新刊紹介:「歴史評論」8月号

・詳しくは歴史科学協議会のホームページ(http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/)をご覧ください。小生がなんとか紹介できるもののみ紹介していきます。まあ正直、俺にとって内容が十分には理解できず、いい加減な紹介しか出来ない部分が多いですが。
特集『戦争と科学・科学技術』
【前置き】
 もちろん今回の特集の問題意識は
赤旗
軍事研究禁止を継承/学術会議 50年ぶりに声明
主張/学術会議の新声明/軍事研究への明確な拒否回答
進む軍産学共同/防衛省の委託研究 分担機関に6大学/藤野議員への回答で明らかに
大学での軍事研究反対/学術会議声明1年で集い
軍事研究反対声明 多くの大学が対応/学術会議アンケート
戦争目的の研究 従わないために/日本学術会議がフォーラム/審査方針などつくる動きも

科学者は、なぜ軍事研究に手を染めてはいけないか 池内了著 実態示し知識人の責務説く :日本経済新聞
 『科学者と戦争*1』『科学者と軍事研究*2』の著書があり、科学研究と軍事とのかかわりを批判してきた著者*3が、次代を担う若手研究者向けに書き下ろした。「軍事研究に携わるべきではない」という明確なメッセージを発するのが目的だ。
 特に防衛装備庁の「安全保障技術研究推進制度」の批判にページを割いた。この制度は大学の研究者らから「防衛分野の将来に資する」先端的な研究を公募する。大学の基礎研究費の削減や研究力の低下が叫ばれるなか、最大で1課題あたり20億円支給されるという気前の良さが話題を集めた。
 防衛装備庁によれば実施するのは「基礎研究」で「成果の自由な公表」が可能とされているが、実態はどうなのか。細かく検証し、まやかしが多いと結論づけている。応募してもよいのではないかと考える研究者の主張には逐一、反論し、知識人としての責任や社会から課せられた責務としての「ノーブレスオブリージ」が大切だと説く。
 世界は過去の教訓から戦争を回避するようになっており軍事研究は膨大な無駄だという主張などは、最近の緊迫した国際情勢*4をみれば異論もあろう。全体的に一方的論調が目立つが、社会とのかかわりを深く考えたがらない傾向の目立つ研究の世界に一石を投じる内容ではある。

龍谷大:軍事研究「関与しない」 学長が声明 教育への投資減/防衛関連の予算増 「強い懸念」 /京都 - 毎日新聞
 龍谷大(京都市)は「あらゆる軍事研究に関与しない」とする入澤崇学長の声明をホームページ(HP)上で発表した。声明は20日付で、私立大への助成金が減らされる一方で防衛費が著しく増加しているとし、「教育への投資が少なくなり、防衛ないし軍事関連の予算が増えていることについて大学として強い懸念を覚える」と警鐘を鳴らしている。

などといった「問題意識と同じところ」にあるわけです。なお日経の書評は「財界や安倍政権の機関紙」と呼ばれる新聞らしい論調(軍事研究について論じることにはもちろん反対しないが、軍事研究に全否定的な池内氏の結論には賛同しがたい)と言うべきでしょうか。
【前置き終わり】


■戦時下における研究支援制度の拡充 (水沢光*5
(内容紹介)
・1930年代から1940年代の日本の公的研究支援制度について述べられている。
・1933年に日本学術振興会研究費制度が創設される。この研究費は以前からあった文部省の科学研究助成金の約7倍と格段に金額が大きかったが、
1)軍部や財界の委託研究費が多い
2)その結果として「工学分野」「応用研究」の割合が非常に多いという問題点があった。
・その結果、「基礎研究」「工学以外の研究」への研究支援制度を拡充するためとして1939年に文部省科学研究費交付金が創設された。
・また1940年には文部省専門学務局に「科学課」が新設され、科学課は1942年には科学局に格上げされた。
・太平洋戦争開戦後は「科学の戦力化」が打ち出され、科学研究費交付金もその影響を受けざるを得なかったが、しかし残された資料からは「太平洋戦争開戦後」も極端に工学分野が増大するようなことはなかったことが見て取れる。
 「太平洋戦争開戦後の公的研究支援制度」については、今後のさらなる研究が必要だが
1)軍事研究については軍部の予算も存在したこと
2)文部省は「基礎科学の振興」と言う方針を維持し続けたこと
3)(2)に関連して)文部省は、科学研究費交付金の予算配分を、原則として「科学者の集まりである学術研究会議(現在の日本学術会議の前身)」の決定に委ねたこと(つまり文部省からあれこれ指示することはできる限り避けたこと)
で「科学の戦力化が打ち出された後も」、科学研究費交付金は軍事分野に急激に偏重することはなかったと思われる。
 なお、文部省科学研究費交付金制度が創設された1939年といえば文部大臣(平沼内閣)は陸軍大将の荒木貞夫であり、その後も小磯*6内閣で陸軍中将の二宮治重*7が文部大臣に就任したが、この交付金について、軍事研究分野への傾斜があまり認められない点は興味深い。

参考

■科学研究費助成事業
・1939年(昭和13年)に文部省科学研究費交付金の制度が創設された。陸軍大将荒木貞夫*8が平沼*9内閣文部大臣を務めていたときで、300万円(現在の金額で約43億円)の予算が認められた。
 当初は自然科学分野だけが助成対象であったが、文部省・科学振興調査会の平賀譲*10らの後押しで1943年(昭和18年)度から人文・社会系の諸学問にも拡大された。

広重徹『科学の社会史(上)-戦争と科学』 - yokoken001’s diary
・研究費の増大と諸機関の連絡調整の促進という点で、著しい前進をもたらしたのが、日本学術振興会(以下、学振)であった。桜井錠二*11古市公威*12、小野塚喜平次*13の学会長老らの呼びかけで、1931年に学士院に集まり、協議したことをきっかけに、1932年に正式に誕生した。学振の意義は、その桁違いの額の大きさであり、商工省や学士院の補助金を合わせても、その3倍近い額にも上った。さらに重要なことは、学振が個人研究費ともに、総合研究を促進しており、大学や研究機関の間の連携を図り、研究活動を産業軍事に結びつける狙いを持っていたということだった。このような豊富な資金と、近代化への志向とに支えられた学振は、また、日本の研究水準を上昇させた。たとえば、(ボーガス注:湯川秀樹朝永振一郎という)2人のノーベル賞受賞者を出した原子核宇宙線の研究は、学振の第10小委員会によって、本格的軌道に乗った。戦争へ向けての科学の国家的動員の中で、初めて研究らしい研究が行われ、世界水準に近づくことができた。
・第6章「科学技術新体制」では、日中戦争の長期化に伴って登場した科学動員の新しい側面について述べられる。新しい要素とは、第一に1938年の内閣改造で、陸軍大将荒木貞夫が文部大臣になったことを契機に、文部省による科学行政の積極化が始まったということである。
 1938年8月にはさっそく科学振興調査会が設置され、ここで文部省の諮問に応じて科学振興に関する重要事項が調査審議されるようになった。そして、調査会自らの建議で、1939年文部省科学研究費交付金(以下、科研費)が創設され、その事務を担う独立課として科学局が1942年発足した。この科研費の創設の背景には、基礎科学が十分でないとの認識であり、荒木は、科研費は何の役に立つかなど言わずに、使い捨てにするつもりでなければならないと述べている。

 上で紹介した広重徹*14の著書『科学の社会史(上)(下)』は岩波現代文庫で入手が出来ます。他に広重の著書としては『近代科学再考』(朝日選書→後にちくま学芸文庫)、『思想史のなかの科学』(共著、平凡社ライブラリー)があります。
 さて、話が脱線しますが
 基本的に、理数系の学問振興と政治体制・民主主義の程度は関係ないと思う - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)の指摘「基本的に、理数系の学問振興と政治体制・民主主義の程度は関係ないと思う」が

広重徹『科学の社会史(上)-戦争と科学』 - yokoken001’s diary
 このような豊富な資金と、近代化への志向とに支えられた学振は、また、日本の研究水準を上昇させた。たとえば、(ボーガス注:湯川秀樹朝永振一郎という)2人のノーベル賞受賞者を出した原子核宇宙線の研究は、学振の第10小委員会によって、本格的軌道に乗った。戦争へ向けての科学の国家的動員の中で、初めて研究らしい研究が行われ、世界水準に近づくことができた。

という広重の指摘でも裏付けられた(?)わけです。
 要するに科学研究振興で大事なことは「カネとか設備」であって「民主主義」じゃないと。
 「学振が誕生し、科学研究が発展したという1932年」は「日本の民主主義が進展した年」なのか。そんなことはないわけです。さすがに阿部治平も「日本の民主主義が進展したので1932年に学振が出来て、科学も発展したのです」とはいわないでしょう。
 まあ、こんなのは当たり前の話ですけど。戦前日本に限らない。ナチドイツだって、ソ連だって、何だって同じです。
 あるいは後で紹介する■二〇世紀の農業技術と戦争技術(藤原辰史)に名前が出てくる「ノーベル賞受賞者フリッツ・ハーバー(彼がノーべル賞を受賞した業績である『新技術』フリッツ・ハーバー法は帝政ドイツ時代に発表された)」だって同じです。
「基本的に、理数系の学問振興と政治体制・民主主義の程度は関係ない」。
 そんな当たり前のことも

リベラル21 密告は習性なのか――中国の大学において教育・研究の発展を阻むもの
 社会科学だけではない。科学・技術の分野でもこれでは定説を越えた新学説が生れにくい。伝統的芸術の革新もできない。実に中国にとって不幸な時代がやってきたといわなければならない。

と書いて「中国相手にだけは」認められない阿部治平が「異常な反中国」でおかしいだけです。俺は「異常な反中国&異常なアンチ日本共産党&異常なダライ・ラマ盲従分子」の「阿部治平」が「反吐が出るほど大嫌い」だし、「狭量な性格」なので機会があるごとにこうして阿部への悪口を書くことにしています(苦笑)。しかし阿部もいい加減自分の間違い(理数系の学問振興と政治体制・民主主義の程度は関係ある、は間違い)を認めればいいのに。たぶん「未だに巣くう会と付き合ってる家族会」と同じで「つまらないメンツにこだわってる」んでしょう。阿部も呆れたバカです。
 なお、「更に話が脱線しますが」荒木貞夫といえば

荒木貞夫ウィキペディア参照)
・1933年(昭和8年)、大阪でいわゆるゴーストップ事件が発生。犬養*15内閣陸相であった荒木は「陸軍の名誉にかけて大阪府警察部を謝らせる」と憤慨し、内務省と対立した。
 1933年10月には外国人記者団との記者会見において、「竹槍三百万本あれば列強恐るるに足らず」と口にして座を呆然とさせたという(竹槍三百万論)。さらに来日中の作家ジョージ・バーナード・ショーとの会談において日本人は地震によって強靭な精神を鍛えたのだと主張したという(地震論)。
石原莞爾*16は荒木のことを「無能な男」と徹底的に嫌っていた。二・二六事件の最中、陸軍省で荒木と遭遇した石原(当時陸軍大佐)は荒木に向かって「お前みたいなばかな大将がいるからこんなことになるんだ」と罵倒した。荒木が「何を無礼な!上官に向かってばかとは軍規上許せん!」と言い返すと石原は「反乱が起こっていて、どこに軍規があるんだ」と猛然と言い返し、両者はあやうく乱闘になりかけた。
・1938年(昭和13年)に、第1次近衛内閣の文部大臣に就任すると同時に、「皇道教育」の強化を前面に打ち出した。
 戦後の東京裁判においては、文相時代の事柄も追及されることとなった。裁判の法廷において、証人として出廷した大内兵衛(戦後、法政大学総長)は、法廷証言で、軍事教育を通じて、軍部による学園弾圧が強化されていった過程を「1938年、荒木文相の時、各大学における軍事教育が一層強制的となり、軍部の学校支配が強化された」「軍事教練は、荒木さんが陸相当時、東大で採用するよう要求があった。この時東大は拒絶したが、1938年に荒木さんが文相になった時、軍事訓練は強制的となった」と証言している。
・口癖は「非常時」「皇国精神」「皇軍」だった。それまで「国軍」という言い方が普通であった日本陸軍を、「皇軍」と称したのは荒木がはじめと言われる。
青年将校たちとは友達感覚で接し、自宅に彼らを年中たむろさせ、明け方まで痛飲することも多かったことで知られていた。青年将校たちは、面と向かって大将である荒木を呼び捨てにし、荒木も怒るどころかニコニコしながら「若い者は元気があって良い」と上機嫌であったという。そのため、他の将校たちから顰蹙を買うことも多く、陸軍内で問題視された「下克上」の風潮も、「関東軍板垣征四郎*17石原莞爾)による満州事変実行など他の理由も当然ある」ものの、荒木の言動も大きな要因の一つだったと言われている。

ということで「ゴーストップ事件での横暴な振る舞い」や「合理主義軽視、精神主義重視としか思えない言動」などで悪名高い御仁ですが、文相時代の荒木の発言

広重徹『科学の社会史(上)-戦争と科学』 - yokoken001’s diary
「(基礎研究を振興するためには)科研費は何の役に立つかなど言わずに、使い捨てにするつもりでなければならない」

は実に普通です。
1)荒木が「科学技術分野には特に関心がなかった」ので「その点については文部官僚や学者のいうとおりに動いていただけ」なのか、
2)ある程度は彼にも彼なりの信念(例えば「軍事研究を進展させるには『急がば回れ』でむしろ基礎研究を重視すべきだ」「軍事研究を重視して他の研究を犠牲にしたらかえって国力が劣る。軍のために国があるのではない」「軍事研究は基本的に軍事費でやればいい」「科学のことは基本的に科学者に任せるべきだ」など)がありその信念から「文部官僚や学者の意見に賛同して動いていた」のか、
3)あるいは「大学への軍事教練導入」など荒木のやりたい右翼的なことを大学側に飲ませるためのあめ玉としての「科学研究費増大」だったのか
が気になるところです。
 いずれにせよ「荒木文相による科学予算の増大」も「基本的に、理数系の学問振興と政治体制・民主主義の程度は関係ない」事を証明する事実の一つです。さすがに阿部治平も「荒木貞夫は民主主義者だから、文相時代に科学予算を増やしたのです」とはいわないでしょう(勿論阿部への皮肉)。
 なお、「更に話が脱線します」がそれにしても当時の大学関係者が荒木文相をどう評価していたのか知りませんが、仮に「大学での軍事教練などマイナス面があるにしても荒木さんは文相として科学研究費を大幅に増やしてくれた」として感謝する人間がいたとしても理解は出来ます。
 なんとも無様で無残な話だと思う(拉致被害者家族の有本明弘氏) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)も批判していますが、安倍や「荒木は荒木でも、荒木和博」に対する家族会の態度は理解が出来ませんね。安倍や「巣くう会の荒木」が「荒木文相による科学研究費増大」のような何かをやってくれたのか。何もやってないわけです。
 荒木貞夫をたとえにすれば

「陸軍の名誉にかけて大阪府警察部を謝らせる」(陸軍大臣時代の荒木貞夫

レベルの態度(経済制裁)しか北朝鮮にはとってない。
 なお「ゴーストップ事件の顛末」についていえば

 最終的には、事態を憂慮した昭和天皇の特命により、大阪第四師団長・寺内寿一*18中将の友人であった白根竹介*19兵庫県知事が調停に乗り出した。天皇が心配していることを知った陸軍は恐懼し、事件発生から5ヶ月目にして急速に和解が成立した。11月18日、井関第4師団参謀長と粟屋大阪府警察部長が共同声明書を発表し、11月20日に当事者の戸田巡査と中村一等兵が和田良平検事正の官舎で会い、互いに詫びたあと握手して幕を引いた。和解の内容は公表されていないが、警察側が譲歩したというのが定説となっている。

