よーし、きょうもおじさん、大嫌いな「珍右翼」id:noharra先生を批判しちゃうぞ。最近どんなつまらないことでも野原に突っ込む俺。
「◯◯も原発も、まずは差別なんだよ」という意見ってなんなんだろうか。社会現象を自分(と他人)の心理に還元する、それでは社会科学とか社会分析とかいらないじゃないか。差別を問題にするならまず自分自身のそれを問い、自分のありようの変革をなそうとするのが課題だろう。(id:noharraのツイッター)
何かについて「差別」と表現する事がid:noharra先生的には何故か即「社会科学、社会分析の放棄」「社会問題を心の有り様の問題にすること*1」になるようです。差別をなくすためにどうすればいいかというのは社会分析無しにはできないでしょうに。「社会分析しないで差別がなくせる」と思ってる人がどこにいるんですかね。是非名前を挙げてみて下さい。脳内シャドーボクシング乙(嘲笑)。
もちろん「自分の心のありよう」だって大事ですが「差別問題」は社会問題なんですから、自分の心の有り様なんか問題にしても差別は解決しない。そんな事は言われなくてもみんなわかっています。いつもながら言ってることがとんちんかんな馬鹿なお方です。
真のエリートは差別意識など1mmももっていない。(id:noharraのツイッター)
「真のエリート」とは誰のことを言ってるのか、さっぱりわかりませんが差別意識の全くない人などまずいないでしょう。別に「真のエリート」などという立派な代物ではありませんが、「差別意識を意識していない」俺だって差別意識はたぶんあると思います。「真のエリート」とは「自分にも差別意識があるかもしれないという謙虚な気持ちを持ってる人」「自分の差別意識に気付いたらそれを認めて改めることができる人」でしょう。神様じゃないんですから差別意識を持っていても、それに気付いたときにきちんと改められればそれで十分エリートでしょう。
それでも何も解決できないし解決しない。(id:noharraのツイッター)
そりゃ一人や二人そう言うご立派な人がいても差別問題は解決しないでしょう。当たり前の話です。それがどうかしたんですか?
差別とか言いたがる人が何を考えているのか私には全く分からない。全ての人の意識が変われば社会は変わるかもしれないが、そんなことはありえない。(id:noharraのツイッター)
舌足らずになりやすいツイッターに突っ込むのはいかがなもんかなと少しは思うが。
言いたがるも何も現実に差別は世の中にごろごろ転がってるじゃないですか。女性差別、障害者差別、民族差別、思想差別、部落差別エトセトラ。
で、差別を差別と言って何が悪いんですかね?。
人権侵害とかいじめとか他の言葉で言い換えた方がよろしいんでしょうか?。大して変わらないと思うんですが。
そして「差別をなくすこと=全ての人の意識を変えること」と勝手に決めつけるのもすごい。
「差別意識(差別心)をなくすこと」ならともかく「差別待遇(差別的な制度、たとえば過去の指紋押捺制度など)をなくすこと」なら「全ての人の意識の変革」など必要ないでしょうに。いや、もちろんいわゆる「反差別教育」「人権啓発教育」の重要性を認めた上での話ですが。
たとえば別に嫌韓バカがいても「指紋押捺制度」は廃止されたわけです。
まあ、エリートが政治をする哲人政治・賢人政治の世界ならともかく、「多数決」の民主主義の世界では「差別廃止についてある程度の人の支持を得ないと話が進まない」ので「ある程度の人の意識変革がない」と現実問題として差別廃止は難しいでしょうがね。「全ての人の意識変革」なんか必要ないでしょう。
そしてなぜ「全ての人の意識変革なんかあり得ない」とこの人は言い切ってしまうのか。いや俺だって現実問題、そんなことができるのか疑問に思いますが、理想、最終目標、建前としては「全ての人の意識変革」を目指すべきでしょう。