「珍右翼が巣くう会」に突っ込む・番外編(3/13分:ミスター卓球・荻村伊智朗の巻)(追記・訂正あり)

【追記】
id:Bill_McCrearyさんエントリ『ナショナルチームの指導者が「鬼監督」「鬼コーチ」であること』で

http://blog.goo.ne.jp/mccreary/e/c6f68f46150c510d8359fe25eb0afefc
 ナショナルチームでその指導者が非常に厳しい指導をするというのは、そのスポーツが発展途上中である、マイナースポーツである、それと共通しますが、競技人口の少ないスポーツであるということが前提であるということです。

としていますが「競技人口はともかく」、「萩村の鬼ぶり」も「彼の個性」も勿論あるでしょうが「卓球がマイナースポーツだった」つうのが大きいのかも知れません。


【追記終わり】

■日刊イオ『コリア卓球統一チームの取材と荻村伊智朗さん』
http://blog.goo.ne.jp/gekkan-io/e/248a39a6ea0124198455d81bd78e5cc8
 現役時代の活躍といい、中国への卓球指導といい、この南北統一卓球チームといい、まさに日本卓球、世界卓球のレジェンドと言っていいでしょう。

■荻村伊智朗(1932~1994年:ウィキペ参照)
 1953年に全日本選手権男子シングルスで優勝すると、1954年のイギリスウェンブリー及び1956年の東京で行われた世界卓球選手権で優勝した。シングルス・ダブルス・混合ダブルス・団体あわせて12のタイトルを獲得。引退後、中国やスウェーデンへの指導など国際的な卓球の普及に努めた。『卓球はチェスをしながら100m走をするようなもの』という言葉を残している。
 後に日本卓球協会常任理事となり、愛知工業大学学長でもあった後藤こう二会長と共に1970年に訪中。周恩来首相とも会談し、1971年の世界卓球選手権名古屋大会への中国復帰に尽力した。
 1987年に第3代国際卓球連盟(ITTF)会長に就任。国際卓球連盟会長として1991年に開催された第41回世界卓球選手権千葉大会では、韓国と朝鮮民主主義人民共和国による統一コリアチームの出場を実現させた(同大会では女子団体で統一コリアが優勝している)。
 ITTF会長と同時に兼任していた日本オリンピック委員会JOC)国際委員長としては1998年の長野冬季オリンピック招致に尽力した。
 また彼は卓球のイメージアップを図り、青い卓球台の導入、ラージボール卓球の開発、普及も行った。1994年12月4日、肺がんにて死去。62歳没。没後の1997年に田中利明、松崎キミ代、江口冨士枝らと共に世界卓球殿堂入りを果たした。ジャパンオープン卓球選手権大会が荻村の死後に荻村杯国際卓球選手権大会に改称され、国際卓球連盟公認プロツアー公式戦として開催されている。

http://blog.goo.ne.jp/tenshitodevil/e/739479c836c90a95429be0aa050b76b8
■ワンダフルなにか ビューティフルだれか『「HANA 奇跡の46日間」と荻村伊智朗の偉大さ』
 久しぶりの映画。
「HANA 奇跡の46日間」
 1991年千葉で行われた卓球世界選手権での南北統一コリアチームを題材にした映画。
 映画に付いての感想はこのブログ(http://blog.goo.ne.jp/gekkan-io/e/0e812bd1e0d1a62df76cc1ada77c7c18)が的確に言ってくれていて完全に同意
(中略)
 けれどこの映画が大収穫だったのは荻村伊智朗を深く知るきっかけになった事だ。
(中略)
 世界チャンピオンに(団体戦を含めて)12度輝き引退後に国際卓球協会の会長まで務めた「ミスター卓球」と呼ばれた人だ。卓球の面白さに魅せられて日が浅い自分が言うまでもなく卓球界では有名な人で、関連著書*1もたくさん出ている。
 ずっと読もう読もうと思いながらも、図書館で借りては読めずに返却を繰り返していたが、この映画をきっかけにやっと何冊か買って読んだ。
 こんなに面白い人だったのか。
 高一で始めた卓球を上達するため、母親が記者をしていた事もある雑誌(主婦之友)を持ち出して売っぱらったお金で都内各地の卓球場を渡り歩き、お金が無いので夕食はコッペパンで、30分おきにカバンから取り出しマーガリンを塗ってかじりながら試合をしていたというエピソードがまずスゴイ。
 そして、チームメイトの家が火事になったために皆の練習着を集めて使ってもらおうという事になったら、荻村だけが「僕のシャツにはすべて、卓球への思いがこめられてるんです。他人に譲れるものなんてありません。一枚だって、僕は出せない」と拒否*2したり、「運動選手はチャンピオンが一番偉いんだ。オレは君たちより努力したから、チャンピオンになれたんだ」と堂々と言ってのける強気な性格。事実12回も世界王者に輝いている。
 しかしこの人は選手としてだけじゃなく引退後の活動もスゴイのだ。
 まず、学生時代に自ら脚本、出演(荻村は日芸の映画学科だったのだ)した「日本の卓球」という映像が海外に出回り、後の海外トップ選手達に多大な影響を与える。
 中国卓球界の指導者の資料室にはこれがおいてあり、元中国王者の荘則棟*3は当時中国映画館で上映していたこの作品をカネがないので土下座してまで見せてもらったという。
 そして、米中ピンポン外交の影の立役者。
 国共内戦の爆撃を避けるため洞窟に卓球台を持ち込んでいたほど卓球好きだった毛沢東周恩来
 現役引退後、その周恩来に招かれ、
・纏足という悪習慣を無くすためには老若男女誰でもできるスポーツを普及させたい
・そのためには安価などこでもできるスポーツでないと駄目。卓球は適している
・欧米に対する劣等感を払拭させるにはスポーツが有効で、日本がやったように中国も卓球でそれを実現したい
という理由で卓球を中国で普及するために力を貸して欲しいと言われる。
 その時の縁がきっかけで1971年世界卓球名古屋大会の中国復帰参加→米中国交復活のピンポン外交を裏で支える。(表で主力となって活躍していたのは当時日本卓球協会会長だった後藤こう二)
 それから、ITTF(国際卓球連盟)会長としての活動。
 1987年にITTF会長に就任してから、この映画の題材にもなった統一朝鮮チーム実現に向けての4年後しの交渉。
 時間を追ってみていくと、
・1988北朝鮮を世界卓球新潟大会へ参加させる。
 が、北朝鮮朝鮮総連等と会食した事が問題とされ、それに憤慨した北朝鮮チームが途中棄権
・1988北朝鮮ソウル五輪をボイコット
・1990北京アジア競技大会北朝鮮卓球代表を参加させる
・1991世界卓球千葉幕張大会で南北統一チーム参加を実現させる
という流れだ。
 荻村は朝鮮関連の本を読み漁り、直前に両国になんどもテレックスを送り、何度も現地交渉を重ねたうえで実現させたらしい。
 また、合同チームの合宿場所を北と南のどちらにするかで揉め危うく頓挫しそうになった時にすぐさま荻村が機転を利かせて日本の長野と新潟に場所を確保したエピソードもおもしろい。
 当時長野は、冬季五輪を誘致している最中で荻村は「これは誘致にもプラスになるだろ」という誘い文句でトップの承認を得ないままコネをつかって進めた話らしい。
 そういう交渉術にも長けた人なのだ。卓球が強いわけだ。
 そしてこの人がスゴイのは実はこの大会後なのだ。
 統一女子チームの優勝という大成功な結果で終わった大会二週間後に荻村は南北両国へ赴いて、なんと四年後に世界卓球南北共同開催しようと打診してたのというのだ。
 「団体戦を北でやってバスで板門店を通って南で個人戦をやるのはどうですか?」と言ったらしい。
 もうその先を見ていてそのために動き出している。
 結局実現はしなかったけれど、どこまでもスゴイ人なのである。
 この他にも、サウジを中東の強豪チームにするための強化計画やアフリカ地区の強化をしてアジア欧米以外の底上げを計ったりベンクソン*4というスウェーデンの世界チャンピオンを育てたり、父親のルーツだというだけでその事を秘密にしながら長野県樽川村にITTFの卓球博物館を創ろうとしたりとやることがどれもおもしろい。
 まだまだ他にもいろんな逸話があるのだがとにかくこんな面白い人を知るきっかけになったのでこの映画を見て良かったのである。

