新刊紹介:「歴史評論」2022年7月号

 小生が何とか紹介できるもののみ紹介していきます。正直、俺にとって内容が十分には理解できず、いい加減な紹介しか出来ない部分が多いですが。
特集『ジェンダー史・クィア史の現在地』
◆西洋ジェンダー史研究の可能性(弓削尚子*1
(内容紹介)
ナチス・ドイツとホロコーストによる同性愛者迫害 - Wikipediaレーベンスボルン - Wikipediaナチス版『生めよ増やせよ』だが途中から『幼児拉致』という異常な方向に暴走、弓削論文は『幼児を拉致された実の父母』『拉致された幼児を養子として育てるよう命じられた義理の父母(?)』がレーベンスボルンをどう考えたかという観点でジェンダー的研究が可能とみている)など筆者が興味関心を持つジェンダー史的問題が取り上げられていますが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。
 なお、レーベンスボルンについては

◆イングリット・フォン・エールハーフェン,ティム・テイト『わたしはナチスに盗まれた子ども:隠蔽された〈レーベンスボルン〉計画』(2012年、原書房)

などの研究書があります。しかし『わたしはナチスに盗まれた子ども:隠蔽された〈レーベンスボルン〉計画』(原書房) - 著者:イングリット・フォン・エールハーフェン,ティム・テイト 翻訳:黒木 章人 - 黒木 章人による後書き | 好きな書評家、読ませる書評。ALL REVIEWSによれば

占領地に暮らす金髪碧眼の幼児たちを勝手にアーリア人種だと判断して、親元から奪って帝国本土に連れ去り、しかるべき基準を満たしたドイツ人夫婦にドイツ人の子どもとして育てさせたのだ。

というのだから、つまり「異常なカルト的思想(アーリア人優越論)」から「中学生(横田めぐみを想定しています)どころか幼児を拉致」つうのだからナチも常軌を逸していますね。

参考

『わたしはナチスに盗まれた子ども:隠蔽された〈レーベンスボルン〉計画』(原書房) - 著者:イングリット・フォン・エールハーフェン,ティム・テイト 翻訳:黒木 章人 - 黒木 章人による後書き | 好きな書評家、読ませる書評。ALL REVIEWS
 ヒトラーが作り上げたドイツ第三帝国の実質的ナンバー・ツーだったハインリヒ・ヒムラー*2が憑りつかれた〝超人種アーリア人〟という妄想。
 ヒムラーはその妄想を現実のものとすべく、〝生命の泉〟を意味する〈レーベンスボルン計画〉を立ち上げる。計画では、〝正しい血統〟のドイツ人男女(未婚既婚を問わず)のあいだに生まれた純血アーリア人からなる軍団を作ることになっていた。
 しかし考えればすぐにわかることなのだが、いくら産めよ殖やせよと発破をかけても、出産まで十カ月もかかるのだから戦死者の穴埋めすらできない。
 そこでヒムラーは、占領地に暮らす金髪碧眼の幼児たちを勝手にアーリア人種だと判断して、親元から奪って帝国本土に連れ去り、しかるべき基準を満たしたドイツ人夫婦にドイツ人の子どもとして育てさせたのだ。
◆誤解されつづけたレーベンスボルン。正しい理解へ
 レーベンスボルン計画の日本における認知度は、同じナチスの犯罪行為でもユダヤ人虐殺と比べるとそれほど高くない。それでも皆川博子*3の『死の泉』(二〇〇一年、早川文庫)をはじめとして、この忌まわしい行為に言及したフィクションはいくつか存在する。が、残念ながら〝親衛隊の種付け場〟という誤ったイメージを前面に出したものが多いように思える。
 かく言うわたしにしてもレーベンスボルンという言葉を初めて眼にしたのは、さいとうたかおの劇画『ゴルゴ13』のあるエピソードを中学生の頃に読んだときのことだった*4
 ゴルゴ13ことデューク・東郷の出生についてはシリーズのなかでいくつかの説*5が語られているが、そのエピソードでは、優秀な東洋人を交配させて超高度種族を誕生させるという旧日本軍版の〝レーベンスボルン作戦〟によって生み出された、東郷平八郎の孫とジンギス汗の末裔の女性とのあいだの子どもということになっていた*6
 〈超高度東洋種族創出所〉なる施設のエロティックなシーンは思春期だったわたしの心に刻み込まれ、そのせいでレーベンスボルンの施設はナチスの娼館のようなものだとずっと思い込んでいた。
 ノンフィクションでは、金髪碧眼であるがゆえに拉致され、レーベンスボルン協会によってドイツ人家庭に養子に出されたポーランド人少年の悲劇を、やはり本書同様に当人が語った『ぼくはナチにさらわれた』(アロイズィ・トヴァルデツキ著、足達和子訳、文庫版二〇一四年、平凡社刊)がある。
 書籍以外では、フランスにあったレーベンスボルン協会の施設で生まれ、戦後はフランス人として暮らしていた人物の苦悩を描いたGedeon社制作のTVドキュメンタリー『レーベンスボルンの子どもたち』(二〇一七年)がNHKで放送された。

