新刊紹介:「歴史評論」2025年8月号(副題:著書『ソ連兵へ差し出された娘たち』、映画『黒川の女たち』『ハナ子さん』『無法松の一生』、『樺太1945年夏 氷雪の門』、文化放送『大竹まこと・ゴールデンラジオ』ほか)

特集「敗戦80年と歴史研究1:人びとが向き合った戦争」
 なお、9月号が「敗戦80年と歴史研究2」、10月号が「敗戦80年と歴史研究3」になる予定です(現時点では9月号、10月号にどんな論文が掲載されるかは不明)。
 小生の「説明可能な範囲」で8月号の内容を紹介します。
◆戦時期日本の社会と政治をどう見るか?(源川真希*1
(内容紹介)
 特集の総論的内容。
 まず戦時期日本の社会の見方として初期は「丸山真男*2」などの天皇ファシズム論が主張されたことが指摘される。
 しかし、それに対しては伊藤隆*3『大正期「革新」派の成立』(1978年、塙選書)が「ドイツ、イタリアのファシズム」と日本の戦時体制には様々な差異があった(例えばドイツのナチ党を模して、大政翼賛会が成立したが、大政翼賛会は翼賛会に参加した既成政党(立憲政友会、立憲民政党社会大衆党など)の寄り合い所帯的な性格が強く、ナチ党と違い、一枚岩とは言えなかった)ことから天皇ファシズム論に否定的な立場を表明。伊藤自身は「革新派」という分析視点を提唱した。
 伊藤の「革新派」という分析視点自体は(伊藤の弟子を除き)あまり支持されなかったが、彼の「天皇ファシズム論」への批判については、支持され、その後、天皇ファシズム論は衰退したと言っていい。
 なお、【1】「天皇ファシズム論の衰退」は「戦時体制」が「人権軽視の体制であったこと(治安維持法による弾圧など)」「ファシズムに親和的な体制だったこと(例:日独伊三国同盟、ドイツのナチ党を模範にした大政翼賛会の結成)」を否定するわけではないこと、【2】「天皇ファシズム論を支持しない論者」も「戦時体制」が「人権軽視の体制であったこと」「ファシズムに親和的な体制だったこと」を否定するわけではないこと(単に天皇ファシズム論という分析視点は使わないこと)に注意が必要である(但し、晩年、「つくる会」理事、「国家基本問題研究所」理事にまで右傾化*4した伊藤においては「天皇ファシズム論」の否定は、単に「分析概念の問題」ではなく、伊藤自身に「戦時日本の人権軽視」を否定しようとする右翼的な思惑があった疑いが否定できない)。
 「天皇ファシズム論」の代わりに提唱されるようになったのが、

【著者名順】
◆纐纈厚*5日本陸軍の総力戦政策』(1999年、大学教育出版)、『田中義一:総力戦国家の先導者』(2009年、芙蓉書房出版)、『侵略戦争と総力戦』(2011年、社会評論社)、『増補版・総力戦体制研究:日本陸軍国家総動員構想』(2018年、社会評論社
◆小林啓治*6『総力戦とデモクラシー』(2007年、吉川弘文館)、『総力戦体制の正体』(2016年、柏書房
高岡裕之*7『増補・総力戦体制と「福祉国家」:戦時期日本の「社会改革」構想』(2024年、岩波現代文庫)
◆源川真希『総力戦のなかの日本政治』(2017年、吉川弘文館)
山之内*8編著『総力戦と現代化』(1995年、柏書房)、『総力戦体制からグローバリゼーションへ』(2003年、平凡社)、『総力戦体制』 (2015年、ちくま学芸文庫)

等の「総力戦体制論」といえる。
 なお、「総力戦体制論」について詳しく説明できるだけの力が俺に無いので、説明は省略。
 なお、源川氏は「反ファシズム側(米英仏)」も「総力戦体制」だったのであり、
【1】「総力戦体制論」は、同じ総力戦でありながら、「ファシズム側(日独伊)」と「反ファシズム側(米英仏)」で「民主主義に対する態度」に違いが生じたことについて「天皇ファシズム論」のような「説明する論理(例えば、フアン・リンス*9のいわゆる権威主義体制論)」がないといけない(そして源川真希『総力戦のなかの日本政治』(2017年、吉川弘文館)はそうした「説明する論理」を試みている)
【2】「天皇ファシズム論」を支持しないが「天皇ファシズム論の問題意識(なぜ米英仏と違い、日本の政治体制は独伊に親和的なファシズム的なものとなったのか?)」それ自体は正当なものであるとしている。
 なお、天皇ファシズム論を支持しない論者にも「昭和天皇が戦争指導に果たした役割」「天皇の戦争責任」を論じる研究者はおり、「天皇ファシズム論」と「天皇の戦争責任論」が必ずしも直結するわけではないが、「抽象的に天皇制(あるいは天皇)と戦時体制の関係を論じるのではなく、昭和天皇が戦争指導(日中戦争、太平洋戦争)において具体的に果たした役割を論じることが必要」という問題意識から、天皇ファシズム論は以下の「昭和天皇の戦争責任論研究*10」の「淵源の一つ」となったといえる。

【著者名順】
井上清*11天皇の戦争責任』(1975年、現代評論社→1991年、岩波同時代ライブラリー→2004年、岩波現代文庫)、『昭和天皇の戦争責任』(1989年、明石書店
◆纐纈厚『遅すぎた聖断:昭和天皇の戦争指導と戦争責任』(山田朗との共著、1991年、昭和出版)、『「聖断」虚構と昭和天皇』(2006年、新日本出版社
山田朗昭和天皇の戦争指導』(1990年、昭和出版)、『大元帥昭和天皇』(1994年、新日本出版社→2020年、ちくま学芸文庫)、『昭和天皇の軍事思想と戦略』(2002年、校倉書房)、『日本の戦争III:天皇と戦争責任』(2019年、新日本出版社)、『増補・昭和天皇の戦争』(2023年、岩波現代文庫)、『昭和天皇の戦争認識』(2023年、新日本出版社


◆徴用工の男性史:日本人新規徴用工の「体験記録」を読む(佐々木啓*12
(内容紹介)
 徴用工*13の体験記録として、大石善次『徴用日記』(昭和18年、隆文堂大運社)、熊谷宗秀の小説『徴さん』(1964年、三重文学協会)が紹介される(勿論、大石著書は戦前の刊行なので、徴用について否定的なことは書けるわけもなく、何処まで本心が描かれてるか、問題がある点に注意が必要)。
 大石著書では徴用工体験は「国への奉仕」として誇るべき行為として描かれているが、熊谷著書ではむしろ徴用工は「体調不良のために、徴兵検査不合格で兵役に就けなかった人間」として社会からネガティブな視線で見られていること(また彼らが多く従事した工場労働者は底辺労働者として蔑みの目で見られることが少なくなかったこと)が描かれる。
 筆者は「戦後日本」において徴用工体験はあまり語られてこなかったとした上で、その理由を熊谷著書が描くような、徴用工に対する「差別的な視線」を徴用工自身が感じていたからではないかとしている。


◆戦時日本の娯楽と文化(金子龍司*14
(内容紹介)
 小磯*15内閣の緒方竹虎*16情報局総裁による「言論暢達政策(言論統制緩和)」について論じられている。
 過大評価は出来ないが、戦時下においてずっと言論や文化の統制が行われていたわけではなく、「戦意高揚」「小磯以前の東条*17内閣からのイメージチェンジ」を狙って、小磯内閣が「一定の言論、文化統制の緩和」を行ったことが、菊田一夫*18『流れる水のごとく:芝居つくり四十年』(1967年、オリオン出版社→1999年、日本図書センター)、古川ロッパ*19古川ロッパ昭和日記・戦中篇(昭和16年~昭和20年)』(1987年、晶文社)等、「当時の芸能関係者の回想(菊田は菊田一夫演劇賞で知られる脚本家、ロッパは矢野誠一*20エノケン・ロッパの時代』(2001年、岩波新書) 等で分かるように、「エノケン榎本健一(1904~1970年)とともに戦前を代表する喜劇役者)」等を題材に論じられている。
 【1】「天皇主権」の戦前でも「政策がずっと一定したわけではないこと(東条内閣期は言論統制色が強かった*21が、小磯内閣は若干統制を弱めた)」、【2】文化統制についても「だらけることは許されない。厳しく締めた方が戦意高揚につながる(東条内閣)」「いやむしろ娯楽を認めた方が戦意高揚につながる(小磯内閣)」という意見の違いが見られるという指摘が興味深い。
 なお、小磯内閣の「言論緩和」については、当時の右派マスコミ(読者投稿欄など)で批判意見もあったが、「言論統制時代(小磯直前の東条内閣時代など)」には「右派マスコミ(読者投稿欄など)の言論統制支持」が言論統制の口実として利用されたが、小磯内閣はそうした「言論緩和」批判の意見に応じなかった(一定の言論緩和を続けた)。マスコミや国民の声が「政府の方針に影響しないわけでは勿論ない」が、戦時下においては「政府がマスコミや国民の声」をどういう方向で利用するかという「政府の主体性」が平時より大きかったとみられる。
【参考:戦前の文化統制の例(映画「ハナ子さん」「無法松の一生」(1943年公開)の大幅なフィルムカット)】
 「無法松の一生*22(1943年公開(大映):稲垣浩監督。無法松こと富島松五郎(阪東妻三郎)、吉岡夫人(園井恵子*23))の大幅カット(10分43秒)は、

無法松の一生 - Wikipedia
【映画】
◆1958年版(東宝
 稲垣浩監督。無法松こと富島松五郎(三船敏郎)、吉岡夫人(高峰秀子
◆1963年版(東映
 村山新治監督。無法松こと富島松五郎(三國連太郎)、吉岡夫人(淡島千景
◆1965年版(大映
 三隅研次監督。無法松こと富島松五郎(勝新太郎)、吉岡夫人(有馬稲子
【テレビドラマ】
◆1957年版(日本テレビ
 無法松こと富島松五郎(田崎潤)、吉岡夫人(坪内美詠子
◆1962年版(NHK
 無法松こと富島松五郎(田崎潤)、吉岡夫人(津島恵子
◆1962年版(フジテレビ)
 無法松こと富島松五郎(須賀不二男*24)、吉岡夫人(高倉みゆき*25)。脚本は『鬼平犯科帳』『剣客商売』『仕掛人・藤枝梅安』などで知られる池波正太郎
◆1964年版(フジテレビ)
 無法松こと富島松五郎(南原宏治)、吉岡夫人(南田洋子

としてリメイクが作られるなど、この映画が戦後も一定の人気と知名度を保ったことで有名ですが、戦後はその存在が忘れ去られた「ハナ子さん(主演の轟夕起子(元タカラジェンヌ)、灰田勝彦は戦前の人気スターだが、今ではそれほど有名ではない)」の大幅カット(19分28秒)はそれほどでもないでしょう。

ハナ子さん - Wikipediaから一部引用
【あらすじ】
 ハナ子(轟夕起子)はサラリーマン・桜井五郎(灰田勝彦*26)と結婚。五郎の賞与日、夫妻は丸の内へ夕食へ出かけたが、五郎は賞与が現金でなく戦時債券で支払われたことを明かし、「お国のために無駄遣いはやめよう」と、外食を断念。その日以降、夫妻は食事や映画に出かける代わりに、隣組の少女たちとかくれんぼで遊んで時間をつぶす「かくれんぼツモリ貯金」を考案して家計を節約し始めた。
【逸話】
 一家が住む住宅は、原作の描写よりも豪華に造形され、「ご主人がサラリーマンなのにとても豪邸(杉浦幸雄*27『わが漫画人生:一寸先は光』(1995年、東京新聞出版局))」となっている。原作者・杉浦は、当時の日本映画が海外占領地でも上映されていた事情を念頭に、「宣撫班がこういう映画を利用していたので、日本という国がとてもいい暮らしをしているように見せかけるため故意に立派な造りにしたようです(杉浦『わが漫画人生:一寸先は光』(1995年、東京新聞出版局))」と推測している。

『ハナ子さん』(1943年2月25日・東宝・紅系・マキノ正博)|佐藤利明(娯楽映画研究家・オトナの歌謡曲プロデューサー)の娯楽映画研究所から一部引用
 五郎さん(灰田勝彦)「今日は賞与日」だから、会社が引けたら、お父さん(山本礼三郎)、お母さん(英百合子)、お姉さん(山根寿子)、部隊長坊や*28に食事をご馳走しようと提案。ハナ子さん(轟夕起子)、朝からウキウキ。
 しかし「実は賞与、国債でくれたんだ。賞与もお国への御奉公なんだってさ」。ならばとハナ子さん、外食はやめて「お父さんの家に行って、お茶漬け呼ばれましょうよ」とチャッカリ提案。これも「サザエさん的」と戦後脳は思ってしまう。
 お父さんが娘夫婦の家を訪ねると、なんと五郎さん、ハナ子さんが近所の子供たちと「かくれんぼ」をしている。それが腑に落ちないお父さん。ハナ子さんから「かくれんぼツモリ貯金」をしていると教えられる。「映画を見たツモリ1円20銭」「銀ブラをしたツモリ三円」「ハイキングしたツモリ三円五十銭」「芝居見たツモリ五円」とメニューが壁に貼ってある。いよいよ「勤倹貯蓄」の時代である。
 脚の悪い(ボーガス注:傷痍軍人の)勇さん(中村彰)をフォローして歩くうちに、(ボーガス注:五郎の実妹、ハナ子の義妹)チヨ子さん(高峰秀子*29)はすっかり勇さんと仲良しになる。
 大熊さん(小島洋々)、立ち上がり演説する。
「帰還勇士の勇くんと、チヨ子ちゃんとを、隣組でお仲人をしようではないか、ということになりました。本日、ここにめでたい隣組結婚式を挙行する運びとなったのであります」。
「今や、日本は真に非常時であります。この時に当たって、かかる気持ちの良い結婚式が多くなりますことは、実に嬉しいことであります。多くの娘さんが、チヨ子さんのごとく、どんどん傷痍軍人の妻に成られんことを、切望します」
 この辺りは、内務省の検閲官は「国策に沿う」と満足だったろう。時局迎合の国策映画とはいえ、こういうアジテーションには違和感がある。
 表では子供達が「チリン、チリン、号外」と号外配達を追いかけながらはしゃいでいる。その号外はやがて、幼き部隊長殿によって結婚式に届けられる。
 「おじいちゃん、号外だよ」。
 手にしたお父さん、興奮して「これは大変な発表ですぞ」と日独伊三国同盟が締結したことをみんなに伝える。そこで大熊さん「起立!」で万歳三唱!。なんともはや、である。だんだん現在の目では「笑うに笑えなくなってくる」。
 いよいよ「隣組」の連帯感の見せどころ、ということで敵機来襲に備えての大掛かりな防空活動・防火訓練が開催される。まるで「運動会」のように訓練が繰り広げられる。来るべき空襲に備えて、の割にはおよそ緊張感がない。というのも、日本の本土空襲は、昭和17(1942)年4月18日の「ドーリットル空襲」以来、まだ起こっていなかった。この空襲では日本の被害は死者87名、重傷者151名、家屋全壊・全倒122棟以上だったが、精神論の方が強く、ほとんどの国民がさほど脅威に感じていなかった。
 この翌年、昭和19(1944)年から米軍機による本土空襲が本格的に始まり、昭和20(1945)年の東京大空襲では10万人の被害者が出たことを考えると、複雑な気持ちである。
 社内アナウンスで「皆さんにお知らせがあります。櫻井五郎さんに軍務公用です」。
社長「この度、我が社の櫻井五郎くんに名誉のお召しがありました。我々で盛大に送りましょう」
五郎「ではみなさん行ってまいります」
社長「櫻井五郎くんばんざーい」。
 これが当時の「日常」であり、「建前」でもあった。

