新刊紹介:「歴史評論」5月号

特集『歴史学の名著を読もう』
詳しくは歴史科学協議会のホームページをご覧ください。興味のある文章だけ紹介する。
http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/
 
■「名著を読む」(伊藤定良*1
筆者が取り上げている名著は以下の通り。
1)江口朴郎帝国主義と民族』(1954年、東京大学出版会)、『帝国主義の時代』(1969年、岩波全書)
 筆者の理解では江口本にはフランク『世界資本主義と低開発』(邦訳:1978年、柘植書房)の従属論や、ウォーラーステイン『近代世界システム1・2』(邦訳:1981年、岩波書店)の世界システム論などの問題意識と共通する問題意識がある。
2)阿部謹也ハーメルンの笛吹き男』(1974年、平凡社、後に、1998年、ちくま文庫)、網野善彦『無縁・公界・楽』(1978年、平凡社、後に、1996年、平凡社ライブラリー
 1970年代に日本で展開されるようになったいわゆる社会史の草分け的存在として評価されている。
3)ホブズボーム編『創られた伝統』(邦訳:1992年、紀伊國屋書店)、アンダーソン『想像の共同体』(邦訳:1987年、リブロポート)、木畑洋一『支配の代償:英帝国の崩壊と「帝国意識」』(1987年、東京大学出版会)、西川長夫『国民国家論の射程』(1998年、柏書房
 優れたナショナリズム研究の成果として評価されている。なお、紹介されている本の他、ホブズボーム には次のようなナショナリズム関係の本もある。

ホブズボーム『ナショナリズムの歴史と現在』(邦訳:2001年、大月書店)


■「武士・在地領主・荘園の姿を求めて―日本中世史研究の名著紹介」(鎌倉佐保*2
(内容要約)
紹介されている著書は武士研究関係で石井進『中世武士団』(1977年、小学館、後に2011年、講談社学術文庫)、荘園研究関係で戸田芳美『日本領主制成立史の研究』(1967年、岩波書店)である。
 筆者の戸田本の紹介は今ひとつよくわからないので飛ばす(石井本の紹介もきちんとわかってるわけではないが)。
 石井本についていえば、筆者の紹介はいわゆる「武士職能論」への疑問提示が石井本の内容と言うことのようだ。つまり「武士職能論」が批判するように従来の「武士在地領主論」は一面的見方といえるだろうが、逆に一部の職能論は「在地領主制」を軽視しているのではないか、どちらも武士の重要な性格であり、それをどう統一的に理解するかというのが石井の指摘であり、その指摘は今も解決されたとは言えないというのが筆者の理解のようだ。

参考)
 プロではなく一歴史ファンが書いた物のようなのでどこまで信頼できるかという問題があるが「武士職能論や武士在地領主論」についてゼロから書くだけの能力が俺にないのでとりあえず引っ張ってみる。

http://www.ktmchi.com/rekisi/cys_35_2.html
『安田元久氏の「在地武士団の成長」』の一部引用
 「在地領主的武士論」の本家本元とも言って良いのではないでしょうか。今でこそ「過去の学説」と人気は無いのですが、それでも現在に至るまでどのような道程を辿ってきたかを振り返ることも無駄ではないと思います。
(中略)
 石井進氏もおっしゃっていることですが、鎌倉御家人は開発領主であったと言う事実は確かに無視されてはならないし、安田元久氏らのアプローチによって「中世武士団の社会的実態が明らかにされた功績は極めて大きかった」と私も思います。更に踏み込めば、在地領主論の学者さんは鎌倉時代のインフラとしての武士団、そのインフラとしての社会(土地)制度の転換点「社会構造の再編成」に一番の関心があったのではないでしょうか。
 「在地領主的武士論」は過去の学説ではあっても決して「愚かな誤り」では決して無い。何故かと言うと、そこには本当に「社会経済の発展と土地支配体制の新しい整備が進行した時代」だと思うからです。

http://www.ktmchi.com/rekisi/cys_35_4.html
石井進氏に始まる国衙軍制論』の一部引用 
 石井進氏は佐藤進一氏がその著『南北朝の動乱*3の中で「武士は武芸をもって支配階級に仕える職能人もしくは職能集団である」 と規定したことを紹介しながら以下の様におっしゃっています。

 誤解を恐れずに単純化すれば武士=職能人論といえるが、武士=在地領主論だけでは不十分な側面を明らかにうきぼりにしてくれると思う。特に通常、いわゆる「開発領主」や在地領主の登場以前とされている段階の初期の武士団、「兵(つわもの)」たちに対してはこの見方の方がより適切なばあいが多かろう。

かといって職能論に偏する訳でもなく・・・・

・・・しかしそのどちらか一方のみによって武士という存在が完全に解き明かされてきたかといえば、否である。かくいう私自身もまた暗中模索中であって確たる名案もないのが実情である。
とりあえず中世武士団とはなんぞやという問いに対しては、弓射騎兵としての戦闘技術を特色とする武力組織であって、社会実態としては在地の土とむすびついた地方支配者 であるとみておき、それ以上の点については今後の検討にまつ、ということにしたい。
・・・じつはよく考えればわからない内容を、すでにわかってしまったかのような顔でくりかえすことではなく、むしろ問題点を洗い出してみることのほうが必要ではないだろうか。

 私は石井進氏いうところの「今後の検討」である下向井龍彦氏*4や高橋昌明氏*5、そして元木泰雄*6らから読みはじめて、そのあとにこの石井進氏の論文を読むという逆のコースを辿った訳ですが、そうした私にとってはこの引用の最後の部分は実に新鮮であり、また現在の論争の問題点をも鋭く突いているのではないかとすら思ってしまいます。


