韓国に対して、旧宗主国の日本がなすべきこと | 楊海英 | コラム | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
朝鮮半島の2つの国家*1と付き合う上で、日本に欠けている視点が1つある。それは彼らが同じ民族だ、という認識である。「同じ民族が他者によって分断されるほど悲しいことはない」というのが、2度の世界大戦を経た20世紀のコンセンサスだろう。ここでいう分断民族とは東西ドイツと南北朝鮮、それに内外モンゴルだ*2。
3つの民族の分断はいずれも、日本と関係している。米英ソは日本と同盟していたドイツとの戦争にほぼ勝利した1945年2月、クリミア半島のヤルタで日本帝国にいかに対処するかを議論した。日本の北方四島をソ連に「引き渡す」だけでなく、モンゴルを2つに分ける密約*3が交わされた。
モンゴル人民共和国*4はソ連と共に満州に進軍し、内モンゴルの同胞を日本の支配下から解放したものの、民族の統一は実現されず、逆に中国の統治下に組み込まれてしまった。当事者のモンゴル人にとっては、青天のへきれきだった。
日本が撤退した直後、朝鮮半島では2つの大きな政治勢力が拮抗していた。ソ連の後押しを受けて北部を支配していた共産ゲリラ軍と、満州国軍の青年将校らが結集して南部で樹立した親米・親日政権だ。前者のリーダーは金日成(キム・イルソン)。後者の中心人物は高木正雄こと朴正煕(パク・チョンヒ)*5だった。
日本は他者の立場に立って物事を考えることも必要だろう。もし先の大戦の後、日本列島も北緯38度線で米ソによって分断されていたら、大和民族はどうするのか。片や全体主義で、もう一方が民主主義だからといって、民族統一を諦めるのか*6。
世界のどの民族より強烈な仲間意識で固まっている日本人は恐らく、最も苛烈な形で民族統一運動を推し進めるのではないか。
日本人は同じ民主主義の韓国が全体主義の北朝鮮になびくことが理解できないようだが、仮に半島の民族統一を邪魔すれば、それこそ植民地支配より深い恨みを買う。モンゴルの民族統一を阻止している中国をモンゴル人が絶対に許せない*7ことが何よりの証拠だ。
日本は旧宗主国として朝鮮半島の民族統一をむしろ後押しすべきだ。そうして初めて真の友好が生まれる。
太字強調は俺がしました。「密約」「モンゴル統一」云々はともかく今回は「楊*8の結論(太字部分)」が実にまともです。反中国のために日本ウヨに媚びる姿よりもこちらの方が楊の本心ではないのか。
参考
「宗主国」の日本人へ~モンゴル人からのあるメッセージ(楊 海英) | 現代ビジネス | 講談社(1/3)
朝鮮半島はふたつの国家に分断されているのか。そこには、日本の責任はないのでしょうか。
答えは簡単、「責任あり」です。台湾も朝鮮半島も日本の植民地だったのですから。
モンゴルについても同じです。具体的にはモンゴル高原の南部、俗にいうモンゴル国(外蒙古)に対する内モンゴル、今日の中国領内蒙古自治区は(ボーガス注:「満州国の一部」や「徳王(デムチュクドンロブ)*9が主席を務める蒙古聯合自治政府」という)日本の植民地だったのです。
台湾と中国の対立、南北朝鮮の分断、そして内外蒙古すなわち内モンゴルとモンゴル国の分離もまた、日本の大陸進出に淵源しています。日本の大陸進出がなければ、台湾も朝鮮半島も、そしてモンゴル高原も、その地政学的状況はまったく違っていたはずです。わかりやすく言えば、内モンゴルは中国領とされていないはずですし、朝鮮半島にも統一された国家が樹立されていたでしょう。
もっとも、台湾についてはわかりませんが。
日本人はどうして、自身が関わった、20世紀前半の「帝国建設」の歴史を無視する「健忘症」におちいってしまうのでしょうか。
私はこれまで旧植民地出身のモンゴル人として、宗主国たる日本の人びとに、私たちが共有し、ともに創成してきた歴史を伝えることを目的として著述してきました。
まず、20世紀に突入したばかりの日本はロシアと出会い、私の故郷満洲で戦いました。あの日露戦争の戦場は、日本でもなく、ロシアでもなく、なんと私たちモンゴル人と満洲人の草原でした。そして、モンゴル人は日本人と組んで、東へと進出してきたロシア人と戦ったのです。日本には無数の日露戦争の本がありますが、もう少し、友軍のモンゴル軍についての記述があってもいいと思います。
いや、正確にいえば、ありました。かつては、陸士こと陸軍士官学校ではちゃんと、友軍のモンゴル人について教えていました。その歴史を私は、
①『日本陸軍とモンゴル──興安軍官学校の知られざる戦い』(中公新書/2015)
