新刊紹介:「歴史評論」8月号

・詳しくは歴史科学協議会のホームページをご覧ください。小生がなんとか紹介できるもののみ紹介していきます。正直、俺にとって内容が十分には理解できず、いい加減な紹介しか出来ない部分が多いですが。
特集「人道と人権の歴史学
◆人道と人権:歴史的視座の課題と展望(牧田義也*1
(内容紹介)
 舘論文以降の各論をとりまとめる総論的内容です。
 政治的中立性や博愛主義をモットーとする赤十字運動によって人道主義が「人権主義」と共通点があるもののイコールでは無く、政治的中立性や博愛主義を必ずしも前提とはしない人権主義とは「微妙にずれがあること」が指摘されています。


◆中立勢力による戦時の人道活動:第一次世界大戦期のスイスと赤十字国際委員会に着目して(舘葉月*2
(内容紹介)
 第一次大戦下での「中立国」スイスや赤十字国際委員会の人道活動が紹介されています。
 米英仏独伊ロシアという欧米主要国が敵味方に分かれて争い(最も国際法違反行為が多かったのはドイツの毒ガス使用と見なされているが)、お互いに大なり小なり国際法違反行為が行われた戦争(つまり全く道徳的に真っ白の国という物が無かった戦争)、それも長期間に亘る戦争においては、スイスや赤十字の人道活動には一定の限界がありましたが、とは言え一定の成果はあり、赤十字国際委員会は1917年のノーベル平和賞を受賞します。
 そして戦後も赤十字の人道活動は一定の進化を遂げていくわけです。


◆戦略としての人道主義:占領下パレスチナの人権運動(佐藤雅哉*3
(内容紹介)
 米国のクエーカー教徒が1974年にパレスチナに設立した東エルサレム法律扶助センターの活動が取り上げられています。
 タイトルの「戦略としての人道主義」というのが重要なポイントです。
 つまり、「内心、クエーカーがそう思っているのか」、「パレスチナ人への法律扶助、法律支援を『PLOなどのイスラエル批判運動』への協力として否定的に見なすイスラエル政府へのエクスキューズか」はともかくセンターの法律扶助行為については「合法的な形でパレスチナ人の権利を擁護すること」で、パレスチナ人が自暴自棄となり、テロ活動に参加していく事態となることを抑止し、その結果としてイスラエルの治安を守り、中東の平和を維持し、ひいては米国の国益にも資するという「戦略としての人道主義人道主義パレスチナ人だけでは無くイスラエルや米国の国益にもなる)」という形でクエーカーによって活動内容の説明がされたと言うことです。
 これは裏返せば、
1)そうした説明によってセンターが「イスラエル政府が、政府批判的な活動と見なし敵視する活動への法律扶助が出来なくなる」恐れがある
2)そうした説明に対し、「センターは微温的だ」「結局、イスラエル統治を正当化している」などとしてパレスチナ過激派の攻撃、非難を受ける恐れがある
というリスクも一方ではありますが、イスラエル政府と完全に敵対関係になれば活動がほとんど不可能になるという意味で「不可避の選択であった」と評価されています。
 もちろんこれは「占領下パレスチナでの人道活動」に限った話ではありません。NGONPOの人道活動が「現地政府に歓迎され、利害対立が全くない」のならともかく、「占領下パレスチナでの人道活動」のように、「支援対象者が現地政府に迫害されている人間である場合」など、人道支援が必然的に現地政府への批判的色彩を帯びざるを得ない場合、人道活動が現地政府の利害と対立し、現地政府の妨害すら危惧される場合にどうすべきかという話です。
 その意味で人道主義活動における「中立性」というのはそれほどナイーブな話では無いと言うことです。中立性に過度にこだわれば、結局「何も出来ないこと」になりかねません。とはいえ中立性を全く無視することは現地政府との対立を生み、活動が全面的に不可能になることにもなりかねません。