■「近世史の名著」(山本英二*7
(内容要約)
筆者が取り上げている名著は以下の通り。
1)児玉幸多編『くずし字解読辞典』『くずし字用例辞典』(1993年、東京堂出版
 またマイナーな本を持ってきたなって感じ。もちろん研究者レベルは勿論、素人でも「日曜研究者」的なそれなりのレベルを目指すなら『くずし字』が読めないといけない。くずし字が読めないと古文書が読めず、古文書が読めないと「一定のレベルには到底到達しない」わけである。でも、くずし字読むには大学文学部歴史学科か、カルチャースクールにでも行って指導を受けないと行かんと思うなあ。くずし字辞典だけで独学ですらすら読める人はまずいないだろう。
なお、筆者が児玉本を紹介したのは「愛用しているから」で基本的には定評のあるくずし字辞典なら何でもいいとのこと。
2)深井雅海『江戸城:本丸御殿と幕府政治』(2008年、中公新書
 江戸城における幕府儀礼について一定レベルの知識が得られるとのこと。新書版ではあるが最近の研究を反映したかなり高度な内容らしい。
3)児玉幸多『日本の歴史(18)大名』(1975年、小学館、後に『日本史の社会集団(4):大名』(1990年、小学館文庫)として復刻)
 大名についての入門的知識が得られる。


■「梶村秀樹著『朝鮮における資本主義の形成と展開』*8:『内在的発展論』のバイブル」(林雄介)
(内容要約)
 梶村本は戦前日本の朝鮮近現代史研究の特徴であった『停滞論』『他律性論』、つまり『遅れた朝鮮を日本が近代化した』と言う見方に対し、『朝鮮における内在的発展の可能性を軽視しているのではないか』と言う立場から書かれた物であり、戦後日本の朝鮮近代史研究に大きな影響を与えた。

参考

梶村秀樹(ウィキペ参照)
 1959年東京大学文学部東洋史学科卒業。1963年東京大学大学院人文科学研究科博士課程退学、以後1969年まで東京大学東洋文化研究所助手。1961年から1979年まで日本朝鮮研究所で研究活動を行う。1973年神奈川大学助教授、1979年教授。1989年5月29日、がんのため53歳で死去。
 日本の朝鮮近代史研究のパイオニアの一人である。戦前日本における朝鮮史研究の基調をなす停滞史観に反発し、前近代朝鮮がもっていた自律的、内在的な発展の可能性を植民地化がつぶしたと考える「内在的発展論」の観点から、李朝時代より植民地時代にかけての小規模商工業を分析して、これを土着の民族資本の萌芽とみなす「資本主義萌芽論」を展開した。また独立後の南北朝鮮双方の社会経済分析や在日韓国・朝鮮人史研究にも力を注いだ。
 朝鮮史研究会に発足時から参加し、その中心的メンバーとして朝鮮史研究の発展に大きく貢献した。
 アカデミズムにとどまらず、金芝河支援運動、金嬉老支援運動、指紋押捺拒否運動など、韓国の開発独裁体制への反対運動や在日韓国・朝鮮人を支援する運動に積極的に参加した。


■「『日本史』『世界史』から『東アジア史』へ」(小嶋茂稔*9
(内容要約)
・中国史研究のみならず、日本史研究にも大きな影響を与えたとして西嶋定生の論文が紹介されている。
 紹介されているのは「6〜8世紀の東アジア」(初出、岩波講座『日本歴史2(古代2)』(1962年)、後に「東アジア世界と冊封体制」と改題されて、西嶋定生『古代東アジア世界と日本』(2000年、岩波現代文庫)、西嶋定生東アジア論集3巻(2002年、岩波書店)に収録)と「総説」」(初出、岩波講座『世界歴史4(古代4)』(1970年)、後に「序説:東アジア世界の形成」と改題されて、西嶋定生『古代東アジア世界と日本』(2000年、岩波現代文庫)に収録)である。


■「アフロ=ユーラシア世界と南アジア史―アンドレ・ウィンク『アル=ヒンド―インド=イスラーム世界の形成』」(三田昌彦)
(内容要約)
これだけは他と違って評価に困る論文。というのも筆者曰く
1)著者は全5巻を予定しているが今のところ3巻までしか刊行されていない(1巻は「7〜11世紀の南アジア」、2巻は「11〜13世紀の南アジア」、3巻が「14〜16世紀の南アジア」。未刊の4巻は「16〜17世紀の南アジア」、5巻は「18世紀の南アジア」の予定。)
2)原書(英語)の邦訳がない、からである。「歴史評論」というのは専門雑誌とは言い難いと思うので、邦訳がない本を紹介しないで欲しいと思う。俺のような「歴史素人」「英語音痴」は読みようがない。


■「イスラーム史の名著を読む」(清水和裕*10
(内容要約)
 取り上げられている本は、前嶋信次イスラムの蔭に』(1975年、河出書房新社、後に1990年、河出文庫)と嶋田襄平『イスラムの国家と社会』(1977年、岩波書店)である。筆者が前嶋と嶋田を取り上げた理由としては「日本におけるイスラム史研究の草分けであること」と「2人がそれぞれ異なった性格の研究者であること」があげられている。筆者の上げる性格の違いは以下の通りである。
1)研究開始時期の違い
 前嶋(1903年生まれ)が研究を開始したのは戦前であり、一時は南満州鉄道(満鉄)東亜経済調査局に籍をおいていた。戦前日本はある時期から「進出予定先の地域(今の新疆ウイグル自治区、マレーシア、インドネシアなど)」でのイスラム教の重要性を考え満鉄東亜経済調査局などでイスラム研究に力を入れていたわけである。一方、嶋田(1924年生まれ)の研究開始時期は戦後である。

