絶さを淡々とした筆致で描く。
 浮浪児たちに温かい手をさしのべた人が登場し、救われた気分になった。終戦翌年の1月に中野区の母娘が自宅を開放した「愛児の家」。上野で見つけた浮浪児たちを連れ帰り、衣食住を提供し、就学や就労をさせたのだ。しかし、そこに暮らした後、立派に社会に出た79歳の男性が、施設で育ったことは話せても、浮浪児だったことは妻にすら話せないというのが重い。
 戦後69年、浮浪児だった人たちが話せるぎりぎりのタイミングでよくぞ出た。日本史の副読本になるべき一冊だ。(新潮社・1500円+税)
評・井上理津子*9フリーライター

http://www.asahi.com/articles/ASHCG61QWHCGPLZB00N.html
朝日新聞(京都)戦争孤児、過酷な体験談 ガード下転々、仲間自殺
 70年前、戦争で親を亡くし、駅などをねぐらに厳しい時代を生きぬいた戦争孤児の証言を聞く会が14日、下京区真宗仏光寺派、大善院であり、約120人が体験談に耳を傾けた。家族にも伏せてきたつらい日々を語る決心をしたのは、戦争孤児を二度とつくってはならないという強い思いからだという。

http://kageshobo.co.jp/main/syohyou/tokyodaikusyu.htm
金田茉莉『東京大空襲と戦争孤児:隠蔽された真実を追って』
◆『東京新聞』 2002年12月28日より
 1945年3月10日朝。学童疎開から戻ると、焼き尽くされた東京が眼前に広がっていた。ごちそうをつくって待っていたはずの母と姉は遺体で見つかり、妹は行方不明に。
「一人で生き残ってしまったの」。
 9歳だった。
 10万人が一夜で死亡したといわれる空襲と残された子どもらの悲劇を詳細に調べた「東京大空襲と戦争孤児」をこのほど出版。史上最大規模の空襲でありながら追跡調査がなかった。遺体の多くが軍に焼却・埋葬されて家族の確認ができず、死者が失踪扱いになるなど実態は不明のまま。空襲による戦災者には補償もない。
 「被害は隠蔽された。疎開中の子が孤児になるケースが多かった。国策だった戦争と学童疎開だが、日本の行政は何の救済措置も取らず、困窮した親戚へ孤児を押し付けた」
 自らも親戚を転々とし苦労を重ねた。
「孤児は結婚、就職にも差別が付きまとった。好きで孤児になったわけではないのに」
 本は資料や孤児関係の本を探し歩き、手紙や交流を重ねた孤児からの聞き取りでまとめた。重い口を開く人もいたが「まだ話ができない」と号泣する人も。多くの元孤児が心に傷を抱え何も語らず老いていく。
 「私はまだ恵まれている。『がけっぷち』を渡りきれなかった孤児も多い」。
 餓死、自殺。精神を病んだ孤児もいる。
「報われずに死んでいった人たちにせめて光を当てなくては。同じ立場の子を出さないように」。
 埼玉県蕨市の自宅に夫と長男の三人暮らし。67歳。

http://www.fben.jp/bookcolumn/2016/05/post_4695.html
弁護士会の読書『戦争孤児』
 終戦(敗戦)直後、雨や夜露をしのぐため、孤児たちは京都駅構内で寝た。京都では、彼らを「駅の子」と呼ぶ人もいた。大阪の人々は、彼らに「駅前小僧」という名前をつけた。
 厚生省が1948年2月に実施した全国孤児一斉調査によると、沖縄県を除いて、全国に12万3512人の孤児がいて、その1割の1万2202人が孤児院に入っていた。
 日本占領から2年たった1947年、マッカーサー司令官は、アメリカのカトリック神父、エドワード・ジョゼフ・フラナガンを来日させ、助言を求めた。
 1947年4月、フラナガン神父は来日し、戦争孤児救援のための共同募金「赤い羽根」を提唱し、全国の孤児施設をまわった。
 戦時中の空襲直後に発生したのが戦争孤児であり、片隅に隠れていた孤児たちの姿が誰の目にもふれるようになったのが敗戦後だった。
 駅の捨て子だから、「江木捨彦」(えぎすてひこ)と命名された小さな男の子がいた。
 戦争孤児施設は、現在は、そのほとんどが児童養護施設になっている。DVなどのため、親と一緒に暮らせない子どもたちが生活する場である。
「戦争は弱い立場の子供やお年寄りが必ず辛い思いをする。どうか戦争反対と叫んでください」
 戦争孤児として、姉と二人で「駅の子」として暮らした体験をもつ人が中学生に向かって、このように訴えました。
 戦争に備えると称して、戦争を招いている人たちがいます。そして、美名のかげで金儲けを企んでいるのが軍事産業です。
 曇らぬ目で、真実を見抜き、平和の声をあげたいものです。

