阿部治平&リベラル21の馬鹿さを今日も嗤う(2020年6月27日分)(副題:三上智恵『証言・沖縄スパイ戦史』)

リベラル21 「護郷隊」とはだれのことか(阿部治平)

 このほど、長野県駒ケ根市の旧赤穂町・旧中沢村で太平洋戦争の末期、日本軍が住民の思想傾向を探っていた文書が見つかった。同市博物館の専門研究員小木曽真一さん(71)の調査によるものだ。
 発見された文書は、1945(昭和20)年6月29日付で陸軍大尉から各町村長あてて、「問題ヲ生ズル場合ハ細大漏ラサズ当部隊当通報」を指示し、「一般民衆ニシテ思想的ニ動向不穏ト認ル者アリタル場合」「部隊、工場等勤務者ニシテ其ノ町村ニ悪影響ヲ及ボス言動アリタル場合」などを例示し、学校長や在郷軍人とも連絡をとりあい、指示を徹底するよう求めていた。
 6月2日付の信濃毎日新聞の記事はこれにつづいて「当時、諜報・謀略などの研究をしていた陸軍登戸研究所が45年4月ごろから、同地域に疎開し、学校、神社を軍需工場や倉庫にし、住民に爆弾作りなどをさせていた。疎開は本土決戦準備の一環とされ、住民を巻き込んだゲリラ戦を想定していたとみられている」と記している。
 私は驚いた。というのは、つい数日前読んだ三上智恵著『証言・沖縄スパイ戦史』(集英社新書、2020・02・22)に、こう記されていたからである。
終戦間際、沖縄だけではなく全国に地域の住民で組織するゲリラ兵部隊が作られていた(召集されたのは14~40歳で、ゲリラ訓練は主に少年が対象だった)。このことはまだ知られていないが、地域の住民でゲリラ戦をするという無茶な考えは決して沖縄だけに限られたものではなく、ましてや沖縄県民だから軽視され、少年たちが消費されたという問題でもない……」

 そりゃ松代大本営なんかつくっていたのだからある意味当然の話です。
 ただし、本土決戦は「ソ連の和平仲介」を前提とした話です。8/9のソ連対日参戦でその思惑が完全に崩壊すると昭和天皇以下、政府首脳は「ポツダム宣言受諾による降伏」の方向へ動いていきます。
 しかし「阿部の個人ブログ」ならともかくこういう話はそれこそ「こうした問題の専門家」に書かせるべきでしょうにねえ(呆)
 俺が思いついた人間だと「沖縄戦研究の林博史*1」とか。リベラル21はどんだけアホなのか。

 この本をかつての教え子が(中略)紹介してくれたので、読む機会が得られた。この生徒は「日本政府は靖国神社で会おうといって死んだ*2護郷隊員や生残った少年らに表彰と恩給を与えるべきだった」とメールをよこした。

 おいおいですね(呆)。
 確かに「戦争被害にわびる意味」でカネは渡すべきでしょう。
 ただし「護郷隊を素晴らしい物として称えている」という誤解を生みかねない「恩給」という呼び名は辞めるべきだと思いますが。
 そして「表彰」とはどういう意味なのか。
 「護郷隊を素晴らしい物として称える」ということなのか。もしそうであるならば阿部らは非常識の極みです。
 神風特攻もそうですが、「無謀な軍事作戦の従事者」を表彰などしては絶対にダメです。それは「特攻(護郷隊)は正しかった」、ひいては「あの戦争は正しかった」ということになりかねない。そもそも「民間人にゲリラ戦をやらせていた」なんて自慢できる話では無いから「表彰など無い」のでしょうにねえ。
 全く阿部と言い、「かつての教え子」と言いどれほど非常識なのか。
 阿部らは「馬鹿な教師&馬鹿な生徒」のいい見本と言っていいでしょう。リベラル21もよくもまあこんなアホな文章を掲載できるもんです。
 なお、「どうせ掲載拒否」でしょうが以上の文章を

>この本をかつての教え子が(中略)紹介してくれたので、読む機会が得られた。この生徒は「日本政府は靖国神社で会おうといって死んだ護郷隊員や生残った少年らに表彰と恩給を与えるべきだった」とメールをよこした。