というなんとも締まらない結末になっています。荒木のいう「陸軍の名誉にかけて大阪府警察部を謝らせる」というほど「陸軍が全て正しい、と大阪府警がいう」ような話には少なくとも表向きはなりませんでした。
 そして「更に話が脱線します」が、近衛文麿という人は

【第1次近衛内閣】
・文部大臣:荒木貞夫(陸軍)
外務大臣(拓務大臣兼務):宇垣一成*20(陸軍)
・内務大臣:末次信正*21(海軍)
【第2次近衛内閣】
・商工大臣:豊田貞次郎*22(海軍)
・司法大臣:柳川平助*23(陸軍)
【第3次近衛内閣】
厚生大臣:小泉親彦*24(陸軍)
・商工大臣:左近司政三*25(海軍)
外務大臣(拓務大臣兼務):豊田貞次郎(海軍)

ということで「荒木以外でも」陸軍大臣海軍大臣でない「軍人大臣が多い」点が興味深いと思いますね。

水沢光「日中戦争下における基礎研究シフトー科学研究費交付金の創設」『科学史研究』第51巻(2016年)、210-219頁。 - yokoken001’s diary
 1939年文部省は科学研究費交付金300万円を予算に計上する。日本学術振興会の研究費が応用研究に重点をおいていたのに対し、科学研究費交付金は基礎的な分野の研究を推奨するという特徴を持っていた。実際、報告書からも多くは戦時下の緊急問題とは直接関係のない基礎研究であったことがわかる。1930年後半以降の研究費の推移をまとめると、日中戦争の元で、当初、応用研究が拡大したが、研究を進めるなかで、大学の研究環境が貧弱であることが障害になっているという認識が広がった。そのため、1939年以降、戦時下であるにもかかわらず、基礎研究の援助に重点を置く科学研究費交付金が創設されることになった。つまり、1939年に応用研究の推進から、基礎研究への重視へと「基礎研究シフト」がおこった。

三 学術行政の強化:文部科学省(文部省『学制*26百年史』(1981年(昭和56年)発行))
 研究の助成のため、文部省にはじめて自然科学奨励金が設けられたのは大正七年からであるが、その額も大正十一年の一五万円からしだいに削減されるような有様であった。このような背景のあとに昭和七年、日本学術振興会が誕生したのは学界にとってまさに画期的なことであり、それだけその役割も大きかった。
 しかし、行政面からも学術を担当する文部省においては、学術行政を専掌する部局を欠き、わずかに専門学務局の一課に学芸課があり、学校行政以外の学術・芸術全般を取り扱っていたにすぎなかった。
 国家社会が、国力の基盤は究極において科学の力にまつべきものであるとの認識を深めたのは、国防国家の確立が呼号されはじめた昭和六年の満州事変のころからであり、その前後から政府もしだいに科学に対する関心を深めた。さらに、昭和十二年七月、(ボーガス注:盧溝橋事件による)日華事変*27の勃発からわが国は長期にわたる戦時体制に突入し、国家総力戦体制の進展とともに、戦争遂行の原動力としての科学技術の重要性はいっそう明確となった。この当時から国家の科学に対する関与はさらに積極化し、行政上にも種々の施策が講ぜられるに至った。
 まず、昭和十三年八月、文部省は科学振興調査会を設置した。これは、学術研究会議の代表と文部省首脳が会談の結果、従来の学術行政の貧困を改め、「我ガ科学界ノ現状ヲ批判検討シ其ノ制度施策内容並ニ運営等各般ニ亘ツテ之ヲ刷新拡充シ以テ我ガ国科学ノ根木的振作ヲ図ルタメ」必要な具体的方策を審議することを目的とするものであった。調査会は、十四年三月から十六年三月まで「人材養成ノ問題及研究機関ノ整備拡充並ニ連絡統一ニ関スル件」(答申第一)、「大学ニ於ケル研究施設ノ充実ニ関スル件」、「大学専門学校卒業者ノ増加ニ関スル件」(答申第二)、「科学研究ノ振作及連絡ニ関スル件」、「科学教育ノ振興ニ関スル件」(答申第三)の答申を行なったが、その内容は科学振興に関し各般にわたって重要な具体策を述べたものであった。
 これらの答申に基づいて、文部省は、まず昭和十四年度の追加予算にはじめて科学研究費交付金三〇〇万円を計上した。科学研究奨励金が、昭和六年以降七万三、〇〇〇円にすえ置かれたのに比し、これは飛躍的な金額であった。当時、わが国の中国における軍事行動*28に対し、諸外国の反感が激化し、わが国に対する科学封鎖の傾向が著しくなり、この危機を打開するためには、わが国の科学をその根底から振興する必要が痛感されたためである。なお、科学研究費の配分審査は、文部省から委嘱を受けて学術研究会議が行ない、また、この研究費は当初は自然科学だけを対象としていたが、昭和十六年から逐年増額されて人文科学にも拡大するようになった。
 なお、科学研究費の配分審査は、文部省から委嘱を受けて学術研究会議が行ない、また、この研究費は当初は自然科学だけを対象としていたが、昭和十六年から逐年増額されて人文科学にも拡大するようになった。
 次に、文部省自身の学術行政体制を強化し、昭和十五年二月、専門学務局学芸課から、新たに科学課を分離・新設し、さらに昭和十七年十一月には科学局に拡充した。

三 学術行政の強化:文部科学省(文部省『学制*29百年史』(1981年(昭和56年)発行))
 文部省は、まず昭和十四年度の追加予算にはじめて科学研究費交付金三〇〇万円を計上した。科学研究奨励金が、昭和六年以降七万三、〇〇〇円にすえ置かれたのに比し、これは飛躍的な金額であった。当時、わが国の中国における軍事行動に対し、諸外国の反感が激化し、わが国に対する科学封鎖の傾向が著しくなり、この危機を打開するためには、わが国の科学をその根底から振興する必要が痛感されたためである。

 三 学術行政の強化:文部科学省については「日中戦争勃発による科学封鎖(欧米による日本人留学生の受け入れ拒否など)」の恐れがそんなに高かったのかどうかは「議論がある(つまり科学予算を増やすために、科学者たちが実際より話を盛っていた疑いがある)」ようですが、いずれにせよ「科学封鎖を招きかねない」という意味でも「日中戦争は愚策」でした。


■二〇世紀の農業技術と戦争技術(藤原辰史*30
(内容紹介)
 筆者の過去の著書『戦争と農業』(2017年、インターナショナル新書)、『トラクターの世界史』(2017年、中公新書)などを元に「農業技術(農薬、化学肥料、トラクター)」の軍事転用について述べられている。
1)農薬と毒ガス
 これは説明するまでもないでしょう。

参考

フリッツ・ハーバー(1868~1934年、ウィキペディア参照)
・ドイツの化学者。空気中の窒素からアンモニアを合成するハーバー・ボッシュ法で1918年、ノーベル化学賞を受賞。しかし、第一次世界大戦時に塩素ガスを始めとする各種毒ガスの開発に関与したことから「化学兵器の父」「毒ガス兵器の父」と呼ばれることもある。当時、ハーバーの受賞に対しては各国からの批判があった。
・オットー・ハーン*31に、毒ガスの使用はハーグ条約に違反するのではないかと問われたハーバーは、毒ガスを最初に使用したのはフランス軍だと述べ、さらに、毒ガスを使って戦争を早く終わらせることは、多くの人命を救うことにつながると語ったという。
・1919年にハーバーが液体殺虫剤として開発したツィクロンBは、その殺傷能力に着目され、1942年ごろよりアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所などのナチの強制収容所でのガス殺用途で使用された。

2)化学肥料と火薬

ハーバー・ボッシュ法ウィキペディア参照)
 パンの原料である小麦を始めとして農作物を育てるには窒素分を含む肥料の十分な供給が不可欠だが、その窒素を供給する化学肥料を生成するのにハーバー・ボッシュ法が使えるため、この方法の発見によって農作物の収穫量は飛躍的に増加した。
 そのため、ハーバー・ボッシュ法は、「空気からパンを作る方法」と言われた。
 しかしハーバー・ボッシュ法は、爆薬の原料となる硝酸の大量生産を可能にしたことから「空気から爆薬を作る方法」ともいわれた。ハーバー・ボッシュ法によって、ドイツは、第一次世界大戦で使用した火薬の原料の窒素化合物の全てを国内で調達できたという。

3)トラクターと戦車
 筆者に寄ればトラクターの技術が軍事転用されて生まれたのが戦車だという。

参考

"トラクター史"を知らずに人類史を語るな 農業でおなじみの車両の裏の顔 | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)
 イギリス陸軍工兵中佐アーネスト・スウィントン卿(1856~1951)が開発を試みた。彼は、西部戦線で物資運搬に利用されていたアメリカのホルト社の履帯トラクターからヒントを得た。
 これを戦場用に改造したものを投入すれば、塹壕を踏み越え、湿地帯も多かった西部戦線を突破できるのではないか。スウィントンはそう考えたが失敗に終わる。代わりに戦車開発の主導権を握ったのが当時海軍大臣だったウィンストン・チャーチル*32(1874~1965)であった。
 幾度もの失敗を経て、イングランドリンカーンにある農機具メーカーのウィリアム・フォスター&カンパニー社が105馬力の試作品「リトル・ウィリー」を製作する。ダイムラー社のエンジンを搭載し、農業用トラクターとそれほど変わらない車体を装甲したものであった。さらに開発が進み、最終的に、世界初の戦車マークIが49台投入されたのは、1916年10月20日、ソンムの会戦*33であった。
 戦時の運搬力もまた、馬からトラクターへ移行していく。第一次世界大戦後には軍事用トラクターがつぎつぎに開発される。
 ヴェルサイユ条約で徴兵制とともに空軍や戦車の保持を禁止されたドイツは、秘密裏に戦車を開発する策を練る。
 ダイムラー・ベンツ社、クルップ社、マシーネンファブリーク・アウクスブルクニュルンベルク(MAN)社やヘンシェル社などの主要な軍需産業が、LaSというコードネームで戦車の開発を続けた。LaSは、 Landwirtschaftlicher Schlepper(農業用トラクター)の頭文字をとったものである。1935年3月のナチス再軍備宣言後、わずか1年でI号戦車A型が生産されたが、それこそがLaSであった。
 I号戦車は8ミリから15ミリの機銃しかもたない豆戦車だが、(中略)スペイン内戦やポーランド侵攻、対仏戦争の初期まで実戦にも投入された。続くII号戦車も、再軍備宣言以前から、LaS100というコードネームで開発され、実戦に用いられた。ただ、独ソ戦では、その後に開発されたIII号戦車とIV号戦車が主力であった。
 第二次世界大戦時にはほとんどのトラクター企業が戦車開発を担うようになる。ドイツのランツ社が全トラクターの生産のうち、50%を戦車生産に切り替えたのは1943年のことであった(大島隆雄*34第二次世界大戦中のドイツ自動車工業(2)」)。
 日本でもトラクターの軍事的有用性は自明であった。鐘紡ヂーゼル工業会社取締役車両部長の渡邊隆之助は、1943年に『牽引車(トラクター)』というトラクターの概説書を執筆しているが、そのなかの「大東亜建設と牽引車の意義」という箇所でつぎのように書いている。
 「国防自動車科学面にクローズアップされたトラクターは、大東亜の資源開発、輸送力向上等によって平時増強作用が行なわれる」。「農地開発、増産目的上東亜的なトラクター農法は急速に実現する可能性がある」。「米、英、ソは勿論、独、伊、仏等、自動車工業力下にトラクター工業の組織を有しないものはない」
 つまり、平時の農業用トラクターとは軍事利用を前提に開発すべきであり、それは、ちょうどドイツの企業がトラクター開発の名の下に戦車を秘密裏に製造していたように、自動車工業の発達している国では常識になっていると述べたのである。
 さらに、渡邊はつぎのようにも述べている。
「牽引車は無論第一線兵器ではないとは云え、准第一線兵器であろう。/キャタピラー会社は、大東亜戦争勃発前半年位迄他の自動車会社に倣わず、兵器車両の政策を拒んでいたが、遂いに服従して政策を初めたと云う記事が、戦前に届いた雑誌に載っていたが、聊か緊張感を覚えさせるものがある」(前掲書)。
 ソ連もトラクターの戦時利用に積極的であった。
 1933年6月1日、第一次5ヵ年計画の一環として、南ウラル地方のチェリャビンスクに建設された「チェリャビンスク・トラクター工場」は、ソ連の重要なトラクター生産の拠点であった。同年中に、初の履帯トラクター「スターリニェツ60型」を生産した。スターリニェツとは「スターリン主義者」という意味である。独裁者の名前がトラクターに付けられたのは、世界史上でこれが最初であるが、ただ、スターリニェツ60型は、アメリカのキャタピラー60型のコピーであった。
 チェリャビンスク・トラクター工場は、他方で、戦車生産の拠点でもあった。しばしば「タンコグラード Tankograd」、すなわち「戦車都市」と呼ばれていたことからもわかるように、戦争中に約1万8000台の戦車を生産している。1941年にはKV-1、翌年にはT-34など、赤軍を代表する戦車もここで作られていた。
 もちろん、ドイツやソ連ばかりではない。
 イタリアではフィアットが1910年に最初のトラクターを完成したが、1917年にはイタリアで初の戦車となるフィアット2000を試作している。フランスのルノーも、19世紀末から20年間自動車を製作してきたが、1919年に最初の20馬力の履帯トラクター、HI型を完成している。これは、第一次世界大戦期に製作していた戦車をベースに作られたものである。ルノーフィアットも両大戦期とも戦車や軍用車を生産していた。
 以上の意味で、トラクターと戦車はいわば双生児であり、ジーギル博士とハイド氏のようにドッペルゲンガー(二重人格)の機械であったということができよう。

 「第一次大戦を契機に馬からトラクターに運搬手段が変化」と書いてありますが、日中戦争、太平洋戦争当時も「馬で運搬していたのが日本軍」で、一方、米軍は自動車でした。
 それで「日本が米国に勝てる」と思うのは客観的に見て正気の沙汰ではないでしょう。

I号戦車ウィキペディア参照)
 ドイツが第一次世界大戦後、初めて量産した豆戦車(5トン級)である。
 ヴェルサイユ条約によって戦車の開発を禁じられたドイツだが、その後、秘密裏に「トラクター開発」の口実で戦車の試作が行われた。
 1932年、戦車開発の参考用として、イギリスのヴィッカース・アームストロング社より、トラクター3両が輸入された。クルップ社が同年完成させた試作戦車は、このイギリス製車トラクターの設計の影響を色濃く受け継いだものとなった。
 生産はクルップ社のほか、マシーネンファブリーク・アウクスブルクニュルンベルク*35(略称MAN(マン))、ダイムラー・ベンツ*36ヘンシェル*37、ラインメタル*38にも振り分けられ、1936年6月までに818両のI号戦車A型が生産された。
 1938年のオーストリア合邦で使用されたほか、1936年以降、実戦テストを兼ねて100両がスペイン内戦に送られた(ヒトラー政権はフランコ軍を支援していた)。
 その脆弱さはスペイン内戦ですでに露呈していたが、ポーランド侵攻デンマーク侵攻、ノルウェー侵攻、フランス侵攻、バルカン半島侵攻、バルバロッサ作戦(ソ連奇襲作戦)、北アフリカ戦線など、ドイツ軍の主だった戦場すべてで使用された。大砲ではなく機銃しか装備されていなかったため大砲を持つ敵戦車には対抗できず大きな損害を出したが、後継戦車のⅡ号戦車、III号戦車、IV号戦車が充足されるまで前線で使われ続けた。
 中華民国に輸出されたⅠ号戦車は日中戦争の南京防衛戦に使われた。この際、4両が日本陸軍に鹵獲され、昭和14年頃に靖国神社で展示された。ただし、ドイツとの国交を考慮して、「ソビエト製の戦車」として展示された。