http://diamond.jp/articles/-/58975
■元世界卓球チャンピオン、荻村伊智朗が起こした奇跡:「統一コリアチーム」を実現(佐高信*5
 存命ならば今年(ボーガス注:2014年)82歳になる荻村の名を、いま、どれだけの人が知っているだろうか?。日本が世界で一番卓球が強かった時代を知っている人も少なくなった現在、「オギムラって誰?」と尋ね返す人の方が確実に増えていると思われる。しかし、在日の朝鮮・韓国人の間では格段に知名度が高まる。畏敬の念を込めて、「ああ、オギムライチローね」と答える人が多いのである。
(中略)
 城島充の荻村伊智朗伝『ピンポンさん』(角川文庫)に描かれている如く、荻村は「奇跡」を起こした。
 1932年生まれの荻村は2度、シングルスの世界チャンピオンになった後、国際卓球連盟の会長に就任し、1991年春、千葉の幕張で開かれた世界卓球選手権大会に驚異的な粘りを発揮して「統一コリア」チームの参加を実現させる。この時、荻村は韓国に20回、北朝鮮に15回も足を運んでこの夢を現実のものとしたのである。これを奇跡と言わずして何と言おうか。
(中略)
 中国の『人民日報』も一面でその死を報じたが、周恩来に深く信頼された荻村は、1971年の米中ピンポン外交に重要な役割を果たしている。
 孫がそう呼んでいるからと題名がつけられた『ピンポンさん』には、アジア卓球選手権を契機に親しくなった横浜市長飛鳥田一雄社会党の委員長になるや、そのブレーンとして注目され、もし社会党が政権をとったら、荻村は外務大臣になると噂されたという話が書いてある。

http://zip2000.server-shared.com/ogimura.html
■ピンポン外交で世界を変えようとした男 :荻村伊智朗
 かつて日本は世界最強の卓球王国だった時代がありました。その時代のナンバー1選手が荻村選手でした。
(中略)
 彼はバレエ映画「赤い靴」を見て日記にこう書いています。
「俺はまだバレエに対するあの人達の情熱の様なものを卓球に持てない。残念だ。
 卓球をして芸術の域に引き上げたい。
 既に引き上げてあるモノのなかに身をていするなら誰でもしよう。
 引き上げる役を誰かがしなくてはならない。・・・」
(中略)
<世界選手権ロンドン大会1954年>
 初めて対戦することになるヨーロッパの強豪たちとの試合を前に荻村は、自論の「51%理論」をチーム・スタッフに提案します。
 当時、ヨーロッパの強豪の多くはバックスピンをかけたカットを中心に戦うカットマンでした。それに対して日本チームは前陣速攻でスマッシュで攻撃しようとしますが、うかつに攻撃に出るとカットボールに引っ掛かってしまいます。そのため試合はラリー戦に持ち込まれ、お互いにチャンスをうかがう長い試合になりました。最終的には日本の選手は根負けしてしまう場合が多かったようです。
 それに対し、荻村はチャンスを待つのではなく、51%決められる確率があるなら早く勝負に出るべきと考えたのです。ミスはあっても、それ以上に点を取ればよいという考えです。それは確かに論理的な試合運びではありましたが、日本人的な発想では受け入れがたい作戦です。
「現代の卓球はスピードがすべてに優先する。勝負を左右するのは命中率ではなく、命中した場合の致命率すなわち得点率である。すべてのラリーを自分のスマッシュで終わることにしてこの命中率51%であっても、そのジュース後に自力で勝てる。・・」
荻村伊智朗「卓球物語」より
 当初、彼のこの戦法は監督、コーチから危険すぎると受け入れられませんでした。しかし、ヨーロッパの強豪ハンガリーとの試合の際、彼はチームメイトの富田にカットマンの強敵に対し、フォアでまともに打ち合っていては体力負け、根負けしてしまうと説明。51%理論で積極的に攻撃に出ようと進言します。富田も荻村の作戦に従って試合を行い、前回大会の三冠王シドに個人戦で二人ともに勝利をおさめ、見事にハンガリーとの団体戦を制しました。積極的に攻撃してくる日本の戦法にハンガリー・チームは、冷静さを失い混乱してしまったのでした。
 この試合の勝利で勢いに乗った日本チームは、その後、強豪のイギリス、チェコを撃破し、団体戦で男女共に優勝。個人戦でも荻村が世界一となります。荻村は古橋広之進*6湯川秀樹*7に次ぐ世界的ヒーローの仲間入りを果たしたのです。
<世界選手権ユトレヒト大会1955年>
 帰国後、彼は一躍有名人となり取材が殺到します。しかし、その合間を縫っての練習はそれまで以上に困難なものとなり、疲労が蓄積。彼は全日本選手権ではベスト8で敗退。その後、高熱を出して倒れ「急性肝炎」と診断されてしまいます。当時、世界選手権は毎年行われていたため、1955年の世界選手権ユトレヒト大会に彼は体調不十分のまま出場。団体戦こそ優勝したものの、個人戦では5回戦で敗退してしまいました。(個人戦の優勝は田中利明選手でした)
 オランダでのこの大会でも日本チームへのブーイングは続いていました。インドネシアなど南太平洋の植民地をオランダは日本軍に奪われ*8、多くの兵士が殺されただけにオランダ人の反日感情は激しいものがありました*9。ただし、この大会でひとつの事件が起き、それがその後の荻村の人生に大きな影響を与えることになりました。
 ハンガリー対日本の試合で、右手に障害をもつセペシという選手がボールを追って、日本チームのベンチに突っ込んでしまいます。その時、日本の選手たちは身をよけるのではなく、あえてセペシ選手の下敷きになり彼が怪我をしないように対応したのです。
 この場面でオランダ人の観客は日本チームの行為に大きな拍手を送り、翌日の新聞も大きく取り上げて、大きな話題となりました。この後、大会期間中の日本チームへのブーイングは明らかに減っていったといいます*10。帰国後にその事実を知った荻村は、後にこう記しています。
「”スポーツ外交”というか、”民間外交”の果たす役割が大きなものであること、自分たちもその役割をになっているのだということを、心にしみて感じたのはこのときです。卓球を続けることに、またもう一つの生きがいをおぼえたのでした」
(中略)
<世界選手権北京大会1961年>
 1961年、中国で行われた大会で男子団体はついに連覇を阻まれました。荻村は松崎キミ代との混合ダブルスを制しますが、これが彼にとって最後のタイトルとなりました。この大会からいよいよ卓球界は中国の時代に入ります。そんな中国チームに対し、荻村は大会後の記者会見で、そのマナーの悪さを指摘。世界チャンピオンとしての自覚をこれからは持ってほしいと苦言をていしました。この言葉は中国の選手たちにも大きな影響を与えることになりました。
「選手である前に私たちはまず一人の人間である。人間の社会には政治がつきものであることはだれも疑うことのできない歴史的事実ではないか。まず知らなければならないことは、「スポーツと政治は関係ない」という言葉は、使う人が意識するとしないにかかわらず、たいへん政治的な発言だということだ。」
荻村伊智朗
 北京大会終了後、荻村は中国の周恩来首相から直接、中国卓球チームのコーチ就任要請を受けます。日本が戦後、スポーツによってその活力をよみがえらせたように中国も卓球によって発展のきっかけをつかみたい。そうした考えがあったようです。荻村もその思いに答えようとコーチを引き受けました。そこで彼が感じたのは、国家事業として卓球の選手強化にあたる中国の強い姿勢でした。このままでは、中国に日本は勝てなくなるかもしれない。そんな不安は、1963年のプラハ世界選手権で現実化します。
<世界選手権プラハ大会1963年>
 1963年のこの大会で日本は中国に1−5で完敗。個人戦はベスト4すべてが中国という結果になりました。ここから中国の黄金時代が始まることになります。この後、荻村は選手兼監督として日本チームを指導し始めます。その厳しい練習は伝説となりましたが、1965年のリュブリナ(ユーゴ)大会でも日本は中国に敗れてしまいます。(優勝は女子の深津尚子だけでした)
「画家はキャンバスに絵筆で、バイオリニストは音で宇宙を表現する。俺たちは宇宙を表現するんだ」
「俺たちはただ勝つために卓球をやるんじゃない。人間の文化を向上させるために、ラケットを振るんだ」
 彼の言葉は、少々難しすぎたかもしれません。
 この後、彼は現役を引退し、ヘッドコーチとして日本チームの指導に専念します。
文化大革命の衝撃>
 1966年、北京で開催された国際大会を訪れた荻村は、中国で起きていた文化大革命の現場を目撃します。芸術家やインテリなどエリート階級の追放を行っていた中国政府は、卓球にまでその矛先を向け、1967年のストックホルム大会に中国は出場を辞退せざるをえなくまります。エリートとして迫害の対象となった卓球選手たちは、栄光からどん底へと突き落とされます。ついには中国初の世界チャンピオン、容国団*11までもが首つり自殺を遂げます。他にも何人もの選手が自殺に追い込まれました。
 中国不在の大会で日本は7種目中、6種目を制しましたが、荻村は帰国後、ヘッドコーチを辞任し卓球協会からも離れます。天才であるがゆえに彼は卓球協会内部で孤立していたのです。しかし、1971年の世界選手権名古屋大会で、再び彼に大きな仕事が巡ってきます。
 それは中国を大会に復帰させることでした。荻村は中国チームの選手たちと付き合いがあったこともあり、なんとか彼らに復帰をチャンスを与えようと名古屋大会への参加を周恩来に依頼します。
「今の情勢を見ると、卓球というスポーツで国際社会への扉を開くのがあなたたちの国にとって最良の方法ではありませんか。
 名古屋で開かれる世界卓球選手権大会に出場すれば、社会主義国だけでなく、アメリカやヨーロッパを含む世界中の交流が回復できるはずです」
 その後、彼は中国を訪れると周恩来に直接会いついに出場の約束を取り付けました。
<世界選手権名古屋大会>
 1971年、荻村の努力もあり、中国が大会に復帰。ブランクを問題にせず見事に男子団体での優勝を果たします。日本チームにとって、それは喜ばしいことではなかったのかもしれませんが、この快挙はさらなる歴史的事件のきっかけを産むことになります。
 大会5日目、会場に向かう中国選手団のバスに、間違ってアメリカ・チームのグレン・コーワンという選手が乗り込んでしまいます。すると中国チームの荘則棟が握手に応じ、バッグの中から杭州製の織物を出してプレゼント。それに対して、コーワン選手は後日Tシャツを持って中国チームを訪問しました。この一件は「米中接近」として世界中に報道されました。すると今度は、アメリカ選手団のハリソン副団長が中国チームを訪れ、アメリカ代表チームを中国に招待してほしいと依頼。これを中国側が受け入れアメリカチームの訪中が実現します。有名な「ピンポン外交」は、ここから始まり、米中正常化が一気に実現することになります。
「ひところは政治活動に力を集中しなければならず、外交がおろそかになった。続いて極左の誤りを正すのに力をとられた。今は外交攻勢を展開すべきときだ。ピンポン外交はわれわれの外交姿勢の一環だ。ピンポン球が弾んで世界を揺り動かした。小さな白い球が地球を動かしたのだ」
周恩来
国際卓球連盟会長>
 1987年、荻村はそれまでの実績を買われ国際卓球連盟(ITTF)の会長に選出されました。1973年に理事となって以来、彼は世界各地に卓球を広める活動を続け、現役時代の実績以上の結果を残し、こうした国際的スポーツ連盟におけるアジア人初の会長に文句なしに選ばれたわけです。
 1991年、千葉の幕張で世界選手権が開催されました。この大会の出場国数は108か国に増えたいました。しかし、ここで彼は再び大きな仕事に挑みます。彼は戦後初めて韓国と北朝鮮の合同チームによる大会参加実現のために奔走したのです。今思えば、21世紀に入ってからの北朝鮮の暴走ぶりからはありえない挑戦のように思えますが、彼は両国のメンツを立てながら見事にそれを実現してしまいました。それだけではありません。南北朝鮮合同チームは、9連覇がかかっていた中国女子チームを破り、世界一の座についたのです。大会中、合同チームへの応援は大変なものだったようです。この偉業は、ノーベル平和賞ものだと思います。
(中略)
「スポーツに大きな転機が訪れるのは、21世紀を待たなければならないだろう。そのころ、卓球の世界選手権大会もナショナリズム金杯*12主義から自由になり、国旗や国歌を使わず、国籍も問わない元の姿に戻るかもしれない。遠くの方にそんな灯りが見える気がする」
荻村伊智朗

