北朝鮮関係映画「奇跡のイレブン」「ヒョンスンの放課後」「クロッシング・ザ・ライン」

日経ビジネスオンライン『冷戦中、なぜ4⼈の⽶兵は北朝鮮に脱⾛したのか:ジェンキンス氏に平壌で取材した英国人の監督に聞く(前編)』伏見香名子
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/16/100500021/011000014/?P=1

 北朝鮮による拉致被害者曽我ひとみさんの夫・チャールズ・ジェンキンス氏が、2017年12月に死去した。ジェンキンス氏は冷戦さなかの1965年、在韓米軍所属の軍曹だったが、軍事境界線を越え、北朝鮮に脱走した。それから39年後の2004年に北朝鮮を出国し、曽我さんとジャカルタで再会した様子は、大きな国際ニュースとなった。
 その年の6月、ジェンキンス氏が出国する前の平壌で、西側メディアでただ一人、ジェンキンス氏ともう一人の脱走米兵への取材を行っていた英国人監督がいる。英国中部・シェフィールド出身のダニエル・ゴードン監督だ。
(中略)
 監督が2004年当時、平壌で元米兵らの撮影を公式に許可されたのは、それまでに北朝鮮のスポーツを描いた、2本のドキュメンタリー映画*1を制作していたからだ。1本目の「奇跡のイレブン」は2002年、アジア初のサッカーW杯開催に合わせ、アジア勢で初めてW杯準々決勝に進んだ66年イングランド大会出場の北朝鮮チームを描いた。
 当時無名だった北朝鮮チームが強豪を倒していく様に英国人が熱狂した様子や、元選手と英国人ファン双方による、互いへの思いを語るシーンなどで構成されている。
 脱走米兵を描いた作品「クロッシング・ザ・ライン」(「国境を越える」という意味と、「一線を越す」という2つの意味がある。)は2007年に英BBCで放送された他、釜山国際映画祭や、アメリカ各地などでも上映された。しかし、制作途中でジェンキンス氏が北朝鮮から出国してしまったため、当時平壌で唯一存命だった別の脱走米兵、ジェームズ・ドレズノク氏を中心に描かれた。
■伏見
 監督が、これだけ北朝鮮で脱走米兵に取材できたのはなぜだったのでしょうか。
■ゴードン監督
 映画制作のタイミングが良かったのでしょう。それまでに2本作った実績があり、「クロッシング・ザ・ライン」制作までに「奇跡のイレブン」というほぼ中立的な視点の映画、それからもう少し深く社会を描いた「ヒョンスンの放課後」を作りました。2作目も比較的、社会の両側面を描いた中立的なものでした*2
 当時の北朝鮮の文化省が(それまでの実績から)私がこの、「誰も触りたがらない政治的な厄介ごと」を扱うにあたり、信頼できると判断したのでしょう。正直、北朝鮮からの圧力が最も少なく、日韓および米政府、米軍と、英政府も、多少でしたが「こちら側の主張」が盛り込まれることを確認したがっていました。圧力は北朝鮮からだけではなく、多方面からかかりました。
(中略)
■伏見
 ジェンキンス氏の「真実」はどこにあったと思いますか。
■ゴードン監督
 おそらく、保身を考えていたでしょう。冷戦のピークだった1965年、ベトナム戦争中に米国から敵国である北朝鮮へ、自らの意思で亡命したことは、重罪です。ジェンキンス氏の公式の主張は、彼の部隊がベトナムへ行かされると聞き、とても恐ろしく感じたために、どんなことでもしてしまった、と言うものです。
(後略)
(後編に続く)


日経ビジネスオンライン北朝鮮の人たちも“人間”。対話の糸口はある:ジェンキンス氏に平壌で取材した英国人監督に聞く(後編)』伏見香名子
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/16/100500021/011100015/