http://www.nhk.or.jp/ohayou/digest/2015/08/0815.html
NHK『“駅の子”の経験を 子どもたちへ』
近田
「シリーズでお伝えしている『戦後70年 あすへ、語り継ぐ』。 今日(15日)は、終戦の日
70年前の昭和20年8月15日、戦争がようやく終わりました。」
上條
「しかし、この日から本当の戦いが始まったという子どもたちがいます。 『戦争孤児』です。」
 太平洋戦争末期、空襲などによって親を亡くした「戦争孤児」。
 全国で12万人以上いたとされています。
 戦後、孤児の中には駅で暮らす子どもたちもいて、“駅の子”と呼ばれることもありました。
近田
「飢えに苦しみ、生きるために物乞いや靴磨き、時には盗みをすることもあったという“駅の子”たち。つらい記憶を思い出したくないと、孤児の多くはその経験を語ってきませんでした。」
上條
「しかし今、“駅の子”たちの経験を掘り起こし、戦争を知らない世代に伝えていこうという動きが始まっています。」
 京都府内にある中学校の授業です。
 駅で暮らしたかつての戦争孤児が、70年前の経験を初めて子どもたちに語りました。
奥出廣司さん(76)
「他の人が死んでいくのを見たら、それは怖い。あすはわが身かなと思う。あした自分が死ぬのではないか、そういう不安、恐怖を感じた。」
 この授業を企画した本庄豊(ほんじょう・ゆたか)さん。
 近現代史を教えています。
 本庄さんが戦争孤児に関心を持つようになったのは3年前。
 京都駅前にたたずむ、戦争孤児とされる少年の写真を見つけたのがきっかけでした。
 終戦後、頼る人もなく、駅でぎりぎりの生活を強いられた孤児たち。
 その経験を掘り起こし、若い世代に伝えていく必要があると考えるようになりました。
立命館宇治中学校 本庄豊さん
「戦争が終わるといったときに、当時の人々も解放感を持っただろう。そのことを教えることが中心になってきた。 戦争を引きずりながら生きた人たちの戦後史があったわけで、それを私たちは教えてこなかった。」
 本庄さんは、孤児を探し出そうとしました。
 そこで出会ったのが、京都駅で暮らしていたという奥出廣司(おくで・ひろし)さんでした。
 幼いころ母を亡くした奥出さん。
 戦後の混乱で家を失い、父親と京都駅に身を寄せます。
 しかし、父親は腸チフスにかかり、薬が不足する中、十分な手当を受けられず亡くなりました。
 孤児となったのは6歳のとき。
 駅で物乞いや靴磨きをしながら、飢えをしのいだ奥出さん。
 駅には同じような子どもがたくさんいました。
奥出廣司さん(76)
「あったかいごはんを食べたい、畳の上で寝てみたい、布団の上で寝てみたい、そういうことばかり思っていた。」
 その後、民間の施設に保護され、駅での暮らしからは解放されました。
 しかし寂しさは消えず、両親の面影を求めて何度も施設を抜け出したといいます。
奥出廣司さん(76)
「一般家庭の子どもと遊んでいて、夕方6時ごろになると“誰々ちゃん、ごはんよ”とお母さんが呼びに来る。最後にぽつんと僕が一人残される。西の空を見たらなんとも言えない紅色で、そのときに寂しさがどっとこみ上げてくる。」
(中略)
 苦しかった戦争孤児の体験を、若い世代に伝えて欲しいと考えてきた本庄さん。
 奥出さんはこれまでその依頼を断ってきましたが、最近になって考えが変わりました。
奥出廣司さん(76)
「今、日本が戦争に巻き込まれるとか巻き込まれないという話が出ているので、今の若者に、戦争とはどういうものか、どういう結果になるか知ってもらいたい。人間同士のけんかと違うから。知ってもらいたいし、語っておいたほうがいいんじゃないかと。」
 そして迎えた授業の日。
 奥出さんは、京都駅での暮らしについて初めて子どもたちに話しました。
生徒
「毎日どんな食べ物をもらいましたか?」
奥出廣司さん(76)
「例えば1日に1回だけサツマイモ、生のまま。それを京都駅のトイレに行って、さっと洗って、丸かじり。あったかいごはんなんて到底無理。」
「京都駅でいちばんつらかったこと、僕の父が僕のそばで死んだこと。死んだといっても完全にまだ死んでなかった。まだ虫の息だったと思うが、死んだとみなされて、職員が担架にのせて連れて行く。
この教室よりもっと広いところに人間の死体を山のように積んでいる。そこにポイとほかされて、そのときがいちばんつらかった。」
 そして、多くの孤児を生み出す戦争の悲惨さを訴えました。
奥出廣司さん(76)
「結局、戦争をしたら絶対いいことは残らない。僕らみたいな惨めなもの(を生み出す)。僕は戦争の経験はないけれど、戦争の被害者。だから戦争は絶対にしてほしくない。」
生徒
「今の京都駅からは想像できない、戦争の痛手みたいなものを感じた。」
生徒
「自分には関係ないと思っていたが、授業を通してすごく関心が増えた。」
 語られてこなかった“駅の子”の記憶。
 今、若い世代に引き継がれようとしています。
近田
「戦後70年、戦争孤児も70代から80代となっています。」

上條
「本庄さんは、終戦後も過酷な日々を送った孤児の存在を忘れてはならないと、1人でも多くの孤児に聞き取りを行い、本にまとめていきたいと考えています。」

http://www.asahi.com/articles/ASH7R6JY2H7RULZU00M.html
朝日新聞『心押し殺し、親戚宅で生きた 戦争孤児の70年』
 学童疎開中に親を奪われ、親戚に引き取られていった戦争孤児たち。極端な食糧難のなかで、多くの子が心を押し殺して生きていかなければならなかった。
 草野和子さん(80)=東京都八王子市=は、1945年3月10日の東京大空襲で39歳だった父と母を奪われた。当時9歳。6歳の弟と、茨城県の親戚を頼って疎開中だった。
(中略)
 弟と草野さんは、同じく孤児となったいとこと3人で東京の親戚宅に引き取られた。暮らしは厳しく、質屋通いで賄っていた。学校で「くさくなっているから体をふきなさいね」と先生に言われても、お風呂に行くお金をください、と言い出せなかった。銭湯代や学用品代は商店街の掃除や子守などをして稼いだ。
 ある日、親戚が「泥棒猫が3匹もいて困っている」と話すのを耳にした。「生きていたくない」と思い、踏切の線路に立った。子守でおぶっていた親戚の赤ちゃんが泣き出し、「弟を残して死ぬわけにいかない」と我に返った。

