新刊紹介:「前衛」4月号(その2:吉田裕『日本軍兵士』&ジャパンライフ疑惑)

http://d.hatena.ne.jp/bogus-simotukare/20180318/5421309876に書き切れなかったのでこちらに書いておきます。
■兵士の視点、実相を通して日本の戦争を考える:『日本軍兵士』で言いたかったこと(吉田裕*1
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。

http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20180201/1517485716
紙屋研究所『吉田裕「日本軍兵士 アジア・太平洋戦争の現実」』
 この本の起点となっているのは、アジア・太平洋戦争における310万人という日本国民の犠牲者というのは9割が1944年以降に生じたのではないかという「新事実」である。
 つまり、戦死者の9割は1944年以降の1年間に起き、しかもそれは餓死、病死、(ボーガス注;船が沈没することによる)海没死、自殺、「(ボーガス注:マラリアなど病気になったり、米軍の攻撃で重傷を負ったりした兵士を、足手まといとして日本軍自ら殺害する)処置」であり、急速に悪化した物資欠乏や補給、覚せい剤の使用によるものだったということを、兵士の身体・目線から示すということだ。
(中略)
 そういう意味では本書でも紹介されている、藤原彰*2『餓死した英霊たち』*3(日本軍犠牲者の半分以上が餓死だという指摘)を、餓死だけでなく戦争全体についていっそう体系的にまとめたのが本書なのではないか。そのような戦死観の形成は、「勇猛に戦って死んだ日本兵」という戦死観への鮮烈なアンチテーゼとなる。

http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20180308/1520518653
紙屋研究所『「日本軍兵士」と2つのマンガ』
 『日本軍兵士 アジア・太平洋戦争の現実』(中公新書)を書いた吉田裕(一橋大学教授)が、「前衛」2018年4月号で同著について語っている。
 その中に、マンガへの言及が2ヶ所ある。
 一つは、武田一義『ペリリュー 楽園のゲルニカ――』(白泉社)である。
(中略)
 そして、その角度から、もう一つ、マンガへの言及を行なっている。
 それが、こうの史代この世界の片隅に』(双葉社)である。

 紙屋研究所記事に出てくる「覚醒剤の使用」については以下を紹介しておきます。
 戦前日本、あるいは「一時期の戦後日本」においては覚醒剤に対する忌避感は今と比べるとかなり弱かったわけです。

【参考:ヒロポンについて】

https://matome.naver.jp/odai/2143518794725378101
サザエさんにも出てくるヒロポン覚せい剤だった! ワカメとタラちゃんが飲んでゲラゲラ笑うシーンあり!
・この時期には長谷川町子サザエさんの前身となるマンガ「似たもの一家」でヒロポンを扱っていたりもします。作家の伊佐坂先生が執筆用にヒロポンを常備しており、ワカメとタラちゃんを思わせる子供たちが誤飲して「エヘラエへラエヘラ」と笑ったり東京ブギウギを歌い出したりとラリった様子を見せています。
・家にサザエさんのコミックが全巻あるので、ヒロポンの話については知ってました。
 コミックの中にズバリ「ヒロポン」ってタイトルの話があるんです。
 それは、サザエさんの家の近所の子(カツオたちよりちょっと幼い兄妹)をサザエさんと近所の子の母親が一緒に出かけるため、カツオとワカメが預かってあげる。
 しかし、ちょっと目を離した隙にサザエさんちにあったヒロポン(錠剤ではなく液体だったと記憶)を兄妹が勝手に飲んでしまい、カツオたちが気づいた時には2人とも「キャーッ♪」とか奇声をあげながら踊り狂っていて、 帰ってきたサザエさんたちがその様子を目撃する。
 兄妹の母親は「あらあら、遊んでもらえてよっぽど嬉しかったのね〜」と言いながら連れて帰ってしまうという、 ちょっとシュールな話でした。
 その家族が帰ったあとでサザエさんが、兄妹にヒロポンを飲まれていることに気づくのですが、ちょっとびっくりするだけで特に気にしてないのもシュールでした。
国家公安委員長(82年当時)が昔ヒロポン飲んでた、発言
・1982年、テレビ朝日系列放映の『あまから問答』で「なくせ暴力団覚醒剤、交通事故」というテーマの回があり、ゲストとして呼ばれた当時の世耕政隆国家公安委員長は次のような発言をしました。
ヒロポンは戦前は薬局で売っており、ぼくらの学生時代には試験の前などによく飲んでいた。気持ちがいいし、能率があがる」。
 いくら戦前には覚醒剤の一種であるヒロポンが合法だったとしても、国家公安委員長ともあろう立場の人が反覚醒剤キャンペーンの番組に出て、「気持ちがいいし、能率があがる」はないでしょう。彼の社会性に疑問符がついてもやむをえません。
ビートたけしが語る、芸能人と覚醒剤 東MAXの父も常習者だった!!!
 たけしによると、昔から薬物に手を染めている芸能人は多く、芸人ではミヤコ蝶々三波伸介*4東八郎*5かしまし娘などの実名をあげたが、1951年の覚せい剤取締法執行まで「ヒロポン」と呼ばれる薬物は合法だったため、使用していたとも説明する。
 また、たけしがフランス座にいた頃は、ダンボールにアンプル(注射剤)が山積みになっており、皆、これを使用してから舞台に上がっていたようで、これにはさすがのたけしも「驚いた」と明かしている。
■人気芸人が覚せい剤漬けの子供時代を衝撃告白「死にかけたんですよ。打ちすぎて」
 姉妹音曲漫才トリオかしまし娘」として一世を風靡したタレント・正司歌江(83歳)が17日に放送されたTBS系「爆報!THEフライデー」の中で、12歳から20歳過ぎまで覚醒(せい)剤漬けの日々を送り「死にかけた」ことを衝撃告白した。
 歌江は「12歳から20歳過ぎまで、覚醒剤をやってました。一本じゃ足りない、ニ本じゃ足りない…しまいには百本打っても(足りない)…ってなって。私、死にかけたんですよ。(覚醒剤)打ちすぎて」と衝撃告白した。
 ヒロポン中毒になった歌江は、虫がうじゃうじゃとわいて出てくるという、覚醒剤中毒の幻覚や幻聴に悩まされた。しかし、21歳の時、照枝が現れ、ヒロポンと一通の手紙を渡される。
 手紙には「いつかまた昔のお姉ちゃんに戻ってほしいねん」と書かれていた。その手紙を読み、「このヒロポンは打ったらあかん。ヒロポンは絶対やめなあかん」と心に誓ったという。

ヒロポン (ウィキペ参照)
 大日本住友製薬(旧:大日本製薬)によるメタンフェタミンの商品名であり、同社の登録商標である。
 戦前日本では、「除倦覺醒劑」として市販されていた。その名の通り、疲労倦怠感を除き眠気を飛ばすという目的で使用されていた。現在でこそ、覚醒剤の代名詞であるヒロポンだが、当時はメタンフェタミンの副作用について、まだよく知られていなかったため、規制が必要であるという発想自体がなく、一種の強壮剤として利用されていた。日本軍では、長距離飛行を行う航空兵などに支給されている(ウィキペディア「黒鳥四朗」を参照)。ヒロポンは「本土決戦兵器」の一つとして量産され、終戦時に大量に備蓄されていた。
 日本の敗戦により、日本軍の備蓄品が一気に市場へ流出すると、酒やタバコといった嗜好品の欠乏も相まって、人々が精神を昂揚させる手軽な薬品として蔓延した。その薬物依存症者即ち「ポン中」が大量発生し、中毒患者が50万人を超えるなど社会問題となった。加えて、中毒者が行う不潔な注射器の使い回しは、ウイルス性肝炎の伝染機会を増加させ、輸血後肝炎が感染拡大する遠因となった。この時期芸能界にも蔓延し、多くの芸能人が常用していたことが、のちに明らかになっている。当時芸能界で活動したコロムビア・トップが、参議院議員に転身後国会において、ヒロポンが蔓延した当時の芸能界を証言したことがある。
 1949年(昭和24年)、日本政府はヒロポンを劇薬に指定、1951年(昭和26年)に覚せい剤取締法を施行したことに伴い、日本国内では、「限定的な医療・研究用途での使用」を除き、覚醒剤の使用・所持がすべて禁止されている。

■黒鳥四朗(ウィキペディア参照)
覚醒剤の投与、効果、戦後の副作用
 1945年4月後半、ドイツから輸入された「暗視ホルモン」を投与するとの説明が黒鳥に対して軍医長から行われた。なお、投与時に副作用に関する説明は行われなかった。黒島は夜間出撃の際に暗視ホルモンの注射をうけ、この投与は複数回に及んだ。しかし暗視ホルモンと説明された物質は、中枢神経を興奮させるメタンフェタミンであり、商品名ヒロポンとして知られる覚醒剤であった。
 ヒロポンは当時は「除倦覚醒剤」として流通しており、有害性はあまり認識されていなかった。
 戦後、運輸省の技官として技術研究所に勤務。しかし、戦争中に投与されたヒロポンの副作用による異常感覚と体調の不良に悩まされる。体調は好転せず、昭和25年に技官を辞職、九州の民間会社に就職した。