■伏見
 3作目以来、北朝鮮の映画を撮っていないのはなぜでしょうか。
■ゴードン監督:
 (前略)このまま北朝鮮に特化した制作者になりたくないという思いがありました。
■伏見
 前例のない撮影許可を与えられたことなどで、時に監督自身が「北のシンパなのでは」とされる疑問には、どう答えますか。
■ゴードン監督:
 私が北のシンパだと思う人たちは、私の映画をきちんと見たことがないのでしょう。世界に対する自分の物差しだけでしか見たことがない。私には、それまで全く知られることのなかった世界を見せる、という目的がありました。
■伏見
 北朝鮮の映像といえばお決まりの、隠し撮りや軍事パレード、もしくはヒステリックに泣きわめく姿ばかりでしたが、「奇跡のイレブン」にはいわば、平壌に暮らす人の日常や、肉声が収録されています。私は、そうした映像を初めて見て、衝撃を受けました。監督自身が3作品を通じて、「スポーツの持つ力」以上に見せたかったことは何だったのでしょうか。
■ゴードン監督:
 隠し撮りの映像にも当然、必要性はあります。国内で横行する虐待は、そうした映像によって報じられなければなりません。
 ただ、私は、(平壌の)日常がどんなものか、知られていないと感じました。
■伏見
 現在、日朝関係は緊張の一途をたどっていますが、監督の作品は緊張緩和に貢献できると思いますか。
■ゴードン監督:
 私の作品を見て、「ほら。彼らも人間なのだ」と思ってもらえれば嬉しいです。彼らは、人間なのだ、と。意見は異なるかもしれないが、対話は可能だ、と。
【あとがき】
 ゴードン監督が北朝鮮を描いた1作目の「奇跡のイレブン」を初めて見た時は、後頭部を金槌で思い切り叩かれたような衝撃を受けた。それまでは、何か得体の知れない「北朝鮮」という、異様で薄気味悪い集合体でしかなかった国。そこに暮らす「人」の顔が、初めて見えたからだ。
 当局の監視がある中での撮影であることは承知の上で、それでもサッカーを語る元選手らの言葉を聞き、生活を垣間見、表情を見ることで、それまでの固定観念や、勝手な憶測が消えていった。ゴードン監督の作品は、市井の人たちを戦禍に巻き込むことの正当性を、立ち止まって考える機会を与えてくれると思う。
 監督が一貫して描き続けているのはあくまで「人」である。一人ひとりに名前があり、人生がある。当たり前のことに気づかされる。
(中略)
 筆者は、北朝鮮の脅威とその殲滅を安易に煽りたてる論調には一切、共感しない。

 面白い記事だと思うので紹介しておきます。

参考
【奇蹟のイレブン】

■奇蹟のイレブン:1966年W杯 北朝鮮VSイタリア戦の真実(ウィキペディア参照)
 2002年イギリス製作のスポーツドキュメンタリー映画。ダニエル・ゴードン監督。
■あらすじ
 サッカーワールドカップ1966年イングランド大会で、それまでサッカー後進国と見なされていた朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮)チームが、強豪イタリアを破ってベスト8に進出した。

■1966 FIFAワールドカップウィキペディア参照)
 グループ4では初出場の北朝鮮がイタリアを1対0で下し、台風の目となった。この結果、北朝鮮は1勝1敗1分のグループ2位となり、アジア勢としてのワールドカップ初勝利とグループリーグ初突破を果たしてグループ1位のソ連と共に決勝トーナメントに進出した。
 北朝鮮が、イタリアを1-0で下した試合を各国の記者は、「1950年ブラジルW杯でアメリカがイングランドに勝った試合(W杯史上最大の番狂わせ、世紀のアップセット)に匹敵する大番狂わせだ」と大々的に報道した。なお、イタリアの選手たちはこっそり帰国したものの、ローマの空港で待ち構えていたファンから腐った卵やトマトを投げつけられるという「屈辱」を味わったという。