http://naruko-takkyu.net/66529375/
■卓球漫談『卓球場のおばさんと世界のオギムラの、ぶっとび友情物語』
 今回紹介する卓球本はコチラ
■『ピンポンさん:異端と自己研鑚のDNA』(2007年、講談社→2011年、角川文庫)
 著者は、今や卓球ファンにはお馴染みのスポーツライターの城島充さんである。
 「ミスター卓球」と呼ばれ、卓球界に燦然と輝いた巨星・荻村伊智朗。
 日本の卓球界だけにとどまらず、「世界の卓球界の父」であった荻村さんであるが、選手としては、シングルスで2度の優勝を含め、12個の世界タイトルを獲得。
 引退後は指導者や文筆家、そして日本人初の国際卓球連盟会長として、卓球をよりメジャーに、より面白くするために尽力。
 荻村さんが卓球界に与えた影響は計り知れな過ぎて、ここにその全てを抜粋していたら、時間がいくらあっても足りない。
(中略)
 私が本書を読んで最も驚いたことと言えば、荻村さんの「他人に対する厳しさ」である。
(中略)
 1965年のリュブリアナ大会では、選手兼監督という前代未聞の抜擢をされた荻村さんは、「毎日、自己記録を更新するんだ」を口癖のように言いながら、峻烈を極めた合宿を敢行。
 倒れる選手が出るほど、代表選手たちにハードな練習を課した。
 引退後は、強化対策本部のヘッドコーチに就任するも、回りの人間と衝突し、辞表を提出することになる。
(中略)
 荻村さんの現役時代の練習量とその内容はとにかく凄まじく、当時を知る人は「常軌を逸している」とまで言うほどで、それをやり通した人であるからこそ、世界で勝つためには並の努力ではダメなのだということを知っているのである。
(中略)
 久枝さんが「みんなにもっと優しく接してあげたらどうなの?」と言っても、荻村さんは聞く耳を持たない。
(中略)
 ちなみに、卓球王国の編集長である今野昇さんも青卓会のメンバーだったようで、荻村さんの自宅で飼っていた柴犬に右手を噛まれた今野さんが包帯を巻いて練習場へ行った際、荻村さんに「卓球選手がラケットを持つ大事な手を犬に噛まれるなんてどういうつもりだ」と怒鳴りつけられたというエピソードは思わず笑ってしまった(本人にとっては笑い事ではないだろうが)。
(中略)
 享年62歳。早すぎる死であった。
 久枝さんは言う。
「卓球選手としては尊敬していても、心の底から伊智朗さんのことを好きだっていう人は少なかったんじゃないかしら。でも、伊智朗さんのことを嫌な奴だって思った時点で、もうその人も伊智朗さんの影響を受けているのよね」
 荻村さんが現役時代に自分に課した、常軌を逸した猛練習。
 そして指導者となってから選手たちに与えた峻烈な試練。
 これらは世界の頂点に立つことだけを考えた、荻村さんの卓球哲学の神髄である。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~utouto/uto05/bunsho/pingpong.html
■最後の手紙『ピンポンさん、城島充、講談社、2007』
 2012年の末、卓球選手の福原愛*13が『徹子の部屋』に出演したとき、「卓球はチェスをしながら100m走をするようなもの」と紹介していた。この言葉が、世界チャンピオンから後には国際卓球連盟会長にまでなった荻村伊智朗のものという紹介は、残念ながらなかった。
 たとえ、名前が紹介されなかったにしても、この言葉を現代の一流選手も共有していることに感じ入った。卓球というスポーツの特徴をこれほど簡潔に表現した言葉はない。
 荻村伊智朗は「伝説の人」と言ってよい。選手としても大活躍し、その後は卓球界のみならず、いわゆるピンポン外交を通じて、中国や北朝鮮がスポーツ界に復帰するきっかけを作った。
 それだけの功績を残した人なので、人物も型破りだった。練習は誰よりも長く遅くまでするし、アイデアが次から次へと湧き、それをすぐに実行に移さずにいられない。こういう強烈な性格な人は、政治家や経営者に多い、それも多くの実績を残した優れた人物に。
 伝記で読んでいるだけなら、「すごい人がいるもんだ」と感心するだけですむが、こういう人の周囲にいる人々は、有無を言わせぬ剛腕や、頻繁な朝令暮改に苦しむ。(ボーガス注:アップル創業者の一人)スティーブ・ジョブズも、その典型と言える。
 本書では、荻村の功績だけでなく、周囲のとまどいや反発も書き込まれている。しかし、一人の女性を伝記の軸に据えることで、荻村の奥深く豊かな人間性を抽出している。その女性は、偶然から卓球場を始めた。高校生の荻村は、学校での練習のあとに都内の練習場でさらに練習をしていた。
 荻村は自宅に近いこの場所に通い詰め、やがて、この場所が彼を世界チャンピオンに、さらに世界卓球界の重鎮に育てていく。
 ノンフィクションと伝記とは違う。主に小学生向けに書かれる偉人の伝記は、限りなく客観的な物語になるか、その人自身の視線から、主観的な回想になる。
 一方、ノンフィクションが人物を描くときは、その人の生涯に決定的な影響を与えた人を視点にしたり、同時代の多くの人物の群像劇から自然と主人公が浮かび上がるような書き方をする。本書は前者の形。ずっと前に荻村自身が書いた『卓球・勉強・卓球』(岩波ジュニア新書、1986)では、次々と成功の階段を上っていく自伝にただ驚嘆するだけだった。
 本書を読み、「荻村伊智朗とは、なるほど、こう人だったんだ」と会ったこともない人について、納得してしまった。そう思わせることが、ノンフィクション・ライターの腕の見せどころだろう。
 荻村やジョブズのように、強烈な情熱と実行力をもつ人の近くにいると、凡人は追ていくだけで精一杯か、せいぜい、振り回されるだけ。
(中略)
 私は「凄い人」と関わるのは、読書だけで十分。
 ところで、本書には部活動について、興味深い指摘がある。1959年、その2年前にストックホルムで開催された世界選手権で優勝した荻村は、スウェーデンにコーチとして招聘される。このときの印象を著者、城島が記している。

