今日の産経ニュース(2019年11月23日分)

【昭和天皇の87年】「空の神兵」の活躍も台無し!? 戦局を悪化させた陸海軍の対立 - 産経ニュース
 陸海軍の連携が必ずしもよくなかったこと、それが戦争遂行に悪影響を与えたことは事実でしょう。ただしそれはもちろん「敗戦の主たる理由」ではありません。「敗戦の主たる理由」はもちろん「経済大国、軍事大国」アメリカ相手に戦争すること自体が無謀だったと言う話です。

 開戦前、保守派の重臣らは対米戦争に最後まで反対していた。

 とはいっても反対派の主張は「米国に勝てるか分からない」「負けたら天皇が戦犯になりかねない」だけですからね。反対派のほとんどは「中国から撤退を求める米国の要求に応じるかどうか」では結局主戦派の「撤退しない」と同意見でした。
 そうなると「撤退しない、米国の要求を受け入れないけど対米戦争しない、で問題が解決するのか。米国の対日経済制裁をどうするのか?」といわれると「うっ」と詰まらざるを得ない。
 「撤退しないけど外交交渉で制裁は解除できる」とも「制裁が続いても日本経済にたいした影響はない」とも言いがたいわけです。
 そこで主戦派が「充分、米国に勝つ見込みがある」といいだし、「勝つ見込みがないというのはもはや価値観の相違である、我々は賛成できない」と居直ってしまえば反対派にはもはや打つ手がないわけです。昭和天皇も「撤退しないけど制裁は解除できる」とも「制裁が続いても日本経済にたいした影響はない」とも言えない政治状況の中、主戦派のいう「もはや対米戦争するしかないんじゃないか」「日露戦争(日本勝利)やベトナム戦争ベトナム勝利)、旧ソ連のアフガン侵攻*1(アフガンゲリラ勝利)のような形(つまり長期戦に持ち込み、相手の戦争意欲が次第に薄れる形での引き分け的な勝利*2)での勝利があり得るんじゃないか」という方向に向かってしまうわけです。

・各地の戦況報告が、続々と昭和天皇に届く。
 3月1日
《侍従武官城英一郎*3より、我が軍のジャバ島への上陸成功等につき奏上を受けられる》(30巻40頁)
 3月3日
軍令部総長永野修身*4に謁を賜い、二月二十七日から三月一日のスラバヤ・バタビヤ沖海戦の総合戦果につき奏上を受けられる》(同巻30巻42頁)
 3月8日
《侍従武官横山明より、ジャバ・バンドンの蘭印軍司令官の降伏申し入れにつき奏上を受けられる》(同巻46頁)
 翌9日、昭和天皇内大臣木戸幸一に言った。
 「余り戦果が早く挙り過ぎるよ」
 国家の破滅をも予期した開戦前の心労は、杞憂(きゆう)だったのだろうか-。この頃の昭和天皇実録には、心にゆとりのできた昭和天皇が、家族との時間を大切に過ごす様子も記されている。
 2月22日
《午前、皇太子・正仁親王常陸宮さま*5)・成子内親王*6・厚子内親王*7参内につき、皇后と共に奥御食堂において御昼餐を御会食になる。御食後、御一緒に映画「水筒」を御覧になる。ついで鬼ごっこにて過ごされる》(30巻37頁)
 3月25日
《皇后と共に道灌堀方面を二時間にわたり御散策になる。その際、桜樹の下の草花を観察され、また土筆・ヨメナ等をお摘みになる》(同巻57頁)
・昭和17年2月14日、現インドネシアスマトラ島の油田パレンバンに、陸軍第1挺進団の落下傘部隊が降り立った。部隊は蘭印軍との激戦を制して飛行場を占領。同地の油田設備も敵が破壊する前に確保する。のちに「空の神兵」の名で知られる、見事な奇襲成功だ。
・昭和17年春までの日本軍は無敵だった。1月23日にニューブリテン島のラバウルを占領。3月初めにはジャワ島を攻略し、念願だった南方の資源地帯を確保する。唯一、米領フィリピンではバターン半島コレヒドール島に立てこもる米比軍に手を焼くが、3月11日、司令官のダグラス・マッカーサー*8が「アイ シャル リターン(必ず戻る)」の言葉を残して同島を脱出した(※2)。
 5月6日、昭和天皇は《侍従武官山県有光*9よりコレヒドール島要塞の白旗掲揚につき奏上を受けられる》(30巻85頁)。
 戦勝に次ぐ戦勝。