http://www.sankei.com/life/news/150307/lif1503070010-n1.html
産経新聞【戦後70年〜大空襲(3)】焦土に残された12万人超の戦災孤児 「みんな死んじゃった…」 疎開先の桜の下で教師と泣いたあの日
 昭和19年11月〜20年8月まで100回超も続いた米軍による東京空襲は、家族の絆をも蹂躙した。空襲で親を失い、独りぼっちとなった孤児たちはその後も苦難の人生を歩まねばならなかった。
 14歳だった戸田成正(84)=板橋区在住=は右耳、左脚に空襲で負った火傷の痕が残る。口元の傷痕には目立たぬよう絆創膏を張っている。
 昭和20年4月13日深夜、陸軍造兵廠や被服廠がある王子区(現北区)など東京都北部に300機超のB29爆撃機が襲来した。「城北大空襲」。2459人の死者が出た。
(中略)
 戸田は孤児になった。
(中略)
 20年8月15日。戸田は終戦玉音放送を池袋近くの養育院で聞いた。感慨はなかった。勝ったとか負けたとかよりも「これからどう生きていけばよいのか」を考えていた。
(中略)
 戸田は養育院を飛び出した。当てもなく上野に行くと地下道に老若男女を問わず、浮浪生活を送る人がひしめき合っていた。戸田もここで数日間寝起きした。人混みに手を差し出すとおにぎりをくれる人もいたが、戸田は悩んだ。
 「おれは何のために生まれてきたんだ。戦災に遭うためなのか?」
 戦後に厚生省(現厚生労働省)が行った調査によると、昭和23年の時点で孤児は全国に計12万3511人いた。このうち10万7108人が親族らに引き取られたが、7117人は身寄りもなく、一時浮浪児となった。
 戸田は地下道で浮浪生活をしながら、下町の路地裏を当てもなく歩いていると、どこからか味噌汁の香りが漂ってきた。たまらなく母が恋しくなった。
 戸田は、別居していた父と兄が徳島県にいることを知り、手紙を書き、身を寄せた。だが、2年ほど後には食糧事情を理由に茨城県の親類に引き取られ、その後、再び上京して鉄工所で働いた。
 その後、戸田は結婚し、2人の子供を育てた。孫も5人いる。ただ、平成9年に妻に先立たれ、今はアパートの一室で1人で暮らしている。
(中略)
 西山秀子(80)=仮名、東京都在住=は自らの戸籍謄本を大切そうに取り出した。
 《親権者なし》
 そう記されていた。
 西山は昭和20年3月10日の東京大空襲で孤児となった。
(中略)
 昭和23年時点で12万3511人とされる戦争孤児たち。旧厚生省の調査によると、このうち5万7731人は学童疎開の対象となった年齢だった。正確には分からないが、西山のように疎開中に両親を失った子供たちは少なくなかった。
 孤児となった西山は親族に引き取られた。その家には別の親族も疎開しており、13人が暮らしていた。親族は冷ややかで食べ物はほとんど与えられず*10、水だけを飲んで1週間過ごしたこともあった。大切にしていた父の手紙は「そんなことは早く忘れなさい」と焼かれてしまった。
 西山はみるみる骨と皮だけのようにやせこけていった。1年後、唯一世話をしてくれた叔母の結婚が決まり、西山は行き場を失った。
 そんな西山を引き取ってくれたのは、国民学校の同級生の姉夫婦だった。夫婦には子供がなく西山は養女となった。
 西山は栄養失調から固形物が食べられなくなっていた。元衛生兵だった養父は、戦地から持ち帰った固形のブドウ糖をナイフで細かく砕き根気強く口に含ませてくれた。
「甘い、飴みたい…」。
 西山はその味を今も覚えている。
(中略)
 数カ月後、養父母を「お父さん、お母さん」と呼んだ。養父母は「ようやく呼んでくれた」と涙を流してくれた。
 西山は養父母に高校にも行かせてもらい、公務員の夫と結婚し、子や孫にも恵まれた。
 「私は本当に幸せでした。天国の両親がずっと見守ってくれたのかもしれません」
 西山はそう言って笑みを浮かべたが、ふと悲しげな表情に変わった。
 「私だけ恵まれて申し訳ないんです。それに戦後70年経っても、いくつになっても、やっぱり本当の親に会いたい。家族の遺骨は見つからないまま。私にとって戦争は終わっていないんです」


■文化の話題
【映画:闘い続けた脚本家描く「トランボ:ハリウッドに最も嫌われた男」】(児玉由紀恵)
(内容紹介)
映画『トランボ:ハリウッドに最も嫌われた男』(http://trumbo-movie.jp/)の紹介。

参考

http://www.jiji.com/jc/article?k=000000174.000009728&g=prt
時事通信『『ローマの休日』ほか、偽名で2度のアカデミー賞に輝いた脚本家トランボの、壮絶な人生を描いた1冊』
・『ローマの休日』『スパルタカス』『黒い牡牛』。
 数々の名作映画を世に送り出した、稀代の脚本家ダルトン・トランボ赤狩りの時代、逆境に立たされながらも屈せず信念を貫き通し偽名で2度のアカデミー賞に輝いた。彼の波乱万丈の人生を綴った書籍『トランボ:ハリウッドに最も嫌われた男』を7月4日(月)世界文化社より刊行します。本書は、7月22日(金)から、TOHOシネマズシャンテほか全国ロードショーとなる映画『トランボ:ハリウッドに最も嫌われた男』(同名タイトル)の原作本。映画では描ききれなかった、幼少期から脚本家としての名声を得るまでの道のりも綴っており、彼の人生をより詳しく知ることのできる1冊です。
ダルトン・トランボ
 脚本家・映画監督。1905年、アメリカ西部コロラド州に生まれ、パン工場で働きながら、小説家を目指し、やがてハリウッドの売れっ子脚本家となる。1940年代後半から1950年代前半、共産主義者の排除を目的とした「赤狩り」の嵐がハリウッドにも吹き荒れ、議会侮辱罪で禁固刑を受ける。刑期満了後、B級映画を中心に偽名で脚本を立て続けに発表。『黒い牡牛』『ローマの休日』でアカデミー原案賞を受賞した。1976年没。

