【産経抄】5月22日(追記・訂正あり)

 岩倉使節団については義務教育レベルの歴史知識しかありませんがウィキペディアなどを参考にコメント。

 日本の政治家の「外遊」で最も有名なのは、岩倉使節団だろう。岩倉具視をはじめ、大久保利通木戸孝允明治新政府の中心メンバーが、明治4年から1年10カ月かけ欧米12カ国を回った。当時の先進国の現状を視察するのが目的であった。

江戸幕府が結んだ不平等条約関税自主権の不存在、領事裁判権)の改正も目的でした。参加メンバー(条約改正担当者限定ではない)を見れば分かるように、当初から「現状視察」も目的でしたし、条約改正が完全に挫折した後は「現状視察」のみが目的になりますが。
・なお、当時の明治新政権批判派の中には「岩倉、大久保、木戸の洋行」を「改革の内容、手法に対する批判からの敵前逃亡」と見なす人もいました。海外に逃げて批判のほとぼりが冷める頃、帰るんだろ、使節団の洋行目的なんてただの口実だろ、という批判です。人間誰しも自分の嫌いな人(この場合、明治新政権批判派にとっての岩倉たち)は「最低の奴」と「必要以上にネガティブ」に見やすいものです(もちろん岩倉使節団に話を限定すればこの見方は邪推でしょう。ただ条約改正が成功すれば良かったんですが目に見えるわかりやすい成果はなかったので当時の政権批判派のこういう見方がどれほど改められたかはわかりません)。ちなみに今でも政治家の外遊にそう言うことを言う人は時々います。この間の赤松氏外遊でも「逃げた」云々という人が数は少ないもののネット上にいました。
・また「条約は結び損い金は捨て・世間へ大使何と岩倉」という狂歌も当時できたといいます。少なくとも当時の国民全てが「洋行は成功」と考えていたわけではなかったようです。
・だからこそ大久保も後に暗殺されるのでしょう(紀尾井坂の変)。

 むろん、その後の国づくりにとっては大きな意味を持っていた。

・おっしゃるとおり、その後の国づくりに大きな影響を与えたことは確かでしょう。ただし、それが当時の国民にどれほど理解されていたかは疑問です。
・またこの時の国づくりの方向性がどれほど正しかったかはまた別途論じる必要があるでしょう。

 しかし一方、長期の海外滞在により、政府の留守を預かっていた西郷隆盛らとの間に溝が生まれる。西南戦争など後の内乱を招いたともいえる。

・長期の海外滞在が「溝を生む原因」となったのか、それともそれ以前から、意見対立はあり「溝を生むきっかけ」にすぎなかったのか、どちらなのでしょう。
 もし「きっかけにすぎなかった」のなら外遊がなくても、状況は変わらなかったでしょう。征韓論*1派参議は(後に大隈重信が下野したように)いずれ何らかの理由(征韓論を含む)で下野し、中には西郷や江藤新平佐賀の乱)のように内乱を起こす人間も出たことでしょう。
・一方、「溝を生む原因」ならば征韓論派の下野を招いてまで、外遊する意味はなかったと言う判断もあり得ます(少なくとも岩倉、大久保、木戸の三人は)。
・なお、揚げ足取りすると征韓論派参議のうち、同じ薩摩出身で大久保の無二の友であったと言われる西郷はともかく、他の参議は、出身が違うなどの理由で元から大久保たちと仲があまり良くない人間が多かったのでは?
 典型的には佐賀出身で、山城屋和助事件追及で山県有朋失脚を、尾去沢銅山事件追及で井上馨失脚を狙った(そして彼らが属する長州閥のパワーダウンと自分が属する佐賀閥のパワーアップを狙った)と言われる江藤(司法卿)なんかはそうでしょう(なおこれらの事件は実際に山県や井上が関わった不正で江藤の動機はともかく追及はされて当然の事件です。江藤の追及で、彼らは一時公職を離れています。江藤が失脚しなければ山県や井上のその後の栄光はなかったかもしれませんね)。
・また西郷や江藤個人はともかく、彼らを担ぎ上げた不平士族は外遊があろうとなかろうと新政権に批判的でしたから、いずれ内乱を起こしたでしょう。そもそも萩の乱神風連の乱のように征韓論派参議とは関係ない乱もあります。西郷*2や江藤がいなければ鹿児島や佐賀での乱は起こったとしてももっと小規模な内乱で済んだかもしれませんが。
・しかし「溝が生まれる」と書くなら、「征韓論」(明治六年政変)で西郷らが下野したことについてもっとはっきりと触れても良いのに何故、抄子は触れないんでしょう?