https://op-ed.jp/sports_news/
■2013年07月20日:奇蹟のイレブン 1966年W杯 北朝鮮VSイタリア戦の真実
 1966年のW杯イングランド大会で優勝候補のイタリアを破り、アジア勢初のベスト8に進出した北朝鮮チームのドキュメンタリー。監督のダニエル・ゴードンが北朝鮮当局との4年間の交渉を経て、平壌での撮影取材に成功。当時の選手や監督などの証言で、W杯史上最大の番狂わせを振り返る。撮影当時、すでに50歳〜60歳代だった選手たち、しかも勝利に浮かれてハメをはずし強制収容所に送られたとも噂されるメンバーが「金日成首領様のおかげで…」と泣きながら、しかし試合内容になると活き活きと描写する場面が興味深い。失業問題に苦しむ労働者の町ミドルスブラ北朝鮮チームの宿泊先でもあった)の市民が、次第に朝鮮戦争の敵国の活躍に熱狂していったイングランドの国内事情を、もう少し詳しく描いて欲しいとも思うが、過去のW杯の様子を知ることのできるサッカーファン必見の一本。

https://www.cinematoday.jp/news/N0006518
■2005年5月25日:ワールドカップ最大の衝撃「北朝鮮がイタリアを破った事実」
 サッカー・ワールドカップ史上最大の衝撃と言われ、いまでも伝説として語りつがれている1966年、イギリス大会での北朝鮮vsイタリア戦の真実をつづったドキュメンタリー映画が公開される。サッカー後進国アジアの小国、朝鮮民主主義人民共和国がサッカー界に君臨する巨人イタリアを破ってベスト8に進出した当時の模様を北朝鮮の協力も得て製作された貴重な作品だ。
 当時の公式映像やニュース、イギリスサポーターへのインタビューや、なによりも、北朝鮮保有している記録映像が公開されているところにも驚かされる。
(中略)
 本作は2002年日韓ワールドカップ直後に 初めてイギリスBBCで放送され、その後北朝鮮と韓国でも公開され、各界に反響を呼び起こし日本でも5月28日より渋谷シネ・ラ・セットにて公開される。

http://omotitotokku.hatenablog.com/entry/2017/12/12/090000_8
■2017-12-12:1966年、サッカー北朝鮮代表が奇跡を起こした日
 サッカー北朝鮮代表、2005年に在日の選手達がマスコミで注目を集め、日本人も関心を持った人が多いと思います。
 2006年のワールドカップは予選で敗退しましたが、2010年には予選を突破して本大会に出場しました。
 しかし実はその44年前に、サッカー北朝鮮代表は一度ワールドカップの本大会に出場しています。
 1966年にイギリスで開催されたサッカーワールドカップ本大会で、それまでサッカー後進国だと思われていた北朝鮮が、サッカー界に君臨する巨人イタリアを破ってベスト8に進出しました。
 そして本大会3位になったポルトガルからも(ボーガス注:5対3で敗れたものの)3点を取るという、大快挙を成し遂げました。
 この快挙は世界のサッカーファンに「ワールドカップ史上最大の衝撃」として記憶され、伝説となっています。

http://dailynk.jp/archives/50195
■デイリーNK『石原慎太郎氏が賞賛した北朝鮮サッカー「奇蹟のイレブン」』(高英起)
 少しでもサッカーを知っていれば、北朝鮮代表と聞いて真っ先に思い浮かぶのが、1966年W杯イングランド大会におけるベスト8だ。
(中略)
 半世紀も前にアジア初出場チームとして、強豪イタリアを破り決勝トーナメントまで進出した北朝鮮代表の活躍ぶりは、長らく「神話」として語られていた。
(中略)
 北朝鮮のベスト8は、日本でも衝撃をもって受け入れられたようだ。朝鮮総連が発刊していた北朝鮮グラフ誌「朝鮮画報」(現在は廃刊)も、大々的に特集を組み、北朝鮮サッカーに対する全世界の賞賛ぶりを紹介しているが、そこには意外な人物が寄稿していた。その人物とは石原慎太郎氏。
(中略)
 石原氏が、北朝鮮代表を賞賛しながら、「交流試合をどんどんやるべき」と主張しているのである。
(中略)
 サッカーファンのなかで、イングランドW杯北朝鮮代表チームは「奇蹟のイレブン」として永遠に記憶されるだろう。