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/48659
■知られざる「麻薬大国」ニッポンの裏面史(辻田真佐憲*6
 漫才師で、のちに参議院議員に転身した下村泰は、1984年6月の国会質疑において、ヒロポン中毒に陥った歌手たちの奇行を、次のように赤裸々に証言している。
 いわく、楠木繁夫*7は、ギャラの契約をせず、「ヒロポンを一升瓶で何本くれたら幾日間行く」といって仕事をしていた。
 いわく、霧島昇*8は、ヒロポン中毒が進み、1曲歌っては「幕を閉める」といったり、アンコールまでいっているのに「アンコールまだだ」といったりして、司会の自分を困らせた。
 いわく、樋口静雄*9は、幻覚症状に陥って、目が機械のように「チャっと」異様な動きをし、「天井の隅で今おれをねらっている刺客がいる」と妄想を語ったりした(第101回国会、社会労働委員会、第11号より)。
 なぜ彼らは揃いも揃って、重度の覚醒剤中毒に陥ってしまったのだろうか。
 その理由についても、下村は次のように証言している。
「昭和20年代(引用者註:1945〜1954年)にはヒロポン中毒というのがありまして、これは旧軍が持っていたものを市中にばらまいたと言っても過言ではないと思うんです」
 つまり、日本軍の保管していた覚醒剤が、敗戦後市中に出回り、「ヒロポン中毒」を引き起こしたというのである。
(中略)
 1940年代に入ると、日本本土でも薬物の害が蔓延しはじめた。日本で主に使われたのは覚醒剤である。
(中略)
 この時期に覚醒剤が量産されたのも、戦争と無縁ではなかった。日本はこのころ日中戦争の泥沼にはまり、太平洋戦争の開戦も控えていた。労働力や戦力の拡大のため、覚醒剤は「魔法の薬」と考えられたのである。「ヒロポン」開発に関わった医学者の三浦謹之助は、当時、覚醒剤の開発について「最も目下の時局に適合するもの」とあからさまに述べている。
 副作用の認識がなかったこともあり、覚醒剤は軍需品として大量生産された。特に、激務の航空部隊に配布されたようで、冒頭に名前をあげた参院議員の下村泰(陸軍の飛行戦隊に所属)も、戦時下に使用したと証言している。なお、覚醒剤はアンプルのほか錠剤でも配布されたという。
 このような覚醒剤は、1945年8月の敗戦により不要となり、市中に流出してしまった。その結果、冒頭で引いたようにひとびとが「ヒロポン中毒」になったのである。昼夜を問わず多忙な芸能人の間には、特に蔓延したといわれる。
 覚醒剤の有害性は戦後になって広く認識されるに至り、1951年ようやく法律で規制された。

ヒロポンについて:終わり】

http://www.yomiuri.co.jp/life/book/review/sinsho/20180305-OYT8T50107.html
■読売新聞『『日本軍兵士』 吉田裕著』
 アジア・太平洋戦争で死んだ軍人・軍属の戦没者のうち、少なめに見ても4割近くが餓死だという。
 ほかに自殺、傷病兵の殺害も多く、私的制裁は横行し、マラリアなどの病気が蔓延し、精神疾患も深刻だった。

http://honz.jp/articles/-/44583
■『日本軍兵士 アジア・太平洋戦争の現実』予想を超える厳しい現実に直面した兵士たち(鰐部祥平)
 まず著者は太平洋戦争を4つの期間に分けている。開戦から1942年5月までの「戦略的攻勢期間」を第一期、42年6月のミッドウェー海戦の敗北から43年2月のガダルカナル島撤退までを第二期で「対峙の時期」とし、43年3月から44年のマリアナ沖海戦敗北後の7月までを第三の「戦略的守勢期」、そして44年8月から終戦までを第四期「絶望的抗戦期」としている。
 本書で最も驚きだったのが、著者が310万人の戦没者の大多数が第四期の一年間あまりの間に死亡したものだという仮説を立てていることだ。
(中略)
 まず、太平洋戦争の特徴として戦病死と餓死者の異常な多さを見る必要がある。
(中略)
 73.5パーセントが戦病死なのである。制空権、制海権ともに失い、前線各地で補給が寸断されたため、兵士達の多くが深刻な栄養失調に悩まされ苦しんでいた姿が見えてくる。
 また本書で初めて知ったのだが、戦地では戦争栄養失調症という病気が蔓延していたという。マラリア赤痢といった病気に罹患していないにも関わらず、極度の痩せ、食欲不振、貧血、慢性下痢などの症状を訴え、「体温正常以下、四肢蕨冷、顔面無表情で嗜眠性となり惰眠を貪り『生ける屍』のようになり」治療の成果もないまま、ロウソクが燃え尽きるように死亡するケースが相次いだという。
(中略)
 本書を読んでつくづく感じた事は、(ボーガス注:補給を無視したインパール作戦のような)現実に即さない戦略が、いかに末端の兵士達に負担をかけ、無駄死にさせてしまうかという現実だ。

https://toshikyoto.com/press/2513
■旧日本軍の実際を知ろう(書評『日本軍兵士』)
 これまでの研究でも日本軍兵士が戦死よりも戦病死、餓死が多かったことが明らかにされてきていますが、本書ではその実態がより深く掘り下げられています。
 そもそも日本軍は食料や弾薬の配給が劣悪な軍であり、兵士たちの多くが栄養失調症にかかっていました。その状態で過酷な毎日を生きなければならないので、恐怖・疲労・罪悪感から実は多くの兵士がさらに「戦争神経症」にかかってしまっていました。
 このため兵士たちの中には拒食症に陥っていくものもいました。単に食べ物がなかっただけではなく、食べられない状態になっていたのです。
 兵士たちはおう吐を繰り返し、下痢になり、みるみる痩せていったといいます。こういう状態だからさまざまな感染症にもかかりやすく、けがも治りにくい。歯痛にも悩まされてますます食べられなくなっていく。
 この状態で兵士たちは30キロ以上の装備を担がされていました。しかも日本軍はトラックなどが少なく、あってもすぐに故障するので、大砲の弾薬なども担がなくてはならず、場合によって40キロ、50キロを担ぐ兵士たちもいたというから驚きです。
 このためいったん休憩すると自ら立ち上がれずに、裏返しになった亀のように手足をバタバタし、まわりからひっぱってもらって起き上がることが日常化していたそうです。
 こうした過酷な状態の中に置かれた隊内では、さらに古参兵による若年の兵士たちへの構造的虐待が行われており、それが栄養失調症を促進する構造があったことも本書は解き明かしています。
 食料の配給そのものが、古参兵に手厚く、新兵に薄いものになっていた上に、新兵たちは古参兵の身の回りの世話をさせられるため、食事の時間を十分にとれず、咀嚼をせずに飲み込んでしまい、消化不良をおこしやすかったからだそうです。
 上官に逆らうことのできなかった隊内で、過酷な戦闘を生き抜き、殺人を繰り返してきた古参兵たちの中には、鬱屈したストレスのはけ口として新兵を虐待するものが多くいたといいます。
このため新兵たちは、戦闘や行軍で疲れた心身を癒すこともできない状態に追い込まれていました。
 当然、行軍についていけない兵士たちが続出するわけですが、その中からしばしば自殺が発生したのだといいます。小銃の銃口を加えて引き金を引いたり、手榴弾を抱いて爆発するものが多かったそうです。
 自殺と言うよりうつ病による死と言った方がより実態にあっていると思います。
(中略)
 本書にはこの他、日本軍の衣服や靴がいかに粗末だったのか、このため靴がダメになって裸足になり、凍傷や死亡なども拡大させたことなど、兵士たちのおかれた日常の苛烈さがたくさん書き込まれています。
 けして楽しい本ではないですが、ぜひ手にとって、当時の若者たちが辿らされた足跡に思いをはせていただきたいです。
(中略)
 著者が明らかにしているのは、日本軍の軍事思想が「短期決戦、作戦至上主義」に偏っていたことです。
 なんと日本軍は欧米列強と長期戦を戦い抜く国力、経済力はないと強く考え、だからこそ長期戦を回避した「短期決戦」「速戦即決」を重視していたと言うのです。
 だから戦闘だけを重視する作戦史上主義にも偏り、「補給、情報、防御、衛生、海上防衛」などが軽視されたのでした。
 これが多くの兵士が栄養失調症や戦争神経症にかかり、無残に死んでいった構造的要因だったわけですが、だとするとそもそも15年におよんだ日中戦争から太平洋戦争にいたる長期戦など、軍事的にもやってはいけないものであったことが分かります。
 もともとできないこと=やってはいけないことだったのに、無責任にも突っ込んでしまったのがあの戦争だったのです。

https://blog.goo.ne.jp/jchz/e/7d141332f73138876f6c86ef8d3ba86c
■被服、食糧、医療などから/日本軍兵士(吉田裕)
 結核の蔓延(一個師団相当が結核で除役)が問題になっていたというのには呆れた。
 それから、国民皆兵化によって知的障害者の入隊が増えたり、戦場での非人間的な体験によって精神疾患を病む者が目立つようになる。しかし、軍は神経症をタブー視して「疲労」という言葉に置き換え、疲労回復や眠気防止の効用をうたった覚醒剤ヒロポンが常用された。ちなみに欧米諸国では、第一次世界大戦の経験に学んで、前線の兵士たちを後方に下げて休養をとらせる休暇制度が整備されていた、という記述に暗澹とする。日本の文化は、なぜこうも休養の必要性をみとめたがらないのか。
 モノをめぐって印象的だったのは軍靴である。明治初年の建軍以来、牛革でつくられていた軍靴は、馬革、豚革になり、昭和19年には鮫皮が用いられた。防水性が全くなかったという。壊れやすく、補給もなかったため、前線では行軍の際、住民から徴発(略奪)したつっかけ草履や支那靴、あるいは草鞋、裸足にボロ布を巻いている者もいたという。まるで戦国時代の足軽である。
(中略)
 (ボーガス注:牛革の他に軍靴製造で)もうひとつ、どうしても必要な材料は、頑丈な縫糸となる亜麻糸だった。しかし、日本で亜麻を産するのは冷涼な北海道だけで、すぐに需要が生産に追いつかなくなってしまった。戦争を遂行するには、兵器だけでなく、衣食住にわたる必需品が何か、それを生産するための原材料を自給できるかまで、きちんと考量しなければならないのだ。
 兵士にとって飯盒も重要だったんだなあ。「命綱」とさえ言われている。水を飲むにも、野生の草を煮て食べるにも飯盒は必需品だった。だから飯盒の盗難も頻発したという。戦争末期には竹筒の水筒しか持たない兵が増えていったと聞いて、ほんとに足軽だと思った。また、陸軍は通信の必要性に対する認識が低く、無線は有線の補助手段と考えており、有線が切られたときは伝令か伝書鳩に頼ったというのには眩暈がした。