 ウィキペディア等を見る限り、「娯楽映画」ではある一方で、どう見ても戦意高揚映画ですが、「米英的」等と見なされた部分(ミュージカル的な演技など)が検閲によって大幅にカットされます(後で関係記事を紹介します)。

Slow "Mobility" Life Project−娯楽映画は自転車に乗って
 「ハナ子さん」(1943、東宝マキノ正博*30監督、轟由起子灰田勝彦主演)。その一場面、轟演ずるハナ子さんが主題歌「おつかいは自転車に乗って」を笑顔で唄いながら都心の大通りを自転車で颯爽と走る姿、フルコーラスで約3分間、正面から捉える移動撮影。
 この場面だけを見れば、昭和18年、戦争中に撮影されたとは全く思わせない。実はこの映画、ストーリーは戦時下の市民生活の倹約や国民の一致団結を奨める国策協力映画であり、同時にミュージカル映画として底抜けに楽しめる、という不思議な作品だったのだ。明るく朗らかなハナ子さんの生活を中心に、「隣組」「空襲に備えた消火訓練」「会社員のボーナスは国債で支払い」「帰還傷痍軍人の縁談」「夫の出征」などなど、戦時下の市民生活の場面を模範的モラルに沿って描き、登場人物全員が全編に亘って異常に明るく楽しく能天気に唄い、笑い、物語が進む。「東宝舞踊団」のダンサーが舞い踊る。市民の衣服も食生活も、耐乏生活を強いられているようには全く見えない。不安感は皆無。戦後生まれの我々が年配者から聞く、当時の市民生活の思い出話との乖離は思いっ切り大きい。この頃、中部太平洋では陸海で死闘が繰り返され、島々では日本兵が飢餓に苦しんでいたとは想像できない。
 マキノ正博監督は生涯200本以上を演出した娯楽映画の大御所。「ハナ子さん」の4年前には時代劇オペレッタ「鴛鴦(おしどり)歌合戦」(1939年、片岡千恵蔵志村喬ディック・ミネ出演)を演出している。轟(私生活ではマキノ監督夫人*31)は元タカラジェンヌ東宝は戦前戦後を通じて音楽映画に力を入れた会社。その組み合わせで娯楽映画を作れば、こんな作品が出来上がるのも極めて納得だが。
 公開された「ハナ子さん」は完成版から約19分強削除されていた。欧米ミュージカルの様式を踏まえた演出。物語の柱はハナ子さんと五郎さんの恋愛と新婚生活で、いかにも小市民的で国家精神総動員体制とは相容れない。楽しく唄い踊り過ぎる、真面目な態度で戦争に貢献せよ、といった理由で当局から睨まれたのだろうと想像はつく。
 したがって現在、この作品をめぐる評価は賛否分かれる。娯楽作品の手法で国民に戦争協力を呼びかけた国策プロパガンダ映画に過ぎない、という批判の一方で、いやいや、結果として戦時国家体制を揶揄した作品が出来上がり、何より今観てもたいへん面白く楽しい、という評価。
 マキノ監督は戦時だろうが何時だろうが、娯楽作品職人でいたかった。
 そんな監督が、恋人との逢瀬の歓びを映して魅力的な、自転車の場面を演出したのだ。マキノ監督の「映画にはこんな場面がなければいけない」という声が聞こえてくる。

明るい銃後のミュージカル映画:マキノ正博『ハナ子さん』について内田勝*32)から一部引用
1.『ハナ子さん』はどんな映画か
 マキノ正博監督の映画『ハナ子さん』(東宝映画、昭和18年(1943年))とはいったいどういう映画なのかと尋ねられれば、たとえば次のような二通りの答え方ができると思います。
(1)雑誌『主婦之友』に連載された杉浦幸雄の漫画『銃後のハナ子さん』を原作とし、銃後の一般市民に「ぜいたくは敵だ」とか「空襲の際には避難せず消火活動にあたらねばならない」といった戦争協力的な考え方を植え付けるために作られた、戦時プロパガンダ映画である。
(2)1930年代アメリカのミュージカル映画、特にバズビー・バークレー振付によるレヴュー場面の影響を濃厚に受けた、明るく楽しいミュージカル映画である。
 戦時プロパガンダ映画としての『ハナ子さん*33』が、銃後の一般市民に浸透させようとするメッセージは明白です。あらすじから読み取れる限りで列挙すると、「隣組の住民たちは互いに助け合うべきである」「高価な外食などのぜいたくをしてはならない」「国債を通じて戦費調達に協力すべきである」「運動をして身体を鍛えるべきである」「若い女性は進んで傷痍軍人の妻になるべきである」「空襲の際には隣組で団結して、焼夷弾による火災の消火活動にあたらねばならない」「出征兵士の家族は兵士を明るく送り出すべきである」といったものです。
 しかしこうしたメッセージは、説教臭い調子で押し付けがましく伝えられるのではありません。『ハナ子さん』においてそれらは、戦後の『サザエさん』を思わせる無邪気な笑いに満ちたのどかな物語を通して、一貫して明るく楽しい調子で伝えられるのです。暗い時代の中で、この映画にひととき励まされた観客は、それと同時に、戦争協力を呼びかけるメッセージをしっかりと受け取ってしまったはずです。
3.平和でのんきな防空訓練
 『ハナ子さん』が持っている楽しさと不気味さがもっとも顕著に現れているのが、隣組の防空訓練を扱った場面です。
 焼夷弾による火災は、隣組が心を一つにして団結し、発火後直ちに濡れ筵(むしろ)をかぶせて砂をかければ簡単に消火できるはずでした。『ハナ子さん』の映像では、隣組の人たちがニコニコしながら地面に濡れ筵をかぶせて砂をかけ、バケツリレーで屋根の火災を消化する訓練をしています。(ボーガス注:映画劇中歌の)「なんだ空襲」の曲調は、どことなく戦後のクレージーキャッツザ・ドリフターズのコミック・ソングを思わせる陽気なもので、楽しい歌に合わせて笑顔で消火訓練にいそしむ人たちの映像を見ていると、なんだか空襲なんて大したことではないかのように思えてきてしまうのです。
 もちろんこの映像は、空襲の実態とはかけ離れたものでした。日本本土への空襲が激化するのは『ハナ子さん』公開翌年の昭和19年(1944年)以降ですが、実際の空襲では、住民が避難せず消火活動にあたろうとしたために被害が拡大することになります。
 児童文学作家の山中恒*34は「なんだ空襲」をこう批判しています。

 いまうたい返してみると、よくもまあ、こんなでたらめな歌で、景気をつけてくれたものだと、腹立たしい思いがするが、軍部は空襲の本当の恐ろしさを国民に知らせないようにしていたとしか思えない。[…]。空襲は決して茶化せるようなものではなかった。事実これらの歌【「なんだ空襲」や「空襲なんぞ恐るべき」】は空襲が頻繁になるとうたわれなくなってしまった。『空襲なんぞ恐るべき』どころではなく、人々は雨か雪のように落下してくる焼夷弾の下を逃げまどい、防衛司令部の参謀たちは、安全な防空壕で息を殺していたのである。人々はいやというほど、空襲の恐ろしさを思い知らされたのである。(山中『ボクラ少国民と戦争応援歌*35』pp.164–166)

 ところで、当時の同盟国だったドイツでは、宣伝相ゲッベルスが「国民をよい気分にさせておくこと」を重視したため、ミュージカルを含む無害な娯楽映画が盛んに作られていました。そしてこれらの無害な娯楽映画の条件は、「大人向けの映画であっても子供が観てもかまわないような『安全さ』」を持っていることでした(瀬川裕司*36『ナチ娯楽映画の世界*37』p.225)。
 少なくとも表面的にはどこから見ても健全そのものの『ハナ子さん』は、大人向けの映画でありながら子どもが見てもかまわない「安全さ」を持っています。ナチスの基準からすれば、きわめて優秀な戦時映画という評価を受けていたかもしれません。
 しかしなぜか日本の検閲担当者たちは、『ハナ子さん』をそのままの形で公開することを許しませんでした。『ハナ子さん』は、日本映画史上まれに見る大幅なカットを命じられてしまうのです。
4.検閲官による異例の大幅カット
 『ハナ子さん』から切除された534mのフィルムは、上映時間に直せば約19分28秒となります。現在残っている『ハナ子さん』の上映時間は71分ですが、削除された19分を足せばちょうど90分(1時間30分)となり、検閲を受ける前は標準的な長編映画の長さであったことが分かります。作品全体の4分の1近くがカットされてしまったわけで、ここまで大幅な削除は前例のないことでした。
 短いスカートをはいた東宝舞踊隊(日劇ダンシング・チーム*38の当時の呼称)のダンサーたちが「正面向トナリ著シク大腿部ヲ露出シテ飛ビ上リ乍ラ前進スル大写箇所」が検閲官のお気に召さなかったのは当然かもしれません。衣装や仕草が色っぽすぎたり(ボーガス注:ミュージカル的な場面など)「米英的」であると見なされた場面は、ばっさばっさと切られていきました。
5.消されたハナ子さんの涙
 『ハナ子さん』に対する大幅カットの指示に対して、マキノ監督は激怒しました。彼は検閲担当者たちとの会議の模様を次のように回想しています。

 内務省情報局【内務省警保局検閲課と内閣情報局第四部(ほぼ同一組織)をごっちゃにした言い方】には熊埜御堂*39[くまのみどう]というボスがいて、その下のお役人が、が『ハナ子さん』という映画は「米英的である」、「敗戦思想」だ、絶対に許すわけにはいかん、と云う。
 どこが「米英的」かというと、たとえばデコちゃん(高峰秀子)がペットの狆を抱いて歩いたとか、肩を振って歌ったとか、灰田勝彦は(ボーガス注:ハワイ移民の子で)二世だから「日本的男性」ではないとか、そんなようなことばかりだった。『ハナ子さん』では、灰田勝彦はハナ子さんの夫の役をやった。
 内務省情報局に呼び出されて、私は、この映画のプロデューサー星野武雄と一緒に出かけて行ったのだが、星野はお役人に何も云ってくれない。仕方がないので、私一人で談判した。午後一時から真夜中の十二時まで! その間、お役人は、ただ「フィルムを切れ」の一言を繰り返すだけ。
 云うだけは云ってやろうと思った。
 「お役人さん、あなた方の御意見はよくわかりました。が、どうでしょう、そんな話は、映画が出来上ってからおっしゃったりせずに、最初から、各社の映画製作者に話をしてやったら。私は、この映画に関して云えば、会社が、いやお客さえ納得してくれれば、あなた方の思うように切って下さってけっこうです。『ハナ子さん』は、そもそも、国民の皆さんが一刻でも楽しんでくれて、明日へのお国のための仕事に励む力を少しでも回復してくれればという願いをこめてつくられた映画です。割当てがどんどん少なくなってゆくフィルムをあなた方に切られるなどと思ったら、わざわざ映画を撮りはしません。日本にいて国賊呼ばわりされたら、いったいどこへ行けばいいのでしょう。それとも、死ねとおっしゃるのでしょうか」。
 「馬鹿者! 帰れ!」とお役人に一喝されて、幕は下りた。何故私がこんなことまで云わなければならないのかと思って、阿呆らしくなった。
 私がわざわざこんなことを云わなくても、もっと偉いと自認している会社の首脳部の連中がきちんと云ってくれる方がずっと効果的なのだ。それが、何んや。いざとなったら、皆逃げてしまった。(マキノ『マキノ雅弘自伝*40』pp.107–110)

 日本映画史研究者の牧野守は『日本映画検閲史*41』の中で、戦争末期の検閲室で庶務係を務めた鳥羽幸信*42が、戦後の1961年に『キネマ旬報』の特別号に発表した手記「検閲時代」を引用しています。鳥羽の証言が興味深いのは、検閲官たちの判断の背後に軍部の意向が働いていたことを示唆している点です。

 戦争が厳しさを加える末期ともなれば、芸術作品は不急不要品として却下されていた。この中で唯一本の芸術作「無法松の一生」が生れているのは、思えば実に奇跡に近い。しかし完成された映画は約四百メートル以上の大カット【『映画検閲時報』の情報では294m(約10分42秒)のカット】を受けるに至った。この時の検閲室長K事務官は、巻中阪妻*43の松五郎が園井*44の未亡人宅を深夜訪ねる場面に及んで「これは夜這いではないか。車引きが軍人の未亡人に恋とは言語道断である。このような非国民映画は絶対通さんぞ!」と、検閲合同会議の席上で激怒したという。この映画の脚本をOKした担当官は叱責を受け、この映画の芸術性を大いに主張した検閲官も、K事務官の怒りの前に押し切られてしまった。(牧野『日本映画検閲史』p.507)