http://www.tv-tokyo.co.jp/footbrain/column/120128.html
テレビ東京・FOOTxBRAIN・勝村政信*3コラム『奇跡の条件』
 サッカーを愛する皆様ご機嫌いかがですか?。勝村政信です。
(中略)
 今回のテーマは「ジャイアントキリング」。
 奇しくも日韓ワールドカップが開催された2002年に、ダニエル・ゴードン監督によって制作されたドキュメンタリー映画「奇跡のイレブン」
 ワールドカップ史上最大の衝撃とされた「伝説」のドキュメンタリー。
 1966年、ワールドカップイングランド大会で、アジア、アフリカの出場枠を巡ってボイコット問題などがあったが、朝鮮民主主義人民共和国がワールドカップに出場。当時、すでに二度のワールドカップで優勝し、イングランド大会でも優勝候補に挙げられていたイタリア代表を下したのだ。
 この感動的なドキュメンタリー映画は、当時の朝鮮民主主義人民共和国(以下北朝鮮)の「奇跡」を丁寧に綴っている。
 イングランド大会前の、ほんの十数年前に起こった朝鮮戦争の敵国である、英国に乗り込んだ北朝鮮代表。
 北朝鮮代表が、どれほどの強い思いと決意を持って英国の地を踏んだのだろう?
 「当時、NATOガイドラインでは、スポーツなどで共和国と交流する際、国名に『人民共和国』をつけなかった。また、国旗の掲揚と国歌の演奏を禁じていた」そうだ。
 東ドイツドイツ民主共和国)を考慮してのことだ。
 しかし、国際的な祭典に国旗があるのは当然という理由で、英国に「共和国」の国旗が掲げられた。
 この時の北朝鮮代表の気持ちは、計り知ることは出来ない。
 国歌は、決勝と開幕戦のイングランドVSウルグアイに限定された。
 どちらも北朝鮮が絡まないことが前提になっている。
 北朝鮮代表は、本当に死ぬ気で英国に乗り込んだのだろう。
 そんな代表の気持ちとは裏腹に、北朝鮮代表のキャンプ地、ミドルスブラの人達は温かく迎えた。
 緒戦のソビエト戦で、北朝鮮は0−3で敗れる。
 しかし、ソビエトのラフプレーは観客すべてを敵にまわした。
 ソビエトのラフプレーに耐え、真摯に戦った北朝鮮は、すべての観客に愛された。
 小柄(平均身長165センチ)で、テクニックがあり、全員が献身的に走り回る姿と、常に攻撃的だったチームに観客は魅了された。
 チリ戦でも先制され苦しんだが、終了寸前に、パク・スンジンのシュートで同点に追いつく。
 この試合で、さらに北朝鮮代表は観客の心をつかんだ。特に地元のチーム、ミドルスブラが3部に落ちていて、地元サポーターのストレスを北朝鮮代表の活躍が解消してくれたからだ。
 そしてイタリア戦。
 血の臭いを嗅いだ鮫のように襲いかかるイタリアの攻撃を、北朝鮮の守護神、リ・チャンミョンがスーパーセーブを連発し、猛攻に耐える。
 前半でイタリア代表のキャプテン、ブルガレッリ*4が負傷退場する。
 イタリアは10人で戦わなければならなかった。
 余談だが、この時代、選手の交代は許されていなかった。選手の交代が認められるようになったのは、1970年のメキシコ大会からである。イエローカードとレッドカードもこの大会からである。さらに、このメキシコ大会では、日本人初のワールドカップの審判員として、丸山義行さん*5が参加している。丸山さんがカードを日本に持ち帰り、国内でもカードが採用された。
 話しを戻す。
 当時を振り返り、(ボーガス注:イタリアが本来の力を出せば北朝鮮は)10人でも負ける相手ではなかったと、1960年代の「グランデインテル」の中心選手、サンドロ・マッツォーラ*6は語っている。
 だが、奇跡は起こった。
 「奇跡の条件」が重なったのだ。
 イタリアを破り、北朝鮮は準々決勝に。
 敗れたイタリア代表は帰国した空港で、サポーターから腐ったトマトを投げつけられた。
 準々決勝の相手はポルトガル
 北朝鮮はいきなり3点を奪う。
 これも奇跡だ。
 だが、黒豹と呼ばれたエウゼビオ*7が、ワールドカップ史に残る、一人で4連続得点し、3−5でポルトガル北朝鮮を撃破。
 北朝鮮イングランド大会が終わった。
 北朝鮮は英国のサポーターに愛され、凄まじいジャイアントキリングを見せた。
(中略)
 日本では、「マイアミの奇跡」。
 説明するまでもないが、1996年アトランタオリンピックで日本代表がブラジル代表を1−0で破った試合である。
(中略)
 日本人はこの映像を肴に、死ぬまで酒が飲めるし、永遠に語り継ぐことができる。
 逆にブラジルでは、ミスを犯したアウダイール*8が、家族も含め、とても危険な目にあったそうだ。
(中略)
 ジャイアントキリングは、勝ったチームは大きな名誉を手に入れるが、負けたチームは一生洗い落とせない汚点になる。
 奇跡を起こしたどの試合でも、負けたチームは理由をいくつもあげることができる。
 だが、勝ったチームに理由はない。
 一つだけあげるとしたら、それは「奇跡」だ。
 マイアミの奇跡での日本代表の勝利の理由は、世界中の誰にもわからない。
 「奇跡」だからだ。
 ダニエル・ゴードン監督の「奇跡のイレブン」を観ると、「ジャイアントキリング」に向けて、北朝鮮代表に少しずつ「奇跡の条件」が整っていくのがわかる。
 だが、「ジャイアントキリング」が起きるまで、その「条件」を見いだすことは出来ない。
 日本代表に「ジャイアントキリング」がもう一度あるとしたら、それはもちろん、ワールドカップでの優勝である。