アマゾンレビュー
■苛烈な軍隊で積み重ねられた兵隊の無残な死
投稿者:革命人士:2018年2月12日
 制空権のカギを握る飛行場造成でも、米軍がブルドーザーや重機を大量投入し1週間でジャングルに滑走路を作るのに比べ、日本軍は人がツルハシ・モッコで造成するので1か月以上、しかも狭い上に整地も不十分で砂埃が舞うので事故が多発した。ブルドーザーと人力の競争で、勝つ要素がなさすぎる。
■必敗の法則?
投稿者:老牧童:2018年3月9日
 例えばガタルカナルの密林で小隊同士がふいに近接戦に遭遇した場合に5発連射が限度の(ボーガス注:日本軍の)38式と20発のマガジンを装着した(ボーガス注:米軍の)M1カービンでは射撃術以前で優劣は自明である。

https://bookmeter.com/books/12485361
■見もの・読みもの日記
 印象的なエピソードを1つあげると、明治の建軍以来、牛革だった軍靴が鮫皮になってしまったこと。軍靴の縫製には丈夫な亜麻糸が必要だが、日本では北海道でしか取れず、すぐに不足に陥った。戦争を遂行するには、鉄鋼や石油ばかりでなく、亜麻糸の補給も考量しなければならないのである。
■曲月斎
・軍靴の材料の革が粗悪になり、縫製する糸が亜麻からスフの混紡になり、糸が腐って壊れた。
・極言すれば、人力、馬匹に頼った日本軍と、機械化して物量の豊富さを背景にした相手軍*10の差。モッコとローラーでつくる滑走路とブルドーザーでつくる滑走路の差。スピードに差が出るのは当たり前だ。小機関銃が導入されなかったり、部隊間を結ぶ無線が満足に実用化できなかったり。考えられない彼我の差。

