・詳しくは歴史科学協議会のホームページ(http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/)をご覧ください。小生がなんとか紹介できるもののみ紹介していきます。まあ正直、俺にとって内容が十分には理解できず、いい加減な紹介しか出来ない部分が多いですが。
特集『日本中世史研究と社会貢献』
【まず総論的に私見】
「歴史学など趣味に過ぎない、何の実益があるのか」つう風潮に対する危機感は分かりますが、個人的に「歴史研究って社会貢献のためにすべきなんかいなあ」つう気はします。特に「近現代史研究」ならまだしも、「中世史研究」なんて直接に役立つなんてケースはそうはないんじゃないか。
まあ、■中世史研究と地域貢献(中司健一)、■地域博物館の展示と調査・研究:和歌山県立博物館の地域展から(坂本亮太) が論じている「町おこし、観光」つうケースはあるでしょう。ただ「歴史学の目的それ自体」は「町おこし、観光」ではない。
あと、■現代社会の中世史研究(高橋修)のように「後世の歴史粉飾(例:長篠合戦鉄砲三段撃ち、桶狭間合戦奇襲説、宇佐美定満(定行)の虚像)を暴く」的なことは「社会貢献」かもしれませんが、これまた歴史学の役割もそれに限定されませんしねえ。
■中世災害研究の現代的意義と活用の可能性:東大寺領播磨国大部荘の水害と早魃(赤松秀亮)も「中世災害研究が現在の防災に役立つかもしれない」という「可能性の提示」にとどまっていますし。
なお、■現代社会の中世史研究(高橋修)について、お断りしておきますが小生も「川中島合戦での信玄と謙信の一騎打ち」のような虚構は嫌いではありません。
忠臣蔵も「樅の木は残った(忠臣としての原田甲斐)」も「真田十勇士(猿飛佐助、霧隠才蔵、根津甚八*1など)」「水戸黄門」「遠山の金さん」「大岡政談」「鬼平犯科帳」「三国志演義」も嫌いではない*2。むしろ好きなのですが、「少なくともそれは事実ではない」ので「事実と混同してはいけない」わけです。
「鬼平犯科帳」の火付盗賊改・長谷川平蔵は、実在の長谷川とは違うわけです。
■現代社会の中世史研究(高橋修*3)
(内容紹介)
現代的視点で中世史研究をすること 、あるいは中世史研究の成果を現代に生かすことがいくつかの事例を元に論じられています。
1)長篠合戦「鉄砲三段撃ち」の虚構性
これについては最近は割と一般向け書籍やテレビなどでも最近は取り上げられます。またウィキペディア「長篠の戦い」でも記載があるのでご存じの方も多いでしょうが、いわゆる長篠合戦「鉄砲三段撃ち」については「後世の創作である」という見解が強まっています。
参考
■長篠の戦い(ウィキペディア参照)
「鉄砲三段撃ち」は有名な逸話であるが、現在では「後世の創作」と見なされ、実在は疑問視されている。信長の右筆・太田牛一の『信長公記』では鉄砲奉行5人に指揮を取らせたとだけ書いてあり、具体的な戦法、つまり三段撃ちを行ったという記述はなく、最初の記述は江戸期に出版された通俗小説に見られる。それを、明治期の陸軍が教科書に史実として記載したことから、一気に「三段撃ち」説が広まったものとされる(これは「大日本戦史」として1942年に出版されている)。
■参考
・鈴木眞哉*4『鉄砲隊と騎馬軍団:真説・長篠合戦』(2003年、洋泉社歴史新書y)
・藤本正行*5『長篠の戦い』 (2010年、洋泉社歴史新書y)
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190108-00001839-allreview-life
本書は、戦国末期の日本史研究について、重要な問題をいくつも提起する書物である。1575年の長篠合戦は、織田信長・徳川家康連合軍三万人が、武田勝頼軍一万五千人を破った戦いだ。織田軍は鉄砲三千挺(ちょう)を交代交代「三段撃ち」し、圧倒的火力で武田軍の騎馬隊を破った、というのが「通説」だった。
ところが、近年、在野の研究者もまじえて、これに疑義を唱える研究が多数出て、大方、支持を得ていた。(1)織田軍の鉄砲は三千挺でなく千挺である。(2)鉄砲「三段撃ち」は、信ぴょう性が低い小瀬甫庵(おぜほあん)(1564~1640年)の『甫庵信長記(ほあんしんちょうき)』等の記述を、明治に参謀本部編『日本戦史・長篠役』がひろめたもの。(3)武田軍に騎馬だけで編成された騎馬隊などなかった。(4)日本の在来馬は馬体が小さく騎馬突撃は無理、下馬して戦闘した――という説も出た。
本書は、この通説否定を、さらに否定する書物である。(1)織田信長研究の基本文献・太田牛一『信長記』の近年の写本調査から織田軍の鉄砲は三千挺あった可能性が高いとし、(2)の「三段撃ち」についても長篠合戦図屏風(びょうぶ)をみても二列射撃(斉射)はあると指摘。「鉄砲三段」は鉄砲隊三列の交代斉射でなく、単に三か所に配置したことを意味するが、「三段撃ち」は完全に虚構ではない。久芳崇『東アジアの兵器革命』(2010年)など、最近の研究によれば、秀吉の朝鮮出兵の日本軍が輪番射撃をし、明(みん)軍がその技術を習得したことが明らかにされてきている。三列射撃の図は、明の『軍器図説』(1638年)にもあるという。
さらに(3)武田に騎馬隊はなかったとするのも早計だという本書の論説は、戦国大名の軍隊編成についての最新研究をふまえたもので傾聴に値する。
本書の著者である平山優氏*6は、勇敢である。これからこの平山説が精査をうけていくことになろう。
まあ、こういう当たりが歴史学の面白さであり難しさでもあるわけです。ただし現在の通説は「三段撃ち否定」と見ていいでしょう(高橋論文も「三段撃ち否定」の立場です)。
2)桶狭間合戦「奇襲説」への批判
これまたご存じの方も多いでしょうが桶狭間合戦について最近では「結果的に奇襲となり、今川義元が死亡したのに過ぎず、当初から義元を討つために奇襲を仕掛けたわけではない」とする見解が有力化しています(藤本正行『桶狭間・信長の「奇襲神話」は嘘だった』(2008年、洋泉社歴史新書y)、『桶狭間の戦い』(2010年、洋泉社歴史新書y)など)。
なお、奇襲説が通説化したのも「鉄砲三段撃ち」と同様、日本陸軍が史実として扱ったからというのが一般的見解です。
欧米各国(日露戦争でのロシア、太平洋戦争での米国)に比べ軍事力に劣った日本陸軍は「桶狭間合戦」を「軍事的に劣勢でも奇襲で挽回できる好例」として宣伝したい動機があったわけです*7。また「後で歴史から教訓を学ぶということ | 考える四季 | 連載 | Webマガジン「考える人」 | 新潮社を紹介しますが」真珠湾攻撃が当時「桶狭間合戦」を例に説明されたことは有名な話です(なお、「真珠湾攻撃なんて話が脱線してる」と思う方もいるでしょうが高橋論文自体がこの事実を指摘していますので実は今回は脱線していません)。
もちろんこうした「奇襲で勝てる説」がどれほど、「無謀な太平洋戦争に突入していった背景」であるかは評価が難しいですが。「ドイツとの軍事同盟」と「第二次大戦開戦直後のドイツの快進撃」が日本の太平洋戦争開戦決定においてはかなり大きいだろうと思います。
参考
歴史から教訓を学ぶということ | 考える四季 | 連載 | Webマガジン「考える人」 | 新潮社 呉座勇一*8
巷には「戦国武将に学ぶ」的なビジネス本があふれている。今年*9のNHK大河ドラマ『軍師官兵衛』に便乗した「黒田官兵衛の知略に学ぶビジネス処世術」といった企画も新聞・雑誌等に散見される。
歴史小説から学ぼうとする人も多い。最近、現役政治家*10が「私たちの生き方にヒントをもたらす歴史本」をランキング形式で紹介している記事をインターネット上で見かけたが、上位は司馬遼太郎の小説*11で占められていた。人生のヒントを得るためにミステリ小説やSF小説を読む人はまずいないだろう。しかし歴史小説においては、「勉強」目的の「意識が高い」読者が一定数存在するのである。
私は歴史研究者の端くれとして、この種の「戦国武将から人生の指針を得る」式の読み物に若干の懸念を抱いている。戦国時代と現代とでは社会状況も価値観もまるで違うとか、そういう野暮なことを言いたいわけではない。それ以前に、「教訓」として紹介されている事例が「史実(歴史的事実)」でないことが多いのだ。
漫画から人生哲学を学ぼうという書籍*12が出版される御時世なのだから、そんなに目くじらを立てなくてもいいじゃないか、という意見があるかもしれない。だが、スラムダンクやワンピースがフィクションであることは誰もが知っている。良くできた物語と分かった上で、そこから人生訓を学んでいるのである。
歴史に学ぶビジネス本の問題は、往々にして書き手も読み手も、フィクションを史実と誤解している点にある。歴史小説を読んで歴史を勉強した気になるぐらいなら、「歴史なんか勉強して何の意味があるわけ?」と思っていた方がまだマシだ。
太平洋戦争開戦直前、聯合艦隊司令長官の山本五十六*13は、海軍大臣の嶋田繁太郎*14に書簡を送っている。山本はその中で「艦隊担当者としては到底尋常一様の作戦にては見込み立たず。 結局、桶狭間*15とひよどり越と川中島とを併せ行ふの已むを得ざる羽目に追込まれる次第に御座候」と述べ、博打的として海軍内で反対意見が強かった*16真珠湾攻撃作戦への同意を嶋田に求めている。
周知のように山本五十六は、日米の戦力差から日本に勝算なしと捉え、戦争回避を望んでいた。だが日米関係の悪化にともない、国策の転換は困難と考えるようになり、開戦劈頭、航空兵力によって米海軍の本営に斬り込むという真珠湾作戦にのめりこんでいった。その際、奇襲作戦の成功例として思い浮かべたのが、桶狭間・一ノ谷・川中島*17であった。
だが今では、これらの合戦に関する評価は大転換*18している。まず桶狭間合戦である。軍事史家の藤本正行氏によれば、桶狭間合戦で織田信長が今川勢の先鋒を迂回して今川義元の本陣に奇襲をかけて撃破したという逸話は、江戸初期の儒学者・小瀬甫庵の創作であるという。
源義経が鵯越とよばれる峻険な崖を馬で駆け下りて一ノ谷の平氏本陣を奇襲したという「鵯越の逆落とし」も、軍記物語『平家物語』が生み出した虚像である。近年の中世文学研究に従えば、現実の鵯越は一ノ谷と離れており、また険しい崖でもない。鵯越を通ったのは、源義経ではなく多田行綱だという。行綱が奮戦したのは事実のようだが、それが源氏方の決定的勝因とは言えない。
第四次川中島合戦において、上杉謙信が自ら武田信玄の本陣に斬り込みをかけたという話も、『甲陽軍鑑*19』など軍記物にしか見えず、信憑性に欠ける。結局、三つの合戦で、戦力の劣る側*20が敵本営に斬り込んで一挙に勝敗を決するという奇襲作戦が敢行された事実はないのだ。だが華々しい奇襲が小説や講談で喧伝される中で、人々はそれを史実と誤認した。そして日本軍もその例外ではなかった。
俗に「歴史にifはない」と言うが、桶狭間も一ノ谷も川中島も巧妙な奇襲戦ではないと仮に山本五十六が知っていたとしたら、対米開戦に賛成しただろうか*21。
偽りの史実からは間違った教訓しか導けない*22。それこそが、私たちが歴史から学ぶべき教訓ではないだろうか。
まあ、呉座の問題意識も高橋論文に近いものといえるでしょう。
とはいえ「何が間違いか真実か」の判断は時として難しい*23し、そんなこと言ってたら何も出来ないのも事実ですが。まあ「戦国時代の武将の名言」だの「幕末明治の政治家の発言」だのを一部の政治家や財界人が振り回すのはバカバカしいと思いますけどね。時代が今とまるで違うので。
ちなみにこうした「鵯越」「川中島合戦」「桶狭間合戦」云々と言った「中世、近世の戦争を使った軍事作戦の説明」は何も山本五十六だけがやってるわけではありません。
クイズひまつぶし
問題97
「旧軍部が太平洋戦争の早期開戦を天皇に認めてもらうために持ち出した前例は?」
(回答)
過去の卒業生1万人中3,000人以上が東大に進学したという信じ難い記録を持つカトリック系の完全中高一貫進学校、栄光学園の中高生17人に対する加藤陽子東大教授の講義の内容をまとめた『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(新潮文庫、第9回小林秀雄賞*24受賞)によれば、太平洋戦争に関する講義を始める前に教授から「太平洋戦争について疑問に思っていることは?」と聞かれた中高生達は、(1)日米では圧倒的な戦力差があるのに、なぜ真珠湾に奇襲攻撃をしかけたのか、(2)日本軍は最終的に何を目的として戦争を始めたのか、という2つの非常に的確な質問をしたそうです。すごいですね。