 日本にとっても使節団にとっても、命がけの「外遊」だった。

 今と違って、当時においては、「外遊」自体が命がけでしょう。飛行機で簡単に行って帰るというわけにいきませんから。政府要人ならその辺り十分注意しているでしょうが。

 それにくらべ現代の政治家たちの外遊は何とも能天気に見える。

 すでに指摘しましたが、岩倉使節団についてもそう言う批判はありました。条約改正が成功すれば良かったのですが、それは挫折し、目に見えるわかりやすい成果はありませんでした。

 今年の大型連休には何と11人の閣僚が海外に出かけた。この中には外相や防衛相、国家公安委員長も含まれていた。もし連休中、日本でもテロ事件が起きたらどうするのか、誰も心配しなかったらしい。

岩倉使節団にも、政府の中心人物である岩倉(外務卿兼任右大臣。少なくとも肩書きは政権ナンバー2。実際のナンバー2かどうかはともかく岩倉は実質的にもかなりの大物でしょう。なお、肩書きナンバー1は太政大臣三条実美)、大久保(大蔵卿)、木戸(参議)が長期不在で大丈夫なのかという批判はありました。三条が「留守政府は勝手なことをしない」という誓約書を取るのもその恐怖があったからです。三条は「岩倉らの不在中に、仮に留守政府が暴走したら自分の力では抑えきれないかもしれない」「悔しいが、肩書きナンバー1でも自分にはそれを抑え込むほどの力はない」と自覚していたのでしょう。
・当時は今と違って電話や飛行機なんかありませんから連絡を取るのも大変ですし、1日、2日ですぐに帰れるわけでもありません。 岩倉らの不在は政治に大きく影響する危険性があります。しかも船が沈むなどして岩倉たちが事故死する危険性も今に比べたらずっと高い。それを上回るメリットがあるのかという話ですね。実際、条約改正成功などのわかりやすい成果はありませんでした。
・当初の予定でも10ヶ月、結果的には1年10ヶ月の長期不在です。しかも岩倉たちが帰国したのは征韓論を抑えるための緊急帰国ですから、征韓論がなければもっと長期間不在が続いたことは間違いないでしょう。
・結局、征韓論論争という「閣内不一致」が岩倉らの不在中に発生し、三条はこれを自力で解決することが出来ませんでした。(なお、留守政府は学制、徴兵令、地租改正と数々の改革を行っていますがこれらには征韓論と違い、岩倉らの批判はなかったようです。岩倉らの同意を得て行った、あるいは同意はなかったが征韓論と違い岩倉らが問題視する必要を感じなかったと言うことでしょう)
・西郷らの征韓論を抑え込むために、岩倉、大久保、木戸は帰国し、三条では抑え込めなかった征韓論を見事に抑え込みます。彼ら3人が大物であること、彼らの不在が国に大きな影響を与えることが皮肉な形で証明されます。彼らが抑え込まなかったら、日本はこの時点で朝鮮と戦争していたかもしれません。それは日本にとって不幸なことだったでしょう。まあ、外遊しなければ征韓論はそもそも出なかったかも知れませんが。
・一方、敗れた征韓論派参議は下野し、岩倉らにとって政治の不安定要因になります。ある者(西郷、江藤)は乱を起こして命を落とし、ある者(板垣退助)は自由民権運動など、より平和的な形での政府批判を行います。
征韓論派参議の下野もあって、大久保は多くの人の恨みを買い、後に暗殺されることにもなります。
・なお、後に日本が朝鮮を植民地支配したことから分かるように、岩倉らの反対論は「時期尚早論」であり「原理原則的に絶対反対」ではありません。そこを理解しないと、「後で朝鮮を植民地支配するのに征韓論に何故反対するんだ」と訳が分からなくなります。
・なお、皮肉にも西郷下野後、新政府は「台湾出兵」(明治七年)*3、「江華島事件」(明治八年)を実行し、「征韓論と何が違う」「征韓論から1〜2年しかたってないじゃないか」と征韓論派の反発を招くことになります。大久保的には違うんでしょうが・・・。
・ちなみに抄子は日本に閣僚がいないとテロ対策が出来ないかのようなことを言っていますが、そんなことはないでしょう。それ以前にオウムのサリンテロ以外に日本で大規模テロなどここ数年起きていないと思いますが。