◆対峙する人道と人権:欧州・キューバ難民への就労強制(小滝陽*4
(内容紹介)
 1940年代の欧州への難民(ドイツの迫害によるユダヤ難民など)、1960年代の革命キューバから米国への難民に対する「就労強制」が取り上げられています(こうした問題は生活保護受給者への就労強制の問題とも共通する面があるでしょう。あるいは北朝鮮から韓国への脱北者についても同様の就労強制の問題があると聞きます)。
 つまりは
1)「いくら難民だからと言って働かないで、国から経済支援を受けるなんて国民として納得がいかない。税金には限りがある。難民にも就労を原則として義務づけるべきだ」と言う意見と
2)「弱い立場の難民に就労を義務づけるのは道徳的にいかがな物か」という意見の対立です。
 こうした問題は
ア)1970年代以降の欧米諸国での財政危機と、それに基づきいわゆる新自由主義的政治主張が強まること(1980年代のレーガンサッチャー、中曽根など)
イ)ソ連崩壊(共産主義体制に対する資本主義体制の勝利?)によりキューバ難民や脱北者を手厚く保護する必要が薄れたという主張が強まること
によって「2)の主張を完全には無視しないが」1)寄りの方向で解決されてきたが、今も2)のような批判が続くホットな論争問題であると指摘されています。


◆歴史の眼:明治150年の総括『地域の/地域からの『明治150年』:新潟からの取り組み』(田邊幹)
(内容紹介)
 新潟県立博物館職員として、企画展『戊辰戦争150年(福島県立博物館仙台市博物館との共催)』に取り組んだ筆者がその取り組みから感じたことを述べています。
 なお、筆者は「新潟と明治維新戊辰戦争」というと、司馬遼太郎の小説『峠』に描かれた河井継之助小泉首相所信表明演説でも取り上げられ、山本有三が小説に描いた『米百俵』の逸話から、長岡藩に着目される傾向があるが、新潟には長岡藩とは別に高田藩新発田藩があり、これらの藩は長岡藩とは違った価値観や利害関係から動いた点に注意が必要であるとしています。
 筆者の認識では新潟県全体としては長岡藩に着目するイベントが多かったが、上越市高田藩のあった高田市は、1971年に直江津市と合併し、現在は上越市高田)、新発田市において、高田藩新発田藩に着目する傾向がさすがに強かったとのこと。

参考

夏季企画展「戊辰戦争150年」(終了しました) | 新潟県立歴史博物館公式サイト
 戊辰戦争で「朝敵」とされ「負け組」となった会津藩、長岡藩をはじめとする奥羽越の各藩も、その根底にはそれぞれの思想があり、単純に旧幕府軍として戦争に突入したわけではなく、降伏後の処分や復興過程も含め様々な状況がありました。本展覧会では戊辰戦争とその後について、列藩同盟を中心に新潟・東北の視点から紹介します。
 なお、本展覧会は新潟県立歴史博物館、福島県立博物館仙台市博物館の共同企画展覧会です。展示資料は各地域の戊辰戦争ゆかりの資料も展示するため、各会場で若干異なります。ぜひそれぞれの会場でお楽しみ下さい。

戊辰戦争150年:上越で特別展 高田藩、葛藤の軌跡 資料70点で紹介 /新潟 - 毎日新聞
 江戸から明治に大きく時代が動いた150年前、国内を二分した戊辰戦争高田藩はどう臨んだかを振り返る特別展「高田藩戊辰戦争」が、上越市の市立歴史博物館で開かれている。譜代大名の誇りと朝廷の権威との板挟みになりながらも、徳川家の存続と戦争回避の方針を掲げ、高田藩として筋を通して決断した軌跡と、その影響を市内外の資料約70点で紹介している。