 こうした事実から筆者は「軍事技術と民生技術」は必ずしもはっきりと区分けできるものではなく「民生技術の軍事転用」の危険性を警戒する必要があるとしている(もちろん後で紹介するマンハッタン計画や戦前日本の原爆研究などのように明らかな軍事研究もありますが)。
 なお、「軍事研究」と言うテーマから外れるので、藤原氏も「民生技術の軍事転用と言う問題とは別途、トラクター、化学肥料、農薬には現在問題が生じていることにも注意する必要がある」として簡単にしか触れていませんが、たとえば「化学肥料」という技術は現在、「窒素成分による水質汚染」と言う問題を生んでることも指摘しておきます。


■戦時期日本の科学と植民地・帝国(加藤茂生)
(内容紹介)
 日中戦争、太平洋戦争時に植民地において日本は
1)農学研究(満州での寒冷地農業、東南アジアでの南方農業の研究)
2)地質学研究(満州や南方での石油、石炭、レアアースなどの探索についての研究)を実施した。しかし結果的にはたいした成果を上げることは出来なかった。
 ちなみに加藤論文は岩瀬昇*39『日本軍はなぜ満洲大油田を発見できなかったのか』(2016年、文春新書)を紹介しています。この本、なかなか面白そうなので後でネット上の記事を紹介しておきます(機会があったら読んでみようかという気もします)。
 満州で石油探索を行いながら「油田発見についに失敗した日本」ですが、皮肉にも日中戦争終了後、中国政府によって満州中国東北部)で「大慶油田」が発見されることになります。

失敗の本質ーエネルギー版『日本軍はなぜ満洲大油田を発見できなかったのか』 - HONZ
 中国東北部、かつての満洲大慶油田という油田がある。日本の九州ほどの巨大な面積に広がり、これまでの中国経済の成長を支えてきた世界有数の巨大油田である。このほとんどの日本人が知らない油田こそ、第二次世界大戦中に日本軍が喉から手が出るほど渇望したものの、遂に発見できなかった油田である。
 歴史に「もしも」は無いのは無論だが、もしも日本統治下の満州でこの大油田が発見され*40、日本が十分なエネルギー源を得ていれば、アメリカへの開戦という無謀な戦争をしかける必要はなかったのかもしれない*41
 「満洲で日本が油田を発見できなかったのは不運だった」とこれまで片付けられてきたこの問題に、著者は新たな視点から失敗の本質をあぶりだす。資源開発の実務経験ある著者が注目したのは、当時満洲での油田探査で使用されていた機器や作業内容だ。過去の資料から読み解けるのは、時代遅れの機材や中途半端な作業など、時の最先端とはほどとおいずさんな探査活動の内容だった。
 民間企業は当時から欧米の最新鋭機器や最先端技術を取り入れて資源開発を推進していた一方、日本軍は、欧米で一般に使われていた機材・技術の活用を拒み、精神論で油田を発見しようとしていた。十分な機材・技術なしには、いくら優秀な技術者でも油田を見つけることはできない。エネルギー開発の基礎中の基礎をも把握していなかった日本政府・軍による明らかな失策である。
 あまりにも情けない失策に開いた口が塞がらないが、その他にも本書では、石油実務を知らない素人によるソ連との権益交渉、荒唐無稽なエネルギー需給分析に基づいて判断された開戦の意思決定、松の切り株を原料として戦闘機を飛ばそうとする日本軍の計画など、いかに当時の日本の中枢がエネルギー音痴であったかがこれでもかと紹介されている。


■原爆研究をめぐる物理学者たちの戦時体験 (小長谷大介*42
(内容紹介)

日本陸軍の原爆開発計画「ニ号研究」に中心人物として関わった仁科芳雄理化学研究所教授
日本海軍の原爆開発計画「F研究」に中心人物として関わった荒勝文策・京都帝国大学教授

について述べられています。

【参考:ニ号研究】

<阿武隈川物語>(33)無謀な国策甘さ共通 | 河北新報オンラインニュース
 阿武隈山地福島県石川町にある塩ノ平採掘場跡。旧日本陸軍が戦前、ウラン鉱を採掘した。
 「大した道具がなく、スコップとつるはしで掘った。無我夢中で、原爆を作ろうとしていたとは知らなかった」
 旧制石川中学(現学法石川高)の生徒で採掘に動員された前田邦輝さん(88)=石川町在住=が昨年8月6日、現場を案内しながら証言してくれた。
 陸軍が極秘に進めた原爆開発「ニ号研究」。日本は制海権を奪われ、原爆の原料を国内で調達する必要に迫られていた。そこで、ウランの有望な採掘先と目されたのが同町だ。
 阿武隈山地は花こう岩帯で、町は巨晶花こう岩「ペグマタイト」が採れる日本有数の地域。そのペグマタイトに、放射性鉱物「サマルスキー石」が含まれる。
 ただ、サマルスキー石に含まれるウラン鉱は約25%。その中に、核分裂を起こすウラン235は0.7%しかない。ウラン235の分離は四つの方法が考えられ、日本はガス化して濃縮する熱拡散方法を模索したが、実現できなかった。米国は全ての方法を試して成功した。
 前田さんは「石川のウランで原爆が作れるとは、素人でも思えない。無謀な国策だった」と振り返る。
■ニ号研究:
 旧陸軍航空本部が理化学研究所に依頼。戦況が悪化した1943年ごろから本格化したとされる。中心となった物理学者仁科芳雄博士の姓を取り、ニ号研究と呼ばれた。理研の飯盛里安博士が石川町に移住し、ウラン採掘を進めた。

【戦後70年 核物理学の陰影(上)】幻の原爆開発 科学者が巻き込まれた2つの出来事とは…(1/13ページ) - 産経ニュース
 終戦が迫っていた昭和20年4月。ニ号研究による原爆開発で起死回生を狙う陸軍は、福島県石川町の山間で、旧制私立石川中(現石川高)の3年生約60人を学徒動員し、ウランの採掘を開始した。
 陸軍将校から「君たちが掘っている石がマッチ箱1個分もあれば、ニューヨークを吹き飛ばす爆弾が作れる」と言われた。「お国のために頑張らなくては」と精を出した。
 原爆開発に必要なウランは当時、日本ではほとんど産出しなかった。陸軍はドイツや朝鮮半島から秘密裏に運ぼうとしたが、いずれも失敗。戦前から微量のウランを含む「ペグマタイト」という鉱石を少量産出することで知られる石川町に、望みをつないだのだ。
 ニ号研究は6月に中止されたが、町には情報が伝わらず、採掘は終戦当日まで続いた。学徒による採掘量は1トン近くともいわれるが、どこに運ばれたかは不明で、何の役にも立たなかった。
 前田邦輝さん(85)は「自分たちが掘っていたものが何だったのか、戦後数十年たって初めて知って驚いた」。結局、ウランは採れなかったが、それでよかったと思っている。
 米英は1944年の時点で計3670トンのウランを確保していたが、日本は多くても1トン程度。理研がウラン濃縮で大量生産に不向きな熱拡散法を採用したり、装置に不具合が生じたりしたのも、開発に必要な資材の不足が影響している。
 米国のマンハッタン計画には12万人が参加し、研究費は当時の22億ドル(103億円)に上った。これに対し日本の原爆研究者は数十人で、研究費もニ号研究で2000万円にすぎない。組織も陸海軍で一本化されておらず、開発体制はあらゆる面で脆弱(ぜいじゃく)だったといえる。
 核開発史に詳しい山崎正東京工業大名誉教授(70)は「こんな状況で、日本は初めから原爆など開発できるはずがなかった。予想通りの結果に終わった」と話す。

幻の原爆開発 理研「ニ号研究」、ウラン濃縮が壁に
 研究が始まったのは戦前の昭和16年4月。欧米で核分裂反応を利用した新型爆弾が開発される可能性が指摘されていたことを背景に、陸軍が理研に原爆の開発を依頼した。核物理学の世界的権威だった仁科芳雄博士に白羽の矢が立った。
 本格化の契機になったのは仁科が昭和18年6月に陸軍へ提出した報告書だ。核分裂のエネルギーを利用するには少なくともウラン10キロが必要で、「この量で黄色火薬約1万8千トン分の爆発エネルギーが得られる」と記した。後に広島に投下された原爆に相当する威力だ。これに陸軍が反応した。
 「米独では原爆開発が相当進んでいるようだ。遅れたら戦争に負ける」。
 東条英機*43首相兼陸軍大臣は研究開発の具体化を仁科研究室に命令。「ニシナ」の名前から、計画は「ニ号研究」と名付けられた。
 分離筒は昭和19年3月に完成し、7月から実験が始まった。理論的にはうまくいくはずだった。だが六フッ化ウランが筒と化学反応を起こして分離できない事態に陥る。筒には化学反応を起こしにくい金メッキをすべきだったが、戦時中の物資不足で銅を使ったことが落とし穴になった。
 実験は計6回行ったが、いずれもうまくいかない。昭和20年1月、チームの1人は日誌に「行き詰まった感あり」と記す。分離筒を作製し、実験で悪戦苦闘した竹内柾(まさ)氏は戦後、49号館を「始終苦号館」と評した。
 (ボーガス注:昭和20年6月)仁科はニ号研究の中止を決断した。
 広島に原爆が投下されたのは、その2カ月後だった。
 広島の原爆には計り知れないショックを受けた。現地調査に赴く直前、研究員にあてた手紙にこう書き残した。
 「ニ号研究の関係者は文字通り腹を切る時が来た。米英の研究者は理研の49号館の研究者に対して大勝利を得たのである」
 科学者としての敗北感と自責の念がにじむ。
 次男の浩二郎氏(83)は現地調査から帰宅したときの仁科の様子を覚えている。
 「悲惨な状況を目の当たりにして、大きな衝撃を受けていた」
 仁科は原爆だけでなく、原子力のエネルギー利用にも関心を持っていたとされる。戦後は原子力の安全利用のための国際的な枠組みづくりを訴えた。
 「原爆開発には失敗したが、あれ以上に戦禍を拡大せずに済んだという意味で、父はほっとしていたかもしれない」。
 浩二郎氏は静かに語った。
■ニ号研究に参加した福井崇時氏(名古屋大学名誉教授)
■記者
「原爆を開発できると思っていたか」
■福井
「こんなもので、できるはずはないと思っていた。原爆を作ろうにもウランがない。ウラン235も分離できていない。原爆の卵のもっと向こうの、よちよち歩きの状態だった。原爆を作るなら、きちんとシステムや組織を作らなくてはいけないのに、日本は米国と比べて方針がなく、バラバラだった。われわれ学生に分離筒をやれというのも、むちゃくちゃだった」
■記者
終戦後はどうしたか」
■福井
進駐軍が来て分離筒を見つけると、えらいことになると思った。阪大が理研の出店(でみせ)であることは隠していたからだ。詳しく調べられると、先生方に累が及ぶ。証拠は隠せと思った。川に捨てれば分からなくなるので終戦の数日後、誰にも相談せず同期生と2人で、理学部のすぐ隣にある筑前橋から土佐堀川に3本の分離筒をばっと捨てた。もう70年もたっているので、さびて腐っているだろう」
■記者
仁科芳雄博士はなぜ原爆研究に取り組んだと思うか」
■福井
「軍の研究に参加すれば兵隊に行かなくて済むので、周囲の研究者や学生を温存するため参加したのが本心。後に先生がおっしゃっていた。それと研究を守りたいということ。われわれは守ってもらったわけです。だから僕は戦争の被害者とはいえない」
仁科芳雄(にしな・よしお):
 明治23年、岡山県里庄町生まれ。大正7年、東京帝国大電気工学科を卒業し理化学研究所入所。大正10年から昭和3年まで渡欧し量子力学を研究。昭和6年、仁科研究室創設。昭和21年、理研所長、戦後初の文化勲章。昭和24年、日本学術会議副会長。昭和26年1月死去。

東京新聞:本本紙原発報道の一部 シリーズ「日米同盟と原発」 第1回「幻の原爆製造」(1)(TOKYO Web)
 戦時下の日本で、極秘裏に進められていた原爆開発計画「ニ号研究」。戦局の一発逆転を狙って軍が主導し、当時、原子核物理の第一人者だった理化学研究所の科学者、仁科芳雄氏(1890~1951)が開発責任者を務めた。計画は結局、とん挫したが、仁科氏の下で学んだ若い門下生らの研究は戦後、「平和利用」と名を変えた戦後の原子力開発の礎となった。狭い国土に今や50基がひしめく原発大国・日本。そのルーツを「ニ号研究」から探った。 (文中の敬称略、肩書・年齢は当時)
 1940(昭和15)年夏の蒸し暑い朝。東京・新宿から立川に向かう国鉄中央線の車中。立川の陸軍航空技術研究所に出勤途中の陸軍中将、安田武雄(51)は、旧知の科学者と偶然乗り合わせた。
 科学者の名は、仁科芳雄(49)。東京帝大電気工学科を首席で卒業後、1918年から理化学研究所で研究員として働いていた。英国、ドイツ、デンマークなど欧州の研究所にも留学し、最新のエックス線や原子核物理を学んでいた。日本の原子核研究の第一人者だった。
 仁科は安田の顔を見るや、あいさつもそこそこに切り出した。
 「例の話ですけれど…」。
 2人が以前から話題にしていた原爆。当時は「ウラニウム爆弾」と呼んでいた。
 安田が戦後、雑誌「原子力工業」に寄せた手記*44によると、仁科はこの時、初めて原爆製造の実験研究に着手する用意があることを伝えた。安田は「遠い未来の夢だと考えていたが、心おのずと弾むのを禁じ得なかった」と喜んだ。仁科の「いささか勢い込んだ様子」に、期待を膨らませた。どうにか、できそうだ。
 仁科と安田が出くわしたころ、日本はドイツ、イタリアと三国同盟を締結する寸前だった。ヒトラー率いる独軍は前年の39年9月、ポーランドに侵攻。三国同盟は欧州戦線の火種が日本に飛び火することを意味していた。日本軍は泥沼が続く日中戦争に加え、米英仏などの欧米列強との戦に備える必要があった。
 安田は、裏付けを急ぐ。仁科と別れた後、東京帝大で2年間物理を学んだ陸軍航空本部少佐の鈴木辰三郎(28)に、別ルートから原爆製造の可否を確かめるよう命じた。
 鈴木は、理研の若手研究者、嵯峨根遼吉(34)に相談する。嵯峨根は「日本物理学の草分け」とされる長岡半太郎(1865~1950)を実父に持ち、米国で人工放射能を研究した俊英。嵯峨根の話をもとに、鈴木はその年の10月、安田に「原子爆弾は出現する可能性がある」と報告する。
 それから半年後の41年4月、安田は理研所長の大河内正敏(62)を訪ね「原爆製造の研究をお願いしたい」と申し出る。
 仁科と安田の運命の出会いから1年もたたずにスタートした日本の原爆開発。その8カ月後、日本軍が真珠湾を奇襲攻撃し、日米が相まみえるのを当時の2人は知る由もなかった。
仁科芳雄(にしな・よしお)
 岡山県新庄村(現・里庄町)の資産家の四男として生まれた。理化学研究所では、最年少の40歳で主任研究員に抜てきされ、原子核を研究した。戦後は日本学術会議の副会長を務め、国際会議で原子力の国際管理を提唱した。門下生は戦後の原子力開発の中心を担い、湯川秀樹朝永振一郎の両氏はノーベル物理学賞を受賞した。1955年に設立された仁科記念財団は、原子物理学に功績を残した学者に「仁科記念賞」を授与している。

