今日の中国ニュース(2019年11月7日分)

リベラル21 少数民族にとって中国革命とは何だったか(4)
 阿部治平が面白い記事を書いているので本文を紹介しコメントしておきます。
 なお(4)ですので(1)~(3)があるわけですがそれについてはリンク紹介だけにとどめます。(1)、(2)と(3)以降で微妙にタイトルが違いますが。
リベラル21 少数民族から見た中国革命70周年(1)
リベラル21 少数民族から見た中国革命70周年(2)
リベラル21 少数民族にとって中国革命とは何だったか(3)
 (4)でおわりではなく(つづく)ですので最低でも(5)まであるわけですが、まだ(5)は掲載されていません。
 なお、「少数民族にとって」と言うタイトルですが阿部の興味関心からもちろん主としてチベットについて書かれています((1)において、少しだけウイグル内モンゴルにも触れているが(2)以降は現時点では全てチベットの話)。

リベラル21 少数民族にとって中国革命とは何だったか(4)
・1959年3月、チベットの王にしてチベット仏教最高位の僧ダライ・ラマはインドに亡命した。かくしてこの政教一致の国家は消えたが、その画期となったのはラサ政府の拠点チャムド(昌都)の陥落である。以下これについて概略を記したい。
毛沢東は(中略)チベット制圧を急ぎ、主な任務を四川省中共西南局に担わせた。西南局すなわち第二野戦軍はラサ進撃のために十八軍を編成した。
・道路は人と馬が通れるだけで、荷車すら通行できなかった。しかも国民党軍と軍閥の残党が西康各地で抵抗を続け、中共軍の進軍を妨げた。
東蔵民青の出現
 ところが意外にも、ここにチベット人武装集団があって、十八軍に有効な情報をもたらし、漢・チベット語の通訳と兵站とを担った。この組織は、プンワン(プンツォク・ワンギェル)に率いられた「パタン地下党」「東蔵民主青年同盟」だった。
 プンワンは、1943年末ラサでチベットの完全な独立と民衆の解放を目的に「雪域共産党」を結成した人物だが、十八軍に出会ったときは、彼の党はすでにまるごと中共に参加していた。彼らは、中共によって無能なラサ政府を打倒し、民主的なチベット国を成立させ、中華連邦に加入する道を選んだのである。
・ラサの貴族上層には主戦論が盛んだったが、いざとなるとチャムド総督を引受けて中共軍と戦おうとするものがいなかった。ラサ政府はやむを得ず、やや地位の低い地方貴族のガポ・アワンジグメを総督に任命した。
 彼は1950年8月末、チャムドに赴任した。すると遺憾きわまりない光景に出くわした。彼はラサ政府への電報の中でこういっている。
「チャムドでは、わずか7,8の家でツァンパ(大麦の炒り粉、チベット人の主食のひとつ)を食っているだけで、多くはカブをかじって餓えをしのいでいる。乞食が群れを成しており、その有様はすさまじい。さらにやりきれないのは、ラサから来た兵の軍紀がたるみ切っており、淫を好み民を煩わすことはなはだしい。」
・最新の武器も少なく鍛錬も十分でないうえに、あまり戦意のない司令官に率いられたチベット軍に勝ち目はなかった。チャムド戦役は中共軍の作戦通り10月6日に始まり24日には終わった。
 こうも簡単に中共勝利に終わったのは、中共軍が国共内戦で鍛えられていたうえに、戦意も兵器もチベット軍よりは上だったからだが、それだけではない。金沙江東岸の住民が中共軍に協力的だったからである。それを組織したのはプンワンらの東蔵民青である。
・かつて東岸は国民党軍閥・劉文輝*1支配下にあった。当時アヘンや銃の取引はもうかったから、軍閥政府の役人や「漢兵」は徴税のほか銃やアヘンの取引をやり、カムパから容赦なく搾り取った。
・西岸のチャムド総督府の駐屯兵は、東岸の「漢兵」よりさらにひどかった。彼らは重税を取り立てるばかりか、農牧民の家畜や金品を強奪し、女をものすることに執着した。当時ラサの兵隊は「チャムドへ正月をやりに行く」といった。
 ところがカムにやって来た中共軍は悪事を働かなかった。はじめのころはボロを着て、寄せ集めの武器を担いでいたが、人や家畜の徴用や買物のときは代価を支払った。時には刈り入れや雑用の手伝いをすることもあった。カムパはこの「新漢人」に警戒心を持ちながらも、おおむね好感をもった。
 これゆえ東蔵民青は苦心しながらも、拠点ごとに中共軍を支援する体制を作り上げることができた。彼らは農牧民と数万頭のヤクや馬を動員して、中共軍の武器弾薬、食料を運んだ。
チベットと中国代表は北京で講和談判に入った。東蔵民青の指導者プンワンは通訳として、ラサ政府代表を説得する役回りを引受けさせられた。チベット側は戦場の敗北を交渉で取り戻すことはできなかった。すったもんだのあげく「17条和平協定」が成立した。
 協定は、ラサ政府の現行制度をみとめ、民衆の信仰、風俗習慣は今まで通りとした。

 こうしたことをI濱女史やid:Mukkeなどは認めたくないでしょうが、ダライ・ラマシンパとは言えこうしたことを書く阿部はある程度客観的で公平とは言えるでしょう。なお、ここでのプンワンの話については阿部の著書『もうひとつのチベット現代史:プンツォク=ワンギェルの夢と革命の生涯』(2006年、明石書店)と言う分厚い本にもっと詳しいことが書いてあります。
 ダライ統治の中、少なくないチベット人が困窮にあえいでおり、そうした状況でプンワンら少なくない改革派が「もはや内部改革なんか無理だ」と考え、「中国共産党という外部勢力に希望を見た」「その結果中国共産党軍のチベット制圧に進んで協力した」ということですね。
 構図的には「韓国近代化のために日本と手を組んだ金玉均」「インド独立のために日本と手を組んだチャンドラ・ボース」などと似ています。
 少なくとも「17条和平協定締結によるチベット制圧までは」アンチ中国、ダライシンパの阿部すら認めるように「中国共産党はダライ統治よりマシ」だったのでしょう。
 しかし「結婚したら、『釣った魚(奥さんのこと)に餌をやる必要はない』とうそぶく輩がいるように」、中国共産党も「釣った魚(プンワンらチベット側)への扱い」が「何だかなあ」と言うような代物になってしまうわけです。
 その結果「夫の態度に憤激した妻が離婚を考える」ようにチベットで例の「ダライがインドに亡命する」暴動が起きるわけです(現実主義者のプンワンはこの無謀な企てには参加しませんでした。ダライと共に亡命することもなく、共産党幹部として中国にとどまりましたが、とはいえ中国中央政府に全く不満がなかったわけではないでしょう)。
 今更言っても仕方がないことですが、「チベット制圧前の謙虚な(?)態度を中国側がとり続けていれば今のチベットダライラマ)との対立はなかったのではないか?」と思わずにはいられませんね。

*1:1895~1976年。蒋介石政権下において四川省政府主席、西康省政府主席など歴任。国共内戦では共産党に降伏。新中国建国後は、西南軍政委員会主席、中国人民政治協商会議全国委員会常務委員、林業大臣、全国人民代表大会常務委員会委員、中国国民党革命委員会(民革)中央常務委員会委員などを歴任