今日の産経ニュース(12/12分)(追記・訂正あり)

■【河村直哉の国論】「歴史修正主義」という日本叩き 真珠湾攻撃73年 民族の歴史を公平に見たい
http://www.sankei.com/west/news/141212/wst1412120005-n1.html

 今年、12月8日は真珠湾攻撃から73年*1となる。この年、重要書の翻訳が刊行された。日米開戦時のアメリカ大統領、フランクリン・デラノ・ルーズベルト(FDR)と同時代に共和党議員だったハミルトン・フィッシュの「ルーズベルトの開戦責任」(草思社)。原著は1976年の刊行。ひとことでいえば、ルーズベルトが日本に戦争を仕掛けさせたというものである。

・日本から真珠湾を攻撃しておいて「はめられた」もないもんです。大体この種の本は以前からスティネット「真珠湾の真実」(2001年、文藝春秋)などがあり何ら目新しいもんじゃありません。
 そもそもこのフィッシュの本、既に『日米・開戦の悲劇:誰が第二次大戦を招いたのか』 (岡崎久彦訳、1992年、PHP文庫)として翻訳済みです(追記:とまで書いてしまったのはまずかったかな。id:flagburnerさんに「ボーがス氏曰く」としてflagburner's blog(仮)『Reviving "FDR: The Other Side of the Coin"?(Dec 14, 2014) 』(http://blog.goo.ne.jp/flagburner/e/291258689abaeab05cf3898a354d005d)の中で「引用された」ので小生ちょっとびびっています。両方の本を読み比べるなどして、きちんと確認していませんが「著者名、タイトル」から考えておそらく「岡崎翻訳本=草思社本」だろうと判断したと言う事です。せこい言い訳をすれば「仮に別の本だとしても」、著者は同じフィッシュなんですから内容に大幅な違いはないでしょう。うーんやっぱ確認しておくべきだったかなあ)。
 もちろんこんな陰謀論、日米ともにまともな歴史学者、ジャーナリストは相手にしていません。ろくな根拠がないからです(ウィキペ「真珠湾攻撃陰謀説」参照)。
・つうかこんな馬鹿な事を言ったら米国が怒り出しますし、産経が別の場所で言ってる「大東亜戦争でアジアは解放された(大東亜戦争アジア解放戦争論)」「ゾルゲらソ連スパイの陰謀で日本は戦争に突入した(ソ連陰謀論)」とも矛盾します。矛盾しない理解をするには「ルーズベルトスターリン*2は共謀して日本を『アジア解放のための大東亜戦争』開戦に追い込んだ。ルーズベルトスターリンのおかげでアジアは解放された」ということになりますが、それ認識として明らかにおかしいでしょう。結局「相互矛盾する大東亜戦争正当化論」を産経が同時に唱えることによって「日本は悪くないと言い訳できれば中身はどうでもいい」という産経の価値観が分かるわけです。
・それと日本人はつい米国に空襲で国土をさんざんな目にあわされたこともあって「真珠湾攻撃」を強調したがりますが、ほぼ同時期に「マレーの英国軍」も攻撃してることも忘れたら行けません。大東亜戦争(太平洋戦争)は「打倒鬼畜米英」「打倒ABCD*3包囲網」て言ってたわけで敵は米国だけじゃない。
 マレー攻撃は山下奉文第25軍司令官(陸軍大将)を当時「マレーの虎・山下」として一躍有名にした攻撃です。真珠湾攻撃山本五十六*4連合艦隊司令官(海軍大将)ばかりほめたら、山下に失礼じゃないですか?(苦笑)
 その意味では真珠湾攻撃がなかったら戦争がなかったて話じゃまったくない。同時期に「マレーの英国軍攻撃」ですから。それとも「チャーチル*5も事前にマレー攻撃を知ってた」とか言い出すのか。まあ、その後の日本の惨状を考えれば本当にルーズベルトチャーチルが日本の攻撃を事前に知っていて「真珠湾とマレーで返り討ちにあって日本軍壊滅状態」にでもなった方がかえって良かったんでしょうけどね。