戊辰戦争と高田藩:明治150年・上越で展示会 資料6点 「勅書・御請書」や「味噌・香の物献納の達」など /新潟 - 毎日新聞
 明治維新期の戊辰戦争から150年を迎えたことを記念して、上越市公文書センターが高田図書館(同市本城町)で、北越戊辰戦争の出前展示会「戊辰戦争高田藩」を開いている。9月2日まで。
 戊辰戦争倒幕派(新政府)と幕府派が1868(慶応4)年1月の鳥羽・伏見の戦いから1869(明治2)年5月の箱館戦争まで繰り広げた一連の戦いを指す。このうち越後国内での戦いは北越戊辰戦争と呼ばれ、上越地域は倒幕派、中下越地域が幕府派についた。

朝日新聞デジタル:会津の隣 2藩が選んだ道 - 福島 - 地域
 新潟県新発田市に今年開館した市立歴史図書館で企画展「戊辰戦争150年 新発田藩 新たな時代との出会い」が開かれている。
 越後の戦いの最中に新政府軍についた新発田藩は、会津などで長く「裏切り」と評されてきた。しかし、同図書館の鶴巻康志さん(53)は「様々な情報をもとに、ぎりぎりの選択をして城下が戦火に巻き込まれることを防いだ。この判断は後世に誇るべきことだと思う」と話す。
 情報収集の一端をうかがわせるのが「窪田平兵衛在京日記」。京都で他藩の藩士や公家らと交流して、そこで得た情報を国元や江戸藩邸に送り、朝廷に藩の考え方を伝える役も担った家老窪田平兵衛の日記だ。
 この文書を解読し、活字にした新発田古文書解読研修会の大沼長栄会長(69)は、10代藩主溝口直諒(なおあき)が隠居後、尊王の考え方を説いた本「報国説」をまとめたことを挙げ、「新発田藩では朝廷を尊ぶ気持ちが領民まで浸透していた。『裏切り』ではなく、元から尊王の思想が強かったのだ」と話した。

ふたつの新潟・私録沼垂新潟興亡記【北越戊辰戦争~「新発田に嫁をやるな」】: 散財さんの完全散財!
 長岡藩と新政府軍は、根拠地・長岡城を奪っては奪い返される攻防戦の末、中心人物だった河井継之助も負傷し撤退。すでに制海権を確保していた新政府軍は、上陸戦を狙い、新潟に接近していました。
 上陸地点は太夫浜。今の阿賀野川河口の東側、ちょうどいまの新潟港のあたりです。ここは新発田藩の領地であり、当然のことながら新発田藩が防衛を担当していました。
 ここから新政府軍は上陸。新発田藩は、これに抵抗しませんでした。この時点で新発田藩は列藩同盟を抜けて、新政府側に荷担したのです。
 新潟は政府軍の攻撃によって陥落し、長岡・新潟の二つの拠点を失った同盟軍は、会津へと撤退。この撤退戦の途上で、戦傷を負っていた河井は死亡。戦場は会津へと移ります。
 客観的に見る限り、裏切ったと言われても仕方がない立ち回りをした新発田藩ですが、『そもそも新発田藩はもともと列藩同盟への参加は乗り気ではなく、会津藩からの度重なる恫喝と圧力によって、やむなく列藩同盟に加わったが、それは本意ではなかった』というのが、新発田側の見解のようです。
 とはいえ、(ボーガス注:最終的には奥羽越列藩同盟に参加したが、当初は)武装中立を宣言した長岡藩にしても、この新発田藩にしても、どちらにせよ自分達が生き残る方策を取るのが最優先であり、この時点までに旗幟を鮮明にしていない勢力は、程度の差こそあれ、新政府と旧幕府の両方を天秤にかけていたはずです。
 はっきりしていることは、新発田領内を戦火から救った新発田藩の行動ですが、多大な損害を出した長岡藩からは、明確な裏切りと見なされたと言う事です。
 「新発田に嫁をやるな」と言う言葉は、このときの長岡士族の言葉です。会津の女傑である新島八重は、会津戦争の仇だった薩摩長州を生涯許さなかったそうですが、長岡の新発田に対する怒り、憤りは、それに劣らぬほど根深いものだったのだと思われます。


