いつもどおりid:noharra氏に突っ込む(4/14分)(追記・訂正あり)

 今日も小生が「死ぬほど大嫌いな」「一日も早く死んでほしい人間のくず」id:noharra先生に突っ込むことにしよう。
(その1)

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20120428#p2
というわけで、賀川豊彦なのだが、
この人をどう評価するかは、大きな問題を孕んでいると感じた。昨日、いくつかのブログを見た印象で語ってしまうが。
(中略)

 戦後アメリカは、左翼以外のリーダーで誰を国のトップにしたらよいか探していたそうです。韓国では李承晩が有名ですが、これはアメリカが大統領の地位に据えたらしいです。そういう意味で、賀川豊彦は、左翼でもなく、国民的人気もあり、アメリカでも知られていてよいことづくめ。しかし、そうはならなかった。
http://amendo.exblog.jp/11076362/

いや、「労組運動、農民運動や左翼政党」にコミットした賀川は立派に左翼だと思うが?。まあいわゆる「社会党右派であること」や「戦争協力」は事実なので「社会党右派の賀川など左翼ではない」「戦争協力した賀川など左翼ではない」などという立場に立てば話は別だが。
 俺も日本史に詳しいわけではないので疑問を提示するにとどめておくが、右派とは言え社会党創立メンバー(賀川)などGHQが首相にしたがるだろうか?

賀川豊彦(ウィキペ参照)
 米国留学中の体験から貧困問題を解決する手段として労働組合運動を重要視した賀川は、鈴木文治率いる労働組合友愛会接触し、1919年(大正8年)に友愛会関西労働同盟会を結成、理事長となった。また同年、労働者の生活安定を目的として神戸購買組合(灘神戸生協を経て現・コープこうべ=日本最大の生協)を設立、生活協同組合運動にも取り組んだ。
 1921年(大正10年)、神戸の三菱造船所(現・三菱重工業神戸造船所)・川崎造船所(現・川崎造船神戸工場)における大争議を指導するも、会社側の強硬な対応により敗北を喫した。暴力を否定し、時には無抵抗主義を唱える賀川の主張は、次第に労働組合運動家から敬して遠ざけられるようになった。賀川はやがて農民運動に活躍の場を移すことになる(1921年の日本農民組合の結成に賀川も参加)。
 また無産政党運動にも積極的に関与し、1926年(大正15年)の労働農民党結成に当たっては執行委員に就任するが、同年末の左右分裂に際して党を脱退した。
 戦後は日本社会党の結成に参画した。

大東亜戦争*1期において、「偉大さ」は偉大さにおいて、大東亜戦争に全身でのめり込んでいく。賀川だけでなく、すべての偉人がそうだ。*2

「全ての偉人」と「あえて言い切る」なよ。反戦運動をした人間は偉大でないとでも?


【追記】
 id:noharraのエントリがバカバカしすぎてあまり突っ込む気にならないのだが軽く突っ込む。なお、間違ってはてなスターをつけてしまったのだが、まともな常識がないらしいid:morimori_68じゃあるまいし、もちろんid:noharraのような「俺の守る会への突っ込みにまともに反論できない卑怯者のバカ」「死んだ方が世のため人のためになるであろうクズ」は全く評価していない。星の消し方がわからないのでそのままにしておくが。

賀川豊彦関連(シモツカレ氏)」
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20120428/p3

ツッコミありがとう。

 「ありがとう」と書きながら俺に向かって「無意味な無駄な文章」とか喧嘩うる訳か。死ねよ、糞野郎。手前がそう言う無礼な態度ならこっちもそう言うけんか腰の態度を今まで同様とらせてもらうからな。