「戦前のイスラム研究」について参考

東亜経済調査局(ウィキペ参照)
 満鉄の調査機関の一つ。1908年に満鉄の調査機関の一つとして東京支社の管轄下に設置され、当初は世界経済の調査分析を担当していたが、1920年代以降大川周明によって主宰されるようになると、次第に東南アジア地域の調査研究に活動の重心を移した。1929年から財団法人として満鉄から独立、大川を理事長とした。1939年の満鉄調査部の拡充に伴い再び満鉄に統合され、「大調査部」に属してイスラム世界・東南アジア・オーストラリアを担当地域とする分局となった。回教圏研究所と並ぶ戦時期イスラム研究の中心として、前嶋信次など第二次世界大戦後の代表的な中東研究者・アジア研究者を育てたことでも知られる。

回教圏研究所(ウィキペ参照)
 1938年(昭和13年)3月に日本において設立されたイスラーム圏に関する研究機関。
 大日本回教協会・満鉄東亜経済調査局・西北研究所などと並ぶ戦時期日本によるイスラーム地域研究の中心であり、戦後のイスラム研究者井筒俊彦*11、蒲生礼一*12が参加していたことでも知られる。機関誌として『回教圏』を発行した。
■大久保幸次所長と研究所
 占領地のイスラーム工作に資する国策研究を要求する協会と、「ヨーロッパ人を経由せず直接日本人によるイスラーム研究」を志向し学術研究を重視する大久保との間にはさまざまの齟齬や対立があったといわれる。当時、所員であった竹内好によると「『剣かコーランか』などというのはとんでもない誤解だ」が大久保の口癖だったという。

西北研究所(ウィキペ参照)
 1944年(昭和19年)、日本軍支配下の蒙古聯合自治政府の首都・張家口に設立された日本の研究機関。
 1944年春、内モンゴルの日本軍占領地で少数民族工作を担当していた善隣協会の調査部を改編する形で大東亜省管轄の研究所として設立された。満州・蒙古一帯の生態学民族学的調査が主な業務。名称の由来は不明であるが、「西北」とは当時一般に新疆・甘粛地方を意味しているため、この地域への日本軍の進出を念頭にしたものと言われる。
 研究所のプロジェクトとしては今西錦司梅棹忠夫らによるモンゴル研究、佐口透*13岩村忍*14らのイスラーム研究があったが、設立翌年の1945年には日本の敗戦により廃止され、活動期間は短く研究所としては目立った業績を上げることは出来なかった。しかし今西を筆頭にいわゆる「京都学派」のフィールドワーカーが結集しており、満鉄調査部などと異なって所員には研究成果を日本に持ち帰ることが許されたため、この時の調査結果を利用して戦後多くの論文が書かれ「今西進化論」*15などの理論的発展を準備したといわれる。

2)著書の性格の違い
 筆者が紹介する前嶋信次イスラムの蔭に』(1975年、河出書房新社、後に1991年、河出文庫)が一般向け啓蒙書なのに対し、嶋田襄平『イスラムの国家と社会』(1977年、岩波書店)はいわゆる学者向けの専門書である。前嶋が筆者が紹介した物の他にも『アラビアの医術』(1965年、中公新書、後に1996年、平凡社ライブラリー)、『アラビアン・ナイトの世界』(1970年、講談社現代新書、後に1995年、平凡社ライブラリー)といった一般向け啓蒙書を出しているのに対し、嶋田にはそうした物がないという点が違いとしてある。


■「さまざまな「転回」の中で―帝国史世界システム論・オリエンタリズムの「名著」「名論文」」(平田雅博*16
(内容要約)
取り上げられている名著、名論文は以下の通り。
1)「帝国史関係」
 「自由貿易帝国主義」「非公式帝国」と言う概念を世に広めたギャラハーとロビンソンの論文「自由貿易帝国主義」(ネーデル他編集『帝国主義植民地主義』(邦訳:1983年、御茶の水書房))とギャラハーらの影響を受けた毛利健三『自由貿易帝国主義』(1978年、東京大学出版会)、及びこれらの議論を受けて筆者が執筆した平田著『イギリス帝国と世界システム』(2004年、晃洋書房)が紹介されている。

参考

帝国主義(ウィキペ参照)
 ギャラハー、ロビンソンによる「自由貿易帝国主義論」は、非公式帝国という概念を用い、自国の植民地以外への投資を説明している。彼らの論によれば、自由貿易の堅持や権益の保護、情勢の安定化といった条件さえ満たされるのならば、植民地の獲得は必ずしも必要ではなく、上記の条件が守られなくなった場合のみ植民地化が行われたとされる。ギャラハーらは現地の情勢と危機への対応に植民地化の理由を求めたため、それ以降「周辺理論」と呼ばれる、植民地側の条件を重視する傾向が強くなった。
 それに対し、再び帝国主義論の焦点を「中心」に引き戻したのがウォーラステインによる世界システム論であり、ケインとホプキンズ*17によるジェントルマン資本主義論である。