『アイヒマンを追え! ナチスが最も畏れた男』に学ぶ、戦争下ドイツでのセクシュアリティ | FILMAGA(フィルマガ)
 刑法175条。いわゆる「ソドミー法」。
 「ソドミー法」とは、平たく言えば男性同士の性行為を犯罪とする法律の総称です。
 ドイツでは19世紀の帝政時代からソドミー法たる刑法175条が存在したものの、第一次大戦後の一時期は名目化していたようで、ベルリンは当時世界でも有数のLGBT天国だったとか。
 ところが、ナチが独裁政権と化したのち一転して取り締まりが強化され、ゲイは強制収容所送りの対象に。想像を絶する過酷な処遇の中で命を落とす人が大半だったと言います。
 同性愛者にとってのさらなる悲劇は、第二次世界大戦後も刑法175条は廃止されず、同性愛行為は犯罪とみなされ続けたこと。
 強制収容所に送られた同性愛者の1人として、当時の体験を記した『ピンク・トライアングルの男たち』(ドイツでの発行は1972年)の著者は、戦後、強制収容所で味わった苦痛に対して国に補償を求めたにも拘わらず、同性愛者は犯罪者だからという理由で補償を受けられなかったことを明かしています。


◆史料の中に「男性」を読み取る(兼子歩*7
(内容紹介) 
 筆者は米国史家ですが「フランクリン・ルーズベルト(米国大統領)」が「ジェンダー的価値観(男は健全であるべき)」から自らがポリオにより障害を抱えていたことを「必死に隠蔽しようとしたこと」など、「米国史におけるジェンダー的問題」について論じていますが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。
 なお、ポリオと言えば、以前別記事新刊紹介:「歴史評論」2021年6月号(ボーガス注:江戸川乱歩『芋虫』、ダルトン・トランボ『ジョニーは戦場へ行った』のネタばらしがあります) - bogus-simotukareのブログで書きましたがソ連映画「未来への伝言」(1988年、栗原小巻主演)で描かれたように過去においては恐ろしい病気でした。
参考

フランクリン・ルーズベルト - Wikipedia
 1882~1945年。1921年ポリオを発症する。その後遺症により下半身が麻痺し、日常生活では車椅子を常用していた。生前は車椅子姿を見られるのを非常に嫌ったため、訪問先の植木や立ち木をカムフラージュのために植え替えさせるなど、自身の障害を知られないよう事細かく指示した。また、マスコミもあえて積極的に報道しなかったため、ルーズベルトに障害があったことは当時のアメリカ国民はほとんど知らなかったという。車椅子姿をとらえたメディアはほとんど無く、写真が2枚ほど残されているだけである。なお、ルーズベルトが実際に罹患したのはポリオではなくギラン・バレー症候群であったと主張する説がある。しかし、ルーズベルトの脳脊髄液は採取されなかったので、正確なことは分かっていない。


◆視覚文化研究における私のジェンダー史的アプローチ(吉良智子*8
(内容紹介)
 長谷川春子 - Wikipedia(1895~1967年)など日本美術史において軽視されてきた女性画家について論じていますが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。

参考

女流美術家奉公隊 | 現代美術用語辞典ver.2.0
 太平洋戦時下に組織された女性美術家たちの団体。1943年2月、陸軍報道部の指導のもと、洋画家・長谷川春子を委員長に、藤川栄子、三岸節子桂ゆき日本画家の谷口富美枝ら50名によって結成された。

<書評>『踊る女と八重桃の花』長谷川春子 著:東京新聞 TOKYO Web
 その強烈な行動力により「女流美術家奉公隊」(一九四三年結成)を率いた画家・長谷川春子の、しかしこれは一九三〇年代を中心とした画文集である。春子は、鏑木清方梅原龍三郎という日本画・洋画の巨匠のもとに学び、フランスへ遊学、さらには建国間もない「満洲国」を訪問するなど、当時の女性画家としてはほとんど例外的な恵まれた環境に身を置いていた。姉の長谷川時雨*9が主宰した『女人芸術』をはじめ、雑誌や新聞にも登場し、文筆も積極的にこなしている。
 春子については近年、美術史研究の立場から奉公隊理事長としての活動に徐々に光が当てられるようになった。本書の編者であり、版元「共和国」の代表の下平尾直(しもひら・おなおし)は「やがて戦争に行き着くこの表現者の精神を、そのはじまりから、彼女の表現自身によって語らせてみたかった」という。


イスラーム法のなかの「子ども」とジェンダー史(小野仁美*10
(内容紹介)
 筆者が自著『イスラーム法の子ども観』(2019年、慶應義塾大学出版会)をもとに「イスラム法の中の子ども」についてジェンダー的観点から論じていますが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。なお、小野氏は「タリバン」などのイメージからイスラム法については「ジェンダー保守イメージ」があるがそれは「一面の真実に過ぎない」としています。


◆男性同性愛の歴史と雑誌メディア(前川直哉*11
(内容紹介)
 『アドニス』『薔薇族』といった「男性同性愛雑誌」について論じていますが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。
 なお、前川氏は「日本の同性愛者」について「誤解や反発を恐れず」あえて言えば「男性同性愛の方が女性同性愛より恵まれた立場ではなかったか」としています。
 なぜなら「アドニス」「薔薇族」に匹敵するような、非同性愛者でもその名を知るような「有名な女性同性愛向け雑誌」は特に「昔において」は存在しなかったからです。
 特にアドニスの場合は「三島由紀夫」など著名人がコミットしてますからねえ。
 以下は前川氏の主張ではなく「俺の勝手な憶測」ですがいわゆる「武士の男色」の存在が影響してるのかもしれない。