 おいおいですね(呆)。
 確かに「戦争被害にわびる意味」でカネは渡すべきでしょう。
 ただし「護郷隊を素晴らしい物として称えている」という誤解を生みかねない「恩給」という呼び名は辞めるべきだと思いますが。
 そして「表彰」とはどういう意味なのか。
 「護郷隊を素晴らしい物として称える」ということなのか。もしそうであるならば阿部氏と「かつての教え子」は非常識の極みです。
 神風特攻もそうですが、「無謀な軍事作戦の従事者」を表彰などしては絶対にダメです。それは「特攻(護郷隊)は正しかった」、ひいては「あの戦争は正しかった」ということになりかねない。そもそも「民間人にゲリラ戦をやらせていた」なんて自慢できる話では無いから「表彰など無い」のでしょうにねえ。阿部氏の個人ブログならまだしもリベラル21もよくもまあこんなアホな文章を掲載できるもんです。それのどこが「私たちは護憲・軍縮・共生を掲げてネット上に市民メディア、リベラル21を創った」なのか。嗤わせるな、ふざけるな、と言う話です。

と要約して阿部記事のコメント欄に投稿しました。

【参考:松代大本営

松代大本営跡 - Wikipedia
 大日方悦夫*3は「沖縄戦は、松代大本営ができるのを待つための時間稼ぎの戦いだった」という認識を示している。

【沖縄戦:1945年6月21日】「貴軍の奮闘により本土決戦の準備は完整せり」─陸軍中央の訣別電 日本軍に道連れにされるかのように全滅していった朝鮮人軍夫部隊|棒兵隊|note
 沖縄戦の組織的戦闘が最末期となる6月半ば、阿南*4陸軍大臣が松代大本営の現地視察をおこない、宮中でも侍従武官長が設備について木戸*5内大臣に連絡し、これをうけて宮内省総務局長が松代視察を命じられるなど、松代大本営は完璧ではないがある程度竣工が見込まれる状況であった。すなわち沖縄戦の地上戦における組織的戦闘の期間と「松代大本営」の本格工事期間はおよそ重なるのである。
 こうしたことから、(ボーガス注:6月)21日に第32軍に届いた訣別電における「本土決戦の準備は完整」とは、松代大本営の竣工をいうものであり、本土決戦の準備の完了、すなわち松代大本営の竣工を待って第32軍の組織的戦闘が終焉し、牛島司令官および長参謀長が自決したともいわれる。
 もちろん(中略)松代大本営の建設と竣工のためのみの時間稼ぎとして沖縄戦があったと考えることはできない。しかし本土決戦戦略という大きな視点のなかで沖縄戦を見ていくにあたり、松代大本営の建設工事は視点として意識する必要はあるだろう。


【参考:『沖縄スパイ戦史』】

証言 沖縄スパイ戦史 – 集英社新書
 軍隊が来れば必ず情報機関が入り込み、住民を巻き込んだ「秘密戦」 が始まる。
 第二次大戦末期、民間人を含む20万人余が犠牲になった沖縄戦
 第32軍牛島満司令官が自決し、1945年6月23日に終わった表の戦争の裏で、北部では住民を巻き込んだ秘密戦が続いていた。
 山中でゲリラ戦を展開したのは「護郷隊」という少年兵達。
 彼らに秘密戦の技術を教えたのは陸軍中野学校出身の青年将校達だった。
 住民虐殺、スパイリスト、陰惨な裏の戦争は、なぜ起きたのか?
 2018年公開後、文化庁映画賞他数々の賞に輝いた映画「沖縄スパイ戦史」には収まらなかった、30名余の証言と追跡取材で、沖縄にとどまらない国土防衛戦の本質に迫る。

『証言 沖縄スパイ戦史』 「虐殺者」の両面性を追う - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース
 衝撃的なドキュメント映画「沖縄スパイ戦史」を世に問うたジャ―ナリストで映画監督の三上智恵さんが、10年間の取材を終え同名の「証言 沖縄スパイ戦史」を出した。本書のタイトルは、「スパイ戦史」と銘打たれているが、これは本島北部で展開された「秘密戦」や「遊撃戦」と呼ばれるゲリラ戦の中で浮かび上がった住民スパイ視と残虐行為を総括する三上さんの造語だ。