 荻村もまた、初めてその実態にふれたヨーロッパのクラブチームに胸をうたれていた。地域の人たちによって運営されている小さなクラブにも、荻村は学校教育の枠のなかでスポーツが語られてきた日本とは違う魅力を感じた。

 実際に、荻村が上のような感想を話したり書いたりしたかはわからない。(ボーガス注:しかし)ノンフィクション作家の想像でないとすれば、1959年の時点ですでにトップ・アスリートは部活動の問題点を意識していたことになる。
 荻村自身が、街の卓球場で、年齢の違う人たちや、何よりも「おばさん」に見守られながら成長したことも、クラブチームへの関心を高めたのではないか。
 本書を読む限り、荻村が自分や選手に強いた練習は、<強い負荷 × 時間 + 根性>で、科学的とは言い難い。にもかかわらず、彼はスポーツは地域に根ざすべきで、学校の部活動に収まるものではないと考えていたとすれば、一考に値する。
 日本において、中高生のスポーツは今も学校の部活動が中心になっている。最近、部活動が教員にとって負担になっているというツイートを数多く見る。は正式な職務ではなく、手当がでるものでもなく、にもかかわらず、ほぼ強制的に顧問にさせられるという。
 「学校教育の枠のなかで」しか語られない状況は、今も変わっていない。日本のスポーツ界の裾野は50年以上、改善されていないということになる。
 本書では、荻村伊智朗は作家、黒井千次都立西高校の同級であると書かれている。巻末に謝辞があるので取材もしたのだろう。二人の関係について本書は触れていない。おそらく、近しい関係ではなかったのだろう。
 黒井は西高では文学の同人誌活動が活発だったことを話したと思われる。荻村も高校時代に私小説めいたものを書いていると記されているし、詩も書いていた。初期の新制高校には、そのような雰囲気があったのだろう。彼の書いた一編の詩は、本書で重要な位置付けがされている。
 もう一点、荻村がプレイだけではなく、国際卓球連盟の中枢に入っていくことができた理由は、彼の英語力にもあったと思われる。荻村は旧制中学時代から通訳養成学校に通い、十分な力を身につけていた。海外の大会に出場するようになってからも、ほかの選手が気後れするなかで、審判や他国の選手とも堂々と話していたと書かれている。

