新刊紹介:「歴史評論」11月号(追記・修正あり)

・詳しくは歴史科学協議会のホームページ(http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/)をご覧ください。小生がなんとか紹介できるもののみ紹介していきます。
特集『民衆法廷運動の軌跡と現在:「ラッセル法廷」を中心に』
東京裁判の個人責任論(戸谷由麻*1
(内容紹介)
 東京裁判で「捕虜の虐待」などで禁固7年の判決を受けた重光葵*2が取り上げられています。
 重光を有罪認定した「多数派判事」は
1)「外相には軍捕虜の待遇に対する権限はない」との重光の抗弁に「閣議において、問題提起し、軍に善処を要求することができたにもかかわらず何もしなかったこと」は不作為犯として犯罪に該当する
2)「そもそも捕虜への虐待をしらなかった」とする重光の抗弁を「虚偽」と認定し「自らの行為が犯罪に該当するかもしれないとの自覚」を示しており、かつ「虚偽発言へのペナルティとして厳罰に価する」
と認定しました。
 なお、話が脱線しますが、東京裁判において、南京事件の責任を問われた松井石根*3(事件当時、中支那方面軍司令官)が「そもそも南京事件について認識していなかった」とモロバレの嘘をついたことも

「自らの行為が犯罪に該当するかもしれないとの自覚」を示しており、かつ「虚偽発言へのペナルティとして厳罰に価する」と認定された

と考えていいのではないか。
 なお、筆者はレーリンクが「木戸幸一*4、重光、東郷茂徳*5広田弘毅*6」といった「非軍人(文官)」について軒並み無罪認定*7していることに触れた上で、それを批判するとともに「レーリンクが今後、産経などのウヨによって、パル(全員無罪を主張)にかわる東京裁判否定論の材料に使用される恐れがあること*8」に警戒を促しています。

【参考:産経などのレーリンク利用について】
産経
東京裁判「文官無罪」の葛藤 オランダ・レーリンク判事の日記、詳細初めて明らかに
https://www.sankei.com/world/news/180815/wor1808150001-n1.html
■【阿比留瑠比*9の極言御免】歴史の見方にももっと多様性を
https://www.sankei.com/premium/news/180817/prm1808170009-n1.html
■【緯度経度】東京裁判、オランダのレーリンク判事の思い 三井美奈*10
https://www.sankei.com/world/news/180904/wor1809040003-n1.html
月刊正論2018年10月号
■絞首刑は宣告できない… 東京裁判判決に反対した判事レーリンクの日記・書簡(三井美奈)
http://seiron-sankei.com/11067

【追記:2018年12/8】
 「偶然気づいた」のですが戸谷氏が新刊を出したようですね。

■デイヴィッド・コーエン、戸谷由麻『東京裁判「神話」の解体』(2018年、ちくま新書)
■アマゾンの内容紹介
 東京裁判は「勝者の裁き」であり、インド代表パル判事とオランダ代表レーリンク判事の反対意見は、その欺瞞を暴き出すものだとの論が日本の国内論議*11で長くみられた。だが、パルやレーリンク意見には重大な誤謬と恣意性があり、東京裁判の功績と問題点の歴史的・法理学的理解を大きく歪めている。東京裁判研究者の戸谷と国際法の大家コーエンが、従来見過ごされてきたウェブ裁判長による判決書草稿を読み解き、東京裁判の過程を再検証する。判決から七〇周年を迎えた今、知られざる真相を解明する。

 うーん、これは読みたいですね。歴史評論論文を更に発展させてひとまずのけりをつけたというところでしょうか?