◆書評:谷口雄太『中世足利氏の血統と権威』(2019年、吉川弘文館)(評者:亀田俊和*5
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。

中世足利氏の血統と権威 - 東京大学文学部・大学院人文社会系研究科
・本論文は、中世後期(南北朝期~戦国期)の日本で、足利氏とその一族(足利一門)が尊貴な存在であると、室町幕府・足利将軍側のみならず、広く全国の大名・武士側からも思われていたことを明らかにし、かかる武家間における価値観の共有によって、戦国期においてもなお足利氏を中心とする秩序(「足利的秩序」)は維持されたと見通すものである。
 内容は、足利一門のなかでも、とりわけ別格の家格を誇る吉良*6・石橋・渋川の三氏(「足利氏御一家」「足利御三家」)を具体的に検討する第Ⅰ部「足利氏御一家論」と、足利氏を頂点とし、足利一門を上位とする武家儀礼的・血統的な秩序意識・序列認識の形成・維持・崩壊の各過程を総体的・理論的に考察する第Ⅱ部「足利的秩序論」からなる。
 将軍(足利氏)を中心とする幕府支配のなかで、将軍一門(足利一門)が大きな役割を果たしたことは、既に指摘されて久しい。こうした足利一門を総体的に追究し、決定的に重要な成果を残したのが、小川信である。小川は、足利一門のなかでも、特に将軍に次ぐ政治的・軍事的権力をもって足利氏を支えた三管領(斯波氏・畠山氏・細川氏)を徹底して分析した。それは、氏自身もいうように、江戸幕府でいえば、大老・老中首座にあたる幕府きっての要職の追究である。
(中略)
  以上の諸点を踏まえれば、幕府・将軍の藩屏となった足利一門について、小川とは別の角度・側面からのアプローチも必要となってくるだろう。すなわち、足利一門のなかでも、特に将軍に次ぐ儀礼的・血統的権威をもって足利氏を支えた「足利氏御一家」の分析である。それは、江戸幕府でいえば、徳川御三家にあたるものの追究である。近世において徳川将軍を権力面で支えた大老・老中のみならず、権威面で支えた御三家の研究が必須であるのと同様、中世において足利将軍を権力面で支えた三管領のみならず、権威面で支えた御一家の研究が不可欠と考える所以である。
 この御一家とは、具体的には吉良・石橋・渋川の三氏のことを指している。だが、これまでの足利氏・足利一門研究は、権力面からのアプローチが中心であったため、権力的に強大ではない御一家についての分析は不足していたといわざるを得ない。確かに権力面から見れば弱小だが、権威面から見れば三管領と同等以上の家格を有した者が御一家である。かかる存在を無視してよいとは思われない。
 では、御一家はいつ幕府内部に誕生したのか。また、なぜ吉良・石橋・渋川の三氏だけが特別だったのか。さらに、彼らは戦国期には都を離れて各地で生き残ることとなるが、戦国大名たちはこの三氏をどう見ていたのか。本論文第Ⅰ部は、数ある足利一門のうち、どうして吉良・石橋・渋川の三氏のみが御一家の地歩を築けたのか、この疑問を解きほぐすべく、まず吉良氏(第一章・第二章)、次いで石橋氏(第三章)・渋川氏(第四章)の個別的研究を行い、そのうえで御一家の総論を展開する(第五章)。そして、御一家全員と深く関係するとともに、本来御一家の資格も有していた三管領筆頭斯波氏についても検討することで、第Ⅰ部の議論を補完しつつ、御一家と三管領の比較も行う(付論一)。
 なお、足利氏を中心とする中世後期の武家社会を考えるうえでは、京都足利氏(将軍)=西国の分析だけでは不十分である。東国には関東足利氏(公方)を頂点として、西国からは自律的な独自の秩序が存在した。
 本論文で扱う御一家も、京都足利氏・関東足利氏のもとで、東西に存在した。それゆえ、関東吉良氏を第一章で、関東渋川氏を第四章の一部で、関東御一家を第五章の一部で取り上げる(なお、石橋氏は関東にはいない)。
 さて、こうした「御一家」だが、史料の収集を進めていくと、この言葉には二つの異なる意味合いが存在していたことに気付く。一つは「狭義の御一家」ともいうべきもので、本論文第Ⅰ部で検討した吉良・石橋・渋川の三氏のみを指す使われ方、もう一つは「広義の御一家」ともいうべきもので、足利一門全体を指す使われ方である。同じ御一家という史料用語であっても、意味する研究概念は異なっていたのである。この点、既存の研究では混用されてきたが、分析のうえでは腑分けする必要のあることから、以後、前者は「足利御三家」、後者は「足利一門」と呼ぶこととする。
(中略)
 足利御三家・足利一門の権威は、結局、足利氏の権威によって保たれていたのであるから、最後に検討すべきは、この足利氏の権威そのものについてである。本来鎌倉幕府の一御家人として相対的な尊貴性しかもたなかったはずの足利氏は、いかに絶対的な貴種性を獲得し、なぜ戦国期になっても「武家の王」として認められるにいたったのか、その権威獲得と存続のプロセスを追究する(第八章)。そのうえで、足利氏を頂点とし、足利御三家を最上位とし、足利一門を上位とする秩序意識・序列認識(足利的秩序)の形成・維持・崩壊の各過程について最終的に議論を整理し(第九章)、おわりに、本論文全体の結論と展望を示すこととしたい(終章)。