のなかで書きました。日本軍の先導役をつとめたバボージャブ親子の話から始まり、なぜ、モンゴル人は日本に協力したかについて、探究しています。モンゴル人は無条件に日本に協力したのではありません。中国からの独立に日本の助力が必要だったのです。また、当時の日本人はいまの人びとと違って、モンゴル独立に賛成し、援助を惜しまなかったのです。
しかし、バボージャブの独立の夢は帝政ロシアと帝国日本の裏切りによって葬られ、その部下たちの一部は馬賊になっていきました。一方、辛亥革命、ロシア革命後、外モンゴルには1924年に社会主義のモンゴル人民共和国(現モンゴル国)が成立します。また日本は満洲事変を起こし、満洲国を建国させます。こうした事情を背景に、私は、
②『最後の馬賊──「帝国」の将軍・李守信』(講談社/2018)
を執筆しました。この本では、馬賊から身を起こし、チンギス・ハーンの末裔である徳王を支え、1949年までモンゴルの独立を目指して戦った男、李守信*10を描いています。彼は当時、帝国軍人の鑑、「蒙古の乃木*11将軍」と評価されていました。昭和天皇から勲章も与えられています。当時、満洲国のおよそ3分の2がモンゴル人の草原から成っていましたし、満洲国軍すなわち日本軍の主力部隊にはモンゴル人部隊が含まれていました。
日本が撤退したあと、満洲国のモンゴル軍はひきつづき独立を求めます。またモンゴル人民共和国との統一、「大モンゴル」の樹立を夢見ました。しかし、「ヤルタ協定」の密約によって、内モンゴルは中国領とされてしまいます。同じ密約で、北方四島がソ連に引き渡されています。ついでに言いますと、日本は戦後ずっと、北方四島の返還をソ連(ロシア)に対して要求してきましたが、内モンゴルの帰属*12については、黙りこんでいます。
日本の大陸進出と、日本に対する戦後処理がなければ、内モンゴルを中国に引き渡すような「ヤルタ協定」なんか出てくるわけがありません。内モンゴルを中国に占領させてしまったのは、日本の大陸進出が原因です。そのあたりを含めて、わかりやすく伝えたいと、私は、
③『モンゴル人の中国革命』(ちくま新書/2018)
を書きました。現代史はドラマよりも波瀾に満ちています。国共内戦、中華人民共和国成立後、かつての満洲国軍の一部だったモンゴル軍は1959年にチベットに派遣され、ダライ・ラマ法王の政権を倒し、法王はインドに亡命して今日に至ります。チベットで作戦行動にあたったモンゴル軍人は、腰に日本刀を吊るし、日本語で作戦命令を書いていました。その事実を、私は、
④『チベットに舞う日本刀──モンゴル騎兵の現代史』(文藝春秋/2014)
で紹介しました。日本風の軍事訓練の結果が、皮肉にも「世界の屋根」で開花したのです。そういう意味で日本人の歴史もまた、大ユーラシア史の一部を織りなしています。日本の歴史は日本列島にとどまらないのです。
日本人はモンゴル草原から列島に帰り、多くを忘れてしまいましたが、残されたモンゴル人はさんざん酷い目に遭わされました。チベットで中国に利用されたあと、文化大革命では手のひらを返したように「日本のスパイ」や「日本の走狗」として大量虐殺*13されたのです。その歴史を私は、
⑤『墓標なき草原──内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』上下(岩波現代文庫/2018、原著は2009)
『続・墓標なき草原──内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』(岩波書店/2011)
で綴っています。
毎年、夏になりますと、歴史が好きで、反省を美徳とする日本人は多くの「歴史番組」を作成し、当事者が過去について語ります。しかし、誰も、植民地だった「満蒙」とくにモンゴルについて語ろうとはしません。そういう姿を見ていますと、ほんとうに「反省」しているのかどうか、疑いたくもなります。
日本人が誰も旧植民地の人間の運命について書こうとしないならば、私たち自身で書くしかありません。いつか、もっと多くの日本人が帝国建設者であり植民地経営者であった過去と向きあい、そのうえでモンゴル人など旧植民地の視点で歴史について書くようになる日が来るのを期待しています。
太字強調は俺がしました。「密約」「モンゴル統一」云々はともかく、こちらも「楊の結論(太字部分)」が実にまともです。反中国のために日本ウヨに媚びる姿よりもこちらの方が楊の本心ではないのか。
そして「南北朝鮮分断は日本にも責任がある(文在寅大統領など)」に「反日だ」と悪口する日本ウヨは、楊の「南北モンゴル分断は日本にも責任がある」についても「反日だ」と悪口するのでしょう。これを機に楊が「ウヨとの野合」をやめれば幸いです。
それとも今後も「産経など極右メディアでは極右に調子を合わせ、別のメディア(今回は講談社)では本心を語る」という使い分けをする気でしょうか?