http://blacknightgo.blog.fc2.com/blog-entry-2138.html
■黒夜行『ピンポンさん(城島充)』
 とんでもない日本人がいたものだ。
 内容に入ろうと思います。
 本書は、高校一年から卓球を始め、たった5年で世界の頂点に立ち、その後日本のスポーツ界にとてつもない功績を残し続けながら、惜しまれて亡くなった天才・荻村伊智朗の生涯を描いたノンフィクションです。
 1949年、都立第十高*14の二年だった荻村は、卓球部の主将だった。
 中学時代は野球のエースだった荻村は、身体が小さくて自分はプロにはなれないからと言って野球はやめてしまう。都立第十高入学当時卓球部は存在しなかったが、先輩たちがどうにか卓球部を創部しようとしているのを知り、先輩たちの美しいラリーに惹かれた荻村は、創部を目指して活動を始めることになる。
 ここから、荻村のとてつもない人生が始まっていく。
 荻村の人生にはもう一人、重要な人物がいる。
 2008年に閉めてしまったが、つい最近まで吉祥寺で卓球場を続けてきた、上原久枝という女性だ。
 久枝は、家の事情から、当時の女性としては珍しく職業婦人として働いていたが、戦争をきっかけに仕事を離れ専業主婦として過ごしていた。専業主婦として何者でもない日々を過ごすことに焦りを感じていた久枝は、たまたま手にとった婦人雑誌に、函館に住む主婦が自宅で開いた卓球場が人気だ、という記事を見かける。
 卓球場なら自分にも続けられるかもしれない。
 そうして久枝は、夫を説得し、吉祥寺に卓球場を開く。
 この二人が邂逅した。歴史のifの話はよくあるけど、もしこの二人が邂逅しなければ、その後の荻村の活躍もなかったのではないだろうか。
 設備も時間も、高校では満足に練習出来なかった荻村は、他の同世代の卓球をする学生同様、町中にある卓球場で汗を流した。母子家庭だった荻村は、母親の蔵書を勝手に売りさばいてお金を作り、それで費用を捻出していた。
 ある時吉祥寺に新しい卓球場が出来たと聞いて見に行くと、久枝に中に入ってやっていったら、と声を掛けられた。
 やせっぽっちの少年は、卓球にすべての時間を注いだ。周囲の言うことを聞かず、練習の工夫や効率などをすべて自分で考え、妥協ということを知らなかった。周囲と打ち解けられず、傲慢に見られていた荻村だったが、久枝にだけは懐き、困っている人を助けたくなってしまう性分の久枝も、孤立し苦悩を抱えながら卓球を続ける荻村を献身的にサポートした。
 久枝の卓球場には次第に、荻村を中心に様々な人が集まり、卓球部のない大学に進学した荻村は、久枝の卓球場で作ったチームで大会に出場するようになる。
 そして荻村は、卓球を始めてからたった5年7ヶ月で、圧倒的な強さを見せて世界一となった。
 しかし、他人にも厳しさを求めるあり方や、孤高を貫くスタイルには、反発も多かった。後に日本のスポーツ界に偉大な貢献を残す荻村だが、選手時代の回想をされると悪評ばかりが飛び出す。それでも、勝負に異常にこだわり、また、日本の卓球界の未来のことを考えながら動き続ける荻村に迷いはなかった。
 選手を引退した後も、荻村の活躍は続く。
 指導者として成果を残し、また国際卓球連盟会長に就任して以降は、「米中ピンポン外交」など、スポーツで各国の融和を図ろうと世界中を飛び回った。
 1994年、荻村が62歳で亡くなった際、メディアは荻村についてこんな風に伝えた。
 <日本スポーツ界は天才的才能のリーダーを失った><戦後日本の希望の星><「スポーツを通じ平和」が信念>
 卓球選手としてだけに留まらない情熱を秘めた、荻村伊智朗という一つの才能を伝えた傑作です。
 いやー、これはちょっと凄すぎました!!
(中略)
 ホントに、こんなとんでもない日本人がいたんですね。ホント、読みながら感動してしまいました。
 正直、卓球って日本でそれほどメジャーなスポーツではないと思うんです。野球とかサッカーは大人気だし、フィギュアスケートなんかはやる度にテレビで放送される。他にもそういう面でメジャーと言えるスポーツってあるんだろうけど、でも卓球って、福原愛がテレビに出まくってた時は一時注目されてただろうけど、今ではやっぱりそんなに注目はされていないですよね。
 そんな卓球という土俵の上で、これだけの活躍をした人がいた、という事実に本当に驚きました。
 いつだかの新聞に、20世紀を代表するスポーツマンというアンケート結果が載ったそうです。荻村伊智朗は、その当時スポーツ界で最も注目を集めていた中田英寿の16位を抑えて、国内編の15位にランクインしていた。
 この話は、本書の読み始めのところに書かれていて、荻村伊智朗のことをまるで知らなかった僕は、へぇーそんなに有名な人なのかと、15位という順位でも結構驚いたんです。
 その同じページに、こんなエピソードが書かれている。その記事を見た古いメンバーの一人が、何で長嶋茂雄が1位なんだ、中国やヨーロッパ、中東なんかでは荻村さんの方が遥かに知られてるんだ、と不満をぶつけてきた、という話。
 読み終わった今となっては、その古いメンバーの一人の訴えは、凄くよくわかる。正直荻村伊智朗は、(ボーガス注:ピンポン外交や南北朝鮮合同チームの功績で)ノーベル平和賞とかもらっててもおかしくないんじゃないか、って思うぐらいとんでもない人間だと思いました。
 さっきからちょくちょく書いているけど、荻村伊智朗という人間は、選手や指導者としてだけ凄いのでは決してない。でもまずその辺の話を書こうと思います。
 荻村は、たった5年で世界のトップに立ったけど、卓球を始めた当初からその凄さは別格だった。
 荻村が通っていた高校は進学校で、生徒は大抵みな部活を二年の二学期で止め、以降は受験勉強に専念した。しかし荻村は部活を辞めなかった。卓球で飯が食えるわけないじゃないか、と荻村を諭そうとする友人に、荻村はこう返す。
『僕らが大人になったときにそうなっているかどうかはわからないけど、スポーツも、スポーツに時間を注ぎ込む人間も、その価値を認められる時代がきっと来るはずだ』
 これが高校二年生の言葉ですからね。凄すぎると思いました。荻村は、どんな時でも常に未来を見ていた。ある人間が荻村を、10年後の未来を見据え、そこにたどり着くために逆算して今何をしなければならないか考えるような男だった、と評していたけど、恐らく荻村はこの時点で、自分が世界のトップに立つことを考え、そこにたどり着くために何をしなければならないか考えていたことだろう。荻村はある時久枝に、石はいくら磨いてもダイヤモンドにはなれない、僕は初めから(ボーガス注:卓球世界の)ダイヤモンドだったんだ、と言ったが、それに何も反論できないと思わせるほど、器の違う男だと思いました。
 荻村は、一切の妥協をしなかった。それが必要であると思えば必ずやったし、相手の都合を考慮して何かを諦めるなんてこともしなかった。時間や設備が足りなければ、頭を使って工夫した。荻村は、自分と同じぐらい努力している人間はいない、と言っていたけど、本当にそうだと思う。肉体を酷使し、人間関係をぶち壊し、あらゆるものを打ち捨てても、目指すべき将来に必要な今やるべきことに邁進していった。
 練習に対する発想も凄まじかった。例えば荻村はある時から、練習場の近くにあった「高島易断」で観相や骨相を学び始めた。それは、ラリーをしている相手の表情の変化や心の動きなんかを分析するためだった。他にも、卓球とは関係ない本(宮本武蔵の「五輪書」など)から刺激をうけたり、ジムでトレーナーに指導をしてもらったりと、ありとあらゆることをやった。
 荻村は、『時・時の記』と題したノートにこんなことを書いている。
『天才には彼の良き理解者、心の援助者が必要だといった様なことをルーヂンが言う。
天才を理解できるモノが居るか。
そいつも天才か。』
 尋常ではない天才、天才の中の天才を目指して邁進した荻村は、ついに世界のトップに立つ。しかしその後、ヨーロッパで博物館巡りをしていた際、ミケランジェロの「ピエタの像」を見て、ミケランジェロがこれを作った時自分と同じ21歳だったことを知って打ちのめされるような、本当に底の知れない、妥協を知らない地平を目指し続けた男だった。
 久枝についても書こう。久枝は、生涯に渡って荻村を支え続けた。荻村と久枝は、言ってみればただの他人だ。家族でもなんでもない。しかし荻村にとって恐らく、唯一心を許せる相手だったのだろう。
 久枝もまた、非凡な女性だった。職業婦人として高島屋で働いている時、働く女性を撮影する映画で抜擢され映画に写ったことがある。人気女優だった李香蘭の接客をしたり、高島屋ブランドの帽子のモデルになったりと、女学校中退でありながら、働くことで様々なものを身につけていった。
 そんな久枝だったから、戦争をきっかけに仕事をしなくなって、宙に浮いたような気持ちだったのだろう。なんとなく始めた卓球場だったが、すぐさま荻村と出会って、そこから久枝はまた、表には出てこないけど日本卓球界を陰で支える重要な立ち位置を占めることになった。
 久枝と荻村の関係は、常に良好だったわけではない。母子家庭であるという出自もあってか、大きな孤独を抱えていた荻村は、久枝が他の人にかまっているのを見ると嫉妬に駆られた。素直に言葉に出せない荻村は、わかりにくい形で自分の不満を表現するしかなかった。その後も、ちょっとしたことがきっかけで疎遠になったり、お互いの誤解からすれ違ったりすることもあったけど、荻村の中には常に久枝の存在が大きく存在していただろうと思う。
 荻村が選手として活躍していた時代は、スポーツと戦争と政治がごちゃごちゃしていた時代でもあった。
 初めての国際大会でイギリスに行った際(余談だけど、このイギリス行きの渡航費用80万円は、選手の自腹だった。卓球連盟にそれだけのお金がなかったのだ。久枝らが中心になって、募金でまかなった)、イギリス人の物凄い反日感情を目の当たりにした*15。どこに行っても日本は嫌われていて、その経験が、後の荻村の行動に活かされているのかもしれない。
 選手を引退し、指導者になった荻村だったが、日本ではなく海外の選手を指導すると言って非難された。招かれて指導に行ったスウェーデンでも、荻村の指導に納得がいかない選手が次々に離れていき、たった一人しか残らなかった。しかし荻村はその選手*16を、世界のトップに立たせた。
 指導者として海外を飛びまわる一方、荻村は国際卓球連盟会長に就任する。アジア人では初の快挙だった。
 そこから荻村は、スポーツ外交を良好に進めるべく、それこそ奔走した。
 文化大革命によって世界から孤立した中国を表舞台に引き戻したのは、荻村の功績だ。荻村は、それ以前に関わりのあった周恩来に直談判し、スポーツを通じて国交を回復させるべきだと説いた。そうやって荻村は、文化大革命以来初めて、世界卓球選手権への参加という形で、中国の国際社会への復帰への先鞭をつけたのだ。
 荻村と周恩来のエピソードで、とんでもないものがある。
 中国が参加した名古屋大会で、中国側はとある戦略を使った。それはルール違反ではないが、マナー的にはよくない。中国側の戦略を見抜いた荻村はいち早く抗議し、止めさせた。
 それを新聞記事を読んで知った周恩来はこう言った。
「オギムラさんに抗議を受けるようなことはしてはいけない。オギムラさんを怒らせてまで勝つ必要はないよ」
 それからも、南北問題に苦しむ朝鮮に何度も足を運び、南北共同のチームとして卓球選手権に出場させたり、アパルトヘイトに苦しむアフリカの黒人選手を特例で世界選手権に出場させたりと、スポーツを通じて外交を潤滑に進めようと努力し続けた。
 まだまだ書きたいことはあるんだけど、ちょっと時間がないので、後は荻村が様々なところで言ったり書いたりした文章を書きだして終わろうと思います。
『身体文化であるスポーツの場合、<人間能力の限界への挑戦>という目標の方が、<時代の選手に勝つことの工夫>という目標よりも、はるかに高い。<時代の選手に勝つ>という低い次元の目標にとらわれると、もしその時代の選手のレベルが低い場合、低いところで自己満足することがおこる』
『刺激を受ける対象を卓球界の外に求めた』
『おばさん、人間は勝手に自分の限界を作ってしまうんですよ。限界より少し上のハードルを設定してやるのが、指導者の仕事なんです』
『スポーツの本質を曲げずに、政治が歩みよりやすい場を設定する。それがスポーツ側にいる人間の力量です。スポーツが政治を動かすことはできないが、援護射撃はできる』
 とにかく、とんでもないノンフィクションでした。かつてこんな日本人がいたのか、こんなに妥協を知らず情熱を持ち続けられる人間がいたのか、と衝撃的でした。是非読んでみてください。凄いです、ホント。

http://ts-nitahara.com/from-portugal/34.html
ポルトガル便り・34便『卓球にまつわるお話』
 武蔵野卓球場40周年の記念誌に寄せて荻村が作った詩は、次の言葉で始まっています。

 天界からこの蒼い惑星の 
 いちばんあたたかく緑なる点を探すと
 武蔵野卓球場が見つかるかもしれない。

 若い時に夢中になって卓球に没頭し、そこで自分を支えてくれる人を持てたので、このような発言になったのでしょう。荻村伊智朗だけでなく智久会の沢山のメンバーが“ おばさん”を慕う背景には、スポーツに打ち込む青年に対する久枝の一貫した愛情と貢献、そしてそれに応える人達があり、それがこのように今の世の中では類を見ない暖かい人間関係となっています。
 メンバーの一人はこんな事を言っていました。
「上原さんと荻村さんに会う事がなかったら、僕なんか街のチンピラになっていたと思いますよ。」 
 一方、上原久枝の方はこんな事を言っています。
「最近、卓球場の子がみんな立派な大人になってしまって、世話をする人が居なくて張り合いがないのよ。」
 今回の便りに若し関心を持って頂けるようでしたら、下記の本を是非読んでみて下さい。荻村伊智朗と上原久枝、そしてその仲間達の交流が生き生きと書かれています。
 城島充著 「ピンポンさん」 講談社

https://world-tt.com/blog/johta/2012/10/14/
■伊藤条太ブログ『チャンピオンの最後の仕事』
 イエンスフェリッカの『ワルドナー*17伝説』(2004年卓球王国刊)も何度目かの完読をした。
 あとがきの一文に鳥肌が立った。
「私はこの原稿を書きながら、スウェーデン卓球界が生んだ偉大な選手、71年世界チャンピオンのステラン・ベンクソンのことを考えている。彼は偉大な選手でありながら、その後、コーチとしてもその身を卓球に捧げた人である。かつて、彼の選手時代の後半、一線から退く頃に話をした際、ベンクソンは彼の生涯の師であり、尊敬し、憧れでもあった荻村伊智朗(故人)から聞いたいくつかの名言のひとつを教えてくれた。
 『ステラン、チャンピオンの最後の仕事というのは、新しい世代の選手に敗れることなんだよ』
 荻村はそう言ったそうだ。」
 ここでも荻村伊智朗か!。どこにいっても卓球界のあちこちの重要なところに荻村の残り香があるのだ。ちなみに、ドルトムントで会ったある卓球ジャーナリストは、自分の息子のファーストネームとミドルネームに「イチロー・ステラン」とつけたという(そんなメチャクチャしていいのかよ)。

