今日の中国ニュース(2019年8月9日分)

マカオ行政長官に親中派当確 香港デモ影響せず(1/2ページ) - 産経ニュース
 こうした香港とマカオの違いが「英国統治とポルトガル統治の違い(ポルトガルの方が自由度が低い)」なのか、何なのかが気になるところです。


「 中国国防白書、対米戦勝利への決意 」 | 櫻井よしこ オフィシャルサイト

 第一章の「国際安全保障の状況」の中では、「アジア太平洋諸国は運命共同体の一員としての自覚を強めている」として、南シナ海の情勢をバラ色に描いている。
南シナ海情勢は安定しており、沿岸諸国のリスク管理は適切になされ、相違は超越され、均衡と安定、開放性を備えたアジア安全保障の枠組みに多数の国々が包摂されている」という具合だ。

 中国の言い分の是非はともかく、南シナ海での「中国とベトナム、フィリピンの領土紛争」をよしこのように「対立一色で描き出すこと」はフィリピン、ベトナムがAIIBや一帯一路に参加していることを考えれば明らかに不適切です。

 静岡大学教授の楊海英氏が雑誌『正論』9月号で語った言葉に深く納得する。氏は「中国という国はいつも世界で一番美しい言葉を使って一番ダーティな仕事をします」と喝破したのだ。
 中国の内モンゴルに生れた楊氏は、モンゴルの人々が中国共産党から受けた信じ難い迫害の詳細な調査を長年続けてきた。だからこそ氏の中国観察には真の力がある。

 楊海英もここまで落ちぶれたかと思うとげんなりします。
 こうなると楊がよしこのいう「迫害の詳細な調査」である楊『墓標なき草原:内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』(2009年、岩波書店→後に2018年、岩波現代文庫)で司馬遼太郎賞(2011年)を受賞したのも果たして良かったのかどうか。
 司馬賞を受賞しなければ、よしこら日本ウヨが楊に注目することもなかったでしょう。東漸、楊が落ちぶれることもなかった。
 近年の楊の著書には

日本陸軍とモンゴル:興安軍官学校の知られざる戦い』(2015年、中公新書
『最後の馬賊 :「帝国」の将軍・李守信*1』(2018年、講談社
『モンゴル人の中国革命』(2018年、ちくま新書

と言ったまともな著書名もありますが、一方では

『狂暴国家 中国の正体』(2014年、扶桑社新書
『「中国」という神話:習近平「偉大なる中華民族」のウソ』(2018年、文藝春秋

と言う非常識な著書名もありますからね。

 習氏は今年1月、(中略)台湾独立の動きには軍事力行使の選択は除外できないと演説した
 「何者かが台湾の分離独立を目論むなら、いかなる代償も惜しまず、国家統一を守る」と、蔡英文台湾総統に向けて、青白い炎のような恫喝を放った。

 「台湾が独立宣言すれば武力行使もあり得る」というのは江沢民*2胡錦濤*3時代からそうであり、習近平*4のオリジナル見解ではありません。

 台湾が中国の手に落ちれば、次は尖閣と沖縄であり、長崎県五島列島だと考えなければならない。

 
 呆れて二の句が継げません。「領有権を主張している先覚はまだしも」なんで中国が沖縄や五島列島に侵攻するのか。
 中国がいつ「沖縄本島五島列島の領有権を政府として主張した」のか。
 よしこや「このよしこ記事を掲載した週刊新潮」ですら本気ではこんなことは思ってないでしょう。

*1:1892~1970年。1919年から熱河省の直隷派の軍に加入し、軍功を重ねて順調に昇進。国民政府でもそのままこれに帰属し、1928年、東北軍騎兵第17旅第34団団長に就任した。1930年(民国19年)前後に、ガーダー・メイリンの蜂起を鎮圧した。1933年、李は日本軍と交戦。しかし、これをきっかけに李は日本と交渉し、日本から兵器・資金の供与を得た。以後の李は日本側、すなわち満州国に与して活動を開始し、熱河遊撃軍師司令、察東警備軍司令、興安西警備軍司令官代理などを歴任。1936年2月、デムチュクドンロブ(徳王)が日本軍の支援で蒙古軍総司令部を創設すると、李もこれに参加し、副総司令兼軍務部長に就任した。同年5月、蒙古軍政府が成立すると、李は参謀部長に任命された。1937年10月、日本軍の援助により蒙古聯盟自治政府が成立すると、李は蒙古軍総司令に就任した。1938年7月、李は蒙古聯盟自治政府副主席に就任。1939年9月、蒙古聯合自治政府が成立すると、李は引き続き蒙古軍総司令をつとめた。1940年1月、李は蒙古聯合自治政府代表として南京国民政府代表の周仏海(戦後、終身刑判決を受け服役中に病死)と会談し、自治権をめぐる交渉を行っている。その結果、南京国民政府を正統の中央政府と承認し、その地方政権となる一方で、蒙古聯合自治政府は「高度な自治」を許可された。1941年6月、蒙古聯合自治政府が蒙古自治邦に改められると、副主席に就任した。日本敗北後の1949年、国民党の敗色が濃厚になると、李は一時台湾へ逃亡したが、その後、徳王の勧誘に応じて内モンゴルに引き返す。同年8月に蒙古自治政府が成立すると、政務委員兼保安委員会副委員長となった。同年12月中旬には外モンゴルチョイバルサン首相の招きに応じ徳王とともに外モンゴルに亡命した。1950年9月、外モンゴル当局により逮捕された徳王と李は、当時成立したばかりの中華人民共和国に引き渡され、収監された。1964年12月28日、戦犯特赦において李は釈放され、以後は回顧録を書きながら内モンゴル自治区文史館館員を務めた。1970年5月、フフホト市で病没。享年79(満77歳)(ウィキペディア『李守信』参照)。

*2:電子工業大臣、上海市長・党委員会書記などを経て党総書記、国家主席党中央軍事委員会主席、国家中央軍事委員会主席

*3:中国共産主義青年団中央書記処第一書記、貴州省党委員会書記、チベット自治区党委員会書記などを経て党総書記、国家主席党中央軍事委員会主席、国家中央軍事委員会主席

*4:福州市党委員会書記、福建省長、浙江省党委員会書記、上海市党委員会書記、国家副主席、党中央軍事委員会副主席、国家中央軍事委員会副主席などを経て党総書記、国家主席党中央軍事委員会主席、国家中央軍事委員会主席