それにしても楊が言うように「内モンゴルも満州国の一部や徳王(デムチュクドンロブ)が主席を務める蒙古聯合自治政府」という形で「日本の植民地*14だった」わけですが普段「朝鮮や台湾と違い」意識することはないですね。
ほかにもパラオが日本の植民地でしたがこれもあまり意識しません。
まあ「朝鮮や台湾に比べ統治期間が短い」「朝鮮や台湾と違いモンゴルやパラオから目立った日本批判が見られない」「パラオ領有理由となった第一次大戦での参戦を日清戦争(台湾が植民地化)、日露戦争(朝鮮が植民地化)ほど意識してない」といった理由でしょうか。
*2:楊が挙げてない「分断民族」で有名なものとしては南北ベトナムがありますね。
*3:「いわゆる対日参戦密約(北方四島をソ連に「引き渡す」)」と違いモンゴルの扱いは「是非はともかく」密約ではないと思いますが。そもそも蒋介石はそれ以前から内モンゴル独立だの、内モンゴル・外モンゴル統一だのを認めようとしたことは一度もないですし。
*4:中国からの独立を実現するため「帝政ロシア(のちにはソ連)」の力を利用した外モンゴルは「なかなかの策士」ですがその結果1)帝政ロシア(のちにはソ連)の内政干渉、2)内モンゴルとの民族分断という弊害が生まれました。とはいえ「帝政ロシア(のちにはソ連)」の力を利用する以外に外モンゴルは独立の道はなかったでしょう。また「内モンゴルを含めた独立」に固執すれば「帝政ロシア(のちにはソ連)」の支持を失い、中国の圧力により外モンゴルすら独立できない危険性がありました。なお「外モンゴルにとっての帝政ロシア(のちにはソ連)」ほどの価値もないのは「ダライラマの日本ウヨとの野合」です。内政干渉したとはいえ、そして民族分断をもたらしたとはいえ帝政ロシア(のちにはソ連)は外モンゴル独立に寄与しました。日本ウヨはチベット亡命政府に対してその程度の「貢献すらする気はない」でしょう。
*5:ここは明らかな事実誤認でしょう。初代韓国大統領は李承晩であり、朴はその後「軍事クーデターで成り上がった」わけですから。とはいえ話の本筋「日本は旧宗主国として朝鮮半島の民族統一をむしろ後押しすべきだ。そうして初めて真の友好が生まれる。」に影響はないでしょう。
*6:俺が思うに、冗談抜きで産経のようなウヨは「あいつらは共産主義の奴隷で同じ日本民族じゃない」といって「民族統一をあきらめそう」ですが。
*7:今時そんな「モンゴル統一を目指す」モンゴル人が「外モンゴルにせよ内モンゴルにせよ」どれほどいるんですかね?。まあ楊とそのお仲間はそうなのでしょうが。
*8:著書『草原と馬とモンゴル人』(2001年、NHKブックス)、『モンゴル草原の文人たち:手写本が語る民族誌』(2005年、平凡社)、『ユーラシア草原からのメッセージ:遊牧研究の最前線』(共著、2005年、平凡社)、『チンギス・ハーン祭祀』(2005年、風響社)『墓標なき草原(上)(下):内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』(2009年、岩波書店→後に2018年、岩波現代文庫)、『続・墓標なき草原:内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』(2011年、岩波書店)、『中国とモンゴルのはざまで:ウラーンフーの実らなかった民族自決の夢』(2013年、岩波現代全書)、『植民地としてのモンゴル:中国の官制ナショナリズムと革命思想』(2013年、勉誠出版)、『ジェノサイドと文化大革命:内モンゴルの民族問題』(2014年、勉誠出版)、『モンゴルとイスラーム的中国』(2014年、文春学藝ライブラリー)、『チベットに舞う日本刀:モンゴル騎兵の現代史』(2014年、文藝春秋)、『狂暴国家中国の正体』(2014年、扶桑社新書)、『日本陸軍とモンゴル:興安軍官学校の知られざる戦い』(2015年、中公新書)、『モンゴル人の民族自決と「対日協力」:いまなお続く中国文化大革命』(2016年、集広舎)、『フロンティアと国際社会の中国文化大革命: いまなお中国と世界を呪縛する50年前の歴史』(共著、2016年、集広舎)、『「中国」という神話:習近平「偉大なる中華民族」のウソ』(2018年、文春新書)、『「知識青年」の1968年:中国の辺境と文化大革命』(2018年、岩波書店)、『最後の馬賊:「帝国」の将軍・李守信』(2018年、講談社)、『モンゴル人の中国革命』(2018年、ちくま新書)、『独裁の中国現代史:毛沢東から習近平まで』(2019年、文春新書)、『逆転の大中国史』(2019年、文春文庫) 、『中国が世界を動かした「1968」』(共著、2019年、藤原書店)など。