非公式帝国(ウィキペ参照)
 ギャラハーとロビンソンによって提唱された自由貿易帝国主義論の核となる概念であり、政治的・経済的な従属下にあるものの公的な支配を伴わない地域を指す。東インド会社支配下のインド、19世紀南アメリカ諸国、19世紀後半から20世紀初頭にかけての中国などがイギリスの代表的な非公式帝国である。
 非公式帝国化する為の前提条件として、自由貿易で他の競合国を圧倒する経済力と、航路の安全を保障し自由貿易を相手に強制する軍事力が必要となる。政治的・行政的支配の伴う公式帝国に比較し、非公式帝国は直接的な支配を必要としない分、官僚や軍隊の維持に必要なコストを低く抑える事ができるとされる。
 非公式帝国という概念は政治支配と経済単位の一致するホブスン・レーニン的な古典的帝国観を覆し、ウォーラステインの世界システム論に大きな影響を与えた。非公式帝国という概念は現在もイギリス帝国研究に受け継がれ、現在のイギリス帝国研究の中心的な枠組みとなっているジェントルマン資本主義論に大きな影響を与えている。

ジェントルマン資本主義(ウィキペ参照)
 ギャラハーとロビンソンが周辺にイギリス帝国拡大の要因を見出したのに対し、ケインとホプキンズはシティというイギリス帝国の中枢にその要因を求めた。ケインとホプキンズは、イギリス帝国の拡大は周辺の危機的状況に対処していった結果と理解する周辺理論に対し、シティの利害を軸にイギリス政府当局によるより積極的な関与を指摘し、分散する周辺研究を再度中心側へと収拾しようとしている。その様な彼らの指向性に対し、しばしば中心寄りが行き過ぎる、あるいは産業資本を軽視しすぎているという批判を受けている。

2)「世界システム論関係」
 世界システム論の提唱者・ウォーラーステインの著作のうち、『新版・史的システムとしての資本主義』(邦訳:1997年、岩波書店)が取り上げられている。
3)「オリエンタリズム関係」
 いわゆるオリエンタリズム研究において「古典中の古典」とされるサイードオリエンタリズム(上)(下)』(邦訳:1993年、平凡社ライブラリー)がまず取り上げられている。
 また筆者が過去に翻訳したオリエンタリズム研究の本としてマッケンジー大英帝国オリエンタリズム』(邦訳:2001年、ミネルヴァ書房)、キャナダイン『虚飾の帝国:オリエンタリズムからオーナメンタリズムへ』(邦訳:2004年、日本経済評論社)が紹介されている。


■「ジュール・ミシュレ著、森井真*18・田代葆訳『ジャンヌ・ダルク』(中公文庫、1987年)」(加藤玄)
(内容要約)
 筆者はミシュレ著を評価しているが、ただしミシュレの原著は1853年刊行であり、歴史的限界があること、ミシュレはジャンヌを英雄として描いており、批判的視点が乏しい事に注意が必要としている。
 ミシュレ著の限界を補う最近のジャンヌ・ダルク研究書として、レジーヌ・ペルヌー『ジャンヌ・ダルクの実像』(邦訳:1995年、白水社文庫クセジュ)、『奇跡の少女ジャンヌ・ダルク』(邦訳:2002年、創元社「知の再発見」双書)、高山一彦『ジャンヌ・ダルク』(2005年、岩波新書)が紹介されている。


■「アメリカ史の名著3点」(上杉忍*19
(内容要約)
 筆者の紹介する名著は以下の通り。1)〜3)とも著者の関心分野である黒人問題と密接に関わっていることがわかる。
1)ウィリアムズ*20コロンブスからカストロまで:カリブ海域史(1492〜1969)』(邦訳:1978年、岩波書店、後に2000年、岩波モダンクラシックス
 ちなみにウィリアムズには次の著書がある。
A)『資本主義と奴隷制:ニグロ史とイギリス経済史』(邦訳:1987年、理論社
B)『資本主義と奴隷制』 (邦訳:2004年、明石書店世界歴史叢書)
 A)もB)も原著は同じ。本来入手可能なBがおすすめだろうがアマゾンレビューによるとBは

「訳があまりにもひどいと。こんなものは放っておいたらあかん、けしからん」
By カスタマー
形式:単行本この本は、1968年に中山毅の訳で刊行された『資本主義と奴隷制:ニグロ史とイギリス経済史』理論社の新訳であるが、訳が酷いことで知られている。この点については、川北稔*21『私と西洋史研究』創元社、2010年、pp.140-141を参照されたい。タイトルの「訳があまりにもひどいと。こんなものは放っておいたらあかん、けしからん」というのは、川北氏と面会したある研究者から発せられた言葉である。川北氏も「たしかに翻訳はかなり悲惨」「無茶苦茶な訳」と述べている。

と言うから困ってしまう。というか批判は結構だがそれならば自らが翻訳するなり、それが多忙で無理なら中山訳の復刻を働きかけるなり誰かがしていただけないのだろうか?
C)『帝国主義と知識人:イギリスの歴史家たちと西インド』(邦訳:1979年、岩波書店、後に1999年、岩波モダンクラシックス