沖縄戦終結75年 少年兵の体験伝えねば:東京新聞 TOKYO Web
 沖縄は二十三日、「慰霊の日」を迎えた。七十五年前のこの日、太平洋戦争末期の沖縄戦で日本軍の組織的戦闘が終わった。その戦争で、瑞慶山さんは当時十五〜十八歳の少年を中心とするゲリラ部隊「護郷隊(ごきょうたい)」に加わり米軍と対峙(たいじ)した。同じ少年少女で組織された鉄血勤皇隊ひめゆり学徒隊の悲劇が伝わる一方、護郷隊の過酷な運命は長年ほとんど知られていなかった。だがこれも、記憶されなくてはならない沖縄戦の実相だ。
 護郷隊を編成したのは、スパイ養成機関・陸軍中野学校出身の青年将校たち。仮に沖縄守備軍の第三二軍が壊滅しても、ゲリラ戦により敵を長期間かく乱させる任務を負っていた。
 千人近い護郷隊員中約百六十人が命を落とした。病気やけがで足手まといになり隊内で殺された例もあった。部隊は四五年七月に解散され、瑞慶山さんは故郷に戻った。ただ何年も、突然暴れるなど心的外傷後ストレス障害(PTSD)に苦しんだ。
 幼なじみ同士が罰し合ったり、命じられて地元集落を焼き払ったりした心の傷は深く、元隊員らは身近な人にも体験を語ろうとはしなかった。当時の給料やけがへの補償もなく、少年兵の辛苦は国から無視されたままでもある。
 沖縄在住の映画監督三上智恵さん(55)は、二〇一八年公開のドキュメンタリー「沖縄スパイ戦史」で護郷隊の実態を掘り起こし、反響を呼んだ。三上さんは言う。
 「有事に軍は住民を守らない。逆に、戦闘や諜報(ちょうほう)に利用して見捨てることを描きたかった」。
 映画には、スパイ容疑をかけられた住民が軍により虐殺されるのを住民が手助けした、軍の陣地構築に協力した少女が秘密を知ったと殺されかけた、などの証言も登場する。
 三上さんによれば、当時の軍部は本土の各地にも中野学校出身者を送り秘密戦の準備をしていた。終戦が遅れたなら沖縄の惨劇が本土で繰り返された可能性がある。

日経『春秋』(2020年6月20日
 1944年の沖縄で、現地の10代半ばの少年らを兵士として集め、ゲリラ戦に特化した部隊が創設された。その名を「護郷隊」という。第一と第二の2つから成り、計約1千人が属していた。双方とも隊長は、情報戦や秘密戦を専門とする旧陸軍中野学校の出身である。
 隊長らは着任時、上官から「沖縄が玉砕した後も生き残り、遊撃戦を続けろ」と命じられたそうだ。
 元少年兵が語る訓練や戦いの日々は三上智恵さん著の「証言・沖縄スパイ戦史」に生々しい。
 規律の維持のためか、それとも見せしめか集合時間に遅れた隊員を別の隊員に射殺させたとの証言も残る。凄惨きわまりない戦争の一断面だ。
 戦後、投降し郷里へ戻った隊長らはどんな人生を送ったか。1人は半世紀近く、毎年沖縄へ赴き慰霊を続けた。もう1人は「国の褒章は無用」と事業に専念。沖縄から就職する人の身元を次々と引き受けたと聞く。本土防衛のため筆舌に尽せぬ犠牲を払った地への精いっぱいの償いだったろう。あす、沖縄慰霊の日である。


【参考:護郷隊】

NHKスペシャル アニメドキュメント あの日、僕らは戦場で~少年兵の告白~ | NHKティーチャーズ・ライブラリー
内容紹介
 沖縄戦の際、日本で唯一の少年ゲリラ部隊が戦闘に参加した。14~17歳の少年1000人が陸軍中野学校出身の将校からゲリラ戦の訓練を受け、「護郷隊」の名で戦ったのである。しかも、本土でも同様の組織が計画されていた。少年たちはどのようにゲリラ兵にされ、どのような戦いを経験したのか、沖縄北部の山岳地帯で戦った元少年兵30人を取材、今まで知られなかった沖縄戦の一面をアニメで伝える。