ラッセル法廷から半世紀(中野聡*12
ラッセル法廷と国際反戦運動の胎動(藤本博*13
民衆法廷を継承する精神(前田朗*14
ニュルンベルク裁判とラッセル法廷(芝健介*15

【内容紹介】
 力不足で、戸谷論文以外はうまく内容が紹介できないので「民衆法廷」についてウィキペディアの記述など、ネット上の記述を紹介しておくことにします。

民衆法廷ウィキペディア参照)
 最初の民衆法廷は、ベトナムにおけるアメリカの戦争犯罪を裁くために開かれたラッセル法廷である。北爆が激化した1966年に哲学者バートランド・ラッセル*16の提唱で、哲学者サルトル*17を裁判長として開かれた。
湾岸戦争
 次に開かれたのはクラーク法廷で、湾岸戦争時にブッシュ大統領戦争犯罪を問うため、ラムゼイ・クラーク*18アメリカ司法長官(ジョンソン*19政権)の呼びかけによって開かれた。クラーク法廷は連続公聴会方式で行われ、その後の民衆法廷の形に大きな影響を与えたとされる。
■日本での取組
 日本で取り組まれた民衆法廷としては、「原爆法廷」、「アジア民衆法廷」が、初期のものであるという。

女性国際戦犯法廷ウィキペディア参照)
 日本の慰安婦問題についての責任を追及するために2000年に実施された民衆法廷
 2000年12月12日、「天皇裕仁及び日本国政府を、強姦及び性奴隷制度について、人道に対する罪で有罪」とした。

アフガニスタン国際戦犯民衆法廷ウィキペディア参照)
 アメリカのアフガニスタン侵攻に抗議する民間の反戦運動
 ブッシュjr米国大統領を被告人として、2003年7月から「公判」が始まり、2003年12月14日には「判決」が、2004年3月には「勧告」が出された。
■判決
被告人ブッシュjr*20大統領は、
・侵略の罪について有罪。
戦争犯罪については、民間人に対する攻撃について有罪。非軍事施設への攻撃について有罪。
・捕虜・被拘禁者の取り扱いについては、キューバにあるグァンタナモ基地における捕虜虐待については有罪。コンテナによる捕虜の輸送等、捕虜の取り扱いについては、ブッシュ大統領の関与につき十分な立証がなされていないので無罪。
・人道に対する罪については、大量の難民が発生し多数の死者が出ている状態で民間のインフラを攻撃し、さらなる難民発生を引き起こしたことについて有罪。
劣化ウラン弾使用について有罪。

イラク国際戦犯民衆法廷ウィキペディア参照)
 ブッシュjr米国大統領、ブレア英国首相のイラク戦争に抗議する民間の反戦運動。2005年に判決が出された。
■判決

 被告人ブッシュjr大統領及びトニー・ブレア首相は、
・侵略の罪において有罪。
戦争犯罪において一部を無罪、一部を有罪。
・ジェノサイドに関わったことにおいて有罪。
 被告人ジョージ・W・ブッシュ大統領は、人道に対する罪においても有罪。
 被告人小泉純一郎*21首相は、
・侵略の罪において有罪。
戦争犯罪の幇助と支援の罪において有罪。
ファルージャ虐殺の幇助と支援の罪において一部を無罪、一部を有罪。
 被告人グロリア・M・アロヨ*22フィリピン大統領は、侵略の罪において有罪。