 牧野守によれば、鳥羽の証言に登場する「K事務官」とは、内務省事務官だった熊埜御堂定(くまのみどう・さだむ)という人物です(牧野『日本映画検閲史』p.507)。当時の検閲室のボスとして、さきほど引用したマキノ監督の回想にも登場していました。
 しかしだからと言って、内務省官僚の熊埜御堂定(くまのみどう・さだむ)を、『ハナ子さん』や『無法松の一生』をはじめとする当時の日本映画が理不尽な大量切除を受け、完全版が二度と復元できなくなってしまった事態に関する諸悪の根源とは断定できません。彼自身「誰かの顔色を見て仕事をする」人物であったのかもしれないからです。鳥羽幸信の言葉によれば当時の検閲室は「検閲官よりも憲兵司令部から検閲に立合う軍曹、曹長たちに主導権が移ったと見ていい」状態にありました(牧野『日本映画検閲史』p.507)。熊埜御堂はそうした軍曹・曹長たちの顔色を見て行動していた可能性も高いのではないでしょうか。
 検閲官たちは当時の基準で考えても切除する場所を間違えていたと言わざるをえません。切除されたフィルムでは、これまで懸命に明るく振舞ってきたハナ子さん(轟夕起子)が、ついにこらえ切れずに泣き崩れるのですが、出征兵士の妻として泣くわけにはいかないからオカメの面で顔を隠して泣く、それを(ボーガス注:出征する夫の)五郎さん(灰田勝彦)がやさしく慰め、そこに「海ゆかば」が流れるのです。そこから現存するラストシーンにつながり、映像にはオカメの面を外して微笑むハナ子さんが大写しされ、音声には映画前半で五郎さんとハナ子さんが二重唱をしていた「丘の青い鳥」が流れます。映像はススキが原にたたずむ二人に切り替わり、二人がゆっくりと向こうへ去っていくのに合わせて「終」の文字が表示され、映画は終わります。観客たちにハナ子さんにどっぷりと感情移入させることで、この映画は戦時プロパガンダ映画として、より高い効果を上げることになっていたでしょう。
 内務省事務官の熊埜御堂定(くまのみどう・さだむ)をボスとする検閲担当者たち(あるいはその周囲の軍人たち)は、効果的なプロパガンダ映画とは何かという本質を考えないまま、「(ボーガス注:ミュージカル的な演技など)米英的な仕草はいかん」とか「(ボーガス注:涙を見せるなど)女々しい仕草はいかん」といった表面的な基準にこだわったあげく、観客の共感を誘う場面を大幅に切除し、『ハナ子さん』のプロパガンダ映画としての価値を著しく損なってしまったのです。
 その結果として『ハナ子さん』は、どこから見ても矛盾に満ちた、言わば徹底的に中途半端な映画として後世に残ることになりました。斬新な振付や撮影法を取り入れたモダンなミュージカル映画としては、歌や踊りの多くが(ボーガス注:ミュージカル的で、米英的だとして)切除されてしまったために物足らないものになっています。戦時プロパガンダ映画としても、観客を感情的に揺り動かすはずの場面が削除されているので、尻切れトンボで詰めの甘いものになっています。フィルムが大幅に切除されていることによって、戦時中の検閲の暴力性を象徴的に記録した映画だという言い方はできるかもしれません。しかしそれとて切られた場面が特に反戦的というわけではなく、どちらかと言えば戦争協力的な場面が切られているわけですから、そこには反戦思想を弾圧する検閲の理不尽さが記録されていると言うより、(ボーガス注:【1】敵国「米英」を真似たミュージカル的なシーンなど絶対に許さない、【2】若い女性(東宝舞踊隊(後の日劇ダンシングチーム))が太ももを露出する、性的に扇情的シーンなど絶対に許さないという)官僚主義的な気配りのせいでもともと戦争協力的な映画をみすみす台無しにする検閲の不条理さが記録されているのです。むしろそうした締まりのない不条理さを記録に留めたことが、文化史資料としての『ハナ子さん』の最大の価値かもしれません。
6.『ハナ子さん』が問いかけるもの
 官僚支配の一例としての『ハナ子さん』検閲問題は、「実質的な効果を上げるためでなく表面的な体裁を取り繕うために政策が進められる」という状況の不条理さを如実に示しています。また、コミック・ソングめいた「なんだ空襲」が流れる『ハナ子さん』の防空訓練シーンは、焼夷弾の空襲を受けた住民に対して避難ではなく消火活動を要求するという明らかな愚策が、(中略)音楽製作者や放送局、映画製作者といったマスメディア関係者、さらに地域の住民へと、あたかも当然のことのように浸透していく過程を見事に記録に留めています。
 同じようなこと(官僚主義や不条理さ)は、今なお何度も繰り返されているのではないか。それこそ『ハナ子さん』という作品が、現在のわれわれに問いかけている疑問ではないでしょうか。

 銃後の一般市民に「ぜいたくは敵だ」とか「空襲の際には避難せず消火活動にあたらねばならない」といった戦争協力的な考え方を植え付けるために作られた、戦時プロパガンダ映画でありながら、1930年代アメリカのミュージカル映画、特にバズビー・バークレー振付によるレヴュー場面の影響を濃厚に受けた、明るく楽しいミュージカル映画だったため「英米的」と見なされた部分(ミュージカル的な部分など)が検閲で大幅カットされることになります。
 なお、左翼でもなく、反戦派でもなく、愛国者を辞任していたであろうマキノ監督(彼の作成した映画「ハナ子さん」も彼の立場では愛国映画)から

日本にいて国賊呼ばわりされたら、いったいどこへ行けばいいのでしょう。それとも、死ねとおっしゃるのでしょうか

と言うぼやきが出ることで分かるように「ウヨ連中」が言うほど「愛国」とは単純な話ではない。

『ハナ子さん』(1943年2月25日・東宝・紅系・マキノ正博)|佐藤利明(娯楽映画研究家・オトナの歌謡曲プロデューサー)の娯楽映画研究所*45)2021.9.14
 懐メロ番組で流れる(ボーガス注:轟夕起子が歌う)「お使いは自転車に乗って」を聞いて、楽しく明るい歌だなぁと思っていた。この曲が、戦時下の昭和18(1943)年に作られた国策映画『ハナ子さん』(1943年2月25日、東宝マキノ正博)の主題歌である*46と、のちに知って驚いた。
 さらに1982年、17歳、高校二年の時、出たばかりのビデオ『ハナ子さん』を三省堂書店のビデオブースで観てさらに驚いた。この映画のタイトルバックは、昭和15(1940)年に東宝舞踊隊と改名した日劇ダンシングチームのダンサーたちによるプロダクション・ナンバー。昭和18年に「ハリウッド・ミュージカル」の手法!*47。これだけでミュージカル・ファンの僕は驚いた。さらに「昭和十四年から十六年までのハナコさんのうた物語」として、次々と登場人物たちが歌い「サザエさん」のような朗らかなホームドラマが展開し、ハナ子さん(轟夕起子)と五郎さん(灰田勝彦)の婚約時代、甘い新婚生活が描かれる。特に後半、およそ緊張感のない「隣組の防空訓練」と「米軍機による東京空襲*48」のシーン。生きるか死ぬかの緊迫感が一切なく、登場人物たちが、心配しているのはヒロイン「ハナ子さん」の出産なのである。
 その時、「ああ、プロパガンダというのはこういうことなのか」と筆者は感じて、戦前の喜劇映画、音楽映画の研究を始めた、そのきっかけとなったのは、1982年の『ハナ子さん』体験が大きい。
 『ハナ子さん』が製作された昭和18年(1943年)1月には、内務省情報局によるいわゆる「ジャズ禁止令」で「ジャズなど英米楽曲約1000種の演奏を禁止*49」された。もちろんレコード演奏もN Gとなった。
(中略)
 ラストの「ハナ子さんの涙」を描くことがマキノ正博監督のモチベーションだった。しかし、現存するフィルムでは、このシーンに不自然なカットが観られる。ハナ子さん(轟由起子)がススキの原っぱに駆け込んで、その場に倒れ込み、一瞬姿を消す。五郎さん(灰田勝彦)が「ハナ子!」と叫ぶ箇所で、映像も音楽も不自然に飛んで、次のカットとなる。
 内務省警保局検閲課により6分18秒に渡る大幅カットが行われたのである。その理由は「公安を害する」だった。マキノ雅弘は自伝「映画渡世・天の巻―マキノ雅弘自伝」(平凡社)で、この時のことをこう回想している。

 お役人が『ハナ子さん』という映画は「米英的である」、「敗戦思想」だ、絶対に許すわけにはいかん、と云う。
 どこが「米英的」かというと、たとえばデコちゃん(高峰秀子)がペットの狆を抱いて歩いたとか、肩を振って歌ったとか、灰田勝彦は(ボーガス注:ハワイ移民の子で)二世だから「日本的男性」ではないとか、そんなようなことばかりだった。
 内務省情報局に呼び出されて、私は、この映画のプロデューサー星野武雄と一緒に出かけて行ったのだが、星野はお役人に何も云ってくれない。仕方がないので、私一人で談判した。午後一時から真夜中の十二時まで! その間、お役人は、ただ「フィルムを切れ」の一言を繰り返すだけ。

 「映画検閲時報」によると『ハナ子さん』が検閲で切除されたのは543メートル(約19分)である。
・第五巻 
 (ボーガス注:桜井五郎(灰田勝彦)の妹、桜井ハナ子(五郎の妻:轟夕起子)の義妹)チヨ子(高峰秀子)が軽薄なる態度で、歌を唱いながら犬を連れて歩く箇所、切除33メートル(約1分12秒)(理由・風俗)
・第六巻 
 草原における少女たち(東宝舞踊隊)の舞踏の画面中、縦列にて一人ずつ正面向きとなり、著しく大腿部を露出して、飛び上がりながら、前進する大写し箇所、切除九メートル(約20秒)理由・風俗。
(中略)
 今でこそ「何が問題なのか?」と思ってしまうが、当時は、検閲官の判断でこれだけのカットがなされたのだ。他の娯楽映画を見ていても「意味不明」の飛び方をしている作品は少なくない。古川緑波は日記で、この『ハナ子さん』の検閲について、次のように記している。

昭和18年2月28日
 東宝映画最近封切済の「ハナ子さん」は、ズタズタにカットされた由。それも検閲官のめちゃめちゃな意見で、やれ灰田の顔が間が抜けてるからとか、ジェスチュアが米英的だとか言って切ったのださうだ。えゝイ、小役人に任せて置いていゝのか! 実際!(「古川ロッパ日記・戦中篇」晶文社

お使ひは自転車に乗って (轟夕起子)。|ねこや2023.10.16
 轟夕起子の歌う「お使いは自転車に乗って」。
 東宝映画「ハナ子さん」(1943年公開)の主題歌でした。此の映画は杉浦幸雄の同名漫画が原作で、昭和13年秋から「主婦之友」にて連載されて大変な人気を獲得しています。
 また東宝舞踏団によるダンスの挿入や、冒頭のコミカルな人物紹介、数々の時局歌がミュージカル仕立てで登場するなど見所が多い反面、倹約生活の奨励や日独伊三国同盟締結を万歳三唱で祝うシーンなど、戦意高揚を促す一面も備えた映画でした。
 主題歌「お使いは自転車に乗って」は、歌手としても活躍した轟夕起子の最大のヒット曲であり、戦況が悪化の兆しを見せ始めた中でも大いに愛唱されました。

 ググったところ、「お使いは自転車に乗って」は戦後に「演歌の女王美空ひばりや「寅さんのさくら」倍賞千恵子がカバーしてるようです。
 倍賞のカバーについては

倍賞千恵子/日本の映画をうたう - 小梅日記2021.8.5
昭和50年発売
第一面
1. 花言葉の唄(新興キネマ*50「初恋日記」1936年)
2. あなたと共に(松竹映画「あなたと共に」1955年)
3. 麗人草の歌(松竹映画「麗人草」1946年)
4. ここに幸あり(松竹映画「ここに幸あり」1956年)
5. 月よりの使者(大映映画「月よりの使者」1954年)
6. 祇園小唄(マキノ映画「絵日傘」1930年)
第二面
1. 旅の夜風(松竹映画「愛染かつら」1962年)
2. お使いは自転車に乗って東宝映画「ハナ子さん*51」1943年)
3. 誰か夢なき(新東宝映画「遥か夢なき」1947年)
4. むらさき小唄(松竹映画「雪之丞変化」1963年)
5. 星の流れに(松竹映画「こんな女に誰がした」1949年)
6. 涙の渡り鳥(松竹映画「涙の渡り鳥」1933年)
 残念ながらどの映画も見たことが無く題名を知っているのも赤字の二作だけです。余りにも知らないので調べてみたのが公開の年、昭和で表すと昭和5年から38年ですから昭和34年生まれの私が知っている訳が有りません。
 どの曲もプロの作詞、作曲家による映画の主題曲ですから悪い訳ないけど、ひと昔以上前の選曲で「日本の映画をうたう」、よく発売したと思います。キングレコードに拍手です。

を紹介しておきます。

無法松の一生 1943年版 - おじさんの映画三昧2020.5.9
 全長は99分あったが、内務省による検閲で松五郎が未亡人に想いを打ち明けるシーンが、時局柄、軍人の未亡人の恋愛は戦地の将兵の士気をくじくと考えられ10分カットされた。
 この時、検閲官は「本当はこれをカットするのは惜しい。あと何年かすれば戦争も終わるだろうからそれまで保留という扱いにしたらどうだろう」と言ったが会社側は(ボーガス注:費用回収するために)カットしてでも公開しろという意向だったため、稲垣は泣く泣くフィルムをカットした(このシーンのフィルムは失われており、スチール写真のみが現存する)。
 さらに戦後占領軍による検閲で封建的だとされ、吉岡敏雄が学芸会で唱歌「青葉の笛」を歌うシーンなどが8分カットされた。
 なお、後者のカットされたシーンが(ボーガス注:『無法松の一生』で撮影監督を務めた)宮川一夫の遺品の中から発見され、2007年9月28日にカットされたシーンが特典映像として収録されたDVDが角川エンタテインメントから発売された。
 カットを強要された稲垣浩が、怒りを込めて撮ったのが三船敏郎主演によるリメイク版「無法松の一生」なのだが、本作は稲垣浩の無念の思いが伝わってくる作品として見ると、映画の出来栄えとは別に、映画史の一面としての興味が湧いてくる作品でもある。