彼と同型の左翼コンプレックスを持たない人にとっては、無意味な無駄な文章。

別に左翼コンプレックスなどもっていませんが?。「『左翼じゃない賀川を首相にする動きがあった』って、社会党創立メンバーの賀川は左翼でしょう?」「そんな人間をGHQが首相にしようとするでしょうか?」と疑問表明すると「左翼コンプレックス」があることになるわけですか?
そう言う誹謗をしないと精神的安定がえられないのですか?。本当にあなたって「死んだ方がいいゴミ野郎」ですね。

今回私は賀川豊彦の歴史の細部を研究していない。
(中略)
私は、ある種の尖鋭な理想主義思想・社会変革思想と〈ファシズム〉の間には、上記のような関係がある、と考えている。反論は歓迎する。
(もちろんイラク戦争に対するネオコンの熱狂や「橋下改革」にも上記の図式は当てはまる。)

 賀川についてろくに知らないのに思いつきで「ネオコンや橋下改革」に似てるかのように主張するとはいい度胸ですね。


(その2)

賀川豊彦の栄光と悲惨 http://d.hatena.ne.jp/noharra/20120428#p2 またまた何も知らない人について偉そうに書いてしまった。

なら「偉そうに書く」なよ。誰もバカの手前に駄文を書いてくれなんて頼んでないんだが。
見てて不愉快だよな、id:noharraみたいなゲスが心にもない言葉で謙虚ぶる醜態って(毒)。

「東京にいる私も区役所に何か聞いて真摯な対応を得たことはまずないのだが。事務方公務員とは「できません」*3というために生きているみたいyanesen.net/mayumi/?p=1843 」森まゆみさんといえば、公務員の目的である地域活性化の一枚看板*4のような方のはず。公務員はとことんだめなのか!(id:noharraの糞ツイッター

森某とやらの個人的感想だけを根拠に全否定されては公務員の皆さんも迷惑だろう。橋下批判派のつもりらしいが橋下の公務員叩き並のひどさだな(ちなみにid:motorunder氏は君のことをクズ扱いしてるし、在日の方に君のことを聞いたら「朝鮮学校無償化に反対する人間のくず」と評価する人間が多いと思うがそれはどう思うね?。森某のような自分に都合のいい感想だけ天まで高く持ち上げるわけですか?)。森の感想が勝手な思い込み、偏見でないという保障は無いし、森の主張が正しいとしてもそれはせいぜい「森のであった公務員にろくな人間がいなかった」という話にしか過ぎない。「お前は新興宗教森まゆみ教信者か」としか言いようがない。
改めてid:noharraは「死んだ方がいいゴミ野郎」で、そんなバカを評価するid:morimori_68も「死んだ方がいいゴミ野郎」だと思った。id:noharra、お前、そう言う低レベルな誹謗発言を現場の公務員(たとえばid:opemu氏)の前で言う度胸はあるのか?
「とことんダメ」なのはアホで卑怯者の手前の方だろ。

id:noharra 行って来ます。

どこに行くのか知らないができればid:noharraみたいなバカには二度と帰ってこないで「あの世にでも行ってほしい」ものだ。勿論、殺人予告ではなくただの罵倒だ(毒)。

中国国内外の極小数派の中国民主化運動家たちが、一番知りたいことは戦後60年間の「日本民主主義の成功」体験です。しかし日本サイドは国内の反体制派であり、左翼は日本の成功を語れず、右翼は民主主義を語れない。(id:noharraの糞ツイッター

 「左翼は成功を語れず」って革新自治体や、安保闘争による岸の退陣、中曽根が提出したスパイ防止法案を廃案に追い込んだことなどは成功ではないのか?
 もちろん「常に大成功」と語るつもりもないが、このバカは日本左翼をどれほどおとしめれば気が済むのか。手前みたいなただの「口舌の徒」(俺のただの『口舌の徒』だが)よりは左翼の方がずっと「語るべき成功体験」を持ってるだろうよ。

←シモツカレ注「大東亜戦争なんて言葉をためらいもなく使えるところがid:noharraはすごいな」>「大東亜戦争という言葉」に対する否定が彼ら*5すべての基礎である。つまり米帝の武力による勝利を、自らの思想が持つ普遍性の勝利に横滑りさせることが。(id:noharraの糞ツイッター