国際法を市民の手に(前田朗
http://www.mdsweb.jp/doc/i-low.html

http://www.mdsweb.jp/doc/839/0839_06m.html
国際法を市民の手に・第44回『ラッセル法廷(1)
 ヴェトナム戦争が激しく戦われていた1967年5月2日から10日、ストックホルム*23スウェーデン)の国民会館フォルケットフスで、ヴェトナムにおけるアメリカの戦争犯罪を裁く「国際戦争犯罪法廷」が開かれた。
 法廷を最初に提唱した哲学者バートランド・ラッセルの名前をとって「ラッセル法廷」と呼ばれる。
(中略)
 日本からは森川金寿*24のほか陸井三郎*25、福島要一が参加した。
(中略)
 第1回法廷では、侵略戦争と無差別爆撃の2点を中心に審議した。各国からの調査報告、専門家の証言、被害者証人、映像やスライドによる報告が相次いだ。5月9日にレリオ・バッソによる総括報告がなされ、10日に判決となった。
 10日正午に開廷され、歴史的な民衆法廷判決をサルトルが朗読した。
1・アメリカ合州国政府は、国際法に照らしてヴェトナムに対する侵略行為を犯したことにつき有罪。
2・純然たる民間目標(学校、ダム、病院、衛生施設)に対する爆撃につき有罪。住居、村落、都市、学校、寺院などへの組織的大規模爆撃について有罪。
3・オーストラリア、ニュージーランド、韓国政府は、共犯として有罪。
 67年11月20日から12月1日、今度はコペンハーゲン*26デンマーク)郊外のロスキルドで開催された。兵器に違法性、捕虜民間人の虐待、ジェノサイドに焦点が当てられた。3人の元米兵の告発証言は大きな話題となった。
 12月1日の判決は、デディエやサルトルが分担して朗読した。
1・タイ、フィリピン、日本政府は、共犯として有罪。
2・アメリカ政府は、ラオスに対する侵略行為につき有罪。
3・アメリカ政府は、国際法違反の兵器使用につき有罪。
4・アメリカ政府は捕虜虐待につき有罪。民間人に対する非人道的取り扱いにつき有罪。
5・アメリカ政府はジェノサイドにつき有罪。
(中略)
 日本でも1967年8月28日から30日にかけて東京の千代田公会堂で「東京法廷」が開催されている。2次にわたる現地調査報告、在日米軍基地の実態報告など多数の証言を踏まえて、アメリカ政府の多数の犯罪を認定し、日本政府を共犯として有罪とした。

http://www.mdsweb.jp/doc/865/0865_06m.html
国際法を市民の手に・第57回『女性世界法廷(1)』
 1993年から現在に至るまで「女性世界法廷」という運動が展開されてきた。
(中略)
 これまでに開かれた女性世界法廷は次の通りである。
・女性に対する暴力世界法廷(1993年、ラホール、パキスタン
・女性売買と女性に対する戦争犯罪法廷(1994年、東京)
・ダリット女性に対する犯罪女性法廷(1994年、バンガロール、インド)
・再生産テクノロジーに関する女性法廷(1994年、カイロ*27、エジプト)
・開発暴力に関する女性に対する犯罪女性法廷(1995年、ヴィモチャナ、インド)
・人身売買・ツーリズム女性法廷(1995年、カトマンド*28、ネパール)
・アラブ世界女性法廷(1995年、ベイルート*29レバノン
・暴力反対女性法廷(1995年、北京*30、中国)
・アフリカ女性法廷(1999年、ナイロビ*31ケニア
先住民族女性・土地権女性太平洋法廷(1999年、アオテアロアニュージーランド
・経済封鎖女性国際法廷(1999年、ハバナ*32キューバ
・戦争反対平和を求める女性法廷(2001年、ケープタウン南アフリカ
・人種主義反対女性法廷(2001年、ダーバン、南アフリカ
・難民・先住民族女性法廷(2001年、シドニー*33、オーストラリア)
・人身売買暴力・HIV南アジア女性法廷(2003年、ダッカ*34バングラデシュ
アメリカの戦争犯罪に関する女性法廷(2004年、ムンバイ、インド)
 女性世界法廷は、時によりそのテーマを変えてきたが、戦争・人身売買・先住民などの関連での女性に対する差別や、人種差別と複合した女性差別を取り上げている。現代世界で喫緊の課題のひとつであるアジア、アラブ、アフリカの女性の現状を訴え、問題解決を図るための運動である。

