今日の産経ニュース(8/22分)(追記・訂正あり)

■【主張】米政権幹部の解任 現実路線への転換求める
http://www.sankei.com/column/news/170822/clm1708220002-n1.html
 バノンを更迭したところでどうにもならないでしょうね。そもそも「バノンの主張が問題だから」というより「政権内部でバノンが反バノン派と対立して内紛を引き起こしてる上、政権外部からも批判を浴びてるから」批判逃れ、内紛防止で更迭したに過ぎないからです。


■【憲法76条の壁・軍法会議なき自衛隊(上)】“素人”裁判 国防が「殺人罪」 一般法廷 軍事的知識なく…「これでは戦えない」
http://www.sankei.com/politics/news/170822/plt1708220003-n1.html
 産経もいよいよとんでもない事言いだしてきたなと言うのが最初の感想ですね。
 まあ、もちろん9条の問題もあるんですが、産経がいう76条では

 特別裁判所は、これを設置することができない。行政機関は、終審として裁判を行ふことができない。

となっています。
 なお、ウィキペディア日本国憲法第76条」は

・特別裁判所とは、軍法会議、皇室裁判所、行政裁判所*1憲法裁判所などの、通常の裁判所体系における上訴体系に服さない裁判所を言うものと解されている(ボーガス注:平たく言えば最高裁や高裁に上訴できない通常の裁判所システムからは独立した裁判所と言う事です)。たとえば、最高裁判所の下に位置する形で、家事審判を行う家庭裁判所や知的財産に関する知的財産高等裁判所を設置すること、また各種行政機関が一次的な審査機関として裁判類似の審判手続等を司る機関を設けることは(ボーガス注:最高裁や高裁に上訴できるので)妨げられない。行政機関が審判を行う場合には、当該機関による決定は、最終的な決定とはならず、裁判所への上訴の可能性を求められることとなる。これらの行政機関による審判機関としては、海難審判所特許庁公正取引委員会などが挙げられる。

としています。
 つまりは「軍隊内に審判機関(裁判所類似の組織)を設けること」は一応禁止はされない。ただしそれを「終審」つまり最高裁や高裁に上訴できない独立した裁判所にすることはできない、つうことです。戦前の軍法会議は「226事件裁判」がわかりやすいですが、あれは「226事件裁判=終審」で最高裁(当時は大審院)、高裁に上訴できません。
 これを産経の言うように「最高裁や高裁に上訴できない裁判所を軍隊内につくって何が悪い」と言うのはかなり大幅に法体系を変えてるわけで「是非はともかく*2」相当の議論が必要で安易に「軍法会議をつくろう」といっていい話じゃない。
 そういう特別裁判所システムだと何が問題になるか(勿論弊害があり得るから日本国憲法で禁止されたわけです)。
 先ず第一に最高裁から独立しているので「最高裁につながる通常の裁判所システム」と法解釈の整合性がとれなくなる危険性があります。
 第二に「226事件*3裁判がわかりやすい例」ですが「軍隊の論理」で裁判が歪められる危険性がある。
 有名な話ですが、226事件での北一輝西田税死刑なんて完全なでっちあげの訳です。
 北や西田は青年将校を「支援し、内乱犯罪に関与した犯罪者」とは言えるかも知れない。処罰自体はやむを得ないかも知れない。しかし彼らは事件の発生を事前に知りませんでした。そんな彼らが首謀者、黒幕の訳がない。実際、青年将校たちは「北や西田の指示でやった」なんてことは何一つ自白していません。
 にもかかわらず226事件裁判は彼ら2人に「青年将校に反乱実行を唆した黒幕,首謀者」という無実の罪をなすりつけて死刑判決で抹殺しました。
 226事件で黒幕的存在がいるとすればむしろ彼ら2人より「青年将校が首相にしようとしていた」皇道派のドン真崎甚三郎の方がよほど黒幕的存在です(ただその真崎も事前には犯行を知らされてはいません)。しかし真崎は「予備役編入」されたものの、それ以上、何の処罰も受けませんでした。
 なお話がずれますがこの事件の事後処理では

226事件(ウィキペ参照)
 事件当時に軍事参議官であった陸軍大将のうち、荒木貞夫*4・真崎甚三郎*5・阿部信行*6林銑十郎*7の4名は3月10日付で予備役に編入された。侍従武官長の本庄繁*8は女婿の山口一太郎大尉(事件当時、歩兵第1連隊中隊長。226事件裁判で無期禁固)が事件に関与しており、事件当時は反乱を起こした青年将校に同情的な姿勢をとって昭和天皇の思いに沿わない奏上をしたことから事件後に辞職し、4月に予備役となった。陸軍大臣であった川島義之*9大将は3月30日に、戒厳司令官であった香椎浩平中将は7月に、それぞれ不手際の責任を負わされる形で予備役となった。
 やはり皇道派の主要な人物であった陸軍省軍事調査部長の山下奉文*10少将は歩兵第40旅団長に転出させられ、以後1940年(昭和15年)に陸軍航空本部長を務めた他は二度と中央の要職に就くことはなかった。
 また、これらの引退した陸軍上層部が陸軍大臣となって再び陸軍に影響力を持つようになることを防ぐために、次の広田弘毅*11内閣の時から軍部大臣現役武官制が復活することになった。この制度は政治干渉に関わった将軍らが陸軍大臣に就任して再度政治に不当な干渉を及ぼすことのないようにするのが目的であったが、後に陸軍が後任陸相を推薦しないという形で内閣の命運を握ることになってしまった。