参考

アドニス会 - Wikipedia
 会員制の男性同性愛サークル。1952年(昭和27年)9月10日には、日本初の会員制のゲイ雑誌『ADONIS』(1962年に廃刊)を創刊している。
 アドニス会には、作家の三島由紀夫、作家で編集者の中井英夫*12歌人近畿大学教授の塚本邦雄ら文化人が参加した。会名はギリシア神話に登場する美と愛の女神アプロディーテに愛された美少年アドニスから取られた。
 創会当時の発起人メンバーには、岩倉具榮*13高橋鐵*14、伏見冲敬*15が名を連ねている。
【主な寄稿】
アドニス』別冊小説集『アポロ』第1号
◆菱川紳(塚本邦雄)『アポロの末裔』
アドニス』別冊小説集『アポロ』第2号
◆菱川紳(塚本邦雄)『雲母族』
◆碧川潭(中井英夫)『とらんぷ譚
アドニス』別冊小説集『アポロ』第3号
◆菱川紳(塚本邦雄)『熱月』
◆碧川潭(中井英夫)『おりんぴあど譚』
アドニス』別冊小説集『アポロ』第5号
◆榊山保(三島由紀夫)『愛の処刑』

衆道 - Wikipedia日本における同性愛 - Wikipedia参照
室町時代:武士の男色】
 室町幕府三代将軍・足利義満は能役者の世阿弥が少年だった頃、彼を寵愛した。この時代に成立した能や狂言には男色が多く取り入れられており、代表的なものに『菊慈童』、『花月』などがある。
【戦国時代:戦国大名における男色】
 戦国大名が小姓を男色の対象とした例が数多く見られる。織田信長前田利家*16森成利(蘭丸)、上杉景勝*17と清野長範、伊達政宗*18片倉重綱などが有名な例として挙げられる。武士道と男色は矛盾するものとは考えられておらず、江戸時代中期に出された武士道について説いた『葉隠』にも、男色を行う際の心得を説く一章がある。1549年に来日したフランシスコ・ザビエルは日本人を賞賛しながらも、許すことができない罪悪として男色を挙げ、ザビエルを保護し布教を許した山口の大名、大内義隆*19がもつ美少年の数の多さに驚き嘆いている。義隆も当初はザビエルに男色を非難されたことに立腹し、布教の許可を下さなかった。
【江戸時代前期:衆道の確立】
 徳川将軍15代のうち、7人に衆道関係があったことが知られており、中でも三代将軍・家光と五代将軍・綱吉の衆道がよく知られている。綱吉の下で権勢を振るった側用人柳沢吉保も少年時代に綱吉の寵童だったことが知られている。男色は当時の町人文化にも好んで題材とされ、井原西鶴の『好色一代男』、『男色大鑑』、『武士伝来記』が男色を扱っており、近松門左衛門も男色を取り上げた作品を書いている。ただし江戸初期にあっても、諸藩において家臣の衆道を厳しく取り締まる動きも現れた。特に姫路藩主・池田光政は家中での衆道を厳しく禁じ、違反した家臣を追放に処している。また慶安5年(1652年)には少年売春が盛んだった若衆歌舞伎も江戸町奉行所に禁止された。
【江戸時代中後期】
 江戸時代中頃になると、美少年をめぐる刃傷事件などのトラブルが頻発したため、風紀を乱すものとして問題視されるようになる。米沢藩の上杉治憲(上杉鷹山)が安永4年(1775年)に男色の厳重な取り締まりを命じていたり、江戸幕府でも享保の改革寛政の改革天保の改革などで徹底的な男色の取り締まりが行われ、天保13年(1842年)に陰間茶屋は禁止された。ただこの時代にも、武士道における衆道の心得を説いた『葉隠』(1716年頃)が出されているほか、町人文化でも男色は描かれていた。例えば平賀源内は『菊の園』『男色細見』(1775年)などの陰間茶屋案内書を書いている。上田秋成の『雨月物語』(1768年序)にも男色に関する二編が登場し、十返舎一九東海道中膝栗毛』(1802年)には同性愛関係にあった2人の主人公が登場し、喜多八は弥次郎兵衛の馴染の陰間であったことが述べられている。葛飾北斎(1760年-1849年)や歌川広重(1797年-1858年)らも浮世絵やその一種である春画などで男性同性愛を描いた作品を残している。
【幕末・明治初期:男色文化衰退】
 元治元年(1864年)5月20日近藤勇の書簡には新選組局内で「しきりに男色が流行している」と記された。明治初期は薩摩藩(現在の鹿児島県)出身者の男色の習慣が有名で、記録が多く残っている。しかし同時に明治維新の辺りから文明開化の影響もあり、同性愛をソドミーとして罪悪視していた西洋キリスト教社会の価値観や、同性愛を異常性愛に分類した西欧の近代精神分析学が流入したことにより、急速に異端視されるような状況となった。ついには明治5年(1872年)11月、「鶏姦律条例」が発令され、鶏姦(アナルセックス)を禁止する規定が設けられた。翌明治6年1873年)7月10日施行の「改定律例」第266条では「鶏姦罪」として規定し直され、違反した者は懲役刑とされた(ただし、この規定は7年後の明治13年1880年)制定の旧刑法には盛り込まれず、明治15年(1882年)1月1日の同法施行をもって消滅した)。鶏姦罪が廃止されたのは、旧刑法草案に関わったフランスの法学者ボアソナードが「ナポレオン法典」にソドミー規定がないことや、合意に基づく行為は違法とすべきではないことを助言したことが背景にある。


