新刊紹介:「歴史評論」10月号

特集『君主制とイメージ』
興味のある論文だけ紹介する。
詳しくは歴史科学協議会のホームページをご覧ください。
http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/

■『弘前秩父宮―戦中期地域社会における皇族イメージの形成と展開』(茂木謙之介*1
(内容要約)
秩父宮青森県弘前市・陸軍第八師団歩兵第31連隊長時代(1935〜1936)に地元メディア(弘前新聞)が彼をどう描き出したかを見てみようという話。
・いろいろ書いてあるが個人的に一番興味深かったのはスキー*2関係の記事が多いらしいこと。
 秩父宮ラグビー場に名を残すように彼には「スポーツ振興家」と言うイメージが強いのであるが、それが1935年時に既に定着しているのかと少し驚いた。

【参考】

秩父宮雍仁親王ウィキペディア参照)
・1902年(明治35年)6月25日~1953年(昭和28年)1月4日)。大正天皇の次男。昭和天皇の弟。
・1940年(昭和15年)に肺結核と診断され、翌年より静岡県・御殿場で療養生活を送る。1952年(昭和27年)1月に静岡県御殿場市から神奈川県藤沢市鵠沼別邸に移った。同年暮に病状が悪化し、1953年(昭和28年)1月4日に死去した。
・遺書をしたためており、その中で「遺体を解剖に附すこと」、「火葬にすること(注:皇族は土葬が伝統)」、「葬式は如何なる宗教にもよらない形式とすること(注:皇族は神道式が伝統)」と書かれており、皇族としては異例の病理解剖が行われた。なお葬儀は遺書に反し神道式で行われたが、遺体は火葬された。
・スキー、ラグビー等スポーツの振興に尽くし「スポーツの宮様」として広く国民に親しまれた。登山にも積極的であり、英国留学中にはマッターホルン登頂を果たしている。
・1929年の関西視察の途上、近鉄奈良線(当時は大阪電気軌道)に乗り、現在の東大阪市(当時の中河内郡英田村)付近で降車した際に競馬場跡地の空き地を見つけ「ここにラグビー場を造ってはどうか」と発言。これが現在の高校ラグビーの聖地、東大阪市花園ラグビー場の誕生に繋がったといわれる。
・1928年2月に北海道を行啓した際、札幌・手稲山の山小屋で将来の冬季五輪招致のために世界規格の大型ジャンプ台の建設を発案し、建設に尽力したといわれる。また、オリンピック開催に備え、札幌に洋式のホテルを建設することも併せ発案し、北海道庁と札幌商工会議所が中心になり推進した結果、1934年に札幌グランドホテルとして開業した。札幌オリンピックは、1940年の開催が戦争のために取りやめとなったが、秩父宮の死後1972年に実現し、同ホテルは昭和天皇香淳皇后の宿舎となったほか、選手村の台所運営という大任を果たした。

秩父宮ラグビー場ウィキペディア参照)
日本ラグビー協会名誉総裁だった秩父宮雍仁親王死去の1953年(昭和28年)、親王の遺徳を偲び「秩父宮ラグビー場」に名称が変更された。日本のラグビーにとっては「西の花園、東の秩父宮」と称され、日本ラグビーの聖地とも言われる。

■宮様スキー大会国際競技会(ウィキペディア参照)
 毎年3月初旬頃に北海道札幌市で開催される国際スキー連盟(FIS)公認の競技会である。優勝者には皇族からカップが下賜される。ジャンプ、クロスカントリーアルペン、コンバインド、フリースタイル、バイアスロンが行なわれる。
■歴史
 北海道でスキーが始められてから20年後になる1928年(昭和3年)に、秩父宮雍仁親王が北海道を訪れた。秩父宮は12日間の日程の8日をスキーにあて、スキー振興のための施設設置案を様々に練り、北海道に適したスポーツとしてスキーを勧めて帰った。ともすれば一部の贅沢な趣味と見られがちだったスキーを鼓舞する言葉に励まされ、現地のスキーヤーは、1930年(昭和5年)に「秩父宮殿下高松宮殿下御来道記念大会」を開催した。これが第1回の宮様スキー大会である。
 第3回大会からは、帝国ホテル会長・大倉喜七郎秩父宮の勧めで建設した大倉シャンツェ大倉山ジャンプ競技場)がジャンプ競技の舞台として用意された。
 1948年(昭和23年)からは秩父宮ジャンプ競技の優勝者に秩父宮杯、高松宮が長距離(クロスカントリースキー)の優勝者に高松宮杯を授けることになった。
 1972年(昭和47年)に札幌冬季オリンピックが開催された2年後の1974年(昭和49年)に国際スキー連盟(FIS)公認の競技会に指定され、国際的な大会として定着した。