http://www.mdsweb.jp/doc/895/0895_06m.html
国際法を市民の手に・第70回『コリア戦犯法廷(1)』
 2001年6月23日、ニューヨークでコリア戦犯法廷が開催された。2003年7月24日・25日、ピョンヤン*35で再びコリア戦犯法廷が開催された。2つのコリア戦犯法廷を順次紹介していこう。
 朝鮮戦争におけるアメリカ軍(建前上は国連軍)による戦争犯罪の一部は当時すでに調査・報告が行われていた。その代表が国際民主法律家協会や女性国際民主連盟の調査報告である。
 ところが、これらの戦争犯罪は、東西冷戦の対立構造の中で語られざる悲劇として半世紀放置されることになった。韓国における民間人被害者も沈黙に追い込まれていった。日本ではアメリカ側の大量宣伝に乗せられた議論が横行していた。国際的にも冷戦のもとでイオデオロギー論争とならざるを得ず、事実解明すらほとんど行われなかった。ニュルンベルク裁判・東京裁判から数年しか経ていないのに、国際社会は<ニュルンベルクの遺産>を早くも忘れようとしていた。
(中略)
 ところが、90年代に韓国における調査・証言・告発が始まった。韓国では、日本軍性奴隷制問題など日本の戦争犯罪の解明が進むにつれて、朝鮮戦争におけるアメリカの戦争犯罪や、軍事独裁政権下における重大人権侵害にも光が当てられるようになり、さらにはヴェトナム戦争における韓国軍による戦争犯罪も取り上げられ、現代韓国史総体の見直しが進められた。
 こうした中、老斤里事件などのアメリカ軍による民間人虐殺事件が発掘され、調査が進められ、政治問題に浮上した。ジャーナリストによる調査が進み、沈黙していた関係者が証言を始めた。かくして隠蔽されていた歴史の一頁が明らかになり、ついにはクリントン*36米大統領も事実を認めざるを得なくなった。
(中略)
 コリア戦犯法廷国際検事団は、ラムゼイ・クラーク(IAC、元アメリカ司法長官)を主席検事として、19件の戦争犯罪容疑でアメリカ政府を起訴した。
 法廷は、多数の被害側の証言や歴史研究者の証言などを聴取した。その後、ドゥプイ(元ハイチ駐在大使)を委員長とする陪審団(各国の法律家や平和運動家30人で構成)は、全員一致でアメリカ政府に有罪評決を下した。

https://www.jcp.or.jp/faq_box/001/210131_faq_jyosei_houtei.html
赤旗
<問い>
 昨年暮れに日本で従軍慰安婦の問題で女性国際戦犯法廷が開かれましたが、どういうものだったのですか。(茨城・一読者)
〈答え〉
 女性国際戦犯法廷は、従軍慰安婦問題を始めとする日本軍による性暴力を裁くことを目的とした民衆法廷です(十二月八日〜十二日、東京)。韓国、北朝鮮、中国、台湾、フィリピン、インドネシア、日本の人権七団体が国際実行委員会を構成。アメリカ、イギリスなどの四人の国際法学者が裁判官となり、アメリカ、オーストラリアから首席検事を迎え、被害各国と日本の法学者が検事団を構成しました。
 検事団は国別に起訴状を作成。いつどのように慰安所が作られ、何人くらいの女性がどのように徴集され性的強制が行われたかを、被害女性(アジア各国から六十四人参加)や専門家の証言、文献上の証拠をもとに立証。日本政府と昭和天皇、日本軍幹部(計二十五人以上、故人)を有罪として起訴しました。日本政府は出廷要請を無視しましたが、理由は明らかにされていません。
 「法廷憲章」にもとづき最終日に判決と日本政府などへの九項目の勧告が出されました(判決全文は今年三月発表予定)。判決は、日本軍の慰安所制度は日本の「戦略の不可欠な一部」であり、「当局によるまたは当局の容認に基づく徴集」があり、女性たちは「反復的強姦、身体損傷その他の拷問」により「奴隷化」されていたとのべました。戦争当時の国際法に違反するもので、日本国家と昭和天皇を有罪としました。
 第二次大戦の戦犯裁判・東京裁判では、慰安婦問題は取り上げられず、昭和天皇の責任は不問にされました。日本の裁判所も山口地裁下関支部判決を除いては国家責任を認定していません。今回の法廷は判決の強制力はありませんが、従軍慰安婦問題での責任追及は、国連人権委員会からも求められてきた国際的課題でもあり、日本政府はその趣旨を受けとめ、被害者に謝罪と補償をすべきです。
 このような民衆法廷には、ベトナム戦争でのアメリカの戦争犯罪を裁いたラッセル法廷があります。