◆党派政治とジェンダー:1856年大統領選における政治的レトリックとしての「フリーラブ」(蓑輪理美)
(内容紹介)
 現職のブキャナン*20民主党)がフレモント(共和党、後に南北戦争では北軍の将軍として活躍)を破って再選された1856年アメリカ合衆国大統領選挙 - Wikipediaが「フリーラブ(自由恋愛)運動」の観点から論じられています(ただし、
1856年アメリカ合衆国大統領選挙 - Wikipediaにはそんな記述は全くないので、まだ日本では「フリーラブ」と「1856年大統領選」の関係云々は有名な話ではないのでしょう)。
 さて、この選挙、「奴隷制の是非(ブキャナンが存続派、フレモントが廃止派)」が最大の争点でした。
 今の「白人優越主義の共和党」「人衆宥和主義の民主党」を見ると「意外でしょうが」、例のリンカーン共和党ですし、当時は今とは「共和、民主の政治的方向性」が逆だったわけですがそれはさておき。
 さてこの選挙、第三勢力「ノウ・ナッシング・アメリカン党(奴隷制度に対する態度は曖昧)」が担ぎ上げた「ミラード・フィルモア(元米国大統領)」という有力候補が「フレモントの票を食ったこと」でブキャナンが勝利したとされます。
 まあ、そうなのでしょうが、箕輪論文は「フリーラブ運動」の観点で大統領選を分析しています。
 フレモント(共和党)は彼自身も、彼の父親も「恋人との結婚」を「恋人の父親に反対」されたがために「駆け落ち結婚した(但し、渋々であれ最終的に父親は結婚を肯定)」という経歴がありました。
 これを民主党側は「親子二代で駆け落ち結婚のフレモントはフリーラブ運動の支持者」であり「親の代から性的にふしだらな人間」「ふしだらな親の教育でフレモントはふしだらな人間に育った」などと攻撃しました。
 これに対して民主党側は
【1】フレモント親子は別にフリーラブ運動の支持者ではない
【2】そもそも「恋人の父親の反対」自体が「フレモント親子は家柄が低い、あんな家柄の低い家に俺の娘はやれない」という『家柄だけを反対理由』とした不当な代物だったのだ(ちなみにフレモントの『妻の父親』トマス・ハート・ベントン*21は「1821~1851年まで上院議員を、1853~1855年まで下院議員」を務めた地元の名士)。だからこそ、その後、「当初は反対した父親」も渋々ではあれ、結婚を認めた。フレモント親子の結婚が「親子」ともに離婚と言った破局を迎えていないこともその傍証だ。「性的にふしだら」という話では全くない
と反撃。
 返す刀で民主党はブキャナンが独身であることを指摘。
 「歴代大統領で独身なのはブキャナンだけ!(ジェームズ・ブキャナン - Wikipediaによれば、一度も結婚したことがない大統領は今に至るもブキャナンだけとのこと)」
「なぜ、ブキャナンは結婚しないのか?。男として魅力がない『軟弱で優柔不断な人間』だから『女性に好感を持たれない』のか?。そのことを自分でも自覚しているから『駆け落ち結婚』に踏み切った『男らしいフレモント*22』を嫉妬心から攻撃するのか!。もしそうならそんな男に大統領の資格や能力があるのか!。そんな男に国を任せていいのか!」とブキャナンの独身を攻撃します。
 そもそも、こうした反撃を招いた『民主党側のフレモント駆け落ち結婚攻撃』も相当にレベルが低いですが、『共和党側のブキャナン独身攻撃』も現在の視点で見れば「独身差別発言」であり、相当に問題がある反撃です。例えば、土井たか子(1986~1991年まで社会党委員長、1996~2003年まで社民党党首)の独身を『結婚もできない人間に国政なんか任せられない』と小馬鹿にしたら人間性を疑われます(当時の自民党もまともな人間はそんなことはしてないでしょう)。
 いずれにせよ、こうした論戦(?)から「奴隷制に対する態度(共和は廃止、民主は存続)」だけでなく「フリーラブに対する態度」でも「共和は進歩、民主は保守」というイメージが生まれた、(奴隷制とフリーラブだけではないでしょうが)「民主党共和党」についてこうしたことの積み重ねで「妥協は不可能」というイメージが強まっていったことが「南北戦争への道」を準備したとするのが箕輪論文です。
 奴隷制はともかく、フリーラブについては、実際は「共和党はフリーラブ支持の性的にふしだらな党、だから駆け落ち結婚のフレモントなんか擁立した」と民主党がフリーラブ攻撃したのに対し、民主党は「フリーラブに対する態度は曖昧だった(要するにフリーラブについて党員、支持者の意見が多様でまとめきれなかったし、まとめるメリットもなかったのでしょう)」ようですが。
 今の「LGBTに否定的な共和、好意的な民主」とは真逆の話で驚きます。


◆「嫁ぐ」のは誰?(服藤早苗*23
(内容紹介)
 平安時代の結婚について研究者の書いた著書(一般向けの書籍であれ、研究書であれ)ですら「嫁ぐ(あるいは「嫁に行く」「嫁を取る」、以下は全て「嫁ぐ」で表現)という表現が使われていることについて、
【1】現代の感覚では「嫁ぐ」とは「女性が男性の家に入ること」を意味するが
【2】平安時代においてはいわゆる「婿取婚(招婿婚)」が主流だったというのが通説であり「嫁ぐ」表現は適切でない
として批判するなど、研究者においても用語の使用が(特に一般向け書籍では)アバウトであることが批判されている。


