忘れられた感染症『日本住血吸虫症(日本住血吸虫病)』

新刊紹介:「歴史評論」2021年6月号(ボーガス注:江戸川乱歩『芋虫』、ダルトン・トランボ『ジョニーは戦場へ行った』のネタばらしがあります) - bogus-simotukareのブログ

◆風土病の制圧と20世紀日本の感染症対策:リンパ系フィラリアの制圧と国際保健への展開(飯島渉)

の紹介として「感染者がゼロになった」「昔と違い、もはや死亡率の高い病気ではなくなった」等の理由で「忘れられた感染症」として

リンパ系フィラリア
スペイン風邪
ハンセン病
コレラ
チフス
赤痢(疫痢)
結核
◆ポリオ

を紹介しましたが、その続きです。
 ネット上の記事をいくつか紹介しておきます。まあ、「忘れ去られること」は「病気の脅威がなくなった」というプラス面ではある反面「とはいえ、忘れ去って良いのか」という問題点が当然あります。しかし、日本住血吸虫症について「終結宣言が割と最近」というのは正直、意外でした。

日本住血吸虫 - Wikipedia
【病気原因の解明】
◆1904年
 岡山医学専門学校(現・岡山大学)教授の桂田富士郎*1(1867~1946年)が、有病地の一つであった甲府盆地山梨県)からネコを持ち帰り、その体内から吸虫を発見。日本住血吸虫と命名した。
◆1913年
 九州帝国大学教授の宮入慶之助(1865~1946年)が中間宿主としてミヤイリガイを特定。感染ルートを解明した。
【日本における対策】
 「水田、用水路には素足で入らないこと」等の感染予防指導を行い、同時に日本住血吸虫の撲滅が行われた。
 日本住血吸虫の中間宿主であるミヤイリガイは、水田の側溝などに生息し、特に水際の泥の上にいる。そこで、それまで素堀で作られていた水田の側溝をコンクリート製のU字溝に切り替えたり、PCPなどの殺貝剤を使用し、ミヤイリガイが生息できない環境を造る取り組みが行われた。
 日本では第二次世界大戦後に圃場整備が進んだことから、ミヤイリガイも減少し、日本住血吸虫病も1978年以降、新規患者の報告はなくなった。
 1996年2月、国内最大の感染地帯であった甲府盆地富士川水系流域の有病地を持つ山梨県は、日本住血吸虫症流行の終息を宣言した。
 また、西日本における主要な感染地帯であった筑後川流域では、筑後大堰の建設を機に、河川を管理する建設省(現・国土交通省)、堰を管理する水資源開発公団(現・水資源機構)、流域自治体の三者が共同して、1980年より湿地帯の埋立て等の河川整備を堰建設と同時に行い、徹底的なミヤイリガイ駆除を図った。この結果、1990年には福岡県が安全宣言を発表し、その後10年の追跡調査を経て新規患者が発生していないことを確認し、2000年に終息宣言を発表した。ミヤイリガイの最終発見地となった久留米市には「宮入貝供養碑」が建立され、人為的に絶滅したミヤイリガイの霊を弔っている。
 利根川流域(埼玉・茨城・千葉県)はかつて有病地で、1970年に河川敷で放牧されていた乳牛に再発生した。このため千葉県が自衛隊に依頼してミヤイリガイ生息地を火炎放射器で焼き払ったうえに客土で覆い、放牧地として使わなくする措置をとった。
 ただし、全てのミヤイリガイが絶滅したわけではない。現在でも千葉県小櫃川流域及び最大の有病地であった山梨県甲府盆地北西部の釜無川流域では、継続的に生息が確認されている。つまり、海外(中国、フィリピン、インドネシア)で感染した人間が野糞をすると、再流行する可能性はあり、安心というわけではない。