/新日本出版社/子どもの本/シリーズ別紹介/読みもの/アニメでよむ戦争シリーズ/アニメドキュメント あの日、僕らは戦場で
 沖縄北部の山岳地帯で米軍と戦った少年たちがいた。戦後70年経った今、元「少年兵」が戦争の秘められた事実を語る。14~17歳の少年たちは、ゲリラ戦の訓練を受け凄惨な戦闘を繰り広げていた。
 話題を呼んだNHKスペシャル「アニメドキュメント あの日、僕らは戦場で~少年兵の告白~」を小・中学生向けに単行本化。

NHKスペシャル・アニメドキュメント「あの日、僕らは戦場で」メイキングと制作秘話
 日本国内で最大の地上戦が行われた沖縄で、子どもたちが「少年兵」として戦争に利用されていった知られざる歴史。それをアニメと実写で伝えるドキュメンタリーです。
 少年兵と聞くと、「(ボーガス注:アフガニスタンなど)遠い外国での出来事」という印象を持たれる方もいるかもしれません。
 実は70年前の日本でも、子どもによるゲリラ部隊が組織されていたんです。沖縄では14歳から17歳までの子どもを中心とした「護郷隊(ごきょうたい)」という部隊がありました。隊員はおよそ1000人。中には、強制的に兵士とされたという少年も少なくありません。生き残った方々のうち、30人余りが、今回、当時の様子を証言してくれました。
 アニメ制作の舞台裏、アフレコの現場に潜入しました。
 思い入れを込めて演じていたのは、複数の少年兵を担当した、声優・比嘉久美子さん。
 そして、少年で構成されたゲリラ部隊の隊長を担当した、速水けんたろうさん。

比嘉久美子さん
「アニメの中で少年たちが、『敵を殺すことも、自分の命がなくなることも、友だちが死ぬことも、次第にどうでもよくなっていく』と話していましたが、どうでもよくなることほど怖いことはないな、と思いました。アフレコの途中、『少年に刀を突きつけるなんて、普通できないよね』と言った方がいましたが、アニメで描かれている時代は、普通の状態ではなく、国全体がまひしている状態。人が人でなくなっていく姿を見るのは、本当に怖かったです。収録が終わったいまもまだ、怖いですね。」
Q)
両親や親戚から、沖縄のことや戦争の話を聞いたことはありますか?(※比嘉さんの父親は沖縄の出身)
比嘉久美子さん
「祖父母にも父にも、聞いたことがなかったんです。聞きたかったですけれど、聞いてはいけないのかな、という雰囲気を子ども心にも感じていて。そのころは、なぜ話してくれなかったのかなと思っていましたが、今回の作品を見ていると、家族にも語れない部分が多かったのではないかと、いまは思います。」

速水けんたろうさん
「役を演じる中で、子どもたちが戦争に狩り出されて、死を覚悟しなければいけない状況が、事実としてあったということを改めて知り、なんとも切なく、胸が詰まる思いがしました。自分は隊長の役でしたが、「敵を10人殺したら死んでも良い」というようなことを本当に言えてしまうものなのかと驚きました。しかし、役を演じる上では、あえてすごく冷酷な気持ちになって声を出しました。
 今の日本は平和ですが、世界では戦争が起きています。少年を兵士として戦地に狩り出すようなことはあってはいけないことですが、沖縄でそういう事実があったということを見つめ直し、それを忘れてはいけないと感じていただければ、と思います。」