日米開戦時の米国の国民総生産(GNP)は日本の12倍、鋼材生産量は17倍、自動車保有台数は160倍、石油生産量は721倍と圧倒的な差がありました。こういう相手に奇襲攻撃を仕掛けるというのは正気の沙汰[さた]とは思えません。加藤教授も「少なくとも(敗戦後東大総長になった政治学者の)南原繁*25[なんばらしげる]のような知識人にとって開戦が正気の沙汰ではなかったと認識されていたのは確かです」と書かれています*26。
狂気の軍部が御前会議(戦前の大日本帝国憲法では開戦、終戦などの重要事項の決定は天皇が行うことと定められていて、重要事項決定のための会議は天皇が臨席するため御前会議と呼ばれていました)などで天皇を説得して早期の開戦を承認してもらうための根拠として持ち出した前例は、(a. 日露戦争中の1905年に日本海軍の連合艦隊が周到な作戦と準備によってロシアのバルチック艦隊を打ち破った「日本海海戦」、b. 平安時代の1184年に源平合戦で源義経が平氏軍陣営の裏手の急斜面を駆け下りて奇襲攻撃をかけることによって平氏軍は海上に退散することになった「一ノ谷の戦い」、c. 江戸時代初期の1614年12月に徳川家康が大坂城(「おおさか」は明治以前には阝[こざとへん]ではなく土[つちへん]を使って大坂と書かれていたそうです)に陣取る豊臣秀吉を攻めたあとの和平交渉で、平和となったのだから大坂城の堅固な石垣やお濠(ほり)は必要がないのではないかという徳川家康の提案を豊臣家が受け入れて改修したため、半年後の「大坂夏の陣」で大坂城を攻めた徳川家康に豊臣家が滅ぼされることになった「大坂冬の陣」、d. 室町(戦国)時代末期の1560年に大軍を率いる今川義元の本陣を10分の1ほどの軍勢を擁するにすぎなかった織田信長が急襲し、見事に勝利した「桶狭間[おけはざま]の戦い」)でした
http://www.asahi-net.or.jp/~pb6m-ogr/ans097.html
・大坂冬の陣の話は真珠湾攻撃(1941年12月8日)の3カ月前の9月6日の御前会議で、その3日前の9月3日に陸海軍統帥部(空軍という組織はなく、空軍力は陸海軍に分散されていました)が共同で策定し、実質的に(ボーガス注:太平洋戦争)開戦を決定した「帝国国策遂行要領」を昭和天皇が一字の修正もなく裁可(承認)した際に、永野修身*27[ながの・おさみ]軍令部総長(元帥[げんすい]、海軍大将、帝国海軍の作戦策定、命令の責任者)が持ち出した話のようです。
開戦の決断を下したのは、「なにがなんでも戦争しろといっているのではないが、(ボーガス注:アメリカにだまされて)大坂冬の陣の翌年の夏、大坂夏の陣が起こったときに、もう絶対に勝てないような状態に置かれて(ボーガス注:徳川氏に)騙[だま]されてしまった豊臣氏のようになっては日本の将来のためにならない」という主旨の永野軍令部総長の発言に天皇が強い印象を受けたためだったようです(加藤陽子*28『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』401ページ、以下『それでも』)。
真珠湾を奇襲攻撃して、停泊している主力戦艦を航空機による魚雷攻撃などで一網打尽[いちもうだじん]にするという作戦を思い付いたのは山本五十六[いそろく]連合艦隊司令長官だったようです。
「天皇に対して、この山本の作戦が説明され、承認を得たのは1941年11月15日でした。特に真珠湾攻撃に関しては「桶狭間の戦いにも比すべき」奇襲作戦であるとの説明がなされ、艦隊同士の主力決戦になっても「十分なる勝算」があり、持久戦になっても「海上交通線の保護は可能」だから、対米武力戦は可能だとされたのです。大坂冬の陣にしろ、桶狭間の戦いにしろ、昭和天皇がこのような史実を用いた講談調の説得に実の所、弱いとみた海軍側の智恵であったのかも知れません」(『それでも』437-438ページ)。
(中略)
最後に加藤教授の講義の前の中高生の疑問にお答えすることにします。
(1)日米で圧倒的に戦力差があるのに、なぜ奇襲攻撃をかけたか。
日本軍は第一次大戦以降、戦争というのは、国の総力(経済力、情報力、科学、工学の水準など)をかけて行うようになったということを十分認識していなかったため、小手先の手段で勝てるという甘い見通しを立ててしまったことが根本原因だと思います。
(2)日本軍は最終的に何を目的にして戦争を始めたのか。
日本が中国から撤退しないことを理由に米国が石油などの禁輸を実施したため、中国から撤退する気のない日本は、東南アジア全域を支配して石油などの資源を調達しようとして、いちかばちかの大ばくちに出たということだと思います。
戦争の目的と関連して、開戦時の首相だった東条英機*29が考えていた戦争を終結させるための計画(「対米英蘭将(蘭はオランダ、蒋とは蒋介石、つまり中国のこと)戦争終末促進に関する腹案」)の内容を『それでも』(402ページ)から引用させていただきます。
「すでに戦争をしていたドイツとソ連の間を日本が仲介*30して独ソ和平を実現させ、ソ連との戦争を中止したドイツの戦力を対イギリス戦に集中させることで、まずはイギリスを屈服させることができる。イギリスが屈服すれば、アメリカの継戦への意欲が薄れるだろうから、戦争は終わる」
これについて加藤教授は「(ボーガス注:実現もしていない日本仲介による独ソ和平を実現したことにしたあげく、その結果、ドイツは英国攻撃に専念し、英国がドイツに降参すると決めつけ(まだ降参していないのに?)、そうなれば日独伊ソ連四国同盟に米国は降伏するしかないという日本に都合のいい仮定に仮定を重ねた)他力本願の極致」と表現されていますが、この腹案の引用部分の見通しはすべて外れました。こんなめちゃくちゃな楽観的空想(というか、今となってみればほとんど妄想と思えます)の背景には、旧軍部*31の情報力、理性的判断力の欠如と、日本はすばらしい神の国であると信じるという狂信性があったと思います。こうした正気の沙汰とは思えない戦争を肯定する安倍晋三*32首相や日本会議のような組織が、日本は美しい国だなどとうそぶいて、ばかなことを繰り返さないようにしっかりと監視していく必要があると思います(2017年8月11日記述)。
ということで永野軍令部総長もやっています。なお、このブログ記事でも分かるように「後世の我々から見ればその太平洋戦争の見通しはとてつもなく甘い物」でしたが昭和天皇はこうした「持久戦に持ち込むことが可能」「最悪でも米国相手に引き分けに出来る」「アメリカにだまされて、徳川氏にだまされた豊臣氏の様に滅亡するくらいならこちらから開戦すべきだ」という海軍の説明によって開戦を決意しました。彼は決して「渋々開戦した」わけではありません。昭和天皇独白録の言い訳は完全な嘘です。
しかし「真珠湾攻撃は鵯越と川中島と桶狭間をあわせたような作戦(時代が全然違うでしょ?)」「大坂夏の陣の二の舞ではいけない(むしろ開戦したら日本が滅ぶと思うが?)」「日本の独ソ和平仲介で、ソ連を枢軸国に引き込むと同時に、ドイツが英国を降伏させれば米国にも勝てる(どうやって和平を仲介するの?、つうか和平仲介が失敗した時点でシナリオが全然変わってくるじゃん?)」もそうですが
https://twitter.com/mas__yamazaki/status/1138770023135059974
山崎雅弘*33
・山崎『戦前回帰』でも紹介した有名な話だが、日本政府は太平洋戦争を始める前、軍部と官庁の若手エリートを集めて「総力戦研究所」というシンクタンクを作り、アメリカと戦争した場合にどうなるかを軍事面だけでなく経済面等も含めて多角的に研究させた。真珠湾攻撃の約三か月前に秘密裏に報告された結論は「日本の敗北」。「最初の数年間は日本が優勢を確保できるとしても、短期決戦で終結させられる見込みは薄く、長期戦となれば日本の国力が急速に疲弊し、最終的には敗北するので、対米戦は行うべきでない」という、その後の対米戦をほぼ正確に予見する内容だった。ところが数か月後に首相となる当時陸相だった東條英機は「日露戦争で日本が勝てるとは誰も思わなかった。戦争では予想外のことが勝敗を左右する。諸君の研究はそうした不確定要素を考慮していない」との理由で結論への同意を拒んだ上、「この結果は口外してはならない」と釘を刺した。今また安倍政権が似たことをしている。
つうことで太平洋戦争開戦て「何で東条英機ら政府中枢ってこんなにバカなの?」という呆れる話しか出てこないんですよね。
【参考:甲陽軍鑑について】
甲陽軍鑑について – 戦国史研究の窓
武田氏研究にとって、『甲陽軍鑑』はさまざまな意味で欠かせない史料でしょう。最近の研究では、見直し論が高まっているようです。詳細は、下記の論文を参照されるとよいでしょう。
黒田日出男*34
「『甲陽軍鑑』をめぐる研究史:『甲陽軍鑑』の史料論(1)」(『立正大学文学部論叢』124号、2006年)
「桶狭間の戦いと『甲陽軍鑑』:『甲陽軍鑑』の史料論(2)」(『立正史学』100号、2006年)
「戦国合戦の時間論:『甲陽軍鑑』の史料論(3)」(佐藤和彦*35編『中世の内乱と社会』東京堂出版、2007年)
「『甲陽軍艦』の古文書学:『甲陽軍鑑』の史料論(4)」(『武田氏研究』38号、2008年)
「戦国の使者と『甲陽軍鑑』(上):『甲陽軍鑑』の史料論(5)」(『立正大学文学部研究紀要』24、2008年)
『甲陽軍鑑』は、年月日の誤りや記事を裏付ける古文書が無いなどから、事実を確定する作業には不向きな史料であり、そのことから信用のおけない偽書とされてきました。その偽書論をふまえながらも、部分的には使えそうな所を探しながら利用されてきました。
上記の黒田論文は、このことを痛烈に批判し、高坂弾正の覚書きという『甲陽軍鑑』の性格をふまえた利用が必要であるとして、あらたな方法論の開発をするべきだということを提起しています。
その提起の背景には、酒井憲二編『甲陽軍鑑大成』に結実した酒井氏の一連の研究があります。
『甲陽軍鑑大成』第1巻 甲陽軍鑑大成 本文篇 1(1994年)
『甲陽軍鑑大成』第2巻 甲陽軍鑑大成 本文篇 2(1994年)
『甲陽軍鑑大成』第3巻 甲陽軍鑑大成 索引篇 (1994年)
『甲陽軍鑑大成』第4巻 甲陽軍鑑大成 研究篇 『甲陽軍艦』の成立と資料性(1995年)
『甲陽軍鑑大成』第5巻 甲陽軍鑑大成 影印篇 上(1997年)
『甲陽軍鑑大成』第6巻 甲陽軍鑑大成 影印篇 中(1997年)
『甲陽軍鑑大成』第7巻 甲陽軍鑑大成 影印篇 下(1998年)
※いずれも汲古書院刊。
■酒井憲二編著『甲陽軍鑑校注』序冊(勉誠出版、2013年)
『甲陽軍鑑』の最善本とされる「三井家旧蔵土井忠生本」に校訂、註を付したもの。残念ながら酒井氏は2012年に逝去されました。
この『甲陽軍鑑大成』により、『甲陽軍鑑』は中世後期の口語り的要素を残した文体として貴重な国語学史料とされ、拠るべき底本も確定されたのです。
【井上あさひ】武田信玄と高坂弾正 | 歴史秘話ヒストリア | 関西ブログ
今夜は、武田信玄を知る手がかりとなる史料「甲陽軍鑑(こうようぐんかん)」の秘話をお伝えしました。偽書とみなされていたところから180度評価が変わり、むしろ新事実を伝える重要な書物であることがわかるという、とてもドラマチックな展開でした。
■甲陽軍鑑(ウィキペディア参照)
『甲陽軍鑑』(以後『軍鑑』と略記)の成立は、『軍鑑』によれば天正3年(1575年)5月から天正5年(1577年)で、天正14年(1586年)5月の日付で終っている。甲陽軍鑑の成立時期は武田家重臣が数多く戦死した長篠の戦いの直前にあたり、『軍鑑』に拠れば信玄・勝頼期の武田家臣である高坂弾正昌信(春日虎綱、以後「虎綱」と記述する)が武田家の行く末を危惧し、虎綱の甥である春日惣次郎らが虎綱の口述を書き継いだという体裁になっており、勝頼や勝頼側近に対しての「諫言の書」として献本されたものであるとしている。
虎綱は天正6年に死亡するが、春日惣次郎は武田氏滅亡後、天正13年に亡命先の佐渡島において没するまで執筆を引き継いでいる。翌天正14年にはこの原本を虎綱の部下であった「小幡下野守」が入手し、後補と署名を添えているが、この「小幡下野守」は武田氏滅亡後に上杉家に仕えた小幡光盛*36あるいはその実子であると考えられており、小幡家に伝来した原本が近世に刊行されたものであると考えられている。