https://world-tt.com/blog/johta/2013/12/29/
■伊藤条太ブログ『荻村伊智朗の記事』
 年末の休みでゆっくりしているので、普段見ないような蔵書を眺めている。そこで目についたのは、以前、大宅壮一文庫に注文をしてコピーを手に入れた荻村伊智朗関係の記事だ。
 1991年6月7日の週刊朝日には次のような記事が載った。荻村が亡くなる3年前で、統一コリアチームの女子が中国の8連覇を阻んで大成功に終わった世界選手権幕張大会の翌月の記事だ。
「国際政治のバックステージでロングドライブを放つ五十八歳の信念 荻村伊智朗」だそうだ。
 記事ではIOC委員の岡野俊一郎*18という人の荻村についてのコメントが載っていた。
「とにかく、酒が強くてタフなことに驚きます。北京のアジア大会のときでも、パーティーを終えて、二次会、三次会の後、ホテルの僕の部屋で三時すぎまで飲み続けて、ウィスキーをぐいぐいと一本以上飲んだんじゃないかな。それでいて、今日北京にいたと思ったら、次の週には平壌にいて、翌週はヨーロッパにいる。俊敏ですね。先日もサマランチ会長とある席をともにしたんですが、彼は芸者の踊りや小唄の意味をその場で通訳したり、なぜ日本が海外派兵できないかを、明治憲法から説き起こして説明していた。『彼は百科事典だ』といったらサマランチさんもうなずいていましたよ」
 明治憲法からか・・・それは敵わんなあ。最後には荻村自身の言葉として次のような文章が載っていた。
「われわれの卓球ニッポンのころの実力をいまと比べるのはナンセンスです。ラケットなどがハイテクになって、機材が全然違うから。ただ、私は二年前に沖縄国体の優勝者に、一ゲームだけですが勝ちましたよ。もちろん、そのときは関節はガタガタになって、もうトーナメントでは駄目ですね。しかし、六十歳近い人間が勝てるってことはどういうことかってことですね。いまだって自信がありますよ。世界チャンピオンになった人間はだれだってね。」
だそうだ。いったい、何を言いたかったのだろうか。この荻村に負けた国体優勝者が誰なのか、どうやって負けたのかぜひとも知りたいものだ。

https://world-tt.com/blog/johta/2013/12/29/
■伊藤条太ブログ『荻村伊智朗の眼力』
 かつての1980年代、日本には『卓球日本』という日本卓球協会の機関誌があった。そこで荻村伊智朗が毎月、昔話に筆を振るっていたのだ。
 1980年12月号では、「世界で最も強かった男」と言われたチェコスロバキアのバーニヤという選手の眼力について書いている。荻村は小学校のときから人を正視する訓練をいやというほど受けていたので、バーニヤの眼力を見て只者ではないことがわかったという話だ。私など生前の荻村に会ったら、一体なんと言われたのだろうか。いろんな意味で恐ろしい(すべてを見透かされても嫌だし、まったく的外れなことを言われて気まずくなるのもまた恐ろしい)。
 こうやって面白がりながらも、最後にある、次のような文章には感動で身を震わせてしまう。私にとって荻村伊智朗とはそういう人なのだ。
「勝つ時は誰でも精神が高揚していて、その姿はみごとであり、雰囲気は輝いており、絵になるものだ。負ける時にその精神がいつまでも記憶され、その姿が絵になる選手は本当のチャンピオンと言えよう。世界のチャンピオンでなくともよい。県の、市の、村の、クラスの、たった二人の間のチャンピオンでもよい。ローカルチャンピオンであっても同じである。やがて、だれでもそのチャンピオンの座を降りる時がくる。そのような時、私たちがどのように振るまうかが大切なことなのだ、と私はバーニヤから学んだのであった。」

https://world-tt.com/blog/johta/2013/01/13/
■伊藤条太ブログ『体罰について』
 なお、荻村伊智朗は体罰は絶対にしなかったそうだ。(ボーガス注:経験者に寄れば)体罰はしなかったが、言葉の暴力が凄まじく「これなら叩かれた方がマシだ」と思うほどの全人格否定を延々とされるのだという。その荻村が『卓球クリニック』(1990年、ヤマト卓球刊)という本で、指導者の体罰が嫌だという読者の質問に対して「ネチネチといじめまわされるよりは、スカッとなぐられたほうがいいというふうに考える場合もあるでしょう。また、暗い顔をしてブツブツと口の中で生徒の悪口ばかり言っている雰囲気よりも、スカッとなぐってあとはニコニコというほうが思い切ってやれるかもしれません。」(P196)と答えているのだから可笑しい。
 自分自身のことはどう評価していたのか聞いてみたかった。

https://world-tt.com/blog/johta/2015/11/05/
■伊藤条太ブログ『大谷アキラニッペン!』連載開始』
 今週発売の週刊少年サンデーに卓球のマンガが始まった。大谷アキラニッペン!』で一挙に68ページの掲載だ。
(中略)
 主人公の少年の名前はなんと「荻村朝日」。荻村伊智朗が朝日新聞に寄稿していたこととはおそらく関係あるまい。
(中略)
 荻村朝日は、時代遅れと言われる日本式ペンホルダーで勝とうとするが、それには想像を絶する脚力が必要となる。テーマとしては卓球王国のマンガ『ダブルス』と似ている。
(中略)
 ともかく、卓球技術としてはこれまでのどの卓球マンガより本格的なものになっている。あとはそれがマンガとして面白いかどうかだ。私は卓球のマンガだというだけで面白くて仕方がないので冷静な判断はとてもできないのだが、この連載第1回で思いっきり鳥肌が立ったことを告白しておく。

https://world-tt.com/blog/johta/2015/11/11/
■伊藤条太ブログ『荻村という名前』
 少年サンデーの『ニッペン!』第2話を読んだ。
 主人公が「荻村」と呼ばれるたびに感動してしまうのは全然正しくない読み方だと思うのだが、感動してしまうのだから仕方がない。荻村伊智朗の存在があまりにも大きくて、荻村伊智朗以外の「荻村」を考えられない体になってしまっているのだ。
 ましてや卓球をしている荻村っつったらあんた・・・。いやはや卓球界には大変な人がいたものだ。

http://ameblo.jp/mikantomo08/entry-12142253722.html
■みかんともブログ『卓球マンガ「ニッペン」最終回(涙)』
 僕が応援していた卓球マンガ「ニッペン」が本日発売の『週刊少年サンデー』2016年17号で最終回を迎えました。
 スポーツマンガで主人公が最大のライバル的存在と連載初期で試合になり、決着がすぐつかなかったり、あるいは主人公が負けない場合は、連載が終わる、
 この経験則通りの結果となってしまいました。
 昨年7月のブログで取り上げた「ピンキュー★★★」も最終回は「ニッペン」と同じパターンでした。
 時代遅れとされる日本式ペンホルダーラケットで、頂上制覇を狙うというアイデアは斬新だったと思います。努力型の主人公の設定や主人公の過去の経緯も悪くなかったです。絵も僕は切迫感がうまく描かれ好きでした。
 先日の男子卓球の世界選手権決勝進出が追い風になってくれたらと願っていましたが、
 残念ながら最終回となってしましました。全19話です。
 一見地味に見えるスポーツである卓球の面白さや深さをどう表現してみせるか、
 これが卓球マンガの難しさだと改めて感じました。
 作者の大谷アキラさんの次回作品を期待したいと思います。

http://herocy.com/archives/4057
■HEROCY.COM『卓球漫画『少年ラケット』(掛丸翔)がいい感じにリアルでおもしろい!』
 久しぶりにおもしろい卓球漫画に出会いました。
(中略)
 卓球専門用語を出しつつも、説明ばかりにならず、テンポよくストーリーを進めているのが良い感じ。
 卓球をやったことがない人も気軽に読める漫画となっています。
 卓球経験者が読んでも、非現実的なありえない線型やプレーはまだ(?)出てきていないので納得して楽しめます。
 作画もきれいで万人受けする方……だと思う。
(中略)
 今後が楽しみですが、今後の展開の懸念点もいくつか。
 最大の懸念点は、主人公のイチローの戦型が反転式の日本式ペンホルダー(しかも裏面はツブ高)。
 故・荻村伊智朗氏を尊敬しているのはわかりますが、この戦型では主人公の先が思いやられてしまいます。
 「時代を変えてこそ超一流」なんて名言も作中に出ているので、無理やりこの戦型のまま勝たせていくのか……。
 そうすると必然的に主人公の戦型がトンデモない(ありえない)戦型になってしまうのが残念です。
 せっかくリアルな卓球を描けているのに。
 せめて途中で中国式ペンホルダーのドライブマンになってくれれば……。
(中略)
 主人公はまだ中学1年生なので、中学編・高校編・世界選手権編とか長くしようと思えばいくらでも長くできそうですが、作者の描写力がないと某テニス漫画みたいになっていきそうですね……。
 リオオリンピックを経て卓球ブームが来ているので、この漫画にもひと役買ってもらいたいですね!
 今後どんな風に卓球を描いていくのか、展開が楽しみです!