戦場の住民たち・沖縄戦75年:少年1000人はゲリラにされた 沖縄戦“護郷隊” 「軍は国民を利用する」 - 毎日新聞
 「志願じゃなくて命令だよ。でも軍隊に行くのが本望だったから。僕も喜んだ」。
 沖縄県東村の仲泊栄吉(なかどまり・えいきち)さん(91)は振り返る。1945年3月、16歳だった仲泊さんが送り込まれたのは「護郷隊(ごきょうたい)」と呼ばれるゲリラ部隊だった。山中に潜み、侵攻する米軍をかく乱する役割を担った。
 防衛省や県の資料によると、沖縄戦における米軍の総兵力は推計で54万8000人(うち上陸部隊は18万3000人)。対する日本軍は10万2000人。このうち約4分の1に当たる2万5000人は、圧倒的な戦力差を補うために防衛隊や学徒隊として集められた地元の住民たちだった。
 沖縄戦に詳しい沖縄県名護市教育委員会の川満彰(かわみつ・あきら)さん(60)によると、護郷隊は44年10月~45年3月、15~18歳の約1000人が集められて発足した。指揮したのは秘密戦や謀略などの特殊任務を担う要員を養成した陸軍中野学校の出身者。川満さんは「旧陸軍第32軍(沖縄守備軍)が壊滅すれば米国は沖縄を足場に本土攻撃してくると大本営は予想した。護郷隊によって米軍を後方からかく乱する作戦だった」と指摘する。「軍国教育の下では少年たちに選択肢はなく、事実上の強制だったと言える」
 仲泊さんらは沖縄本島北部の恩納岳の山中に潜み、10キロの爆薬を米軍の戦車が止まっている場所に仕掛ける作戦に当たった。直前に別れの杯が交わされ、自爆用の手投げ弾を持たされた。
 「殺されるより自分でやる(自爆する)のが名誉でした」。
 だが、作戦は米軍の戦車が動き出したために失敗に終わった。
 そうした中、歩けなくなった少年兵が軍医に射殺されるのを目撃した。1発目の弾は当たらなかった。2発目は命中。少年兵は動かなくなった。
 仲泊さんによると、少年兵は高江洲義英(たかえす・ぎえい)さん(当時17歳)。負傷で精神が不安定になっていたとみられる。
 「歩けないのは皆やった(殺害した)んじゃないか」。
 仲泊さんは続けた。
 「教育されれば、人を殺せるようになってしまう。それが戦争だ」
 「ああ義英、どうしてこんな姿になったのか」。
 高江洲さんの弟、義一(ぎいち)さん(82)=那覇市=は、母が遺骨を抱いて嘆いた姿が今も忘れられない。義一さんは優しかった兄の死を悔やむ一方、1発目が外れたのは軍医の手が震えていたからではないか、と想像する。
「命を救うべき軍医が人をあやめるのに迷いがなかったはずがない。何が彼をそうさせたのか。それをよく考えないと戦争の本質を見誤る」
 義英さんのように護郷隊として犠牲になった少年兵約160人の存在は広く知られておらず、その実態は川満さんや報道機関による近年の調査でようやく明らかになりつつある。
 「根こそぎ動員」。
 多くの証言を聞き取ってきた川満さんは強調する。
「赤ちゃんからお年寄りまで、44年当初には約五十数万の住民がいた沖縄で、日本軍は地上戦を展開し、住民を戦略に当てはめた。戦争になれば軍隊は国を守るため、国民を利用するのです」