言ってることが意味不明。id:noharraのようなバカは救いようがないな(こういう救いようがないバカを評価するid:morimori_68と言う別の救いようがないバカもいるわけだが)
俺がいつ「米帝の武力による勝利を、自らの思想が持つ普遍性の勝利に横滑り」させたのだろうか?
大東亜戦争という言葉は
「戦前においても戦後においても極右によって『大東亜共栄圏は正しい思想』という宣伝目的に使われた」
「現在、大東亜戦争という言葉はメジャーではなくかえってわかりづらい」
大東亜戦争に変わる言葉として、15年戦争、太平洋戦争、アジア太平洋戦争などといった言葉がある」ことを考えればまともな人間は大東亜戦争という言葉を使うことには躊躇するだろう。
 大東亜共栄圏という侵略思想を支持していると誤解されかねないからだ。戦争当事者たる、当時の日本政府がそう命名したからと言うのは「大東亜戦争」と呼ぶべき何の根拠にもならない。日本政府の見解が正しいと決まってるわけではないし、戦争相手国は別の呼び方をしていたからだ。
 また、「当時の日本が大東亜戦争と読んだし、俺は日本人だからそう呼ぶ」という理屈だとたとえば中国政府が1951年にチベットを自らの統治下に組み入れたことを「チベット解放」(もちろん反近代的・反人権的なダライラマ神権政治や、農奴制からの解放という意味)と表現することも、それらの表現を中国国民が採用することも何ら問題ないことになるだろう。中国はチベット問題の当事者だからな(アンチ中国らしいid:noharraは「チベット解放」という言葉は支持しないのだろうが)。
 意味不明な言いがかりを俺につける前に、id:noharra
1)「なぜ15年戦争、太平洋戦争、アジア太平洋戦争などといった言葉をid:noharraは使わないで、大東亜戦争という言葉を使うのか」
2)「多くの歴史学者、政治家などが大東亜戦争という言葉を使いたがらないことをid:noharraはどう思うのか」
3)「なぜ大東亜戦争という言葉の使用を批判すると『米帝の武力による勝利を、自らの思想が持つ普遍性の勝利に横滑りさせること』と思うのか」
4)「極右の大東亜戦争正当化をどう思うか」、説明してみろよ。どうせ思いつきを考えもせずに書く卑怯者のバカがid:noharraだから説明不可能だろうが。
 お前が単に「大東亜共栄圏」という侵略思想を支持するウヨなだけだろ。よく極左を自称できるな。
 普通の人間は「大東亜戦争」などというイデオロギー(それも「大東亜共栄圏」という侵略イデオロギー)まみれの言葉ではなく、できる限り「イデオロギー中立な用語を使うようにする」と思うのだがね。
 たとえば朝鮮戦争を「抗米援朝戦争」と呼ぶ奴はあまりいないと思うのだがね。