木戸孝允と朝鮮外交:宗義達への通達案を中心に(村田明夫)
(内容紹介)
 「木戸の朝鮮外交に関する考え」について宗義達(対馬藩最後の藩主、対馬藩は江戸時代において、朝鮮外交を担当)への通達案(1872年(明治元年))を中心に論じている。
 木戸は宗義達に対して、今後は「清国皇帝と日本の天皇」を同格とし、その結果として清国に朝貢する「朝鮮国王」が「日本の格下」となるのもやむを得ないとの考えを示した。
 こうした考えを、現実に実行に移した結果、朝鮮が反発し、その解決策として西郷隆盛*24江藤新平*25板垣退助後藤象二郎*26らが唱えたのが勿論「いわゆる征韓論1873年明治6年))」であり、木戸は征韓論については「大久保、岩倉らとともに反対*27」の立場に立ちました。
 筆者は『明治元年』時点では征韓論につながりかねない主張をしていた木戸が、明治6年では『征韓論』反対になったことについては
【1】明治元年から6年の間に木戸の考えが変化した
【2】明治元年においても木戸は征韓論までは考えておらず、そうした意味では変化はない*28
と見るべきなのか(木戸孝允 - Wikipedia大島友之允 - Wikipedia(木戸の朝鮮認識に影響を与えたとされる人物、対馬藩重臣)は明治元年時代の木戸を征韓論と見なしていますが)、
【1】だとしてその変化要因としていわゆる「岩倉使節団参加による洋行」が影響したのかどうかは今後の検討課題としている。
 なお、一般には征韓論反対派(岩倉、大久保、木戸)が使節団参加組、賛成派(板垣、江藤、後藤、西郷)が残留組だったため、賛否については洋行も影響しているのではないか(近代化を早急に行うべきで外征している場合ではない)とされます。

【参考:大島友之允】

木戸孝允 - Wikipedia
 文久3年(1863年)4月下旬、対馬藩士・大島友之允とともに勝海舟を訪問し、朝鮮問題を論じる。対馬藩は、地理的に最も朝鮮に近い位置にあり、また2年前の文久元年にロシア軍艦対馬占領事件(ポサドニック号事件)が起きたばかりということもあり、海外情勢は切実な問題であった。
 翌年の元治元年(1864年)には、大島は朝鮮進出の建白書を提出している。明治の最初期に木戸が征韓論を主張したのは、親しい関係にあった大島の論が影響していると考えられる。

大島友之允 - Wikipedia
 1826(文政9年)~1882年(明治15年)。映画監督の大島渚は曾孫にあたる。
 文久2年(1862年)、同志40人と共に江戸に赴き、対馬藩江戸家老・佐須伊織を暗殺。
 佐須は文久元年(1861年)、ロシアの軍艦が対馬で湾岸租借を要求した「ロシア軍艦対馬占領事件(ポサドニック号事件)」に際し、「対馬藩にはこのような外交対応はとても無理」として、対馬を幕府直轄領とし、宗氏を和泉国18万石の地に移封することを安藤信正らと画策したこと(但し挫折)で大島らの反感を買っていた。
 佐須暗殺後、次代藩主として宗義達(後の重正)を擁立。翌文久3年(1863年)には大坂留守居役・国事周旋掛を務めた。
 文久3年(1863年)5月、老中・板倉勝静の顧問であった山田方谷と会見。この時、中国大陸進出を唱えていた山田に「貴藩困乏斯の如し、何ぞ朝鮮違約の罪を鳴らして、之を征服する策に出でざるか」と説かれ、これに感化された大島は征韓論を唱えることとなった。そして元治元年(1864年)には、朝鮮進出の建白書を提出している。この大島の感化を受けたのが友人である桂小五郎木戸孝允)であり、後に桂が新政府の高官となるに至って、大島の論は政局に重大な影響を与えることとなる。
 慶応2年(1866年)に対馬に戻り、大監察・側用人などの要職に就く。慶応4年(1868年)4月6日、対馬藩主・宗義達は政府に上申書を提出。対馬藩と朝鮮との関係を説明した上で、日朝関係の刷新と対馬藩救済を訴えた。これに伴い大島は、外国官判事・小松清廉(一般には小松帯刀と呼ばれる御仁、いわゆる維新の十傑 - Wikipediaの一人)らと会見、外交刷新について協議するとともに、対馬藩への援助を求めた。その結果、太政官札の貸付が認められた。なお、この時の大島は既に征韓論者ではなく、交渉による外交関係の樹立を主張するようになっている。
 明治2年(1869年)2月上旬、対馬藩参政だった大島は、朝鮮事情視察のため草梁倭館に派遣された。ここで書契問題により膠着状態に陥っていた日朝交渉に参画することとなる。大島は朝鮮側の安東晙と会見し、日本の国書を受理するよう求めたが、安東晙は頑として受理を拒否した。3月11日、大島は倭館を去って対馬に戻った。
 5月13日、日朝交渉の停頓に痺れを切らした政府は、対馬藩に対し、対朝鮮交渉権の接収を示唆した。これが実行されれば、対馬藩による日朝関係の刷新は失敗に終わったことになり、それを理由に財政救済も拒否される恐れがあった。そこで大島は、今日までの交渉の経過を説明し、交渉停頓の責は対馬藩ではなく朝鮮の側にあることを強調し、かつ朝鮮の政情は複雑なもので、対馬藩を経由しなければ条約締結の見込みはない、とする上申書を提出した。その後まもなく版籍奉還、並びに外務省の設置が行われ、対馬藩はさらに交渉権接収の危機に立たされたが、抗議の結果、今後も日朝交渉は対馬藩(8月7日に厳原藩に改称)に委ねられることとなった。
 明治3年(1870年)5月、大島は対馬藩通詞・浦瀬裕に対し『等対論』を内示する。これは書契問題に関し、一旦は朝鮮側の主張を認め、旧来の体式の書契で国交調整の目的を達してから、また協議すれば良いというものであった。浦瀬はこれに従って交渉を行い、朝鮮側の安東晙から好意的な感触を掴むに至る。しかし同時期、ヘルタ号事件(ドイツの軍艦「ヘルタ」が釜山に無断入港した事件。この「ヘルタ」に、倭館在勤通詞・中野許太郎が同乗していたことが、朝鮮側に「洋倭通謀」の疑念を抱かせた)が発生。交渉はまたも暗礁に乗り上げてしまった。
 明治4年1871年)7月14日、廃藩置県が布告され、厳原知藩事宗重正(義達から改名)の家役も罷免されることとなる。これに不満を抱いた大島は7月23日、外務省の広津弘信(作家・広津柳浪の父、作家・広津和郎の祖父)と懇談した。広津は宗重正を外務大丞に任じて朝鮮に派遣することを提案、大島もこれに同意した。そして、宗重正が外務大丞に、大島が外務省准奏任出仕に任じられた。しかし実際に、大島らが朝鮮に派遣されることはなかった。外務卿の相次ぐ交代により朝鮮問題は放置され、そしてようやく顧みられた時には、宗氏派遣に対する反対意見が出て、派遣は中止させられるに至った。宗重正の代理として、旧厳原藩の相良正樹が派遣された一方、12月28日、大島は外務省の職を免じられた。
 明治5年(1872年)、対馬に帰って致仕し、家督を子の邦太郎に譲った。明治15年(1882年)、長崎において病死。大正4年(1915年)、正五位を追贈された。