■『戦略としての表象分析:《八紘之基柱》を読むということ』(千葉慶*3
(内容要約)

八紘之基柱(あめつちのもとはしら:ウィキペ参照)
 宮崎県宮崎市平和台公園に位置する塔。現在の名称は「平和の塔」。また正面に彫られた「八紘一宇」の4文字から「八紘一宇の塔」ともいう。
 1940年の神武天皇即位紀元皇紀)2600年を祝うにあたり、国は紀元二千六百年奉祝事業として宮崎神宮の拡大整備事業を行うことになった。
 そして宮崎県当局も「紀元二千六百年宮崎県奉祝会」を立ち上げ、県を挙げて奉祝することになった。当時の知事相川勝六*4(奉祝会会長も兼任)は、「八紘一宇の精神を体現した日本一の塔」を作る事を提案し、実行に移すことになった。秩父宮雍仁親王が塔に「八紘一宇」の碑文を揮毫。また、高松宮宣仁*5親王を迎えて落成式典が行われた。

 何で現在の名称が「平和の塔」かというとさすがに「八紘一宇の塔」と呼ぶのは差し障りがあるからです。ならば、取り壊してなくせばいいんですが、
1)靖国を「追悼の場にすればいい」という右翼サイドの言説と同様の「八紘一宇を世界平和と読み替えればいい」という言説が右翼サイドから登場したから
 まあ、「八紘一宇」のいう「世界平和」って「日本を親分にした日本による日本の為の平和」ですから侵略思想以外何物でもないんですが、こういう主張をする輩は「そういう事実を否定する」か、「その事実を認めた上で過去と切断処理すればいい、八紘一宇を新解釈すればいい、とこともなげに言う」か、どっちかだから困るわけです。
 事実否定は論外としてそう簡単に切断処理できるわけもないでしょう。「ハーケンクロイツは元々はナチと関係ないからドイツ国旗のママでええやないか(実際、関係ないんですけど)」とか「カマトンカチ(ソ連の国旗)の理念*6自体は正しいからロシア国旗のままでええやないか」とか言ってそれで通用するんか、通用させてええんか、国内外のナチ被害者とか、ソ連被害者とかの感情を無視してええんか、そこまでして残すほどのもんなんか、とかそういう話でしょう。
2)観光で客が来てるからええやんという言説
 これは理屈じゃないですからね。ある意味反論が難しい。まあ、「客が来なくなれば」消える言説でしょうが今はどうなんでしょうか?。


■『保護国大韓帝国皇帝儀礼の展開』(小川原宏幸*7
(内容要約)
・「保護国大韓帝国皇帝儀礼」とは1909年に行われた韓国皇帝巡幸(1/7〜13の南部巡幸、1/27〜2/3の西北巡幸)のことである(なおこの時点で第三次日韓協約(1907年)が結ばれており、韓国は内政権、外交権を完全に奪われた上韓国軍も解散され完全な保護国に陥った)。
・なお、筆者に寄れば、この巡幸をもとに「少なくとも1909年4月までは伊藤は韓国を日本に編入する考えはなかった」とする見解が有力なようだが筆者曰くその考えは間違いであり「伊藤死後、1910年に実際に行われた編入韓国併合)」とは異なるが伊藤も保護国とは異なる、保護国から一歩進んだ「韓国の日本への編入構想」をもっており、その編入構想においては「皇帝巡幸」は矛盾しなかっただけであるとしている(ただし伊藤の韓国編入構想の詳細は拙著『伊藤博文韓国併合構想と朝鮮社会:王権論の相克』(2010年、岩波書店)を確認して欲しいとしているので詳細は不明)
・巡幸では皇帝は洋装姿で登場し、近代化アピールの意図があったと思われる。
・巡幸では南部巡幸が「公園や港湾、展覧会場」といった近代的施設であったのに対し、西北巡幸では宗廟など伝統的色彩が濃かった。
・巡幸での皇帝謁見者が在韓日本人に偏っていることからはこの巡幸の大きな目的が「日韓融和」アピールにあったことが伺える。ただし、巡幸後の義兵闘争数に減少が見られないこと、「巡幸後、日本は皇帝を日本に連行するつもりだ」という流言が広がったことなどを見るにそれが成功したかどうかは疑問である。