東京新聞・日米同盟と原発
第1回「幻の原爆製造」 (2)戦争の死命を制する
 陸軍航空本部が後押しする形で進められた原爆開発。1941(昭和16)年10月、発足したばかりの東条英機(56)内閣は次年度の政府予算案に理化学研究所への委託研究費として8万円(現在の4億円相当)を計上し、財政面でも支援した。
 理研は日本初の研究機関として17年に設立。欧米で最先端の化学や物理などの基礎科学を学んだ新進気鋭の若手科学者がそろっていた。仁科は原爆開発に、そうした若手の部下を起用した。
 東京帝大でウラン化合物を研究した木越邦彦(22)もその1人。20人ほどいたメンバーのうち数少ない生存者で、現在93歳の木越は当時の研究の様子をこう振り返る。
 「仁科先生から『原爆ができると思ってやっているのか』と聞かれて『さあ…』と答えたら『そんな気持ちでやっているのか』と怒られた。やると決めたらまっしぐら、猪突(ちょとつ)猛進型だった」
 それでも木越は、懐疑的だった。
「先生が本気で原爆を作ろうとしていたのかは今でも分からない。『研究室に入れば、徴兵されずに済むぞ』と言われたことがある」と証言。
「僕は、核分裂のエネルギーが軍艦や飛行機の動力源になるのかに関心があった。爆弾製造は夢物語で、具体的には考えられなかった」 と打ち明ける。
 果たして仁科の本心はどうだったのか。
 研究に参加した木越の同僚、武谷三男(30)の著書「原子力と科学者」によると、日本軍が真珠湾を攻撃した2日後の41年12月10日に開かれた理研の会議で、仁科は戦争目的としての原爆に触れず、こう語っている。
 「戦争が終わって比べた時、日本の科学がアメリカに劣ったのでは、甚(はなは)だみっともない。日本国の威信のために純粋研究を進めなければならない」
 ところが、日本の戦局が不利になると、仁科の発言は微妙に変化する。ミッドウェー海戦で日本軍が大敗した数カ月後の翌42年10月、仁科は新聞への寄稿文でこう書いた。
 「今日の時局においては軍備・産業に直接関係のある応用研究に重点を置くべきである」
 それから5カ月後の43年3月、仁科は、ほぼ2年余りに及ぶ研究成果として「原子核分裂によるエネルギー利用の可能性は多分にある」とする報告書をまとめ、陸軍航空本部に提出した。
 学習院大の江沢洋*45名誉教授(理論物理学)を通じて、本紙が入手した報告書のコピーによると、原爆製造について「連鎖反応が起これば極めて短時間に莫大(ばくだい)なエネルギーを放出する。強力な爆弾として用いられる可能性がある」などと記されていた。
 陸軍を通じ、仁科の報告書を受け取った首相の東条は航空本部総務課長の大佐、川嶋虎之輔(45)を呼んだ。
 防衛省防衛研究所の図書館に所蔵されている川嶋の手記「原子力の開発について」には、東条が指示した内容が書かれてあった。
 「特に米国の研究が進んでいるとの情報もある。この戦争の死命を制することになるかもしれない。航空本部が中心となって促進を図れ」

東京新聞・日米同盟と原発
第1回「幻の原爆製造」 (3)ウランを入手せよ
 理化学研究所仁科芳雄らを最後まで悩ませたのが天然ウランの確保だった。必要としたウランは2トン。占領下の朝鮮半島や南方のマレー半島からの調達を試みたほか、遠い欧州にも目を向けた。
 陸軍は、ドイツ占領下のチェコスロバキアで「ピッチブレンド」というウラン鉱石が採れるとの情報を入手していた。1943(昭和18)年7月、陸 軍航空本部の大佐、川嶋虎之輔が駐ドイツ大使の大島浩*46(57)に送った極秘電報を、米軍が傍受している。米公文書館に残るその電報コピーには次のようなや りとりがあった。
 【7月7日 東京→ベルリン】「日本にピッチブレンドを輸出できるか、早急に調査せよ」
 【9月1日 ベルリン→東京】「ピッチブレンドを入手する交渉を続けるので、研究目的の重要性を示す文書を送ってほしい」
 【11月15日 東京→ベルリン】「1トンの酸化ウランを入手せよ」
 大島はナチス幹部と交渉したが、なかなか許可が下りない。当時、ドイツも原爆開発を進めており、日本への警戒感が強かったためとみられている。
 ようやく認められたのは極秘電報から1年以上もたってから。45年3月24日、酸化ウランを積んだ独潜水艦UボートU234」が独北部のキール港から日本へ向かうことが決まった。
 護衛として、欧州に駐在する2人の日本人技術将校が搭乗した。ドイツで潜水艦の設計を学んでいた友永英夫(36)と、イタリアで飛行機の研究に携わっていた庄司元三(41)の両中佐だった。
 欧州戦線は、連合国軍がドイツの首都ベルリンに迫っていた。バルト海から大西洋の海域も支配され、日本にたどり着ける保証はなかった。
 友永と庄司は、敵に拿捕(だほ)された時は自ら命を絶つ決死の覚悟だった。家族にあてた遺書をしたため、睡眠薬ルミナールの瓶を持って艦に乗り込んだ。
 キール港をたってから1カ月余り後の5月1日。U234の無線通信室に「ヒトラー総統死去」の連絡があった。ヒトラーは戦局を悲観し、その前日にピストル自殺した。7日にはドイツが連合国に降伏し、日本とドイツの同盟関係が破棄された、との情報も入った。
 動揺する艦内で、友永は艦長のヨハン・フェラーに「生きたまま敵側に引き渡されるのは許されない。このまま日本へ行ってください」と、航海続行を申し出たが、かなわなかった。艦は連合国軍の停船命令を受け入れ、ドイツ人乗組員は全員投降を決めた。
 友永と庄司は、持っていたルミナールをあおった。2人はフェラーにあて「運命には逆らえません。静かに死なせてください。遺体は海に葬ってください」と、ドイツ語の遺書を残して自決した。

東京新聞・日米同盟と原発
第1回「幻の原爆製造」 (4)行きつまった感あり
 「原爆製造は可能」とした仁科らの研究は、あくまで理論上の話。問題はどう形にするかだったが、戦時中の物資不足が障害となった。
 例えば、爆薬の濃縮ウラン。熱拡散分離法を採用したが、天然ウランをいったん別の化合物にしてからでないと、高濃度のウランが生成できない。しかも、分離塔と呼ばれる実験装置は高価なニッケルが手に入らないため銅で代用しなければならず、不純物が混じることもしばしば。
 当時、濃縮実験を担当した理研の研究者、山崎文男(36)が失敗続きの様子を日記に書きとめている。「ますます絶望的」「テストサンプルを測定したが、てんで弱く問題にならぬ」。
 45年1月29日付では、ついに「『ニ』報告、行きつまった感あり」とつづってあった。
 日記を保管している現在72歳の長男、和男によると、山崎は終戦直後まで書き続け、後年、神奈川県鎌倉市の自宅で何度も読み返していた。重要な箇所にはメモ書きを加えたり、赤ラインを引いたりしてあったが、ニ号研究のところだけは、まったく加筆せず、当時のまま。
 和男は「研究がうまくいかなかったことが、よほど悔しかったのでしょう。父は、振り返ることさえ嫌だったと思う」と話す。
 45年に入ると、米軍機B29の東京空襲は激しさを増した。4月14日未明には、文京区本駒込理研にも爆弾が落とされ、熱拡散分離塔のある49号棟が全焼。実験を続けることすらほぼ不可能になった。
 山崎の日記によると、45年5月15日、仁科は理研の会議室に山崎ら部下の研究者を集め「ニ号研究の大体中止を決議した」。これを受け、陸軍技術少佐の山本洋一(40)は6月28日付の報告書でこう書いた。
 「理研仁科研究室における熱拡散法による研究は数回の実験の結果、不可能なること判明し、原子核エネルギーの利用の研究は中止することとなれり」
 当時、陸軍とは別に、海軍も京都帝大と協力して原爆開発を進めていた。「F研究」の暗号名で呼ばれていたが、やはりウラン濃縮がネックとなり、日の目を見ることはなかった。
 ニ号研究の中止を決めた陸軍の報告書にはこんな一文もある。
 「敵国(米国)もウランのエネルギー利用は当分なしえざるものと判明した」
 仁科ら日本の科学者はそれが、見込み違いであったことを1カ月余り後に(ボーガス注:広島、長崎への原爆投下で)知ることになる。

東京新聞・日米同盟と原発
第1回「幻の原爆製造」 (5)少年らに「マッチ箱一つ」
 陸軍は、ペグマタイトの岩石から、天然ウランを含む鉱石サマルスカイトを3トン掘り出し、計500キロの酸化ウランを得る皮算用だった。気の遠くなるような無謀な計画だが、有賀によると、勲章を着けた軍人がこうハッパを掛けたという。
 「君たちの掘っている石がマッチ箱一つくらいあれば、ニューヨークなどいっぺんに吹き飛んでしまうんだ。がんばってほしい」
 マッチ箱一つの“火薬”で形勢逆転。軍事教育を受け、教育勅語をそらんじる少年たちは、そんな言葉に発奮した。時折、軍人が配るキャラメルを楽しみに、懸命に働いた。
 採掘を初めてから2カ月余り後の6月13日。陸軍の委託を受けていた石川山工業所が「石川山で採掘したサマルスカイトが750キログラムに達し た」と報告した。しかし、このころ、理化学研究所仁科芳雄が進めていた「ニ号研究」は既に中止を決めていた。ウランを調達したところで、使う見込みはない。が、少年らは、その事を知らされなかった。

東京新聞・日米同盟と原発
第1回「幻の原爆製造」 (6)腹を切る時が来た
 日本の敗戦が濃厚になった45年8月6日朝。米軍のB29「エノラ・ゲイ」が広島にウラン原爆「リトルボーイ」を投下し、市街地が焼き尽くされた。世界で初めて原子力が戦争目的に使われた。
 一夜明けた7日、陸軍将校が理化学研究所仁科芳雄の研究室を訪ね「アメリカが広島に原子爆弾を落としたと報告があった。調査団を派遣したいから、参加してほしい」と要請した。
 自分たちがたどり着けなかった原爆で、日本が大打撃を受けた。仁科の当時の心境は今も定かではない。が、その一端を知る手がかりとして、7日夜に理研の部下、玉木英彦(35)あてにしたためた手紙が残っている。そこにはこうある。
 「吾々(われわれ)『ニ』号研究の関係者は文字通り腹を切る時が来たと思ふ。…米英の研究者は理研の研究者に対して大勝利を得たのである」
 日本の敗戦が近づいていた。
※この特集は社会部原発取材班の寺本政司、北島忠輔、谷悠己、鈴木龍司が担当しました。

【戦後70年 核物理学の陰影(下)】悲運の加速器、海底に沈む 「米国の誤謬、もはや絶望」(1/9ページ) - 産経ニュース
 終戦から3カ月が過ぎた昭和20年11月24日の朝。東京・駒込理化学研究所に突然、2台のブルドーザーがやってきて、門や建物の塀を壊し始めた。
 「全てのデータを押収し、理研、大阪帝国大(現大阪大)、京都帝国大(現京都大)のサイクロトロンを破壊せよ」
 米陸軍省原子核の研究装置である円形加速器サイクロトロン」を原爆製造用と誤認し、連合国軍総司令部(GHQ)に破壊命令を出したためだ。
 仁科は戦後、GHQと交渉し、放射性同位体を作って生物学や医学への応用研究に使う許可を得ていた。新たな時代に向け、希望をつなぐ装置のはずだった。それが一転して破壊される事態に直面した。
 仁科が将兵に猛然と抗議する様子を米ライフ誌が伝えている。
「これは私の研究生活10年分の成果である。原爆とは無関係だ」。
 壊さないでくれと嘆願する傍らでは妻と女性秘書がすすり泣いていた。
 仁科は東京・有楽町のGHQ本部にも乗り込み「なぜ破壊するのか。米政府は科学者に意見聴取したか」と問いただした。科学者なら装置の価値を理解し、壊せというはずがない。彼らの意見を確認するまで、破壊作業を停止させるためだった。だが回答は「ワシントンの科学者も承知した上での決定だ」。
 仁科は言葉を失う。
 「科学者も含めて米国全国民の誤謬(ごびゅう)であるため、もはや絶望なることを知り退出した」。
 後の書簡にこう記したが、米側の回答は虚偽だった。
 将兵らはアセチレンバーナーで焼き切るなどしてサイクロトロンを破壊。数百トンもの残骸をクレーンで巨大なトレーラーに積み込んで運び出し、東京湾に沈めた。科学に対する理不尽で侮辱的な行為は、日本の敗戦を象徴するものだった。
 全ての破壊が終わった日の晩。次男の浩二郎氏(83)は「まるでお通夜のようで、憔悴(しょうすい)した表情の父を前に、誰も一言も話せず重苦しい雰囲気が広がった」と振り返る。
 ニ号研究の分室が置かれた大阪大でも同様の光景が繰り広げられた。当時学生だった福井崇時(しゅうじ)名古屋大名誉教授(91)は壁を壊すブルドーザーを見て、度肝を抜かれた。
「やられたと思った。悲しかったですよ。放心状態だった」
 科学史に汚点を残したサイクロトロンの破壊は、なぜ起きたのか。関係資料によると、米国の原爆開発計画に関わった陸軍のブリット少佐が原爆開発装置と思い込み、パターソン陸軍長官の承認を得ずに独走。GHQに対して破壊命令を出すよう働き掛けたことが原因だった。
 破壊が報じられると、米国の科学者は「人類に対する犯罪だ」「理不尽な愚行」などと強く非難。仁科芳雄博士は、米国の科学者も承知の上だとしたGHQの説明が嘘だったことを知る。
 暴挙に対する怒りの声は大きく広がり、米マサチューセッツ工科大の科学者らは陸軍長官に抗議文を送付。
 こうした事態を受け長官は「陸軍省の軽率な行動を遺憾とする」との声明を発表。破壊命令が誤りだったことや、科学者の意見を聞くべきだったことを認め、謝罪した。

