映画監督「田中絹代」について記事紹介(2023年4月12日)(副題:映画産業の斜陽化(1960年代)と田中の映画監督断念)

女たちとスクリーン③ タフでかっこいい田中絹代 - ひとシネマ*12022.3.24
 1年前の古い記事ですが偶然見つけたので紹介しておきます。もっと早く気づけばもっと早く紹介していたのですが。
 以前、

世間に知られ始めた「田中絹代が映画監督だった」と言う事実(2021年12/28版)(追記あり) - bogus-simotukareのブログ
id:Bill_McCrearyさん
 彼女が監督をやめた理由ですが、多分映画界が、彼女の道楽に付き合う、バックアップするのが難しくなってきたということもあるのでしょうね。

と言うコメントを頂きましたが、それを裏付ける指摘が出てきます。

女たちとスクリーン③ タフでかっこいい田中絹代 - ひとシネマ2022.3.24
 (ボーガス注:田中監督の最終作品となった)「お吟さま*2」(1962年)では、当時、社長を退いて相談役だった城戸四郎*3田中絹代監督に「君は松竹をつぶすのかね」と言ったほどお金をかけたようだ。この年、すでに(ボーガス注:金がかかるから?)松竹京都では時代劇を撮っていない*4
 (ボーガス注:田中主演の人気映画『金色夜叉』(1932年:ヒロイン・鴫沢宮)、『伊豆の踊子』(1933年:ヒロイン・踊り子)など)松竹蒲田*5の時代からいかに田中が松竹を支えてきたかということも膨大な製作費が通った背景にはあったのではないか。ただ、映画界は当時、興行的には下方修正の段階に入っており、「お吟さま」も当たらなかった。それが結果的に監督作品が6本にとどまる要因にもなったと思う。
 田中監督は「16ミリでも記録映画でも」と言っていたが、もうプロデューサーがいなかったのではないか。
 自分のプロダクションで撮るにもプロデューサーは必要で、これまで撮ってきた会社は、1960年代半ばには(ボーガス注:『恋文』(1953年)の)新東宝*6は(ボーガス注:1961年に)倒産しているし、(ボーガス注:『月は上りぬ』、『乳房よ永遠なれ』(いずれも1955年)の)日活も(ボーガス注:『流転の王妃』(1960年)の)大映ももう体力がなくなっている*7。最もお金がかかった「お吟さま」を、時代劇が撮れなくなっていた状況の中で撮って、それまでの作品のようには当たらなかったことは、製作会社から敬遠されることにもなった。
 岡本喜八大島渚などは途中から(ボーガス注:大島の『創造社』『大島プロ』など)自身の独立プロで作っていくが、ブレーンや撮影所時代の仲間もいて、低予算映画も撮っていた。田中絹代がフリーの監督として築いてきたスタッフは撮影所所属で、撮影所の存続自体が危うい時期。監督としても低予算映画は撮ったことがない。
 (ボーガス注:田中は劇映画なので)ジャンルは違うが、ドキュメンタリーの羽田澄子*8監督が自主製作や独立プロで映画を作り続けた背景には、工藤充というプロデューサーがいて、岩波ホール*9という上映館があった。プロデューサーと上映館、この二つがないと7作目は難しかった。

*1:田中は「タフでかっこいい」とは思いますがタイトルが記事内容とかなりずれています。

*2:原作は今東光の1956年下期・直木賞受賞小説『お吟さま』。1978年には熊井啓東宝で映画化(田中映画で有馬稲子が演じた役は中野良子が、仲代達矢が演じた役は二代目中村吉右衛門が演じた)(お吟さま (1978年の映画) - Wikipedia参照)

*3:「城戸賞(新人脚本家が対象)」にその名を残す東映の最高幹部、レジェンド「城戸四郎(社長、会長を歴任)」ですら「金をかけすぎではないのか」と苦言を呈するものの「やめろ」とはいえない点が重要です(つまりはそれだけ田中の『松竹への貢献』が大きい)。まあ、「松竹を潰す」は言い過ぎで、有名俳優(出演した有馬稲子(主演)、仲代達矢(有馬の恋人役)など)の力で何とか元は取れると思っていたのでしょうが。

*4:「本当か?」と気になったので松竹の映画作品の一覧 - Wikipediaを見たところ、1960年代の松竹配給映画には小林正樹監督『切腹』(『お吟さま』と同じ1962年公開、主演は『お吟さま』にも出演した仲代達矢)と言う時代劇映画があるので松竹京都では時代劇を撮っていないはこの筆者の勘違いかもしれません。勿論、映画産業の斜陽化で「時代劇映画が撮りづらくなっていたこと(時代劇映画の数が減っていたこと)」は事実でしょうが。なお、近年でも数は少ないとは言え、市川崑どら平太』(2000年)、小泉堯史『雨あがる』(山本周五郎の同名小説の映画化:2000年)、『蜩ノ記』(直木賞を受賞した葉室麟の同名小説の映画化:2014年)、『峠:最後のサムライ』(河井継之助を描いた司馬遼太郎の同名小説の映画化:2020年公開予定だったがコロナのため延期され2022年公開)、佐藤純彌桜田門外ノ変』(吉村昭の同名小説の映画化:2010年)、原田眞人関ヶ原』(司馬遼太郎の同名小説の映画化:2017年)、山田洋次たそがれ清兵衛』(2002年)、『隠し剣鬼の爪』(藤沢周平の同名小説の映画化:2004年)、『武士の一分』(2006年)と時代劇映画は一応ある(なかには興行的にもそれなりに成功しているものもある)ので結局「才能の問題もある」でしょう。まあ、このうち、「男はつらいよ」山田は「松竹にとっての大功労者」「日本映画界のレジェンド」で「普通の監督とは違います」が。

*5:1920~1936年まで存在した松竹蒲田撮影所のこと(松竹蒲田撮影所 - Wikipedia参照)

*6:1946年11月、第二次東宝争議の最中、東宝側にも、労組側にもつかないとして、大河内傳次郎長谷川一夫、黒川弥太郎、入江たか子、藤田進、花井蘭子、山田五十鈴原節子、山根寿子、高峰秀子が「十人の旗の会」を結成して組合を脱退。同時に組合を脱退した百数十名の有志とともに「東宝第二撮影所」を母体にして、4か月後の1947年3月に新東宝映画製作所を創業。渡辺邦男斎藤寅次郎らの監督も新東宝に移籍。1948年4月に株式会社新東宝として正式に設立。この新会社は、「新東宝による製作、東宝による配給」という形で、実質的なストライキ破りの機能を果たしたが、間もなく東宝は争議沈静後に自主製作を開始。東宝からは独立した映画製作・配給会社となる(新東宝 - Wikipedia参照)。

*7:1971年11月29日、大映の永田秀雅副社長から全従業員に解雇通告がなされ業務全面停止、翌12月に不渡手形を出し、破産宣告を受けた。12月28日には東京証券取引所上場廃止となった(大映 - Wikipedia参照)。

*8:著書『私の記録映画人生』(2014年、岩波現代文庫

*9:その岩波ホールも今はないことについては例えば岩波ホール閉館のニュースを知り、あらためてミニシアターの運営の大変さを痛感する - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)参照