対馬藩の大島友之允。対長同盟から征韓論へ⁉ | 嶋村初吉のブログ2021.1.16
 対馬藩士、大島友之允(おおしま・とものじょう、1826~1882)は、気になる人物である。江戸後期から明治にかけて、藩の対朝鮮外交を担い、明治新政府にあっても、日朝交渉にかかわっている。

大島渚監督と対馬、曽祖父・友之允 | 嶋村初吉のブログ2021.11.21
 映画監督・大島渚氏の話を、対馬で耳にしていた。かつて旅館・立亀荘別館が、厳原港に面した海岸縁に立っていた。25年前、そこに泊まったとき、「この間、大島監督が来られました」という話を聞いた。なぜ、(ボーガス注:対馬生まれでもない*29のに)対馬に大島監督が?、と思っていたら、幕末から明治維新の激動期に、勤王の志士として活躍した大島友之允(とものじょう)の曽孫であった。友之允は対馬藩士であり、佐幕派尊攘派で暗闘が勃発した藩のお家騒動(勝井騒動という)で勝ち抜き、藩論を勤王に統一した実力者であった。
 大島渚氏は、煙山専太郎*30著『征韓論実相』を採り上げ、次のような部分を紹介している。
 「時に宗家の家老に大島友之允と云ふものあり、躰貌魁偉、弁舌颯爽、此対州上地論の幕閣に吹き荒みつつありし間に於て一の対韓集を立し、以為、此内憂外患交々到るの時に当り、我民心を帰一せしめて半島を誘啓し、興に共に東洋を振興し、以て外人覬覦を撽(※判明しがたい字)つは、豈、策の上乗なるものにあらずやと」
 これは『西日本文化』通巻145号(1978年刊)に大島渚氏が執筆した「維新最初の征韓論提唱者・大島友之允」に出てくる。この貴重な資料は、糸島市在住の酒井勝記さんから頂いた。酒井さんは(ボーガス注:対馬出身の作家)半井桃水(なからい・とうすい)研究家で、幕末・明治維新期の対馬も深く調査・研究している。
 大島渚氏が、曽祖父のことに興味を抱き始めたのは、映画製作で朝鮮に深入りしたためであった。ご本人が、こう語っている。
「『忘れられた太皇帝*31』『絞首刑*32』等々。私はふと友之允の朝鮮とのかかわりが気になりだした」
 大島渚氏は、「切に友之允の『征韓論』の内容を知りたい」と『西日本文化』のエッセイを締めくくっている。生前、その願いはかなえられたのだろうか。
 いま大島家の墓は対馬にはない。(ボーガス注:対馬出身の)渚氏の父親が、対馬に置いたままでは世話ができない、と 東京の多摩墓地に移したからである。