https://www.jcp.or.jp/faq_box/2002/2002-0110-faq.html
赤旗女性国際戦犯法廷昭和天皇有罪の根拠は?』
〈問い〉
 昨年十二月に女性国際戦犯法廷の最終判決が出ましたが、昭和天皇を有罪にした根拠は何ですか。 (埼玉・一読者)
〈答え〉
 日本軍「慰安婦」問題の責任を追及する民衆法廷女性国際戦犯法廷は、二〇〇一年十二月、オランダのハーグで最終判決を出しました。
 判決は、同法廷憲章にもとづいて、昭和天皇について、性奴隷制慰安婦制度)に関し「個人としてまた上官としての責任で有罪である」とのべています。またフィリピンのマパニケ村で一九四四年十一月におこった大量レイプ事件についても「上官として刑事責任があることを認定」しました。
 「上官としての責任」とは、上官として部下が犯罪行為に関与している可能性があることを知っていたか、知る理由があり、また上官として犯罪の防止や禁止をしたり、犯罪者を処罰するための措置をとらなかったことの責任です。
 日中戦争、太平洋戦争当時の国際法でも、奴隷の禁止、女性・子どもの強制労働の禁止、レイプの禁止などが定められており、慰安婦制度は戦争犯罪とみなされる行為でした。女性国際戦犯法廷判決は、昭和天皇慰安婦制度の「犯罪性を知らなければならなかった」のであり、最高指揮官の認可がなければ女性たちを連行して慰安所を維持する業務を実行することは不可能であることから、天皇の上官としての責任を認めたのです。
 同判決は、慰安婦制度は「人道に対する罪」(殺人、絶滅、奴隷化などの非人道的行為)であると認定。戦争犯罪に時効はなく、「国家元首に対する免責」もできないと判断しました。
 なお、「上官としての責任」という法理を用いて戦犯を裁くことは、現在、国際法の常識となっています。旧ユーゴ(ボスニア)、ルワンダ戦犯法廷など、進行中の戦犯裁判でもこれにより有罪判決が出され、設立準備がされている国際刑事裁判所の規程にも取り入れられました。

https://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-06-29/2005062907_01_3.html
赤旗『米英の戦争犯罪断定、イラク世界民衆法廷が閉幕』
 二十三日からトルコのイスタンブールで開かれていた「イラク世界民衆法廷」は二十七日、米英両国政府が引き起こしたイラク戦争を糾弾し、ブッシュ米大統領とブレア英首相の戦争犯罪を断定、多国籍軍イラクからの即時撤退とイラクが受けた損害に対する賠償を求める声明を発表して閉幕しました。

https://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-07-18/2007071804_03_0.html
赤旗『原爆投下を裁く、国際民衆法廷 米国に有罪宣告、広島』
 広島市中区の平和記念資料館地下メモリアルホールで十六日、原爆投下を裁く国際民衆法廷の判決公判があり、レノックス・ハインズ裁判長(米国ラトガーズ大法学部教授・国際法)は、アメリカ政府と原爆投下当時の大統領や政府閣僚、開発した科学者、投下を実行した軍人など十五人に有罪を宣告しました。

http://maeda-akira.blogspot.com/2017/11/50.html
前田朗Blog『シンポジウム「ラッセル法廷」50周年』
 本年2017年は「ラッセル法廷」50周年にあたる。 ヴェトナム戦争が激化していた1967年にイギリスの哲学者バートランド・ラッセルの提唱で2度にわたってスウェーデンデンマークで開催された「ラッセル法廷」は、ニュルンベルク裁判や東京裁判を批判的に検討してヴェトナムでの米国の戦争行為が民族の生存そのものの抹殺を図る「ジェノサイド」的様相を帯びているとの理解を提示し、しかも日本軍性奴隷制アフガニスタンイラクでの米国の戦争犯罪を裁く目的で今世紀に入って開催されてきた国際的な戦犯民衆法廷の先駆けをなすものとして歴史的意義を持つ。本シンポジウムでは、「ラッセル法廷」開催から50周年を迎える機会に、「ラッセル法廷」の歴史的意義とともに、ニュルンベルク裁判や東京裁判ならびに国際的な戦犯民衆法廷の歴史的文脈とその遺産を改めて問い直し、戦争責任問題の歴史的・今日的位相に関して再検討することを試みる。
■日時:2017年12月2日 土曜日 14時〜17時30分
■場所:一橋講堂(学術総合センター2F)中会議室
■プログラム
【報告】
・藤本博(南山大学国語学部):
 「ラッセル法廷」が問いかけたこと:ヴェトナムでの米国の戦争犯罪に対する国際的批判と日本における戦犯調査活動の貢献
・戸谷由麻(ハワイ大学歴史学部):
 東京裁判における通例の戦争犯罪の追及:法廷における争点とその意義
前田朗東京造形大学):
 民衆法廷を継承する精神:アフガニスタン及びイラク国際戦犯民衆法廷の経験
【ディスカッション】
・司会 油井大三郎*37東京大学名誉教授・一橋大学名誉教授)
・コメンテーター 芝健介(大阪経済法科大学アジア太平洋研究センター)