地方病 (日本住血吸虫症) - Wikipedia
 病名及び原虫に日本の国名が冠されているのは、疾患の原因となる病原体(日本住血吸虫)の生体が、世界で最初に日本国内(現:山梨県甲府市)で発見されたことによるものであって、決して日本固有の疾患というわけではない。日本住血吸虫症は中国、フィリピン、インドネシアの3カ国を中心に年間数千人から数万人規模の新規感染患者が発生しており、世界保健機関(WHO)などによって現在もさまざまな対策が行われている。
 日本国内では、1978年(昭和53年)に山梨県内で発生した新感染者の確認を最後に、それ以降の新たな感染者は発生しておらず、1996年(平成8年)の山梨県における終息宣言をもって、日本国内での日本住血吸虫症は撲滅されている。日本は住血吸虫症を撲滅制圧した世界唯一の国である。
 日本国内における日本住血吸虫症の流行地は水系毎に大きく分けて次の6地域だった。
1)山梨県甲府盆地底部一帯。
2)利根川下流域の茨城県・千葉県、および中川流域の埼玉県、荒川流域の東京都のごく一部。
3)小櫃川下流域の千葉県木更津市袖ケ浦市のごく一部。
4)富士川下流域東方の静岡県浮島沼(富士川水系に含まれる。現:沼川)周辺の一部。
5)芦田川支流、高屋川流域の広島県福山市神辺町片山地区、および隣接した岡山県井原市のごく一部。
6)筑後川下流域の福岡県久留米市周辺および佐賀県鳥栖市周辺の一部。
 上記のうち、甲府盆地底部一帯は日本国内最大の罹病地帯(有病地)であり、この病気の原因究明開始から原虫の発見、治療、予防、防圧、終息宣言に至る歴史の中心的地域であった。
 この疾患がいつから山梨県で「地方病」と呼ばれるようになったのかを明確に記したものはない。しかし明治20年代(1887~1896年)の初め頃には、甲府盆地の地元開業医の間で「地方病」と称し始めていたことが各種資料文献などによって確認することができる。
 医学的に「日本住血吸虫症」と呼ばれるようになったのは、病原寄生虫が発見され、病気の原因が寄生虫によるものであると解明されてからのことである。山梨県内では「地方病」という言葉が定着しており、一般的には「風土病」を指す「地方病」という言葉が「日本住血吸虫症」を指す代名詞と化している。
 『甲陽軍鑑』の中に、いわゆる武田二十四将*2の一人・小幡豊後守昌盛(小幡昌盛)が重病のため、主君である武田勝頼へ暇乞いをする場面があり、この中に『積聚の脹満(しゃくじゅのちょうまん)』と書かれた記述がある。これは腹部の病気によって腹が膨らんだ状態を描写したものである。さらに、昌盛が籠輿に乗って勝頼の下へ出向いているのは、この時すでに昌盛が馬に乗ることも、歩くこともできなくなっていたからであると考えられる。これらの記述内容は典型的な地方病の疾患症状に当てはまる。昌盛はこの3日後に亡くなっている。この『甲陽軍鑑』のくだりが地方病を記録した最古の文献であると考えられている。

国立科学博物館企画展「日本はこうして日本住血吸虫症を克服した−ミヤイリガイの発見から100年」によせて (農業と環境 No.158 2013.6)(2013年6月1日)
 2013年5月15日から6月16日まで、企画展 「日本はこうして日本住血吸虫症を克服した-ミヤイリガイの発見から100年」 が、上野の国立科学博物館で開催されています。
 日本住血吸虫症は日本住血吸虫の寄生によって引き起こされる病気で、かつて日本の一部の地域に流行し恐れられていました。関係者の多くの努力の結果、日本は世界で初めてこの病気を克服した国となりました。しかし、山梨県で終息宣言が出されたのは1996年、筑後川流域で撲滅宣言が出されたのが2000年のことで、じつはそう遠い昔のことではありません。
 各地のミヤイリガイは根絶され、現在は甲府盆地の一部と小櫃川(おびつがわ)流域(千葉県)の個体群が残るのみです。これらの個体群は現在でも監視が続けられています。日本住血吸虫も日本の個体群は絶滅したと考えられます。
 一方、世界保健機関の推定では、世界中で2億人が住血吸虫症に罹患しており、毎年2万人が死亡しているとされています。国外で住血吸虫症に感染した人や動物が日本国内に入ってきた場合、ミヤイリガイの生息地が広がればふたたび流行の可能性が残っています。