http://kw.maruzen.co.jp/nfc/featurePage.html?requestUrl=oldbook_newbook/06/
■これまでの本、これからの本 第6回 吉田裕教授
インタビュアー
 先生が日本の近現代史軍事史の研究に進まれたきっかけは何ですか?
吉田氏
 (前略)
 実は、僕らの世代は隠れ軍事オタクで軍事のことについて妙に詳しいひとが多いんですよ。それは、50年代末にマンガ週刊誌が出てきて、その第一世代になるんですが、当時のマンガ週刊誌はほとんど戦争の話で満ち溢れているんですね。その内容自体は、戦争に対する反省というよりは戦争をスポーツのように描いたり、過去の日本軍の兵器の優秀さを強調したりといったことに力点があって、戦争の悲惨さとか日本の戦争責任にかかわることはまったく触れられていない本ですね。
(中略)
 そんな中でもなにか感じるとこがあったのは、やっぱりベトナム戦争ですね。
 (中略)
 南ベトナムの秘密警察の長官が路上で解放戦線の将校を頭にピストルをつきつけて射殺するシーンを見たときは、本当にショックでした。こういうマンガの子供文化の戦争とは違う戦争の世界というのがあるんだなって漠然と感じました。
(中略)
 大学は、東京教育大学に行ったんですね。大学で一番最初に読んでショックを受けたのは、家永三郎さん*11の『太平洋戦争』ですね。公文書とか日記など、政治家や高級軍人の一次史料、そうした従来の歴史学の正統的な史料だけではなく、一般の民衆の戦争体験記・回想録・日記、そういうものの膨大な史料にもとづいて太平洋戦争の歴史を描いてるんですね。日本軍の残虐行為等々も含めて描いていて、これは非常にショッキングでした。もう一つは、熊沢京次郎というペンネームで本多勝一さん*12たちが1974年に現代評論社から出した『天皇の軍隊』*13ですね。これは、中国戦線での治安粛清戦に参加した兵士たちからの聞き取りに基づいて、日本軍の治安作戦の実態を本格的に明らかにした最初の本といっていい。非常に生々しい戦場の現実が描かれていて、同時に戦争の中でほんの少しだけど社会上昇を遂げていく、たとえば中国戦線に行って除隊して、満州国の警察官になったり、今まで日本で体験した生活より上にあがっていく。そういうある種の社会上昇を、一番下層のひとたちが、戦争の中で遂げていくという面にも触れていて、そういった面でも非常にショッキングでしたね。
 あとは、82年の教科書検定の国際問題化ですね。一部初期の報道に誤報があったのは確かですが、日本の文部省(現文科省)側が一貫して「侵略」という言葉を排除してきたのは紛れもない事実です。アジア諸国と日本との間に歴史認識の面で大きなずれがあって、日本の歴史学自体は、戦争の実態、たとえば戦争犯罪の解明ということで言えば、今までほとんど何もやってきてないのではないか、ということで、歴史学界の中で論争にもなりました。従来、戦争犯罪とか戦争の責任とかいった問題は、政治的問題としてタブー視されてきた、触れられないできた、そういう傾向があって、アジア・太平洋戦争の歴史について、戦争犯罪とかそういう負の問題を含めての研究というのがない、ということが教科書問題のあたりから日本人のなかで認識されてきたんですね。そんな中で書いたのが、1986年に青木書店から出した『天皇の軍隊と南京事件』ですね。南京戦にかかわる回想録は、部隊史を別にしても、私家版とか非売品という形、場合によると手書きで書いたものをコピーして図書館に寄贈したりという形で、膨大な量の史料があります。また、その頃からようやく防衛庁防衛研究所戦史部が史料を少しずつ見せるようになってきたんですね。戦闘が終わった後に公式の記録として戦闘詳報というのを出すのですが、それを読むと載ってるわけですね、捕虜を160人刺殺したとか公然と。そういう形で回想録や、部隊の公式の記録の中に、戦争犯罪の痕跡がどう残されているかを、いわば拾い上げていく、こういう手法で『天皇の軍隊と南京事件』を書いた。ただ、そのときちょっと自分自身で違和感があって。要するに記録をざーっとみて戦争犯罪の記録のところだけ、つまみ食いしているような感じがして、それでいいのかなっていう意識はかなりありました。その頃からもうちょっと戦争や軍隊を支えた一般の庶民兵の生活史とか意識とかそういうのを考えなきゃいけないんじゃないか、と思うようになって、それをまとめたのが岩波新書の『日本の軍隊』*14ですね。
 そのあと、今度は逆に戦後史の中での日本人の戦争観みたいなものを考えてみようと思ったんですね。戦時中の士官学科出とか兵学校出とかの正規将校というのは、やっぱり学歴的にはエリートなんですよ。彼らは、戦争が終わった後、大学に入り直して、それで大学を出て、戦後の高度成長期を担っていくエリート集団になったわけですね。そのひとたちはやっぱりものを書く能力を持っているし、機会もあるし、いろんな形で記録を残していると思うんです。そうではない一般の兵士の戦後史、彼らが戦争の歴史と葛藤しながらどういう風に戦後という時代を生きてきたのかっていう問題を書いてみたいなあと思い始めたんですね。
 ちょうどその時、戦友会関係の雑多な文献、戦友会誌みたいなもの、そういうものが膨大に靖国神社靖国偕行文庫があるのが分かったんですね。よく調べてみたら、要するに2000年前後くらいから戦友会が急速にみんな解散してしまって、それに伴って戦友会関係の文献を靖国偕行文庫に寄贈しているんですね。それを読み始めたら、やっぱりおもしろいんです。それでかなり一般の庶民の意識の変遷を追えるんじゃないかって思いました。一方、奈良県立図書情報館に戦争体験文庫ができたり、傷痍軍人の労苦をしのぶという目的で日本傷痍軍人会が運営する「しょうけい館」ができたりもしました。そういう新しい資料状況が生まれたんですね。戦争の時代を知る必要があるとともに、戦後史の中で、その戦争の時代にひとりひとりの人間がどう向き合ってきたかということまで含めてみないと、戦争の時代全体を総括したことにはならないって気持ちが非常に強く、むしろ戦後に焦点をあわせて侵略戦争と諸外国から非難されている戦争を戦った兵士たちの戦後の意識の変化と生き方のようなものを、そういった文献をもとにして少し書いてみたいと思ったんですね。それで寄り添いつつ、半歩距離を置いて批判的にながめつつ、というスタンスで書いてできたのが、この『兵士たちの戦後史』*15ですね。
インタビュアー
 戦争体験ということでいえば、藤原彰先生など実際に兵士として戦争体験をされて、その後研究に入られたという方と、吉田先生のような戦争経験がない世代の研究者で、研究に対して何か大きな違いはありますか?
吉田氏
 それは結構ありますね。やっぱり、戦後の第一世代の歴史家というのは、戦時下に沈黙をよぎなくされていた世代ですね。遠山茂樹さん*16とか服部之総とかの世代です。第二世代くらいが藤原さんたちの世代で、戦争に直接行った経験を持った世代ですよね。学徒出陣組といってほぼいいと思うんですけど。その世代には、戦争や軍隊につながることにはもう関わりたくないという意識が強くって、軍隊そのものを研究する、狭い意味での戦闘とか軍事というものを研究することにはある種の心理的タブーがあったと思うんですね。藤原さんはちょっと例外で、将校であった経験を活かして、マルクス主義的な軍事史研究をやった。その藤原さんにしても自分の体験を語るようになったのは晩年ですもんね。そういうタブーの意識は分からないでもないんですけど、その分だけ狭い意味での軍事史とか、戦場・戦闘とかそういうものの研究については日本ではなかったんですね。そういう点である種のタブーがあった。それが僕らの世代くらいから全然そういう研究がないこと自体がやっぱりおかしいんじゃないのかという気持ちが出てきました。少なくともあれだけ巨大な軍隊が存在して、自滅するわけではなくて、外国の軍事力によって打倒されまでは存続していた、社会もそれを支えていた、そのことの意味を考えなければいけないという気持ちが出てきたんですね。それで、軍隊の問題、さらには地域や地域の民衆がいかにして軍隊を支えてきたのか、という地域と軍隊の関係性を問うような研究がたくさん出てきました。
インタビュアー
 今日の研究動向をみると、植民地研究やメディア論的な研究がひとつの潮流としてあるように思いますが、そういった研究が出始めるのも先生の世代からでしょうか?
吉田氏
 そうですね。戸ノ下達也さんなんかは、戦時下の音楽、「海ゆかば」のような戦時下の国民歌謡といわれるようなものの研究をしてますね。吉川弘文館から『「国民歌」を唱和した時代 昭和の大衆歌謡』*17を出してます。戸ノ下さんには、戦時下の音楽会を再現して、「海ゆかば」を演奏したりということをされて同時代のひとの感性みたいなものを自分の皮膚感覚で感じとってみるところから始めるというような問題意識があるんですね。彼は1963年生まれですけど、彼なんかの世代になると、僕らより「ぶっとんでる」ところがありますね(笑)。「原爆の図」で有名な丸木美術館で「海ゆかば」をやったりしているんですね。当然だけど反発も出てきて、反戦を柱にしている丸木美術館でなんで「海ゆかば」を演奏するんだという反発が出てきたようですが、ともかく当時の時代の雰囲気みたいなものを追体験するという意味もあって、戦時下のコンサートを再現するということを熱心にやっているんですね。それは、戦争体験世代の研究者にはない感性ですね。
 あとは、これは議論が分かれるところなんですが、戦前と戦後の連続と断絶という問題があって、総力戦論というのが盛んになって、むしろ戦時下に社会の現代化が進んでいくという側面に注目する。つまり、8月15日で切れているんじゃなくて、大きな変化というのが戦時下から進んでいて、戦後につながってくるんだと考える考え方があるんですね。私はその考えには、一面賛成、一面反対で、断絶してる面も明らかにあり、連続だけで歴史を読みとくのはおかしいと思っています。ただ、連続面をも視野に入れなければいけないというのが共通の問題意識として出てきているのが現状でしょうね。ですから、この『兵士たちの戦後史』での問題意識も、戦争の時代のそのものの歴史像の再構成というだけでは不十分で、やはり戦前と戦後とを串刺しにして考える必要があるんじゃないかという問題意識があるんですね。その時代に兵士たちがどう戦ったのか、どういう意識だったのか、地域や民衆、銃後が彼らをどう支えたか、あるいは政府が彼らをどう煽動したか、という研究も必要なんですけれど、戦争の時代に、ひとりひとりの人間が、戦後、向き合ってきたのか、向き合ってこなかったのか、向き合ってきたとすればどういう向き合い方をして、結局どういう風にその時代を総括しようとしたのか、ということを含めて解明して、初めて完結するということですよね。そして、戦後の問題までやらないと、当事者意識の欠けた自分とは関係のない問題になってしまう。僕も戦争に行ったわけではないけれど、その意味では直接の当事者ではないけれど、戦後史も含めて考えれば、まったく関係がないとはいえないわけですよね、誰しも。そうすると、戦後史というものを、きちんと視野に入れれば、自分の問題としてどうその問題を受け止めるかという視座が獲得できるんじゃないかというのがあって、それで戦後史ということを取り上げたんですね。いままでこういった本はないと思うんですね、そういう意味でもかなりの冒険をした本だと思います。
 ただ、本当はもうちょっと時間が欲しかった、調べたかったというのはありますね。たとえば、士官学校や海軍の兵学校を出たエリート幕僚将校で、衆議院議員になったのがどれくらいいるかとか。つまり、戦前のエリート軍人が「国防族」などの族議員につながって行くのかという問題です。初期は辻政信とか有名な人がいるのですけど、全体としてみたらあんまり多くないような気がする。
インタビュアー
 ほとんど一般の兵士だったということですか?
吉田氏
 そうですね。あとは学徒兵。ざっと見た印象だと、学徒兵だと社会党共産党に入っているのが少なくないですね。そんなことを含めて調べてみようと思って、『議会制度百年史』を調べてみたんですね。だけど、ひとりひとりの経歴が書いてあるんですが、軍歴の取り方がばらばらで詳しい軍歴がわからなくて、全然役に立たなかった(笑)
インタビュアー
 若い世代への戦争体験の継承という問題については、どう思いますか?
吉田氏
 若い世代に戦争の時代のことをどうやって継承していくかは非常に難しい。この本でみてきたひとたちは体験と記憶に基づいて、やっぱりひどい戦争だったということは実感として持っているわけですよね。決して聖戦を戦ったわけじゃないというのは実感として持っていて、その実感は重みがあった。たとえば日本が軍事大国になることを抑制する力としてずっと長い間作用してきたと思うんです。侵略戦争でない、という考えを持つ人も含めてのことです。そういうことがあって、政治的立場とか戦争に対する評価は別にしても、やっぱり戦争の悲惨さというようなところを共通に体験してきて、そういう意味での戦争はもういやだという意識をかなり強固に持った集団が日本社会に存在したわけですけど、今その世代が消滅しようとしているんですね。今までのように共通の体験とか共通の記憶を前提とした、歴史研究とか平和教育とかは、自明のことですけれど、通用しない時代になってきているということなんでしょうね。
 今の十代をみたら、アメリカと戦争をしたことすら知らない人がいますからね。東京裁判史観の克服なんて、「新しい歴史教科書をつくる会」は言っていますが、世論調査でみても、言葉としては知っていても東京裁判の内容を知らないひとのほうが多い時代ですからね。愕然としますけど(笑)
インタビュアー
 そういった戦争を知らない若い世代にお勧めする本はありますか?
吉田氏
 兵士たちの証言をすごく丁寧に集めているという意味で言えば、『証言記録 兵士たちの戦争』*18がいいですね。実際の生身の兵隊の声とか感性とかを知ることができます。それから、今、インターネットでみられるNHK「戦争証言アーカイブス」(http://www.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/)もいいですね。兵士の生の証言だけではなく、「日本ニュース」という当時の戦意高揚のためのニュース映画も一本ずつ全部見られます。『戦争を生きた先輩たち』*19は、現役の中央大の学生が自分たちの先輩のところをまわって戦争体験を聞くという本です。彼らは全然戦争に関する知識がないんで、最初はかなりとんちんかんなことを聞いたと思うんだけど、何度かインタビューを重ねるうちに、自分の問題に置き換えて考え始めるんですよね。自分がその時代に学生として生きてたら、どうしただろうって、そう考えながら若い人たちがレポートを書いているので、これはとてもよかったですね。自分の問題に置き換えてとらえなおすという発想が前面に出てる本です。このあたりから入っていくのがいいんじゃないかと思いますね。あと、オーソドックスな本で言えば、吉見義明さん*20の『草の根のファシズム*21ですね。戦争を支えた兵士や銃後のひとたちの意識を日記等々から最初に分析した本です。
インタビュアー
 最後に、先生の今後のご関心・ご研究はいかがですか?
吉田氏
 今まで、戦場・戦闘そのものを研究の対象にしてきたのは、純軍事的にひとつひとつの戦闘を分析して、次の戦闘に備え生かしていくために、戦争の教訓、いわゆる戦訓を研究するというものばかりなんですね。基本的には、日本では、戦場・戦闘そのものを研究の対象にしてきたのは自衛隊を中心にした戦訓研究しかないんですよ。それとは違う形で、もっと色々な角度から戦闘・戦場研究をやりたいなという思いがありますね。そこで気になるのは、軍医などの問題ですね。軍医とか衛生兵が書いたものの中には、生々しいことが書かれていることが多々あります。それと、その軍医の問題と自分の中でうまくまだつながってないのですが、傷痍軍人の問題、傷病兵の問題もやってみたいですね。それから、最近注目されている戦争神経症、兵士の心の傷という問題にも関心があります。これが史料がなかなかないんですね。帝国陸海軍にはそういうやわな兵士はいない、という建前がありましたからね(笑)。また『兵士たちの戦後史』にも書きましたけど、実際の戦闘で死んだ兵士たちが、はたしてどれくらいいるのかは甚だ疑問なんですね。餓死、海没死、自殺だけでなく、玉砕の場合は、最後の万歳突撃に参加できない兵士は殺害してしまうんですね。そういうことを考えると、特に激しい戦闘があったところでは、純粋に戦闘で死んだ人というのは、そんなに大きな割合ではないんじゃないか、と思うんです。そういう問題をちょっと描けないかなと思っています*22
 ともかく戦場・戦闘の現実を、戦訓研究とは違う形で、歴史学的に再構成してみたいと思っています。