「戦時も映画屋はくじけなかった」二度検閲された名画『無法松の一生』、修復者の思い(山崎エマ) - エキスパート - Yahoo!ニュース2020.9.1
 映画評論家の白井佳夫さん*52によると、試写をした内務省の検閲室長は、松五郎が未亡人を訪ねて告白しようとするクライマックスシーンを見て激怒したという。検閲室長は「人力車夫が大日本帝国陸軍軍人の将校の未亡人に、恋幕の情を抱くなどとは、もってのほかである」として10分の削除を命令する。
 作品に好意的だった検閲室長の部下には「検閲で切るのはもったいない。検閲保留にして少し待ったらどうだ」と提案を受けたが、費用を回収する必要のあった会社側が「少しぐらい切られても封切る」と譲らなかったという。検閲官に「そちらで自発的にやってくれ」と言われ、稲垣は自らの手で、自分の映画を切った。
 映画が“完全版”として再び人々の前に現れるのは、1958年のことだ。稲垣はこの年、検閲前と同じ脚本と絵コンテで、三船敏郎が主演のカラー作品として制作。作品はベネチア映画祭で金獅子賞を受賞した。

『無法松の一生』(阪東妻三郎版)|小原雅志(映画&海外ドラマライター)2023.3.16
 検閲で大幅にカットされても、松五郎とよし子の情感は十分に伝わるし、これはこれで十分に傑作だといっても過言ではない。それほど、この映画は人々の心を動かす力を秘めている。
 もし、検閲され、カットされたフィルムがどこかに残っていて、阪妻版の完全バージョンが成立していたら、日本映画史上に残る大傑作が誕生していたに違いない。後の三船敏郎版で完全な形となったが、阪妻の完全版が観られないのは残念でならない。だが、不完全であるからこそ、この映画は後世に語り継がれる作品になったのだと思う。当時の稲垣監督の思いのつまった阪妻版は、筆者にとって大好きな1本である。

青い空に白い雲 : 無法松の一生 NGカットはこのシーン - livedoor Blog(ブログ)2024.4.24
 (ボーガス注:内務省GHQによるフィルムカットに我慢がならなかった)監督の稲垣浩は1958年に同じ伊丹万作脚本で「無法松の一生」をセルフリメイクし、東宝のカラー作品として再作製(松五郎役は阪東妻三郎三船敏郎、吉岡夫人役は園井恵子高峰秀子阪妻はすでに病没、園井は広島で被爆死)。これが第19回ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞に。「金獅子賞」って、世界三大映画祭で最も歴史あるヴェネツィア国際映画祭の最高賞ですよ。このことからも、この作品のスゴさが分かります。
 その後、1963年東映で、1965年大映でと計4回の映画化。映画化された4本の全作品は、どれも忠実に1943年の原作映画を再現しているのですが、その中から、最後の1965年大映作品(監督・三隅研次、松五郎・勝新太郎、吉岡夫人・有馬稲子)で、この「当局の検閲」にボロボロにされた名作「無法松の一生(1943年公開)」の、どんな部分が「削除しろ!!」と命じられたのか、を見て行きましょう。
 戦時中の内務省警保局による検閲。1934年(昭和9年)に映像作品の統制強化のために映画統制委員会が設置、1939年、映画法制定と検閲は強化され、警保局長は警視総監レベルの重要ポストで厳しく検閲に臨みました。特に1940年7月からは統制が強まり、1943年製作の「無法松の一生」はそんな渦中でした。
 軒下で将棋を指していた松五郎(ボーガス注:1943年版は阪東妻三郎、1965年版は勝新太郎)が、陸軍将校の吉岡大尉(ボーガス注:1943年版は永田靖、1965年版は宇津井健)の未亡人(ボーガス注:1943年版は園井恵子、1965年版は有馬稲子)に「息子が友達たちと他校との喧嘩に参加するようなので心配だ」と相談を受けます。松五郎は「坊ちゃんには怪我はさせやしませんから御安心を ! 」と夫人を安心させて別れます。
 それを見ていた松五郎の将棋相手が、夫人が去ったあとニヤニヤしながら小指を立てて「あの夫人はあんたのアレかい?」みたいに冷やかしているシーン。
 これがNGでカット。
 相手は未亡人とはいえ、陸軍大尉だった軍人の妻です。人力車の車夫である松五郎ごときの「アレ」と冷やかされるなど不謹慎にもほどがある、です。
 このシーンのあと、冷やかした男は松五郎に思いっ切り頭を叩かれますが、内務省警保局としては、それだけじゃダメでした。切除(カット)です。
 次は居酒屋のシーン。昔からの仲間の熊吉(ボーガス注:1943年版は尾上華丈、1965年版は遠藤太津朗)と酒を吞んでいるシーンですが、ここで松五郎は、恩ある吉岡大尉の未亡人とその忘れ形見の息子・敏男(ボーガス注:1943年版は川村禾門、1965年版は大塚和彦)に対する奉仕の歳月の間、ぱったりやめていた酒を、また呑み始めていることを語ります。そして、父親が酒が原因の心臓麻痺で亡くなったから酒が怖かっただけで、俺も酒でどこかで頓死するだけだとヤケになっています。で、ここでこのシーンは終わってしまいます。
 この居酒屋に貼ってある美人画の大写しで、酒場シーンは終わります。
 実は、松五郎が酒をまた吞み始めた背景には、敏男が進学で熊本へ去り、また青年となった敏男が自分を慕わなくなった寂しさがあり、それに加えて、吉岡夫人が独居となり、男としては不純なる思いのひとつふたつも抱いてしまう、そんな彼が、自らの心の中のケガレから目を背けようと、酒の力を借りている気配も感じます。
 そんな流れの場面が、実はこの後に続くのですが、(ボーガス注:「車夫ごときが、陸軍将校の未亡人に恋慕するとは許せない」と検閲官が思ったのか)全部NGカットされてしまっています。
 友人の熊吉は、今日は真剣な話があると身を乗り出し、松五郎に縁談をすすめるのです。松五郎が鼻で笑うと「ちっとは人の言うことも聞け」と熊吉は迫ります。すると、「うるさか !」と松五郎は相手にせずに、じっと先の大写しの美人画を見つめるのです。そして、そこに吉岡夫人の姿をダブらせている自分に気づきます。
 当然、内務省警保局はNGカットのシーン。軍人の未亡人を美人画ポスターにタブらせる妄想など不謹慎にもほどがありますから。
 松五郎は縁談をすすめる熊吉を相手にせず、美人画ポスターをくれと居酒屋の主人に頼みます。「あげてもいいが、そげんなもん、一体、どげんすっとじゃ?」と主人がききます。
 「こいつが最前から嫁とれ嫁とれと、うるそうていかんけ、ハハハ、わしゃこの別嬪(べっぴん)ばもらおうと思っちょるんじゃい。この別嬪なら、めしを食わせんでも良かろう、ハハハ」と松五郎。そしてポスターを剥がします。
 そこでこの居酒屋シーンは終わるんです。内務省カット版だと、松五郎の内面がなんにも伝わらないシーンになりますよね。
 これがラストの名シーンの伏線となっているのに....。
 で、内務省警保局のOKしたラストシーンは、1943年大映無法松の一生」の坂東妻三郎の祇園太鼓乱れ打ちの名シーンから。祇園太鼓シーンにオーバーラップして、今までの回想シーンが流されて、突然としてヒラヒラと雪の舞い散るシーンに。そして彼の日々の生活を象徴する人力車の車輪の回転が、そこでピタリと止まったかと思うと、彼の遺品整理のシーンへと。
 「あれ? 死んじゃったのか....」です。
 では、NGカットとなった一連のシーン。
 酒に酔い、ボロボロになった例の美人画の前で眠りこける松五郎の姿。
 ここでふと、彼は吉岡夫人宅へと向かうのです。
 松五郎の急な来訪に驚きながらも、吉岡夫人は笑顔で「寒いから中へ入って」と促します。「お珍しいこと !」と夫人が言っているので、松五郎が独り住まいの夫人宅へは来ていないことが分かります。
 松五郎は無言です。来意も告げません。そして夫人に促されるまま、黙って火鉢のある部屋に入って行きます。彼の頬に一筋の涙が伝うのです。
 吉岡夫人は、そんな松五郎の常軌を逸した態度に驚きます。
 「松五郎さん ! あなたどうかされたんですか?。言って下さい !」
 松五郎はここでやっと口を開くや「奥さん、俺はもう帰りますばい。二度とお目にかかることはなかですたい」と告げ、夫人は愕然とする。
 松五郎は「奥さん、俺の心は汚か ! 」と土下座します。そして裸足のまま玄関から飛び出して行ってしまいます。松五郎は、居酒屋に立ち寄り一升瓶を手にすると、ふらつく足取りで雪の中を歩いていきます。そして、そのまま、雪に埋もれて死んでしまいます。
 1943年版は回想シーンの挿入で尺を埋めて、この雪降る雪原シーンで終了という呆気なさ。「陸軍将校の未亡人宅に押しかけて、夜這いまがいの行為をするシーンなんてダメ」と検閲官は憤慨していたそうです。また「酒に酔ってふらついての頓死なんてダラシノない最期もダメ」と検閲官はオカンムリ。この作品の醍醐味シーンがお陰でオールカットというわけです。
 ただ最後の遺品整理のシーンで、彼が吉岡家から頂いた祝儀袋は中身に手もつけずにすべて大切に束ねており、また夫人と息子・敏男名義の貯金通帳が出てきて、そこに少額だが定期的に貯蓄をしてあるのが分かった....というお涙頂戴のラストの着地は見事に決めて、その手前までの大量カットの穴埋めをしてはいます。
(もっとも、このラストは原作の小説にも共通する終幕)
 ちなみに、1943年版作品の、内務省によるカット部分のフィルムが戦後も見つからず、永遠に見れない状況らしいです。
 では、戦後に公開されるにあたっての進駐軍(GHQ)による切除(カット)部分はどこだったのでしょうか。
 これはむしろ単純です。「日露戦争での戦勝祝賀会シーンがダメ」は当然。ロシア(ソ連)は連合国側ですからね。ただ1965年版(監督・三隅研次、松五郎・勝新太郎、吉岡夫人・有馬稲子)にはこのシーンはない。上の画像は1958年版(監督・稲垣浩、松五郎・三船敏郎、吉岡夫人・高峰秀子)です。しかもほんのワンカットです。
 第一次大戦での青島陥落の戦勝行列は、相手がドイツ軍だからOKになりそうなものですが、「軍歌を歌っての提灯行列だから(ボーガス注:軍国主義的で)ダメ、カット」でした。ですから、提灯行列のあとに計画されていた敏男たちの他校との乱闘シーンは、いきなり始まるというバタバタ展開でした。
 あと、学芸会で敏男が唱歌「青葉の笛」を歌うシーンがNGに。「青葉の笛」なんて、「一の谷の戦に敗れた平家の哀れを歌っただけの歌じゃん ! 」と思うでしょうが、「敗者を美化する」内容の歌は(ボーガス注:敗者「日本軍」の美化につながると思ったのか?)聴衆に聞かせてはならん、とのことで切除(カット)でした。
 なお、GHQによるカット部分は発見されているそうです。

 なお、話が脱線しますが

無法松の一生 (1943年の映画) - Wikipedia
 吉岡夫人の役には当初、初代・水谷八重子(1905~1979年:二代目水谷八重子(1939年生まれ)の母)を候補に挙げていたが、公演があったため断念。続いて東宝入江たか子(1911~1995年)を呼ぶことにするが、東宝では入江と大河内傳次郎(1898~1962年)の主演で『無法松の一生』をやる計画(但し実現せず)もあったため、大映に貸してくれずこちらも断念。次に結婚して宝塚歌劇団を退団していた小夜福子*53(1909~1989年)に出演依頼をするが、折悪しく小夜は妊娠中で、かなりお腹が大きくなっていて出演を辞退した。しかし、小夜は「もし、ほかに候補の方がなかったらと思ってこの人を連れてきたのです、私よりもピッタリだと思います。」と、宝塚歌劇団の後輩にあたる園井恵子(1913~1945年)を稲垣浩監督らに紹介した。

ということで「無法松の一生」に園井恵子が出演できたのは全く僥倖でした。
【参考:小磯内閣の統制緩和】

古川ロッパ - Wikipedia
 戦争末期の1945年、当局は国民の士気向上のために従来の方針を改め、喜劇への検閲を廃止した。ロッパは渋谷の東横映画劇場を本拠地とする公演に加え、空襲下の京浜地区で工場への慰問活動を行っている。


◆兵士と戦場(山田朗*54
(内容紹介)
 「日本兵士の悲惨な戦争実態」について述べています。
 拙記事新刊紹介:「前衛」2025年8月号(その1) - bogus-simotukareのブログで紹介した

藤原彰*55『餓死した英霊たち』(2001年、青木書店→2018年、ちくま学芸文庫)
◆吉田裕*56『日本軍兵士:アジア・太平洋戦争の現実』(2017年、中公新書)、『続・日本軍兵士:帝国陸海軍の現実』(2025年、中公新書

と「問題意識と内容(悲惨な戦場実態を描く)」はかなりかぶります。
1)日本軍では食料補給は軽視*57され、基本「食料は現地で調達」です。勿論「金銭購入」で現地民から調達できればいいですが、何らかの理由(例:抗日精神から売ってくれない、あるいは単に買値が安すぎるとして売ってくれない*58、あるいはそもそも現地民がいない)でそれができなければ「略奪→住民の抵抗で戦闘(最悪、日本兵が死亡)」「(餓島と呼ばれたガダルカナル島のように)略奪する相手や食料すらない→餓死」ということになります。
2)また太平洋戦争の南方戦線ではマラリアなどの感染症が横行していましたが、補給を軽視する日本軍では「食料や医薬品の不足」で体力を失った多くの兵士が感染症で病死します。
3)但し「餓死や感染症」はまだマシであり戦争末期には「人間魚雷・回天」などの「外道の戦術」特攻(自殺攻撃)が実行されます。