さらに、これを武田家の足軽大将であった小幡昌盛*37の子景憲*38が入手しさらに手を加えて成立したものと考えられており、『軍鑑』の原本は存在していないが、元和7年の小幡景憲写本本が最古写本として残されている。『軍鑑』は、近世には武家のみならず庶民の間でも流布する一方、江戸時代から合戦記述の誤りなどが指摘されていた。明治時代以降は実証主義歴史学が主流となり、実証性が重視される近代歴史学においては『太平記』『太閤記』などと同様に、基礎的事実や年代の誤りから歴史研究の史料としての価値が否定され、景憲が虎綱の名を借りて偽作したものであると見なされるようになった。代表的な論文は、1891年(明治24年)には田中義成「甲陽軍鑑考」『史学会雑誌』(14号、史学雑誌)である。この論文において、田中は文書や記録資料との比較から大きな誤りが多いと指摘し、甲陽軍鑑は高坂弾正(春日虎綱)の著作ではなく江戸初期に小幡景憲が武田遺臣の取材をもとに記した記録物語であるとした。
■酒井憲二の研究による見直しと再評価
国語学者の酒井憲二は1990年代から『軍鑑』に関する検討を行い、軍鑑の研究水準を大きく引き上げたとされる。
酒井の研究の主要な結論を以下にまとめる。
・『軍鑑』の文章は、息の長い一センテンス文、類語の積み重ねによる重層表現、新興語、老人語(古語)、俗語、甲斐・信濃の方言や庶民が使用する「げれつことば」など、室町末期の口語り的要素を色濃く残している。このような文章を、小幡景憲の世代が真似て書くことはできないと思われる。一部粉飾があったとしても、景憲の役割は、写本の作成者であって、従来の通説のような編纂者や著者では有り得ない。
・幾多の合戦を信玄と共にした虎綱ならば犯すはずのない誤りが少なくないと言われるが、「存じ出だし次第書するにつき、年号、よろづ不同にして、前後みだりに候とも」(巻一末尾)、「人の雑談にて書き写し候へば、定めて相違なる事ばかり多きは必定ばれ共」(巻五)などの自ら断っている通りであって、史料として限界があるのは当然である。特に口述筆記という史料の性格上、年月に記憶の錯誤があるのは必然である(誰しも10年、20年前の出来事の日時を正確に語るのは難しい)。むしろ、その誤謬が何故起こったのかを考察すべきで、誤謬があるからといって『軍鑑』の価値を下げることはできない。
この酒井の国学的研究を嚆矢に、平山優、小和田哲男*39、黒田日出男*40らが実証的研究の立場から『軍鑑』を再評価した。『軍鑑』を厳しく評価する笹本正治*41も、武家故実や戦国人の習俗などの記述については史実を伝えていると判断を下している。
また、近代以降の『軍鑑』の価値を決定づけた田中論文にも批判的検討が加えられた。田中論文は、書誌学的・文献学的手続きが不十分で、今日の学問的水準からすれば説得力ある考証・論証とは言いがたく、そもそもこの論文は田中が30歳の若い時に記した5ページ強の小論に過ぎない。田中が指摘した誤りも後の研究で克服されている。田中が指摘した誤りの一例に「長閑斎」問題がある。これは天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いの前日の日付に比定される「長閑斎」宛武田勝頼書状(「神田孝平氏旧蔵文書」)において、武田領国のうちのいずれかの城を守備を任されていた「長閑斎」が勝頼に飛脚を派遣した内容である。従来、この「長閑斎」は勝頼側近で長篠合戦において主戦論を主張した長坂光堅(釣閑斎)に比定され、1960年(昭和35年)には高柳光寿『長篠之役』において『甲陽軍鑑』の誤りを示す実例として指摘された。
これに対し、2009年(平成21年)には平山優が「長閑斎孝」『戦国史研究 第58号』において「長閑斎」は駿河久能城主の今福長閑斎(『軍鑑』では浄閑斎)に比定されることを指摘している。他の軍鑑収録文書も、多くは『戦国遺文 武田氏編』などに原本や良質な写しが確認できる。それ以外の文書も、幾つか検討を要する文章が含まれ日時や人物の官位などに誤りや改変が加えられてはいるものの、内容は史料批判すれば史料として使え、軍鑑の史料的価値が低い証拠には必ずしも成り得なくなっている。
3)高橋『【異説】もうひとつの川中島合戦』:宇佐美定満(定行)の虚像と実像
最後に高橋論文でも簡単に紹介されている高橋氏の著書『【異説】もうひとつの川中島合戦』(2007年、洋泉社歴史新書y)がなかなか面白そうなのでネット上の書評を紹介しておきます。
『誰が信長を殺したのか』と『【異説】もうひとつの川中島合戦』: 橋場の日次記(ひなみき)
『【異説】もうひとつの川中島合戦』(高橋修、洋泉社新書y)。
武田信玄と上杉謙信といえば馬上の謙信が振り下ろす太刀を床几に腰掛けたまま軍配で受け止める信玄、という図柄が一般的な印象の川中島合戦(第四次)に対し、本書が取り上げる和歌山県立博物館蔵の「川中島合戦図屏風」は両雄が川の中で双方馬上太刀を交わし合っているのは何故か、というところからその構図の元ネタとなった偽書「川中島五箇度合戦記」に話を移し、それを創作したという(ボーガス注:上杉謙信の重臣・宇佐美定満の子孫を自称する越後流軍学者)宇佐美定祐という人物と、彼を軍学者として召し抱えた紀伊徳川頼宣の狙いを考える、という内容だそうで。
定祐とその父・勝興の山師のような、スケールが大きいんだか小さいんだかわからない生き様は面白いし、表向き徳川幕府公認となった武田氏の甲州軍学にも傾倒していながら、上杉流の越後軍学を標榜する定祐らを「飼って」いた頼宣の屈折した思考や感情も興味深いものがあります。
武田氏関係の本について – 戦国史研究の窓
■高橋修『異説 もうひとつの川中島合戦 紀州本「川中島合戦図屏風」の発見』(洋泉社、2007年)
「異説」なんて付いていると、トンデモ本かと思いがちですが、内容はいたってまじめです。著者は、戦国合戦図屏風について第一人者といってよい存在です。越後流軍学の祖宇佐美定祐について、かなりのことが分かります。宇佐美は、紀州藩に抱えられた軍学者です。紀州の殿様徳川頼宣は、将軍家への対抗心を異常に持ち、将軍家が採用した甲州流軍学に対して越後流軍学を奨励するために、宇佐美にさまざまな理論武装を仕立てさせます。その一つが「川中島合戦図屏風」であるそうです。
徳川頼宣と言えばご存じの方もいるでしょうが、時代劇、時代小説では「由井正雪の乱」の黒幕として描かれる御仁ですね(例:山田風太郎「魔界転生」)。
まあ、それはフィクションですが、このブログ記事を信じればやはり「徳川将軍家に対する鬱屈した感情」はあったのでしょうね。
そしてそんな「徳川宗家に鬱屈した感情を持つ」頼宣に「徳川宗家の甲州流軍学より私が講じる紀州藩の越後流軍学の方が上だ!」と媚びると共に、「先祖・宇佐美定行(定満)の偉大さをたたえる」ために「自称・宇佐美定行(定満)の子孫」宇佐美定祐は歴史捏造にいそしんだわけです(そもそも子孫だという主張自体が家系図捏造のようですが)。そういう意味では高橋本は「川中島合戦それ自体」にスポットライトをあててるわけではありません。
まあ宇佐美定満(定行)といえば、海音寺潮五郎『天と地と』では上杉謙信を支える天才軍師*42として登場しますし、NHK大河『天と地と』(1969年、原作はもちろん海音寺)では宇野重吉が、NHK大河『風林火山』(2007年)では緒形拳がやっています。しかし、最近は「上杉の重臣」つうと宇佐美より、NHK大河『天地人』(2009年)で妻夫木聡が演じた直江兼続の方が有名かなあという気はします(宇佐美は謙信時代で、直江は景勝時代で時代が違いますが)。ウィキペディア「宇佐美定満」を読めば「宇佐美が時代劇などで取り上げられなくなった」その理由は「後世の創作があまりにも多すぎることがわかってきたから(謙信に重用されたかどうかすら怪しい)」と簡単に分かりますが、もちろん「謙信に重用されたかどうかすら疑わしい」宇佐美とは違い、景勝に重用されたことが確実な資料で証明できる直江にしても、歴史小説の記述は虚実ごちゃ混ぜですからうかつに信じるとまずいことになります。
それにしても、海音寺も、司馬遼太郎(『竜馬がゆく』(坂本龍馬)、『燃えよ剣』(新選組)、『功名が辻』(山内一豊)、『翔ぶが如く』(大久保と西郷)など)や池波正太郎(『鬼平犯科帳』(長谷川平蔵)など)など他の歴史小説家、時代小説家に比べると最近ではあまり読まれない気がします。
参考
■天と地と(ウィキペディア参照)
NHKが1969年1月5日 ~12月28日に放送した7作目の大河ドラマ。原作は海音寺潮五郎の同名小説。大河ドラマ初のカラー作品。なお本作が縁となり、主演の石坂と原作者の海音寺との間で親交が深まり、石坂が浅丘ルリ子と1971年に結婚する際には、海音寺夫妻が媒酌人をつとめた。
■キャスト
■上杉謙信(石坂浩二)
■長尾為景(滝沢修)
謙信の父。
■宇佐美定行(宇野重吉)
謙信の軍師。越後上杉家を蔑ろにする為景と対立していたが、為景の死後は景虎を支援し、兵法や軍略などを伝授する。
■乃美(樫山文枝)
宇佐美定行の末娘。謙信のことを弟のように思っている。謙信とは口論することも多かったが実際には互いのことを意識しあっていた。物語中盤からは病気がちとなり、吐血することもあった。そのような中、謙信は「元気になったら妻にする」と約束。しかし、その願いもむなしく、川中島の合戦の最中に、謙信を案じながら息を引き取る。その死は謙信に衝撃を与えた。
■武田信玄(高橋幸治)
■風林火山(ウィキペディア参照)
2007年1月7日から12月16日まで放送された46作目のNHK大河ドラマ。原作は、2007年に生誕百周年となる小説家・井上靖*43が1950年代初頭に執筆した同名小説『風林火山』で、井上作品の大河ドラマ化は初めて。武田信玄(晴信)の軍師・山本勘助の生涯を描く。原作は勘助の武田家仕官から始まるが、本作は前半生にあたる放浪時代からスタートし、序盤は農民の娘・ミツとの悲恋など、オリジナルの展開となった。
■キャスト
■山本勘助(内野聖陽)
主人公。川中島の決戦では啄木鳥戦法を献策するも上杉軍に見破られ、自ら出陣して単騎で上杉謙信の首を狙うも果たせず壮絶な討ち死にを遂げた。
■武田信玄(市川亀治郎)
■上杉謙信(Gackt)
■宇佐美定満(緒形拳)
越後守護・上杉家の家臣。琵琶島城主。謙信の父が存命中に対立した越後守護・上杉定実側に付いていたことで長尾家とは対立していた。しかし、謙信が、越後国主の器と見るやこれに仕えることを決意し、軍師として迎えられる。勘助に劣らぬ謀略家であり、川中島の決戦では勘助の策を見抜いて妻女山を下山、車懸りの陣で武田軍の本隊を窮地に追い込む。
■宇佐美定満(ウィキペディア参照)
戦国時代の武将。越後守護上杉家の重臣を務めた。ここでは軍記物に上杉謙信の軍師として登場する宇佐美定行(宇佐美定満がモデル)についてもふれる。
■定満の琵琶島城在城について
寛永20年(1643年)成立の『北越軍記』は定行を琵琶島城主としている。しかし定満の父房忠の琵琶島在城については万里集九の詩文集「梅花無尽蔵」の記述によって裏付けられるものの、それ以降の宇佐美氏と琵琶島城の関係を明確に示した史料は現在確認されない。
■宇佐美定行の実像
『北越軍記』によると、琵琶島城城主・宇佐美定行は、兄・長尾晴景から命を狙われ栃尾城へ逃げ込んだ上杉謙信(当時は長尾景虎)に招かれて彼の軍師となり、挙兵を躊躇する謙信を説得して兄への挙兵を決意させる。米山合戦における定行の活躍などもあって晴景は敗死し、天文17年(1548年)謙信は上杉家当主の座につく。天文23年(1554年)8月の川中島合戦では謙信の窮地を救う活躍をし、その後、謙信に従って関東に出兵して、永禄5年(1562年)、厩橋城を北条氏邦の攻撃から守り切るも、嫡男定勝を失う。そして永禄7年(1564年)、定行は謙信への叛意を抱く長尾政景を暗殺するため政景を野尻湖へ舟遊びに誘い、舟底の栓を抜いたうえで、政景もろとも湖底に沈んだとされる。
しかし、『北越軍記』が語る定行の事跡は一次史料からは確認されない。高橋修は『北越軍記』の記述とは異なり、定満は謙信に重用されず宇佐美家は没落したとみる。
■「軍師・宇佐美定行」の創出
定行の活躍を伝える『北越軍記』の作者は、紀州藩・初代藩主徳川頼宣*44に仕え、越後流軍学を講じた軍学者宇佐美定祐(自称・宇佐美定行の子孫)と考えられる。そして定祐の父・宇佐美勝興は、宇佐美家に伝わる系譜類によれば、定行の孫とされる人物である。勝興の述べるところに寄れば、彼は尾張藩主・徳川義直に仕官したが、喧嘩の仲裁結果が義直の意に沿わなかったため尾張を出た。その後、水戸藩主徳川頼房に400石で召し抱えられたが、讒言によって水戸を去り、徳川頼宣の許に至った。