2)ローディガー『アメリカにおける白人意識の構築』(邦訳:2006年、明石書店
3)バーリンアメリカの奴隷制と黒人』(邦訳:2007年、明石書店


■書評:山本博文・堀新*22・曽根勇二*23編著『消された秀吉の真実:徳川史観を越えて』(2011年、柏書房)(竹井英文*24
(内容要約)
・なおググったところ、同じ著者で『偽りの秀吉像を打ち壊す』(2013年、柏書房)という本も出ているようだ。
・失礼ながら書評が俺的に今ひとつだった。何が今ひとつかというと
 タイトルになっている『消された秀吉の真実』『徳川史観』とは山本氏ら著者にとって何を意味するかがよくわからない、のだ。
 『徳川史観』が具体的に何を指すかさっぱりわからないし、抽象的な意味でも、『徳川氏が意図的に自己に都合のいい歴史観を広めようとしたため広まった史観』と言う意味なのか、徳川氏の意図とは関係なく『従来の歴史学者が徳川氏を過大評価するがあまり、秀吉が過小評価されていた史観』と言う意味なのか、どういう意味なのかさっぱりわからない。
 章ごとに「筆者はこれこれこういう従来の見方はこれこれこういう理由で徳川史観であり、真実の歴史はこれこれこういうものだと批判する」と筆者の徳川史観批判をわかりやすく説明した上で「しかし私はそうは思わない」「私も全く同感だ」などと書いてくれるとありがたいのだが、そうなっていない。単に「これこれこういう説を筆者は唱えているが私はこう思う」という書評では「何を著者は徳川史観と思ってるのか」がさっぱりわからない。
 さっぱりわからないのでこの本や『偽りの秀吉像を打ち壊す』の書評エントリがないかググってみる。見つかったのをノーコメントで紹介する。歴史素人なので『徳川史観』云々について評価のしようがない。俺的には「俺は新しいこと言ってるんやで」的本についてはどうしても「本当に新しいんかい」とか「新しい古いはともかく従来説に比べて正しいんかい」と眉唾してしまうが。ええ、小生はそう言う意味では保守的ですから。

http://www.fben.jp/bookcolumn/2011/08/post_2983.html
 この本を読むと、私たち日本人がいかに徳川史観に毒されていたかに思い至ります。徳川史観とは、徳川家康をことさらに神聖化・絶対化する江戸幕府イデオロギー工作のことです。これが300年にわたって繰り返されてきたため、日本人の歴史認識にしっかり刷り込まれてしまっています。たとえば、徳川家康が、豊臣秀吉の臣下として羽柴授姓されて、羽柴家康を名乗っていたことがあり、本姓も豊臣に改姓して、豊臣家康としていたというのです。豊臣一族の一員として秀吉に仕えていたのでした。
(中略)
 もう一つが、小牧・長久手の戦いで家康が秀吉に勝ったため、さすがの秀吉も家康にだけは特別な地位を認めざるをえなかったというのが「常識」*25です。ところが、実際には、先に岩崎城を秀吉軍に奪取された家康が、何とか長久手で秀吉軍の後尾を捕まえて逆転勝利に持ち込んだだけ。
 いわば、局地戦で勝利したのみで、美濃や伊勢などをふくめて全体でみると、実際には秀吉が勝利している。だからこそ、織田信雄も家康も、秀吉に人質を提供して停戦した。ところが、小牧・長久手の戦いにおける徳川譜代の活躍を強調するために、家康の勝利が大いに喧伝された。これは、関ヶ原の戦い外様大名の活躍による勝利だったことの関係で強調されたこと。なーるほど、そういうことだったんですか・・・。
(中略)
 秀吉の朱印状については、「自敬表現」と言われてきたが正しくない。これは、秀吉が自分に敬語をつかっているとみる説。しかし実際には、秀吉の文書を作成した右筆が秀吉に敬語をつかっていると理解すべきなのだ。
(中略)
 徳川幕府は、自らに都合の悪いことは消し去っていたのですね。丹念に文書(しかも原本)を掘り起こして論ずる学者の偉大さには、ひたすら感服します。

 内容が正しい正しくないはともかく、歴史学のプロが書いた歴史評論書評より「山本博文氏らが言う徳川史観」の意味がよくわかる書評というのが何というか皮肉。
 ただし「自敬表現」云々は「従来説批判」ではあっても、「徳川史観」とやらとは関係ないように思うが。

http://shikado.cocolog-nifty.com/zakki/2011/06/post-77a2.html
山本博文・堀新・曽根勇二編『消された秀吉の真実―徳川史観を越えて』(柏書房、2011年)を堀さんより受贈。ありがとうございます。
 内容は副題にある通り、豊臣秀吉政権期の権力構造について、後世に形成されたバイアスをなるべく排除すべく、原文書の分析に立ち返って検討しようというスタンスの元に編まれた論文集です。
 そのスタイルは山本博文『天下人の一級史料―秀吉文書の真実』(柏書房、2009年)を継承するもので、本書は続編といった位置づけでしょうか。執筆者が中心となっている「豊臣秀吉関係文書研究会」の活動が母胎となっているそうです。

http://sicambre.at.webry.info/201106/article_12.html
 本書の基調の一つとなっているのは、徳川史観の克服です。「徳川史観とは、徳川家康や将軍職をことさらに神聖化・絶対化する江戸幕府イデオロギー工作である」とのことで(P324)、これが300年近く諸書を通じて繰り返された結果、日本人の歴史認識に潜在意識のように刷り込まれてしまっており、それは歴史研究者も例外ではない、と本書では指摘されています。その実例として、本書第一章では長久手の戦いについて同時代史料から俗説が見直されており、また第五章では、家康が豊臣政権下の一時期、豊臣氏を称した可能性の高いことが指摘されています。徳川史観の克服は、今後も重要な課題となり続けそうです。