 確かに暴挙ではあるのでしょうが、産経の場合「反米主義の本心」が露呈してるような気がします。

仁科芳雄(1890年~1951年、ウィキペディア参照)
■ヨーロッパ留学
 1921年に2年間のヨーロッパ留学が決まり、最初にケンブリッジ大学キャヴェンディッシュ研究所に滞在し、翌1922年11月にゲッティンゲン大学に移った。
 ニールス・ボーア*47の講演を聴いて物理学の新しい分野の研究に興味を持ち、1923年4月にコペンハーゲン大学のボーア研究室に移った。ここでは研究員として5年半過ごし、1928年にはオスカル・クラインとともにクライン=仁科の公式を導いている。
サイクロトロンの建設
 1935年、理化学研究所理研)に原子核放射線生物学を研究するために原子核実験室が設けられた。1937年に仁科が主導して日本で最初の26インチ小サイクロトロンが完成した 。
 仁科は小サイクロトロンが完成するころから、より高エネルギーの粒子ビームが得られる大サイクロトロンの建設を構想していた (この頃はどれ位の大きさにするかまだ決まっていなかったが、その後60インチに決まった) 。そのころカリフォルニア大学のアーネスト・ローレンス*48も大型サイクロトロンの建設を計画している、という情報がもたらされた。サイクロトロンの主要部分である電磁石は日本で注文するよりアメリカの海軍工廠に2台まとめて注文する方が安くなる*49ことが判ったので、ローレンスに依頼して理研の分を一緒に注文してもらうことになった。当時、60インチのサイクロトロンは世界最大であり、カリフォルニア大学と理研の2台のみであった。電磁石は1938年中頃理研に到着し、1939年頃一応組み立てが終了したが、予期したような性能が出なかった。ローレンスのところでは既に完成していたので、情報を得るため1940年、理研から研究員3名がローレンスのもとに派遣された*50。当時は既に日米関係の悪化が始まっていたため、ローレンスには会えなかった。サイクロトロンの見学は許されたが設計図のコピーをもらう約束も取り消しになった(後にローレンスはマンハッタン計画の重要な役割を担った)。
 理研では3人が持ち帰った情報をもとに大改造を行うことになった。1944年2月15日、空気中に引き出したプロトンビームが紫色に光るのを肉眼で確認できるまでになった。それ以後も調整を続け、7月頃から実際の研究を始めた。
■ニ号研究
 1940年(昭和15年)4月、安田武*51・陸軍航空技術研究所長(陸軍中将)は、雑誌などで紹介されている核分裂に注目。陸軍航空本部付きの鈴木辰三郎中佐にウランを用いた新型爆弾の開発研究を命令した。鈴木中佐は東京帝国大学の嵯峨根遼吉教授の協力の下に1940年10月、報告書を安田中将に提出した。安田中将は理研大河内正敏所長に秘密裏に研究を依頼して、大河内は仁科に研究課題を託した。
 1942年に海軍技術研究所でも原爆研究が始められた時に仁科は長岡半太郎と共に理研の代表で参加したが、仁科は陸軍に原爆研究をすでに依頼されていたので積極的に発言をしなかったという。
 アメリカで原子爆弾開発「マンハッタン計画」が始まった翌年1943年(昭和18年)5月頃、仁科研究所は原子爆弾が作れる可能性を報告書によって軍に提示する。陸軍はこの報告に飛びついて、陸軍航空本部の直轄で、研究を続行させる。
 仁科は、若く優秀な科学者を集めるために、陸軍より召集解除の特権を得て、木越邦彦(後に学習院大学名誉教授)、玉木英彦(後に東京大学名誉教授)、竹内柾などの研究員を集めた。
 このことから仁科の原爆研究は「若手研究員を召集から守るための方便に過ぎなかった」とする見方もある。
■戦後
 1946年11月に理研の所長となり、同年文化勲章を授与された。また、学士院会員、日本学術会議副会長を務めた。だが、戦後になると体調を崩す事が多くなり、病院での検査の結果肝臓癌と判明した。この癌の原因については、放射線の研究を戦前から長年行っていた事による被爆や、原爆投下直後の広島・長崎に入市し被曝した事を要因と考える説もある。そして1951年1月10日、60歳で没した。死去から4年後の1955年、原子物理学の振興を目的として仁科記念財団が設立された。この財団では毎年、原子物理学に関して著しい業績を上げた研究者に仁科記念賞を授与している。また、1990年に日本で発行された、ラジオアイソトープ利用50周年を記念した切手には仁科の肖像が描かれている。
■人柄
 理研時代の弟子からは慕われ、「親方」と呼ばれた。ドイツ滞在中に励ましの書簡を送られた「仁科の弟子の一人」朝永振一郎*52は、仁科を「温かく親しみやすかった」と評している。また、湯川秀樹は新粒子予言のさいにボーアから批判を受けたが仁科はこれをかばい、後に湯川は「非常に鼓舞された」と語っている。

鈴木辰三郎氏死去/元いわき明星大学長 | 全国ニュース | 四国新聞社
 鈴木辰三郎氏(すずき・たつさぶろう=元いわき明星大学長、元陸上自衛隊化学学校長)。
 30日午後1時27分、肺炎のため東京都目黒区の病院で死去、89歳。名古屋市出身。
 太平洋戦争中、日本の原爆開発研究に携わった。

【参考:F研究】

【戦後70年 核物理学の陰影(上)】幻の原爆開発 科学者が巻き込まれた2つの出来事とは…(1/13ページ) - 産経ニュース
 原爆開発の研究は、海軍の依頼を受けた京都帝国大(現京都大)でも並行して行われていた。核分裂の英語(フィッション)の頭文字を取って「F研究」と呼ばれた。
 研究は戦局が深刻さを増した昭和18年5月に委託されたが、本格化したのは昭和19年秋からだ。原子核研究の草分けだった荒勝文策(あらかつ・ぶんさく)教授を中心に、理論面で湯川秀樹*53博士らも参加した。
 ウラン濃縮は理研とは別の方法を試みることになり、遠心分離法を採用した。天然ウランを容器に入れて高速回転させ、遠心力を利用してウラン235を分離する方法で、洗濯機の脱水と同じ原理だ。
 遠心分離機は、荒勝研究室の講師だった清水栄京大名誉教授らが独自に設計する一方、東京計器製作所(現・東京計器)にも設計・作製を依頼した。
 1カ月後に終戦を迎えることになる昭和20年7月。F研究に関する海軍と京大の最後の合同会議が琵琶湖岸のホテルで開かれた。ここで海軍出身の東京計器顧問、新田重治氏が遠心分離機の構造を説明している。
 「その図面が出てきたのですよ」。
 核物理学の歴史を調べている政池明京大名誉教授(80)が明かす。今年6月、清水氏の遺品から見つけた。記録がほとんどないF研究を裏付ける貴重な証拠だ。図面は劣化して見にくいが、「完成 昭和20年8月19日」との記載が見える。終戦の4日後に完成させる予定だったのか。米国の資料によると、東京計器は遠心分離機の製造中に空襲で被災し、装置は失われたという。
 荒勝研究室には中国・上海の闇市場で海軍が購入した約100キロのウラン化合物が運ばれたという。だが遠心分離機は結局、完成せず、実験に使われることなく終戦を迎えた。
 ただ、完成していても、実は当時の遠心分離法ではウラン濃縮は不可能だった。それを既に知っていた米国は別の方法で原爆を開発した。遠心分離法による濃縮は、容器内に温度差を設けて対流を起こす技術などを併用することが必要で、実用化したのは戦後になってからだ。
 戦後、荒勝研に所属した竹腰秀邦京大名誉教授(88)は「荒勝先生は原爆を開発できるとは思っていなかっただろう。終戦に間に合う見込みはなかった。時代に翻弄された科学者といえるのではないか」と話す。

【戦後70年】もう一つの「戦争裏面史」原爆開発競争 京都帝大「F研究」秘話 被爆地で新型爆弾の正体突き止めた“皮肉”(1/4ページ) - 産経WEST
 「これは原爆だ」。
 昭和20年8月6日、米軍が投下した1個の新型爆弾で壊滅した広島市。その一報を受けて現地入りし、新型爆弾の正体を原爆だと突き止めたのは、皮肉にも旧日本軍から委託を受けて原爆の研究を進めていた日本の科学者たちだった。戦後70年を前に、京都帝大(現在の京都大)の荒勝文策博士(1890~1973年)らが残した調査資料や研究ノートが新たに見つかり、歴史のワンシーンが改めて浮かび上がった。そこに記されていたのは、戦争に引き込まれながらも科学者として懸命に使命を果たそうとする姿とともに、国家の命運をかけた原爆開発競争というもう一つの「戦争裏面史」だった。
 日本では第二次世界大戦中、旧陸軍が理化学研究所仁科芳雄研究室に、旧海軍は京都帝大の荒勝文策研究室に原爆の研究開発を委託した。
 「ニ号研究」の符丁で呼ばれた仁科博士らの研究では、熱拡散法によるウラン濃縮に着手。荒勝博士らの研究はfission(核分裂)の頭文字をとって「F研究」と名づけられ、遠心分離法によるウラン濃縮を目指した。
 しかし、物資の不足などのため双方の研究とも終戦までに成功しなかったとされる。
 戦後70年を前に、京都大では、荒勝研究室に所属していた科学者が残した研究ノートが新たに見つかり、原爆開発で最も重要とされたウラン濃縮についての記述も確認された。遠心分離装置の回転数を計算した数値や必要な資材の寸法、参考にした海外論文が記され、実際に研究を進めていた様子が分かる。
 終戦後、連合国軍総司令部(GHQ)は理研や京都帝大などを捜索し、物理学の基礎研究に使われる円形加速器サイクロトロン」を破壊。「原爆の開発につながる」との理由だった。この時、日本の原子核物理学の基礎を築いた荒勝博士の研究資料も、ほとんど持ち去られたという。
 荒勝博士の孫弟子で、核開発の歴史に詳しい政池(まさいけ)明*54京都大名誉教授=素粒子物理学=は「理研の原爆開発に比べて京都帝大のF研究は残っている資料が少なく、分からないことが多い」と指摘。「戦後70年もたって新たな資料が出てきたことに驚いた。歴史を検証するための貴重な内容が含まれている」と語る。
 これまでに米国側で公開された資料から、日本海軍が上海でウランを購入して荒勝博士に提供していたことなどが知られている。しかし結局、原爆開発に成功したのは、優秀な人材を集め、圧倒的な資金を投入した米国だった。
 昭和20年8月6日、米軍は広島に原爆を投下。直後に米国のトルーマン大統領は「原子爆弾を投下した」との声明を発表したが、理研や京都帝大などの科学者たちは独自の調査を行うために現地へ向かった。
 仁科博士は8日に広島へ入り、翌日には土壌などを採取。東京へ空輸して放射能の存在を確認した。
 荒勝博士は同10日に現地入りし、爆心地近くの西練兵場など十数カ所で採取した土壌からベータ線を計測、科学的な検証で原爆と断定した。残留放射能のエネルギーや半減期を調べて核分裂の生成物まで推定したのは京都帝大のチームが最初だったという。
 この時のデータを記録した資料は、政池氏が昨年末、荒勝博士の遺族から預かった遺品約550点の中から見つけた。
 科学者たちの調査チームは、広島赤十字病院(当時)に残っていたエックス線フィルムの感光や、負傷者の白血球数の著しい減少を確認。いずれも原爆により放出された放射線の影響と結論づけ、8月10日に開かれた陸海軍の合同会議で「原子爆弾または同じ威力を持つ特殊爆弾」と報告した。これは終戦の判断に影響を与えたとされる。
 調査に向かう前、仁科博士は関係者にあてた手紙で「トルーマン米大統領)声明が事実とすれば、我われは腹を切るときが来た。米英の研究者は日本の研究者に対して大勝利を得たのだ」と書き残している。
 荒勝博士の遺品の中から見つかった新たな資料について、政池氏は「原爆投下直後の混乱状態でも精度の高い測定が行われていたことが分かる。苦悩を抱えながらの調査だったのだろうと思う」と語る。
 その上で、荒勝博士らが当時進めていた原爆開発に言及。「日本の基礎科学の研究レベルは高く、米国にも劣らないものだったといえる。しかし、物資が足りない日本で原爆を完成させるのは無理だということも、荒勝博士たちは分かっていたはずだ」と指摘した。
 政池氏は現在、当時の様子を明らかにしようと、荒勝博士らが残した資料を詳しく調べている。

【戦後70年 核物理学の陰影(下)】悲運の加速器、海底に沈む 「米国の誤謬、もはや絶望」(1/9ページ) - 産経ニュース
 サイクロトロンの破壊は京都帝国大でも同時に執行された。平成22年に発見された荒勝文策(あらかつ・ぶんさく)教授の日誌には、GHQに抗議する様子が記されている。
 「研究設備の破壊撤収は必要無きに非(あら)ずや。これ等(ら)は全く純学術研究施設にして原子爆弾製造には無関係のものなり」
 しかし、占領軍は建設中だったサイクロトロンの80トンの磁石を持ち去った。「惨憺(さんたん)たる光景であった」と荒勝氏は嘆いた。
 大学1年だった竹腰秀邦京大名誉教授(88)が当時を振り返る。
 「外国人が乗り込んできたのが怖くて、物理教室には近寄らないようにしていた。実験で使う部屋の一角にサイクロトロンの大きな磁石が置かれていたが、占領軍が去った後、その場所は空になっていた。ああ、日本ではこういう研究をやってはいけないのかと、半ば諦めのような気持ちを抱いた」
 占領軍は科学者の生命線である実験ノートの提出も命じた。立ち会った占領軍通訳の回想記によると、この要求に対し荒勝氏は感情の高ぶりを抑え切れず、声を詰まらせながら「没収は不当である」と強く抗議した。
 荒勝氏は戦前、台北帝国大(現台湾大)で加速器による原子核実験をアジアで初めて行った先駆者だ。壊されたサイクロトロンは、日本海軍から依頼された原爆開発の「F研究」に組み込まれたが、本来は基礎研究が目的だった。
 「日本の地から原子核研究の芽をつみ取られる事は誠に残念である」。
 破壊の翌月の日誌にある荒勝氏の言葉だ。
 「大変な苦労をして作っていたものが、核兵器のためと誤解され、壊されてしまった。先生の心中はいかばかりだったか」と竹腰氏は話す。
 終戦後の昭和24年、京大の湯川秀樹博士が中間子論で日本人初のノーベル賞を受賞。敗戦とサイクロトロン破壊で打ち砕かれた日本の核物理学に、一筋の光明が差し込んだ。
 破壊事件に心を痛めた占領軍通訳はその後、再び来日し、荒勝氏に心境を改めて尋ねている。回想記によると、湯川と親交があった荒勝氏は「後輩がノーベル賞を受賞したことで全てが埋め合わされた」と、きっぱり語ったという。
高エネ研特別栄誉教授 仁科記念財団理事長・小林誠*55(71)に聞く
■記者
「戦時中の日本の原爆研究をどう見るか」
■小林
核分裂の連鎖反応からエネルギーを取り出せば、発電用原子炉や原爆などの用途が生まれる。軍部は原爆を想定していたが、理研や京都帝大で行われたのは連鎖反応を起こす前の段階の基礎研究だ。日本の原子核研究は戦前、非常に高いレベルにあったが、原爆研究はウラン濃縮すら成功しなかった。非常にプリミティブ(幼稚)なレベルだった」
■記者
「開発が成功する可能性はあったか」
■小林
「無理だった。戦争で物資も人材もなかった。ウラン濃縮も、理研の熱拡散法は装置の素材に問題があったし、京大の遠心分離法も技術的に未熟だった。実際に原爆を作ってそれを使う状況に陥らなかったという意味では、開発できなくてよかったと思う」
■記者
「科学者が兵器開発に参加したことの是非は」
■小林
「軍事利用される可能性があるから断るという単純な問題ではない。画期的な新原理や技術について、研究を軍だけが進めるのは危険だ。最先端の知見を人類で共有するためには、科学者が立ち会う必要がある」
■記者
「仮に自身が兵器開発を依頼されたらどうするか」
■小林
「既存の知識や技術で兵器を開発しろというなら、可能な限りノーと答える。新たな科学的真理を明らかにする研究なら判断は難しい。断れば科学者の使命から逃げることにもなる。研究の科学的意味しだいだ」
■記者
「戦後、GHQはサイクロトロンを破壊した」
■小林
「とんでもない暴挙だった。サイクロトロンは兵器の研究装置ではない。原子核のほか生物や放射性同位体など、幅広い研究に役立つ純粋な科学研究装置だ。日本の原子核研究は一気に停滞し、後々まで尾を引いた」
■記者
(ボーガス注:仁科、湯川など)原爆研究に関わった科学者の多くは戦後、核廃絶運動などに取り組んだ
■小林
「原爆投下で起きた悲惨な状況から、強い衝撃を受けて意識が変わった。エネルギーの大きさは当然、分かっていただろうが、どんなことを引き起こすか考える余裕がなかったのかもしれない」
※この企画は長内洋介、伊藤壽一郎、黒田悠希が担当しました。