■暮らしの焦点『ジャパンライフ 被害を拡大させた「闇」の究明を』(山本正人
(内容紹介)
 赤旗などの記事紹介で代替。

https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/219964/2
日刊ゲンダイ『また“アベ友”か 首相側近とマルチ商法告発企業の蜜月関係』
 加藤勝信厚労相は、1億総活躍担当相時代にジャパンライフの宣伝用チラシに登場している。チラシには、〈(17年)1月13日【金】、安倍内閣の重要閣僚の加藤大臣と山口会長が会食し、ジャパンライフの取り組みを非常に高く評価していただきました!〉と記されている。会食時期は業務停止命令が下った直後だが、加藤厚労相は〈ジャパンライフのビジネスモデルは、1億総活躍社会を先取りしています!〉とコメントを寄せている。
 下村博文文科相が代表を務める政党支部は、ジャパンライフが行政指導を受けた2カ月後の14年12月25日、同社から10万円の寄付を受けている。
 加藤、下村両事務所に問い合わせたが、期限までに返答はなかった。
 さらに、ジャパンライフは政治家の名がズラッと並んだ「お中元リスト」を保有。この問題を国会で徹底追及してきた大門実紀史共産党議員の事務所担当者によると、リストには安倍首相をはじめ、麻生財務相や菅官房長官、茂木*23経済再生相ら“お歴々”の名が記されているというのだ。
 霞が関との距離も近い。ジャパンライフや関連団体には、消費者庁元課長補佐や元特許庁長官など複数の官僚が顧問として再就職。天下り天国になっている。
 政権との“蜜月”関係を背景に、長年、問題ビジネスを続けてきたのなら、モリ・カケ疑惑と構図は同じだ。

https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/220446
日刊ゲンダイマルチ商法ジャパンライフ」の陰にまた昭恵夫人が登場』
 日刊ゲンダイは、同社が長年、問題ビジネスを継続できた背景に時の政権との“癒着”があった可能性を報じてきたが、安倍首相との蜜月がうかがえる写真がネット上に出回っている。
 写っているのは、モリカケ疑惑でも問題視された昭恵夫人だ。笑顔を浮かべる夫人の隣にいるのは、10月27日に消費者庁から3カ月間の一部業務停止命令を受けた「48ホールディングス(HD)」の淡路明人会長である。48HDは「公開前に購入すれば、1カ月半後には10倍に値上がりする」などとウソを言って仮想通貨を販売。マルチ商法まがいで3万5000人の会員をかき集め、この2年で約220億円を売り上げたという。
 ジャパンライフと48HDには接点がある。48HDの渡部道也社長はかつてジャパンライフの取締役を務めていたのだ。
(中略)
 淡路会長については、毎年4月に首相が主催する「桜を見る会」で、安倍首相や菅官房長官と一緒にいる写真までネットに出回っている。
 ジャパンライフは安倍政権との蜜月関係を背景に問題ビジネスを続けてきたのか。実は、安倍官邸も事が大きくなるのを恐れているという。
消費者庁は17年3月に行政処分を下した後、新たな追加措置を検討していた。しかし、官邸からストップがかかったといいます。当時はモリカケ疑惑が国会で紛糾中。官邸は、ジャパンライフ問題を突くと、新たな疑惑が噴出しかねないと判断したとみられています」(永田町関係者)

https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/221987
日刊ゲンダイ加藤大臣に続き 二階幹事長もジャパンライフ宣伝チラシに』
 消費者庁から4回も行政処分を受けたジャパンライフが問題ビジネスを継続できた背景に、同社の山口隆祥会長と大物政治家との“癒着”が影響していた可能性を指摘したが、自民党のナンバー2、二階俊博幹事長まで宣伝チラシに登場していたことが分かった。
 日刊ゲンダイが入手したチラシには〈自民党二階俊博幹事長を囲む懇親会を山口会長主催で開催しました!〉〈毎月、帝国ホテルにて情報交換会を行っています〉と記され、二階氏の顔写真が掲載されている。日付は昨年の「1月27日(金)」と記載がある。問題は、ジャパンライフは懇親会開催の約1カ月前、消費者庁から1回目の行政処分を受けたばかりということだ。
(中略)
 一方、二階事務所は「ご指摘の会社の主催であるとの認識は全くありません。また、毎月参加しているというような事実も全くございません」と答えた。しかし、山口会長は1975年にも、手掛けていたマルチ商法が問題視され、国会で参考人招致されたほどの“有名人”。「知らなかった」というのはチト脇が甘すぎる。まだまだ“広告塔”になった議員が他にもいるかもしれない。

https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/222266
日刊ゲンダイ『被害者続出「ジャパンライフ」 安倍首相も“広告塔”だった』
 日刊ゲンダイは、これまで安倍政権の中枢がジャパンライフの宣伝チラシに登場していた問題を報じてきたが、ナント安倍首相まで同社の“広告塔”になっていたことが分かった。
安倍晋三内閣総理大臣から山口(隆祥)会長に「桜を見る会」のご招待状が届きました〉
 本紙が入手したジャパンライフの宣伝チラシにはそう記され、同社の山口会長の宛名が書かれた招待状の写真が掲載されている。招待状には〈平成二十七年三月〉とあり〈「桜を見る会」を催すことといたしました 御夫婦おそろいにて御来観下さいますよう御案内申し上げます〉との記載がある。〈受付票〉とともに、安倍首相の顔写真まで掲載されている。
 本紙は、ジャパンライフ消費者庁から1回目の行政処分を受けた1カ月後の17年1月13日、加藤勝信1億総活躍担当相(当時、現厚労相)が山口会長と会食し、宣伝チラシ上で同社を持ち上げるコメントを寄せたことと、自民党ナンバー2の二階俊博幹事長までも宣伝チラシに登場していたことを問題視。ジャパンライフが問題ビジネスを継続してきた背景に、大物政治家の威光が影響していた可能性を報じてきた。
 30日の衆院予算委では、希望の党大西健介議員が同問題を徹底追及。「(安倍政権中枢と接点があるような)立派な人がやっているから『大丈夫だろう』と、おじいちゃん、おばあちゃんがコロッとだまされても不思議ではないのではないか」と、首相本人を問いただした。安倍首相は「桜を見る会には、毎年1万3000人くらいの方々に私の名前で招待状を出しているが、私自身が存じ上げる方ばかりではない」と逃げの一手だった。
(中略)
 安倍自民はジャパンライフ内部の人物に勝手に利用されていたのかもしれないが、脇が甘すぎる。山口会長は1975年に、当時展開していたマルチ商法が問題視され、国会に参考人招致されたほどの“有名人”だ。
 麻生太郎*24財務相も昨年4月の参院財政委で「この人は結構有名人」と発言していた。「知らなかった」は、とても通用しないだろう。

https://mainichi.jp/articles/20180131/k00/00m/010/148000c
毎日新聞衆院予算委:線香・スパコンジャパンライフ、野党追及』
 ジャパンライフ問題に関し、消費者庁の川口康裕次長は30日の予算委で、同社顧問として天下りした同庁の元課長補佐が、2014年4月から15年2月ごろまで同社の行政処分を担当していたと明らかにした。ただ、江崎鉄磨消費者行政担当相は、消費者庁が同社に対して行った異例とも言える4回の行政処分について「元職員の再就職が影響を与えた事実はない」などと釈明に追われた。
 希望の大西健介氏は「(ジャパンライフに)もっと迅速な処分をしていればここまで被害は拡大しなかった。天下り消費者庁の初動を遅らせたのではないか」と批判。同社幹部が加藤勝信*25厚生労働相と会合を持ったり、首相主催の「桜を見る会」に招待されたなどと宣伝していたことも指摘した。加藤氏は「私の知らない形で(同社の資料に)掲載され、抗議した」と反論した。

https://mainichi.jp/articles/20180212/ddm/041/020/148000c
毎日新聞ジャパンライフ、顧問に官僚OBら、報酬も 元社員「客は信用し出資」』
 磁気治療器の預託商法を展開し、2000億円超の負債を抱えて事実上倒産したジャパンライフ(東京)が、顧問として永谷安賢元内閣府官房長や中嶋誠元特許庁長官らを招請し、報酬を支払っていたことが11日、明らかになった。
 元社員は「高額な出資をためらう高齢者が、顧問のリストを見て信用したケースがあった」と証言。内閣府幹部からは「宣伝に使われたはず。官僚OBが広告塔となった責任は重い」と批判が出ている。