沖縄戦 「護郷隊」の陣地跡見つかる 少年らで編成の極秘部隊 | NHKニュース
 75年前の沖縄戦の際、旧日本軍は、正規軍を後方支援し持久戦に持ち込むため、およそ1000人の地元の10代の少年らを召集して「護郷隊」と呼ばれるゲリラ部隊を極秘に編成しました。
 護郷隊は、昭和20年4月にアメリカ軍が沖縄本島に上陸すると3か月にわたって山岳地帯でゲリラ戦を展開しましたが、激しい攻撃にさらされるなどして160人が命を落としました。
 この護郷隊が拠点を置いた陣地跡が、沖縄のアメリカ軍基地「キャンプ・ハンセン」内で見つかっていたことがアメリカ軍への取材で分かりました。
 アメリカ軍が、ことし3月に基地内に残る戦争遺跡の調査を行っていた際に、沖縄本島北部にある恩納岳の山頂付近で見つけたということです。
 このため専門家は今後、アメリカ軍に対して共同調査を申し入れることにしています。
◆「護郷隊」ほとんどが10代の少年
 旧日本軍が作成した資料などによりますと、旧日本軍は劣勢が想定された沖縄戦を前に秘密戦要員の養成機関「陸軍中野学校」の出身者を派遣し、正規軍を支援する遊撃戦=ゲリラ戦専門の部隊を沖縄本島北部で極秘に編成しました。
 当時、アメリカ軍は日本の本土を攻撃する前線基地を設置するためにまず沖縄本島中部に上陸して近くの飛行場を奪い、その後、正規軍が拠点を置く南部に攻め込んでくるとみられていました。
 このため、北部の山岳地帯にゲリラ部隊を配置し、上陸した敵を後方から攻撃してかく乱する作戦を立てたということです。編成された部隊は、およそ1000人の隊員のほとんどを地元の10代の少年が占め、「故郷をみずからの手で護る」という意識を持たせるため、「護郷隊」と名付けられました。
 護郷隊について調査している地元の専門家によりますと、戦闘などで隊員160人が命を落としました。
 一方、秘密部隊だったため沖縄でも戦後長く存在をほとんど知られず、部隊や戦闘の実態について解明されていないことも多いということです。
 護郷隊について調査している恩納村「村史編さん係」の瀬戸隆博さんは「護郷隊の戦争が沖縄だけのものでなく、さらにバージョンアップして本土決戦で行われた可能性があった。日本では世界各地で起きているテロなど遠いものとして実感があまりないと思うが、かつて日本で10代の子どもを戦場に送り出し、命を落とすことを推奨して犠牲にしており、決してひと事ではない」と話しています。
元少年兵「戦場という地獄 仲間が次々に」
 沖縄県大宜味村に住む瑞慶山良光さん(91)は16歳だった昭和20年3月に召集され、「第二護郷隊」に配属されました。
 瑞慶山さんによりますと、野戦病院ではベッドの代わりに板が敷かれ、収容された負傷兵が手当てを受けていたということです。そして、アメリカ軍が攻め込んでくると負傷して動けなくなった兵士の中には捕虜になって情報が漏れるのを避けるため、軍医によって銃殺された人もいたということです。そのうえで、部隊が陣地を撤退する際、残った負傷兵らは手りゅう弾を手渡されみずから命を絶ったということです。
 瑞慶山さんは「上陸したアメリカ軍と戦えということになり、僕たち少年が最初の戦いを担いました。いつ殺されるのかという恐怖心の中、仲間が次々と『アンマー』と叫びながら死んでいった。戦場という地獄に行き、戦後はPTSDになったうえに護郷隊は正規軍ではないとして補償も受けられないなど苦しい日々を過ごしました」と話していました。

「捨て石の捨て石」沖縄戦で招集された少年ゲリラ兵「護郷隊」の真実 (2/3) 〈AERA〉|AERA dot. (アエラドット)
 謎に包まれ、歴史に埋もれかけていたこの部隊の調査・研究を続け『陸軍中野学校沖縄戦』(吉川弘文館)を出した、名護市教育委員会市史編さん係の川満彰(かわみつ・あきら)さん(58)は、最大の理由は「兵士不足」にあったと指摘する。
「44年10月に米軍がフィリピンのレイテ島に上陸すると、大本営は台湾防衛のため、沖縄に駐留していた最精鋭部隊である第9師団を台湾に移動させます。沖縄を守る部隊は減っていた。目をつけたのが、少年でした」
 川満さんによると護郷隊は「捨て石の捨て石」だったという。大本営は、沖縄を守る第32軍が壊滅すると明確にわかっていた。第32軍も自分たちは国体護持のための捨て石だとわかっていた。しかし駒となる兵隊がいない。捨て石の第32軍が、自分たちの捨て石として使うために少年たちを集めた、という意味だ。
 このゲリラ兵を組織したのが、諜報(ちょうほう)員養成機関として知られる「陸軍中野学校」の若きエリート将校たちだった。
 それまで、沖縄戦陸軍中野学校出身者が関与していたことは沖縄戦史研究者たちによって判明していた。ただ、大本営の命を受け組織的にどのように関与していたのかはよくわからなかった。川満さんは、10年にも及ぶ元少年兵への聞き取りや調査を行うなかで、その関係を明らかにしてきた。
 川満さんの元護郷隊員への聞き取りによると、米軍との戦闘以外でも死んでいった少年兵たちがいたことがわかった。スパイ容疑で「処刑」されたり、自決を迫られたり、軍医に殺されたりした少年兵もいたという証言があったのだ。
 スパイ容疑で殺されたのは、集合命令に遅刻した少年兵。分隊長にスパイだと決めつけられると、周りの少年たちにカズラで目隠しをされ手を縛られ、炭焼き小屋の上に立たされた。そして分隊長の「撃て!」の合図で、3、4人が一斉に撃った。誰の弾が当たったかわからないようにするためだったという。
 こうした話を、元少年兵たちは淡々と川満さんに語った。戦場での精神状態を「妄動」だったと川満さんに語った元少年兵がいたというが、友人らが傍らで死んでいく様子を見ても何も感じなくなっていったのだ。

