三浦小太郎&守る会に突っ込む(2019年7月31日分)

【10月19日 東京文京区】アジアの自由と民主主義を促進するシンポジウム | 一般社団法人 アジア自由民主連帯協議会
 「アジアの民主主義」云々と言いながら、宣伝文句を見る限り「中国だけが話の対象」「一党独裁ベトナムラオスも、軍政のタイも王制のサウジも対象外」つうのだから呆れざるを得ません。そんなことならせめて「中国の民主主義」か「東アジアの民主主義」と言うタイトルにしたらどうなのか。


竹村健一氏に、ちょっと的外れな(?)追悼文を | 三浦小太郎BLOG Blue Moon

 竹村氏はいわゆる保守派としてのイメージが強いんでしょうが、もともとはマクルーハン*1の日本への紹介者。

 ただしウィキペディア竹村健一」には「竹村の主張はマクルーハンの主張とは違う」と言う批判があったようです。
 また、彼の売りもすぐに「マクルーハンではなくなります」。売れてからは「四カ国語麻雀」「ハナモゲラ語」をほとんどやめたタモリのように、彼自身がマクルーハン云々を自分の売りにしなくなる。
 彼にとってマクルーハンなど所詮「有名になるためのネタ」にすぎなかったのでしょう。そんな人間のマクルーハン理解など当てになるか怪しいもんです。

 竹村氏のマクルーハン理解はマクルーハン本人の思想とは違う、というのはよく言われていて、その通りなのかもしれないけど、たぶん竹村氏はそんなことはあまり関心はなく、当時の左右の思想家やアカデミズムに対抗する武器として、そして、竹村氏なりのテレビというメディアへの期待としてマクルーハンを援用していたんだろう。

 それマクルーハンに対する侮辱でしかない。三浦も無茶苦茶なことを良く平然と言えるもんです。

 わたしが一番関心があるのは、晩年の竹村氏*2の沈黙。

 なんか三浦は「人気絶頂期に引退した原節子山口百恵」「テレビではなく映画でもっぱら活躍した高倉健」などのように「理由はともかく」故意に竹村がテレビからフェイドアウトしたかのように言いたいようですが「ウソも大概にしろよ」ですね。
 竹村は単に「後輩の極右テレビ芸人」に「人気競争で負けただけ」の話でしょう。だからこそ産経などウヨメディアですら竹村の死など大して騒がないわけです。
 まあ、三浦をパロれば「わたしが一番関心があるのは、なぜ三浦氏がこんな強弁をするのか」ですね。

*1:著書『マクルーハン理論』(平凡社ライブラリー)、『メディアはマッサージである:影響の目録』(共著、河出文庫)など。なお、この「マッサージ」とは「メッセージ」のことです。「あんま」などという意味の「マッサージ」ではない。

*2:パイプをくわえた独特な風貌、「大体やね」「ブッシュさんはね」(日本国外の政治家を敬称入りで呼ぶ事例は日本人では稀)など、独特の口調や語の強調による特徴ある発言を行う。このため物真似芸として、タモリが芸能活動初期の持ちネタとしている(ウィキペディア竹村健一」参照)。