 産経が書くように初期は局地戦勝利に過ぎないとはいえ「日本が優勢」でした。この結果、昭和天皇も「開戦前の不安は杞憂だったのか」「あんなに敗戦の危険性を心配する必要はなかったんだ」「むしろ開戦して良かったんじゃないか」と早くも楽観ムードになるわけです。
 言うまでもないですがこの昭和天皇の態度から分かるように彼は「平和主義者」などではありません。彼の頭にあるのは「戦争して自分が有利になるか不利になるか」という損得勘定しかない。
 もちろん、その楽観ムードはミッドウェー海戦敗北などで日本の戦況が悪化することで崩壊しますが。つうことで後世の我々から見れば「米国相手に戦争なんてアホと違うか」ですが当時の人間にとってはそれは「それなりに合理的な選択だった」わけです。そうした楽観的認識は戦争当初は「日本が優勢だったこと」で「戦況が悪化するまでは」変わらず続くことになります。

 だが、楽観ムードの漂う日本に、ルーズベルトが放った一矢が冷や水を浴びせる。

 1週間後の産経記事で詳しく触れるわけですが、1942年4月のいわゆるドーリットル空襲のことですかね。ただし、この時点では米軍は制空権を得ておらず、米軍の攻撃で、日本側に死者(ウィキペディア「ドーリットル空襲」に寄れば87人)が出ているものの、後の東京大空襲(1945年3月、約7~10万人が死亡したとされる)などと違い、ドーリットル空襲は日本にそれほど大きなダメージは与えていません。ただし「少数の先見の明のある人間」は「米軍に制空権を奪われたら恐ろしいことになる」と気づいたかもしれません。そしてその危惧は戦争末期に「東京大空襲」などの形で現実のものとなります。

(※2) バターン半島の攻略戦では、いわゆる「バターン死の行進」が戦後に問題となる。降伏した米比軍将兵約7万6000人を捕虜収容所に移送する際、衰弱しているのに80キロ以上も歩かせ、7000~1万人もの死者を出したとして、攻略軍(第14軍)司令官の本間雅晴*10がマニラ戦犯法廷で銃殺刑に処された。ただ、予定していたトラックが使えないなど重大な不手際はあったものの、日本軍は捕虜を生かそうとし、可能な限りの救護策をとったとする説も有力である。また、捕虜が歩かされたのは1日あたり20~30キロほどで、日本兵にとっては何でもない距離だった。もっとも、日本軍には「捕虜になるくらいなら自害すべきだ」とする意識*11が強く、捕虜を恥ずべき存在として過酷に扱う傾向もみられた。結果として、先の大戦中に非人道的な戦時国際法違反が複数あったのも事実である。

 素直に謝罪すればいいところ、ぐだぐだ言い訳してるのが実に産経らしい。まるで「食糧不足&長期歩行」のみ*12で米兵が死んだかのような書きぶりですが、疲労困憊で倒れた米兵を、日本軍が「救護もせずに殺害した事実」を無視するのはいかがなものか。

参考

バターン死の行進ウィキペディア参照)
 2009年(平成21年)5月に、藤崎一郎駐米大使が、バターン死の行進の生存者で作る団体「全米バターン・コレヒドール防衛兵の会」の年次総会に出席し、日本国政府を代表して、バターン死の行進について謝罪した。また2010年(平成22年)9月13日にも、岡田克也*13外務大臣が元捕虜と外務省で面会し、謝罪している。


【昭和天皇の87年】イギリス最大の敗北 シンガポールは陥落した - 産経ニュース
 前回は「真珠湾攻撃成功」を「どうだ、すごいだろう」と自慢していた産経ですが、今回は「マレー陥落」を自慢です。
 それはともかく「米英の軍事強国ぶりを知るはずの政府首脳部」ですら「真珠湾攻撃成功、マレー陥落」に局地戦勝利に過ぎないにもかかわらず「勝った、勝った」と浮かれていたのですから「海外事情などろくに知らない日本人大多数(当時はインターネットなんて便利なもんはありませんし、ほとんどの日本人は英語なんか使えません。外国渡航だって一般的じゃありません)」はもちろん政府の景気のいい発表を信じ込み、「米英恐れるに足りず!」「日本を馬鹿にするからこうなる!」「思い知ったか!」「日本は今まで戦争で負けてないんだ!」と「1945年の悲惨な敗戦も知らず」浮かれまくっていたわけです。
 結果的には「真珠湾攻撃やマレー侵攻で日本が負けていた方がまだまし」でした。
 この点は産経ですら