ソ連占領下の「満洲」で(平井和子*59
(内容紹介)
 『日本占領とジェンダー:米軍・売買春と日本女性たち』(2014年、有志舎)、『占領下の女性たち:日本と満洲の性暴力・性売買・「親密な交際」』(2023年、岩波書店)という「筆者の過去の著書」で想像が付くでしょうがソ連占領下の満洲」での「ソ連兵による日本人への性暴力」が論じられています。
 赤旗が紹介する

きょうの潮流 2025年7月27日(日)
▼太平洋戦争の末期、「満州」に渡った黒川開拓団は、敗戦とともに命の危険が迫る状況に。生き残るためソ連軍に助けを求めた開拓団の幹部は、その見返りとして15人の女性を差し出しました*60
▼身も心も深い傷を負った女性たちは、ふるさとに戻ってからも中傷や偏見にさらされました。封印されてきた負の記憶と事実。それが解き明かされていく過程と、被害女性の「その後」の姿を記録してきたドキュメンタリー映画黒川の女たち」が公開中です。

という映画『黒川の女たち』(現在公開中:公式サイト映画『黒川の女たち』公式サイト)もソ連占領下の満洲」での「ソ連兵による日本人への性暴力」の一例です。 
 映画『黒川の女たち』や、同様の問題を取り上げたNHKETV特集取材班『告白:岐阜・黒川満蒙開拓団73年の記録』(2020年、かもがわ出版)、平井美帆*61の著書『ソ連兵へ差し出された娘たち』(2022年、集英社)については、後で関係記事を紹介しておきます。おそらくこうした「ソ連軍への性接待」は「黒川開拓団以外の開拓団」でもあったことでしょう。
 なお、平井論文が指摘していますが、
1)黒川開拓団男性幹部が「黒川の女たち」の犠牲(ソ連兵の性暴力を甘受したこと)を「貴い犠牲」として、評価するようなことを言う一方で「日本の恥だから口にするな」と箝口令を敷くこと
2)「黒川の女たち」のような「性暴力被害」を「貴い犠牲」と美化する一方で樺太1945年夏 氷雪の門 - Wikipedia(1974年公開)で知られる真岡郵便電信局事件(女性電話交換手9名がソ連軍による性暴力を恐れ、青酸カリを服毒し、死亡。映画では二木てるみ(1949年生まれ)、藤田弓子(1945年生まれ)などが女性交換手を演じた)などのような自決(真岡事件以外にも、そうした女性の自決は色々とあったとされる)を「ソ連兵の性暴力から純潔を守るための行為」として美談であるかのように描き出すことを「ある種の歪み」として批判しています。

福島みずほ参議院議員社民党党首)
Sep 22、2025
 映画「黒川の女たち」を見た。長野県の満蒙開拓平和記念館で「黒川の女たち」の展示を見た。1945年、関東軍が敗走する中でソ連兵に未婚の女性たちを差し出して「性接待」をさせることで身を守ろうとした。そのことを証言する女性たち。孫が「(ボーガス注:性接待を告発した)おばあちゃんを誇りに思う」と言うのは素晴らしい。ぜひ見てください。

大椿ゆうこ(社民党副党首、前参議院議員
Sep 22、2025
 映画「黒川の女たち」を観る。新聞報道で、この事実を知った時の衝撃を今でもよく覚えている。

かもしだ芳美/東久留米市議会議員/日本共産党
Sep 21, 2025
・昨日午後は渋谷のユーロスペースで『黒川の女たち』を観る。言葉にならなかった昨日。
 「そういう歴史があったということを伝えていかなくてはならない」と語られた辛く悲しい歴史の事実を、私たち戦争を知らない世代がどう受け止めて次の世代に伝えていくかが、戦後80年のいま問われていると思いました。
・本*62が届きました。読みます。

乙女の碑 - Wikipedia
 岐阜県白川町の佐久良太(さくらだ)神社境内にある満洲国における黒川開拓団の慰霊碑の一つ。1982年に建立された。当初「ソ連軍への性接待」に関する説明文は無く、戦後70年以上詳細は秘密にされていたが、2013年頃から被害女性たちが性接待(性暴力被害)に関して証言し、事実が明るみに出た。2018年には碑文に、性接待についての説明文が追加された。
 2016年に平井美帆が、被害女性3名の証言を含むルポを発表し、性接待の事実が広く知られることとなった。(平井『忘れたいあの陵辱の日々・忘れさせない乙女たちの哀咽」(光文社『女性自身』(2016年10月4日号))。
 2017年8月にはNHKETV特集満蒙開拓団の女たち」(第54回シカゴ国際テレビ賞受賞)が作成された。NHKETV特集満蒙開拓団の女たち」は、NHKETV特集取材班『告白:岐阜・黒川満蒙開拓団73年の記録』(2020年、かもがわ出版)として出版された。
 平井美帆の著書『ソ連兵へ差し出された娘たち』(受賞後、「2022年、集英社」として刊行)は、2021年に第19回開高健ノンフィクション賞*63集英社)を受賞した。

 性接待といえば最近では「フジテレビの中居正広問題(例えば中居正広・フジテレビ問題 - Wikipedia参照)」を連想する人が多いでしょうが、戦後日本にはこうした「負の歴史」「黒歴史」があったわけです。
 「ソ連兵と中居正広」「フジテレビと黒川開拓団」という違いはあるものの「強者(フジの場合は中居、黒川開拓団の場合はソ連兵)にへつらうために女性を犠牲にする」という「女性への性加害を容認する精神構造」はフジテレビ幹部と黒川開拓団幹部「どちらも共通する」かと思います。

黒川の女たち - Wikipedia
 満蒙開拓移民として岐阜県黒川村(現・白川町)から渡った黒川開拓団の女性たちが、敗戦後の引き揚げを前にソ連軍兵士への性接待を強いられた実態をとり上げる。

告白 岐阜・黒川 満蒙(まんもう)開拓団73年の記録 川恵実(めぐみ)、NHK ETV特集取材班:東京新聞デジタル2020.6.21
 黒川開拓団約六百五十人は、終戦の日を境に、土地や家を奪われていた現地の人々から激しい襲撃を受けはじめる。隣村の開拓団は集団自決。追い込まれた黒川開拓団は、近くに駐留していたソ連兵に警備などを依頼し、見返りとして女性による「接待」を提供することになる。

ソ連兵へ差し出された娘たち 平井美帆著:東京新聞デジタル2022.3.27
 この開拓団では、ソ連軍兵士の性暴力を防止し、ソ連軍との間に良好な関係を作り上げるため、数え年十八歳以上の未婚の女性をソ連兵の「接待」のために「提供」していた。男性幹部による一方的な決定である。著者は「接待」の生々しい実態を、関係者の証言、特に被害者となった女性たちの証言から明らかにしていく。

文化放送「大竹まこと・ゴールデンラジオ!」(2022.5.22)
 15時すぎからの【大竹紳士交遊録】本日は #深澤真紀さん*64。テーマは、「平井美帆『ソ連兵に差し出された娘たち』という本から『戦争と女性を考える』」です。ぜひお聞きください。

日本人の「娘」を兵隊相手の「接待」に提供した…満州で起きた衝撃の事実とは? 作家・平井美帆さんに聞く | 無料のアプリでラジオを聴こう! | radiko news(ラジコニュース)2022.7.4
 今年1月に出版された「ソ連兵に差し出された娘たち」で、第19回 開高健ノンフィクション賞を受賞された、ノンフィクション作家の平井美帆さんを、7月1日の「大竹まことゴールデンラジオ」(文化放送)にお招きし、歴史に埋もれていた悲劇についてお話を伺った。
◆大竹
「本のタイトルは『ソ連兵へ差し出された娘たち』。『娘』という言葉を使ったことに意味があるそうですね」
◆平井
「この本に書いたのは当時17歳ぐらいだった人たちの話なんですが、今より身長も低いし自由恋愛の時代でもなく、本当にまだ子どもだったので、本のタイトルはよく使われる『女たち』より『娘たち』にしてくださいと、お願いしました。彼女たちは、親が決めた海外移住に従った普通の子だったんですね。そんな普通の子が、ある日、日本が戦争に負けて、上の人から頼まれて、言葉も通じない外国人兵のところに行ってこいと言われた、そんな状況と繋がるように感じてほしいと考えました」
◆大竹
「その女性たちは、満州国が崩壊した時、600人余りの黒川開拓団という共同体の安全と引き換えに、ソ連兵への『接待』に出された。というんですが、この『接待』という言い方が妙に心に引っかかりました」
◆平井
「はっきり言ってしまえばレイプされたわけです。聞くたびに微妙な気持ちがしたので、本の中では全部の『接待』に鉤括弧をつけています」

 「ソ連兵に差し出された娘たち」を取り上げたことといい、過去の

大竹まことゴールデンラジオ 「赤旗」日曜版に注目/高すぎる 国保値上げに怒り2024.8.1
 文化放送の「大竹まこと・ゴールデンラジオ!」は30日、「しんぶん赤旗」日曜版(7月28日号)1面の「国保に家計つぶされる」(写真)をとりあげました。

維新・馬場代表の暴言/メディア・政界から批判/有権者をも否定 撤回すべきだ2023.7.27
 25日の文化放送大竹まこと・ゴールデンラジオ!」で大竹氏は、「民主主義をどう思っているのか。共産党を支持する人がいて、何万人、何十万人が選挙で投票している」と苦言を呈しました。

といい「大竹まこと・ゴールデンラジオ」と「MCの大竹氏(俳優、コントユニット『シティボーイズ』メンバー)」については俺は「社会派イメージ」がありますね。

「生きて日本に帰るために…」ある女性の死から戦争と平和を考える - RKB毎日放送2024.1.15
 旧満州(現在の中国東北部)で日本の敗戦直後、開拓団を襲撃から守るため、旧ソ連兵に対して、「『性接待』をした」と証言した岐阜県郡上市の、佐藤ハルエさん(99)が1月18日、老衰のため死去した。
 ハルエさんは2013年ごろから、満州での出来事を公の場で語るようになった。
 ハルエさんは80歳を過ぎていた。「もう時間がない」との思いからだった。出身地の岐阜県白川町(旧黒川村)には、「性接待」の事実を、後世に伝えるための碑文が設けられている。私も、見学したことがある。
 「国策」という名前のもとに、満州へ国民を送り込んだ大日本帝国は、軍隊(関東軍)は、その国民を置き去りにした。国は国民を守ってくれない。そして、生きるために、きょう話した悲しい出来事が起きた。私はそれを伝えたかった。

「旧ソ連兵に性接待」証言、佐藤ハルエさん死去 99歳 [岐阜県]:朝日新聞2024.1.20
 敗戦直後、旧満州中国東北部)で開拓団を襲撃から守るため、旧ソ連兵に「性接待」したと証言した岐阜県郡上市佐藤ハルエさんが18日、老衰のため死去した。99歳だった。喪主は長男・茂喜さん(70)。
 旧黒川村(現白川町)の出身。一家で黒川開拓団として旧満州に入植した。戦後の混乱期、暴徒の襲撃に遭い、近くに駐屯していた旧ソ連兵に警護を依頼した際、開拓団幹部の指示で、ハルエさんら17~21歳の未婚女性たち約15人は「性接待」を強いられたという。帰国後はいったん黒川に戻ったが、いづらくなり、郡上市内の開拓に参加し、苦労を重ねた。
 2018年、岐阜市で行われた集会では「『夫が兵隊に行かれた奥さんには頼めん。あんたら娘が犠牲になってくれ』と言われた」と開拓団幹部の要請だったことを赤裸々に語った。
 証言は新聞、テレビにも報じられ、大きな反響があった。茂喜さんによると、「本当にあったことだ」と証言を後悔している様子はなかったという。

ソ連軍の性接待 沈黙を破り、声を上げた女性たちの姿に突き動かされて 松原文枝さん寄稿(映画「黒川の女たち」監督):東京新聞デジタル2025.7.8
 敗戦直後、中国・旧満州で「性接待」という名の性暴力が起きていた。岐阜県の旧黒川村*65から入植した開拓団は生き延びるため、未婚の女性をソ連軍の性の相手として差し出した。被害の事実を公にした女性たちの告白と尊厳の回復を取材し、私は監督として「黒川の女たち」というドキュメンタリー映画を完成させた。