■少年ラケット(ウィキペディア参照)
 掛丸翔による日本のスポーツ漫画。『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)にて、2015年26号から連載中。2017年3月現在、単行本は既刊9巻。
■登場人物
・日向伊智朗(ひなたいちろう)
 本作品の主人公。森原中学校一年生。名前の由来は卓球の偉人・荻村伊智朗。
・如月ヨルゲン(きさらぎヨルゲン)
 本作品のもう一人の主人公で、イチローのライバル。紫王館中学校一年生。卓球全日本選手権ホープスの部で優勝した実績のある天才卓球少年。名前の由来はスウェーデンの卓球選手であるヨルゲン・パーソン。

■ペンホルダー(ウィキペディア参照)
・卓球においてラケットをペンを持つようにして握るグリップのことである。 ヨーロッパにはこのラケットを使用する選手はほとんどおらず、中国、韓国、日本をはじめとしたアジア特有のグリップである。
・1980年頃までは、アジアの選手は大半がペンホルダーで、日本もペンホルダーの選手が主力であった。しかし、1990年代になって、ヨルゲン・パーソンやヤン=オベ・ワルドナーといったシェークハンドの選手が旋風を巻き起こし、ペンホルダーの選手は減少していった。
・ラケットの両面を使うのが難しく、表面のみのラバーでフォアハンド・バックハンドを打つのが基本である。そのため、シェークハンドに比べてバックハンドの攻撃力に欠けることがペンホルダーの一番の弱点である。しかし、中国がペンホルダーラケットの裏面に貼ったラバーを使う裏面打法を実戦レベルで使用できる技術として開発し、劉国梁*19裏面打法を使用して実績を残したことにより、以後バックハンドの弱点を克服する方法として中国式ペンホルダーの選手に広く受け入れられている。
■中国式ペンホルダー
 シェークハンドの柄を短く切り落とした形に近いラケットで、主に中国の選手が使用している。

http://diamond.jp/articles/-/104154
■ダイヤモンドオンライン『世界一だった日本卓球が長期低迷に陥った理由:卓球日本女子監督・村上恭和氏に聞く』(第2回)
インタビュアー
 荻村伊智朗さんといえば、卓球の世界では伝説的な人物ですよね。大学を転学されていたんですか。
村上
 そうですね。卓球は高校から始めたんですが、卓球が強い日大に転校して「卓球命」になったそうです。その後、世界チャンピオンにまでなった。まさに、世界を舞台を活躍した人物です。選手時代の1959年に渡欧。スウェーデン卓球協会から依頼されて、半年間指導をしたこともあります。
インタビュアー
 特殊な指導力もあったのですね?
村上
 荻村さんの指導方法は、「超攻撃型」でした。ミスしてもいいから攻撃しろと。ところが、当時の日本の卓球の考え方は、「絶対にミスをしたらいけない」というもの。それが、いわば「卓球道だ」というふうに信じられていたんです。でも、それでは世界では勝てなくなる。そう考えた荻村さんは、それを打ち破る指導方法を展開したんですけど、受け入れられなかった。それで、スウェーデンの地で、自分の信じる卓球を教え始めたわけです。
インタビュアー
 荻村さんの指導で、スウェーデンは強くなったんですか?
村上
 強くなったどころの騒ぎじゃない。世界一になりましたよ。1971年の世界選手権名古屋大会男子シングルスでスウェーデンのステラン・ベンクソンが、前大会覇者の伊藤繁雄さん*20を破って優勝しました。そしてその後、荻村さんは世界中の卓球仲間の支持を得て、国際卓球連盟の副会長にまでなったんです。
インタビュアー
 すごい人生ですね。
村上
 そうですね。日本という“小さな井戸”にこだわらず、世界で実力を認められたんですからね。その後、1987年に国際卓球連盟の会長になってからも、日本が弱いのをいつも嘆いていました。
(中略)
インタビュアー
 それにしても、荻村さんはすごい方ですね?
村上
 そう思います。卓球の技術だけじゃありませんでした。荻村さんが当時から常々おっしゃっていたのは、「選手ファースト」と「卓球をメジャースポーツにする」の2つですね。
インタビュアー
 30〜40年前におっしゃっていたことなのに。今でも通用するテーマですね。
村上
 でしょう?。超先進的だったんですよ、荻村さんは。とくに「選手ファースト」なんて、リオ五輪でも話題になった言葉ですよね。
 ただ、荻村さんが言っていた「選手ファースト」は、入場行進で役員が前を歩くか選手が前を歩くかとか、そんな小さな話ではなかった(笑)。日本卓球協会が、選手が力を発揮できる環境整備にもっともっと尽力すべきだと考えていたのです。
インタビュアー
 「卓球をメジャースポーツにする」という面ではどうだったのでしょうか。
村上
 この執念もすごかった。画期的な大改革は「ボールのカラー化」ですね。卓球のボールを主要大会でオレンジボールに変更したのは荻村さんです。
インタビュアー
 そうだったんですか。
村上
 はい。なぜ、ボールをオレンジにしたのかというと、まず第一に観客が自由な服装で会場に来れるようにするためです。白いボールだと、背景に白色があると見えにくくなってしまいますから、自由な服装でご来場いただくことができなかったのです。そして、もう一つの理由は、競技用ユニフォームに白色も使えるようにすることで、デザインの幅を広げるためでした。
 つまり、顧客目線でも考えていたということですね。それがメジャースポーツへの第一歩だと。でも、たくさんの観客に楽しんでもらったほうが、選手だって燃えますよね?。まさに、ウィンウィンなわけです。そのために、前提条件にとらわれずにモノゴトを考え、実行するだけの情熱をもった方でしたね。
(中略)
 そもそも、卓球がオリンピック競技になったのは1988年のソウルオリンピックからなんですが、それは荻村さんの功績も大きかったと聞いています。ただ、残念なことに、日本のメダルを見る前に亡くなってしまいました。2大会連続でメダルが取れて、ちょっとは荻村さんの恩に報いることはできたかなという気持ちではいます。

http://red.ap.teacup.com/kysei4/462.html
■卓球/ 卓球の暴君からピンポン外交官へ
 荻村のトレーニングと練習というのがまた伝説になっている。毎日、井の頭公園を10km走り、兎とびで4kmをこなした。しかも40kgの重量を両肩に背負って、というものであった。
 マラソンの練習ではこういうこともあった。練習相手であり、当時の世界チャンピオンであった田中利明選手と2000本を越えて続いたラリーを打ち合った後、”走る”と声をかけた。田中はそのとき汗を噴水のように流して、体育館の床にちからなく横たわっていたのである。