 目的はさまざまに言われている。だが明治時代と違い海外情報があふれているとき、大臣の視察が必要なのか。自民党政権時代からそうした批判はあった。それなのに政権交代民主党中心になってもこの風習だけは引きついだ。よっぽど楽しいのかと思ってしまう。

・既に指摘したように明治時代の外遊には「長期不在されると連絡とるのも帰るのも難しい」「不在のうちに話が変な方向に行きかねない」という別の問題がありました。
・また、これも既に指摘しましたが岩倉使節団には当時の明治新政権批判派からは産経が鳩山政権に行っているのと同様の「外遊に意味があるのか」という批判がありました。
・外遊の目的は「情報収集」「視察」だけではありませんし、行って分かる情報というのもあるでしょう。もちろん無駄な外遊もあるでしょうが、それは個別に批判すればいい話です。共産党都議団の石原都知事外遊批判とか。何故か産経さんは石原氏を絶対に批判しませんが(皮肉)

参考
石原都知事ケタ違い・豪華外遊、クルージングや二輪レース見物、海外出張19回・3600万円の場合も」
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-11-16/2006111601_03_0.html

石原都知事また海外豪遊、五輪招致に1億円超、ホテル1泊12万円、往復はファーストクラス」
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik09/2009-12-22/2009122215_01_1.html

石原都知事夫妻、北京五輪で1泊24万円ホテル、吉田都議が追及」
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik09/2010-03-16/2010031615_02_1.html

 案の定、赤松広隆農水相が外遊中、宮崎の口蹄疫被害は爆発的に広まった。拡大を知りながら、旅行を続けていた農水相は「きちんと(私注.口蹄疫対策を)やってきた」と強弁している。だが「政治主導」をかかげる鳩山内閣だ。担当大臣がいないと対策が遅れることは誰にでもわかる。

・赤松氏不在でも、農水副大臣山田正彦氏、郡司彰氏)、政務官佐々木隆博氏、舟山康江氏)、その下の官僚はいましたし、福島瑞穂特命担当大臣(消費者及び食品安全・少子化対策男女共同参画担当)が農水相臨時代理に任命されています。赤松氏がいないからと言ってそれ「だけ」で対策が遅れることはないでしょう。
 対策が遅れたとしたら民主党政権の認識が甘かったからで、赤松氏がいても多分状況は変わらなかったでしょう。なお、東国原英夫宮崎県知事ら地元の政治家の責任も忘れてはいけません。
・そもそも、対策が遅れているかどうか自体議論の余地があると思います。伝染病は対策すればすぐに収まるというものではないでしょうし、今のところ宮崎県外での口蹄疫発生はないようです。単に運が良いだけかもしれませんが、民主党政権が宮崎県内にうまく口蹄疫を封じ込めているのかもしれません。
・それにしても外遊ならともかくカギ括弧も無しで「旅行」と書くとは抄子の神経を疑います。
・また「政治主導」云々という文章も変な気がします。「官僚主導」(自民党のように?)が良いことだと言ってるようにも受け取れます。