 シンポジウム『「ラッセル法廷」50周年』の報告者と、今回の歴史評論論文の執筆者が「藤本博氏、戸谷由麻氏、前田朗氏、芝健介氏」と重複してるのはもちろん偶然ではなく、シンポジウム報告者にたいし、シンポジウムの成果を前提とした上で歴史評論編集部が原稿を依頼したという話です。
 なお、戸谷氏が東京裁判に、芝氏がニュルンベルク裁判に触れていることでわかるように、ラッセル法廷のルーツは東京裁判ニュルンベルク裁判にあります。
 「東京裁判(戦前日本政府)やニュルンベルク裁判(ナチスドイツ)のように戦争犯罪として裁かれても仕方ないこと(例:ベトナム戦争のソンミ村虐殺)を米国はしてるのではないか、にもかかわらず裁かれないのはおかしい」という問題意識があるわけです。
 なお、こうした東京裁判ニュルンベルク裁判について言えば「ポル・ポト派裁判」「ミロシェビッチ・元ユーゴ大統領らが訴追されたユーゴ戦犯裁判(ユーゴ内戦)」「ルワンダ戦犯裁判(ルワンダ虐殺)」「チャールズ・テーラーリベリア元大統領など訴追されたシエラレオネ戦犯裁判(シエラレオネ内戦)」やICC国際刑事裁判所)という形で現在に引き継がれてるわけですが「戦犯裁判は所詮勝者の裁きに過ぎないんじゃないか。例えばアメリカの戦争犯罪は裁かれないし、チリのピノチェトも結局クーデターや虐殺について裁かれずに天寿を全うしたじゃないか」とかあるいは逆に「ICCダルフール虐殺でバシールスーダン大統領が訴追されても結局、彼は裁かれないじゃないか(例:中国が開催した中国人民抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利70周年記念式典にバシールが来賓として出席)」とかいろいろ限界も指摘されるわけです。
 本多勝一氏が「ベトナム戦争のソンミ村虐殺」を題材に『巨大な犯罪ほど「合法的」である』という文章を執筆していますが、まあ、そういうことですよね。
 なお、ソンミ村事件はラッセル法廷で裁かれてますし、手塚治虫ブラック・ジャック』にも『魔王大尉』、『あつい夜』なんて明らかに「ソンミ村事件」をネタにした話がありますが最近の若者はこういうことはやはり知らないのでしょう。多分この手塚作品を読んでも最近の若者は元ネタ「ソンミ村事件」がわからない。
 話がどんどん脱線して恐縮ですが手塚「ブラック・ジャック」には他にも時事ネタとして『ベレンコ中尉亡命事件』にヒントを得た『空から来た子ども』なんてのもあります。まあヒントを得ただけで実際の「ベレンコ事件」とは全然違いますが。
 こちらも多分この手塚作品を読んでも最近の若者は元ネタ「ベレンコ事件」がわからない。まあこれらの手塚漫画は元ネタがわからなくても十分面白い作品ではあるのですが。なぜなら「元ネタをヒントにしただけ」で必要以上に元ネタに依存してないからです。
 例えば「魔王大尉」「あつい夜」は「ベトナム戦争アメリカは虐殺をしたんだ」レベルの知識で十分楽しめるし、理解できる。
 手塚作品「魔王大尉」「あつい夜」においては「戦争の愚劣さ」が描かれてるのであって必要以上に反米主義がアピールされてるわけではありませんので。