http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/hitori/hideyoshi-mon.htm
①最近の研究動向として、東京大学山本博文氏らの編集による『偽りの秀吉像を打ち壊す』(柏書房、2013.1)という書がありますが、少々調べたところ、秀吉文書を巡り名古屋大学の三鬼清一郎氏*26と山本氏との間で論争があることが分かり、その対象とされた『天下人の一級史料―秀吉文書の真実』(柏書房、2009年)をまず読んでみることとしました。
 同書は、豊臣政権期に出された刀狩令バテレン追放令、人掃令などにつき、原本の写真版や釈文(原本を読んで活字にしたもの)、さらには現代語訳までも掲載し、それらを対比させながら、一般読者に十分に理解できるように議論を進めており、きわめて興味深い読み物となっています。
②ただ、一般読者を相手としている著書のためでしょう、十分な論拠を記載しないままに言い切っているところも多く見られ、そのためもあって批判相手の一人である三鬼氏を酷く怒らせたものと思われます。
 三鬼氏は、青木書店から出されている雑誌『歴史学研究』第870号に、山本氏の著書を批判する論考「山本博文著『天下人の一級資料』に接して」を寄せました(2010年9月)。
イ)まず、秀吉文書に見られる「自敬表現」について、それに関する「先行研究の代表といえる小林清治氏*27の見解を採り上げ、「それは正しくありません」と理由を何一つ示すことなく切り捨てている」と三鬼氏は批判します。
 さらに、山本氏の「見解に従えば、秀吉の行為に敬語が使われるのは右筆が作成した文書に限られるが、秀吉の自筆書状にも同様の事象が確認される」ところ、この点について山本氏は「秀吉が右筆の各文章を真似たものだと考えてい」ると述べているものの、「その根拠は全く示されていない」と三鬼氏は主張します。
ロ)さらに刀狩令について、例えば、山本氏が「この段階では九州大名に与えられたものだと推測でき」るとしている点につき、山本氏が所在を確認した「実質9通」の原文書のうち、はっきりと九州地域なのは「島津家、立花家、小早川家の3通」だけであって、「これだけから結論を下すことはできない」と三鬼氏は述べます。
 加えて、山本氏は「(刀狩令は)秀吉子飼いの大名には、交付するまでもないことで渡されていないよう」だとしながらも「加藤清正には渡されている」としているし、賤ヶ谷七本槍*28の一人の加藤嘉明(当時、淡路島を領有)には「渡される必然性はみあた」らないと山本氏が推論しているものの、渡された原文書は早稲田大学図書館に所蔵されていると三鬼氏は指摘しています。
 こうしたことから、三鬼氏は、「山本氏が、「これまで原本に即した刀狩令の研究は皆無でした」と自慢げに述べている内容は、空疎な大言壮語に過ぎないことが明らかとなった」と述べます。
③これに対して、山本氏は、2011年6月に出された『消された秀吉の真実―徳川史観を越えて』(柏書房)に、反批判の論考を二つ掲載しています。
イ)まず、同書の序章「秀吉文書を深く理解するために」において、山本氏は、自分の「主張の根拠」は、「秀吉とならんで、相手への尊敬表現が使われていること」だとします(P.11)。
 この点は、前著『天下人の一級史料』においても同じように記載されていたものの(同書P.20)、それだけだと「相手への尊敬表現を使ったのが秀吉なのか右筆なのか、判定しにくく、少し説得性に欠けるかもしれ」ないとして、例文をいくつか示した上で、「右筆の立場から書くから秀吉の行動に敬語が使われるという解釈の仕方は、秀吉朱印状の内在的理解には欠かせない考え方」と述べます(P.19)。
 さらに、秀吉の自筆書状に関し、山本氏は、桑田忠親*29の研究を踏まえつつ、「桑田氏の議論を敷衍すれば、秀吉が文章を書く時に準拠するのは右筆の書く文章」であり、「そのため自筆書状を書く時、右筆の書く言い回しをそのまま使うことになったのではないでしょうか」と述べます(P.20〜P.22)。
ロ)また、第三章「刀狩令に見る秀吉法令の特質」において、山本氏は、三鬼氏が提示した「3通の原文書」などを一つ一つチェックします。
 そして、同書P.104に表「刀狩令原本一覧」を掲示し、確認のできた13通について概略を記載した上で、「天正16年7月の刀狩令の交付範囲は、三鬼氏の指摘した刀狩令を加えても限定的なものであったことがわかります。この範囲を見れば、やはり肥後国一揆と密接に関連して出されたものだったという推測ができます」と述べています(P.105)。
④ここで取り上げた二つの問題点のいずれも、この関係の専門家でなければなかなか入り込むことができない難しいものだと考えられますが、部外者があえて申し上げれば、次のように思われるところです。
イ)「自敬表現」に関し山本氏は、なおざりにできない重要性を持つ問題提起を行っていると思われます。三鬼氏のように、小林清治氏がこれまでの国語学者らの「成果を踏まえ、慎重かつ論理的に述べている」からとして、簡単に棄却できるような仮説だとは思えません。
 ただ、そうだからと言って、まだ依然として可能性の一つに止まるべき仮説であり、「秀吉の自敬表現は関白就任を契機に、関白の権威の超絶性を本質的な根拠として出現したものと見るのが妥当」とする小林清治氏の見解を、山本氏のように断定的に否定することは出来ないのではないかと思われます。
 というのも、「自敬表現」に関し、山本氏は「天皇文書の特徴とされる敬語の使い方」だとして、その存在自体を否定はしていないのです(『天下人の一級史料』P.20)。さらに、ロドリゲスの『日本文典』にまで記述が見られることからも、むしろ、当時かなり周知の事柄だったとも考えられます。
 そうした状況において、山本氏は「秀吉とならんで、相手への尊敬表現が使われていること」から、秀吉はそのような使い方をしなかったと主張するのですが、秀吉以外の事例がもう一つ二つ存在するのならともかく、そうでなければいかにも根拠が薄弱なようにも思われるところです。
ロ)また、刀狩令について、山本氏は、『消された秀吉の真実』において『天下人の一級史料』と同一の見解を述べているところ、後者よりも前者で二つの原文書が加わったものの、そのうちの一つは宛先が不明ですから、事態は余り変わりがない(すなわち、刀狩り令の交付範囲が限定的だったとは明言できない)のではないかと思われます。
ハ)いずれにしても、今回の論争を通じて、研究され尽くされていると思われていた秀吉関係の基本文書には、まだまだ検討しなければならない問題点が沢山残っていることがわかり、そうであれば、研究がこれから先次第に積み重ねられていくにつれて、また新たな秀吉像が作り上げられる可能性があるかもしれず、そう思うと期待が大きく膨らみます。