*9:1902~1966年。1936年2月10日に関東軍の支持の下蒙古軍政府が成立すると徳王は総司令・総裁に就任。盧溝橋事件の後に日本は内蒙古方面へ本格的に出兵し、1937年10月28日に蒙古聯盟自治政府を成立させた。当初、雲王(ユンデン・ワンチュク、1871~1938年)が主席となり、翌年3月に雲王が病没すると、徳王が後任の主席となった。蒙古聯盟自治政府は、1939年9月1日に察南自治政府・晋北自治政府と合併し蒙古聯合自治政府(1941年8月4日に蒙古自治邦政府と改称)となり、徳王が引き続き主席を務めた。名目としては汪兆銘政権下の自治政府という位置づけだった。1949年に中国人民解放軍が北平(のちの北京)を占領すると脱出して蒋介石の中国国民政府に再度内蒙古の自治を要求。1949年4月13日には蒙古自治準備委員会を結成して副委員長、8月10日には蒙古自治政府を設立して主席となった。その後モンゴル人民共和国と接触を重ね、1950年にモンゴル人民共和国首相チョイバルサンは内外モンゴル統一を構想していたことからその誘いに応じ徳王はモンゴル人民共和国に亡命。当初は徳王は監視されながらもモンゴル人民共和国当局に歓迎され高待遇を受けていたがソ連と中国の反発から徳王に政治的利用価値がないと判断したモンゴル人民共和国当局によって逮捕されて中国に引き渡され、戦犯として禁固刑と思想改造を受けた。1963年の特赦で釈放された後、1966年に肝臓病で死去。著書『徳王自伝』(1994年、岩波書店)(ウィキペディア「デムチュクドンロブ」参照)
*10:1892~1970年。1936年2月、徳王(デムチュクドンロブ)が蒙古軍総司令部を創設すると、李守信もこれに参与し、副総司令兼軍務部長に就任した。同年5月、蒙古軍政府が成立すると、李は参謀部長に任命された。1937年10月、日本軍の援助により蒙古聯盟自治政府が成立すると李は蒙古軍総司令に就任。1939年9月、蒙古聯合自治政府が成立すると、李は引き続き蒙古軍総司令をつとめた。1940年1月、李は蒙古聯合自治政府代表として、南京国民政府代表の周仏海と会談し、自治権をめぐる交渉を行っている。その結果、南京国民政府を正統の中央政府と承認し、その地方政権となる一方で、蒙古聯合自治政府は(1) 高度な自治、(2) チンギス・カン紀元の年号の使用、(3) 蒙古聯合自治政府旗の使用等を許可された。1941年6月、蒙古聯合自治政府が蒙古自治邦に改められると、副主席に就任。1949年、蒋介石政府の敗色が濃厚になると、李は一時台湾へ逃亡したが、その後、徳王の勧誘に応じて内モンゴルに引き返す。同年8月に蒙古自治政府が成立すると、政務委員兼保安委員会副委員長となった。同年12月中旬にはモンゴル人民共和国首相チョイバルサンの招きに応じた徳王とともにモンゴル人民共和国に亡命した。当初は監視されながらもモンゴル人民共和国当局に歓迎され高待遇を受けていたがソ連と中国の反発から李や徳王に政治的利用価値がないと判断したモンゴル人民共和国当局によって、1950年9月、逮捕され、徳王とともに中国に引き渡され、収監され思想改造を受けた。1964年12月28日、特赦によって李は釈放され、1970年5月、病没(ウィキペディア「李守信」参照)。
*11:歩兵第1旅団長(日清戦争)、第2師団長(台湾征服戦争)、台湾総督、第3軍司令官(日露戦争)、学習院長など歴任。
*12:そもそも当事者(?)の外モンゴル自体が「黙り込んでいます(楊の表現)」からね。
*13:文革でひどい目に合わされたのは内モンゴルだけではなく漢民族幹部の劉少奇元国家主席(糖尿病で死去)や彭徳懐元国防相(大腸がんで死去)すら医療ネグレクトで死に追いやられています。そのうえ劉や彭の死去の事実は当初は国民どころか家族にも知らされないで隠ぺいされました。