松原文枝さんに聞いた:映画『黒川の女たち』が問う戦争と性暴力、加害と犠牲 | マガジン92025.7.9
◆インタビュアー
 松原さんが最初に黒川開拓団のことを取り上げたのは、2019年にテレビ朝日で放映されたドキュメンタリー「史実を刻む〜語り継ぐ“戦争と性暴力”」でしたね。この作品が生まれた経緯を教えてください。
◆松原
 2018年8月に、佐藤ハルエさん(当時93歳)が岐阜市民会館で自身の満州での体験を語る証言集会が開かれ、それを朝日新聞全国版が報道したことがきっかけでした。黒川開拓団の「性接待」のことは、2017年ごろからNHKや地元紙が取り上げていましたが、私は全く知らず、朝日の全国版を読んで初めて知り、衝撃を受けました。
◆インタビュアー
 佐藤ハルエさんは「性接待」の体験を最も早く証言された当事者のお一人です。戦後、どのような人生を送ってこられたのでしょう。
◆松原
 ハルエさんは戦後帰郷するも「満州帰りの女は汚れ物で、嫁の貰い手などない*66」などと身内からも言われ、追われるようにして黒川から100キロ離れたひるが野(現・岐阜県郡上市)に移住、結婚。そして荒地を一から開墾し、大きな借金をして懸命に働き、農業や酪農で生計を立て、4人のお子さんを育ててこられました。
◆インタビュアー
 黒川開拓団と「性接待」のあらまし、その史実を明記した碑文設置までを追った「史実を刻む」は、本作のベースにもなっています。テレビ放映の後も、取材撮影を続けられたのはどうしてでしょう。
◆松原
 取材でお世話になった黒川開拓団遺族会会長の藤井宏之さんに、「碑文に開拓団の史実を残すことができて、一区切りつきましたね」と申し上げたら、「いや、まだ終わっていない」と浮かない表情でおっしゃるのです。藤井さんが気にかけていらしたのは、被害者のお一人、安江玲子さんのことでした。
 安江玲子さんは帰国後、黒川には戻りたくない、黒川の人には会いたくないと東京に越されて、ずっと故郷とは縁を切って生きてこられました。「あの時のことは今でも映画を見ているみたいに鮮明に思い出して、胸がドキドキして寝られなくなる」など、何十年もトラウマに苦しんでこられたのです。
◆インタビュアー
 「性接待」の直接の加害者はソ連兵ですが、「結婚している嫁さんには頼めないから、あんたらが犠牲になってくれ」と、未婚女性を差し出した開拓団幹部の男性も「加害者」と言えるのではないでしょうか。
◆松原
 藤井宏之さんが会長になる前は、女性たちを差し出した後ろめたさもあってか、「あのことは話題にしちゃいかん」「内緒で結婚した人がほとんど」「そんなこと今更表に出したらかわいそうや」というのが、遺族会幹部の言い分でした。
 それに対して当事者女性の中には「村のために犠牲になったのに」という思いが強く、2013年の満蒙開拓平和記念館で行われた講演で、佐藤ハルエさんと安江善子さん(故人)が証言。当事者が公の場で顔と実名を公表しての、前例のない証言でした。
 そのハルエさんらの証言を聞いて、藤井さんは初めて「性接待」の事実を知ったそうです。実は宏之さんのお父さんは、開拓団の幹部で、性接待の「呼び出し係」でした。ハルエさんから「あんたのお父さんが来ると(今日は自分の番かと思って)怖かった」と言われたそうです。自分の父親によって性被害に遭わされた女性が、70年もの歳月が経って今自分の目の前にいる。そういう状況に直面して、申し訳なかったという言葉が自然に出てきたのだと思います。それに対して玲子さんもハルエさんも「あんたが悪いんじゃない」と返す。そのやりとりを何度も繰り返し、人としての交流を重ねていく中で、信頼が生まれたのではないでしょうか。
 満州での性暴力は、他にもあちこちの開拓団であったことは研究者の調査でも分かっていますが、当事者の言葉で事実が明らかにされたという話は聞きません。当事者の強い思いと、それを自分ごととして受け止めた次の世代がうまくつながったことで、きちんと記録された稀有な例だと思います。
◆インタビュアー
 一方、藤井さんは映画の中でも「女性たちが犠牲になってくれたおかげで今がある。感謝しかない」と、「おかげで」「感謝」という言葉を繰り返されています。こうした語りが「共同体を救った尊い自己犠牲」「健気な大和撫子の挺身」といったふうに「美しい英雄物語」として語られてしまわないか気になります。「特攻隊のおかげで今の平和がある」といった言説のように*67
◆松岡
 おっしゃることはよくわかります。「犠牲を美化しないで」とはハルエさんたちも繰り返しています。藤井さんが碑文の除幕式で声を詰まらせ「彼女たちのおかげで村人が無事帰国し、次の世代が生まれ命がつながってきた。感謝しかない」とおっしゃったのは人として自然な感情だと思います。けれどそれを政治や権力が横取りして、「よくやった、立派だ」などと言ってはいけない
 碑文には満蒙開拓が武力による侵略であったこと、窮余の選択だったとしても幹部らが女性を差し出した事実を認め、帰国後に女性への誹謗中傷があったこと、長く封印してきたことを明記しています。そのうえで、直接被害者に謝罪もしました。
 十分ではないかもしれませんが、被害の面だけでなく、加害の史実をきちんと記録したことは、大きな一歩だと思います。
◆インタビュアー
 性接待への批判に対して、だったら集団自決しろということか、戦争だから仕方ないじゃないか、と言う人もいます。
◆松原
 いますよね、特に男の人*68に(笑)。でも、集団自決か「性接待」かという究極の選択に陥る前に、すべきことがあったはずです。関東軍が開拓民を置き去りにして逃げたこと、もっと遡れば軍部が満州事変を起こし満州開拓を推進したことが問題だったのではないか。それを問わずして最後の土壇場での判断を云々するのは、おかしいでしょう。戦争だから仕方なかったとか、過去の不幸な出来事として終わらせてはいけない。今の、未来のこととして考えて欲しいと思います。

映画「黒川の女たち」12日全国公開 旧満州での負の記憶と向き合う:朝日新聞2025.7.10
 敗戦直後、旧満州中国東北部)で開拓団を襲撃から守るため、旧ソ連兵に「性接待」をした女性たちを描いたドキュメンタリー映画黒川の女たち」(松原文枝監督)が12日から全国で順次公開される。
 開拓団は終戦後の1945年9~11月、現地住民による略奪や暴行から保護してもらう見返りに、旧ソ連兵に17~21歳の未婚女性約15人を差し出した。
 松原監督は2018年から、黒川開拓団の取材を続けてきた。

 なお、松原監督ですが

松原文枝 - Wikipedia参照
 1966年生まれ。2016年、テレビ朝日報道ステーション」の特集「独ワイマール憲法の教訓」でギャラクシー賞テレビ部門大賞を受賞。2021年11月28日、テレビ朝日テレメンタリー」枠で、松原がディレクターを務めた『ハマのドン "仁義なき闘い"』を放送。2023年5月5日、初めての監督作品となるドキュメンタリー映画『ハマのドン』が公開された。2025年7月12日、第2作目となるドキュメンタリー映画黒川の女たち』が公開された。著書『ハマのドン:横浜カジノ阻止をめぐる闘いの記録』(2023年、集英社新書)、『刻印:満蒙開拓団、黒川村の女性たち』(2025年、KADOKAWA)。

ということで以前から社会派作品を制作してきた御仁(テレビ朝日社員)です。

https://mainichi.jp/sunday/articles/20250707/org/00m/040/017000c2025.7.13
 戦争と性暴力の実態を描いた映画『黒川の女たち』の監督・松原文枝氏に、倉重篤*69が迫る。

【映画評】「黒川の女たち」なかったことにはできない80年前の悲劇、女性たちの勇気ある告白 : 読売新聞編集委員・恩田泰子)2025.7.24
 日本の敗戦により、満蒙開拓団として満州(現中国東北部)へ入植していた人々は過酷な状況に追い込まれた。生きて日本へ帰るため、若い未婚の女性たちにソ連兵の性接待をさせた開拓団もあった。公開中のドキュメンタリー映画黒川の女たち」(松原文枝監督)は、長年伏せられてきた性接待の実態を、自ら語り、広く伝えることを選んだ女性たちをめぐる作品だ。

 なお、数は少ないものの筆者に寄れば「ソ連軍女性兵士*70」による「日本人男性への性暴力」もあったようです。
 また、『占領下の女性たち:日本と満洲の性暴力・性売買・「親密な交際」』(2023年、岩波書店)では、戦後日本での「米軍女性兵士」による日本人男性への性暴力を論じたとのこと。筆者は従来、研究が手薄だった「男性に対する性暴力」研究の重要性を指摘しています。
 なお、筆者は「ソ連兵による日本人への性暴力」について論じるに当たり、それを「産経など日本ウヨ」に見られる「反共主義」「反ロシア」にはしたくない、「性暴力それ自体(当然、日本軍の性暴力も含む)への批判を実行したい」としています。
 例えば樺太1945年夏 氷雪の門 - Wikipediaなどはそうした「反共主義」「反ロシア」の一例でしょう。
 そもそもソ連兵の性暴力は「黒川の女たち」のように「日本側が共犯」の場合もあったわけです。
【参考:平井氏の著書】

「占領下の女性たち」書評 国内外で「性の防波堤」担わされ|好書好日
 日本人女性は国内外で、米兵やソ連兵による性暴力の被害にあった。
 本書が重視するのは、一部の女性が「性の防波堤」として米兵・ソ連兵に公然と差し出されていた事実だ。「性の防波堤」を担ったのは、性売買に従事していた女性が多かった。男たちは、性を売る女性を犠牲にして、それ以外の女性を守ろうとしたのだ。
 満州から引き揚げる際、移民団のなかから一部の女性がソ連兵に差し出された。

【参考:樺太1945年夏 氷雪の門】

樺太1945年夏 氷雪の門 - Wikipedia
 1974年3月7日、モスクワで開かれた東宝・モスフィルム合作映画『モスクワわが愛』の完成披露パーティーの席上、モスフィルム所長ニコライ・シゾフが「『氷雪の門』はソ連人にとって古傷を突くような内容のようじゃないか。もし東宝系の劇場で上映されるなら我々も考えなくてはならない。『モスクワわが愛』によって生まれた両国映画人の友好を大事にしたい」と、『氷雪の門』(東宝が配給予定だった)の上映にクレームをつけ、なりゆき次第では『モスクワわが愛』の「公開にも支障が出そうな気配になっている」と、3月12日の東京新聞夕刊に報じられた。
 『モスクワわが愛』の完成プリントはモスフィルムの手にあり、報復処置を東宝関係者は恐れた。東宝松岡功*71常務・営業本部長、星塚正太郎興行部長らが3月12日午後に協議の結果、「ソ連との友好関係を損ねる恐れがある」と判断、東宝での上映は中止になった。
 東映に配給元が変更され、7月27日から札幌東映パラスで、8月17日から新宿東映パラス、浅草東映パラス、名古屋東映パラス、福岡東映グランドで、9月上旬から大阪東映パラスで公開が決定したと発表された。ところが、公開直前になって、興行規模が大幅に縮小された。
 その理由は今だ明らかになっていない。東宝による上映中止を大きく取り上げた各紙も、東映による上映館削減の理由についてはあまり報じていない。
 『氷雪の門』の脚本家・国弘威雄(1931~2002年)は、1997年(平成9年)に刊行した『私のシナリオ体験』(映人社)の中で『氷雪の門』について取り上げ、ソ連の圧力が東宝の翻意につながったとしている。その一方、東宝系での公開中止の要因として、「前もって観客動員数を約束をせねばならず、つまり前売券は何十万枚売れるという確約をせねばならず、その条件が整わなかったこと」もあったのは認めている。但し、東宝が求めた保証枚数や、それに対する制作会社側の対応についての具体的な記述はない。

 ソ連の圧力は無法とは言え、未見ですが、この映画は「自決を美談として描いてる」「制作目的が反戦と言うより、右翼の立場からの反共、反ソ連樺太1945年夏 氷雪の門 - Wikipediaによれば右翼政党・民社党が1978年にこの映画を宣伝する運動を積極的に行なった)」と言う意味で「評価できない」と俺個人は思います。当時の左派も、そうした問題点を重視し、この映画を手放しで評価する人間は皆無では無かったか。


◆歴史のひろば「遊郭・性買売*72研究の成果と課題:「主体」と「構造」の関係をめぐって」(沢山美果子*73、曽根ひろみ*74、人見佐知子*75
(内容紹介)
 多様な指摘がされていますが小生の「説明可能な範囲」で内容紹介します。
1)当初の性買売研究は公認の遊郭が研究対象だったが、宇佐美ミサ子*76『宿場と飯盛女』(2000年、同成社)、『宿駅制度と女性差別:買われた性・「飯盛女」』(2012年、岩田書院)等によって「非公認の売春(飯盛女)」の研究が開始された。
2)藤目ゆき*77『性の歴史学』(1997年、不二出版)は「近代日本公娼制度」における「娼婦登録制と性病検診制度」を「ヨーロッパに起源を持つもの」と指摘し、研究に「国際比較」の観点を持ち込んだ。
 一方、小野沢あかね*78『近代日本社会と公娼制度』(2010年、吉川弘文館)はいわゆる前借金制度を日本独自の制度と指摘し、「欧米との共通性」とともに「日本の独自性」を捉えることを主張した。
3)前借金制度が分かりやすいが、遊女、娼婦には「貧困の犠牲者」と言う面があった。
 ただし、遊女、娼婦は単なる犠牲者であったわけではなく、当然いろいろな考えを持ち、いろいろな行動をしていた。
 そうした遊女、娼婦の考え、行動を描こうとする最近の研究として以下のものがあげられる。
 山家(やんべ)悠平*79遊郭ストライキ』(2015年、共和国)
 横山百合子*80「遊女の『日記』を読む:嘉永二年梅本屋佐吉抱え遊女付け火一件をめぐって*81」・長谷川貴彦*82編『エゴ・ドキュメントの歴史学』(2020年、岩波書店)  


歴史の眼
◆千葉県における公文書管理条例制定に向けた動き(宮間純一*83
(内容紹介)
 千葉県で発覚した公文書の大量誤廃棄(あるいは所在不明)を契機に「公文書管理条例制定」を求める動きが高まってることについて論じられていますが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。
参考

Listening:<千葉県文書館>公文書の重要さ、理解不足で誤廃棄 | 毎日新聞2017.4.20
 千葉県文書館(千葉市中央区)が2016年、戦没者名簿や遺族台帳など第二次大戦の関係文書約500冊を廃棄し、うち91冊は県の内規に違反した廃棄だったことが明らかになった。県への取材からは、重要性を厳密に判断しないままにため込んだ古い文書でスペースが満杯になってしまい、一部の廃棄を図ったものの、専門知識のない職員による選別で内規すら見落として重要な公文書を捨ててしまったという実態が浮かぶ。

千葉県文書館の歴史的公文書誤廃棄 館長ら2人に訓告処分 - 産経ニュース2017.8.19
 行政文書や古文書などの資料を収集・保存する県文書館が第二次世界大戦の関連文書など本来保存すべき歴史的公文書91冊を誤って廃棄した問題で、県総務課が同館の館長ら職員2人について、監督責任を問い文書での訓告処分としていたことが18日、県や関係者への取材で分かった。

歴史公文書など139冊誤廃棄、不明に 千葉県の「永久保存」対象も [千葉県]:朝日新聞2024.6.6
 千葉県の政策の検討過程などの重要な情報が記録され、永久保存の必要がある「歴史公文書」やその可能性がある県管理の公文書について、少なくとも139冊が誤廃棄もしくは所在不明の状態になっていたことがわかった。
◆公文書管理条例がない千葉県
 ただ、県には県行政文書管理規則や歴史公文書に関する要綱などはあるが、公文書管理条例はない。公文書の管理を所管する県政策法務課は取材に、「職員に文書管理の意識を浸透させられなかった」として、早急に対策をとる必要があるとの認識を示した。
 東京都などの公文書管理委員会の委員で、弁護士の東洋大学法学部・早川和宏教授(行政法)は、「個々の役人にとって、公文書は目の前の仕事のためのものであり、保存する意識や歴史になるかもしれないという認識は薄くなりがちだ。公文書を管理する条例があれば、内容次第で管理状況を審議会に出したり、報告を受けた知事が県民に知らせたりすることになる。条例を制定し、しっかりとした監査・チェックの仕組みを作ることが必要だ」と話す。