【参考:手塚『ブラック・ジャック』について】

http://www.phoenix.to/75/bj95.html
■魔王大尉
 グチャン村*38の残虐行為で名高いケネス大尉が頭に入った弾丸の摘出手術のために来日し、ブラックジャックを訪ねた。その少し前ブラックジャックはグチャン村の生き残りの子供たちの訪問を受けていた。彼らは皆父母をケネスに殺されており、ブラックジャックに手術をしないよう頼みに来たのだ。 付き添い達と共にブラックジャックを訪れたケネスに手術の立会人をおきたいと話す。 快諾するケネス。だんだん麻酔が効いてきた頃部屋に入ってきたのは村の生き残りの子供たちだった。(ボーガス注:殺される!という)悪夢に取り付かれて眠りに入るケネス。 ブラックジャックは子供たちにもし殺したければメスをとるがいい、と話す。
 (ボーガス注:ブラックジャックの気迫に圧倒された子どもたちは何もせず)手術は無事終わるが、ケネスは悪夢に取り付かれたようになっていた。 帰国する際、飛行機のエンジンに突っ込み彼は自殺する。

http://www.phoenix.to/77/bj173.html
■あつい夜
 ダグラス氏は絶えず殺し屋に命を狙われていた。しかし、その度にブラックジャックによって助けられていた。今度で三度目であったが、ブラックジャックは手術の後医師ゴ・ウィンの家に泊る。 彼はブラックジャックにダイヤモンドヘッドに眠る妻と娘の話をする。
 次の日、ブラックジャックはウィンに睡眠薬を盛られる。そして彼はダグラス氏の家にいく。 ウィンはベトナムで妻と娘を(ボーガス注:ベトナム戦争従軍兵士だった)ダグラスに殺されていたのだ。 その復讐のためにここハワイに来、医者となって彼を狙っていた。 ブラックジャックが眠っている今がチャンスと、彼は銃を向け撃った。(ボーガス注:その結果、ダグラスは今度こそ死亡)
 しかし、そこにブラックジャックと刑事が来て、(ボーガス注:刑事が)ウィンを撃つ。 ウィンはもし助かっても死刑は確実なのだから、治療しないでくれと頼む。 隙を見て彼は逃げ出し、追ってきた警察によってダイヤモンドヘッドの上で殺されたのだった。

http://www.phoenix.to/76/bj143.html
■空からきた子ども
 ウラン連邦のガガノフ少佐*39が妻子を連れ、極秘兵器レポールに乗ってブラックジャックを訪ねた。
 息子のアンドレイが心室中核欠損症にかかったため、その治療のためにやってきたのだ。しかし、既に治療は不可能な状態に陥っていた。 苦悩するブラックジャック。そして彼は夫人の体とアンドレイの体をくっつけ、肺を共有することで当座を凌ぐ方法を考え出す。いつか健康な肺が移植できるその日まで夫人はアンドレイをおぶって暮らすのだ。手術は成功するが、ガガノフは軍人としての責任を取るといって、レポールと共に自爆して果てた。

【参考:本多氏の文について】

http://www5a.biglobe.ne.jp/~NKSUCKS/korosar.html
■「殺される側の論理」/本多勝一/1982年/初版71年
 アメリカの正義が、殺される側から見ていかに不当なものであるか。弱者の権利は、常に強者によって踏みにじられ、正義と民主主義の名の下に合法的に侵略されてきた。これは誰もが認めざるを得ない事実だ。現代の日本だろうが世界だろうが、「法律で決まったことだから」などという奴がまだいる。そういう人には、合法的な悪の方が返って始末に終えないことを、この本を読んで知って欲しい。