 この快進撃が日本軍に、油断と慢心を生んでしまう

と書いています。まあ米国相手に「勝てると思って開戦すること自体」がそもそも慢心なのですが。

 多くの国民が米英との開戦を支持したことは、当時の新聞報道からもうかがえる。

 そりゃ政府のいいなりに「日本と英米の対立は全て英米が悪い、日本は何一つ悪くない」「日本が英米相手に戦争しても勝ち目がある」と言う報道しかしてないですからね。しかも局地戦とはいえ、真珠湾攻撃成功、マレー陥落という成果が出たことでそうしたゆがみがもっと大きくなる。
 日本人大多数が英米に戦争を仕掛けた「自分たちの馬鹿さ」に気づいたのは制空権を奪われて米軍から空襲され本土が被害に遭ったときが初めてではないか(しかしそのときではもはや遅すぎました)。
 安倍のいいなりに「ホワイト国除外は日本は何一つ悪くない、韓国が全て悪い」をマスコミが垂れ流し、アホな日本国民多数がそれを今支持するのと全く変わりません。戦後七〇年間、日本は無駄に時間を浪費してきたのかとため息が出ます。

 開戦70日目のシンガポール陥落は、大本営の狙い通りの大戦果だ。先の大戦では後半、日本軍の粗雑*14な作戦が目立つようになるが、南方作戦は事前に十分な準備と検討を重ねていた(※2 南方作戦に備えて海軍は、1年以上も前から出師準備を発動していた)

 いつもながら「産経ってバカなんだな」と心底呆れます。
「日本が1941年12月のマレー侵攻で英国軍に勝利したのは1年前(1940年12月)からいろいろ準備していたからです」と「日本軍の用意周到さ」を自慢する産経ですが、それでは「ハルノート(1941年11月)で戦争になった!」と明らかに矛盾するでしょうに。「1年前(1940年12月)」というとちょうど「北部仏印進駐」の頃ですが、この産経の物言いでは「北部仏印進駐の頃から日本軍はマレー侵略も画策していた」ということにならないのか。
 そして北部仏印進駐や南部仏印進駐から「日本は東南アジアを侵略する疑いがある」と疑念を感じて対日制裁を発動した米国が正しかったことにならないのか?

皇道派であるため二・二六事件後に陸軍中央から遠ざけられた山下

 まあこれについては以前も別記事で触れましたが

山下奉文ウィキペディア参照)
・山下は安藤輝三ら、のちの決起部隊の一部将校が所属していた歩兵第3連隊長を以前務めていて彼らと面識があった。当時彼らの動向を探っていた統制派の片倉衷*15によれば、安藤に対し「岡田*16首相はぶった斬らんといかんな」と発言するなど、皇道派の幹部として安藤らに理解を示すような発言をしていたという。
・このため山下は青年将校の同調者と周囲からは見られており、山下宅の電話は226事件前から逓信省陸軍省軍務局(事件後は戒厳司令部)によって盗聴されていた。ただし226事件一報の電話を受け取った山下の義妹・永山勝子によると、一報を聞いた山下は「何!……やったかッ」と大声で叫び、そのあとは沈黙したという。彼女によると山下は「陛下の軍隊を、自分たちの目的のために使うなんてもってのほかだ」といかにも悔しそうであったという。
・決起部隊が反乱軍と認定されることが不可避となった折に、山下の説得で青年将校は「彼らの自決に立ち会う侍従武官の差遣」を条件に自決を決意した。このとき山下は川島*17陸軍大臣と本庄*18侍従武官長を通じて、彼らの自決に立ち会う侍従武官の差遣を昭和天皇に願い出たが、これは昭和天皇の不興を買うことになった。この件に関して『昭和天皇独白録』には「本庄武官長が山下奉文の案を持ってきた。それによると、反乱軍の首領3人が自決するから検視の者を遣わされたいというのである。しかし、検視の使者を遣わすという事は、その行為に筋の通ったところがあり、これを礼遇する意味も含まれていると思う。赤穂義士の自決*19の場合に検視の使者を立てるという事は判ったやり方だが、背いた者に検視を出す事はできないから、この案を採り上げないで、討伐命令を出したのである」とある(なお、侍従武官の差遣(昭和天皇青年将校の反乱行為に一定の正当性を認めること)が自決の条件だったため、差遣要求が否定された青年将校は野中四郎(自決)、安藤輝三(自決未遂→後に死刑判決)を除き、結局自決しなかった)。
 また『木戸幸一*20日記』にも「自殺するなら勝手になすべく、このごときものに勅使なぞ、以ってのほかなり」とあり、青年将校を擁護する山下に対し、天皇重臣の評価は極めて低かった。
 事件収拾後、山下は軍から身を引く覚悟を固めたが、川島陸軍大臣が慰留につとめ、陸軍省軍事調査部長から、朝鮮・竜山の歩兵第40旅団長への転任(降格人事)という形で軍に残った。しかし、事件の影響で陸軍の主流から外れ、その後、それなりに昇進はしたものの、山下の陸軍士官学校同期生で、参謀次長だった沢田茂*21の尽力により、一時(1940年)、陸軍航空総監兼陸軍航空本部長を務めたことを除き、東条英機*22ら統制派が牛耳る陸軍中枢から遠ざけられて「支那駐屯混成旅団長」「北支那方面軍参謀長」「第4師団長(満州)」「第25軍司令官(マレーシア)」「第1方面軍司令官(満州)」「第14方面軍司令官(フィリピン)」など、外回りに終始した。このように226事件は山下の人生に最後まで大きなマイナスをもたらすことになった。
・マレー・シンガポールの早期攻略により、「第25軍司令官(マレーシア)」だった山下は国民的な英雄となったが昭和天皇は山下に拝謁の機会を与えなかった。これは226事件当時の山下の青年将校寄りの行動を天皇が苦々しく思っていたためだとも、統制派の東條英機首相が山下に軍状奏上の機会を与えなかったためだともいわれている。