歴史公文書など新たに53冊が誤廃棄・不明に 千葉県の公文書問題:朝日新聞2025.6.19
 永久保存されるべき「歴史公文書」やその可能性がある県の公文書が誤廃棄や所在不明などになっていた問題で、2022~23年度に保存期間が満了する公文書のうち、新たに53冊が誤廃棄もしくは所在不明(一部廃棄・不明を含む)の状態になっていたことが、県への情報公開請求や取材でわかった。


能登半島地震といしかわ史料ネット(本多俊彦*84
(内容紹介)
 能登半島地震後に誕生したいしかわ史料ネット(いしかわ歴史資料保全ネットワーク:公式サイトいしかわ史料ネット)の活動について述べられてますが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。
参考

「被災した文化財、捨てないで」いしかわ史料ネットがレスキュー漫画 [石川県] [能登半島地震]:朝日新聞2025.3.8
 被災した文化財保全に取り組む民間団体「いしかわ歴史資料保全ネットワーク」(いしかわ史料ネット)が、傷んだ文化財を応急処置して一時保管する「文化財レスキュー」の漫画をつくった。がれきとともに捨てられてしまう文化財があることから、より多くの人にレスキュー事業を知ってもらう狙いがある。

*1:東京都立大学教授。著書『近現代日本の地域政治構造:大正デモクラシーの崩壊と普選体制の確立』(2001年、日本経済評論社)、『東京市政』(2007年、日本経済評論社)、『近衛新体制の思想と政治』(2009年、有志舎)、『総力戦のなかの日本政治』(2017年、吉川弘文館)、『首都改造:東京の再開発と都市政治』(2020年、吉川弘文館)、『東京史』(2023年、ちくま新書)等

*2:1914~1996年。東大名誉教授。著書『「文明論之概略」を読む』(1986年、岩波新書)、『忠誠と反逆:転形期日本の精神史的位相』(1992年、筑摩書房→1998年、ちくま学芸文庫)等

*3:1932~2024年。東大名誉教授。『近衛新体制:大政翼賛会への道』(1983年、中公新書→2015年、講談社学術文庫)等)

*4:そんな歴史学者伊藤隆ぐらいのものであり、弟子(例えば、加藤陽子東大教授)ですらまともな人間は彼を批判していますが。

*5:山口大学名誉教授。著書『日本海軍の終戦工作:アジア太平洋戦争の再検証』(1996年、中公新書)、『検証・新ガイドライン安保体制』(1998年、インパクト出版会)、『侵略戦争:歴史事実と歴史認識』(1999年、ちくま新書)、『有事法制とは何か』(2002年、インパクト出版会)、『有事体制論』(2004年、インパクト出版会)、『文民統制自衛隊はどこへ行くのか』(2005年、岩波書店)、『戦争と平和政治学』(2005年、北樹出版)、『監視社会の未来:共謀罪・国民保護法と戦時動員体制』(2007年、小学館)、『憲兵政治:監視と恫喝の時代』(2008年、新日本出版社)、『私たちの戦争責任』(2009年、凱風社)、『「日本は支那をみくびりたり」:日中戦争とは何だったのか』(2009年、同時代社)、『領土問題と歴史認識:なぜ、日中韓は手をつなげないのか』(2012年、スペース伽耶)、『日本降伏:迷走する戦争指導の果てに』(2013年、日本評論社)、『日本はなぜ戦争をやめられなかったのか:中心軸なき国家の矛盾』(2013年、社会評論社)、『反「安倍式積極的平和主義」論』(2014年、凱風社)、『集団的自衛権容認の深層』(2015年、日本評論社)、『暴走する自衛隊』(2016年、ちくま新書)、『逆走する安倍政治』(2016年、日本評論社)、『権力者たちの罠:共謀罪自衛隊・安倍政権』(2017年、社会評論社)、『戦争と敗北:昭和軍拡史の真相』(2019年、新日本出版社)、『自衛隊加憲論とは何か:日米同盟の深化と文民統制の崩壊の果てに』(2019年、日本機関紙出版センター)、『日本政治史研究の諸相:総力戦・植民地・政軍関係』(2019年、明治大学出版会)、『崩れゆく文民統制』(2019年、緑風出版)、『戦争と弾圧:三・一五事件と特高課長・纐纈弥三の軌跡』(2020年、新日本出版社)、『重い扉の向こうに:歴史和解と戦前回帰の相克』(2020年、緑風出版)、『ロシアのウクライナ侵略と日本の安全保障』(2022年、日本機関紙出版センター)、『リベラリズムはどこへ行ったか』(2022年、緑風出版)、『「戦争をする国」日本と反戦・護憲運動のこれから』(2023年、日本機関紙出版センター)、『日本の武器生産と武器輸出:一八七四~一九六二』(2023年、緑風出版)、『ウクライナ停戦と私たち』、『戦後日本の武器移転史:1945~2024』(以上、2024年、緑風出版)等

*6:京都府立大学教授。著書『国際秩序の形成と近代日本』(2002年、吉川弘文館

*7:関西学院大学教授

*8:1933~2014年。東京外国語大学名誉教授、フェリス女学院大学名誉教授。著書『イギリス産業革命の史的分析』(1966年、青木書店)『マルクス・エンゲルスの世界史像』(1969年、未來社)、『ニーチェヴェーバー』(1993年、未來社)、 『マックス・ヴェーバー入門』(1997年、岩波新書)、『日本の社会科学とヴェーバー体験』(1999年、筑摩書房)、『受苦者のまなざし:初期マルクス再興』(2004年、青土社)等

*9:1926~2013年。著書『民主体制の崩壊:危機・崩壊・再均衡』(2020年、岩波文庫)等

*10:勿論、こうした研究においてはいわゆる「終戦の聖断論」批判の目的がある。

*11:1913~2001年。京都大学名誉教授。著書『西郷隆盛』(1970年、中公新書)、『日本帝国主義の形成』(2001年、岩波モダンクラシックス)、『自由民権』(2003年、岩波現代文庫)、『日本の軍国主義』(2004年、岩波現代文庫)等

*12:茨城大学教授等を経て東洋大学教授。著書『「産業戦士」の時代:戦時期日本の労働力動員と支配秩序』(2019年、大月書店)

*13:なお、当初、徴用は「内地の日本人」が対象であったが、戦争長期化でそれだけでは対応しきれなくなり、外地から朝鮮人や中国人を徴用するようになる。それらの徴用が「日本人徴用」と違い、強制連行などの違法性が強く「戦後補償裁判」等の問題を生んでいることはマスコミ報道等でご存じかと思います。

*14:宮崎公立大学講師。著書『昭和戦時期の娯楽と検閲』(2021年、吉川弘文館

*15:1880~1950年。陸軍省軍務局長、陸軍次官、関東軍参謀長、朝鮮軍司令官、平沼、米内内閣拓務大臣、朝鮮総督、首相等を歴任。戦後、終身刑で服役中に病死。後に靖国に合祀

*16:1888~1956年。戦前、朝日新聞政治部長、編集局長、常務、専務、副社長、小磯内閣情報局総裁を、戦後、東久邇宮内閣書記官長、吉田内閣官房長官、副総理、自由党総裁を歴任

*17:1884~1948年。関東憲兵隊司令官、関東軍参謀長、陸軍次官、陸軍航空総監、第二次、第三次近衛内閣陸軍大臣、首相を歴任。戦後、死刑判決。後に靖国に合祀

*18:1908~1973年。1933年、古川ロッパらにより旗揚げされた劇団「笑の王国」に座付き作家として参加。1935年(昭和10年)ロッパが「笑の王国」を退団して東宝に所属すると、翌1936年に菊田も東宝に移籍して東宝文芸部の嘱託となる。1955年、東宝社長・小林一三(1873~1957年)に迎えられ、東宝取締役(演劇担当役員)に就任。東宝演劇部の総帥として、東宝が経営する帝国劇場、宝塚歌劇の舞台の原作・脚本・演出を行った。1975年、菊田の功績を記念し、東宝により菊田一夫演劇賞が創設された(菊田一夫 - Wikipedia参照)

*19:1903~1961年。1933年に劇団「笑の王国」を旗揚げ(但し、ロッパは1935年に退団し、劇団も1943年に解散)。1954年には社団法人日本喜劇人協会設立に際し、柳家金語楼(1901~1972年)とともに副会長に就任(会長は榎本健一(1904~1970年))し、喜劇人重鎮としての存在感を示した。しかし晩年のロッパは50代にもかかわらず持病の糖尿病のほか、再発した結核にも蝕まれて、1960年代になると舞台や映画も端役が多くなる。体力が落ちて覇気のない演技を批判されたり、「古川ロッパ一座」の元座員で、弟子にあたる森繁久彌(1913~2009年)から引退勧告されるなど、すっかり過去の人間と成り果ててしまった。1961年1月16日に肺炎により死去(享年57歳)。ロッパ死去を報じる新聞記事の扱いは小さく、往年の人気を知る者には寂しい最期だった。(古川ロッパ - Wikipedia参照)

*20:1935~2025年。1962年、8代目桂文楽、6代目三遊亭圓生、5代目柳家小さんなど、戦後屈指の名人落語家を一堂に集めた「精選落語会」(イイノホール)をプロデュース(1962~1968年)。1967年5月2日、桂米朝の東京初の独演会「桂米朝 上方落語の会」を紀伊國屋ホールで開催、この会を契機として桂米朝の名が東京でも知られるようになる。落語を中心として芸能評論活動を行っている。著書『志ん生のいる風景』(1987年、文春文庫→2019年、河出文庫)、『さらば、愛しき藝人たち』(1989年、文春文庫)、『女興行師吉本せい』(1992年、中公文庫→2017年、ちくま文庫)、『落語歳時記』(1995年、文春文庫)、『三遊亭圓朝の明治』(1999年、文春新書→2012年、朝日文庫)、『落語家の居場所:わが愛する藝人たち』(2000年、文春文庫)、『藝人という生き方:渥美清のことなど』(2001年、文春文庫)、『落語長屋の四季の味』(2002年、文春文庫)、『落語長屋の商売往来』(2003年、文春文庫)、『林家正蔵の告白:酒場の藝人たち』(2006年、文春文庫)、『志ん生の右手:落語は物語を捨てられるか』(2007年、河出文庫)、『落語とはなにか』(2008年、河出文庫)、『戸板康二の歳月』(2008年、ちくま文庫)、『昭和の藝人・千夜一夜』(2011年、文春新書)、『にっぽん藝人伝』(2013年、河出文庫)等。(矢野誠一 - Wikipedia参照)。矢野氏の訃報記事として演劇・演芸評論家の矢野誠一さん死去、90歳、落語会プロデュースも:朝日新聞演芸・演劇評論家の矢野誠一さん死去、90歳…読売新聞で「落語のはなし」連載 : 読売新聞矢野誠一さん死去 評論家、90歳 - 日本経済新聞演芸・演劇評論家の矢野誠一さん死去 90歳 | NHKニュース(いずれも2025.8.1)を紹介しておきます。

*21:後述するが「大量のフィルムカットが行われ、映画が台無しになった」とされ、映画関係者には悪名高い映画「ハナ子さん」「無法松の一生」のフィルムカットが行われた1943年は東条内閣

*22:岩下俊作(1906~1980年)の小説『富島松五郎伝』(現在は中公文庫)の映画化

*23:1913~1945年。1945年8月6日、所属していた移動劇団「桜隊」が当時活動の拠点としていた広島市原子爆弾投下に遭い、原爆症放射線障害)のため32歳で死去(園井恵子 - Wikipedia参照)

*24:1919~1998年。TBS『大岡越前』『水戸黄門』、テレビ東京大江戸捜査網』等の時代劇で「悪徳商人」「悪代官」等、悪役として活躍

*25:1934年生まれ。1957年、新東宝大蔵貢社長にスカウトされ、新東宝に入社した。1958年、『天皇・皇后と日清戦争』(並木鏡太郎監督)で、大蔵社長自らの指名で昭憲皇后(明治天皇の皇后)役を演じ、さらに翌1959年、『明治大帝と乃木将軍』(小森白監督)でも昭憲皇后役に起用されて、「皇后女優」と呼ばれる。この皇后役へのごり押しで、高倉との愛人関係がマスコミにばれた大蔵は記者会見を行い、「『女優を妾にした。』と記事にあるが、女優を妾にしたのではない。妾を女優にしたのだ。」と発言して物議を醸した。1960年、新東宝を退社してフリーとなる。1961年、高倉の退社後、すでに危うかった新東宝の経営は更に悪化して、大蔵貢は社長退陣に追い込まれ、会社も倒産。これらのスキャンダルによって高倉はトップ女優としての名声を失ったが、以後もテレビドラマ、映画、舞台に助演で出演を続けた。1964年に日本テレビ出版部長の東昌史と結婚し、1969年に芸能界を引退。(高倉みゆき - Wikipedia参照)

*26:1911~1982年。「ハワイ生まれの日系二世」ということで、戦時中は軍部からはかなり嫌われた為に軍人嫌いだったという(灰田勝彦 - Wikipedia参照)

*27:1911~2004年。『主婦之友』1938年9月号から連載開始した『銃後のハナ子さん』(後に『ハナ子さん一家』に改名)が大ヒット。この作品は後に轟夕起子主演で『ハナ子さん』(1943年公開)のタイトルで映画化され、映画主題歌『お使ひは自転車に乗って』と合わせてヒットした。『ハナ子さん一家』は杉浦が海軍に応召されたため、『主婦之友』1944年12月号で連載を一旦休止し、戦後の1947年に連載再開。連載末期に映画タイトルと同名の『ハナ子さん』となり、1949年に終了した。1976年に日本漫画家協会理事長に、1981年に会長に、1985年には名誉会長に就任。1983年、『面影の女(おもかげのひと)』を『週刊漫画サンデー』(実業之日本社)に連載開始。72歳での新連載開始は、当時としては異例の高齢だった。20年あまりの長期連載ののち、2003年5月、1004回をもって終了した。2004年6月18日に肺炎のため東京都目黒区内の病院で死去。死去時点で、最後の明治生まれの現役漫画家だった。1980年、紫綬褒章、1985年、勲四等旭日小綬章を受章(杉浦幸雄 - Wikipedia参照)