湯川秀樹、原爆研究記す 終戦前後の日記公開 (写真=共同) :日本経済新聞
 日本初のノーベル賞受賞者湯川秀樹(1907~81年)が終戦前後に書き残した日記を京都大が21日、初公開した。原爆研究に関わった記述がある一方、広島や長崎の原爆被害も詳細に記しており、専門家は、戦後平和運動に携わった湯川の歩みを知る記録として注目している。
 湯川は原爆研究への関与を公的な場では認めていなかったが、45年6月に原爆開発についての会議に出席していたことが今回、本人の自筆記録で初めて裏付けられた。
 日記は78年、京大理学部の戸棚の整理中に風呂敷包みから発見され、湯川の没後、遺族が大学に寄贈したノート15冊の一部。「研究室日記(日誌)」と題され、今回、45年分の3冊が公開された。
 このうち、6月23日には「F研究 第1回打ち合わせ会、物理会議室にて」と記され、京都帝大(現京大)の同僚荒勝文策氏ら研究者計12人の名前があった。研究内容への言及はなかった。
 F研究は海軍の依頼で荒勝氏を中心に進めていた原爆研究。湯川の関与は他の研究者の残した資料で分かっているが、原料不足などから基礎的な研究にとどまり、製造段階には程遠かったとされる。
 日記ではF研究に関して、他にも2月、海軍の施設で会合があったことや、5月に戦時研究に決定したとの通知があったことが記載されている。
 一方、広島への原爆投下翌日の8月7日には、「(新聞社から)広島の新型爆弾に関し原子爆弾の解説を求められたが断る」としている。原爆投下に関する感想はないが、戦後の9月6日には、「死者 広島7万名 長崎2万名」などと原爆の死傷者数や建物被害数を記している。
 9月15日には「米士官2名教室へ来たので直ちに面会」と記述。戦時中の研究について聴取されたことがうかがえる。また、マッカーサー司令部に提出する研究に関する報告書の作成に忙しい日々を送っていたり(10月3日)、海外の研究者と原爆について論じたり(11月22日)していた。
 日記を分析した小沼通二慶応大名誉教授は「日記に思いは書かれていないが、国が正しいと考えていた湯川の価値観が戦後になって変わったことが同じ頃に雑誌に書いた記事から読み取れる。45年に平和運動への道ができたのだと思う」と話している。日記は京大湯川記念館史料室のホームページで公開する。

湯川博士、生涯黙した極秘の原爆研究 にじむ反核の原点:朝日新聞デジタル
 没後36年を経て21日に公開された湯川秀樹博士の終戦前後の日記には、生涯語らなかった原爆研究についての記述が散見される。戦後一貫して平和と核廃絶を訴えたが、その転機となった、「反省と沈思の日々」と後に雑誌に記した沈黙の期間の動静も浮かびあがる。
 「午後 三氏と会合 F研究相談」。
 1945年2月3日付の日記はこう記されている。F研究は旧海軍の委託を受け、京都帝国大(現・京都大)が極秘で進めた原爆研究の名称だ。Fはfission(核分裂)の頭文字。指揮をとった荒勝文策教授のもと、後にノーベル物理学賞を受ける中間子論ですでに世界的に有名だった湯川博士が理論を担当した。この日の日記には、「荒勝、堀場*56、佐々木」という名前が書かれ、計4人で学外で打ち合わせをしたと記されている。
 日本の原爆研究はF研究と、旧陸軍の委託で理化学研究所(東京)が行った「ニ号研究」がある。戦況を打開する手段として、海軍が研究を本格化させたのは1943年ごろ。1944年10月には、大阪・中之島の海軍士官クラブ「水交社」で京大と海軍によるF研究の初会合が開かれた。原爆製造に欠かせないウランの濃縮計画の報告があり、湯川博士核分裂の連鎖反応について報告したことが知られている。
 翌1945年5月には「F研究 決定の通知あり」、6月は「F研究 打合せ会、物理会議室にて」と記されている。
 7月21日、「午前雨 涼し 朝七時過家を出て京津電車にて琵琶湖ホテルに行く、雨の中を歩く。帰りは月出で九時帰宅」。日常生活の記述にも読めるが、この日はF研究の海軍との合同会議が大津市で開かれた。
 日本の原爆開発に詳しい山崎正*57東京工業大名誉教授(科学史)によると、原爆の原料となるウランの入手が困難なことから、F研究はこの日の会議で事実上終了したという。原爆研究はF研究、ニ号研究とも失敗に終わった。
湯川秀樹 
 1907年東京生まれ。旧京都帝国大学(現・京都大)で学び、1934年に「中間子論」を発表。1949年、日本人初のノーベル賞となった物理学賞を受賞した。戦後は平和運動に力を注ぎ、1955年に核兵器と戦争の廃絶を訴えたラッセル・アインシュタイン宣言に署名。パグウォッシュ会議にも参加し、核なき世界の実現を訴えた。亡くなる直前まで平和を訴え続けた。1981年死去。

湯川秀樹:戦中の原爆研究に言及 京大が日記公開 - 毎日新聞
 日本人初のノーベル賞を受賞した物理学者、湯川秀樹(1907~81年)が、終戦期の45年に書いた日記を21日、京都大基礎物理学研究所・湯川記念館史料室が公開した。湯川が生涯を通じて公的な発言を控えていた原爆研究「F研究」に言及。広島原爆投下や時局に関する記述もあり、専門家は「第一級の歴史的史料」としている。

 「戦後の湯川」にとって「F研究への関与」は「可能な限り口にしたくない黒歴史」だったのでしょう。気持ちは分からないでもありません。

■荒勝文策(1890~1973年、ウィキペディア参照)
・1928年、台北帝国大学教授を経て、1936年、京都帝国大学教授となる。理研仁科芳雄大阪帝国大学の菊池正士*58と共に、戦前日本を代表する原子核物理学者であった。
・1941年5月、日本海軍より原子爆弾の研究を依頼された。この計画には湯川秀樹らも加わっていた。一方で、日本陸軍理研仁科芳雄に原爆の開発を依頼し、「海軍-京大」「陸軍-理研」という2つの研究開発が別々に並行して進められた。
・1950年に、定年で京都大学を退官し、甲南大学の初代学長に就任した。なお、湯川秀樹ノーベル物理学賞受賞を記念して京都大学に基礎物理学研究所が設立された際、中心人物の1人でもあった。
・『昭和史の天皇 4』(1968年、読売新聞社。のち『昭和史の天皇 原爆投下』として1988年、角川文庫に収録)によれば、当時、京大助教授だった木村毅一(後に教授)の証言によると、広島から京都に戻る際、荒勝(当時、京大教授)は京都に3発目の原爆が投下されるという噂(実際に米軍は京都への投下構想を当初より抱いていた)を聞いて「(事実ならば)原子物理学者としてこれは千載一遇の好機だ。急いで比叡山の頂上に観測所を造って、原爆投下から爆発の状況など、あらゆる角度から、写真や計器を使って徹底的に観測してやろう」と述べたという。

 木村証言には「はあ?」ですね。これが事実かどうかはもはや調べようがない*59でしょうが、「冗談でも本気でも」事実なら「広島の惨状を目撃した上でこの発言」とは荒勝氏は一寸常軌を逸していますね。広島、長崎の原爆投下に衝撃を受け、戦後、「核の平和利用」を訴えたとされる仁科や湯川の逸話とはあまりにもかけ離れています(なお、小長谷論文は「真偽不明の木村証言」は紹介していませんが、仁科や湯川に比べれば、戦後の荒勝に彼らのような政治的言動がほとんど見られないこと、荒勝が「是非はともかくいわゆる学者バカ(政治的言動におそらくほとんど興味がない)であったこと」は指摘しています)。
 まあ「学者の社会的責任」というものを考えずにはいられません。悪い意味で「研究さえ出来ればいい。それが社会に与える影響とか興味ない」を「とことんまで追求すれば」木村が証言する「荒勝暴言」になるわけです。
 たとえば「チベットの現地調査が出来ればそれでいい。中国政府が協力してくれるつうから現地調査に行ってきます。お前の態度は中国のチベット統治への加担だ?。知らんがな、そんなん」つう態度をとったら「学者が研究を最優先するのは当然です」とはMukkeもさすがに言わないでしょう(以下、大嫌いなMukkeへの悪口が続きますが一応それなりの正当性は目指しています、つまり「俺の主観的にはMukkeへの因縁付けや言いがかりではない」つうことです)。
 まあ、Mukkeの「俺はI浜Y子*60・W大学教授の学問研究には興味はあるけど、社会的発言には興味ありません」つう言い逃れはその種の詭弁に近いもんがありましたが。
 あるいは「I濱の弟子らしい」Mukkeだってさすがに「荒勝の弟子」が「木村さんが証言する『荒勝さんの比叡山発言』をどう思うかって。別に興味ないけど。荒勝さんは戦後、甲南大学学長にもなった偉大な物理学者だからそんなん仮に事実でも俺にとってどうでもない」と言ったら*61「アホか、手前」と批判するでしょう。まあ、MukkeのI濱擁護ってそのレベルの暴言、詭弁でしたけど。そうした数々の詭弁、暴言の結果「はてなからトンズラ」ですから哀れな御仁だとは思います。


アメリカの軍事技術開発と「デュアルユース技術」の軍事利用(山崎文徳)
(内容紹介)
 「デュアルユース(軍事技術の民生転用)」を強調して軍事研究を正当化する主張に対し、
1)軍事技術開発と民生技術開発では性格が違うため、軍事技術は必ずしも民生転用可能ではない
2)軍事大国米国やソ連は必ずしも「民生技術の分野」で他国を圧倒しているわけではないこと(なかったこと)を指摘し、適切な主張ではないと批判している。


■私の原点「朝鮮史研究との出会い」(糟谷憲一)
(内容紹介)
 『朝鮮の近代』 (1996年、山川出版社世界史リブレット)などの著書を持つ朝鮮史研究者、一橋大学名誉口授の糟谷氏が自らの研究について振り返っている。


■歴史のひろば「東京五輪がもたらす都市空間の変容」(石坂友司*62
(内容紹介)
1)1964年東京五輪では「五輪開催をてこに」首都高速道路の建築など「都市空間の変容」が行われた
2)2020年東京五輪でも「1964年の夢よ、再び」とそうした動きがある
3)しかし「国土開発がほとんどされてない」&「首都高速道路の建築などにほとんど異論のなかった」1964年とは違い、2020年の都市開発ほどには異論なく進むことはないだろう、つう話です。
 まあ小生が思うに「万博や五輪をてこに開発」がほとんど異論なく進んだのは「東京五輪(1964年)」「大阪万博(1970年)」「沖縄海洋博(1975年)」、「筑波万博(1988年)」といった「昭和時代(1980年代のバブル期まで)が全盛期」じゃないですかね。
 最近は「批判が弱いにしても」日本人もそれほど脳天気でもないでしょう。もっと冷めたところがあるんじゃないか。いずれにせよ五輪のような一大イベントは、石坂氏も指摘するように「便乗した都市開発」「会場跡地の利用問題」「愛国心の助長」と言った問題があるのであまり脳天気に万歳できるもんでもないでしょう。


■和田幸司*63『「士農工商」はどう教えられてきたか:小中学校における近世身分学習の展開』(2018年、ミネルヴァ書房)(評者:大橋幸泰*64
(内容紹介)
 「士農工商」概念については1990年代以降、研究の進展で
1)武士と「一般庶民」と「被差別民」については明確な身分の差があったが「一般庶民」の間には「身分の差」は認められない。「農工商」は「農工商」の順に「上下がある身分」ではなく「職業の違い」にすぎない
2)「農民が都市に出稼ぎに行くこと」でわかるように「農工商」は固定的な物ではなかった。また一般庶民との間には「明確な身分の差がある武士」ですら「下級武士にしかなれない」とはいえ「御家人株売買(ただし、売買は違法行為なので法的には養子縁組の持参金の形をとる)」の形で一般庶民が武士に成り上がることが出来た
など、その理解には大きな変化があったが、それは必ずしも「小中学校の歴史学習」には十分反映されていない*65という認識を元に「どう反映すべきか」について述べられている。
 なお、大橋氏も指摘していますし、ウィキペディア士農工商」にも指摘がありますが、士農工商とは「過去においては差別用語的扱い」をされることが多かったわけです(後で紹介します)。

【参考:「士農工商」理解の変化】

https://www.tokyo-shoseki.co.jp/question/e/syakai.html#q5
東京書籍
「よくあるご質問Q&A」小学校 社会
小学校 「新編 新しい社会」,「新しい社会」3・4下
Q:
 これまでよく使われていた「士農工商」や「四民平等」といった記述が(ボーガス注:東京書籍の小学校社会科教科書から)なくなったことについて,理由を教えてください。
A:
 かつては,教科書に限らず,一般書籍も含めて,近世特有の身分制社会とその支配・上下関係を表す用語として「士農工商」,「士と農工商」という表現が定説のように使われてきました。しかし,部落史研究を含む近世史研究の発展・深化につれて,このような実態と考えに対し,修正が加えられるようになりました(『解放教育』1995年10月号・寺木伸明*66「部落史研究から部落史学習へ」明治図書,上杉聰*67著『部落史がかわる』三一書房など)。
 修正が迫られた点は2点あります。
 1点目は,身分制度を表す語句として「士農工商」という語句そのものが適当でないということです。史料的にも従来の研究成果からも,近世諸身分を単純に「士農工商」とする表し方・とらえ方はないし,してはいなかったという指摘がされています。基本的には「武士-百姓・町人等,えた・ひにん等」が存在し,ほかにも,(ボーガス注:士農工商から外れる)天皇・公家・神主・僧侶などが存在したということです。
 2点目は,この表現で示している「士-農-工-商-えた・ひにん」という身分としての上下関係のとらえ方が適切でないということです。武士は支配層として上位になりますが,他の身分については,上下,支配・被支配の関係はないと指摘されています。特に,「農」が国の本であるとして,「工商」より上位にあったと説明されたこともあったようですが,身分上はそのような関係はなく,対等であったということです。また,近世被差別部落やそこに暮らす人々は「武士-百姓・町人等」の社会から排除された「外」の民とされた人として存在させられ,先述した身分の下位・被支配の関係にあったわけではなく武士の支配下にあったということです。
 これらの見解をもとに弊社の教科書では平成12年度から「士農工商」という記述をしておりません。
 さて,「士農工商」という用語が使われなくなったことに関連して,新たに問題になるのが「四民平等」の「四民」をどう指導するかという点です。
 「四民平等」の「四民」という言葉は,もともと中国の古典に使われているものです。『管子』(B.C.650頃)には「士農工商の四民は石民なり」とあります。「石民」とは「国の柱石となる大切な民」という意味です。ここで「士農工商」は,「国を支える職業」といった意味で使われています。そこから転じて「すべての職業」「民衆一般」という意味をもちました。日本でも,古くから基本的にはこの意味で使われており,江戸時代の儒学者も職業人一般,人間一般をさす語として用いています。ただし,江戸時代になると,「士」「農」「工」「商」の順番にランク付けするような使われ方も出てきます。この用法から,江戸時代の身分制度を「士農工商」という用語でおさえるとらえ方が生じたものと思われます。
 しかし,教科書では江戸時代の身分制度を表す言葉としては,「士農工商」あるいは「士と農工商」という言葉を使わないようにしています。これまでは「四民」本来の意味に立ち返り,「天下万民」「すべての人々」ととらえていただくよう説明してきました。しかし,やはりわかりにくい,説明しにくいなどとのご指摘はいただいており,平成17年度の教科書から「四民平等」の用語は使用しないことにしました。
 「四民平等」の語は,明治政府の一連の身分政策を総称するものですが,公式の名称ではないので,この用語の理解自体が重要な学習内容とは必ずしもいえません。むしろ,従来の「江戸時代の身分制度も改めて四民平等とし」との記述に比べ,現在の教科書の「江戸時代の身分制度を改められ,すべての国民は平等であるとされ」との記述の方が,近代国家の「国民」創出という改革の意図をよりわかりやすく示せたとも考えております。
(「四民」の語義については,上杉聰著『部落史がかわる』三一書房p.15-24を参考にしました。)