マイアミの奇跡ウィキペディア参照)
 1996年アトランタ五輪・男子サッカーグループリーグD組第1戦において、日本五輪代表がブラジル五輪代表を1対0で下した試合の日本における通称である。
■試合展開
 ブラジルの選手たちに疲労の色が見え始めた後半27分、左サイドにいたウイングバック路木龍次が、ブラジルのディフェンスラインとGKの間のスペースを目掛け、山なりのボールを放り込んだ。そのボールを狙って、FW城彰二が逆サイドからゴール前に走り込む。それに気づいたブラジルのCBアウダイールが城のチェックに向かったその時、ボールをキャッチしようと飛び出したブラジルGKジーダと激突。ゴールに向かって転がったボールにボランチ伊東輝悦が走り込み、そのままゴールマウスに押し込んだ。
 まさかの失点に焦るブラジルはその後も一方的に攻め続けるが、GK川口のセービングと、日本DF陣の粘りの守備、さらにブラジルのシュートが数本ゴールポストに当たる幸運もあり、無得点に抑えた。
 最終的にブラジルが放ったシュートは計28本。対する日本のシュートは、たったの4本だった。日本サッカー史上、最大のジャイアントキリングである。
 日本はブラジル、ナイジェリアと2勝1敗(勝ち点6)で並んだものの、得失点差で両国を下回ったためグループD通過はならなかった。「グループリーグで2勝を挙げながら敗退」という記録は史上初の出来事であった。ちなみに、ナイジェリアが金メダルを獲得し、ブラジルも3位決定戦で銅メダルを獲得したことから、グループDが非常に厳しい組であったことが分かる。
■反響
 この試合結果を受け、日本では新聞や雑誌などで号外が出された。海外でもこの結果は話題になり、1950年ブラジルW杯グループリーグで、全員アマチュアアメリカ代表が、全員プロのイングランド代表を1-0で下したFIFAワールドカップ史上最大の番狂わせ(世紀のアップセット)と並ぶものとして讃えられた。
 ブラジルにとって格下日本のチームに敗れたことは番狂わせの最たるものだった。ブラジルのテレビ生中継番組の解説者は、ボールがブラジルゴールに吸い込まれていく際に「あーっ、入っちゃう…」と絶望にも似た声でつぶやき、試合終了直後の実況は「こんなことがあっていいのか。大変な教訓になりました。日本はお祭りです。ブラジルは悲しんで……」と絶句した。この試合後、ブラジル国内ではテレビ局が特別番組を組み、国内の有識者たちが屈辱的な敗戦の要因を徹底討論した。また、フル出場したベベット(ジョゼ・ロベルト・ガマ・デ・オリベイラ)は試合後、この試合のビデオを見返したが、「なぜ、僕たちが負けたのか今でも分からない」と発言した。この試合のブラジルにおける呼称は「マイアミの屈辱」である。