◆書評:高野信治*7『武士神格化の研究』(2017年、吉川弘文館)(評者:岸本覚*8
(内容紹介)
 豊臣秀吉豊国大明神として祀る豊国神社 (京都市) - Wikipedia徳川家康東照大権現として祀る日光東照宮 - Wikipediaなどをとり上げ、近世日本での「武士の神格化」について論じている。
 なお、「単純な比較は慎むべき」としながらも「秀吉、家康など実在の人物を神として祀る近世の神社」が

西郷隆盛を祀る南洲神社 - Wikipedia
◆「軍神」広瀬武夫を祀る広瀬神社 (竹田市) - Wikipedia
◆「旅順攻囲戦の功労者」児玉源太郎満州軍総参謀長)を祀る児玉神社 (藤沢市) - Wikipedia乃木希典(第3軍司令官)を祀る乃木神社 (東京都港区) - Wikipedia
◆「日本海海戦の功労者(連合艦隊司令長官)」東郷平八郎を祀る東郷神社 (渋谷区) - Wikipedia

といった「実在の人物を神として祀る明治以降の神社」に影響を及ぼした可能性が指摘されている。
 また、「蜀の武将・関羽」を祀る関帝廟 - Wikipediaなど、中国文化が「秀吉、家康など実在の人物を神として祀る近世の神社」に影響を与えた可能性も指摘される。

参考

山本五十六 - Wikipedia
 山本の生家は長岡空襲で焼失し、現在は山本記念公園となっている。山本*9が戦死した際、東郷神社などの前例にならって「山本神社」を生家に建立して、山本の遺徳を称えようという関係者の動きがあったが、米内光政*10や井上成美*11、堀悌吉*12など山本と親しい関係にあった海軍幹部たちが「山本は自分が神様にされるのを一番嫌っていた。そんなこと(神社建立)をしても山本は喜びません」と言って猛烈に反対した為、山本神社建立話は沙汰やみになったという。