 特許庁長官(いわゆるキャリアのポスト)などを務めたエリート官僚が良くジャパンライフなんぞとつきあえるもんです。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2017-04-06/2017040615_01_1.html
赤旗マルチ商法被害拡大、官僚OB関与か 処分遅れ、ジャパンライフ問題 大門氏が追及』
 大門氏は、ジャパンライフには「政治家の関与もある」として、下村博文文科相に政治献金(下村氏が支部長の自由民主党東京都第11選挙区支部への10万円、2014年)があることを指摘。独自に入手した同社の「お中元発送先リスト」には多数の政治家の名前があることをあげ「こういうたくさんの関係があるから、ジャパンライフは『消費者庁なにするものぞ』という態度をとっている。対処すべきだ」と求めました。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2017-11-22/2017112201_04_1.html
赤旗『業務停止処分のジャパンライフ、今年4月 大門議員が国会で取り上げ、国に厳正な対応求める』
 大門氏は、同社が1回目の業務停止処分を受けた直後の今年1月に加藤勝信働き方改革担当相が山口会長と会食した問題、同社が下村博文文科相に政治献金していた問題など、政治家の関与についても追及してきました。

https://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2018-02-12/2018021214_01_1.html
赤旗『「ジャパンライフ」商法、被害広げた消費者庁対応の遅れ、大門参院議員に聞く』
 山口会長は(ボーガス注:下村元文科相、加藤厚労相といった)著名な政治家や(ボーガス注:ジャパンライフ顧問を務めた永谷安賢元内閣府官房長や中嶋誠元特許庁長官ら)官僚との関係を宣伝に使って、お年寄りを安心させてきました。直接、悪徳商法に加担していないとしても彼らの道義的責任は問われるべきでしょう。

http://lite-ra.com/2017/12/post-3691.html
■リテラ『倒産した悪徳マルチ企業・ジャパンライフと安倍首相側近・現役閣僚の黒い関係! 行政処分妨害疑惑も』
 それにしても、こんな悪徳ビジネス企業がどうしてここまで放置され、大量の顧客を集めてこられたのか。
 実はその背後には、内閣府経産省の官僚や安倍首相に近い政治家の存在があったといわれている。
 実際、下村博文文科相が同社から政治献金を受けていたことが判明しているし、安倍首相の側近中の側近で、現役の厚労相働き方改革担当相である加藤勝信氏も同社のダーティなビジネスに全面協力していた。
 今回、倒産の引き金となった消費者庁の処分だが、実は消費者庁が立入検査をしたのは2015年9月。1年以上処分が遅れた背景にも、加藤大臣の関与が囁かれている。
 本サイトはジャパンライフの問題が国会で追及された直後の今年4月、加藤氏と同社の関係、そして安倍首相の任命責任を追及する記事を掲載している、
(中略)
【4月記事の再掲】
 ジャパンライフ社については、悪質商法を行っている疑いがあるのに処分が遅れたという見方があり、今月5日の国会で共産党大門実紀史参院議員が追及。今回の業務停止命令が、15年9月の立ち入り検査から1年3カ月も遅れた背景に、消費者庁の課長補佐が同社に天下りしていたほか、複数の高級官僚OBが同社の「顧問」などに就任していることが働いたのではないかと指摘。さらに、下村博文文科相への政治献金もあったことを暴露した(しんぶん赤旗6日付)。
 大門議員は11日の参院財政金融委員会でも引き続きこの問題を追及。そのなかで、現役大臣で安倍首相の側近議員でもある加藤勝信・一億総活躍担当相の名前が飛び出したのである。
 大門議員によれば、加藤大臣は今年の1月13日にジャパンライフの山口会長と会食をしていたという。さらに山口会長は、内部向けの宣伝チラシで、加藤大臣のことを「ジャパンライフの取り組みを非常に高く評価していただきました」と紹介していたという。
(中略)
 ようするに、加藤大臣はジャパンライフの“広告塔”であり、メンバーを安心させる“印籠”になっていたというのだ。
(中略)
 さらに、問題なのは、これが加藤大臣だけの話ではないということだ。実際、大門議員も国会で指摘していたとおり、ジャパンライフ下村博文文科相をはじめとする安倍首相に近い有力政治家に食いこんでいた形跡がある。さらに政治家工作だけでなく、(ボーガス注:経産省出身の「安倍側近」今井尚哉*26首相秘書官を通じて)安倍首相と一体化している官庁である経産省を中心に官庁工作や人脈形成を盛んに行っていた。
(中略)
 実際、内閣審議官で内閣府国民生活局長などを歴任した人物*27が、ジャパンライフの「顧問」や、関連するNPO法人*28の理事長を務めていることも明らかになっている。今後、政権与党の中枢を巻き込んだ、重大なスキャンダルに発展する可能性も決して低くはないのだ。

http://lite-ra.com/2018/02/post-3811.html
■リテラ『ジャパンライフの広告塔に“安倍のメシ友”田崎史郎*29NHK島田敏*30、各社政治部幹部がズラリ…新聞テレビは事実を隠蔽』
 ジャパンライフに安倍首相の側近政治家が関わってきたことは本サイトでも紹介したとおりだ。なかでも加藤勝信厚労相は内部向けの宣伝チラシに登場する“広告塔”。チラシによれば、山口会長は加藤大臣と昨年1月13日に会食したとして「ジャパンライフの取り組みを非常に高く評価していただきました」と紹介されている。また、自民党二階俊博*31幹事長も宣伝チラシに登場していたことも判明している。
 今月12日には、ジャパンライフが元内閣府官房長や元特許庁長官ら複数の官僚OBを同社の顧問として招請し、報酬を支払っていたことが大手紙でも報じられた。加藤大臣ら政治家や元官僚が“協力”していたことで同社の「信頼」を演出しただけでなく、行政処分が遅れ、被害を拡大させた可能性もある。当事者たちは「利用されただけ」と嘯くが、その責任は極めて重いと言わざるをえない。
 だが、そんなか、テレビや大手紙が一切沈黙を決め込んでいるもうひとつの“広告塔”疑惑がある。それは、通信社、全国紙、そしてNHKなど大マスコミの編集委員・解説委員クラスの幹部が、ジャパンライフの宣伝資料に実名・顔写真入りで登場していたという事実だ。
 スクープしたのは、消費者問題の専門紙・日本消費経済新聞。独自の取材でジャパンライフ問題に切り込み続けてきた同紙だが、2月5日号の一面で「ジャパンライフ元社員から宣伝用資料入手 首相桜を見る会、二階幹事長も広告塔」「著名ジャーナリストや大手マスコミ解説委員らも」との見出しを立てて報じた。
 記事によれば、同紙記者はジャパンライフ元社員から、顧客の説明会で使用する資料を入手。顧客向けの説明会でスライドとして使われたり、社員が高齢女性らを勧誘する際に見せるなどして用いられていたという。紙面では宣伝資料の画像も掲載。1枚は「安倍晋三内閣総理大臣から山口会長に「桜を見る会」の御招待状*32が届きました」として、ハガキを見せつけるもの。そしてもう一枚が、二階幹事長とともにマスコミ関係者の“広告塔”疑惑を示す。そこにはやはり、安倍首相と会食を繰り返す“メシ友”たちの姿があった。
 問題の資料によれば、昨年1月27日、二階幹事長を囲む懇談会を山口会長の主催で開催したという。〈トップ政治家やマスコミトップの方々が参加しました! このメンバーで毎月、帝国ホテルにて情報交換会を行なっています〉と打たれ、その下に「参加者メンバー」が肩書きと顔写真入りでリストアップされている。
 そのなかには、TBS『ひるおび!』などテレビでおなじみ官邸御用ジャーナリストの筆頭、“田崎スシロー”こと田崎史郎時事通信社特別解説委員や、安倍首相と(ボーガス注:有名寿司店「しまだ鮨」で)寿司を食う仲から“しまだ鮨”との異名を持つ島田敏男・NHK解説副委員長、また芹川洋一・日本経済新聞社論説主幹の名前があげられている。田崎氏、島田氏が安倍首相の会食メンバーであることは言うまでもないが、日経の芹川氏も第二次安倍政権発足以降に少なくとも6回も安倍首相と会食を行なってきた。
 ただ、このジャパンライフの広告塔になっていたのは、安倍首相の“メシ友”だけではない。元読売新聞社東京本社編集局長の浅海保氏*33元朝日新聞政治部長の橘優氏、毎日新聞社岸井成格・特別編集委員と倉重篤郎・専門編集委員、『報道ステーション』(テレビ朝日)コメンテーターでもある後藤謙次・元共同通信社編集局長らまでが名前を連ねていた。ようするに、政治部トップ経験者が勢ぞろいしていたのだ。
 こうした名だたるメンツが二階幹事長を囲み、その懇談会がジャパンライフの山口会長の主催だとアピールすることで、マスコミ関係にも強力な人脈があるとの印象を顧客に与えたのは想像にかたくない。
 それにしても、いったいなぜこういう面子がよりにもよって、悪徳マルチ商法の会社の勉強会に参加していたのか。日本消費者経済新聞が参加者に取材をしたところ、〈大手マスコミをすでに退社している参加者〉の中から“元朝政治部長橘氏に誘われた”“橘氏に訊いてほしい”との回答もあったという。実際、これらのメンバーの多くは、朝日の橘元政治部長が誘った可能性が高い。
 橘氏朝日新聞社を退社後、2014年ごろからジャパンライフの顧問を務めていた(昨年辞任)。これについては、2月11日に共同通信が顧問に官僚OBがいたこととともに配信し、翌日付の毎日新聞産経新聞東京新聞紙面にも掲載された(朝日と読売、日経は報じなかった)。
 しかし、ジャパンライフ問題に関するマスコミ関係者の関与疑惑報道は19日現在それ止まりで、橘氏以外に田崎氏や島田氏ら解説委員クラスが広告塔に使われていた事実は一言も触れる様子がなかった。
これは明らかに意図的な隠蔽だろう。というのも、この一件は日本消費経済新聞がスクープしただけでなく、国会でも質問されているからだ。
 1月30日の衆院予算委員会希望の党大西健介議員が質問している。大西議員はジャパンライフ問題で加藤厚労相や二階幹事長を追及するなかで、資料を示しながら「だれもが知っているようなマスコミの解説委員クラスの方々の顔写真と名前も載っています」と指摘。また「ジャパンライフは他にも顧問とかに有名な方を招き入れることで顧客の信頼を得ようとしてるんです。官僚のOBとかですねマスコミ関係者とか」とも発言している。
 ところが、本サイトが調べた限り、大西氏が指摘した“マスコミの解説委員クラスが宣伝に使われている”という事実は、大西氏の発言があった1月30日の衆院予算委から現在に至るまで、新聞もテレビもほぼ完全に無視しているのである。
 だが、マスコミ幹部クラスやOBがジャパンライフの“広告塔”になっていた事実を軽く見ることはできない。関係者が同社に関与していたことでジャパンライフ問題の報じ方になんらかの影響が出た可能性があるからだ。
 日本消費者経済新聞の取材に対し各社は、「報道への影響はまったくない」(時事通信社社長室)、「適切な報道に努めております」(毎日新聞社社長室広報担当)、「当社の報道に影響を与えたことは一切ありません」(日本経済新聞社広報室)などと口を揃えている。しかし、本当に報道への影響がないと言えるのか。
 そもそもジャパンライフ問題では、事実上倒産した昨年末以降、ようやく各紙やテレビもそれなりに報道するようになったが、それまで、消費者庁より2016年末から計4回の業務停止命令を受けた経緯や、その事業の問題点を深く追及する報道はほとんどなかったと言っていい。
(中略)
 昨年4月の時点で、国会でも処分が遅れた背景として官僚OBの天下り加藤大臣の“広告塔”問題が指摘されたが、これを取り上げたのは「しんぶん赤旗」や本サイトなどごく一部だけで、大手紙やテレビは当然のようにスルー状態であった。
 そう考えてみてもやはり、マスコミ各社の「報道に影響は全くない」との言い分は信じがたいのだ。また、仮に懇談会が山口会長の主催だと知らなかったとしても、それは被害拡大に加担したことへのエクスキューズにすらならないだろう。
 裏を返せば、マスコミの幹部クラスや政治記者たちは、有力政治家とのなかよし懇談会が常態化するなかで、その関係を利用される危険性に対する警戒心が完全に薄れている。そのことが、このジャパンライフの広告塔問題で露呈したとも言えるのではないか。