 拙ブログの常連コメンテーターのお一人(いつもコメントありがとうございます)で

『愛のコリーダ』についての藤竜也のインタビュー 2000年(1) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)2011.1.31
大島渚監督が亡くなった - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)2013.1.16
やはり大島監督を語る際は、「愛のコリーダ」か「戦場のメリークリスマス」が話題になるのかも - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)2013.2.27
東京では3月16日から、大阪で30日から大島渚の映画特集がある(追記あり) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)2013.3.15
知名度は高くないが、実は名画・・・「愛の亡霊」 - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)2013.7.21
大島渚監督が亡くなって1年経つ、そして彼のドキュメンタリーについての番組がある(追記あり) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)2014.1.11
情報(4月に渋谷で大島渚監督の特集上映があり、『少年』に主演した阿部哲夫さんもトークショーに登場する!!!) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)2021.3.4
大島渚監督の代表作が2本全国上映される(これが最後の機会とのこと) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)2021.3.22
高額な本だが、大島渚研究家(を自称しているの)なら、やはり購入しなければね - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)2021.3.31
大島渚監督の『少年』で主人公の少年を演じた阿部哲夫さんのトークショーがあった(追記あり) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)2021.4.5
『大島渚全映画秘蔵資料集成』が、昨年末についに発売された - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)2022.1.3

という「大島渚」関連記事もお書きのid:Bill_McCreary さんには正直「この件をやはりご存じなのか(それともややマイナーな話なのでご存じないのか)」お聞きしたいスケベ心(?)は正直あります(苦笑)。
【参考:クィア

クィア - Wikipedia参照
 元々は「風変わりな」「奇妙な」を意味し、LGBTへの侮蔑語であったが、1990年代以降はLGBTを指す言葉として肯定的な意味で使われている。日本でも「クィア」をタイトルとした著作がいくつか刊行されるようになっている。
【「クィア」をタイトルとした著作の例:刊行年順(刊行年が同じ場合は著者名順)】
伏見憲明*33クィア・パラダイス:伏見憲明対談集』(1996年、翔泳社)
◆河口和也*34『クイア・スタディーズ』(2003年、岩波書店
伏見憲明『変態(クィア)入門』(2003年、ちくま文庫)
◆中村美亜*35クィア・セクソロジー』(2008年、インパクト出版会
松下千雅子*36クィア物語論』(2009年、人文書院
◆森山至貴*37LGBTを読みとく:クィアスタディーズ入門』(2017年、ちくま新書)
◆工藤万里江*38クィア神学の挑戦:クィアフェミニズムキリスト教』(2022年、新教出版社
◆新ヶ江章友*39クィア・アクティビズム』(2022年、花伝社)
村山敏勝*40『(見えない)欲望へ向けて:クィア批評との対話』(2022年、ちくま学芸文庫)
など

*1:早稲田大学教授。著書『啓蒙の世紀と文明観』(2004年、山川出版社世界史リブレット)、『ジェンダー研究/教育の深化のために』(編著、2016年、彩流社)、『なぜジェンダー教育を大学でおこなうのか』(編著、2017年、青弓社)、『はじめての西洋ジェンダー史』(2021年、山川出版社

*2:1900~1945年。親衛隊全国指導者、警察長官、内務相など歴任。1945年4月にドイツの戦況を絶望視して独断で米国との講和交渉を試みたが失敗した上、それがヒトラーに発覚。ヒトラーの逆鱗に触れて全役職を解任された。その後はヒトラーによる粛清を恐れて、逃亡を図ったが、1945年5月22日に英国軍の捕虜となり、翌日5月23日に自殺(ハインリヒ・ヒムラー - Wikipedia参照)

*3:1985年、『壁・旅芝居殺人事件』(現在、文春文庫、双葉文庫)で日本推理作家協会賞(長編部門)を、1986年、『恋紅』(現在、新潮文庫)で直木賞を、1990年、『薔薇忌』(現在、集英社文庫)で柴田錬三郎賞を、1998年、『死の泉』(現在、ハヤカワ文庫)で吉川英治文学賞を、2012年、『開かせていただき光栄です』(現在、ハヤカワ文庫)で本格ミステリ大賞を受賞(皆川博子 - Wikipedia参照)

*4:なお、この点は小生も同じです。

*5:どの説も「真偽不明」で終わりますが。

*6:当然ながらこれらの設定で分かるようにゴルゴの生年は「1940年代」が想定されています(そもそもゴルゴ連載は1968年開始で、当時のゴルゴを20歳と前提すれば、彼は1948年生まれです)。2022年の今も、ゴルゴが「現役の殺し屋」というのは「実は今のゴルゴは、『1968年に登場したゴルゴ』の孫で世代交代している」などとでも理解しなければ本当は無理があります。

*7:明治大学准教授

*8:千葉大学特別研究員。著書『戦争と女性画家』(2013年、ブリュッケ)、『女性画家たちの戦争』(2015年、平凡社新書

*9:1879~1941年。作家(長谷川時雨 - Wikipedia参照)

*10:東京大学助教

*11:福島大学准教授。著書『男の絆:明治の学生からボーイズ・ラブまで』(2011年、筑摩書房)、『〈男性同性愛者〉の社会史』(2017年、作品社)

*12:1922~1993年。1964年、塔晶夫名義で刊行した長編小説『虚無への供物』は、当初は話題とはならなかったが、やがてアンチ・ミステリーの傑作として高く評価され、夢野久作の『ドグラ・マグラ』、小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』と共に日本推理小説三大奇書に数えられる(中井英夫 - Wikipedia参照)

*13:1904~1978年。岩倉具視の孫。法政大学教授、大東文化大学教授を歴任(岩倉具栄 - Wikipedia参照)