地方病「日本住血吸虫症」:終息20年 一つの病を撲滅、誇りに 風土伝承館「杉浦医院」館長・中野良男さん講演 /山梨 | 毎日新聞2016/9/11
 かつて県内で見られた地方病「日本住血吸虫症」についての講演会が10日、中央市で開かれた。講演した中野良男さんは「一つの国が、一つの病を終息させた歴史を伝えていくのは大切なこと」と述べた。県がこの病気の「終息宣言」を出してから今年で20年になる。【松本光樹】
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地方病「日本住血吸虫症」:中学生の認知度低下 終息宣言20年「世界に感染者、正しい知識を」 /山梨 | 毎日新聞2017/4/29
 大正から昭和にかけて山梨県をはじめ、国内の一部地域で猛威をふるった地方病「日本住血吸虫症」について、県内の中学生の認知度が流行期に比べて著しく低下していることが、比較統合医療学会などの調査で分かった。同学会の安川明男代表理事は「まだ感染の可能性はあり、終息までの歴史と共に正しい知識を継承すべきだ」と訴える。
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日本住血吸虫病:差別や苦しみ、知って かつて流行 甲斐の橘田さん「茶碗の欠片」出版 /山梨 | 毎日新聞2019/5/24
 甲府盆地を中心に風土病として恐れられた「日本住血吸虫病」(地方病)を風化させたくないと、県詩人会副会長の橘田(きった)活子さん(77)=甲斐市、本名・千野活子=が「茶碗の欠片(かけら)」を自費出版した。原因の究明や根絶に貢献した人たちの史実を叙事詩としてまとめたもので、橘田さんは「かつて病や差別で苦しんだ人がいたことを知ってほしい」と話している。
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「地方病」との戦い 叙事詩につづる 深川の橘田さん出版:東京新聞 TOKYO Web2019年7月8日
 深川(江東区)生まれの詩人、橘田活子さん(76)が、原因が分からず、山梨県の風土病の奇病とされ、恐れられてきた「日本住血吸虫病」との戦いの歴史をつづった叙事詩集「茶碗の欠片(かけら) 杉山なか女(じょ)と地方病」を著した。
 「地方病」と呼ばれた病気は、寄生虫が農作業などをする人の皮膚から体内に入り感染。雌が産んだ卵が血管を詰まらせ、発熱や下痢を引き起こし、腹が膨れ、手足はやせ細り、死に至るケースもあった。中間宿主のミヤイリガイの駆除が効果を発揮し、一九九六年に山梨県知事が終息宣言を出した。
 タイトルの「茶碗の欠片」は、欠けた茶わんが使えないことから、この病気で働けなくなった人をかつて呼んだ言葉。叙事詩集では、明治から昭和にかけ、「百年戦争」とも称された病気の原因解明、終息に向けた活動に尽力した医師や学者、地域の人々の行動を記している。
 副題にある杉山なかさんは患者で、自身の体を解剖して病気の原因を突き止めてほしいと願い、一八九七(明治三十)年に死去した。この遺体解剖で、臓器から卵が見つかり、病気の原因が寄生虫だとはっきりつかめたというくだりに、ページが割かれている。
 深川に生まれた橘田さんは、二歳のときの東京大空襲山梨県の父の実家に疎開。そのまま山梨で暮らしてきた。現在は甲斐市在住。農家の人に聞いて地方病の存在を知り、「沼は埋め立てられ、風景が変わって忘れ去られる。そこに何があって、何があったのか、書き残しておかなくては」と思った。展示施設「昭和町風土伝承館杉浦醫院(いいん)」(山梨県昭和町)の中野良男館長ら多くの人の協力を得て、構想執筆に十年以上かけたという。

「奇病」の女性、自ら解剖を願い出た 寄生虫病との闘い:朝日新聞デジタル2019年7月27日
 かつて甲府盆地を中心に流行し、山梨県内で「地方病」として恐れられた日本住血吸虫病。「地方病100年戦争」と言われた県民と病との闘いの歴史を、甲斐市の詩人・橘田活子さん(76)が叙事詩とし描き上げ、「茶碗の欠片(かけら):杉山なか女と地方病(日本住血吸虫病)」(百年書房)と題して出版した。
 日本では撲滅できたが、世界では今も住血吸虫が生息する地域がある。県内で当時の記憶の風化が進む中、地方病と戦った県民の誇りを後世に語り継ぎたいとの思いが、橘田さんを突き動かした。
 文献や資料、親族らへの取材を基に、本では、戦国時代から1996年に県が終息を宣言するまでの歴史をつづる。
 サブタイトルになっている杉山なかは、病にかかった清田村(現・甲府市)の農家の女性。自分の命はもう長くないと覚悟し、医師に遺書「死体解剖御願い」をしたためる。自らの体を解剖して、病気の原因を見つけ、地方病に苦しむ多くの人を助けてほしい、との内容だった。
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*1:1918年(大正7年)、日本住血吸虫症の病因解明による業績で帝国学士院賞を受賞。1929年(昭和4年)には日本人で初めて英国王立医学会の名誉会員に推された。日本寄生虫予防会は毎年、寄生虫学の振興に寄与した研究業績に対して「桂田賞」を贈呈している。(桂田富士郎 - Wikipedia参照)

*2:武田二十四将 - Wikipediaによれば、秋山信友(秋山虎繁)、穴山信君甘利虎泰板垣信方、一条信龍、小畠虎盛(小幡虎盛)、小幡昌盛、飯富虎昌、小山田信茂高坂昌信春日虎綱)、三枝守友三枝昌貞)、真田幸隆真田幸綱)、真田信綱武田信繁武田信廉多田満頼土屋昌次土屋昌続)、内藤昌豊馬場信春原虎胤原昌胤山県昌景山本勘助(山本菅助)、横田高松のこと