http://web.nc-news.com/index.php?key=joeani92n-540
■日本消費経済新聞『ジャパンライフ元社員から宣伝用資料入手、首相桜を見る会、二階幹事長も広告塔』(相川優子)
 消費者庁から4度の業務停止命令を受け、事実上倒産したジャパンライフ(東京都千代田区山口隆祥会長)元社員らから1月25日、顧客の説明会で使用する資料を入手した。安倍晋三首相から山口会長に届いた「桜を見る会」の招待状や、加藤勝信一億総活躍担当相(当時、現厚労相)と山口会長との会食、山口会長主催の二階俊博幹事長を囲む懇談会などが含まれていた。懇談会の参加者メンバーには、著名なジャーナリストや大手マスメディアの解説委員、編集委員なども掲載されている。これらの資料は毎月3回顧客を集めて開催される説明会で映し出されるスライドとして使用されるほか、社員が自由に印刷してファイルに入れ、高齢女性ら顧客を勧誘する際に提示し、同社を信用させるために用いられていた。大物政治家だけでなく、大手マスメディアの幹部や元幹部らも広告塔として利用されていた。
(中略)
 1月30日、衆議院予算委員会希望の党大西健介氏はこの問題を追及し、安倍首相に答弁を求めている。ジャパンライフが1回目の業務停止命令を消費者庁から受けたのは2016年12月16日。加藤大臣との会食や二階幹事長との懇談会はその直後に行われている。大西氏は、「重要閣僚や自民党ナンバー2の人と会食をし、(ボーガス注:首相主催の)『桜を見る会』からも招待される立派な人がやっているから大丈夫だろうと、おじいちゃんやおばあちゃんはだまされても不思議はない」と、総理の見解を求めた。安倍首相は「『桜を見る会』は、約1万3000人に招待状を出しているが、存じ上げている人ばかりではない*34」(中略)と述べた。
 加藤大臣に対しては、大西氏は、加藤大臣との会食の資料が「返金撤回に使われた」ことへの見解を求めた。ジャパンライフの社内向け資料に、「加藤大臣と会食したというスライドを活用して、岡崎店で2件、1億5000万円の返金を撤回させることができた」とする記録があることを明らかにした。
 これに対し、加藤大臣は「意図的に(山口会長に)会ったことは全くない」と答弁。「私どもが承知していない形で資料が掲載されていることについて、ジャパンライフに抗議している」と述べた。
(中略)
 大西氏は、山口会長主催の二階俊博幹事長を囲む懇談会の資料には「二階幹事長の顔写真とともに、だれもが知っているマスコミの解説委員クラスの顔写真と名前も載っている」ことを明らかにした。「元社員によれば、毎月、帝国ホテルで開かれているミレニアムの会」であるとも説明している。
 二階幹事長は国会答弁には立たないため、二階幹事長に取材を求めると、「マスコミ関係者がゲストを招いて時事を語り合う会との説明だった。これまで、与野党を問わずゲストが招かれているということで、会に出席した。毎月出席している事実はない。ジャパンライフの主催であるとの認識は全くなかった」と、幹事長室から回答がきた。
 マスコミ各社に対しても、資料に掲載されている解説委員らが、ジャパンライフが定期的に開催している情報交換会のメンバーか、いつから何回くらい参加し、趣旨、内容はどのようなものであったか、報道への影響があったか、について取材を申し入れた。
 これに対し、時事通信社社長室は「雇用関係は全くなく個人で活動され、報道への影響は全くない」と回答。特別解説委員で報酬は出ていないと説明した。毎日新聞社社長室広報担当は、この会に参加していたことは認め、「2人とも、(元朝日新聞政治部長の)橘優さんから誘われて出席したことがあります。詳しくは橘さんにお聞き下さいと申しております。ジャパンライフ問題に関しては適切な報道に努めております」と文書で回答した。
 日本経済新聞社広報室は、「旧知の橘氏から声をかけられ、お問い合わせの会に参加しました。詳細は橘氏におたずねください。会へ参加したことなどが当社の報道に影響を与えたことは一切ありません」と文書で回答した。
 消費者庁の4回の業務停止命令について、3回目と4回目は大手マスコミのほとんどが報じているが、1回目(2016年12月16日)を報じたのは、本紙が確認できた限りでは、日経と共同のみ。2回目(2017年3月16日)は、日経、朝日、毎日、読売、産経、共同、時事。テレビで放映されたのは、FNN、TBSのみだった。
 NHKには、なぜ、2回目の行政処分を放送しなかったのかも聞いた。ジャパンライフの被害者は高齢女性がほとんどで、レンタルされている商品が大幅に不足していることがテレビでもっと放映されていれば、被害の拡大が少しは抑止できたと考えられる。
 これに対し、NHK広報局は「解説委員はジャーナリストなどが集まる懇談会に取材を目的に参加していたもので、取材の個別の過程については回答しておりません。ジャパンライフをめぐるNHKの報道は、報道機関として自主的な編集判断のもと行っており、計4回にわたる業務停止のニュースは、すべて放送やインターネットでお伝えしています」と文書で回答している。
 大手マスコミをすでに退社している参加者の中には、「懇意にしている橘さんから勉強会に来ないかと誘われ、参加した。政治家と意見を交換する貴重な場だった。山口会長が発言することはなく、ジャパンライフ主催であることは知らなかった。参加が可能なときに、10回ほど参加した。山口会長が食事代を負担していることを知り、品物を送った。行政処分を受けている会社だとは全く知らなかった。申し訳ない。政治の世界ではすべてを排除すると取材ができないため、身を投じて話を聞くが、トータルとしては借りを作らないようにしている」と話した人もいた。
 毎日や日経と同様に「橘氏に聞いてほしい」とのみ回答した人もいた。
 では、元朝日新聞政治部長の橘優氏とは何者なのか。ジャパンライフ2016年会社案内では、消費者庁取引対策課元課長補佐と並んで、顧問として掲載されている。朝日新聞社に対して、橘氏ジャパンライフの顧問を務めていることに関して問い合わせたが、朝日新聞社広報部は「7年ほど前に退職しており、顧問をされているかについて弊社として把握しておりません」と回答するのみだった。
 独自のルートで橘氏の連絡先を突き止め、橘氏に都内で面会し、直接、話を聞いた。
「(二階幹事長との懇談会が)こういう風に使われるとは予想もしていないことで、出席者にとっては心外だ。山口会長から今度は二階幹事長と懇談会をやるから、知り合いに声をかけてほしいと頼まれて声をかけた。この会は夕食の会で1回のみ、いわゆる朝食をとりながら懇談するミレニアムの会とは違う。お金は山口会長が出したのかもしれないが、出席者は山口会長がいわゆる主催者だという認識はなかったと思う」と釈明した。
 ミレニアムの会は、帝国ホテルで年に数回開催される政治家との懇談会で、山口会長が事務方を引き受けていると説明した。
 なぜ、ジャパンライフの顧問に就任したのかについては、「山口会長とは、30年近く前から政治家の会合などで顔見知りで、文化協会のスポンサーになるにあたって、仕事をしてくれと頼まれた。文化協会からは報酬が出ないので顧問という形でなにがしかの手当てをしたいという申し出を受けた。4年くらい前から昨年の7月まで代表理事をしていた」と経緯を話した。ジャパンライフが業務停止命令を受けていたことについても、「3回目の行政処分(11月17日)をNHKの報道で知って、びっくりした」と語った。
 橘氏によると、今回の二階幹事長を囲む懇談会はミレニアムの会とは別ということだが、二階幹事長室の回答では、ゲストが与野党を問わず招かれる会ということで受けたと説明しており、継続している懇談会との認識だ。ジャパンライフ元社員は、「マスコミ関係者との情報交換会は継続的に行われ、スライドが他の大物政治家の場合もあったが、常連で出ているマスコミ幹部もいた」と、何度も同様の別バージョンのスライドが作られていたと話す。ミレニアムの会かどうかは別として、山口会長が食事代を負担して政治家を招く、ほぼ同様のメンバーによる情報交換会が継続的に行われていたようだ。
 橘氏は、ミレニアムの会の参加メンバーで山口会長に何回かお返しの会食をしたこともあると説明する。お金を出してもらっていたことは認識していながら、「主催とは思わなかった」という感覚は、ある種タニマチ的でもある。大物政治家と変わらず、脇が甘い。
 高齢女性が老後の資産のほとんどをつぎ込む深刻な消費者被害が出ている。社員の中にも、だまされて勧誘してしまい、自ら多額の出資した人もいる。山口会長が政治家との関係が深く、宣伝用スライドで著名なジャーナリストが出てくることで信用してしまった人も少なくない。ジャパンライフは、4度の業務停止命令を受けた後も、顧客に「的外れな消費者庁の業務停止命令、思い込みの報道」などと説明し、いまだに「倒産はしていない」と主張している。これだけ多額の資産をつぎ込まされても、マインドコントロールから脱せない高齢女性が多数いる。
 業務停止命令を受けた事業者から、食事代や会場代を出してもらって継続的に情報交換会に参加していたとしたら、「主催者とは知らなかった」ではすまされないのではないだろうか。橘氏に誘われたとしても、自らが判断して出席したはずだ。参加していたジャーナリストやマスメディアの解説委員らは説明責任があるのではないか。