 ちなみに山下てのは次のような人です。

山下奉文」(ウィキペ参照)
 1935年の226事件では皇道派幹部として決起部隊に理解を示す行動をした。当時、陸軍省軍事調査部長(少将)だった山下は決起部隊の一部将校が所属していた歩兵第3連隊の連隊長(大佐)を以前(1930年)務めていて彼らと面識があり、皇道派青年将校の同調者ではないかと周囲からは疑われていた。このため、山下宅の電話は226事件前から当時の逓信省陸軍省軍務局(事件発生から鎮圧までは戒厳司令部)によって盗聴されている。決起部隊が反乱軍と認定されることが不可避となった折に、山下の説得で青年将校は自決を覚悟した*6。このとき山下は川島義之陸軍大臣と本庄繁*7侍従武官長を通じて、彼らの自決に立ち会う侍従武官の差遣を昭和天皇に願い出たが、これは天皇の不興を買うことになった。この件に関して『昭和天皇独白録』には「本庄武官長が山下奉文の案を持ってきた。それによると、反乱軍の首領3人が自決するから検視の者を遣わされたいというのである。しかし、検視の使者を遣わすという事は、その行為に筋の通ったところがあり、これを礼遇する意味も含まれていると思う。赤穂義士の自決の場合に検視の使者を立てるという事は判ったやり方だが、背いた者に検視を出す事はできないから、この案を採り上げないで、討伐命令を出した」とある。また『木戸幸一*8日記』にも「自殺するなら勝手になすべく、このごときものに勅使なぞ、以ってのほかなり」とあり、青年将校を擁護する山下に対し、天皇やその周辺(木戸幸一、元老・西園寺公望*9など)の評価は極めて低かった。
 事件収拾後、山下は軍から身を引く覚悟も固めたが、川島陸軍大臣が慰留につとめ、朝鮮・竜山の歩兵第40旅団長への転任という形で軍に残った。しかし、事件の影響で陸軍の主流派からはずれ、参謀本部大本営のエリートポストにつくことはその後一度もなかった。このように226事件は山下の人生に最後まで大きなマイナスをもたらすことになった。
(中略)
 マレー作戦の成功で山下は国民的英雄となったが、昭和天皇は山下に拝謁の機会を与えなかった。これは226事件の時の山下の行動を天皇が苦々しく思っていたためだとも、皇道派の山下に対し、統制派の東條英機*10首相兼陸相が奏上の機会を与えなかったためだともいわれている。ここに至っても226事件は山下の人生に暗い影を投げかけていた。
(中略)
 1945年(昭和20年)9月3日フィリピンのバギオで降伏。戦犯としてフィリピンのマニラで軍事裁判にかけられる。法廷ではシンガポール華僑虐殺事件、マニラ虐殺事件の責任を問われ、12月7日に死刑判決を受け、マニラで絞首刑に処せられた。1959年(昭和34年)、処刑された他のBC級戦犯とともに靖国神社に合祀された。

 
【追記】
flagburner's blog(仮)『Reviving "FDR: The Other Side of the Coin"?(Dec 14, 2014) 』(http://blog.goo.ne.jp/flagburner/e/291258689abaeab05cf3898a354d005d)で拙エントリが取り上げた産経記事をid:flagburner氏が批判していますので紹介しておきます。

*1:また中途半端な年ですね。年関係なく「安倍さんが首相の今ならあの戦争が正当化できる」と産経が暴走してるのは明白ですが

*2:ソ連共産党書記長

*3:ABCDは順に米国、英国、中国、オランダ

*4:海軍航空本部長、海軍次官などを経て連合艦隊司令長官

*5:アスキス内閣通商大臣、内務大臣、海軍大臣ロイド・ジョージ内閣軍需大臣、航空大臣、植民地大臣、ボールドウィン内閣蔵相、チェンバレン内閣海軍大臣などを経て首相

*6:山下の立場を考えればトカゲのしっぽ切り、口封じと疑われても仕方ない行動だと思う。テレビドラマのゼネコン汚職とかで「君の家族の面倒を見るから会社とA先生のために死んでくれ」て奴です。ただし『山下が約束した勅使が実現しなかったこと』もあり自決方針は結局撤回されます。

*7:226事件での青年将校に好意的な態度が天皇の不興をかい事件後、予備役編入。戦後GHQの逮捕命令を受け自決。

*8:近衛内閣文相、厚生相、平沼内閣内務相、内大臣を歴任。戦後東京裁判終身刑。1955年に仮釈放され1977年に病死

*9:貴族院副議長、伊藤、松方内閣文相、枢密院議長、首相などを歴任

*10:関東憲兵隊司令官、関東軍参謀長、陸軍次官(陸軍航空本部長兼務)、近衛内閣陸軍大臣を経て首相。戦後東京裁判で死刑判決