*28:姉の息子のあだ名

*29:1924~2010年。1954年、『二十四の瞳』で毎日映画コンクール主演女優賞、ブルーリボン賞主演女優賞を受賞(高峰秀子 - Wikipedia参照)

*30:1908~1993年。「日本映画の父」と呼ばれた映画監督・牧野省三(1878~1929年)の息子。父の死後、マキノ・プロダクション撮影部長、松竹太秦撮影所長などを歴任(マキノ雅弘 - Wikipedia参照)

*31:但し、後にマキノと離婚

*32:岐阜大学教授

*33:原作は杉浦幸雄(1911~2004年)が雑誌『主婦之友』に連載していた漫画『ハナ子さん一家』(ハナ子さん - Wikipedia参照)

*34:著書『子どもが<少国民>といわれたころ:戦中教育の裏窓』(1982年、朝日選書)、『子どもたちの太平洋戦争』(1986年、岩波新書)、『暮らしの中の太平洋戦争』(1989年、岩波新書)、『新聞は戦争を美化せよ!:戦時国家情報機構史』(2001年、小学館)、『すっきりわかる「靖国神社」問題』(2003年、小学館)、『戦争ができなかった日本:総力戦体制の内側』(2009年、角川oneテーマ21)、『戦時児童文学論』(2010年、大月書店)、『少国民戦争文化史』(2013年、辺境社)、『靖国の子:教科書・子どもの本にみる靖国神社』(2014年、大月書店)、『アジア・太平洋戦争史』(2015年、岩波現代文庫)、『「靖国神社」問答』(2015年、小学館文庫)、『戦時下の絵本と教育勅語』(2017年、子どもの未来社)、『山中恒と読む修身教科書:戦時下の国体思想と現在』(2019年、子どもの未来社)等

*35:1989年、朝日文庫

*36:明治大学教授。『ビリー・ワイルダーの映画作法』(2012年、明治大学出版会)、『「サウンド・オブ・ミュージック」の秘密』(2015年、平凡社新書)、『映画講義ロマンティック・コメディ』(2020年、平凡社新書)、『物語としてのドイツ映画史』(2021年、明治大学出版会)、『カサブランカ: 偶然が生んだ名画』(平凡社、2024)等

*37:2000年、平凡社

*38:1981年2月15日、日本劇場の閉館とともに解散(日劇ダンシングチーム - Wikipedia参照)

*39:かなり珍しい名字ではあるでしょう

*40:1984年、角川文庫→1995年、ちくま文庫

*41:2003年、パンドラ

*42:1916~1992年。戦後、東京国立近代美術館フィルムセンター主幹。鳥羽幸信コレクションで知られる(鳥羽幸信 - Wikipedia参照)

*43:阪東妻三郎(1901~1953年)のこと

*44:園井恵子(1913~1945年)のこと

*45:筆者の佐藤利明には『クレイジー音楽大全:クレイジーキャッツサウンド・クロニクル』(2018年、シンコーミュージック・エンタテイメント)、『石原裕次郎・昭和太陽伝』(2019年、アルファベータブックス)、『笠置シヅ子ブギウギ伝説』(2023年、興陽館)、『P.C.L.映画の時代:ニッポン娯楽映画の源流 1932–1937』(2024年、フィルムアート社:PCLは後の東宝のこと)等の著書がある。(佐藤利明 - Wikipedia参照)

*46:ドリフ大爆笑」のテーマ音楽「ド、ド、ドリフの大爆笑」が戦時歌謡隣組』の替え歌であることを考えれば不思議ではないかもしれない(隣組 (歌) - Wikipedia参照)

*47:但し、こうした「ミュージカル的な部分」は検閲で「英米的で良くない」として大量にフィルムカットされます。

*48:1943年の公開当時は大規模な東京空襲など勿論ない。万単位の死者が出た東京空襲が起こったのは1945年

*49:「敵国(米英)の文化だからジャズ禁止」とは酷い話ですが、裏返せば「昭和16年(1941年)12月に真珠湾攻撃で対米開戦した」のに、昭和17年(1942年)12月まではジャズの禁止がされてなかった(対米開戦と同時にジャズ禁止がされたわけではない)と言うことです。「ジャズ(特に日本人作曲家が作った日本風ジャズ)の定義が難しい(例えば、ジャズ - Wikipediaは、歌謡曲歌手と一般に評価される淡谷のり子ディック・ミネを「戦前日本のジャズ歌手」としている)」と言う問題もあったとは言え「ジャズを愛する日本人」の存在を、当時の日本政府も簡単には無視できなかったのでしょう。「過大評価は禁物」ですが、「天皇主権」の戦前日本ですら、政府は「国民無視で、何でも好き勝手に出来たわけでは無かった」のです。「ジャズ禁止令」については第69回【資料公開コーナー】禁じられた音楽-自由に楽しむことができなかった時代- - 昭和館を紹介しておきます。

*50:後の大映

*51:青字は俺が色を付けました。

*52:1932~2024年。1968~1976年まで『キネマ旬報』編集長。著書『日本映画黄金伝説』(1993年、時事通信社)等(白井佳夫 - Wikipedia参照)

*53:戦後は劇団民藝に入団し、名脇役として活躍。母親を演じることが多く、1957年公開の『嵐を呼ぶ男』では石原裕次郎の母親役を演じた(小夜福子 - Wikipedia参照)

*54:明治大学教授。著書『昭和天皇の戦争指導』(1990年、昭和出版)、『大元帥昭和天皇』(1994年、新日本出版社→2020年、ちくま学芸文庫)、『軍備拡張の近代史:日本軍の膨張と崩壊』(1997年、吉川弘文館)、『歴史修正主義の克服』(2001年、高文研)、『昭和天皇の軍事思想と戦略』(2002年、校倉書房)、『護憲派のための軍事入門』(2005年、花伝社)、『世界史の中の日露戦争』(2009年、吉川弘文館)、『これだけは知っておきたい日露戦争の真実』(2010年、高文研)、『日本は過去とどう向き合ってきたか』(2013年、高文研)、『近代日本軍事力の研究』(2015年、校倉書房)、『兵士たちの戦場』(2015年、岩波書店)、『日本の戦争Ⅰ:歴史認識と戦争責任』(2017年、新日本出版社)、『日本の戦争Ⅱ:暴走の本質』(2018年、新日本出版社)、『日本の戦争III:天皇と戦争責任』(2019年、新日本出版社)、『帝銀事件と日本の秘密戦』(2020年、新日本出版社)、『増補・昭和天皇の戦争』(2023年、岩波現代文庫)、『昭和天皇の戦争認識』(2023年、新日本出版社)等

*55:1922~2003年。一橋大学名誉教授。著書『南京大虐殺』(1985年、岩波ブックレット)、『南京の日本軍:南京大虐殺とその背景』(1997年、大月書店)、『昭和天皇15年戦争(新版)』(2003年、青木書店)、『天皇の軍隊と日中戦争』(2006年、大月書店)等

*56:一橋大学名誉教授。著書『天皇の軍隊と南京事件』(1985年、青木書店)、『昭和天皇終戦史』(1992年、岩波新書)、『日本の軍隊:兵士たちの近代史』(2002年、岩波新書)、『日本人の戦争観』(2005年、岩波現代文庫)、『日本軍兵士:アジア・太平洋戦争の現実』(2017年、中公新書)、『日本人の歴史認識東京裁判』(2019年、岩波ブックレット)、『兵士たちの戦後史』(2020年、岩波現代文庫)等

*57:山田氏に寄れば、自動車などほとんど無く、馬と人力(人間が担いで運ぶ)がメインで輸送力が貧弱だった上に、その輸送力が、食料ではなく、専ら兵器の運搬に使われたため

*58:山田氏に寄れば「日本軍占領地以外では効力が無い軍票の押しつけ」のため売らないケースもあったとのこと

*59:一橋大学ジェンダー社会科学研究センター客員研究員

*60:考え方(ソ連軍へ性接待要員を提供)がドウス昌代『敗者の贈物:特殊慰安施設RAAをめぐる占領史の側面』(1995年、講談社文庫)等で知られるRAA(米軍へ性接待要員を提供)に似ていると思います。また「ソ連軍に女性を差し出して恥じない態度」は「在日米兵の性犯罪に甘い、日本政府や日本社会の態度」を連想させます。

*61:1971年生まれ。著書『あなたの子宮を貸してください』(2006年、講談社:いわゆる代理母問題がテーマ)、『イレーナ・センドラーホロコーストの子ども達の母』(2008年、汐文社)、『獄に消えた狂気:滋賀・長浜「2園児」刺殺事件』(2011年、新潮社)、『中国残留孤児・70年の孤独』(2015年、集英社インターナショナル

*62:松原文枝『刻印:満蒙開拓団、黒川村の女性たち』(2025年、KADOKAWA)のこと

*63:未発表もしくは未刊行の作品を対象にした文学賞であり、受賞作は受賞後、集英社から刊行される(開高健ノンフィクション賞 - Wikipedia参照)

*64:コラムニスト。著書『思わず使ってしまうおバカな日本語』(2007年、祥伝社新書)、『仕事の9割は「依頼術」で決まる』(2010年、双葉新書)等

*65:1956年、白川町、佐見村、黒川村、蘇原村が合併して白川町が発足(黒川村 (岐阜県) - Wikipedia参照)

*66:こうした扱いを歴史評論・平井論文も「セカンドレイプ」として批判しています。

*67:こうした危惧は、歴史評論・平井論文も指摘しています。

*68:そういう「性接待を正当化するゲス」が「参政党や国民民主党を支持するようなウヨ」で、批判するのが左派、リベラル派(社民党共産党など)だと俺は認識しています。

*69:毎日新聞政治部長論説委員長等を歴任。著書『秘録・齋藤次郎:最後の大物官僚と戦後経済史』(2022年、光文社:斎藤は大蔵事務次官東京金融先物取引所社長、日本郵政社長等を歴任)等

*70:ノーベル文学賞作家『スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ』の著書『戦争は女の顔をしていない』(邦訳:2016年、岩波現代文庫)や、アレクシエーヴィチ著書にヒントを得た逢坂冬馬の小説『同志少女よ、敵を撃て』(2021年、早川書房:2022年本屋大賞受賞作)で日本でも広く知られるようになりましたが、当時のソ連軍には女性兵士がいました。

*71:1934年生まれ。東宝常務・営業本部長、副社長、社長、会長、名誉会長を歴任。阪急グループ創業者の小林一三(1873~1957年)は父方の祖父。現在、東宝社長を務める松岡宏泰(1966年生まれ)は長男。元プロテニス選手の松岡修造(1967年生まれ)は次男(松岡功 - Wikipedia参照)

*72:「売買」の誤記ではなく「買春」のような問題意識(売る側より買う側の責任が問われるべきだ)でこう書いてるとのこと

*73:著書『出産と身体の近世』(1998年、勁草書房)、『性と生殖の近世』(2005年、勁草書房)、『江戸の捨て子たち』(2008年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『近代家族と子育て』(2013年、吉川弘文館)、『江戸の乳と子ども』(2016年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『性からよむ江戸時代』(2020年、岩波新書

*74:神戸大学名誉教授。著書『娼婦と近世社会』(2002年、吉川弘文館

*75:近畿大学教授。著書『近代公娼制度の社会史的研究』(2015年、日本経済評論社

*76:著書『近世助郷制の研究』(1998年、法政大学出版局)、『宿場の日本史』(2005年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)

*77:大阪大学教授。著書『女性史からみた岩国米軍基地:広島湾の軍事化と性暴力』(2010年、ひろしま女性学研究所)、『「慰安婦」問題の本質:公娼制度と日本人「慰安婦」の不可視化』(2015年、白澤社)、『占領軍被害の研究』(2021年、六花出版)

*78:立教大学教授

*79:著書『生き延びるための女性史:遊廓に響く〈声〉をたどって』(2023年、青土社)。第一勧業銀行(現在のみずほ銀行の前身)調査部長、第一勧銀総合研究所専務理事、神戸大学教授等を歴任し、『景気とは何だろうか』(2005年、岩波新書)、『アベノミクスと暮らしのゆくえ』(2014年、岩波ブックレット)、『日本経済30年史:バブルからアベノミクスまで』(2019年、岩波新書)等の著書がある山家悠紀夫は父

*80:千葉経済大教授、帝京大教授を経て国立歴史民俗博物館名誉教授。著書『明治維新と近世身分制の解体』(2005年、山川出版社)、『江戸東京の明治維新』(2018年、岩波新書)等。横山百合子『江戸東京の明治維新』 - wsfpq577’s blogによれば『オランダ商館長の見た日本:ティツィング往復書翰集』(編著、2005年、吉川弘文館)等の著書がある横山伊徳東大名誉教授は夫

*81:これについては例えば他者として遊女の「日記」を読むということ 「日記」を書く遊女たち(横山百合子)|REKIHAKU:歴史と文化への好奇心をひらく参照

*82:北海道大学教授。著書『産業革命』(2012年、山川出版社世界史リブレット)、『イギリス福祉国家の歴史的源流』(2014年、東京大学出版会)、『イギリス現代史』(2017年、岩波新書)、『サッチャリズム前夜の〈民衆的個人主義〉』(編著、2025年、岩波書店)等

*83:中央大学教授。著書『国葬の成立:明治国家と「功臣」の死』(2015年、勉誠出版)、『戊辰内乱期の社会』(2016年、思文閣出版)、『天皇陵と近代:地域の中の大友皇子伝説』(2018年、平凡社)、『公文書管理法時代の自治体と文書管理』(編著、2022年、勉誠社)、『明治維新という物語:政府が創る「国史」と地域の「記憶」』(2025年、中公新書)

*84:金沢学院大学教授