【ヒョンスンの放課後】

http://mabley.footballjapan.jp/2010/07/post-e673.html
■『奇跡のイレブン』のダニエル・ゴードン監督が北朝鮮サッカーを語る
インタビュアー
 この映画の撮影時、選手達から他に日本や韓国、中国など、アジアについて何かお話を聞いたこともありますか?
ゴードン監督
 彼らは実際に行ったりした経験があまりないので、異国のことは概念的に話すくらいです。
(中略)
 外の世界に関する知識が非常に乏しいです。『ヒョンスンの放課後』という、北朝鮮マスゲームに参加した2人の少女を負った作品も撮りましたが、あの女の子にアメリカについて聞いてみました。その答えは、「アメリカって…何?」と。アメリカはただの概念のようで、地図上のどこにあるか分かっていません。
(中略)
 我が社は北朝鮮で合わせて3つの映画作品を撮り、その販売権を日本の映画会社にもかなり高い金額で売ることができましたが、第3作の『クロッシング・ザ・ライン』が日本ではまだ一切公開していません。何故なら、内容が日本にしては際ど過ぎるからだと言います。

 下手したら「日本って何?」なんでしょうか。まあこの少女が「13歳だ」ということは割り引いて考える必要があるでしょうが。

■ヒョンスンの放課後(ウィキペディア参照)
 2004年に英国で公開されたドキュメンタリー映画。ダニエル・ゴードン監督。日本では2006年4月22日に公開された。
 2003年に北朝鮮平壌で行われたマスゲームに携わった2人の女の子を追った作品。
 また、ディスカバリー・ジャパンでは同作品が『北朝鮮 マスゲームにかける青春』として字幕放送されている。

https://www.shibuyabunka.com/soft.php?id=983
■ヒョンスンの放課後
 ヒョンスンは平壌に住む、体操の得意な女の子。マスゲームへの出演は3度目。でも前回選ばれたからといって又選ばれるとは限らない。練習はきびしく、どんなに寒い冬でも毎日最低、2時間は行う。最初はつらくてさぼってしまったこともあった。それが先生に見つかって…。ソンヨンは4才年下の9才。ヒョンスンと同じ体操クラスに選ばれた。苦手な技を教えてもらい仲良しになった。勉強が苦手なソンヨンは今日もお父さんに宿題を見てもらうのだけど…。
 朝鮮半島をめぐる感動のドキュメンタリー。前作『奇蹟のイレブン』の成功により北朝鮮での特別撮影許可を得たイギリス人監督ダニエル・ゴードンの視線から見た北朝鮮の中産層の生活。それはとても興味深いものだった。のべ400万人が参加する北朝鮮最大のイベント、マスゲーム。そのマスゲームに参加することになった二人の女子中学生、ヒョンスンとソンヨンの日常にカメラは8ヶ月間密着した。カメラに映し出されたものは、初めて見るけど、どこか懐かしい日常だった─。