ほんとうに教科書から「部落差別の歴史」は消えたのか? 歴史研究者・上杉聰さんインタビュー - 弁護士ドットコム
 被差別部落への差別を助長する発言をしたとして、元フジテレビアナウンサーの長谷川豊氏が、この夏予定されている参院選への出馬をとりやめた。その後、長谷川氏は、公式ブログで「教科書から、その差別の歴史の記述自体が無くなっているのです」と記した。つまり部落差別の記述が教科書から消えたというのだ。この言説はほんとうに正しいのだろうか。現在、被差別部落の歴史は学校でどう教えられているのだろうか。(ライター・黒部麻子)
(編集部注:本稿で「部落」とは被差別部落のことを指しています。また、「穢多・非人」という呼称は、歴史上の用語として使用しています)
 長谷川氏は今年2月24日、都内の講演で「江戸時代にあまり良くない歴史がありました。士農工商の下に穢多(えた)・非人(ひにん)、人間以下の存在がいる、と」「人間以下と設定された人たちも性欲などがあります。当然、乱暴なども働きます」「相手はプロなんだから、犯罪の」などと発言したとされる。
 部落解放同盟中央本部は5月21日、長谷川氏を公認候補者としていた「日本維新の会」に対して、「部落は怖い」などのステレオタイプ差別意識を助長する行為だとして、抗議文を提出した。同党は検証委員会を開いて、長谷川氏の処分を検討していた。こうした状況を受けて、長谷川氏は出馬辞退に至った。
 出馬辞退の報道があった6月10日、長谷川氏は公式コラム「本気論 本音論」を更新して、次のように記した。
「僕らの世代は、小学校などで(僕は道徳の授業でした)江戸時代に暗い差別の歴史があった、と習いました。4段階の身分制度士農工商)。そして、その下に被差別階級があった、と」
「実は日本ではその歴史自体が、なかったのではないか、と。その認識は間違っていたのではないか、と*68
「最新の歴史の教科書では、実はそんな歴史認識自体が間違っていた、というのが最新の学説となっており、子供たちの教科書から、その差別の歴史の記述自体が無くなっているのです」
 江戸時代の身分制度について、「士農工商の下に穢多・非人がいた」と教わった人は少なくないだろう。現在はそうした説明はされていないのだろうか。部落差別の歴史自体がなかったというのは、ほんとうだろうか。部落史研究者の上杉聰さんに聞いた。
■記者
 現在の学校教育で、「士農工商」はどうあつかわれていますか?
■上杉
 かつては、上から「士農工商」、さらにその下に「穢多・非人」という身分を置いた(江戸時代につくった)、という説明がされていました。しかし、1990年代後半からこの記述は大きく変わり、教科書から消えていきました。現在の教科書では、江戸時代の主要な身分は「武士・百姓・町人」という3つの身分で説明されています。
 「士農工商」が消えたのは、もともと日本の身分制とは無関係の古代中国の言葉だったからです。人々の職業を4つに大別し(「士」は武士のことではなく、知識人や官吏を指していました)、皇帝の下にいる「民全体」を表す言葉でした。「老若男女」と同じように、「みんな」という意味だったのです。
 身分とは、職業のことではありません。江戸時代の日本では大工や鍛冶屋、造り酒屋、医者といった職業の人々も、村に住んでそこの人別帳に加えられていれば「百姓」身分、城下町などの町に住めば「町人」身分だったのです。
■記者
 それでは「穢多・非人」はどうなっているのでしょうか?
■上杉
 中学校の歴史教科書でもっともシェアの高い『新編・新しい社会 歴史』(東京書籍/平成27年検定)を見てみましょう。そこには、「百姓、町人とは別に、えた身分、ひにん身分の人々がいました」(『新編新しい社会 歴史』P115)と書かれています。
 このように「別に」、あるいは他社の教科書では「ほかに」という言葉で、部落差別を表現するようになりました。「下」ではないのです。そして、この教科書では続けて、次のように書いています。
「これらの身分の人々は、他の身分の人々から厳しく差別され、村の運営や祭りにも参加できませんでした。幕府や藩は、住む場所や職業を制限し、服装などの規制を行いました」(同前P115)
 このように、部落差別の歴史はしっかり記述されています。
■記者
 被差別部落江戸幕府がつくったのでしょうか?
■上杉
 「江戸時代のはじめにつくられた」という説明も、ほとんどされなくなりました。教科書の記述も、かつては「(幕府や藩が)えた・ひにん身分を置いた」という表現でしたが、上述のように「いた」という表現に変わり、江戸時代以前にもこうした人々がいたことが表されるようになりました。そして、中世に「河原者」や「ひにん」が差別されていたことを記載する教科書が増えています。
 また、河原者・善阿弥などの庭造りや、幕末に岡山で起きた「渋染一揆」について、ほとんどの教科書が積極的に取り上げています。そのほか、『解体新書』を著して、オランダ医学を日本に紹介した杉田玄白の説明とともに、当時の解剖は被差別身分の人々が担ったことも教科書に書かれるようになりました。
 このように、教科書の記述は大きく変わりましたが、長谷川氏が言うように「差別の歴史の記述自体がなくなった」というのは大きな誤りです。研究の成果を受け、部落の歴史や差別の実態がより正確に描かれるようになったということなのです。
■記者
 部落はいつからあったのでしょうか?
■上杉
 穢多や非人という言葉が登場する最古の史料は、鎌倉時代中期、1280年ごろの『塵袋(ちりぶくろ)』という、大変古い書物です。私自身は、穢多と同じ意味で使われた「河原者」や「屠者」という呼び方が見られる平安時代中期ごろにまでさかのぼると考えていますが、いずれにしても現在はこうした中世起源説が主流です(歴史学で中世とは平安時代中期から*69)。ただし、中世においては法整備まではされず、権力者による慣行的なものとして差別が行われました。
 それが制度化されるのが江戸時代です。宗門人別改帳に身分が記載され、部落の人たちの衣服や立ち居ふるまいまで規制するようになっていきます。また、部落の側だけでなく百姓や町人に対しても、差別しなければ罰せられる、つまり法的に差別が強制されるようになっていくのです。
■記者
 そうした人々はなぜ差別されたのでしょうか?
■上杉
 一つには、外来の仏教によって、動物を処理することを「残酷」とみなし、仏の戒(いましめ)を破る「悪行」(あくぎょう)とする観念が広がったことが背景にあります。また、日本には、伝統的に「穢(けが)れ」という概念が神道の中にあります。これは、物理的な「汚(よご)れ」を社会領域にまで拡げた概念です。古くから、死や病、犯罪など、人間社会の秩序に変化をもたらすものを「穢れ」と呼び、忌避してきました。
 こうした宗教的な背景のなか、古代の律令制が崩れ、中世の荘園制度が始まると、貴族や寺社、武士などがそれぞれの荘園を独立して支配することになります。すると荘園同士のあいだに必ず隙間が生じます。河原や荒れ地などに住み、どこにも属さない人たちが生まれてきたのです。それらの土地は無税地でもありましたので、荘園支配の体制から外れた「異質な人たち」と見なされました。また、米作をせず動物を殺して食べることから、宗教的に「残酷」や「穢れ」のレッテルが貼り付けられるようになりました。
 そうした人々が楽しく元気に暮らしていたら、荘園の秩序は外から壊されてしまいます。そこで、彼らに対し、人や動物の死体の処理、清掃、警察といった仕事をすることを、無税地に住む代償として、懲罰的な意味を込めて義務づけました。こうした穢れを取り払う仕事は「キヨメ」と呼ばれ、部落の始まりとなりました。「穢多」や「非人」の言葉はそこから(分業で)分かれて生まれてきました。
 しかし、「キヨメ」の人々が担った仕事は、社会にとって必要不可欠な仕事です。ですから、排除されたといっても、一般社会から完全に切り離され、独立していたというわけではありません。ある程度支配には組み込みながら、しかし仲間には加えない。こうした矛盾した行為が部落差別なのです。
■記者
 部落の人たちは貧しかったのでしょうか?
■上杉
 大半の人たちは貧しかったのですが、中には「穢多頭(えたがしら)・弾左衛門」のように、刀を差して髷(まげ)を結い、小大名に匹敵する力を誇った人もいました。こうしたことからも、「最底辺」や「最下層」といった言葉では説明できないことがわかります。ただし、このような弾左衛門でさえ、百姓や町人と付き合うことはできませんでした。排除される存在であったことに変わりません。
■記者
 明治になり、「解放令」が出されたことで部落差別はなくなりましたか?
■上杉
 1871(明治4)年の布告は、よく「解放令」と呼ばれますが、この呼称は後からつけられたもので、当時そんな名前はありませんでした。布告の中に「解放」という言葉も出てきません。その成立過程を研究していくと、国にとって「地租改正の邪魔になるから身分を廃止した」という程度の動機に過ぎなかったことがわかります。
 この布告により身分制度と名称は廃止されましたが、差別解消のための措置がそこに含まれませんでした。このため多くの論文では、「解放令」ではなく「賤民制廃止令」、あるいは簡略に「賤民廃止令」と呼ばれています。


【参考:「士農工商」と部落解放同盟の抗議】

士農工商ウィキペディア参照)
■TBS糾弾事件(1981年)
 広告代理店を舞台にした、1981年8月6日のTBS系のテレビドラマ『虹色の森』(毎日放送制作)に「士農工商、その下がうちだよ*70」との台詞が登場。これに対し、部落解放同盟が「差別表現」として抗議した。
阿久悠糾弾事件(1984年)
 『東京新聞1984年12月10日付に掲載された連載「この道」第35回で、作詞家・阿久悠が広告代理店勤務時代にテレビ局の社員たちから屈辱的な扱いを受けた思い出に触れ、「番組ディレクターは帝王だった。それに比べて、広告代理店は自ら士農工商代理店と嘲るほど立場が弱かった」と書いた。これに対し、部落解放同盟東京都連合会は、作者の意図にかかわらず「差別表現」であると抗議し、阿久は謝罪した。
週刊文春糾弾事件(1985年)
 『週刊文春』1985年5月9日号に作家・筒井康隆による「士農工商SF屋」との表現が掲載されると、部落解放同盟が抗議。筒井は「多種多様な業界で自嘲的に使われている成句であり、その限りにおいて部落差別の隠喩になりえない」と突っぱねたが、文春は部落解放同盟に謝罪した*71
電通事件(1996年)
 電通発行の週刊紙電通報』1996年9月16日付に掲載された連載コラム「シリーズ・広告自分史<8>」に「士農工商代理店、われら車夫馬丁でござんす」との表現が登場(筆者は愛媛新聞社会長の松下功)。これに対して電通は同紙を即刻回収し、謝罪声明を発表すると共に、問題の表現を差し替えた第二版を発行。翌1997年4月8日には電通の花岡専務が組坂繁之・部落解放同盟委員長に面会して謝罪文を手渡した。このほか、問題の記事の筆者である松下功が1997年2月17日に部落解放同盟中央本部を訪れ、謝罪した。
佐賀新聞社糾弾事件(1997年)
 1997年3月、佐賀新聞社社長の中尾清一郎が、佐賀市におけるシンポジウムで「佐賀というのは福岡から下にみられ、福岡人が士農工商の商であれば、佐賀は穢多非人」と発言。部落解放同盟佐賀県連合会が差別発言として批判し、中尾は謝罪した。


■歴史の眼:シリーズ連載「明治150年の総括」1
「明治150年記念事業が突き付けたこと」(原田敬一*72
(内容紹介)
 原田氏は「佐藤*73政権での明治100年に比べても、安倍*74政権の明治150年については歴史学会やマスコミなどの批判が弱かったのではないか」「やはり安倍の恫喝体質へのおびえがあるのか(ボーガス注:少なくともテレビ局がまともに安倍批判しないことや、日本新聞協会がきちんと望月・東京新聞記者を擁護しないことなどは原田氏や、あるいは高世仁などが嘆くようにそうしたおびえがあることは間違いないでしょう)」と嘆いています。
 ただ「モリカケや安保法など他の問題」はともかく明治150年に限れば

政府が明治維新150年を祝う式典 天皇陛下は出席せず:朝日新聞デジタル
 佐藤栄作内閣のもとで開かれた明治100年式典の際は、昭和天皇香淳皇后が出席したが、今回天皇、皇后両陛下は出席しなかった。宮内庁は「政府からお声がけがなかった*75」(西村泰彦*76次長)としている。

明治150年:記念式典縮小 首相こだわり/反発に配慮 - 毎日新聞
 明治改元から150年の節目を迎えた23日、政府は憲政記念館(東京都千代田区)で「明治150年記念式典」を開いた。50年前の100年式典は約1万人が出席して大々的に開かれたが、戦前の歴史も踏まえて明治維新の「全面称賛」には批判も根強く、今回の出席者は約300人に縮小。皇族の出席も見送られた。

と言う点に注意が必要でしょう。
 つまり積極的批判派はもちろん「積極的には批判しない人間」であっても安倍の「明治150年を手放しで支持する人間」はほとんどおらずその結果、「国内外の批判を恐れて」天皇夫妻(当時)も式典出席に消極的だった。「過大評価は勿論出来ないものの」あえて言えば、「積極的に支持しない」というのは「消極的不支持」「消極的反対」ともいえるわけです。
 それで次第に安倍もやる気を失ったわけです。そしてその結果として安倍は明治150年において、当初考えていたほどには「右翼的イデオロギー」を前面に打ち出せず、各地の自治体の記念イベントも「明治時代の偉人(山口の伊藤博文*77木戸孝允*78山県有朋*79吉田松陰など、鹿児島の大久保利通*80西郷隆盛*81など、高知の坂本龍馬板垣退助*82など、佐賀の大隈重信*83など)を元にお国自慢、観光振興をてんでんばらばらに行う」ような統一性のまるでない代物になったわけです。
 勿論そうした偉人自慢においては、原田氏も批判するように「吉田松蔭のテロ容認体質」「伊藤博文朝鮮侵略」など「負の側面」は無視ないし軽視される傾向にはありますが、それにしても当初危惧されたほどには右翼的にはならなかった。
 そもそも「自治体がてんでんばらばら」ですから、「新潟では河井継之助(長岡藩家老)」「福島では白虎隊」のような「明治新政府と対立した側」が取り上げられたりするわけです。これでは「明治時代を美化したい」という安倍の思いは世間にアピールされたとはいえ、それが「意味のある形になった」とはとてもいえないでしょう。
 「佐藤の明治100年(1968年)」は正直「佐藤の他の政治的業績(1965年の日韓国交正常化、1972年の沖縄返還など)」に比べ「後世への影響はほとんどなかった」でしょうが、「安倍の他の業績(安保法制定による集団的自衛権一部容認、特定秘密保護法制定、消費税8%増税入管法改正によって移民増加に舵を切ったことなど)」はともかく今回の「安倍の明治150年(2018年)」も「佐藤の明治100年」と比べても社会的影響力はほとんど皆無でしょう。
 こうした安倍の「やっぱ止めた(明治100年みたいな大規模な式典にしたかったけどやっぱ止めた。まあ、式典をやると言ったから一応アリバイ作り程度にはやるけど)」は

靖国参拝がしたい→首相1年目に参拝したら、アメリカや中国が批判するから止めた(ただし玉串料は奉納します)」
河野談話撤回がしたい→アメリカや中国が批判的だから止めた」
「稲田を重用したい→第三次安倍内閣防衛相にしたらあまりにも評判が悪いから止めた」
「二島先行返還を目指す→プーチン*84が乗り気じゃないから止めた」
「中国封じ込めを目指す→日本財界も、諸外国(例:G7諸国、インド)、も乗り気じゃないから止めた。むしろ李克強*85首相が訪日したら歓迎します」

など他にも例はあります。
 その結果として「明治150年」よりも「モリカケ」「安保法」「特定秘密保護法」などと言った問題に批判が集まったという面はあるでしょう。
 なお、原田氏も指摘してますし、他にも多くの人間が指摘してますが、この「止めた」を過大評価(?)することはもちろんできません。
 「止めた、があるから安倍のウヨ政治は怖くない」とはとてもいえない。そもそも「反対が弱ければ靖国参拝してもいい」などと思うこと自体が政治家として異常です。
 しかし、「安倍は産経的極右路線を全面展開してきたわけではない」「それが不可能な程度にはマスコミや野党、外国(米国、中韓など)などの批判には意味があったこと」は指摘しておきたいと思います。
 言いたいことは「安易な楽観論は間違ってる」と思いますが一方で「過大な悲観論も間違ってる」つうことです。