*14:1907~1971年。著書『性的人間の分析』(1992年、河出文庫)、『アブノーマル:異常性愛の心理と行動の分析』、『あるす・あまとりあ:性交態位六十二型の分析』(以上、1993年、河出文庫)、『えろす福音書』、『性感の神秘』(以上、1994年、河出文庫)など(高橋鉄 - Wikipedia参照)

*15:1917~2002年。大東文化大学教授(伏見冲敬 - Wikipedia参照)

*16:豊臣政権の五大老の一人。初代加賀藩

*17:豊臣政権の五大老の一人。初代米沢藩

*18:初代仙台藩

*19:家臣・陶隆房に謀反を起こされ自害した

*20:ポーク政権国務長官、駐英大使などを経て大統領

*21:1856年大統領選では「共和党から出馬しようとする義理の息子フレモント」に対して「自分は民主党員であり、君が義理の息子でも民主党を裏切れない。君が出馬しようが現職のブキャナンを支援するから出馬は断念しろ」と通告。その通告を無視して出馬したフレモントを実際に支援せず、ブキャナンを支持した。ちなみにベントンの甥の2人は、南軍の将軍になったサミュエル・ベントン(1864年の『アトランタの戦い』で戦死)と、北軍の准将になったトマス・ハート・ベントン・ジュニアであり、南北戦争では敵味方に分かれて戦った。(トマス・ベントン - Wikipedia参照)

*22:ということで民主党側にとっては「親の結婚反対自体が不当」なので「フレモントの駆け落ち結婚」はむしろ「信念に突き進む男らしい行為」であり、「だからこそ義父ベントン(民主党幹部)が現職ブキャナン支持を表明してもフレモントは共和党からの出馬に踏み切ったのだ!。そのような勇敢なことが優柔不断なブキャナンにできるのか!(いやできない)」として正当化されます。

*23:埼玉学園大学名誉教授。著書『平安朝の母と子』(1991年、中公新書)、『家成立史の研究』(1991年、校倉書房)、『平安朝の女と男』(1995年、中公新書)、『平安朝の家と女性』(1997年、平凡社選書)、『平安朝女性のライフサイクル』(1998年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『「源氏物語」の時代を生きた女性たち』(2000年、NHKライブラリー)、『平安朝に老いを学ぶ』(2001年、朝日選書)、『平安王朝の子どもたち』(2004年、吉川弘文館)、『平安朝女の生き方』(2004年、小学館)、『平安王朝社会のジェンダー』(2005年、校倉書房)、『平安朝の父と子』(2010年、中公新書)、『古代・中世の芸能と買売春』(2012年、明石書店)、『平安王朝の五節舞姫・童女』(2015年、塙選書)、『藤原彰子』(2019年、吉川弘文館人物叢書)など

*24:下野後、西南戦争(1877年)を起こし自決

*25:下野後、佐賀の乱(1874年(明治7年))を起こし死刑判決

*26:板垣、後藤とも下野後は自由民権運動を展開

*27:とはいえ、大久保は1874年(明治7年)には台湾出兵を、1875年(明治8年)には江華島事件を起こしており、明治6年時点での征韓論(外征)反対は「時期尚早論にすぎなかった」のですが(台湾出兵については「征韓論に反対してからまだ時期も経ってないのに外征するのはおかしい」として木戸が参議を抗議辞任しているが新たに内閣顧問に就任)。なお、台湾出兵江華島事件を理由に、大久保らの征韓論反対を「筋が通らない」と批判した上で征韓論賛成派、反対派ともに本当の対立理由は「実は征韓論ではないのではないか」とし「征韓論論争」ではなく「明治六年政変」と呼ぶ説を毛利敏彦大阪市立大学名誉教授(1932~2016年)が著書『明治六年政変』(1980年、中公新書)などで唱えていますが田村貞雄氏の毛利敏彦「明治六年政変説」批判の紹介 - bogus-simotukareのブログで触れたように田村貞雄静岡大学名誉教授(1937~2020年)など多くの研究者は毛利説に否定的です。

*28:とはいえ、木戸の主張を「征韓論」と安易に同一視すべきではないとしながらも筆者は「木戸が結局、江華島事件を容認したこと」から木戸の主張は、結局「征韓論的主張に帰着した」と見なしています。

*29:大島渚 - Wikipediaによれば岡山県玉野市生まれ

*30:1877~1954年。早稲田大学名誉教授(煙山専太郎 - Wikipedia参照)

*31:原文のまま。『忘れられた皇軍』の誤記か?

*32:原文のまま。おそらくは絞死刑 (映画) - Wikipediaの誤記

*33:著書『プライベート・ゲイ・ライフ』(1991年、学陽書房)、『<性>のミステリー』(1997年、講談社現代新書)、『性の倫理学』(2000年、朝日新聞社)、『ゲイという「経験」(増補版)』(2004年、ポット出版)、『男子のための恋愛検定』(2006年、理論社)、『新宿二丁目』(2019年、新潮新書

*34:広島修道大学教授。著書『同性愛と異性愛』(共著、2010年、岩波新書

*35:九州大学准教授。著書『心に性別はあるのか?:性同一性障害のよりよい理解とケアのために』(2005年、医療文化社)

*36:名古屋大学教授

*37:早稲田大学准教授。著書『「ゲイコミュニティ」の社会学』(2012年、勁草書房

*38:明治学院キリスト教研究所客員研究員

*39:大阪公立大学教授。著書『日本の「ゲイ」とエイズ』(2013年、青弓社

*40:1967~2006年。成蹊大学助教