 百歩譲って、外遊中も支障は生じなかったというのであれば、大臣などいらないということで、政治主導が泣く。

 「大臣が要る」から、福島氏が臨時代理に任命されているのです(福島氏が適任だったかどうかはひとまずおきます)。
 抄子はアホかと。

 非は非として認めたうえで万全の対応をはかるべきである。そうしないと、とても地元の被害農家は納得などできまい。

 この点だけはおっしゃる通りです。「外遊それ自体が非だろうか?」とか「産経に民主党政権を批判する資格があるか?」と言う問題はありますが。

【追記】
1)この産経抄については次のエントリも触れていますので紹介。

「本日の産経SHOWと阿久根政界NOW:外で遊んでいたわけではない」(http://d.hatena.ne.jp/slapnuts2004/20100522

いくつか感想も書いてみましょう。

 しかし一方、長期の海外滞在により、政府の留守を預かっていた西郷隆盛らとの間に溝が生まれる。西南戦争など後の内乱を招いたともいえる。(産経抄

 論旨がメチャクチャだ。諸外国の実情を知った大久保派と、国内のことしか知らない西郷派で考え方に違いが生じたのは、最大限に見積もっても「遠因」であって、それを佐賀の乱西南戦争と直接結びつけることはできません。

・もちろん征韓論士族反乱を直接結びつけることは出来ません。自由民権運動のリーダー・板垣退助自由党党首)はそのわかりやすい例です。
 ただし産経抄の文章は直接結びつけてはいないのでは?。
 「長期の外遊によって大久保派と西郷派に考えのずれが生じる」→「外遊のためそのずれが修復不可能になる」→「ついに西郷ら征韓論派が下野」→「下野後の周囲の人間のせいで征韓論派のうち西郷、江藤は乱を起こす」と産経は言いたいのでしょう。表現が稚拙だとしても、それほど間違いとは思いませんが。
・なお、自由党過激派による事件(秩父事件など)は「後の内乱」にはさすがに入れてないと思うんですが、どうですかね。相手が産経だと「自由党党首は征韓論論争で下野した板垣」と言う理由で、もしかして入れてるかも?、とつい思ってしまいます。
・ちなみに、外遊も征韓論論争に、もちろん影響していると思います。外遊派には征韓論者はいませんから(岩倉使節団メンバーの村田新八は西郷が下野すると自らも職を辞して鹿児島に帰郷、西南戦争では西郷軍に参加して戦死しますが、これは彼が西郷を深く尊敬していたからに過ぎません。外遊経験者の彼が積極的に士族反乱と言う暴挙に加わったとは思えません。根拠はありませんが、彼は「いずれまた大久保らが西郷を必要とする時代が来る」「そのときは西郷を説得して上京させ、自分が西郷を支えよう」「それが出来るのは外遊して海外事情を知っている自分だけだ」「桐野利秋篠原国幹征韓論派の連中には西郷先生を任せておけない」と考えたのではないでしょうか。しかし、「私学校の暴走」により、その願いは裏切られ彼は西郷に殉じたと言うことではないかと)。
征韓論派参議も一緒に外遊していれば、あるいは、岩倉たちの代わりに彼らが外遊していれば良かったのかもしれませんね。
・何で読んだのか忘れましたが、木戸は元々は征韓論に近い考えだったのだが、外遊で大きく考えを変えたという文章を読んだ記憶があります(ウィキペディアにも同様の指摘がある)。
・但し外遊しなかった人間にも征韓論反対派(例.大隈重信)がいることに注意が必要でしょう。
・なお、確かに征韓論反対派のリーダーは大久保、賛成派のリーダーは西郷でしょうが、だからといって、西郷派、大久保派と呼ぶことが妥当かは疑問に思います。政治力や人望等から、結果的に彼ら2人がリーダーになっただけで、彼ら2人をリーダーとして仰いでいたわけではないでしょうから。木戸と大久保は、木戸の優柔不断な性格などから不仲だったと言いますし、征韓論派は下野後は自由民権運動の板垣と、西南戦争の西郷が典型でしょうが、連絡を取り合って一緒に政治活動したわけでは必ずしもありません(もちろん板垣と後藤象二郎のように一緒に自由党結党を行うケースもありますが、これは二人とも土佐出身である等の理由によるものでしょう)。