■広告『加賀藩明治維新』(宮下和幸、2019年、有志舎)
(内容紹介)

加賀藩の明治維新 宮下 和幸(著) - 有志舎 | 版元ドットコム
 北陸の大藩である加賀藩は、幕末政局において目立った動きを見せずに明治維新を迎えたとみなされ、加賀藩=「日和見」とのラベリングがなされてきた。しかし、それは正当な評価なのだろうか。

 なかなか面白そうなので機会があったら読んでみたい気はします。

*1:2016年、岩波新書

*2:2017年、岩波新書

*3:著書『宇宙のかたちをさぐる』(1988年、岩波ジュニア新書)、『宇宙から見た自然』(1991年、新日本新書)、『宇宙はどこまでわかっているか』(1995年、NHKライブラリー)、『泡宇宙論』(1995年、ハヤカワ・ノンフィクション文庫)、『科学の考え方・学び方』(1996年、岩波ジュニア新書)、『天文学者の虫眼鏡』(1999年、文春新書)、『私のエネルギー論』(2000年、文春新書)、『科学を読む愉しみ』(2003年、洋泉社新書y)、『疑似科学入門』(2008年、岩波新書)、『科学と人間の不協和音』(2012年、角川oneテーマ21)、『科学の限界』(2012年、ちくま新書)、『科学のこれまで、科学のこれから』(2014年、岩波ブックレット)、『人間だけでは生きられない:「科学者として東京オリンピックに反対します」』(2014年、興山舎)、『宇宙論と神』(2014年、集英社新書)、『宇宙入門』(2015年、角川ソフィア文庫)、『宇宙開発は平和のために』(2015年、かもがわ出版)、『科学は、どこまで進化しているか』(2015年、祥伝社新書)、『科学者と戦争』(2016年、岩波新書)、『科学者と軍事研究』(2017年、岩波新書)、『司馬江漢:「江戸のダ・ヴィンチ」の型破り人生』(2018年、集英社新書)、『物理学と神』(2019年、講談社学術文庫)、『科学者は、なぜ軍事研究に手を染めてはいけないか』(2019年、みすず書房)など

*4:どこが緊迫してるんでしょうか。イランやシリアといった中東ならまだしも日本近辺(中国、南北朝鮮、ロシア)は何ら緊迫してないでしょう。

*5:著書『軍用機の誕生:日本軍の航空戦略と技術開発』(2017年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)

*6:陸軍次官、関東軍参謀長、朝鮮軍司令官、平沼、米内内閣拓務大臣、朝鮮総督、首相を歴任。戦後、終身刑判決を受け服役中に病死。後に靖国に合祀。

*7:参謀次長、満州拓殖公社総裁、小磯内閣文相など歴任

*8:犬養内閣陸軍大臣、第1次近衛、平沼内閣文部大臣など歴任。戦後、終身刑判決を受けるが後に仮釈放。

*9:検事総長大審院長、第二次山本内閣司法相、枢密院議長、首相、第二次近衛内閣内務相など歴任。戦後、終身刑判決を受け服役中に病死。後に靖国に合祀。

*10:海軍技術研究所長兼造船研究部長、三菱造船技術顧問、東京帝国大学総長など歴任

*11:1858~1939年。東京大学教授(化学)、理研所長(3代目)、帝国学士院長、日本学術振興会理事長など歴任(ウィキペディア「桜井錠二」参照)

*12:1854~1934年。帝国大学工科大学(東京大学工学部の前身)初代学長、東京仏学校(法政大学の前身)初代校長、土木学会初代会長、日本工学会理事長(会長)、理研所長(2代目)など歴任(ウィキペディア古市公威」参照)

*13:1871~1944年。政治学者。東大法学部長、総長など歴任。1903年、当時の桂太郎首相、小村寿太郎外相に対露強硬論の意見書を提出したいわゆる「東大七博士」の一人としても知られる(ウィキペディア「小野塚喜平次」参照)

*14:1928~1975年。日本大学教授。

*15:第1次大隈内閣文部大臣、第2次山本内閣文部大臣兼逓信大臣、加藤高明内閣逓信大臣などを経て首相

*16:関東軍参謀として満州事変を実行。関東軍作戦課長、参謀本部第1部長、関東軍参謀副長、舞鶴要塞司令官など歴任

*17:関東軍高級参謀として満州事変を実行。関東軍参謀長、第1次近衛、平沼内閣陸軍大臣朝鮮軍司令官、第7方面軍(シンガポール)司令官など歴任。戦後、死刑判決。後に靖国に合祀。

*18:広島第5師団長、大阪第4師団長、台湾軍司令官、広田内閣 陸軍大臣、陸軍教育総監、北支那方面軍司令官、南方軍総司令官など歴任

*19:岐阜県知事、石川県知事、富山県知事、埼玉県知事、静岡県知事、広島県知事、兵庫県知事、岡田内閣書記官長など歴任

*20:清浦、加藤高明、第1次若槻、浜口内閣陸軍大臣朝鮮総督、第1次近衛内閣外相(拓務大臣兼務)など歴任

*21:軍令部次長、連合艦隊司令長官、第1次近衛内閣内務相など歴任

*22:海軍省軍務局長、海軍省航空本部長、海軍次官、第二次近衛内閣商工相、第三次近衛内閣外相(拓務大臣兼務)、鈴木内閣軍需相など歴任

*23:陸軍次官、台湾軍司令官、第二次近衛内閣司法相など歴任

*24:陸軍軍医総監、陸軍省医務局長、第3次近衛内閣厚生相など歴任。戦後、GHQの戦犯指定を苦にして自決。

*25:海軍省軍務局長、海軍次官、第三次近衛内閣商工相など歴任

*26:明治5年(1872年)に太政官より出された日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令

*27:原文のまま。現在では普通、日中戦争という。

*28:「侵略」と表現しないのはやはり自民党への忖度でしょうか。

*29:明治5年(1872年)に太政官より出された日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令

*30:著書『稲の大東亜共栄圏:帝国日本の「緑の革命」』(2012年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『ナチス・ドイツ有機農業』(2012年、柏書房)、『ナチスのキッチン:「食べること」の環境史』(2016年、共和国)、『戦争と農業』(2017年、インターナショナル新書)、『トラクターの世界史』(2017年、中公新書)、『給食の歴史』(2018年、岩波新書)など

*31:1879~1968年。原子核分裂を発見し、1944年にノーベル化学賞を受賞

*32:アスキス内閣商務大臣、内務大臣、海軍大臣ロイド・ジョージ内閣軍需大臣、植民地大臣、第2次ボールドウィン内閣大蔵大臣、チェンバレン内閣海軍大臣などを経て首相

*33:当時新兵器であった戦車が英国軍によって初めて投入された戦いとして知られる。一連の戦闘でイギリス軍498,000人、フランス軍195,000人、ドイツ軍420,000人という膨大な死者を出したが、いずれの側にも決定的な戦果はなかった(ウィキペディアソンムの戦い」参照)

*34:著書『ドイツ自動車工業成立史』(2000年、創土社

*35:ディーゼルエンジンの発明者ルドルフ・ディーゼルが所属していたことで有名(ウィキペディア「MAN」参照)

*36:ガソリンエンジンの発明者であるカール・ベンツとゴットリープ・ダイムラーが創業者(ウィキペディアダイムラー・ベンツ」参照)。

*37:ナチスドイツ時代に開発されたティーガーI戦車、ティーガーII戦車のメーカーとして知られる(ウィキペディアヘンシェル」参照)。

*38:火砲の開発・製造で知られ、同社製滑腔砲120 mm L44はレオパルト2戦車(ドイツ)、M1エイブラムス戦車(アメリカ)、90式戦車(日本)の標準装備となっている(ウィキペディア「ラインメタル」参照)。

*39:著書『石油の「埋蔵量」は誰が決めるのか?:エネルギー情報学入門』(2014年、文春新書)、『原油暴落の謎を解く』(2016年、文春新書)

*40:まあ「捕らぬ狸の皮算用」ですね。石油禁輸が対米開戦の大きな理由ではあるでしょうが他にも「米国の対日くず鉄禁輸」とかいろいろありますし、そもそも「大慶油田を発見できないこと=日本の国力の限界」のわけです。

*41:マジレスすれば「石油禁輸されて打つ手がない」時点でハルノートを受け入れて降参すべきだったのであり、リスキーな真珠湾攻撃に打って出るなんて無謀の極みです。

*42:著書『熱輻射実験と量子概念の誕生』(2012年、北海道大学出版会)

*43:関東憲兵隊司令官、関東軍参謀長、陸軍次官、第二次、第三次近衛内閣陸軍大臣、首相を歴任。戦後、死刑判決。後に靖国に合祀。

*44:https://ci.nii.ac.jp/naid/40017725579によれば安田『日本における原子爆弾製造に関する研究の回顧』(月刊「原子力工業」1955年7月号収録)のこと。

*45:著書『だれが原子をみたか』(2013年、岩波現代文庫)など

*46:戦後、終身刑判決を受けるが後に仮釈放

*47:1885~1962年。1922年ノーベル物理学賞受賞者

*48:1901~1958年。1939年ノーベル物理学賞受賞者

*49:「日本国内で作るより米国で作って輸入した方が安い」つうあたり「そんなんで米国と戦争するのかよ?」て話です。

*50:この逸話からは1)この時点では理研の研究者は日米開戦を予想してなかった、2)明らかに日本の核物理学は米国に比べ劣っていた、と言うことが分かるかと思います。

*51:1889~1964年。大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1909年5月、陸軍士官学校(21期)を卒業。同年12月、工兵少尉に任官。1912年11月、陸軍砲工学校高等科(18期)を卒業。1913年9月、陸軍派遣学生として東京帝国大学工学部電気科に入学し、1916年7月に卒業。電信連隊中隊長、砲工学校教官、陸軍通信学校研究部主事、陸軍省軍務局防備課長、陸軍航空技術研究所長、陸軍航空総監、多摩陸軍技術研究所長など歴任。1940年、航空技術研究所長時にウラン235核分裂する時に大きなエネルギーを放出することを知って爆弾に応用することを着想し、1941年に陸軍が理化学研究所原子爆弾の開発を委託するきっかけとなった。1944年3月、航空総監だった当時、陸軍内で提案された特攻作戦(体当たり攻撃)に異を唱えた為、東條英機首相によって更迭された事でも知られる。後任の航空総監には後宮淳大将が任命され、同年末に企画は実行に移された(ウィキペディア安田武雄」参照)。

*52:1906~1979年。繰り込み理論によって1965年のノーベル物理学賞を受賞。東京教育大学長、日本学術会議会長、世界平和アピール七人委員会委員を歴任

*53:1907~1981年。中間子理論により1949年(昭和24年)、日本人として初めてノーベル物理学賞を受賞。

*54:著書『荒勝文策と原子核物理学の黎明』(2018年、京都大学学術出版会)

*55:いわゆる「小林・益川理論」の業績により益川敏英京都大学名誉教授とともに2008年のノーベル物理学賞を受賞

*56:当時、荒勝研究室にいたという堀場製作所創業者である堀場雅夫のことか?

*57:著書『原爆はこうして開発された(増補)』(共著、1997年、青木書店)、『日本の核開発:1939~1955』(2011年、績文堂出版)

*58:1902~1974年。東京大学原子核研究所長、日本原子力学会会長、日本原子力研究所(日本原子力研究開発機構の前身)所長、東京理科大学長等を歴任

*59:もちろん可能性としては「荒勝を誹謗する木村の虚言」の可能性もあるでしょうからこれ以下は「これが事実ならもちろん人間として最低の暴言であり、問題だ」という批判にとどめます。

*60:著書『ダライ・ラマと転生』(2016年、扶桑社新書)など

*61:そういう「無茶苦茶な荒勝擁護」が実際にあったかどうかは知りませんが。

*62:著書『〈オリンピックの遺産〉の社会学長野オリンピックとその後の十年』(共著、2013年、青弓社)、『オリンピックが生み出す愛国心』(共著、2015年、かもがわ出版)、『現代オリンピックの発展と危機1940-2020:二度目の東京が目指すもの』(2018年、人文書院)、『一九六四年東京オリンピックは何を生んだのか』(共著、2018年、青弓社

*63:著書『浄土真宗と部落寺院の展開』(2007年、法蔵館)、『近世国家における宗教と身分』(2016年、法蔵館

*64:著書『検証 島原天草一揆』(2008年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『潜伏キリシタン:江戸時代の禁教政策と民衆』(2014年、講談社選書メチエ→2019年、講談社学術文庫)、『近世潜伏宗教論:キリシタン隠し念仏』(2017年、校倉書房)など

*65:後で紹介するhttps://www.tokyo-shoseki.co.jp/question/e/syakai.html#q5で分かるように全く反映されてないわけではありません。

*66:著書『被差別部落の起源とはなにか』(1992年、明石書店)、『被差別部落の起源』(1996年、明石書店)、『近世被差別民衆史の研究』(2014年、阿吽社)など

*67:著書『部落史がかわる』(1997年、三一書房)、『天皇制と部落差別』(2008年、解放出版社)など

*68:上杉氏も指摘してるように、長谷川発言のウチ、「従来の士農工商理解が不適切だった、と評価されてること」は事実ですが、「部落差別がなかった、と最近では認識されてる」と言うのは明らかなウソです。

*69:どこから中世が終了し、近世になるかは争いがありますが、鎌倉時代室町時代は一般に中世に含まれると理解されます。

*70:阿久発言と言い、当時の広告代理店とテレビ局の関係ってそんなもんだったんでしょうか。

*71:まあ筒井の場合単に差別に鈍感なだけですが。

*72:著書『日本近代都市史研究』(1997年、思文閣出版)、『国民軍の神話』(2001年、吉川弘文館)、『帝国議会誕生』(2006年、文英堂)、『日清・日露戦争』(2007年、岩波新書)、『日清戦争』(2008年、吉川弘文館)、『「坂の上の雲」と日本近現代史』(2011年、新日本出版社)、『兵士はどこへ行った:軍用墓地と国民国家』(2013年、有志舎)、『「戦争」の終わらせ方』(2015年、新日本出版社)など

*73:吉田内閣郵政相、建設相、岸内閣蔵相、池田内閣通産相などを経て首相

*74:自民党幹事長(小泉総裁時代)、小泉内閣官房長官を経て首相

*75:本当になかったのかは怪しいですし、仮になかったとしても「声かけて断られたら俺のメンツが潰れる」「天皇、皇后を出席させたらむしろ俺が『右翼行事に天皇を政治利用した』と国内外から批判される」「だから声はかけない」つう話であることは間違いないでしょう。

*76:警察庁警備局長、警視総監などを経て宮内庁次長

*77:首相、貴族院議長、枢密院議長、韓国統監を歴任。元老の一人

*78:参議、文部卿、内務卿を歴任

*79:第1次伊藤、黒田内閣内務相、首相、第2次伊藤内閣司法相、枢密院議長など歴任。元老の一人。

*80:参議、大蔵卿、内務卿を歴任

*81:参議、陸軍大将、近衛都督

*82:参議、第2次伊藤、第2次松方、第1次大隈内閣内務相など歴任

*83:大蔵卿、第1次伊藤、黒田内閣外務大臣、第2次松方内閣農商務大臣、首相など歴任

*84:エリツィン政権大統領府第一副長官、連邦保安庁長官、第一副首相、首相を経て大統領

*85:共青団中央書記処第一書記、河南省長・党委員会書記、遼寧省党委員会書記、第一副首相を経て首相(党中央政治局常務委員兼務)