「歴史評論」3月号(特集『近世村落史研究の現在』)の全体の内容については「歴史科学協議会」のサイトを参照ください。今回は特集論文がさっぱり分からないので一つしか取り上げていない。
http://wwwsoc.nii.ac.jp/rekihyo/
■「「近世村落史料学」を考える」(神谷智)
(内容要約)
・筆者は高木昭作(以下、敬称は全て略)の「近世史料学は、古代中世史料学に比べ立ち後れている」という考えを支持した上でその立ち後れを何とかすべきと主張している。
(高木は立ち後れの原因として「古代中世史料に比べ近世史料の量が膨大で質も多様なため史料の体系化が困難」「近世史料読解自体は古代中世史料に比べればやさしいため史料の体系化が不要と思いがちであること」をあげている)
■「鈴木貫太郎内閣期における国家意思形成システム構築の試み」(関口哲矢)
(内容要約)
・アジア・太平洋戦争の終結が遅れた理由として先行研究は「昭和天皇の強い戦争継続意思」「陸軍の強い戦争継続意思」「彼ら(天皇や陸軍)と下手に対立することによって終戦工作がぽしゃることを終戦派が恐れたこと」「終戦派の間での意見形成(どのようなシナリオで終戦するのか)が遅れたこと」をあげる。
そうした理解は間違いではないだろうが、一面的すぎるのではないか。
「鈴木貫太郎内閣期における国家意思形成システム構築の試み」について分析する必要があるように思われる。
鈴木は「最高戦争指導会議」*1が「首相がリーダーシップを取ることができない」「小田原評定の場」「腹芸の場」となっているという理解からそうした事態打開を模索したが、ついに解決することが出来なかった。
終戦工作が遅れたことは、強力な国家意思決定機関が存在しなかったことにも求められるべきではないか。
■「中世天皇論の位相:河内祥輔「日本中世の朝廷・幕府体制」を読む」(近藤成一)
(内容要約)
・河内「日本中世の朝廷・幕府体制」(2007年、吉川弘文館)の書評。
1)承久の乱評価
河内は「後鳥羽上皇には倒幕の意思はなく、摂家将軍を更迭し皇子将軍にかえ幕府を京都に移し、後鳥羽の膝下に置くことが目的であった」(筆者に寄れば上横手雅敬も同様の説)としている。
しかし、『源実朝暗殺後、最初に皇子将軍を言い出したのは幕府だが後鳥羽が拒絶したため摂家将軍となったこととの整合性をどう考えるのか』『挙兵の宣旨は「北条義時追討」を命じているが将軍の地位について何ら述べていないこと』と言う点で、将軍更迭を挙兵目的とする河内説には疑問がある。(ただし筆者は後鳥羽の挙兵理由について残念ながら自説を書いていない)
2)建武新政評価
建武新政について河内は後醍醐天皇は君主独裁をめざしたとは言えないとするがそのように理解するよりも「宋朝の君主独裁制を模倣した」と見る佐藤進一説*2の方がより適切である(筆者に寄れば村井章介も佐藤と同様の説)。
鎌倉幕府崩壊について「幕府が武士の要望に応えられなかったから」とする点では河内を支持するが「武士の要望」に「皇統分裂問題の解決」(大覚寺統と持明院統)を入れる点では同意できない。武士にとって「皇統分裂問題の解決」はそれほど大きな問題であったろうか?
(私の疑問:ちなみに大覚寺統≒後の南朝、持明院統≒後の北朝でいいのか?)
3)足利義満の皇位簒奪説
河内は今谷明の足利義満の皇位簒奪説*3を否定するとともに、義満以降と以前で朝幕関係に大きな変化はないとする。
今谷説の否定には同意するが、義満以降と以前で朝幕関係に大きな変化はないとする理解には賛同できない。義満以降は明白に幕府の方が朝廷を政治的に圧倒したと見るべきである。
4)おわり
河内説については佐藤進一が黒田俊雄の権門体制論について批判した言葉「黒田氏の権門体制論は京都の朝廷側の論理でありむしろ願望である」を思い起こさせる(佐藤の黒田批判の是非については筆者は特に触れていない)。
河内説は朝廷側の論理を重視するがあまり「河内説は京都の朝廷側の論理でありむしろ願望である」になってはいないか(と筆者は言いたいらしい)
【追記】
1)承久の乱については読んでもよく分からないのだが
我が九条「承久の乱の原因2−承久の乱と源氏」(http://d.hatena.ne.jp/Wallerstein/20100712)を参考までに紹介。
2)私の近藤説紹介と多分かぶってる
Living, Loving, Thinking
「足利義満と朝廷(メモ)」(http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110211)
「「建武の新政」(メモ)」(http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100806/1281068970)
「皇子将軍」など」(http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100802/1280773809)も紹介。
というか、近藤成一「中世日本王権的分裂與統合」をより平易にしたものが歴史評論掲載文であろうか?
3)ググったら私同様近藤論文を取り上げたエントリが見つかったので紹介。
Internet Zone::WordPressでBlog生活「日本史研究者には、またまた必読論文」
http://ratio.sakura.ne.jp/archives/2011/02/16210406/
■紹介「目で見る学校法人日本医科大学130年史」(2009年、日本医科大学)(平井雄一郎)
(内容要約)
筆者は光田健輔(長島愛生園初代園長。日本のハンセン病政策の暗部を象徴する人物と言われる。光田批判者として近年、再評価されているのが小笠原登である。)が日本医科大学(ただし光田の時代は済世学舎)OBでありながら全くこの冊子から欠落していることを光田が今や厳しい批判にあっているからとは言えいくら何でも酷いのではないか(光田を取り上げた上で批判すべき)と批判している。
なお日本医科大学(済世学舎時代など日本医科大学という名でなかった時代を含む)出身の著名人としては、他に荻野吟子(日本の近代的女医第一号と言われる)、野口英世、丸山千里(後に日本医科大学学長、丸山ワクチン*4で知られる)、吉岡彌生(東京女子医科大学創設者)などがいる(ウィキペ「日本医科大学」参照)。
■紹介:是澤博昭「青い目の人形と近代日本」(2010年、世織書房)(小檜山ルイ)
(内容要約)
要約は無能な私には出来なかったので、ウィキペ「青い目の人形」を紹介しておく。(なお筆者は是澤本の使用史料がほぼ日本語限定のため、アメリカ側の動向が充分捉えられていないとしている)
ウィキペ「青い目の人形」
日露戦争(1905年)後に日本が満州権益を得ると、中国進出をうかがっていた米国とその権益を巡り、両国間の政治的緊張が高まっていた(注:1924年にはいわゆる排日移民法が成立している)。そんな中、1927年(昭和2年)3月に文化的にその緊張を和らげようと、米国人宣教師のシドニー・ギューリック博士が提唱して行われた親善活動で、米国から日本郵船の天洋丸で日本の子供に12,739体の「青い目の人形」が贈られた。そして、その返礼として、渋沢栄一を中心に答礼人形と呼ばれる市松人形58体が同年11月に日本から米国に贈られた。
日本に贈られた「青い目の人形」だが、太平洋戦争中は敵国にかかわるものとしてその多くが焼却処分された。しかし、処分を忍びなく思った人々が人形を隠し、戦後に学校等で発見された。現存する人形は2010年現在、323体。