この中には外相や防衛相、国家公安委員長も含まれていた。(産経抄

 外務大臣が外遊することに何か問題でも?というか、行かない方が変ですよ。
 防衛相の行き先はインド。


 防衛相、中国海軍の動向分析表明 インド国防相と会談 - 47NEWS(よんななニュース)  
 http://www.47news.jp/CN/201004/CN2010043001000866.html


 中国の軍事的脅威や北朝鮮の核開発問題にどう対処するかを話し合いに行ったようです。

 要するに岡田克也外相と北沢俊美防衛相の外遊には問題ないと言うことです。
 なお、私がググったところ岡田外相は「アフリカ開発会議TICAD)の「フォローアップ会合」への出席などのためアフリカを訪問」したそうです。これをどう評価すべきなのか何とも言えません。アフリカ諸国との関係だってもちろん重要ですからね。
 他の閣僚の行き先はよく分かりませんでした。

 もし連休中、日本でもテロ事件が起きたらどうするのか、誰も心配しなかったらしい。(産経抄

 テロが起きるかもしれないから外遊に行かない、という理屈はおかしい。だったら英国の閣僚は誰も外遊できませんよ。

 もちろん、イギリスには北アイルランド独立をめざす武装テロ組織がいます。イスラムテロ組織のターゲット、イスラエルの閣僚なんかも外遊には行けませんね。

だが明治時代と違い海外情報があふれているとき、大臣の視察が必要なのか。(産経抄

 「視察」だけだと思ってんのか。
 (中略)
 外遊先の首脳と直接会談するのは、それだけ相手を重要視しているというメッセージでもあります。テレビ電話で済ませるのと訪問するのでは、その意味合いはまったく違います。他人に何かした時、電話でお礼を言われるのと直接会ってお礼を言われるのでは気分も違うでしょ?

 こんな事は産経も分かった上での自民党準機関紙としてのイチャモンだと信じたい。さすがに本気だったら全国紙と呼びたくない。

2)「黙然日記:産経抄の牛肉観。」(http://d.hatena.ne.jp/pr3/20100522/1274541253)も紹介しコメントしてみます。

 テロや伝染病はいつ発生するかわかりません。外遊中に伝染病が発生したら責任を問われるのでは、大臣の外国訪問は不可能になります。その留守を預かるために副大臣政務官という役職があり、大臣がその場にいなくても対処できる体制になっているわけです。

そうですよね。しかも既に指摘しましたが、福島氏が臨時代理に任命されていたわけです。

赤松大臣のメキシコ・キューバ・コロンビア訪問はEPAFTA交渉に関わるものでした。
(中略)
メキシコとのEPAFTA交渉は、国産牛肉農家の保護に関して、(緊急事態を除けば)重要な会談だったのではないでしょうか。

赤松氏の外遊を批判するには「相手国には申し訳ないが、外遊を後回しにしてでも残るべき緊急事態だった」を証明するか、「そもそも重要な会談ではなかった」を証明すべきと言う当然のお話。

*1:征韓論については西郷は政府代表として交渉するとしか公の場で言ってないから「征韓論」と呼ぶのは妥当でないとする論者(毛利敏彦氏)が一部いますがこれは通説ではありません。また百歩譲って西郷がその意思でも、朝鮮との交渉がうまくいかず最悪、西郷が負傷したり殺されるようなことにでもなれば、世論は沸騰し、岩倉らが恐れたように確実に戦争になったでしょう。

*2:江藤はともかく西郷については乱を起こすつもりなどなかったが、私学校生徒ら西郷支持者が暴走したため、人情家の西郷として彼らを見捨てることが出来なかった、と言うイメージが時代劇などで私にはあるのですが実際どうだったんでしょう?。

*3:ウィキペディアに寄れば木戸は「征韓論に反対した我々が台湾に出兵するのは筋が通らない」として出兵に反対、一時下野しています。