ということで「青年将校に近い皇道派そのもの、ないしそのシンパで危険人物」と見なされた「荒木貞夫、真崎甚三郎、本庄繁、香椎浩平、山下奉文」は軍中央から排除され、東条英機*12武藤章*13らいわゆる統制派が陸軍の事件を握るわけです。
 話が脱線しましたが元に戻します。
 軍法会議は「陸軍をできる限り免罪したい」という「軍隊の論理」から「黒幕は北一輝西田税」というでっちあげを行い、そしてそうした謀略が成功するようにこの裁判を「弁護人無し」「裁判を非公開で終審」にしました。
 ウィキペ「226事件」には

陸軍省軍務局軍務課の武藤章らは、緊急勅令による特設軍法会議の設置を決定し、直ちに緊急勅令案を起草し、閣議、枢密院を経て、3月4日に東京陸軍軍法会議を設置した。特設軍法会議は常設軍法会議にくらべ、裁判官の忌避はできず、一審制で非公開、かつ弁護人なしという過酷で特異なものであった。匂坂春平陸軍法務官らとともに、緊急勅令案を起草した大山文雄*14陸軍省法務局長は「陸軍省には普通の裁判をしたくないという意向があった」と述懐する。東京陸軍軍法会議の設置は、皇道派一掃のための、統制派によるカウンター・クーデターともいえる。
226事件裁判で民間人被告人を受け持っていた吉田悳裁判長が「北一輝西田税226事件に直接の責任はないので、不起訴、ないしは執行猶予の軽い禁固刑を言い渡すべき」と主張したが、寺内寿一*15陸軍大臣は、「両人は極刑にすべきである。両人は証拠の有無にかかわらず、黒幕である」と死刑の判決を示唆した。

という記述があります。陸軍も北、西田が黒幕と見なす証拠がないことを熟知しながら「陸軍を守るため」にでっち上げを実行したわけです。そのためには通常の裁判はしたくなかった。
 軍法会議にはそう言う危険性がある。
 あるいは、戦後日本で言えば「なだしお事件」「あたご事件」など自衛隊の関与する事件の裁判が「軍隊の論理」で歪められて「自衛隊に不当に有利な判決が出かねない」つうことです。
 仮に「産経の言うように」最高裁から独立した軍法会議を設置するにしてもそうした問題点をどう処理するかはよく考えないといけない(勿論俺個人は軍法会議設置には反対の立場ですが)。
 まあ産経は「自衛隊に有利で何が悪い」「なだしおやあたごの事件で自衛隊が裁かれたことは問題だった」ととんでもない事考えてる疑い濃厚です。

*1:以上の裁判所は戦前日本に存在した特別裁判所です。

*2:俺は是とはしませんが

*3:陸軍青年将校鈴木貫太郎侍従長(後に首相)、斎藤實内大臣高橋是清蔵相、渡辺錠太郎陸軍教育総監などを襲撃。斎藤、高橋、渡辺を殺害し、鈴木に瀕死の重傷を負わせるなどした内乱事件。

*4:犬養内閣陸軍大臣、近衛内閣文部大臣など歴任。戦後、東京裁判終身刑(後に仮釈放)。ウィキペ「荒木貞夫」曰く『1933年(昭和8年)、大阪でゴーストップ事件が発生。犬養内閣陸相であった荒木は「陸軍の名誉にかけて大阪府警察部を謝らせる」と主張し、内務省と対立した。1933年10月には外国人記者団との記者会見において、「竹槍三百万本あれば列強恐るるに足らず」と口にして記者たちを呆然とさせた(いわゆる竹槍三百万論)。石原莞爾はこうした荒木の言動を徹底的に嫌っていた。226事件当時、陸軍省で荒木と遭遇した石原(当時、参謀本部作戦課長、陸軍大佐)は荒木に向かって「お前のようなバカ大将がいるからこんなとんでもない事態になるんだ!」と罵倒した。荒木が「陸軍大将に向かってバカとはなんだ!。陸軍部内の規律と秩序を考えろ!」と言い返すと石原は「この状況のどこに規律と秩序があるんですか!」と猛然と言い返し、両者はあやうく乱闘になりかけたが、その場にいた安井藤治東京警備軍参謀長が二人をおさえて何とか事なきを得たという』。

*5:台湾軍司令官、参謀次長、陸軍教育総監を歴任。

*6:陸軍省軍務局長、陸軍次官、台湾軍司令官を経て、226事件当時、軍事参議官。事件の責任をとって予備役編入された後も「皇道派」の荒木や真崎とは違い首相、朝鮮総督の要職を歴任。

*7:斎藤、岡田内閣陸軍大臣、首相など歴任

*8:予備役編入後は傷兵保護院(後に軍事保護院)総裁、枢密顧問官を歴任。1945年11月、GHQから戦犯として逮捕命令が下ると自決している。

*9:朝鮮軍司令官、岡田内閣陸軍大臣など歴任

*10:第25軍(マレーシア)司令官、第1方面軍(満州)司令官、第14方面軍(フィリピン)司令官など歴任。戦後のBC級戦犯裁判でいわゆるマニラ虐殺事件の責任を問われ死刑判決。

*11:斎藤、岡田、近衛内閣外相、首相など歴任。戦後、A級戦犯として死刑判決。

*12:関東憲兵隊司令官、関東軍参謀長、陸軍次官、近衛内閣陸軍大臣などを経て首相。戦後、A級戦犯として死刑判決

*13:1939年に陸軍省軍務局長となるがその後、東条と対立、軍中枢から外される。戦後、「第14方面軍(フィリピン)参謀長」時代のマニラ虐殺事件の責任を問われ戦犯として死刑判決

*14:戦後、広島県井原市

*15:西園寺、桂内閣陸軍大臣朝鮮総督、首相を歴任した寺内正毅の息子。台湾軍司令官、広田内閣陸軍大臣、北支那方面軍司令官、南方軍総司令官など歴任