一方、小幡景憲門下の軍学者・小早川能久*45の記した『翁物語後集』によると、宇佐美勝興は越後三条藩主・稲垣重綱に仕えた料理人の子であり、のちに重綱の右筆となって、当時編集作業中であった『甲陽軍鑑』の筆写を任されるが、無断で作成した『甲陽軍鑑』の副本を持ち出して出奔。駿河を経て、尾張藩初代藩主・徳川義直*46の許にいたが、足軽の女房に手を出したのを咎められて尾張を逃げ出し、その後、水戸を立ち退いてからは行方知れずになった、とする。水戸を去った経緯については、米沢藩主・上杉景勝が旧臣の家系を抱えることを望み、確認のためかつて謙信に仕えていた高家旗本・畠山義春に問い合わせたところ、定満は子を残さず没したことが判明。まとまりかけていた仕官の話は立ち消えとなり、勝興は紀州へと去った、とする記録もある。なお、代々、宇佐美家には、宇佐美定行の軍功に対して出された上杉謙信による感状が伝えられてきたが、これら書状群は偽文書の可能性が高い。
これらの点から、宇佐美定行(定満)とは実際には血縁関係の無い勝興・定祐の父子は、系譜・書状の偽作や『北越軍記』等の軍記物の執筆によって、名軍師・宇佐美定行を創出するとともに、その定行を祖とする越後流軍学を引き継ぐ宇佐美家の子孫という由緒を手に入れ、紀州藩お抱えの軍学者になったと推測される。
■参考
・高橋修 『【異説】もうひとつの川中島合戦: 紀州本「川中島合戦図屏風」の発見』(2007年、洋泉社歴史新書y)
ウィキペディアの記述が正しいならば、どうみても宇佐美定祐は詐欺師でしかないわけです。サイコパスとでも呼ぶべきでしょうか。
宇佐美の話を現代にこじつければ
1)現代日本でも「小保方晴子(STAP細胞捏造)」「佐村河内守(自称・全聾の作曲家)」などこの種の怪人はときたま現れます。
2)「神武天皇陵捏造」「張作霖暗殺・ソ連陰謀論」「南京事件否定論」「河野談話否定論」などのような歴史捏造は昔からされていたのです(産経への皮肉のつもり)
とはいえるかもしれません。
緒形拳と「大河ドラマ」 | NHK名作選(動画他)
・緒形拳さんが2008年10月5日、突然この世を去った。緒形さんといえば、1965(昭和40)年、27歳で大河ドラマ『太閤記』の主役・秀吉に抜擢されて一躍人気となり、2007年の『風林火山』まで9作品に出演。どの作品でも抜群の存在感を示していた。今回は、緒形拳さんが大河ドラマに残した足跡をたどってみよう。
(中略)
■『風林火山』~Gackt“謙信”を支える知的な老軍師
・2007(平成19)年放送(緒形拳70歳)。
緒形拳の大河ドラマの出演は(ボーガス注:出雲守護・尼子経久を演じた)『毛利元就』以来10年ぶり。そして、最後の大河となった。
演じる宇佐美定満は上杉謙信(Gackt)の軍師であり、武田信玄(市川亀治郎)の軍師である主役の山本勘助(内野聖陽)と“軍師対決”を繰り広げる知的な老将として、8月から登場した。緒形は宇佐美のキャラクターについて「力と力が拮抗した戦国時代の中でのインテリジェンス、知的な老将」ととらえ、「武将にあるまじき優しさみたいなものが目に宿るといいな」と語っている。越後に潜入してきた山本勘助と腹のうちを探り合いながら「ふふふ」と笑って酒を飲むシーンは、まさにそんな宇佐美の懐の深さを見事に表現していた。
実在の宇佐美がどうかに関係なく、緒形拳の名演技を見て感動するのは別に問題はないだろうと思います。NHK大河「樅の木は残った」の原田甲斐(平幹二朗)なんかも事実とは全く異なりますしね。まあ、そういうことを分かった上で「平幹二朗の熱演」にこちらは感動してるわけですし。
■小島弥太郎(ウィキペディア参照)
上杉氏の家臣。『絵本甲越軍記』では、上杉謙信の幼少期から側近として仕え、強力無双の豪傑で「鬼小島」と恐れられたとされているが、上杉氏の軍役帳や名簿に記載されておらず、実在したかどうかを疑われている。上杉家中には小島姓を名乗る人物が多く存在するため、そこから創作したとする説もある。
しかし、彼に関する伝説は多く、室町幕府将軍・足利義輝の飼う大猿を懲らしめたり(ただし同様の逸話は太田道灌にもある)、甲斐武田氏に使者した際に襲い掛かってきた猛犬を打ち負かしたり、武田の家臣・山県昌景が弥太郎との一騎討ちの最中、武田信玄の嫡男・義信が窮地に陥るのを見て、弥太郎に「主君の御曹司の窮地を救いたい為、勝負を預けたい」と願い出たところ、弥太郎が快諾したことに恩義を感じ、川中島の戦いの際に弥太郎の事を「花も実もある勇士」と賞賛したなど、多彩な逸話が残されている。
ということでまあ軍記物はウソが多いわけです。まあ小生も割とこの種の「浪花節」話は好きな方ですが「繰り返しますが」事実とフィクションをごちゃごちゃにしてはいけないわけです。
【参考:海音寺潮五郎について】
話がかなり脱線していますが「上杉謙信と軍師・宇佐美定満を有名にした人気作家」ということで紹介しておきます。
海音寺潮五郎の逸話:武田信玄を調べていたら上杉謙信の魅力に気づいた
海音寺潮五郎さんの史伝文学を代表するのは、何といっても『武将列伝』です。この『武将列伝』で記述されている人物は、悪源太義平以外は全て編集者が人選したもので、海音寺潮五郎さんの人選ではありません。
◆何回目かの執筆注文として、編集者から「武田信玄」が示されました。注文に沿って武田信玄の事績を調べ、連載を始めた海音寺潮五郎さんでしたが、ぼくは史料を読み、熟視し、考察して、書いたが、その過程でいやでも上杉謙信に触れる。ぼくは当面書いている信玄より、こちらの方に引きつけられ、書きたい気持ちが湧然として動いた。
(『日本の名匠』「高士上杉謙信」より)ということで、武田信玄よりも上杉謙信の持つ魅力に引きつけられたそうなのです。
◆海音寺潮五郎さんは、編集者に「上杉謙信」という注文を持ってきて欲しかったのか、『武将列伝』での「武田信玄」は、信玄のは努力して大才になった人の戦ぶりであり、謙信のは生まれながらの天才の戦ぶりである。(『武将列伝』「武田信玄」より)
という一文で最後を締めくくっており、上杉謙信のことを強調しているかのようです。
しかし、このメッセージに秘めた思いは編集者に届くことなく、『武将列伝』の中で上杉謙信を書く機会は、ついに訪れませんでした。
◆『天と地と』はこうして生まれた
◆それから数年が過ぎた頃、当時、『週刊朝日』の編集長をしていた田中利一氏が、連載小説の仕事を海音寺潮五郎さんのもとに持ってきました。田中氏は期待する作品像として、「主人公は誰でもよい。仮想の人物でもよい。従っていつの時代でもよい。人間の生長して行く過程を書いてもらいたいことだけが条件だ」
(『日本の名匠』「高士上杉謙信」より)と述べたそうで、このとき海音寺潮五郎さんの脳裏には、とっさに上杉謙信のことが浮かんだのだそうです。
◆その場での即答は避け、熟慮した後、やはり上杉謙信を主人公とすることを決意するに至った理由を、海音寺潮五郎さんは以下のように説明しています。甲越両雄の争闘は日本歴史上の大偉観だ。川中島合戦といえば、今はどうか知らないが、ぼくらの少年時代までは知らない者はいないくらいで、古来幾多の文学になっている。しかし、そのほとんど全部が信玄側から書かれたもので、謙信側から書かれたものは、かなり濫読家であるぼくも読んだことがない。これも意欲をそそった。作家には多少なり冒険家や開拓者の根性がある。人の踏みひらいた道は行きたくない、人の開拓した野は耕したくないという気持ち。
「いずれは史伝で書くつもりでいた謙信だ。この際、小説で書くのもよかろう」
(『日本の名匠』「高士上杉謙信」より)こうして執筆されることになったのが、こちらも海音寺文学の代表作である『天と地と』なのです。この作品が上杉謙信の幼少期を多く描いているのは、上述した「人間の生長して行く過程を書いてもらいたい」という編集者からの注文が理由としてあったからなのです。
◆『天と地と』は人気を博し、NHK大河ドラマの原作として採用されました。ドラマの方も好評で、結果として原作の『天と地と』もその年(昭和44年)のベストセラーになって多くの読者を獲得するという好循環が生まれました。
これによって多くの日本人の心の中に、魅力ある上杉謙信像を植え付けるにいたったのです。
◆しかし、『天と地と』は作者の期待以上に、あまりにも売れすぎてしまったため、海音寺潮五郎さんは少し複雑な心境も述べています。ぼくがひそかに憂えていることがあります。後世、「天と地と」の作家としてだけ伝わりはしないかということ*47です。アハハ、アハハ。
(『海音寺潮五郎全集 第17巻』「あとがき」より)まぁ、これは作家としては贅沢すぎる悩みだといっていいでしょうね。
海音寺文学の紹介:NHK大河ドラマ原作、『平将門』、『海と風と虹と』
原作・海音寺潮五郎として放映されたNHK大河ドラマは過去2作品ありますが、実はその原作は3作品からなっているという、少しおかしな状態にあります。一つは昭和44年の「天と地と」でこれは文字通り『天と地と』が原作、昨年(2007年)放送されていた「風林火山」と同じ時代・舞台を題材としたものです。
もう一つが昭和51年の「風と雲と虹と」ですが、こちらは『平将門』と『海と風と虹と』の2作品を原作としています。当然ご存じの方も多いと思いますが、『風と雲と虹と』という名前の海音寺潮五郎さんの作品はありません。
ご多分に漏れず、という表現は少し残念なのですが、『海と風と虹と』も絶版で今では簡単には入手できません。私の地元では図書館にすら蔵書がなく、作品の存在は知っていながら、久しく読む機会に恵まれませんでした。
◆ドラマはメインの主人公が平将門*48、サブの主人公(主人公なのにサブというのも変ですが)が藤原純友*49で、二人とも海音寺潮五郎さんの『悪人列伝(古代篇)』に収録されてる人物です。特に藤原純友については、『悪人列伝』収録の「藤原純友」が先にあって、それを執筆しているうちに、作者である海音寺潮五郎さんの中で「藤原純友の事績を小説化したい」という思いが募り、それを具現化する形で書かれたのが『海と風と虹と』であるという関係になっています。
海音寺潮五郎の逸話:大長編史伝『西郷隆盛』の完成にかけた情熱
◆「海音寺潮五郎」という作家をよく知らない人から、「どんな作品があるの?」と聞かれた場合、私は『天と地と』と回答することにしています。上杉謙信という誰もが知っている戦国武将が主人公であること、現在も文庫版を販売中であること、以前(ボーガス注:NHK大河ドラマ化や)映画化もされているため知名度もある程度有していると思っているからです。
しかし、「代表作は?」と聞かれると、これは『西郷隆盛』と答えるしかありません。海音寺潮五郎さんが人生の多くの時間をこの大長編史伝の完成に向けてつぎ込んだことは、よく知られている通りです。
◆大長編史伝『西郷隆盛*50』
海音寺潮五郎さんが「今後、新聞・マスコミからの依頼は一切受けない!」という「引退宣言」を行ってまで完成を目指したのがこの作品です。朝日新聞社から単行本として全9巻、文庫本の場合は全14巻が出版されており、海音寺潮五郎さんの絶筆になった「西郷隆盛」というのは、通常はこの作品を指します。
この作品では江戸城開城の後、上野で起こった彰義隊戦争までが執筆されていますが、海音寺潮五郎さんの死と共にここで途絶しました。
◆海音寺潮五郎さんがなぜこれほどまでに西郷隆盛の史伝執筆にこだわったのか?。それにはいろいろな理由があります。海音寺潮五郎さんは鹿児島県の出身、というよりも薩摩の出身といった方が適当ですが、氏が子供の頃には西南戦争のことを覚えている故老の方々が多く存命だったそうです。そして、海音寺潮五郎さんはその人々から西郷隆盛のこと、西南戦争のことを聞いて育ちました。つまり薩摩出身の海音寺潮五郎さんにとって、西郷隆盛は最も身近に存在した英雄だったのです。それでありながらなお、海音寺潮五郎さんによれば、既存の西郷隆盛伝には本当に信頼できるものが一つも存在しないというのです。
◆また、こんな逸話も残っています。西郷隆盛伝の執筆に関わる時間と作業があまりにも膨大なため、海音寺潮五郎さんは一時期、挫折気味になっていました。そんなときふと、「西郷伝のつづきは、司馬くんに書いてもらおうかと思っている」と、冗談めかしく、愛弟子ともいえる司馬遼太郎さんの名前を出したことがあるそうです。私が海音寺潮五郎さんのご親族に伺った話では、さすがの海音寺さんも、西郷隆盛に取り組み続けて飽きがきていた時期があったそうで、この発言もそんなときのことだったのかもしれません。
