宮崎正弘先生に拙著「ドストエフスキーの戦争論」への書評を頂きました | 三浦小太郎BLOG Blue Moon
宮崎正弘はドストエフスキー研究者でない上に「三浦のウヨ仲間」ですからねえ。つまり、身内の内輪ぼめに過ぎないわけでくだらない話です。
戦後日本における平和主義の欺瞞性がここに語られている
吹き出しました。ドストエフスキー文学ってそういう「戦争万歳」的な右翼的な代物なんですかね?
どっちにしろ「ドストエフスキーの主張は俺たち日本ウヨの改憲論を正しいと言ってるようなもん」といったところで「あ、そう?(昭和天皇風に)」ですね。そうした解釈が正しいかどうか自体に議論の余地があるでしょうが、仮に正しいとしてもそんなんは「ドストエフスキーの主張を是とする人間」にしか通用しない話です。改憲ウヨでも、こんなことを安倍だの櫻井よしこだの島田洋一だのは言いはしないでしょう。おそらく興味もない。
そんなんでいいのなら「トルストイの平和主義は日本ウヨの改憲論の誤りを語っている」とか何でも言えるわけです。まあ、文学って言うのはそう言うもんじゃないと思いますけど。
大体トルストイも、ドストエフスキーもその生きた時代は現代日本とは違うのだから安易に現代に持ってこれる話ではない。
ドストエフスキーは民族主義的愛国者であり、決して革命家でもない。にもかかわらず日本の戦後の左翼知識人*1が持て囃したのは不思議な話である。
つまり皇帝を倒した民衆蜂起を呼びかけたのがドストエフスキーだったという一方的な解釈
吹き出しました。右とか左とか関係なくドストエフスキーは一般に評価されてるでしょうよ。それを「皇帝を倒した民衆蜂起を呼びかけた」と左翼的(?)に解釈するのは三浦や宮崎の珍論に過ぎません。
戦後文学は反戦小説ばかりで、(ボーガス注:火野葦平)『麦と兵隊』などを例外として、(ボーガス注:大岡昇平)『レイテ戦記』や(ボーガス注:五味川純平)『人間の条件』などがある。
三浦や宮崎が反戦文学が嫌いなこと、特に大岡昇平『レイテ戦記』や五味川純平『人間の条件』が嫌いなことはよく分かりました。
三浦小太郎氏は、このところ意欲作を次々とものにされ、注目されている書き手
吹き出しました。ウヨ業界限定ですら三浦などほとんど注目されてないでしょう。
暴力国家*2の全体主義の弾圧に呻吟し、横暴な暴政に不満を爆発させて立ち上がった香港の若者に対して、日本の左翼は一片の同情も支援も行っていない
やれやれですね。日本共産党が中国政府を批判する声明を発表したことを無かったことにする気のようです。支援はともかく同情ぐらいなら多くの左翼がしてるでしょうよ。
ドストエフスキーにとっての戦争目的はコンスタンティノープルの回復にあった。
他国(トルコ)の領土について勝手に「回復」などというロシア人・ドストエフスキーは現代の視点ではただの侵略主義者でしかありません。
「カトリックと反カトリックの戦争は不可避であり、戦いが始めるやいなや、たちまちのうちに全ヨーロッパを巻き込む大戦争になるだろう」(172p)。その通りになった。
どうも「ロシア内戦のこと」を言ってるようですが、どこが「その通り」なんですかね。ドストエフスキーの言う「反カトリック」というのはどう見ても共産主義ではないでしょう。ドストエフスキー生前の共産党にはそんな力は無い。
西南戦争のどこが「道義国家建設」なのか。そもそも三浦は「江藤新平の佐賀の乱」など他の内乱と西南戦争は違うと言いたいようですが、どこがどう違うのか説明できるのか?
というか仮に西郷に何らかの理念があったとしても、彼は結局「大久保に敗北した」わけです。
常日頃「勝てば官軍」とばかりに「自民党は国民に支持されてるんだ。結果が全てだ」というウヨが、西郷については「大久保に負けても偉大だった」と結果を無視するのだから呆れますね。なぜ「政治的敗北者」の中で西郷だけ、そんな特別扱いされるのか実に謎ですが。
例えば江藤新平なんてそこまでご大層に扱われませんからねえ。