http://d.hatena.ne.jp/kaxima/20060625
■ヒョンスンの放課後
「ヒョンスンの放課後」は、イギリス人のチームがピョンヤンの日常を撮影したドキュメンタリーだ。13歳のヒョンスンと、11歳のソンヨン。二人の少女の家庭を写している。
 「主人と母があの子に厳しいので、私はついわがままを聞いてしまうんです」と語るヒョンスンの母親。「私は静かなのが好きなんですけどね、ウチは娘3人でしょ、なにしろうるさくて」と嬉しそうに笑うソンヨンの父親。「ウチの娘はみんな家を出ちゃったからねー、この子を見てるともう一人子供が欲しくなっちゃうよ」と言う友人に「こういう楽しい日の夜は頑張っちゃうんだってよ〜」とオヤジな冗談も出る。
(中略)
 おばあさんは「お前のお父さんも昔マスゲームに出たんだよ」とテレビから振り返って孫娘に話しかけ、「えっ!ホント、お父さん?」と目を丸くするヒョンスンに父親は「うん。マスゲームはないけど、式典は何度か出たよ」と自慢する。
 ヒョンスンとソンヨンは、毎日2時間の猛練習が実ってマスゲーム参加選手に選抜される。当日が近づき緊張するヒョンスンに、ぼくは心の中で声援を送っていた。マスゲーム将軍様も大嫌いなのだが、ぼくはこのふたつの家族をすっかり親しく感じるようになっていたのである(とくにソンヨンのお父さんはいい人!)。気がつけば、ピョンヤンの日常の内側からものを見ていた。
(中略)
 チラシのコピーは「あなたの知らない国に、あなたの知っている家族がいます」。ほんとにその通りだった。

*1:サッカーが題材の『奇跡のイレブン』とマスゲームが題材の『ヒョンスンの放課後』

*2:つまりはファンキー末吉氏が「北朝鮮女子学生へのロック授業を重視し、拉致云々などで政治的紛争を起こさなかった」ように「とにかく北朝鮮の貴重な映像(サッカーやマスゲーム)を撮ることを重視し、あえて、政治的論争などしなかった」ということでしょう(もちろん末吉氏やゴードン氏が北朝鮮万々歳でないことはいうまでもありません)。「反北朝鮮活動家(自称ジャーナリスト)」石丸次郎や萩原遼(故人)あたりだと「北朝鮮御用達監督によるショーウインドー映像」と悪口しそうですが「誰もとったことがない映像を撮る」ということは意味があることでしょう。また、そうした誘惑を犠牲にしてまで「政治的紛争を起こすか」といったら俺がゴードン監督の立場なら起こしませんね。

*3:サッカー番組『FOOTxBRAIN』司会。俳優

*4:1962年チリ、1966年イングランドの2回のワールドカップにイタリア代表として出場

*5:日本人として初めて1970年メキシコ大会でFIFAワールドカップ審判に選出されるなどの実績から日本のサッカー審判員の第一人者と呼ばれる人物。2009年、日本サッカー殿堂入り。

*6:1966年イングランド、1970年メキシコ、1974年西ドイツの3回のワールドカップにイタリア代表として出場

*7:1962年チリ、1966年イングランド、1970年メキシコの3回のワールドカップポルトガル代表として出場

*8:1990年イタリア、1994年アメリカ、1998年フランスと3度のFIFAワールドカップにブラジル代表として出場し、1994年アメリカでは優勝、1998年フランスでは準優勝に貢献した。