http://miyearnzzlabo.com/archives/37088
町山智浩ヘイル、シーザー!』『トランボ:ハリウッドに最も嫌われた男』を語る
町山智浩
 今日はですね、ハリウッドの1950年前後を描いた2本の映画で、『ヘイル、シーザー!』っていう映画と『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』っていうタイトルの2本の映画を紹介します。この映画はね、奥の方でつながっている映画なんですけど。まず、『ヘイル、シーザー!』が5月13日に日本で封切られるんですけど。その後に『トランボ』の方が7月に封切られるんですが。これ、両方見ないとよくわからないっていうところなんですよ。
赤江珠緒
 ふーん!
町山智浩
 で、まず『ヘイル、シーザー!』の方からお話しますと、これは監督はコーエン兄弟というですね、『ファーゴ』*11とか『ノーカントリー*12とかでアカデミー賞をとっている監督なんですけども。すごく怖いバイオレンスものの映画と、ふざけたいい加減な映画と、2つの路線があるんですよ。
赤江珠緒
 ええ。
町山智浩
 で、こっちはいい加減な、ふざけた方です。
(中略)
 ただね、この映画ね、すっごく肝心の大事なポイントのところで、いまの若いお客さんがみるとなんだかわからないっていうシーンが出てくるんですよ。
赤江珠緒
 なんでしょう?
町山智浩
 で、それはですね、10人ぐらいのハリウッドの脚本家がいて、集まっていて。共産主義について語っているっていうシーンなんですよ。で、それがすごく重要なんです。この映画の中では。ただ、この10人ぐらいのハリウッドの脚本家が共産主義を語るっていうのの意味がたぶんわからないと思うんですよ。
赤江珠緒
 うん。
町山智浩
 で、その意味がわかるのは、もう1本、今回紹介する映画の『トランボ』っていう映画なんですね。 で、その10人のうちの1人の、実在の人物であるダルトン・トランボの伝記映画です。
赤江珠緒
 そうなんですか。えっ、たまたま同じ時期に?
町山智浩
 そうなんですよ。ダルトン・トランボにそっくりな人も出てきます。『ヘイル、シーザー!』の方に。で、その当時ですね、1940年代の終わりぐらいから50年代のはじめにかけて、アメリカでは「赤狩り」というのがあったんですね。で、赤狩りっていうのはマッカーシー上院議員っていう共和党上院議員が、「アメリカ国内にソ連のスパイがいる。だからそれを狩り出すんだ!」ということで、議会に一人ひとり呼んでですね。で、ラジオとかテレビでそれを中継しながら「あなたは共産主義者か? ソ連のスパイか?」っていうことを一人ひとり断罪する。まあ、はっきり言って晒し者にするということが行われたんですね。
赤江珠緒
 そうですね。うん。
町山智浩
 それでハリウッドも対象になりまして。ハリウッドは弱き者が強き者に立ち向かっていく映画ばかり作っていたから、それは共産主義者だ。共産主義者プロパガンダであるっていうことで、次々と議会に喚問されたんですけど。その中にトランボがいたんですが。トランボの前に何人も議会に呼ばれるんですね。で、有名な人だと、エリア・カザン*13という『エデンの東』の監督。
赤江珠緒
 はい。
町山智浩
 カザンが、元共産党員だってことで追求されて。「仲間の名前を言え。あんたの知っている共産党員でハリウッドで働いているやつの名前を言え」って言わされるという。要するに、仲間を売らせることによってその人の心をくじいて、ハリウッドの左翼勢力を潰そうということだったんですね。
赤江珠緒
 うんうん。
町山智浩
 あと、エドワード・G・ロビンソンというギャングのボス役で有名な俳優さんも共産党員だったんですけど。彼も結局仲間を売ってしまってトランボが出てくるんですよ。ところが、ダルトン・トランボは決して仲間を売らなかったんですね。議会に呼ばれても、誰の名前も白状しなかったんですね。それで、議会侮辱罪で刑務所に入れられちゃうんですよ。っていうあたりが緻密に描かれるんですけど、これ、ダルトン・トランボっていう脚本家を演じるのがですね、ブライアン・クランストンっていう俳優さんで。この人は、アカデミー主演男優賞候補になりましたね。この演技で。
赤江珠緒
 うんうん。
町山智浩
 この人ね、『ブレイキング・バッド*14の化学の先生ですよ。
山里亮太
 ああっ! あの人。あ、本当だ!
町山智浩
 はい。まあすごくいい、なんて言うか飄々とした演技なんですよ。あれも、覚醒剤を密造する化学の先生なんですけど。で、ものすごいことをしながら、なんとなくユーモアがあって。肩の力の抜けた演技をする人なんですね。で、このダルトン・トランボの役でも、非常に危機的な状況にあってもヘラヘラとジョークを言う、なんて言うか、食えないオヤジの役なんですよ。
赤江珠緒
 ふーん。でも、すごいですね。
町山智浩
 いくら叩いてもジョークで返すっていう役で、なかなかいい感じなんですね。
赤江珠緒
 仲間を売らなかった。
町山智浩
 そうなんです。それが10人いた*15んですよ。白状しなかった人たちが。脚本家なんですけど。それで、ハリウッドで仕事ができなくなっちゃってイギリスに逃げた人もいますし。かなり多くの人、チャップリン*16なんかもこれでイギリスに逃げた*17んですけども。で、その10人の脚本家たちっていうのは、その『ヘイル、シーザー!』の方に出てくる脚本家たちなんですね。
赤江珠緒
 へー!
町山智浩
 はい。で、この『トランボ』っていう映画はそこから始まるんですよ。その刑務所を出た後に大変なことになって。要するに、脚本家として仕事ができないんですよ。ハリウッドで干されちゃって。で、ハリウッドの映画協会が「白状しなかった人たちはもう仕事をさせない」っていう約束をしちゃうんですね。で、宣言をしちゃうし、しかも、仕事をするようなことがないように監視する人たちっていうのが出てくるんですよ。
赤江珠緒
 ええーっ?
町山智浩
 で、そのトップに立っていたのが、ジョン・ウエイン*18なんですね。
赤江珠緒
 えっ、ジョン・ウエイン?
町山智浩
 はい。ジョン・ウエインは西部劇の大スターですけども、ものすごく政治的な人でですね、いろんな映画を妨害したりしてるんですよ。この人。有名な話だと、『真昼の決闘』っていう映画はハリウッド・テンの中の1人の脚本家*19が書いた作品なんで。これがアカデミー賞をとらないようにって、妨害工作とかをしている人なんですね。
赤江珠緒
 そうだったんだ!
町山智浩
 そうなんですよ。だから、このダルトン・トランボに対しても、直接この映画の中に出てきて。「お前はアカだ。お前なんか追い出してやる!」とか言ったりして、徹底的にいじめるっていう役で出てきます。ジョン・ウエインが。
赤江珠緒
 へー。
町山智浩
 で、あとロナルド・レーガンです。
山里亮太
 あ、レーガン大統領。
町山智浩
 レーガンはもともとは左の側だったんですよ。この人。ハリウッド俳優組合だったんですね。だから、ハリウッド俳優を守らなきゃならない立場だったんですよ。権力側の圧力から。思想弾圧から。ところが、彼はそれをやらなかったんですよ。逆に、その権力側のトップに立ったのは後に大統領になったニクソンなんですけど。ニクソンのハリウッド弾圧に対して協力したんですよ。レーガンは。
赤江珠緒
 なんと! ええっ、立場的にはちょっと卑怯な立ち位置じゃないですか?
町山智浩
 卑怯な立ち位置なんですけど。その理由っていうのは、おそらくいま言われているのはナンシーさんっていう奥さんがその頃、間違ってブラックリスト共産主義者リストに入っちゃったんですね。
赤江珠緒
 うん。
町山智浩
 で、ナンシーさんから「なんとか助けてほしいの」ってレーガンは言われて。で、なんかいろいろやっているうちに恋に落ちちゃったんですね。まあ、ちょっと結婚してたりするんですけど(笑)。
赤江珠緒
 はい。
町山智浩
 で、愛のために右に移ったんじゃないか?っていう説もありますね。いろんな説があります。ナンシーさんはハリウッド女優さんなんですよ。で、同名の女の人が共産主義者だったんで、間違って一緒に名前が入っちゃったんで。それでレーガンは逆に弾圧の側に入ったんですよ。
(中略)
 それでもう、完全に民主党から共和党に移ったんですね。レーガンはそれで。
赤江珠緒
 ふーん!
(中略)
町山智浩
 それでもね、書きたいわけですよ。彼はシナリオライターだから、物語を書きたくてしょうがないんですね。で、なにをするか?っていうと、子供も抱えているから食わなきゃならないし。で、ゲテモノ映画のシナリオを書く、シナリオのドクターっていうのをやるようになるんですよ。書き直しを。
赤江珠緒
 うんうんうん。
町山智浩
 で、それを山ほどやっていくんですけど。外出して打ち合わせしたりも、なかなかできないんですよ。見張られているから。
赤江珠緒
 えっ、そんなゲテモノ映画でも?
町山智浩