*1:著書『天皇の軍隊と南京事件』(1985年、青木書店)、『昭和天皇終戦史』(1992年、岩波新書)、『現代歴史学と戦争責任』(1997年、青木書店)、『日本の軍隊:兵士たちの近代史』(2002年、岩波新書)、『日本人の戦争観:戦後史のなかの変容』(2005年、岩波現代文庫)、『アジア・太平洋戦争』(2007年、岩波新書)、『兵士たちの戦後史』(2011年、岩波書店)、『現代歴史学軍事史研究』(2012年、校倉書房)、『日本軍兵士:アジア・太平洋戦争の現実』(2017年、中公新書

*2:著書『南京大虐殺』(1988年、岩波ブックレット)、『南京の日本軍:南京大虐殺とその背景』(1997年、大月書店)、『中国戦線従軍記』(2002年、大月書店)、『昭和天皇十五年戦争』(2003年、青木書店)、『天皇の軍隊と日中戦争』(2006年、大月書店)など

*3:2001年、青木書店

*4:戸塚睦夫伊東四朗とともにてんぷくトリオ(1961〜1973年)を結成し活躍。また日本テレビ笑点」司会(1970年〜1982年の死去まで)、フジテレビ「夜のヒットスタジオ」司会(1974〜1976年)などを務めた。1982年、52歳で死去。

*5:小島三児原田健二と共にトリオ・ザ・スカイライン(1964〜1971年)を結成し活躍。

*6:著書『日本の軍歌』(2014年、幻冬舎新書)、『ふしぎな君が代』(2015年、幻冬舎新書)、『大本営発表:改竄・隠蔽・捏造の太平洋戦争』(2016年、幻冬舎新書)、『文部省の研究:「理想の日本人像」を求めた百五十年』(2017年、文春新書)、『空気の検閲:大日本帝国表現規制』(2018年、光文社新書)など

*7:1949年の第1回NHK紅白歌合戦に出演している。しかしヒロポン中毒のため、1953年(昭和28年)の「湯の香恋しや」を最後にレコーディングから遠ざかった。さらに、脳溢血のため、音程が狂うという歌手にとっての致命的なダメージと、愛妻・純子の肺結核の悪化が重なり、将来を悲観した楠木は、新大久保の自宅で、1956年(昭和31年)12月14日、物置小屋で首を吊って自殺。52歳没。故郷・飛騨高山で転地療養していた妻の純子も、後を追うように1959年(昭和34年)に38歳で死去している(ウィキペディア「楠木繁夫」参照)。

*8:NHK紅白歌合戦に5回出場(第2回(1952年、『三百六十五夜』)、第3回(1953年、『月が出た出た』)、第5回(1954年、『石狩エレジー』)、第7回(1956年、『恋に朽ちなん』)、第9回(1958年、『白虎隊』)

*9:1948年(昭和23年)歌手を引退。1980年(昭和55年)に東京新聞が掲載した樋口静雄の消息記事によると、樋口は1973年(昭和48年)1月24日に亡くなっており、歌手引退後の彼は、職を転々とし、東京都葛飾区の金属工業会社でサラリーマンをしていたことが判った。(ウィキペディア「樋口静雄」参照)

*10:米軍のこと

*11:著書『戦争責任』、『太平洋戦争』(2002年、岩波現代文庫)、『一歴史学者の歩み』(2003年、岩波現代文庫)、『日本道徳思想史』(2007年、岩波全書セレクション)など

*12:著書『ニューギニア高地人』、『戦場の村』、『アメリカ合州国』、『中国の旅』(1981年、朝日文庫)、『殺される側の論理』(1982年、朝日文庫)、『ルポルタージュの方法』(1983年、朝日文庫)、『アラビア遊牧民』、『殺す側の論理』、『事実とは何か』、『職業としてのジャーナリスト』(1984年、朝日文庫)、『憧憬のヒマラヤ』、『冒険と日本人』(1986年、朝日文庫)、『検証・カンボジア大虐殺』、『子供たちの復讐』(1989年、朝日文庫)、『NHK受信料拒否の論理』(1991年、朝日文庫)、『マゼランが来た』、『日本環境報告』(1992年、朝日文庫)、『新版・山を考える』、『先住民族アイヌの現在』 (1993年、朝日文庫)、『実戦・日本語の作文技術』(1994年、朝日文庫)、『滅びゆくジャーナリズム』(1996年、朝日文庫)、『きたぐにの動物たち』(1998年、朝日文庫)、『マスコミかジャーナリズムか』(1999年、朝日文庫)など

*13:後に1991年、朝日文庫

*14:2002年刊行

*15:2011年、岩波書店

*16:著書『明治維新』(2000年、岩波現代文庫)、『戦後の歴史学と歴史意識』(2001年、岩波モダンクラシックス)など

*17:2010年刊行

*18:2009年、NHK出版

*19:2010年、中央大学出版部

*20:著書『従軍慰安婦』(1995年、岩波新書)、『毒ガス戦と日本軍』(2004年、岩波書店)、『日本軍「慰安婦」制度とは何か』(2010年、岩波ブックレット)、『焼跡からのデモクラシー:草の根の占領期体験(上)(下)』(2014年、岩波現代全書)など

*21:1987年、東京大学出版会

*22:もちろんそうした思いを形にしたものが今回の『日本軍兵士』(2017年、中公新書)のわけです。

*23:小泉内閣沖縄・北方等担当相、福田内閣金融担当相、自民党政調会長(谷垣、第二次安倍総裁時代)、第二次安倍内閣経産相などを経て、現在、第四次安倍内閣経済財政担当相

*24:橋本内閣経済企画庁長官、森内閣経済財政担当相、小泉内閣総務相、第一次安倍内閣外相、自民党幹事長(福田総裁時代)などを経て首相。現在、第二〜四次安倍内閣副総理・財務相

*25:額賀派竹下派」所属でありながら、自民党総裁特別補佐(第二次安倍総裁時代)、第二次安倍内閣官房副長官内閣人事局長兼務)、第三次安倍内閣一億総活躍等担当相、第四次安倍内閣厚労相などを歴任する安倍の側近。清和会に所属した加藤六月代議士(中曽根内閣で農水相、故人)の義理の息子。

*26:資源エネルギー庁次長

*27:永谷安賢氏のこと

*28:NPO法人『活生(いきいき)ライフ』のこと

*29:時事通信社特別解説委員。2013年から2015年にかけて内閣総理大臣安倍晋三から、寿司店「しまだ鮨」、日本料理店「和田倉」、中国料理店「溜池山王聘珍樓」などで饗応を受けている。また露骨に安倍を擁護する発言が多いため、一部の批判派からは“田崎スシロー”(寿司郎)と揶揄されている。著書『安倍官邸の正体』(2014年、講談社現代新書)など。

*30:NHK副解説委員長。NHK日曜討論』司会。

*31:小渕、森内閣運輸相、小泉、福田、麻生内閣経産相自民党総務会長(第二次安倍総裁時代)などを経て幹事長

*32:「送るなよ!」ですね。「籠池と付き合って恥じない」安倍の異常性はやはり半端ではないようです。

*33:著書『変節と愛国:外交官・牛場信彦の生涯』(2017年、文春新書)

*34:いや安倍が「送れ」と言わずして何でジャパンライフに送られるのか?。「まーた官僚が勝手にやったことかよ!。お前いい加減にしろよ!」ですね。いずれにせよ「ジャパンライフに送付された経緯を調査したい」くらい安倍もいったらどうなのか。