このように海音寺潮五郎さんが期待している司馬遼太郎さんが、西郷隆盛の登場する小説の新聞連載を開始しました。『翔ぶが如く』です。
◆海音寺潮五郎さんは連載を読むために購読する新聞を変更し、毎日、司馬さんの小説を楽しんでいました。ところが、あるとき知人に対して、『僕が天才と認める司馬くんでさえ、真の西郷隆盛を描けていない。やはり、西郷のことは僕が書くしかない。』と述べ、決意もあらたに長編史伝『西郷隆盛』の完成に向けて専念したとのことです。これは文芸評論家の磯貝勝太郎氏が述べている話ですが、海音寺潮五郎さんの西郷隆盛に対する深い思い入れと、自らが有する西郷隆盛論への自信がうかがえる話だと思います。
海音寺潮五郎の逸話:国民的大作家・司馬遼太郎 誕生秘話
◆司馬遼太郎さんは第42回直木賞で『梟の城』が受賞作となります。実はこの選考会議の場で、司馬さんの受賞に強く反対した委員がいました。当時の大作家・吉川英治*51です。
そのときの様子を文芸評論家・磯貝勝太郎さん*52の『司馬遼太郎の風音*53』から適宜引用しつつ紹介してみましょう。昭和三十五年一月、『梟の城』を読んだ海音寺は、忍者のあやかしの世界と奇怪な行動を描いている文章には読者を興奮させ、酔わせるものがあると感じ、直木賞にもっともふさわしい作品だという自信をもって、選考会に出席した。選考がはじまると、意外なことに選者吉川英治が反対した。その記録は残っていないので、理由は不明である。
(磯貝勝太郎『司馬遼太郎の風音』より)◆この直木賞選考会で第1回のときから選考委員を務めてるのが吉川英治、文壇でも大物中の大物です。吉川の反対によって他の委員は沈黙してしまいます。司馬さんの直木賞受賞には強烈な逆風が吹いていました。
◆その状況を打開すべく口火を切ったのが海音寺潮五郎さんです。だが、その時のことを回想した海音寺は、つぎのように書いている。
「"どうして先生がこの作品をお気に召さないのか、ぼくにはわかりませんなあ。この人の作風はお若い頃の先生を髣髴とさせますよ"/とぼくが言うと、"だから、いやなんだ"と言った。その気持ちはわからないではなかったから、ぼくは苦笑して黙った。吉川氏はなおこう言った。/"この人は才気がありすぎる。歴史の勉強が不足だ。もっと歴史を勉強しなければ"。/ぼくは心中、/(先生よりたしかですよ。勉強しているだけでなく、自分のものにしていますよ)/と思ったが、それを言うわけには行かない。いろいろとねばったが、落ちるのではないかとはらはらした。しかし、吉川氏以外には買っている人が多かったので、ついに当選ときまった。いろいろな雑誌の小説の選者をしたり、直木賞の選者になってから十年にもなると思うが、こんなにうれしかったことはない」(海音寺潮五郎「司馬君との初見参」『三友』第六十号)
(磯貝勝太郎『司馬遼太郎の風音』より)海音寺潮五郎さん以外の委員も『梟の城』を受賞作にふさわしいと考え、それなりの発言をしたことが伺われますが、これらのやり取りからすると、やはり海音寺さんが司馬さんの直木賞受賞を決定づけたと言えると思います。
こうした経緯もあって、海音寺さんと司馬さんは進行を深め、親子のような歳の差*54でありながら親友同士のような付き合いを続けたそうです。双方の家族が会して旅行をするようなこともあったそうですから、その中の良さが推し量られますね。
既にお二人とも故人ですが、今なお司馬さんが高い知名度と人気を維持しているのに比べて、海音寺さんの知名度低下は深刻なものがあります。今回紹介したエピソードを通じて、司馬ファンの方々にはぜひ海音寺さんの作品にも興味を持って欲しいと思っています。
海音寺潮五郎の逸話:司馬遼太郎『ペルシャの幻術師』講談倶楽部賞を受賞
◆『梟の城』で直木賞候補になった時には、既に司馬さんの実力は広く認められており、海音寺さんも含めて多くの選考委員がこの作品を推したそうですが、そこに立ちはだかったのが当時の大御所・吉川英治氏です。
何しろ吉川氏は海音寺さんが直木賞を受賞した当時から選考委員を務めていますからその大御所ぶりも分かりそうなものですが、一人だけ司馬さんの受賞に反対だったそうです。 今度は反対者を説得する側に回った海音寺さんですが、何とか吉川氏を説き伏せ、司馬さんの受賞にこぎ着けたそうです。
ちなみに、吉川英治氏が反対に回った理由として、司馬さんの作風が「若い頃の吉川英治に似ている」と評されたからだという話もあります。
◆他にも、山本周五郎氏*55(この方も当時のビッグネームですが)が司馬遼太郎さんの作品を読んでいないと聞きつけた海音寺潮五郎さんは、何とか司馬さんのことを認めさせようと司馬作品をいくつか山本周五郎氏のところに送りつけた、などといった逸話も残っており、海音寺さんがいかに司馬さんを早い時期から高く評価していたかが分かると思います。
海音寺潮五郎の逸話:直木賞選考で池波正太郎を厳しく評価
◆人間には相性というものがあり、不思議なほど気の合う相手がいれば、逆にどうにもそりの合わない相手というのもいるもので、けっして長くない私の人生でもそういう両面の出会いが多々ありましたし、みなさんも同様だと思います。そして、海音寺潮五郎さんが見いだし、優秀な弟子(言葉の厳密な定義はおくとして)として成長した司馬遼太郎さんは、海音寺さんにとって相性の良い相手だったに違いありませんし、その一方で、海音寺さんとは全くそりの合わなかった人も少なくなかっただろうと想像します。そんな典型例が、池波正太郎氏です。
◆海音寺潮五郎さんは直木賞の選考委員を長く務めており、その間に司馬遼太郎さんも、池波正太郎氏もこの賞を受賞しています。海音寺潮五郎さんが司馬遼太郎さんの才能を高く評価したことは別途このサイトに掲載している通りですが、逆に池波正太郎氏の才能を全く評価しない点で海音寺潮五郎さんの態度は徹底しており、第3者ながらも、その酷評ぶりは池波正太郎氏に対してつい同情を寄せてしまうほどです。
◆そして、第43回で池波氏はついに直木賞を受賞(受賞作品「錯乱」)するに至るのですが、これに対する海音寺潮五郎さんの批判は徹底しています。僕は全然買わなかった。ひとりこの作者のものの中だけでなく、一般の標準に照らしても、出来のよいものとは思われなかった。
「こんな作品が候補作となったのすら、僕には意外だ」とまで極言した。
この人にやりたいという人が多かったので、ぼくは棄権することにした。
今のところ、ぼくはこの人の小説家としての才能を買っていない。ぼくを見返すようなしごとをして下さい。(海音寺潮五郎記念館誌 第23号より)となっています。歯に衣着せぬ物言いは海音寺さんの持ち味ではありますが、ここまでくると、言われた相手の方も深刻な恨みを抱くかもしれませんね。
◆世間一般には、池波正太郎氏は一流作家として認められ、多くの作品が出版され、数多くの読者を楽しませた(これは現在進行形だと思いますが)のは歴とした事実ですが、それが海音寺潮五郎さんのいう(中略)海音寺さんを見返す仕事ができたからなのかについては、判断材料がないので今の私では結論を出せません。
ともかくも、小説観の合わない海音寺潮五郎さんと池波正太郎氏ですが、現在出版されている作品の数だけで比較すれば、(ボーガス注:『鬼平犯科帳』『剣客商売』『仕掛人・藤枝梅安』『真田太平記』などの)池波正太郎氏の方が多いだろうことを思うと、何度か言及している「活動時期の違い*56」はあるにせよ、海音寺潮五郎ファンとしては皮肉な感じがします。
■海音寺潮五郎(1901~1977年、ウィキペディア参照)
■西郷隆盛への思い入れ
海音寺は西郷隆盛が登場する作品を多数執筆している。この理由として海音寺が語っているところによれば、西郷は明治維新最大の功臣でありながら、後世の歴史家に誤解されている面が多々あり、その歪んだ西郷像が歴史知識として一般に定着してしまうことを避けるために、真の西郷像を書こうとしたとのことである。
これは歴史作家としての使命感からの執筆理由であるが、その背後にある感情として、西郷は海音寺の故郷である薩摩(鹿児島県)の英雄であり、幼い頃から西郷隆盛や薩摩藩士の話に親しんだ海音寺は「西郷のことが好きで好きでたまらないから」であり、また自身にとって〈西郷の足跡と西南戦争〉をたとえていうなら、「西洋人にとってのホメロスでありイリアッドの如きものである」とも述べ、いかに根本的なものであったかを強調している。
■引退宣言の発表
海音寺は1969年(昭和44年)4月1日、「今後、一切、新聞・雑誌からの仕事は受けない」という旨の引退宣言を『毎日新聞』紙上で発表して、世間を驚愕させた。あたかもこの年、1月からNHK大河ドラマとして海音寺の作品を原作とする『天と地と』の放送が開始されており、その影響もあって著作がベストセラーとなっていた最中の、まさに人気絶頂での引退表明であった。原作発表から既に10年近くが経過しているなかで、マスコミの力を借りなければ作品が読まれない状況に不満を抱いての引退宣言であるとの見方が一般的であった。
しかし、後に海音寺自身が心境を語ったところによると、この宣言の数年前から「引退の念、しきりなるものがあった」と告白しており、親しい知人には前もってその意図を告げてもいた。海音寺が挙げている引退宣言の理由は、自分自身の人生に限りがあることを意識した上で、長編史伝『西郷隆盛』の完成に向けた執筆活動に注力するためであり、この目標を達成の後、なお時間があれば買い置いてある二十四史*57と資治通鑑*58を読みながら余生を送りたいとのことであった。
このように明確な目的意識をもっての引退宣言であり、その後の執筆活動の多くは海音寺が最も重要視する長編史伝『西郷隆盛』の完成のために費やされたようであるが、結局はこれも1977年に海音寺が急逝したことで未完となってしまった。
■著書
・『西郷と大久保と久光』(朝日文庫)
・『大化の改新』(河出文庫)
・『江戸開城』、『西郷と大久保』、『平将門 (上・中・下)』 (以上、新潮文庫)
・『史伝 西郷隆盛』、『天と地と(上・中・下)』、『武将列伝 源平篇』、『武将列伝 戦国揺籃篇』、『武将列伝 戦国爛熟篇』、『武将列伝 戦国終末篇』、『武将列伝 江戸篇』(以上、文春文庫) など
■研究資源の生成・活用をめぐって (井上聡)
研究資料(歴史資料)のデジタル化(デジタルアーカイブ化)が論じられています。昔は「歴史資料の保存および普及」は「書籍化」が一般的でしたが、今やデジタル化して、画像でホームページにアップすることが出来るし「デジタル化にかかる手間と費用」「保存形式の陳腐化の問題(『VHSがDVDやLDに変わったり、ベータがなくなったり』『フロッピーディスクが廃れたり』『計算ソフト・ロータス123*59が廃れたり』したような話。つまりいったんデジタル化しても、その方式がなくなってしまうと別の方式に再度変換する必要が出てきます)」をひとまずおけばその方が「保存と普及に便利」だし、「電子検索の簡便さ」というメリットも出てくるわけです。
ただし、それって「勿論意義あること」とはいえ「中世史研究の社会貢献」つうテーマからは少しずれてる気が個人的にはします。デジタル化それ自体は社会貢献ではないし、デジタル化も「歴史学一般の課題」であり中世史限定でもないわけです。
【参考:資料デジタル化について(必ずしも中世史に限らない)】
資料デジタル化について|国立国会図書館―National Diet Library
国立国会図書館は、資料の利用と保存の両立を図ることを目的に、所蔵資料の媒体変換を実施してきました。従来はマイクロフィルムやマイクロフィッシュでの撮影が中心でしたが、平成21年度以降の媒体変換は、原則としてデジタル化により実施します。
(1) 資料保存の観点
紙質あるいは頻繁な利用により、資料の劣化損傷状況が著しい、又は、劣化損傷の大幅な進行が予想される資料については、媒体変換を行うことにより、代替物を作成、提供し、利用による原資料の劣化損傷を防止します。
(2) 電子図書館サービスの観点
資料のデジタル化の実施により、資料閲覧における利便性の向上を図ります。著作権処理が終了したものは、デジタル化した資料をインターネットで提供し、利用者がどこにいても、来館者と同様のサービスが受けられるようにします。
よくあるご質問:資料のデジタル化|国立国会図書館―National Diet Library
Q
紙の資料をデジタル化するのはなぜですか?