 この映画の中では、そうなんですよ。だから、いかにして隠れてこっそりとシナリオを書いたか?っていうのがこの映画のキモになっています。『トランボ』っていう映画の。ほとんど部屋を出ないで書き続けて。で、子供。娘とか息子を使って打ち合わせとかを手伝わせたり、原稿運びを手伝わせたりとか。そういうのがずっと出てくるんですね。はい。だから、なんかヤバいブツを運んでるみたいにして原稿を運んだりする場面とか出てくるんですけどね。
山里亮太
 はー!
町山智浩
 そのへんも面白いんですが。で、あとゲテモノ映画のプロデューサーが「俺んところは別に思想とかはどうでもいいんだ。共産主義者だろうとなんだろうと、面白いシナリオだったらなんでもいい!」っつって、どんどんどんどんトランボにシナリオを送ったりとかね。そういうところも面白いんですけど。
赤江珠緒
 うん。
町山智浩
 この映画でね、いちばんの盛り上がってくるところは彼、ダルトン・トランボが『ローマの休日』のシナリオを書くところなんですよ。
赤江珠緒
 えっ、『ローマの休日』のシナリオって、この方?
町山智浩
 そうなんですよ。ダルトン・トランボが書いているんですよ。ただ、匿名っていうか、他の人の名前を使っているんですよ。仕事をしちゃいけないことになったから。で、1953年に『ローマの休日』を書いて、それでアカデミー脚本賞をとっちゃうんですよ。
赤江珠緒
 ええーっ?
町山智浩
 でも、トランボが書いたってことは秘密だから、オスカーは関係ない、名前を借りた人が受け取るんですね。っていうあたりがすごく面白いんですけど。この映画を見た後、トランボについて知った後に『ローマの休日』を見るとね、やっぱりトランボ的なところがあって。ローマでほら、オードリー・ヘップバーン扮するお姫様が普通の子のふりをして、アメリカの新聞記者のグレゴリー・ペックとデートするじゃないですか。
赤江珠緒
 ええ。
町山智浩
 で、そこで真実の口っていう石像があって。そこの口に手を突っ込んで何かを言って、それが嘘だと手を噛むっていうイタズラをするところがありますよね。
赤江珠緒
 ありますね。
町山智浩
 あれは、彼自身が議会で宣誓させられたっていうことですよね。
赤江珠緒
 えっ、そういうこと?
町山智浩
 トランボ自身が議会で宣誓させられて「真実を言え」って言われて、それを拒否して刑務所にブチ込まれたっていう経験が入っているでしょうね。
赤江珠緒
 ええーっ?
町山智浩
 で、あと最後に「2人が出会って恋をしたことは誰にも言わない」っていうことになって。それを知っているもう1人の記者かなんかも、それを言わないって決意して。そのお姫様と新聞記者の恋を心に秘めたまま、話が終わるじゃないですか。あのへんもトランボの「絶対に言わない」っていうことなんでしょうね。
赤江珠緒
 はー! そういうことですか。
町山智浩
 だからトランボがわかると、トランボの作品がわかってくるところがあるんで。この映画はすごく重要だなと思うんですよ。で、あとトランボはその後にですね、赤狩りの後に脚本家として名前を出してもらったのがカーク・ダグラスっていう大スターがいて。筋肉スターがいたんですね。で、その人が「赤狩りなんて関係ないから、あんた、書いてくれ」ってシナリオを書かせたのが、『スパルタカス』っていう超大作なんですけども。
赤江珠緒
 うんうん。
町山智浩
 それは、古代ローマで奴隷が反乱して。その奴隷のリーダーがスパルタカスなんですね。で、反乱して、でもやっぱりローマ軍に囲まれて、負けたんですよ。反乱軍は。そこでローマ軍が「我々はお前たち全員を殺そうとは思っていない。リーダーであるスパルタカスだけを差し出せば、お前らを許してやる」って言うんですね。反乱を起こした奴隷たちに。そうしたら、誰も仲間を売らなかったんですよ。奴隷たちは「私がスパルタカスです」「いや、私がスパルタカスです」って。全員が次々と、「私がスパルタカスだ。私を殺してくれ」って言うんですよ。
赤江珠緒
 へー!
町山智浩
 かばって。そこは、実際は(ボーガス注:トランボは)赤狩りの時は名前を売られちゃっているわけですけど。彼はね。まあ本当はハリウッドはそこで戦うべきだったんだっていうことを表現したかったんでしょうね。
赤江珠緒
 ああー! つながりますね。たしかに、いまのお話をうかがって、そのストーリーを聞くとね。はー。
町山智浩
 ただね、この『トランボ』っていう映画は、アメリカで秋に公開されてものすごく(ボーガス注:保守派に)叩かれたんですよ。
赤江珠緒
 えっ、そうなんですか?
町山智浩
 まあ、いわゆる保守系メディアとかからすごく叩かれたんですけど。「トランボが弾圧されたっていうことよりも、トランボが信じていた思想に問題はない*20のか?」って言われたんですね。トランボはその頃、共産主義を信じていただけではなくて、その頃の共産党っていうのは完全にソ連支配下に置かれていたんですよ。
赤江珠緒
 はい。
町山智浩
 で、彼はソ連を擁護するっていうか、ソ連を理想として信じるっていうことをしていたんですね。トランボは、当時の共産党に対して。(ボーガス注:赤狩りが不当な行為であっても)それが正しかったのかどうか?っていうことを検証してないだろう、この映画はと。
赤江珠緒
 ああー。
町山智浩
 で、この映画の中では、「お腹がすいている人がいたら、食べ物を分け与えるのが共産主義だよ」っていう、すごく幼稚な子供っぽい考えしか出てこないんですね。トランボが説明するんですよ。そうやって、共産主義とは何かについて。でも、実際その頃、(ボーガス注:トランボは知らなかったにせよ)ソ連ではスターリンが独裁して、大虐殺をしていたわけですよ。
赤江珠緒
 うんうん。
町山智浩
 で、トランボはアメリカ政府と権力に対して言論の自由と思想の自由を掲げて戦ったんですけど。その頃のソ連には言論の自由も、思想の自由もないわけですよね。だからその矛盾が描かれていないって、この『トランボ』っていう映画はすごく(ボーガス注:保守の側から)批難されたんですよ。だからね、そういう点では『ヘイル、シーザー!』を見ると、『ヘイル、シーザー!』の方は(ボーガス注:コーエン兄弟が政治的な思惑からそう描いてるのかどうかはともかく)実は彼らのすごく子供っぽい共産主義に対する憧れがものすごくバカにされて茶化されて描かれているんですよ。
赤江珠緒
 はー、なるほどね。
町山智浩
 だから両方見た方がいいかなと。
赤江珠緒
 そうですね。
町山智浩
 バランスを取る感じみたいな。
赤江珠緒
 うん。アメリカで共産主義のそういう、いろんな複雑な部分が描かれていないだろうっていう意見もたしかにそうだし。で、一方でアメリカは自由だって言っていたのに、ハリウッドでそれだけ、いろんな思想で弾圧があったっていうところもね。お互いにいろんな矛盾がありますもんね。
町山智浩
 そうなんですよ。ただね、(ボーガス注:私、町山の理解では)トランボ自身は反省していたっていうか、悔やんでいたところがあってですね。彼の最後の作品が『パピヨン』っていう映画なんですね。73年の。で、その中で主人公がやっぱり刑務所にブチ込まれるんですよ。スティーブ・マックイーンで。で、脱獄不可能って言われた刑務所から何度も脱獄しようとして、戦い続ける男の話なんですけど。そこもまた、トランボ節なんですが。
赤江珠緒
 うん。
町山智浩
 その中で、彼が夢の中でですね……『パピヨン』の音楽、かかるかな? 彼が裁判にかけられるシーンがあるんですよ。これですね。主人公のパピヨンが裁判にかけられて。「お前がなぜ有罪かと言えば、お前の一度しかない大事な人生を無駄にしてしまったことだ」って言われるんですね。それはたぶん、トランボ自身の共産主義で失敗したっていう経験みたいなものを悔やんで、それを書いていると思うんですよ。
赤江珠緒
 うーん。
町山智浩
 ただ、この『パピヨン』っていう映画は彼自身の最後の作品で、最後の彼の書いたセリフっていうのは、「ざまあみろ! 俺は生きてるぜ」っていうセリフで終わるんですよ。この映画は。
赤江珠緒
 ふーん!
町山智浩
 「俺は最終的には戦いに勝ったんだ」って終わるんですね。この『パピヨン』っていう映画は。で、それが彼のセリフだったんでね、まあ『パピヨン』も見ていただきたいなと思いますね。
山里亮太
 3つ見ると、より面白くなると。相乗効果で。
町山智浩
 はい。
(中略)
 (ボーガス注:フランスの映画監督)ゴダール共産主義にハマッて(ボーガス注:トランボのように右派の非難を浴びて)いましたけど。ただ、アメリカのように刑務所にブチ込まれたリしないですよ。それで。で、映画界で干されたりなんか、全然してなかったわけで。やっぱりその頃のアメリカっていうのは思想で人を弾圧するっていう、ソ連と同じことをやっていたんですね。だから、そういうことも含めて、この2本の映画は互いに補い合ってひとつの物語になるところあるので。
赤江珠緒
 いろいろセットで見ると、その時代が見えてくるということですね。
町山智浩
 そういうことです。