参考

http://j.people.com.cn/94475/6611051.html
人民日報
チベット平和解放への道を振り返る』
 1949年、中華人民共和国が誕生した。それまで国民党政府が統治していた北平(北京)と湖南、チベットに隣接する雲南・新疆・西康など各省は次々と平和的に解放された。中央人民政府は、チベットの歴史や現状にもとづき、平和的解決策を講じる決定を下した。
 1950年1月、中央政府チベット地方当局に対し、「全権代表を北京に派遣し、チベット平和解放に関する交渉を行う」通知を出した。しかし、当時のチベット地方政府ダザ摂政は、外国勢力を後ろ盾として、中央政府による和平交渉の呼びかけに決して応じようとしなかった。彼らはチベット東部チャムド(昌都)にチベット軍の主力部隊を集め、防衛布陣をしき、武力による対抗措置を企てた。1950年10月、中央政府はこのような情勢から、やむを得ず金沙江(通天河、長江の上流)を渡りチベットに入るよう人民解放軍に命令を下し、チャムドが解放された。
 チャムド解放後、中央政府は再びチベット地方政府に、代表を北京に派遣して交渉を行うよう促した。中央政府は和平交渉政策を堅持し、チベットの愛国勢力に支援・奨励を行った。アポ・アワン・ジクメーを代表とするチベット地方政府上層部は、和議を強く求め、多数の賛成と支持を獲得し、親政をとる第14世ダライラマも和平交渉を行うようにとの進言を受け入れた。1951年1月、第14世ダライラマは中央人民政府に書簡を送った。書簡には、「チベットの全人民が私の執政を切望しており、私はそれを受け入れる」、「チベット人民の望みを平和的にかなえることを決定した」とつづられ、「チベット問題を解決するよう中央人民政府に求める」目的で、代表を派遣することとした。同年2月、第14世ダライラマはアポ・アワン・ジクメーを全権代表団の団長に任命し、北京で人民政府と交渉を行うよう命じた。
 1951年5月23日、中央人民政府とチベット地方政府の代表はチベット平和解放に関する一連の問題について合意に達し、「中央人民政府とチベット地方政府のチベット平和解放の方法に関する取り決め」(17カ条規定)に署名した。

http://j.people.com.cn/94475/6612684.html
人民日報
『1959年、チベット武装勢力反乱の真相』
 平和解放前、西蔵チベット)では上層僧侶と貴族の独占による封建農奴制が敷かれ、膨大な数の農奴農奴制の足枷が外れることを切実に求めていた。中央人民政府はチベットの歴史と現実的な特殊な状況を考慮し、チベットの社会制度を改革する上で極めて慎重な態度を取り、改革の時期はチベットが独自に決定する方針をとった。
 しかし、チベットを統治していた上層グループの一部は自らの利益を守ろうと根本から改革に反対し、永久に農奴制を維持しようとしていた。そして、「17カ条協定」を故意に破棄し、祖国分裂活動を激しく展開した。
(中略)
 中央人民政府は民族団結の精神に則り、チベット地方政府が責任を持って反乱分子を処分し、社会の治安を守るよう再三にわたって催促。チベット地方政府のガロン〈高級官僚〉に対して「中央のチベット地区での改革先送りに変更はなく、将来改革を実施する際も平和改革の方針をとるつもりだ」と報告した。しかし、チベット上層は中央のこのような仁義を尽くした態度につけこんできた。
 チベット武装反乱は、始めから海外の反中国勢力の支援を受けてきた。米国のノーマン・C・ホール著「米国とチベットと中国」には、1957年米中央情報局(CIA)がかつてチベット人反乱分子を米国国内で訓練し、チベットに送り返して分裂・破壊活動を指図していたと書かれている。
(中略)
 チベットでは農奴制度をどうにか堅持したい農奴主と国外の反中国勢力が結託し、反乱活動は瞬く間に蔓延した。1959年3月10日にラサで発生した大規模な武装反乱は入念に画策して引起されたものだ。
(中略)
 人民解放軍はやむなく、(中略)反撃した。愛国心あるチベット族の僧侶や人民の支援により、わずか2日間でラサ市の反乱は徹底的に平定。その後、反乱分子が長期的な拠点としていた山南地区でも反乱を平定、他の地域に波及していた反乱武装勢力も相次ぎ崩壊した。

*1:俺注「大東亜戦争なんて言葉をためらいもなく使えるところがid:noharraはすごいな」

*2:id:noharraの注「あえて言い切っておく。」

*3:できないことはできないとしか言いようがないだろうに。森、お前は何でもできるのかと小一時間問い詰めたい。安易に「できない」と言われても困るが。

*4:別に森だけがそう言う運動をしているわけではなかろうに

*5:彼らって別に俺は何か団体を代表してる訳じゃねえよ。