A
国立国会図書館は、膨大な紙媒体の資料を所蔵しています。これらについて順次デジタル化を実施し、著作権処理を行って、著作権保護期間が満了したもの、著作権者の許諾を得たもの及び文化庁長官の裁定を受けたもののうち、インターネット公開可能なものはインターネットで提供しています。また、インターネットで公開していない資料のうち、絶版等の理由で入手困難な資料については、全国の公共図書館、大学図書館等の館内で利用できる「図書館向けデジタル化資料送信サービス」で提供しています。
紙の資料をデジタル化する利点として、利用による汚損・破損等を防ぐことができる点があげられます。また、インターネット公開や図書館向けデジタル化資料送信サービスが可能となることにより、国立国会図書館に直接足を運ぶことなく閲覧できることも大きな利点です。このように、保存と利用の両面から、紙の資料のデジタル化が有効な手段であるといえます。
貴重資料デジタル化プロジェクトへのご支援を募集します | 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ
京都大学が所蔵する貴重な古典籍資料のデジタル化・公開を進めるため、「京都大学貴重資料デジタルアーカイブ基金」を設置しました。
長い年月を経て脆くなった資料は、誰もがいつでも手にすることが難しいのが実情です。しかし、デジタル化してインターネット上で見ることができれば、みなさんのご家庭でもそこにしるされた先人の叡智を知ることができるのです。とはいえ、公開するまでには、資料の傷んだ部分を修復したり、細心の注意を払いながらデジタル撮影したり、大変な手間と費用が必要になるため、まだまだ多くの貴重な資料が書庫の中で眠っています。
本基金では、京都大学が所蔵する貴重な古典籍資料のデジタル化を進め、「京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」で公開します。
この趣旨をご理解、ご支援くださいますよう、お願い申し上げます。
https://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20190530/CK2019053002000060.html
豊橋市図書館は六月一日、デジタル化した所蔵資料を集めた「とよはしアーカイブ」をインターネット上で無料公開する。郷土図書や和装本のほか、地図、写真など千八件もの資料がそろい、なかには通常非公開となっている市指定文化財の吉田城絵図も。絵図と現在の地図を重ねて見られるしかけもあり、目的に応じ幅広く活用できそうだ。
見どころは、市内の古地図とウェブ上の地図「グーグルマップ」を重ね合わせられるサービス。古地図は江戸時代の吉田城絵図と、一九四四(昭和十九)年の市街地図の二種類がある。地図上に閲覧者の現在地を表示させる仕組みもあり、街歩きに最適だ。
■中世災害研究の現代的意義と活用の可能性:東大寺領播磨国大部荘の水害と早魃(赤松秀亮)
(内容紹介)
中世の災害研究が「現在の災害予防にいかせるのではないか」という可能性の提示に残念ながらとどまっています。
素人考えですが「中世(一般には鎌倉時代から秀吉の天下統一がされる前の戦国時代までを指す)と現代」ではあまりにも時代がかけ離れてますからねえ。「近世(秀吉政権および江戸時代)」「近現代(明治以降)」ならともかく「中世で水害や地震があったから現在でも同じ場所で起こる」とは言えないでしょう。果たして直接的な形で役立つかどうか。
■中世史研究と地域貢献(中司健一)
(内容紹介)
筆者は島根県益田市教育委員会で文化財行政(文化財を利用した観光行政を含む)に携わっており、自らが関わった企画(益田市を本拠にした国人領主・益田氏についての企画)について説明している。ただし筆者に寄れば「益田氏が毛利に従い益田を去ったこと」で益田市内においても必ずしも益田氏の知名度が高くないという悩みがあるとのこと。ネット上の記事紹介で代替。
「祝い膳」試食会:戦国時代の料理再現 来年2月「歴食サミット」も開催 益田「中世の食」有志団体 /島根 - 毎日新聞
益田の国人領主、益田藤兼・元祥(もとよし)父子が16世紀、戦国大名の毛利元就を接待した「祝い膳」を再現した料理の試食会が、益田家の菩提(ぼだい)寺でもある万福寺(益田市東町)であった。市内の食品製造業者らの有志でつくる「益田『中世の食』再現プロジェクト」が主催し、市民ら24人が味わった。来年2月には市内で、食のイベント「歴食JAPANサミット益田大会」が開催される。
■益田氏(ウィキペディア参照)
初代は藤原忠平の子孫、石見守藤原国兼といわれる。永久2年(1114年)、国兼は石見に赴任するために下向。任期終了の永久6年(1118年)以降も石見に留まり続け、そのまま土着豪族化した。
観応の擾乱が勃発すると、益田氏は大内氏と共に中国探題であった足利直義方に付いた。その後直義方が劣勢になると大内氏は足利尊氏方に寝返り、益田氏もそれにならった。以後益田氏は大内氏の傘下として石見国人の筆頭の地位を築いた。
応仁の乱で益田兼堯・貞兼父子は大内政弘に従い石見で大内教幸や吉見信頼の反乱を鎮圧して石見の勢力を伸ばした。
天文20年(1551年)、大寧寺の変で大内義隆が陶晴賢ら重臣の謀反で討たれると、益田藤兼は晴賢に従った。しかし、天文24年(1555年)の厳島の戦いで晴賢が毛利元就に討ち取られると藤兼も翌弘治2年(1556年)に元就の次男・吉川元春に益田領へ攻め込まれ、翌3年(1557年)に降伏、以降は毛利氏に従属することとなった。子の元祥も引き続き毛利氏に仕えたが、関ヶ原の戦いで毛利氏は減封、元祥も石見益田(現在の島根県益田市)を離れて長門須佐(現在の山口県萩市)に移った。以後、益田氏は長州藩の永代家老として毛利氏に仕え、繁栄した。
幕末に禁門の変(蛤御門の変)で長州軍の指揮を執り、第一次長州征討の時に責任を取って切腹した家老・益田親施(ますだ・ちかのぶ)は元祥の子孫である。明治以降は男爵に叙爵された。
■地域博物館の展示と調査・研究:和歌山県立博物館の地域展から(坂本亮太)
(内容紹介)
筆者は和歌山県立博物館の学芸員であり自らが関わった企画について説明している。ネット上の記事紹介で代替。
紀南武士の活躍たどる 和歌山県立博物館で企画展 - 産経ニュース
・紀南地方で活躍した武士の歴史を、鎌倉時代から江戸時代にかけてたどる企画展「躍動する紀南武士-安宅(あたぎ)氏と小山氏」が、和歌山市吹上の県立博物館で開かれている。展示されている古文書のほとんどが初公開。同館では「西牟婁郡周辺の歴史の基礎となる資料。古文書で紀南の歴史の魅力を知ってもらえれば」としている。
・紀南地方でもっとも勢力を誇り、古座川流域と日置川流域を拠点に活動した小山氏や、日置川の下流域に勢力を誇った安宅氏の古文書などを中心に、4部構成で展示されている。
約60点の古文書は初公開で、約130点が展示されている。豊臣秀吉の弟、羽柴秀長が小山氏の領地を認定した古文書で、紀州攻めの後に領地が認定されたことがわかる古文書としては県内で唯一現存する「羽柴秀長知行宛行状」(同館所蔵)や、朝鮮出兵で熊野の武士が軍事物資の運搬にかかわっていたことを記した「高麗陣城米預状」(同館所蔵)も紹介されている。
また、古文書で使われるサインについても説明。古文書の署名代わりに使われる記号「花押」や、筆の柄の裏の部分を押しつけ、印鑑の役割を果たす「筆軸印」についても紹介。同館の坂本亮太学芸員は「紀南地方で活動した武士の歴史を古文書だけでこれほどたどることができるのは珍しい。時代の移り変わりや魅力を知っていただければ」と話している。
和歌山県立博物館で生誕900年特別展「西行 紀州に生まれ、紀州をめぐる」 - 和歌山経済新聞
和歌山県立博物館(和歌山市吹上1、TEL 073-436-8670)で10月13日、特別展「西行 紀州に生まれ、紀州をめぐる」が始まった。
平安時代の歌人として知られる西行の生誕900年を記念して企画した同展。西行にまつわる文化財やゆかりの地に残る文化財を一堂に集め、西行の業績と足跡をたどる。
展覧会では、彫像や絵画、歌集、絵巻物など西行にまつわる資料184件282点を展示する(前期・後期で入れ替えあり)。展示は、西行直筆の書や歌集から読み解く「西行の人物像」にはじまり、西行の一族・佐藤氏が暮らしたふるさとの地、出家後に約30年間過ごした高野山やその間に巡った紀伊半島の各地、高野山を離れたあと過ごした讃岐、伊勢、河内、死後に残された物語、と西行の生涯とゆかりの地を巡る。
学芸員の坂本亮太さんが展示品の解説を行い、参加者らは熱心に聞き入り、メモを取ったり質問したりしていた。
坂本さんは「『新古今和歌集』に最多の94首が載り、歌人として高く評価される西行だが、確かな史料は少なく謎や伝説に包まれた人物。西行に関する事実から伝説まで幅広く集め、人物像を掘り下げる展覧会は全国的にも珍しいと思う。西行の意外な一面を知ってもらいたい」と話す。「西行は同じ時代に生きた人たちに影響を与え、亡くなってすぐ伝説となるほどの文化人だった。展示を通して西行やゆかりの地に思いをはせてほしい」とも。
わかやま新報 » Blog Archive » 歌人・西行の人物像に迫る 生誕900年展
紀の川市に生まれ、平安時代末期に活躍した歌人・西行(1118~1190)の生誕900年を記念した特別展「西行―紀州に生まれ、紀州をめぐる―」が13日、和歌山県立博物館(和歌山市吹上)で始まった。国宝11件、重要文化財11件を含む282点を展示。同館の坂本亮太学芸員は「伝説によるものと確かな資料を併せて、西行の人物像に迫る初の展覧会。歌人としてだけでなく、武士として仕えたことや、ゆかりの地が県内にも多くあることを知ってもらいたい」と話している。
わかやま新報 » Blog Archive » 貴志川流域の文化財 県立博物館で企画展
貴志川流域に残された文化財から歴史や文化の魅力に迫る企画展「高野山麓の西端で―貴志川流域の文化財―」が7月7日まで、和歌山県立博物館(和歌山市吹上)で開かれている。
平安時代以降、貴志川は高野山の旧領の西境と認識され、貴志川流域には高野山と関わりの深い文化財や伝承が多く残されている。同展では、近年収蔵した貴志川ゆかりの文化財を通して地域の特徴について紹介。
見どころの一つは、紀の川市貴志川町北の丹生(たんじょう)神社に祭られている丹生(にう)明神像と高野明神像。紀北・泉南地域の村々の祭りで神事能を舞い、奉納した「貴志大夫」の家として有名な貴志川下流域の旧家・橋口家からは、翁面と鬼面、室町時代から昭和時代までの古文書類約500点の中から17点を初公開。併せて貴志川流域の文化として貴重な資料となる赤銅鳥頸太刀 銘真長(重要文化財)や、弘法大師像(紀美野町指定文化財)など、51件89点が展示されている。
初日の8日には学芸員による展示解説が行われ、多くの参加者の中には熱心にメモを取る姿が見られるなど、関心の高さをうかがわせた。兵庫県姫路市から訪れた男性は「橋口家からたくさんの古文書が残されていたことが分かり、大変興味深かった」と話した。
担当の坂本亮太主査学芸員は「一つの家でさまざまな古文書が残されているのも和歌山の特徴といえる。この地域に住んでいる方に足を運んでいただき、貴志川流域の文化を知ってもらえれば」と話している。
■追想「上杉さんの思い出とお詫び」(遠藤基郎*60)
(内容紹介)
2018年10月に死去された上杉和彦*61・明治大学教授への追悼文。