『陸軍中野学校と沖縄戦』 川満彰著 : 書評 : 本よみうり堂 : エンタメ・文化 : ニュース : 読売新聞オンライン
 大本営陸軍部直轄で、ゲリラ戦、防諜、策略、宣伝などを任務とする特殊部隊の養成組織・陸軍中野学校はよく知られていよう。一九七四年にフィリピンのジャングルから生還した小野田寛郎も卒業生である。
 語学堪能で長髪も多い陸軍中野学校の卒業生たち四二名が、本土決戦のための時間稼ぎと見定められた沖縄本島と離島に潜伏し、地元の少年たちを猛特訓して「護郷隊」を組織、ゲリラ戦や情報戦等に従事させた事実が次々に明らかにされる。生き残った卒業生と護郷隊に対する膨大な聞き取りと史料調査をもとに積み上げられた歴史研究である。
 大隊長の村上治夫は長勇参謀長に、ゲリラ戦は「こんな小さな島では通用しません」と初対面で訴えていた。そもそもが無謀な計画だった。
 さらに、満一七歳未満の少年が法令違反であるにもかかわらず強制的に志願させられ、護郷隊の内実も知らぬまま、危険な任務に向かわされる。だから生き残った元少年兵は、著者に「なぜ、私たちのような少年が兵隊にならないといけなかったのか、教えて欲しい」と尋ねるのだった。
 少年兵の多くは自分の命より国体*6が大事であると叩たたき込まれ「靴を脱ぎ足の親指を引き金にあて銃口を口にくわえる自決訓練」もさせられた。米軍の捕虜にならなければ、少年たちは、米軍の猛攻撃や手榴弾による自決によって散っていった。
 また、波照間島から西表島マラリア地帯へ島民を強制疎開させ(ボーガス注:波照間島民をマラリアで)多数死亡させ、波照間島国民学校の児童を体罰で教員に殺させた酒井喜代輔も、陸軍中野学校出身の潜伏特務員。彼が戦後残した次の言葉に、沖縄戦と真摯に向き合うことを避けてきた戦後日本の宿痾を見ずにはいられない。
 「軍の命令で仕方なくやった」。
 戦後の人生を亡き部下の慰霊に捧ささげた村上と対照的に描かれる。
 大本営は、沖縄でのゲリラ戦の経験を本土決戦で活かすはずだった。このありえたかもしれない過去を、その苦味とともにかみしめたい。

*1:沖縄戦関係の著書として『沖縄戦と民衆』(2001年、大月書店)、『沖縄戦・強制された「集団自決」』(2009年、吉川弘文館)、『沖縄戦が問うもの』(2010年、大月書店)、『沖縄戦を知る事典』(共著、2019年、吉川弘文館)など

*2:沖縄戦の悲劇を語る上において語る必要も無いはずの「靖国神社云々」という言葉は阿部と教え子にとって何を意味するのか。「阿部やかつての教え子」は「日本会議安倍晋三ら極右のように靖国を今も美化してる」と誤解されかねない発言をエクスキューズもなしにそのまんま紹介する阿部&それを何とも思わないらしいリベラル21も呆れたバカです(いやリベラル21はともかく、阿部と教え子は本当に靖国支持者かもしれませんが)。それのどこが「私たちは護憲・軍縮・共生を掲げてネット上に市民メディア、リベラル21を創った」なのか。嗤わせるな、ふざけるな、と言う話です。

*3:著書『満洲分村移民を拒否した村長:佐々木忠綱の生き方と信念』(2018年、信濃毎日新聞社

*4:陸軍省兵務局長、人事局長、陸軍次官、陸軍航空総監、鈴木内閣陸軍大臣など歴任(阿南惟幾 - Wikipedia参照)

*5:第一次近衛内閣文相、厚生相、平沼内閣内務相、内大臣など歴任。戦後、終身刑判決を受けるが後に仮釈放(木戸幸一 - Wikipedia参照)

*6:国家体制の意味。戦前日本だと「天皇制」のこと。