と言う話ですね。

*1:まあ昭和天皇の時代にはベトナム戦争もアフガン侵攻もないですが。あくまでも小生のたとえ話です。

*2:さすがに主戦派も日本が米国本土に上陸できるとか首都ワシントンを占領できるとかそこまで脳天気ではありません。

*3:大本営海軍参謀、海軍侍従武官、航空母艦「千代田」艦長など歴任。「千代田」艦長時代にレイテ沖海戦(1944年)で戦死。

*4:広田内閣海軍大臣連合艦隊司令長官軍令部総長など歴任。戦後戦犯裁判中に病死。後に靖国に合祀。

*5:昭和天皇の次男

*6:昭和天皇の長女。後に東久邇盛厚と結婚し、東久邇成子

*7:昭和天皇の四女。後に旧岡山藩主池田家第16代当主池田隆政と結婚し、池田厚子

*8:陸軍参謀総長、極東陸軍司令官、南西太平洋方面連合軍最高司令官、連合国軍最高司令官、国連軍司令官など歴任

*9:元老・山県有朋の孫。1941年(昭和16年)3月から1944年(昭和19年)12月まで侍従武官を勤めた。

*10:歩兵第32旅団長、参謀本部第二部長、第27師団長、台湾軍司令官、第14軍(フィリピン)司令官など歴任。

*11:こうした認識からノモンハン事件の日本人捕虜が、捕虜交換で生きてソ連から解放されても、関東軍幹部が自殺を強要したことは有名な話です。

*12:まあ、それのみでも立派に捕虜虐待で戦争犯罪でしょうが

*13:鳩山、菅内閣外相、民主党幹事長(菅代表時代)、野田内閣副総理・行革相、民主党代表代行(海江田代表時代)、民主党代表など歴任

*14:粗雑と言うより兵站無視ですね。

*15:ビルマ方面軍作戦課長、第33軍(ビルマ)参謀長、第202師団長(群馬県高崎市)など歴任

*16:田中義一、斎藤内閣海軍大臣、首相を歴任

*17:朝鮮軍司令官、岡田内閣陸軍大臣を歴任

*18:226事件の際、歩兵第1連隊の週番司令を務めていた女婿の山口一太郎大尉が反乱部隊の出動を黙認した上、その後の行動を反乱軍と共にしていたため、宮中で反乱軍寄りの立場を取り、即時鎮圧を指示する昭和天皇との間に意見の相違を生じた。事件後山口大尉が起訴されるに及んで、責任を取る形で侍従武官長を辞任した。満州事変当時の関東軍司令官だったことから戦後、戦犯指定されたことを苦にして自決。

*19:赤穂浪士の場合は「自決」といっても「(吉良邸討ち入りの罪で)切腹を命じる」という処罰ですが。

*20:第一次近衛内閣文相、厚生相、平沼内閣内務相、内大臣を歴任。戦後終身刑判決を受けるが後に仮釈放

*21:第4師団長(満州)、参謀次長、第13軍司令官(上海)など歴任

*22:関東憲兵隊司令官、関東軍参謀長、陸軍次官、陸軍航空総監、第二次、第三次近衛内閣陸軍大臣を経て首相。戦後、死刑判決。後に靖国に合祀。