「ミスター卓球」荻村、北欧に刻んだ確かな足跡 :日本経済新聞
 スウェーデン・ハルムスタードで熱戦が続く卓球の世界選手権団体戦。同国南西部の海岸沿いにある人口約10万人の町は元世界王者、ヨルゲン・パーソン(52)の出身地として知られる。1970~90年代に世界を席巻したスウェーデン。その源流はハルムスタードよりさらに小さな街の卓球クラブと、日本卓球界のレジェンド・荻村伊智朗との出会いにあるという。
■ワルドナーら名選手輩出
 スウェーデン選手初のシングルス世界王者に輝いたステラン・ベンクソン(65)に現スウェーデン男子代表監督のウルフ・カールソン(57)、92年バルセロナ五輪金メダルのヤンオーベ・ワルドナー(52)。
 4月29日の世界選手権開幕に合わせて行われたセレモニーでは「私たちのヒーロー」として、日本の卓球ファンにもおなじみの同国出身選手の写真が次々と投影された。中でも地元出身のパーソンは現役時代と変わらないすらりとしたスタイルで大人気。期間中はリポーターなどとして大会の盛り上げに一役買っている。そんな名選手の軌跡を語る上で欠かせないのが、世界選手権を12回制覇し、94年に62歳で死去した日本の荻村の存在だ。
 スウェーデン卓球協会に請われて荻村がコーチを引き受けたのは59年のこと。現役選手でありながらコーチとして訪れたのが、ハルムスタードから北西に約30キロ離れたファルケンベリという町だった。
 「オープンな性格だったから、伝統のしばりのないスウェーデンはチャレンジのしがいがあると考えたのではないか」。
 荻村と親交があった元卓球選手で、その後は地元で新聞記者を務めたクリスチャン・ヘイエドール(75)は振り返る。
 外国人相手でも基礎的な体力トレーニングを重視する荻村の指導は変わらない。当時の選手たちは「俺たちは体操選手じゃない」と猛反発したというが、ごく少数ながら食らいついて一気に成長した若者もいた。それが67年に同国初のダブルス世界王者となったハンス・アルセアとシェル・ヨハンソン(ともに故人)であり、71年には弱冠18歳で世界選手権シングルスを制することになるベンクソンだった。
■日本流で世界制したベンクソン
 特にベンクソンは69年に来日して日本の大学生と一緒に4カ月も卓球漬けの生活を送るなど精神面も強化。当時の欧州はカット主体で比較的ゆっくりとしたプレーが主流の中、小柄な体のハンディを打ち消すように素早く動いてフォアとバックで打ち返すスタイルを身につけ、一気に世界の頂点へと駆け上った。
 「彼らが持ち帰った卓球スタイルは、その後のスウェーデン卓球の発展に大きく貢献した」と話すのは、荻村が設立したITS三鷹卓球クラブ代表でファルケンベリの卓球クラブへの留学経験を持つ織部幸治(63)だ。
 ベンクソンらが繰り返していたのは、ボールをバックハンドで返球し、次は回り込んでフォア、そして飛びつきという基本動作。練習に愚直に取り組む姿勢は精神的な強さも生み、後に世界を極めるワルドナーやパーソンにとっても「ベンクソンの存在は模範で重要な役割を果たした」(同国卓球協会)という。現在、この一連の練習は日本国内で「ファルケンベリ」という卓球用語として定着しているのは興味深い。
■地域に根ざしたクラブ
 そんなファルケンベリの人口は現在約2万人。25年に創立された卓球クラブは世界最古という。かつては動物の競りを行う建物内に台が置かれたが、今は近代的なビルに建て替えられ、壁一面にはスポンサー企業のバナーがずらりと並ぶ。日中は子供や高齢者がラケットを振り、夜にはトップ選手がプレーする仕組みは不変だ。
 トップチームは最近低迷しているというが、かつては欧州を制し、世界王者を輩出した歴史は住民の誇りだろう。地域に支えられ、世界王者も生むクラブの在り方に生前の荻村はいたく感動し「日本に導入したいと話していた」と織部は言う。
 男子スウェーデン代表は2000年にパーソンやワルドナーの活躍で世界選手権団体戦を制して以来、目立った活躍はできていない。それでも今回の世界選手権では大歓声を背に1次リーグで強豪の香港を破るなど見せ場をつくっている。ファルケンベリ出身で何度も来日して荻村の指導を受けた代表監督のカールソンは「練習の大切さ、強い気持ちを持つことの大切が今になってわかってきた」と笑い、それが現在の選手指導にも生かされているという。日本の「ミスター卓球」は今も確かな足跡を北欧の地に残しているようだ。

*1:荻村伊智朗『卓球・勉強・卓球』(1986年、岩波ジュニア新書)、『スポーツが世界をつなぐ』(1993年、岩波ジュニア新書)、『笑いを忘れた日:伝説の卓球人・荻村伊智朗自伝』(2006年、卓球王国)、上原久枝他編『荻村さんの夢:偉大なる「Mr.卓球」荻村伊智朗の伝説の数々』(2006年、卓球王国)、城島充『ピンポンさん:異端と自己研鑚のDNA』(2011年、角川文庫)など。

*2:荻村の家が当時貧乏だったらしいことを考慮してもずいぶんな物言いだとは思います。

*3:1940~2013年。世界卓球選手権のシングルスで1961年から1965年まで3連覇を果たした。文革の影響でその後2大会中国は参加できなかったが1971年の名古屋大会で国際大会に復帰、この時のアメリカ人選手との交流が米中関係改善のきっかけとなった。その後、国家体育運動委員会主任(スポーツ大臣)に就任したが四人組逮捕に伴い四人組の共犯として失脚し妻子にも去られた。4年間の投獄を経て山西省の卓球コーチとなり卓球世界選手権(1987年)で銅メダルを獲得した管建華を育て上げた。1985年に1971年に来日した際に通訳だった日本人女性佐々木敦子と再会、結婚を決意するが中国政府からなかなか許可がおりず知人だった元天津市長で中国共産党中央政治局常務委員だった李瑞環への働きかけなどにより彼と胡耀邦党総書記がトウ小平国家中央軍事委員会主席の許可を取り、1987年12月19日、2人は結婚した。その後名誉を回復し1996年に発行した自叙伝、『トウ小平批准我們結婚』(トウ小平主席が私たちの結婚を同意し、推し進めてくれた)は60万部のベストセラーとなった。2002年11月に女子世界チャンピオンになった邱鐘恵と北京荘則棟・邱鐘恵国際卓球クラブを設立したがこのとき、元アメリ国務長官キッシンジャーからも祝電を受け取った。2013年2月10日、癌のため北京市の病院で死去。

*4:1952年生まれ。1971年の世界選手権決勝戦では、スウェーデン人として初の世界チャンピオンになった。その後1973年のサラエボ大会ではダブルス、団体で優勝、1975年のカルカッタ大会、1977年のバーミンガム大会、1983年の東京大会でも団体でのメダルに貢献、スウェーデンの主力選手として活躍した。

*5:著書『銀行倒産:ドキュメント金融恐慌』(1992年、講談社文庫)、『豊かさのかげに:「会社国家」ニッポン』(1992年、岩波ジュニア新書)、『戦後企業事件史』(1994年、講談社現代新書)、『文学で社会を読む』(2001年、岩波現代文庫)、『湛山除名:小日本主義の運命』(2004年、岩波現代文庫)、『電力と国家』(2011年、集英社新書)、『不敵のジャーナリスト 筑紫哲也の流儀と思想』(2014年、集英社新書)、『安倍政権を笑い倒す』(共著、2015年、角川新書)、『安倍「壊憲」を撃つ』(共著、2015年、平凡社新書)、『人間が幸福になれない日本の会社』(2016年、平凡社新書)、『自民党創価学会』(2016年、集英社新書)、 『メディアの怪人 徳間康快』(2016年、講談社プラスアルファ文庫)、『自公政権のお抱え知識人徹底批判』(2017年、河出書房新社)、『石原慎太郎への弔辞』(2017年、ベストブック)、『バカな首相は、敵より怖い』(2017年、七つ森書館)など

*6:1928~2009年。1949年6月にロサンゼルスで行われた全米選手権に招待されて参加し、400m自由形4分33秒3、800m自由形9分33秒5、1500m自由形18分19秒0で世界新記録を樹立しアメリカの新聞では「フジヤマのトビウオ」と呼ばれた。後に日本水泳連盟会長、JOC会長など歴任

*7:中間子理論により、1949年(昭和24年)、日本人として初めてノーベル賞ノーベル物理学賞)を受賞

*8:我々はつい「太平洋戦争の敵国は英米」と思いがちですがオランダとも戦っていたわけです。

*9:これ一つとってみても産経の「あの戦争で日本非難するのは中韓だけ」つう物言いが大嘘だと分かります。まあ今のオランダではさすがに反日ブーイングとかないでしょうが。

*10:別にそう言うコトを荻村らは目的とはしてないでしょうが、こうした荻村らの行為こそが「対日感情を良くするある種の情報戦(?)」であって産経の「歴史戦(南京事件否定など)」など全く論外です。

*11:1937~1968年。1959年の世界卓球選手権ドルトムント大会の男子シングルスで中国選手として初めて優勝。文革中の1968年に自殺。1978年に名誉回復がされ、2009年には広東省珠海市に容国団記念館が完成した。

*12:金メダルのこと

*13:1988年生まれ。ロンドン五輪(2012年)女子団体銀メダル、リオ五輪(2016年)女子団体銅メダル。

*14:現在は都立西高等学校

*15:「繰り返しますが」これ一つとってみても産経の「あの戦争で日本非難するのは中韓だけ」つう物言いが大嘘だと分かります。まあ今の英国ではさすがに反日ブーイングとかないでしょうが。

*16:ステラン・ベンクソンのこと

*17:1965年生まれ。スウェーデンの卓球選手。バルセロナ五輪(1992年)男子シングルス金メダル、シドニー五輪(2000年)男子シングルス銀メダル。「卓球史上最高のプレーヤー」、「百年に一人の天才」、「キング・オブ・テーブルテニス」などと称えられている。ヨルゲン・パーソン(1966年生まれ。1991年世界卓球男子シングルス金メダル)らとともに1980年代後半から1990年代にかけてスウェーデン卓球の黄金時代を築いた。

*18:1931~2017年。日本サッカー協会会長、JOC専務理事など歴任

*19:1976年生まれ。アトランタ五輪(1996年)男子シングルス金メダル、シドニー五輪(2000年)男子シングルス銅メダル

*20:1945年生まれ。1969年の世界選手権で男子シングルス、男子団体優勝の2冠