なぜ徳川家康は「神様」になったのか 『徳川家康の神格化』 | J-CAST BOOKウォッチ
 『徳川家康の神格化』(平凡社)という本を見つけた。2019年10月に刊行されたばかり。
 著者の野村玄さんは1976年生まれ。大阪大学大学院文学研究科准教授。専門は日本近世史。『日本近世国家の確立と天皇*13』『天下人の神格化と天皇*14』などの著書がある。
 結論から言うと、家康が神になったのは豊臣秀吉の影響が大きい。本書は次のように記す。
 「天下人の神格化に関する直近の先例が豊臣秀吉のみであったことは事実」
 「すなわち、もし当時、天下人家康の神格化が比較的早い段階から現実味を帯びて検討されていたならば、秀吉の例を意識しないことのほうが想定しにくい」
 家康側近の僧は、家康が亡くなる直前に太政大臣への任官を進言している。背景には「現任の太政大臣だった秀吉が豊国大明神として祀られた例を意識した可能性」があるという。野村さんには『豊国大明神の誕生』(平凡社)という著書もあるので、得意の分野だろう。
 たしかに秀吉は1599年、「豊国大明神」という神号で祀られた。ところが1615年に豊臣家が滅亡すると、徳川家康の意向により後水尾天皇の勅許を得て豊国大明神の神号は剥奪される。豊国神社も徳川幕府により事実上廃絶された。家康は豊臣再興の芽を徹底的につぶしたのだ。
 このことは、家康没後に神号を決める際にも参照された。「大明神」と「大権現」の二案があったが、「大明神」は豊臣で使われている、豊臣は滅亡しているので、「大明神」は良くない、「大権現」にすべきだということになったようだ。こうして家康は「日光大権現」になる。


◆書評:鬼嶋淳*15『戦後日本の地域形成と社会運動』(2019年、日本経済評論社)(評者:沼尻晃伸*16
 大井医院(現在の医療生協さいたま・大井共同診療所)創設者、「埼玉民医連及び全国民医連」の創設メンバー、日本共産党埼玉県議を歴任した大島慶一郎など、「最大与党・自民党」「最大野党・社会党」ばかりに注目するあまり、従来、あまり研究されてこなかった社会運動家を取り上げている点が評価されている。

*1:上武大学講師

*2:武蔵大学准教授

*3:愛知県立大学講師

*4:関東学院大学講師

*5:著書『室町幕府管領施行システムの研究』(2013年、思文閣出版)、『南朝の真実:忠臣という幻想』(2014年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『高師直:室町新秩序の創造者』(2015年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『足利直義』(2016年、ミネルヴァ日本評伝選)、『観応の擾乱室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い』(2017年、中公新書)など(亀田俊和 - Wikipedia参照)

*6:吉良氏というのは忠臣蔵で有名な吉良上野介の祖先に当たる名家です。

*7:九州大学教授。著書『近世大名家臣団と領主制』(1997年、吉川弘文館)、『藩国と藩輔の構図』(2002年、名著出版)、『近世領主支配と地域社会』(2009年、校倉書房)、『大名の相貌:時代性とイメージ化』(2014年、清文堂出版)、『武士の奉公・本音と建前:江戸時代の出世と処世術』(2015年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『近世政治社会への視座:〈批評〉で編む秩序・武士・地域・宗教論』(2017年、清文堂出版)など(高野信治 - Wikipedia参照)

*8:鳥取大学教授

*9:海軍航空本部長、海軍次官連合艦隊司令長官を歴任

*10:戦前、林、第一次近衛、平沼、小磯、鈴木内閣海軍大臣や首相を歴任。戦後も東久邇宮、幣原内閣で海軍大臣

*11:海軍省軍務局長、海軍航空本部長、海軍次官など歴任

*12:海軍省軍務局長、第1戦隊司令官、日本飛行機社長、浦賀船渠社長など歴任

*13:2006年、清文堂

*14:2015年、思文閣出版

*15:佐賀大学准教授

*16:立教大学教授。著書『工場立地と都市計画:日本都市形成の特質1905‐1954』(2002年、東京大学出版会)、『村落からみた市街地形成:人と土地・水の関係史 尼崎1925‐73年』(2015年、日本経済評論社