■『「二人の女王の物語」―在位記念式典に見る君主制の変質』(井野瀬久美恵*8
(内容要約)
 2人の女王というのはビクトリア女王とエリザベス2世女王です。2人とも「在位60年記念式典」をやってるわけですがその違いを見てみようというわけです。
 で大きな違いとして、井野瀬氏があげてるのが現代化と言うことです。現代化しないと王室は生き残れないわけです。
・ま、そもそも「記念式典をやること」自体がある種の現代化ですが。ビクトリア女王以前はそんなことはやらないわけです。王が「象徴的存在」となり政治権力を失うとともに、科学的合理主義の発展で「王様も俺達と同じ人間」という認識が広まってくると「王様の権威」は当然のものではなくなってくるわけです。実際フランスではこの時期は第三共和制で、イギリスでも支持者は少ないとは言え王室廃止論もあるわけです。それに対応したのが「記念式典」に代表される「開かれた王室路線」「親しまれる王室路線」のわけです。
・ エリザベス女王在位60年記念式典のメインプログラムとして位置づけられたのはノッティングヒルカーニバル*9です。
 これは
1)旧態依然としたプログラムでは国民にアピールしないという意味と
2)イギリスは移民文化を受け入れる懐の深い国であり、王室もそれを認める懐の深さがあるんだというアピールの意味
があると井野瀬氏は見ています。要するに国際的には在特会みたいな代物は論外の訳です。
 また記念コンサートのオープニングでブライアン・メイがギターソロによる国歌演奏をしたのも現代化の一環の訳です。ウィリアム王子のような若者はともかく、当のエリザベス女王はメイが何者だかさっぱりわからなかったようですが。


■『朝鮮人倭館「亡命」事件に見る日朝関係:1836年「南必善一件」を事例として』(酒井雅代)
(内容要約)
・1836年に発生した『朝鮮人倭館「亡命」事件』、いわゆる「南必善一件」を論じた論文です。
倭館というのは「日朝外交を担当していた」対馬藩が「日朝貿易のために釜山においてた出先機関」です。そこに南必善なる人物(もちろん朝鮮人)が亡命しようとするわけです。それがどういう結論になったかというのを見てみましょう。
・南必善という人物が、倭館対馬藩士に「朝鮮王朝が秀吉の朝鮮出兵の報復として日本侵略を企んでる。ついては日本に亡命したい」と言って接触してきます。
・で対馬藩はどうしたか。事実なら大問題ですが対馬藩はこの情報を最初から疑ってかかってます。
(理由1)
 秀吉の朝鮮出兵は1598年。一方、南が倭館に駆け込んだのは1836年(徳川11代将軍家斉の時代、老中は天保の改革で知られる水野忠邦)です。およそ230年の時が過ぎてるわけでその間、日朝間では朝鮮通信使のやりとりなどで平和的交流をしてるわけです。
 誰だって「そんなアホな」と思うでしょう。「おいおい、戦後何年経ってるんだよ、本当に報復したかったらとっくにやってるだろ」という話です。たとえば「中国が日中戦争の恨みを晴らすため日本侵略を企んでる」「韓国が植民地支配の恨みを晴らすため(以下略)」「フランスが第二次大戦の恨みを晴らすためドイツに(以下略)」と今いう人間が仮にどこかにいたとして信じる人間がいるだろうかという話です。南ももう少しまともな口実は思いつかなかったんでしょうか。
 言ってることが「中国は日本を自治区にする気だ」とかデマほざくペマ・ギャルボみたい。
(理由2)
 対馬藩だって倭館をおいてる以上、日頃から朝鮮の情報収集してるわけですが、そんな情報は今まで把握していなかったわけです。
(理由3)
 やたら、南が「日本の出兵」を要望するため、対馬藩側では「政敵打倒のためにありもしない日本侵略話を持ち出し、日本の軍事介入を引き出そうとしてるのではないか」との疑惑を抱くことになります。
・で対馬藩としては「南の主張はとてつもなく怪しい」し、「南の主張が嘘なのに亡命なんかさせたら、日朝関係が決定的に悪くなって国交断絶まで行くかも知れない(そうなると幕府から対馬藩が処罰されかねない)」「一方早急に引き渡せば貸しを作ることになり今後の日朝交渉にプラスだ」という判断から「南をとっとと犯罪者として朝鮮王朝に引き渡す」事を決定します。
 理由はどうあれ、許可なく対馬藩士に朝鮮人接触することは犯罪だったからです(当然ですけど、明治時代の日本と違って「南の主張がデマカセでも構わない。攻撃の理由が出来て良かった、朝鮮を植民地にしようぜ」なんて発想はこの時期にはありません)。
・とはいえ「朝鮮王朝側で勝手に処罰されるのもまずい」と言う認識から「処罰に当たっては対馬藩の了承を得ること(要するに事前に対馬藩に連絡すること)」という申し入れを行います。
・その後、朝鮮王朝側から「南の主張は勿論デマであり、奴の目的は外国勢力(日本)を利用しての政府転覆(日本の現代の言葉で言うと外患誘致)であった」「重罪のため即刻処刑した(まあ今だってこんな事をやるのは重罪で日本だと法定刑が死刑しかありません)」「南引き渡しには感謝してるので後で倭館対馬藩)に報奨を出したい」と言う報告が来ます。
 「おいおい、処罰するときは事前に連絡してくれと頼んだやないか」「外交処理が良くないと言うことで幕府に処分されるかもしれないやないか」と対馬藩も困ってしまいますが何とか「幕府と朝鮮王朝の間でうまく立ち回って」事なきを得るわけです。
 江戸時代の日朝外交においては「対馬藩」という要素が大きいわけです。対馬藩は出島を所管する長崎奉行などとは違い「幕府からある程度独立した存在」であり彼らの意思が外交には反映されるわけです。 