■書評:西村玲*62『近世仏教論』(2018年、法蔵館)(評者:芹口真結子*63)
(内容紹介)
ネット上の記事紹介で代替。
「仏教と近代」研究会 : 『近世仏教論』
2008年に『近世仏教思想の独創―僧侶普寂の思想と実践』(トランスビュー)という非常に優れた研究書が出版されました。江戸時代の仏教の実態と可能性を、思想史的な観点から問い直した意欲作です。日本仏教研究では(ボーガス注:法然、親鸞、日蓮、道元などと言ったいわゆる鎌倉新仏教が誕生した)中世に人が集まりやすく、最近では近代が盛り上がっていますが、近世はいまいち人気がない。そんななか、同書は近世仏教がいかに重要な研究対象となりうるのかを、学術的に堅実かつ、魅力的な文章で示してみせた、ほんとうに素晴らしい著作でした。
その本の著者である西村玲氏が、一昨年(2016年)に急逝されました。あまりにも突然のことで、関係者の動揺は激しく、その事実をどう受けとめていいのかわからない状況が、現在に至るまで続いています。ただ、これで今後の近世仏教に関する研究が、大幅に遅れることになったという事実だけは、確かなことかと思います。
今回紹介する本は、その西村氏が、おおよそ『近世仏教思想の独創』以降に専門誌や論集などに発表してきた文章を、氏の没後にとりまとめたものです。2000年代の後半から2010年代の前半にかけ、氏がいかに精力的な研究を進めていたのか、その実情を、本書に掲載された実に多様な論考の数々から知ることができます。
本書は、全6部から構成され、そこに計16本の論文が割り当てられています。加えて、氏の略歴と業績目録が掲載されます。
第Ⅰ部は総論、第Ⅱ部は中国の明末仏教と日本の近世仏教の関係、第Ⅲ部は近世のキリスト教(キリシタン)をめぐる問題、第Ⅳ部は法相などの教学の展開、第Ⅴ部は釈迦信仰の系譜や仏教的な宇宙観の変遷、第Ⅵ部は中村元*64論や、仏教思想のエコロジーへの応用などについての議論です。
全体として、もちろん近世仏教の話が中心ですが、その視野は中国や西洋(キリスト教)にも開かれており、他方で中世以来の教学や信仰の伝統も忘れておらず、さらには近現代の学問や社会に対する問題意識もしっかりと持っており、きわめて射程の広い学術書として構成されています。一方で、文章が非常に明快かつ、ときに美しい修辞が繰り出されるので、充実した読書経験が得られます。
前著『近世仏教思想の独創』からの展開としては、何より、近世仏教の中国(明末)仏教とのつながりに関する研究の進展が、最も目覚ましいところでしょう。
宋から禅が輸入された中世以来、中国語を得意とする禅僧たちは、日本と中国のあいだをよく行き来していました。とりわけ臨済宗の五山禅僧は、室町時代から幕府の外交に関与し、外交文書の作成を担いさえします。こうした風習は、近世初期まで継続され、たとえば崇伝は、江戸幕府の外交と行政の中枢で活躍しました。彼は、武家諸法度・禁中並公家諸法度・寺院諸法度を起草し、近世の文治政治を確立した立役者の一人です。
近世の禅僧と中国の結びつきは、このような政治的なレベルのみならず、もちろん宗教的な方面でも大きな意味を持っていました。たとえば、キリシタン批判の説法を行っていた日本の禅僧たちは、キリスト教の神を打倒するための理論的な根拠を、明末の僧侶の思想から学んでいました。「少なくとも十七世紀の段階では、(ボーガス注:仏教を通じて)日中両国の距離は、精神的にも物理的にも、想像以上に近かった」のです。そこには、長い戦乱の世が終わった後に、新しい仏教を打ち立てようとする、禅僧たちの宗教的・学問的な意識の高さもありました。
本書では、こうした日中間の思想的ネットワークが、個々の学僧に関する文献の精緻な読み解きから、鮮やかに描き出されています。なかでも、近世日本に大きな影響を及ぼした明末の高僧、雲棲袾宏(1535‐1615)の不殺生思想について検討した部分は、本書の白眉の一つでしょう。輪廻転生に対する強固な信念に基づき、「無限の過去世から未来世までを生きる自分」を想像した袾宏は、自己と他者の生命を、三世六道にわたる多種多様な存在へと開く回路を確立しました。そして、この回路から導かれる不殺生の思想*65は、イエズス会のマテオ・リッチが語る、神の恩恵としての人間による動物の支配という主張を退けて、庶民層のあいだに確かな生命倫理を養うことに成功します。
一方、近代仏教とのつながりに目を向けると、近世の仏教界での学問の興隆に関する議論が、特に注目すべきかと思います。
たとえば、近世中期から律僧たちのあいだでは、文献学的な学問によって、釈迦が生きていた当時の教団の再現を目指す運動が行われていました。これは、同時代の儒者や国学者にも見られた、文献学的な実証性による「古代」復興の試みの一種です。そして、このようにして「釈迦仏を憧憬する律僧らの精神は、近代仏教学へ形を変えて引き継がれ、新しい時代の仏教を生み出していく原動力の一つとなった」と思われるのです。近代仏教学の原典(原点)回帰主義のルーツは、近世社会の学問領域にあったという、重要な指摘です。
あるいは、近世の有力な学僧による、典籍の整備の取り組みも大事です。これは、典籍の選別によって、宗派ごとの差別化と閉鎖性を強めた一方、その後の宗学研究の発展には大いに貢献しました。それらの「宗学研究は、近世仏教の思想的営為であると同時に、近代以後に各宗が設立した大学へ引き継がれることによって、ヨーロッパから輸入された文献学とともに近代仏教学を形成する役割を果たし」ました。近年、しばしば日本の近代仏教(学)の重層性が語られますが、その原因の一つは、近世の宗学研究にあったというわけです。
以上、本書の勘所をわずかに紹介しただけでも、西村氏によって近世仏教の実態とその意義が、多面的に考察されていることが、わかってくるかと思います。なぜ、あまり光の当たりにくい近世仏教に、もっと光を当てなければならないのか。あるいは、どのように光を当てたらよいのか。西村氏は、以下のように簡潔に説明しています。
「日本仏教において、近代を支える前近代の思想とは何だったか。徳川の平和を支えた思想の一つである近世の仏教は、思想的にも制度的にも近代以後の日本仏教の土台であると同時に、現代の私たちの宗教と倫理の基礎を形づくった思想の一つである。その光と影は、今もなお続く寺檀制度が、鮮やかに映し出す。日本近世仏教の研究は、中世と近代の仏教との内的関連を踏まえながら、東アジア仏教思想史として進められる必要がある。」
この「東アジア仏教思想史」の試みは、しかし西村氏による探究としては、あまりにも早い段階で途絶してしまいました。返す返すも残念で悲しいことです。
けれど、その探究はほかの人間にも継承が可能です。というか、何としても継承する必要があるかと思います。そして、それは「近世仏教」の専門家だけに課せられた使命では、必ずしもないと思います。なぜなら、西村氏の研究は、近世日本を中心としつつも、中世や近現代の日本や、あるいは広くアジア世界との連続性のなかで行われていたのですから。
何はともあれ、まずは多くの読者が本書に触れることで、氏の壮大な思想史的ビジョンを知ってほしいなと願うところです。
なお、著書の西村氏は1972年生まれ、2016年死去(享年43歳)。「家族と安定がほしい」心を病み、女性研究者は力尽きた:朝日新聞デジタルによれば、死因は自殺のようです。そういう意味では書評もやりづらかろうと思います。相手からの応答が期待できないわけですから。
参考
「家族と安定がほしい」心を病み、女性研究者は力尽きた:朝日新聞デジタル
大きな研究成果を上げて将来を期待されながら、自ら命を絶った女性がいる。享年43歳。多くの大学に就職を断られ、追い詰められた末だった。
西村玲(りょう)さん、2016年2月2日死去。
東北大学で日本思想史を学んだ。江戸中期の普寂(ふじゃく)という僧侶に注目した仏教の研究で、04年に博士(文学)に。都内の多摩地区にある実家に戻って両親と同居しながら、研究に打ち込んだ。
翌05年、日本学術振興会の「SPD」と呼ばれる特別研究員に選ばれた。採用された人に月額約45万円の研究奨励金を支給する制度だ。「これで(研究で使う)本がバンバン買える」と、両親に喜びを伝えた。
「もらったお金の分は、研究成果で返さないといけない」
年に論文2本、学会発表4本。自らにノルマを課し、経典などを大量に運び込んだ2階の自室にこもった。数少ない息抜きは両親と囲む食卓。箸を動かしながら、研究の内容を早口で熱く語った。
「覚えたことが出ていかないよう、頭に巻き付けるラップがあればいいのに」。
そう言って笑い合った日もあった。
08年、成果をまとめた初の著書を出版。高く評価され、若手研究者が対象となる「日本学術振興会賞」と「日本学士院学術奨励賞」を、09年度に相次いで受賞した。
学術奨励賞を受けた6人のうち、文科系は2人だけ。宗教研究としては初の受賞だった。指導した末木文美士*66(ふみひこ)・東京大名誉教授は「若手のリーダーとして、次々と新しい領域を切り拓き、ほとんど独壇場と言ってよい成果を続々と挙げていた」と記している。
「役に立たない学問」を学んでしまった人文系“ワープア博士”を救うには……? | 文春オンライン
最近、ネットで大きな話題になったのが、(ボーガス注:自ら命を絶ち)2016年に逝去した若手*67の日本思想史研究者・西村玲(りょう)さんについて報じた『朝日新聞』の記事だ(2019年4月10日付け)。
西村さんは2004年に東北大学で文学博士号を取得後、日本学術振興会特別研究員(SPD)に選ばれ、さらに2008年に出版した著書『近世仏教思想の独創:僧侶普寂の思想と実践』は日本学術振興会賞と日本学士院学術奨励賞を受賞するという、輝かしい業績を持っていた。
だが、西村さんはそれだけの業績にもかかわらず、20以上の大学に応募したが常勤のポストに就くことができなかった。日本思想史という、昨今の大学では好まれない「役に立たない学問」を専門にしていたとはいえ、あまりにもひどい話だ。
もっとも『朝日新聞』報道では詳しい事情が曖昧に書かれていたが、西村さんの著書の版元出版社*68の元経営者でもある中嶋廣氏が自身のブログ上で紹介した本人の遺稿集(元編集者であった両親が作成)などによれば、彼女の逝去には他の事情もあったようだ。
すなわち、先行きが見えない生活と将来への不安のなかで、ネットで知り合った10歳以上年上の医師の男性から猛烈なアプローチを受けた。熱意に押されて結婚したところ、夫と夫側親族が彼の重い精神疾患とそれによる休職を隠していたことが判明。加えて家庭内で夫から攻撃的な言動を繰り返し受け続け、彼女本人も精神的に病んでしまっていた――とされる。
なので、彼女の逝去のみについて言えば、『朝日新聞』が報じるように若手研究者の就職難が第一義的な理由だったのかは一考の余地がある。メディアを通じて問題に一石を投じる選択をされたご遺族の心情を尊重するいっぽうで、将来への不安にあえぐ人文系の大学院生やポスドクたちが、報道を契機に過剰に自分を追い詰めることがないよう、心から願いたい。
■書評:仲松優子『アンシアン・レジーム期フランスの権力秩序』(2017年、有志舎)(評者:佐々木真*69)
(内容紹介)
ネット上の記事紹介で代替。
有志舎12月の新刊は、仲松優子さん著『アンシアン・レジーム期フランスの権力秩序』(本体6000円) - 有志舎の日々
この本は衝撃的です。
何しろ18世紀のフランス(いわゆるアンシアン・レジーム下のフランス)は絶対王政国家などではなかったという内容なので。
だとすると、絶対王政を倒したからこそ意味があったフランス革命って一体何だったんだ?