http://zeigen.blog62.fc2.com/blog-entry-50.html
三鬼清一郎氏「山本博文著『天下人の一級史料』に接して」(『歴史学研究』№870<2010年9月号>)
 この文章は、山本博文氏の著作『天下人の一級史料―秀吉文書の真実』(柏書房、2009年)について、三鬼氏が検討・批判を加えたものです。
 なお、この山本氏の著作は、私自身も昨年購入して手元においております。
 豊富な図版に加えて、平易な文体で書かれており、これは有益だと何度も読み返しましたが、今回、三鬼氏の文章に接して、随分と多くの事柄を見落としていたことにまずは反省しきりです。
 さて、個別の検討事項の是非については、私には判断がつきかねる部分もありましたが、大方の議論について、三鬼氏の見解にはうなずかれるものがありました。
 一々の議論の紹介は差し控えますが、関心の向きは直接ご確認いただければと思います。
 また(本題を外れますが)「おわりに」に記された下記の内容には、個人的に強い共感を覚えずにはいられませんでした。
 山本氏が使用した「一級史料」という言葉に違和感を覚える三鬼氏*30は、次のように述べておられます。

いかなる史料にも固有の価値があるはずで、何を基準として等級づけが可能かが理解できない。

 この点、私自身に引き寄せていえば、たとえば、宇喜多氏を論ずるにあたって、『備前軍記』といった軍記物の記載を、多くの場合は退け、その代わりに同時代史料あるいは『戸川家譜』といった比較的良質の編纂物をとることが少なくありません。
 しかし、この例でいえば、『備前軍記』には『備前軍記』の価値を認め、その記述を起点にした議論も不可能ではないはずなのです。
 上述の三鬼氏の言葉を重く受け止めて、より多様な、もっと広い視野をもって先人の残した資・史料を検していく必要性を痛感させられます。
 次いで、三鬼氏は、山本氏の著作に対する検討をはなれて、下記のような苦言も呈されます。
 この稿を通じて三鬼氏の訴えたかった事柄が凝縮されているやに思われます。

 昨今の歴史学会には、克服すべき課題が山積している。
 とりわけ若手・中堅研究者の一部にみられる業績万能主義・モラルの低下は目に余るが、それを糺して自ら範を示すべき立場にある研究者の姿勢にこそ問題があるのではないか。

「業績万能主義・モラルの低下」……
 モラルの低下については具体的にどのようなことを指すのかは明らかではありませんが、多少、意訳するとすれば、質より量、何でも(先に)書けばよい、そういった傾向のことを指すのでしょうか。
 あるいは地元の研究者が何十年もの歳月をかけた地道な努力(研究)に対して、中央の研究者が「史料の扱い方に問題がある」といった言辞で一蹴してしまう、または無視・黙殺をもって相対する。……そういった事柄も該当するのかもしれません※。


※三鬼氏による上述の検討には、「直江状」を取り上げるに際して、山本氏が「地元越後や米沢在住の研究者の業績や『歴代古案』などの良質の史料も無視している」といった指摘もありました。


 いずれにせよ「どんなものであれ(沢山)成果を出せばよい」、「多少議論があらくても、質より量だ」といった誤った傾向が広がっているとすれば、何とも遺憾なことだと思いますし、私自身も与しません。
 むろん、独善的な「史料の等級づけ」があるとすれば、それに対しても強い違和感を覚えます。
 じっさい、私自身も最近、先行研究の軽視・無視が見られたり、編纂物の利用を何らの理由を示さず一蹴した研究者の著作について疑問を呈しました※。


※拙稿「宇喜多騒動をめぐって―光成準治*31著『関ヶ原前夜』*32第五章への反論―」(『日本史研究』第573号、2010年)


 以上、乱文のうえに、好き勝手に放言いたしましたが、何とぞご海容いただければと思います。
 三鬼氏の提言を、真摯かつ誠実にうけとめ、自戒とすると同時に、今後の研究の一つの指針として、地道に精進を続けたいと思います。


1)三鬼清一郎氏が山本博文氏に批判的なことと
2)この問題が相当ややこしいらしいこと「だけ」は「素人の俺」にもよくわかった。
 なお、「私」(大西泰正氏*33)の光成準治関ヶ原前夜』への批判については『大西泰正氏「光成準治著『関ヶ原前夜』第5章への反論」』(http://94979272.at.webry.info/201009/article_6.html)を参照すればあらすじはわかるだろう。

http://94979272.at.webry.info/201302/article_12.html
 山本博文氏・堀新氏・曽根勇二氏編「偽りの秀吉像を打ち壊す」(柏書房)の序章に、「本書は、『消された秀吉の真実ー徳川史観を越えて』に続く豊臣秀吉関係文書研究会の会員による2冊目の論文集」だと記されています。
(中略)
 「偽りの秀吉像を打ち壊す」は、前作同様、われわれの捉えている秀吉の姿が徳川史観によって作られたものであり、秀吉の真実の姿を明らかにしようという姿勢で貫かれています(中略)。
 第一章「豊臣秀吉征夷大将軍になりたかったのか?」と題する堀新氏の論文では、秀吉は征夷大将軍になりたかったのに、足利義昭に養子入り(本姓を源氏に改姓しようとして)を断られたため、仕方なく関白になったという捉え方は、林羅山の「豊臣秀吉譜」に最初に出てくるものであり、それは捏造されたものだと指摘されています。