 町山の『ローマの休日』『スパルタクス』の政治的解釈はまあ正しいかも知れないですが、別にそう言うこと関係なく、話の展開は「ハリウッドの王道的なストーリー展開」ではあるんじゃないですかね。

ダルトン・トランボ(ウィキペ参照)
アメリカの脚本家、映画監督。アメリカで1940年代に起こった赤狩りに反対したいわゆるハリウッド・テンの一人。
・第1回聴聞会に出席したトランボは、「あなたは共産主義者か、あるいは、かつてそうであったか?」と問われたが、合衆国憲法修正一条(言論と集会の自由を規定した条項)を理由に証言を拒んだ。その結果、議会侮辱罪で逮捕され、禁固刑の実刑判決を受た。実際、トランボはアメリ共産党の党員であった。
・刑期終了後も映画界から事実上追放されトランボは貧困にあえぐ生活を強いられたが、偽名を使って脚本家としての仕事を続け、B級映画の脚本で食いつないだ。製作側にとって、ハリウッドの高給脚本家トランボの作品を安く買えることに意味があり、トランボの思想傾向など問題とはされなかった。 
 1956年にロバート・リッチ名義で参加した『黒い牡牛』でアカデミー原案賞を受賞するが、彼の名前は公にされなかった。アカデミー協会が初めてトランボの名前を刻んだオスカーを彼に贈ったのは1975年になってからであった。クレジットに彼の名前が再び現れるのは1960年の『スパルタカス』であり、追放から13年が経過していた。
 また、トランボの死後、イアン・マクレラン・ハンターの原案・脚本とされていた『ローマの休日』が、実は追放中のトランボが1953年に執筆したものであったことが判明し、同作品でハンターが受賞したアカデミー原案賞が、1993年に改めてトランボに贈られることになった。授賞式では、既に死去していたトランボの代わりに妻クレオがオスカーを受け取った。
・トランボは実名でハリウッドに復帰した後も、『パピヨン』(1973年)などの大作・ヒット作に名を連ねた。そして1973年の『ダラスの熱い日』の脚本を最後に1976年死去した。没後10年を経て、トランボが脚本を務めた1943年の『ジョーと呼ばれた男』を元に、スティーヴン・スピルバーグが『オールウェイズ』を制作している。