でも突拍子もない学説ではないのですよ。
現在のヨーロッパ歴史学界では、18世紀のイギリスもスペインも絶対王政ではなく「複合王政」として捉えられていて、そういうなかでヨーロッパ各国の王政の比較研究がなされているそうです。
さらに、絶対王政論だけでなく、二宮宏之さん*70の社団国家論なども徹底批判して、全く新しい地平を本書は拓いていきます。
もう、私が習ってきた西洋史理解は根底から崩れてしまいました(笑)。
著者の仲松さんは1974年生まれ、千葉大学大学院修了、北海学園大学人文学部准教授(フランス史)です。
*1:ウィキペディア「真田十勇士」「根津甚八(俳優)」によれば俳優の「根津甚八」の芸名も「真田十勇士の根津甚八」からとったとのこと。
*2:追記:気付けば「忠臣蔵」の人気や知名度が無くなってた(らしい)理由の考察など - Togetterも指摘するようにテレビで時代劇枠がなくなったことでわかるように「時代劇人気の低下→時代劇的知識の衰退」となっていますね。忠臣蔵はそうした時代劇の中では未だに知られてる方でしょう。
*3:著書『異説もうひとつの川中島合戦:紀州本「川中島合戦図屏風」の発見』(2007年、洋泉社歴史新書y)、『熊谷直実』(2014年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『佐竹一族の中世』(編著、2017年、高志書院)、『信仰の中世武士団:湯浅一族と明恵』(2016年、清文堂出版)など
*4:著書『鉄砲と日本人』(2000年、ちくま学芸文庫)、『刀と首取り』(2000年、平凡社新書)など
*5:著書『信長の戦争』(2003年、講談社学術文庫)、『武田信玄像の謎』(2005年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『本能寺の変』(2010年、洋泉社歴史歴史新書y)など
*6:著書『真田三代』(2011年、PHP新書)、『長篠合戦と武田勝頼』(2014年、吉川弘文館)、『検証 長篠合戦』(2014年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『真田信繁』(2015年、角川選書)、『真田信之』(2016年、PHP新書)、『武田氏滅亡』(2017年、角川選書)、『戦国大名と国衆』(2018年、角川選書)など
*7:ただし一方で陸軍は「鉄砲三段撃ち」を「銃器の有効性を示す事例」として宣伝しており「桶狭間合戦奇襲説(劣勢でも奇襲で挽回できる)」との整合性は全くとれていません。
*8:著書『戦争の日本中世史』(2014年、新潮選書)、『一揆の原理』(2015年、ちくま学芸文庫)、『応仁の乱』(2016年、中公新書)など
*9:2014年のこと
*10:歴史を学び、今に生かす。私たちの生き方にヒントをもたらす本ランキング | ニコニコニュースによれば、松沢成文(元神奈川県知事、現参院議員)のこと。
*11:歴史を学び、今に生かす。私たちの生き方にヒントをもたらす本ランキング | ニコニコニュースによれば、司馬『坂の上の雲』、『菜の花の沖』、『翔ぶが如く』。
*12:具体的には辻秀一『スラムダンク勝利学』(2000年、集英社インターナショナル)、山田吉彦『ONE PIECE勝利学』(2016年、集英社インターナショナル)など
*14:東条内閣海軍大臣、軍令部総長など歴任。戦後終身刑判決を受けるが後に仮釈放。
*15:つまりは「今川義元=米国」「織田信長=日本」ですね(当時においては今川氏の方が圧倒的に優位)。そう思うなら米国と戦争するなよって話ですが。
*16:というのは、「結果的には米国の油断もあって大成功でした」が米国側が油断せずに待ち構えていれば勝利できた保証はどこにもなく、かえって米国の反撃で日本が開戦当初で大打撃を受け、戦争の勝敗が「日本敗北」という形で開戦直後に決まってしまう危険性があったからです。
*17:とはいえ、山本も嶋田も「これらの奇襲攻撃が史実である」と思っていたかは疑問ですし、ましてや「これらの奇襲が成功したから真珠湾攻撃は成功する」と思うほどの単純バカでもないでしょうが。
*18:戦後も「事実であると評価されてきた」桶狭間奇襲説はともかく、一ノ谷、川中島は戦前から「事実扱いはされてない」と思いますが(つまり一ノ谷、川中島については「大転換などない」。)。
*19:後述しますが「甲陽軍鑑を元にした物語小説」はともかく甲陽軍鑑自体は「軍記物」ではないでしょう。その内容についても「全て小幡景憲(甲州流軍学創始者)による後世の創作。したがって小幡の価値観を研究する資料として使う以外には使えない」(田中義成以来の従来の通説)、「小幡による後世の粉飾はあるが一応、本物(実際に高坂弾正からの聞き書きを元にしている)。従って小幡の粉飾を取り除くという史料批判が必要なリスキーな資料だが、武田家についての同時代資料として一応使える」(酒井憲二氏、黒田日出男氏らの最近の説)の二説あり、俺のような素人には評価は難しいところがあります。なお、高橋論文は酒井氏、黒田氏と同じ立場のようです。
*20:「今川氏と織田氏」「平氏と義経」はともかく「上杉謙信が武田信玄に軍事的に劣る」とはいえないんじゃないかと思いますが。そもそも後世の言い伝えにおいて川中島合戦で謙信が敵陣に突っ込んだのは「劣勢を挽回するため」ではなく「上杉に奇襲を仕掛けるため、軍勢を動かしたことによって、信玄の周囲が手薄になったのを逆手にとってカウンター攻撃を仕掛けた」のでしょうに。なお、甲陽軍鑑によればこの第四次川中島合戦で戦死したのが有名な山本勘助です。山本勘助を主人公にしたNHK大河ドラマ『風林火山』(2007年)は第四次川中島合戦での勘助の戦死で話が終わっています。
*21:まあ「賛成した」でしょうね。山本は「真珠湾攻撃は有効な作戦だと思っていた」し、あくまでも「桶狭間も一ノ谷も川中島も」全て「難しい説明をしなくても、相手に賛同してもらおう」と思って山本が嶋田らに対して行った方便に過ぎないからです。ただ「桶狭間も一ノ谷も川中島も巧妙な奇襲戦ではない」という認識が当時の日本人の一般認識なら、山本も「真珠湾攻撃の説明」に苦労し、結果的に「真珠湾攻撃はされなかった」かもしれませんがこれはわかりようがありません。むしろ日米開戦で問題なのはそういうことよりも日本側が「中国の完全植民地化をどうしても諦められなかったこと(ハルノートの受け入れが出来なかったこと)」でしょう。蒋介石政権打倒に固執する限り日米開戦は不可避です。
*22:つまりは張作霖暗殺・ソ連陰謀論や南京事件否定論や河野談話否定論は馬鹿馬鹿しいと言うことです。
*23:さすがに「南京事件否定論」「ホロコースト否定論」レベルのデマは簡単に嘘だと判断できますが、後で紹介する「甲陽軍鑑の評価」は素人には難しい話です。
*24:新潮社が主催。評論、エッセイが対象で小説、ノンフィクションは対象外。
*25:著書『国家と宗教:ヨーロッパ精神史の研究』(岩波文庫)など
*26:これについてはたとえば、「風と共に去りぬ」でのこれらのレット・バトラーのセリフは、太平洋戦争当時の日本にとってもなかなか示唆に富んでいる - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)を紹介しておきます。
*27:広田内閣海軍大臣、連合艦隊司令長官、軍令部総長を歴任。戦後、戦犯として裁判中に病死。後に昭和殉難者として靖国に合祀
*28:著書『戦争の日本近現代史』(2002年、講談社現代新書)、『満州事変から日中戦争へ』(2007年、岩波新書)、『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(2016年、新潮文庫)、『とめられなかった戦争』(2017年、文春文庫)など
*29:関東憲兵隊司令官、関東軍参謀長、などを経て首相。戦後、死刑判決、後に昭和殉難者として靖国に合祀。
*30:当時の日本は日独伊軍事同盟でドイツとは同盟国で、日ソ中立条約でソ連とは少なくとも建前では「中立的な関係」でした。
*32:自民党幹事長(小泉総裁時代)、小泉内閣官房長官を経て首相
*33:著書『日本会議:戦前回帰への情念』(2016年、集英社新書)、『「天皇機関説」事件』(2017年、集英社新書)、『[増補版]戦前回帰:「大日本病」の再発』(2018年、朝日文庫)、『沈黙の子どもたち:軍はなぜ市民を大量殺害したか』(2019年、晶文社)、『歴史戦と思想戦:歴史問題の読み解き方』(2019年、集英社新書)
*34:これらの論文は後に黒田『「甲陽軍鑑」の史料論:武田信玄の国家構想』(2015年、校倉書房)に収録。
*35:著書『中世民衆史の方法』(1985年、校倉書房)、『「太平記」の世界』(1990年、吉川弘文館)、『日本中世の内乱と民衆運動』(1996年、校倉書房)、『中世社会思想史の試み』(2000年、校倉書房)、『中世の一揆と民衆世界』(2005年、東京堂出版)など
*36:天正10年(1582年)3月、武田家が滅亡すると、織田家臣森長可の傘下に入るが、同年6月の本能寺の変後は越後の上杉景勝を頼った。当初は信濃国飯山城に配されたが、後に越後に移ったといわれ、その後の事績は不明(ウィキペディア「小幡光盛」参照)。
*37:勝頼期の天正10年(1582年)、織田信長・徳川家康連合軍が武田領に侵攻する(甲州征伐)が、昌盛は病床にあったため参戦できなかったという。武田氏の敗勢が濃厚になりつつあった時、落ち延びゆく勝頼に甲斐善光寺で暇乞いをしたのち病死したという。享年49歳(ウィキペディア「小幡昌盛」参照)。
*38:武田氏滅亡後は、他の武田遺臣とともに武田遺領を確保した徳川氏に仕えた。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは、徳川氏の家臣・井伊直政に属して戦功を挙げたといわれ、1614年(慶長19年)の大坂の陣では豊臣氏に与したが、内実は徳川氏に内通しており、江戸幕府京都所司代の板倉勝重に連絡していたという。戦後は再び徳川氏に仕えて1500石を領した。甲州流軍学の創始者として名高く、幾多の武士に教授したとされる(ウィキペディア「小幡景憲」参照)。
*39:著書『石田三成』(1996年、PHP新書)、『明智光秀』(1998年、PHP新書)、『徳川秀忠』(1999年、PHP新書)、『豊臣秀次』(2002年、PHP新書)、『今川義元』(2004年、ミネルヴァ日本評伝選)、『山内一豊』(2005年、PHP新書)、『戦国武将を育てた禅僧たち』(2007年、新潮選書)、『北政所と淀殿』(2009年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『黒田如水』(2011年、ミネルヴァ日本評伝選)、『黒田官兵衛』(2013年、平凡社新書)、『甲陽軍鑑入門』(2014年、角川ソフィア文庫)、『井伊直虎』(2016年、洋泉社歴史新書y)、『明智光秀・秀満』(2019年、ミネルヴァ日本評伝選)など
*40:著書『謎解き洛中洛外図』(2003年、岩波新書)、『増補 絵画史料で歴史を読む』(2007年、ちくま学芸文庫)、『国宝神護寺三像とは何か』(2012年、角川選書)、『江戸図屏風の謎を解く』、『江戸名所図屏風を読む』(以上、2014年、角川選書)、『洛中洛外図・舟木本を読む』(2015年、角川選書)、『「甲陽軍鑑」の史料論:武田信玄の国家構想』(2015年、校倉書房)、『岩佐又兵衛と松平忠直』(2017年、岩波現代全書)など
*41:著書『戦国大名の日常生活』(2000年、講談社選書メチエ)、『武田信玄』(2005年、ミネルヴァ日本評伝選)、『真田氏三代』(2009年、ミネルヴァ日本評伝選)、『武田勝頼』(2011年、ミネルヴァ日本評伝選)など
*42:歴史小説においては「武田信玄にとっての山本勘助」にあたるわけです。
*43:『本覚坊遺文』(講談社文芸文庫)、『蒼き狼』、『あすなろ物語』、『北の海(上)(下)』、『孔子』、『後白河院』、『しろばんば』、『天平の甍』、『敦煌』、『夏草冬濤(上)(下)』、『額田女王』、『氷壁』、『風林火山』、『楼蘭』(以上、新潮文庫)、『おろしや国酔夢譚』(文春文庫)など
*45:小早川秀包(毛利元就の九男)の三男として生まれ、長州藩初代藩主・毛利秀就に仕えたが、故あって牢人となる。江戸滞在中に初代水戸藩主・徳川頼房(江戸幕府初代将軍・徳川家康の十一男)に召し出され、頼房の長男である松平頼重(のちに讃岐高松藩初代藩主。水戸藩2代藩主徳川光圀の同母兄。3代藩主徳川綱條の父)の附家老となった。実子がなく、能久の死により小早川家は断絶した(ウィキペディア「小早川能久」参照)。
*47:実際、冗談ではなく真面目な話、一番有名な海音寺作品は大河ドラマになった『天と地と』でしょうね。
*50:参議、陸軍大将、近衛都督
*51:代表作として『三国志』、『新・平家物語』、『宮本武蔵』など。
*52:著書『司馬遼太郎という物語』(2004年、文春文庫)、『司馬遼太郎の幻想ロマン』(2012年、集英社新書)
*54:海音寺が1901年生まれ、司馬が1923年生まれ。
*55:著書『青べか物語』、『赤ひげ診療譚』、『あんちゃん』、『栄花物語』、『大炊介始末』、『五瓣の椿』、『さぶ』、『ならぬ堪忍』、『日本婦道記』、『彦左衛門外記』、『日日平安』、『風雲海南記』、『風流太平記』、『深川安楽亭』、『町奉行日記』、『明和絵暦』、『樅ノ木は残った(上)(下)』、『酔いどれ次郎八』、『与之助の花』(以上、新潮文庫)など
*56:とはいえ海音寺より活動時期の古い作家(夏目漱石、森鴎外など)や同じ時期に活躍した作家(山本周五郎など)で今も読まれる作家もいるわけですしね。まあ、今の時代に海音寺はマッチしない作家なんでしょう。
*57:中国の王朝の正史24書(史記、漢書、後漢書、三国志、晋書、宋書、南斉書、梁書、陳書、魏書、北斉書、周書、隋書、南史、北史、旧唐書、新唐書、旧五代史、新五代史、宋史、遼史、金史、元史、明史)のことである。伝説上の帝王「黄帝」から明滅亡の1644年までの歴史を含む(ウィキペディア「二十四史」参照)。
*58:中国北宋の司馬光が、1065年(治平2年)の英宗の詔により編纂した編年体の歴史書。収録範囲は、紀元前403年(周の威烈王23年)の韓・魏・趙の自立による戦国時代の始まりから、959年(後周世宗の顕徳6年)の北宋建国の前年に至るまでの1362年間としている(ウィキペディア「資治通鑑」参照)。
*59:小生が就職した時(今から約20年前)は「ロータスも使われていた」んですけどね。今や完全にエクセルが主流です。
*60:著書『中世王権と王朝儀礼』(2008年、東京大学出版会)、『後白河上皇』(2011年、山川出版社日本史リブレット人)など
*61:著書『日本中世法体系成立史論』(1996年、校倉書房)、『源頼朝と鎌倉幕府』(2003年、新日本出版社)、『大江広元』(2005年、吉川弘文館人物叢書)、『平清盛』(2011年、山川出版社日本史リブレット人)、『歴史に裏切られた武士 平清盛』(2011年、アスキー新書)、『鎌倉幕府統治構造の研究』(2015年、校倉書房)など
*62:著書『近世仏教思想の独創:僧侶普寂の思想と実践』(2008年、トランスビュー)
*64:著書『ブッダ伝』(角川ソフィア文庫)、『往生要集を読む』、『龍樹』(講談社学術文庫)、『原始仏典』(ちくま学芸文庫)など
*65:つまりは「動物と人間で輪廻転生している」以上「動物を殺すこと=人間を殺すこと」になるわけでしょうね。
*66:著書『中世の神と仏』(2005年、山川出版社日本史リブレット)、『日本宗教史』(2006年、岩波新書)、『増補 日蓮入門』(2010年、ちくま学芸文庫)、『近世の仏教』(2010年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『現代仏教論』(2012年、新潮新書)、『日本仏教入門』(2014年、角川選書)、『親鸞』(2016年、ミネルヴァ日本評伝選)、『思想としての近代仏教』(2017年、中公選書)、『「碧巌録」を読む』(2018年、岩波現代文庫)、『仏教からよむ古典文学』(2018年、角川選書) など
*67:「1972年生まれで若手なのか?」つうのが素朴な感想です。一般的には40代では若手ではありませんので。
*68:西村著『近世仏教思想の独創:僧侶普寂の思想と実践』の版元であるトランスビューのこと
*69:著書『ルイ14世期の戦争と芸術:生みだされる王権のイメージ』(2016年、作品社)
*70:著書『全体を見る眼と歴史家たち』(1995年、平凡社ライブラリー)、『フランスアンシアン・レジーム論:社会的結合・権力秩序・叛乱』(2007年、岩波書店)、『マルク・ブロックを読む』(2016年、岩波現代文庫)など