*1:著書『ドイツの長い一九世紀―ドイツ人・ポーランド人・ユダヤ人』(2002年、青木書店)

*2:著書『日本中世荘園制成立史論』(2009年、塙書房

*3:1965年、中央公論社、後に2005年、中公文庫

*4:著書『武士の成長と院政』(2009年、講談社学術文庫

*5:著書『武士の成立・武士像の創出』(1999年、東京大学出版会

*6:著書『武士の成立』(1994年、吉川弘文館

*7:著書『慶安の触書は出されたか』(2002年、山川出版社日本史リブレット)

*8:1977年、龍溪書舎刊行

*9:著書『漢代国家統治の構造と展開―後漢国家論研究序説』(2009年、汲古叢書)

*10:著書『軍事奴隷・官僚・民衆:アッバース朝解体期のイラク社会』(2005年、山川出版社歴史モノグラフ)

*11:戦後は慶応義塾大学教授、著書『マホメット』(1952年、弘文堂アテネ文庫、後に、1989年、講談社学術文庫)、『イスラーム生誕』(1979年、人文書院、後に1990年、中公文庫)、『コーランを読む』(1983年、岩波セミナーブックス、後に2013年、岩波現代文庫)など

*12:戦後は東京外国語大学ペルシャ語科教授。著書に『イスラーム:回教』(1958年、岩波新書)、訳書にサアディー『薔薇園』(平凡社東洋文庫)など多数

*13:戦後、金沢大学教授。著書『新疆ムスリム研究』(1995年、吉川弘文館

*14:戦後、京都大学教授。著書『暗殺者教国:イスラム異端派の歴史』(2001年、ちくま学芸文庫)、『文明の十字路:中央アジアの歴史』(2007年、講談社学術文庫

*15:ただし今西進化論について提唱当時はともかく今では「誤謬と見なすべき」「まともに扱う生物学者はいない」らしい。たとえば、ならなしとり『今西進化論とかいうもの』(http://blog.goo.ne.jp/micropterusandsalmo/e/7afebbbc84d3001354168e3506cbf761)参照。

*16:著書『イギリス帝国と世界システム』(2004年、晃洋書房)、『内なる帝国・内なる他者:在英黒人の歴史』(2004年、晃洋書房

*17:著書『ジェントルマン資本主義の帝国(1)・(2)』(邦訳:1997年、名古屋大学出版会)

*18:著書『ジャン・カルヴァン:ある運命』(2005年、教文館

*19:著書『公民権運動への道:アメリカ南部農村における黒人のたたかい』(1998年、岩波書店)、『二次大戦下の「アメリカ民主主義」:総力戦の中の自由』(2000年、講談社選書メチエ)、『アメリカ黒人の歴史:奴隷貿易からオバマ大統領まで』(2013年、中公新書

*20:トリニダード・トバゴ初代首相としても知られる

*21:大阪大学名誉教授。ウィリアムズ著『コロンブスからカストロまで』の翻訳者。著書『砂糖の世界史』(1996年、岩波ジュニア新書)、『イギリス近代史講義』(2010年、講談社現代新書

*22:著書『織豊期王権論』(2011年、校倉書房

*23:著書『大坂の陣豊臣秀頼』(2013年、吉川弘文館

*24:著書『織豊政権と東国社会:「惣無事令」論を越えて』(2012年、吉川弘文館

*25:学会はどうか知らないがすくなくとも世間的にはそういう理解だろう。

*26:著書『鉄砲とその時代』(1981年、教育社歴史新書、後に2012年、吉川弘文館)、『織豊期の国家と秩序』、『豊臣政権の法と朝鮮出兵』(ともに2012年、青史出版)

*27:著書『伊達政宗』(1985年、吉川弘文館人物叢書)、『秀吉権力の形成:書札礼・禁制・城郭政策』(1994年、東京大学出版会)、『奥羽仕置と豊臣政権』、『奥羽仕置の構造:破城・刀狩・検地』(ともに2003年、吉川弘文館)、『伊達政宗の研究』(2008年、吉川弘文館)、『戦国大名伊達氏の研究』(2008年、高志書院

*28:福島正則加藤清正加藤嘉明脇坂安治平野長泰糟屋武則片桐且元

*29:著書『古田織部の茶道』(1990年)、『細川幽斎』(1996年)、『武士の家訓』(2003年)、『太閤の手紙』(2006年、以上、講談社学術文庫

*30:まあ、俺も「亜細亜大の東中野かよ」って気がするね。もちろん東中野と一緒にしたら失礼ではあるが。

*31:著書『中・近世移行期大名領国の研究』(2007年、校倉書房

*32:2009年、NHKブックス

*33:著書『豊臣期の宇喜多氏と宇喜多秀家』(2010年、岩田書院)『「大老宇喜多秀家とその家臣団:続・豊臣期の宇喜多氏と宇喜多秀家』(2012年、岩田書院