■編集後記
 筆者(上杉和彦氏*10曰く、この雑誌の編集時に映画「終戦のエンペラー」が公開されたが「日本近現代史家はあの映画の昭和天皇描写をあるいは、日本における昭和天皇描写(有名なマッカーサーとの写真であれ、映画やドラマでアレ、「崩御時のワイドショーなどの天皇報道」であれ、何でアレ)をどう考えるのだろうか、と思った」とのこと。ふむ、そうですね。既に「日本の天皇をめぐる言説」についてはいろんな本があるとは思いますけどね。小生も渡辺治『日本の大国化とネオ・ナショナリズムの形成:天皇ナショナリズムの模索と隘路』(2001年、桜井書店)を持っていますが。
 基本的には戦後の天皇イメージは「平和主義者天皇」「マイホームパパ天皇」といったイメージの強調でしょう。戦前の大元帥(軍最高司令官)イメージを如何にして抹消するかが「天皇生き残り戦術」において重要だったわけです。
 ただ一方でそうした戦術は復古主義右翼には不愉快なものでしたし、当の昭和天皇も、そういう路線に反対はしないまでも、もやもやしたものを感じていたからこそ、『「天皇による天皇の政治的利用」の紹介』(http://d.hatena.ne.jp/bogus-simotukare/20091225/1260000031)で「増原発言の何が問題かわからない」という主旨の発言を侍従にして、侍従を困惑させるわけです。
 なお、「終戦のエンペラー」については以下の批判エントリを紹介しておきます。


【映画『終戦のエンペラー』】この映画に関する朝日と産経の『共同広告』の不思議 その3(最終回)
http://blogs.yahoo.co.jp/mochimoma/18073225.html
『「終戦のエンペラー」の神話と史実』
https://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/4021dfa613de5fae5f5597f6be8bec61

*1:著書『表象としての皇族:メディアにみる地域社会の皇室像』(2017年、吉川弘文館

*2:もちろん青森だからですが

*3:著書『アマテラスと天皇:<政治シンボル〉の近代史』(2011年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)

*4:戦前、内務官僚(途中から厚生官僚)として、警視庁刑事部長、神奈川県警察部長、内務省警保局保安課長、宮崎県知事、広島県知事、愛知県知事、愛媛県知事、厚生次官、小磯内閣厚生大臣などを歴任。戦後自民党タカ派代議士として活躍

*5:大正天皇の三男。昭和天皇の弟。

*6:農業労働者と工業労働者への敬意の表明

*7:著書『伊藤博文韓国併合構想と朝鮮社会:王権論の相克』(2010年、岩波書店

*8:著書『女たちの大英帝国』(1998年、講談社現代新書)、『フーリガンと呼ばれた少年たち:子どもたちの大英帝国』(1999年、中公文庫)など

*9:コトバンク曰く「1950年代にカリブ諸島からイギリスに移民してきた人々の祭りとしてはじまり、1964年から大規模なカーニバルとして開催されるようになった 」

*10:著書『源頼朝鎌倉幕府』(2003年、新日本出版社)、『平清盛』(2011年、山川出版社日本史リブレット人)、『鎌倉幕府統治構造の研究』(2015年、校倉書房)など