■イアン・マクレラン・ハンター(ウィキペ参照)
 脚本家。1953年、レッドパージの嵐が吹き荒れていた中、ハンターは、ハリウッド・テンとして映画界を追放されていた友人のドルトン・トランボに、トランボが作品を発表する際の名前として自分の名前を使うことを許した。トランボがイアン・マクレラン・ハンター名義で書いた脚本が、ウィリアム・ワイラー監督の『ローマの休日』であった。この映画は興行的に大成功をおさめた。そうした事情でこの映画には当初、イアン・マクレラン・ハンターの名前がクレジットされており、事情を知らない映画芸術科学アカデミーは、ハンターにアカデミー原案賞を与えた。
 ハンターはハリウッド・テンとして映画界を追放されていた友人のリング・ラードナー・ジュニアにも名義を貸している。もちろんハンターの功績は「名義を貸したこと」だけではない。20以上の作品の脚本を書いており、脚本家として実績を積んでいた。ただ、それらの作品は『ローマの休日』など、名義を貸した作品ほどの成功を収めていないというだけのことなのだ。

ローマの休日(ウィキペ参照)
・王女をオードリー・ヘプバーン、新聞記者をグレゴリー・ペック*21が演じている。この時に新人だったオードリー・ヘプバーンは1953年度のアカデミー賞最優秀主演女優賞を受賞している。
 この他に衣裳のイーディス・ヘッドが最優秀衣裳デザイン賞を、脚本のイアン・マクレラン・ハンターが最優秀原案賞をそれぞれ受賞した。
 ただしハンターの受賞については、この作品はもともとダルトン・トランボが執筆して当時の赤狩りでハリウッドを追われたため、名義を借用したものであった。アカデミー賞選考委員会は1993年にトランボへ改めて1953年度最優秀原案賞を贈呈している。
ダルトン・トランボが、脚本を書き上げたのは、1940年代半ば頃であった。1948年にパラマウント社がフランク・キャプラ*22を監督にして製作に入ることになった。この時にキャプラがエリザベス・テイラー*23ケーリー・グラントでの配役を提示したが、製作費で会社側と折り合えず、結局キャプラは降りてしまった。
 その後、この企画はしばらく宙に浮いたままだったが、1951年初めにウィリアム・ワイラー*24が、この脚本を知りワイラー監督でパラマウント社は製作に入ることとなった。
 製作時にアメリカ本国ではマッカーシー上院議員らによる「赤狩り」が行われ、映画産業でもハリウッド・テンと呼ばれた人物たちがパージされ、本作の脚本家であるトランボもその一人であったため友人の脚本家イアン・マクレラン・ハンターが本作の脚本にその名前をクレジットした。ワイラーがローマへ携えた草稿はトランボの脚本をハンターが手直ししたものであった。ワイラーはイギリスの作家ジョン・ディントンを雇い、その草稿に新たなシーンを書き加えさせた。そのため、1953年に映画が公開された時に画面に出された脚本家のクレジットはハンターとディントンが共有した。

*1:最近の著書に『脱「子ども貧困」への処方箋』(2010年、新日本出版社)、『戦争をする国・しない国:ふくしの思想と福死の国策』(2016年、新日本出版社)、『沖縄戦と孤児院:戦場の子どもたち』(2016年、吉川弘文館)など

*2:著書『混血孤児:エリザベス・サンダース・ホームへの道』(編著、2014年、汐文社)、『戦災孤児:駅の子たちの戦後史』(編著、2014年、汐文社)、『引揚孤児と残留孤児:海峡を越えた子・越えられなかった子』(編著、2015年、汐文社)、『戦争孤児をしっていますか?』(2015年、日本機関紙出版センター)、『戦争孤児:「駅の子」たちの思い』(2016年、新日本出版社)など

*3:著書『原爆孤児』(2015年、新日本出版社)、『沖縄の戦場孤児』(編著、2015年、汐文社)など

*4:最近の著書に『安倍首相の「歴史観」を問う』(2015年、講談社)、『安倍「壊憲」政権と昭和史の教訓』(2016年、朝日文庫)、『田中角栄安倍晋三:昭和史でわかる「劣化ニッポン」の正体』(2016年、朝日新書)など

*5:現在の沖縄市

*6:最近の著書に『怪優伝:三國連太郎・死ぬまで演じつづけること』(2011年、講談社)、『あんぽん:孫正義伝』(2012年、小学館)、『沖縄戦いまだ終わらず』(2015年、集英社文庫)、『唐牛伝:敗者の戦後漂流』(2016年、小学館)など

