天皇と保守政治(内奏)

 今回の「天皇の政治利用」云々に関して論評抜きで紹介する。

五十嵐仁「戦後政治の実像」(小学館)p24ー27
 戦前の制度が政治のトップエリートにおける慣例として残存しているものもある。その象徴的な例は「内奏」という慣習である。
 これは、政治担当者である首相や主要閣僚が所管事項について内々に天皇に報告することを指している。
(中略)
 このような行為は、内閣が天皇を補弼する(進言・助言して全責任を負う)戦前なら必要だったかもしれない。しかし、国民主権の下、天皇の政治行為が厳しく制限されている現憲法の下では必要ないばかりか、憲法違反の疑いがある。
 佐藤首相は吉田茂元首相同様、天皇への強い崇拝の念を持ち続けていた。その佐藤首相による内奏が、第二次ニクソンショック後の変動相場制への移行と円切り上げへの政策転換を遅らせたという説*1がある。内奏が現実政治に実害を与えた例である(私注:もちろん内奏原因説が事実ならばだが)。
(中略)
 佐藤の子分だった田中元首相も、この内奏を重視した。そのあまり、「天皇への内奏を優先するために参院の開会を遅らせ」(堀越作治「戦後政治13の証言」153頁)るという本末転倒の誤りを犯している。
(中略)
 このように、戦後も内奏が行われてきた思想的背景として、臣民意識が長く残存し続けてきたこと、それも政治のトップエリートにおいて強く残ってきたことを指摘しておかなければならない。
(中略)
 吉田は(中略)「『臣茂』の非難について」次のように反論している。
 「私をして言わしむるならば、私が『臣』と称したことが、民主主義思想に反するなどと考えること自体、民主主義の本質を弁えざる生半可の考え方なりと思うのである。
 そもそも如何なる世の中となっても、父母、兄弟、長幼の序、先輩後輩の順、社会上下の礼儀なくしては、その社会の秩序は保たれず、国家の安定を得ることは、不可能である。わが国古来の歴史的観念、伝統的精神よりすれば、皇室がわが民族の始祖、宗家である。これは理論でなく、事実であり、伝統である。皇室を尊崇するのが、人倫の義であり、社会秩序の基礎となり来ったのである。故にわが国における民主主義も、この観念、精神を基礎とせねばならない。」(吉田茂「回想十年(四)」(中公文庫)90−91頁)
 これが吉田の民主主義理解であった。民主主義は天皇制を頂点とする身分制社会秩序の「観念、精神を基礎とせねばならない」とされていたのである。
 ”吉田学校”の忠実な”生徒”であった佐藤栄作は、この点でも忠実に吉田の後を継いでいた。佐藤栄作の日記を分析した堀越作治は、「佐藤の皇室崇拝がいかに徹底していたかも触れなければなるまい」として「師の吉田がよく『臣茂』といったのをまねて、佐藤は『臣栄作』をしばしば口にし、宮中へ行く時は『参内』とか『内奏』といった旧憲法時代の用語をそのまま使いつづけた」こと、「政治上のできごとを頻繁に天皇に報告し、とくに訪米して沖縄返還交渉がうまく運んだ時は、『陛下に報告できることを喜ぶ』と日記にまでかいている」こと、「天皇をはじめ皇族の送迎を国会や政府の日程よりも優先したことも、一度や二度にとどまらない」ことを指摘している(堀越作治「戦後政治裏面史」315頁)。

*1:「円の切り上げ」は必要ないと思います、という内奏が政策転換を遅らせたという説。塩田潮「霞が関が震えた日−通貨戦争の12日間」(サイマル出版会)235頁による。