*7:共産党参院議員。党書記局長、副委員長など歴任

*8:1919年に初代柳家三語楼に入門して、柳家三平を名乗る。1924年に7代目柳家小三治を襲名して真打昇進。師匠三語楼が東京落語協会(現落語協会)を脱会したため、協会側の4代目柳家小さんから「(小三治の)名前を返せ」と詰め寄られ、そうこうしている間に8代目小三治が出現。結局1930年に7代目林家正蔵を襲名。1930年日本芸術協会(現:落語芸術協会)初代理事長を務めた。なお、実子・初代林家三平の「どうもすみません」や、額にゲンコツをかざす仕草も元来は7代目が高座で客いじりに使用したものである。

*9:著書『大阪・下町酒場列伝』(2004年、ちくま文庫)、『旅情酒場をゆく』(2012年、ちくま文庫)、『遊廓の産院から:産婆50年、昭和を生き抜いて』(2013年、河出文庫)、『さいごの色街・飛田』(2015年、新潮文庫)など

*10:何という「リアル・火垂るの墓」!

*11:1996年アカデミー監督賞受賞

*12:2007年アカデミー作品賞、監督賞、脚色賞受賞

*13:『紳士協定』(1948年)、『波止場』(1955年)でアカデミー監督賞受賞。1998年、長年の映画界に対する功労に対してアカデミー名誉賞を与えられたが、赤狩り時代の行動を批判する一部の映画人からはブーイングを浴びた。リチャード・ドレイファスは事前に授与反対の声明を出し、ニック・ノルティエド・ハリスイアン・マッケランは、受賞時に腕組みして拍手もせず座ったまま、無言の抗議を行った。スティーヴン・スピルバーグジム・キャリーは拍手はしたが、起立しなかった。起立して拍手したのはウォーレン・ビーティやヘレン・ハントメリル・ストリープだった。通常は名誉賞受賞者には、全員でのスタンディングオベーションが慣例のため、会場内は異様な空気に包まれた(ウィキペ「エリア・カザン」参照)。

*14:日本ではフジテレビNEXT及びスーパー!ドラマTVで放映され、DVDがソニー・ピクチャーズエンタテインメントからリリースされた。現在、定額配信サービス・ネットフリックスでシーズン1〜シーズン5(ファイナル)まで配信されている(ウィキペディアブレイキング・バッド」参照)。

*15:ただしウィキペ「ハリウッド・ブラックリスト」「エドワード・ドミトリク」によれば10人のうち、ドミトリクは「議会侮辱罪で禁固6カ月を言い渡され服役後、転向を表明して下院非米活動委員会でジュールズ・ダッシンらの名前を証言した」。なお、ウィキペ「ジュールズ・ダッシン」によればこの結果、ダッシンは活動場所をヨーロッパに移すことになる。ちなみにダッシンは彼の映画『日曜はダメよ』(1960年)の主演女優メリナ・メルクーリと1966年に結婚した。

*16:1936年に発表した、機械文明と資本主義を批判した『モダン・タイムス』が赤狩り時代に「容共的である」とされ、非難の的とされた。特に1947年公開の『殺人狂時代』での有名なセリフ「一人を殺せば犯罪者だが、大量に殺せば英雄だ(戦争批判)」によってバッシングは最高潮に達した。1952年、ロンドンで『ライムライト』のプレミアのために向かう船の途中、トルーマン政権のマクグネラリー司法長官から事実上の国外追放命令を受ける。アメリカの一般国民はこの追放劇に激しく抗議。国務長官のもとに国内だけで数万通に及ぶ抗議の手紙が殺到した。国務長官は「チャップリン氏がアメリカにとって危険な人物である証拠は存在するが、今は明らかにできない」と苦し紛れの声明を出さざるを得なくなった。アメリカを去ったチャップリンは、映画への出演もめっきり少なくなるが、妻や8人の子供たちと幸せな晩年を送る。1971年、フランス政府によりレジオンドヌール勲章、パリ市議会からは名誉市民の称号を与えられる。1972年、アカデミー賞名誉賞に選ばれ、授賞式に出席するため、20年ぶりにアメリカの地を踏む。この授賞はチャップリンの国外退去を阻止できなかったハリウッドからの謝罪を意味した。舞台に登壇したチャップリンに対し、会場にいる全ての者がスタンディングオベーションで迎えた。1975年、それまでの活動を評価されエリザベス2世よりナイトに叙され「サー・チャールズ」となった。しかし、左寄りとされた思想や女性問題で叙勲がかなり遅れたことが分かっている(ウィキペ「チャップリン」参照)。

*17:ウィキペ「チャップリン」によれば「1952年、ロンドンで『ライムライト』のプレミアのために向かう船の途中、トルーマン政権のマクグネラリー司法長官から事実上の国外追放命令を受け、当時の赤狩りの風潮を前にその処分を徹底的に争う気にもなれず、渋々受入れ、その後スイスに移住した」ので「イギリスに逃げた」という表現は不適切だろう。

*18:1969年の『勇気ある追跡』でアカデミー最優秀主演男優賞を受賞

*19:カール・フォアマンのこと。ただしウィキペ「ハリウッド・ブラックリスト」があげるテンの中にはフォアマンの名はない。町山とウィキペディアとどちらが間違ってるのかは無知な小生には不明。なお、ウェインの妨害工作の成果かどうかはともかく、『真昼の決闘』でフォアマンは脚色賞にノミネートはされたが受賞はできなかった。ただし『真昼の決闘』ではゲイリー・クーパーが主演男優賞を受賞している。

*20:「思想差別ってのはそういう問題じゃねえだろ」て話です。

*21:アラバマ物語』(1962年)でアカデミー主演男優賞を受賞

*22:或る夜の出来事』(1934年)、『オペラハット』(1936年)、『我が家の楽園』(1938年)でアカデミー監督賞を受賞

*23:『バターフィールド8』(1960年)、『ヴァージニア・ウルフなんかこわくない』(1966年)でアカデミー主演女優賞を受賞

*24:『ミニヴァー夫人』(1943年)、『我等の生涯の最良の年』(1946年)、『ベン・ハー』(1959年)でアカデミー監督賞を受賞