ニクソン*40に到って、世界はようやくヒトラーとこの大統領とを比べるようになったが、先住民から見れば、ワシントン条約以来、きわめて少数の例外を除くと、合衆国大統領は終始ヒトラーの連続であった」
「殺人も強盗も、もし『手続き』さえ整っていれば『合法的』であり、法的にはちっとも悪いことではない。ニクソン氏がハノイの一般市民にB52のじゅうたん爆撃を命じて残酷きわまる大量虐殺を犯しても、それはアメリカ合州国内のさまざまな手続き上『合法的』だから、ちっとも犯罪にはならない。ニクソン氏は大量虐殺を実行する際、たいへん『合法的』な手続きを踏んでいた。ニクソン氏や佐藤栄作*41が『法と秩序』などというと、もう劇画の主人公みたいに『ガハハハ』と笑う以外になすすべもない。」
「さて、このたび、その合衆国のキッシンジャー氏、あのB52によるハノイ市絨毯爆撃・大虐殺に最も貢献したキッシンジャー*42に、こともあろうにノーベル『平和』賞が決定した。私は心底から『おめでとう』を言いたい。なぜなら、ノーベル賞というものがいかに愚劣きわまるものかを、大衆に理解されるためにこれは大変役立つからである。もともと『賞』というものはすべて基本的に愚劣なのだろう。その中でも(ボーガス注:佐藤栄作にも授与された)特に愚劣なノーベル賞は、かくのごとく、言語的・文化的には『人種差別賞』であり、平和に関しては逆に『侵略賞』である。こんなものに断じて幻想を抱いてはならない。」

https://okawakazuo.exblog.jp/20853875/
■大阪の弁護士大川一夫のブログ『真のジャーナリスト本多勝一氏』から一部引用
 本多氏は「戦場の村」「中国の旅」「殺される側の論理」*43など数々のルポ・著作を発表している元朝日新聞記者である。
 10年くらい前までは、本多氏の本をよんでジャーナリストの世界に入ったものはかなりいたというくらいその影響力は大きい。
 私自身も学生時代、本多氏の著作には影響を受けた一人である。何冊も読んだ。
 その一つに「法学教室」(第二期・第5号・1974年6月発行)という法学部の学生向けの冊子に、彼の寄せた随想がある。
 表題は「巨大な犯罪ほど『合法的』である」。
 理不尽な不正でも権力者はそれを「合法化」する力を持っている。ニクソンベトナム戦争で大量虐殺をするとき「合法的」手続きを踏んだ。そしてそこで言う「法と秩序」のおかしさを皮肉ったあと本多氏は次のように締めくくる。
「よく私はいうのだが、侍は権力者が人民を弾圧するための刀使いであった。ところが逆にその刀を支配者に向けた例外的侍もある。法律はその刀であり、法曹人はそれを使う侍だ。
 侍たちよ。あなたがたの誰が「例外」たりうるだろうか。私たち「法で支配される側」は期待している。」
 私が、弁護士を目指したとき、本多氏のこの随想は何度読んだことか。
 弁護士になってからも、この著は事務所のいつも手に届くところにおいている。

 話が脱線しますが、何も侍は「法曹人(裁判官、検事、弁護士など)」だけではありません。役人(官僚)も侍であり「ある種の法律使い」のわけです。
 本多氏をパクれば

 法律はその刀であり、中央省庁の官僚はそれを使う侍だ。
 侍たちよ。あなたがたの誰が「例外」たりうるだろうか。私たち「法で支配される側」は期待している。

つうことですね。そして在任中はともかく退官してから、つまり武士を首になって(あるいは自分からやめて)浪人になってからとはいえ「刀を支配者に向けた例外的侍」であるからこそ、小生は前川喜平氏(元文科事務次官*44)や浅井基文氏(元外務省中国課長*45)を評価するわけです。

http://maeda-akira.blogspot.com/2012/09/blog-post_9602.html
前田朗Blog『原発犯罪の刑事責任を問う『原発民衆法廷③』(三一書房)』
 3冊目のブックレットは、5月20日に郡山で開催した第3回公判の記録である。郡山公判では、第1回東京公判で起訴された被告人らに対する判決(決定第3号)が言い渡された。ブックレットに全文収録しているが、主文は次のとおりである。
1.被告人・東京電力株式会社(代表取締役社長西澤俊夫)は、人の健康に関わる公害犯罪の処罰に関する法律第2条につき有罪とし、同法律第4条を適用する。
2.被告人・勝俣恒久、同・清水正孝、同・武藤栄は、いずれも、人の健康に関わる公害犯罪の処罰に関する法律第2条及び業務上過失致死傷罪(刑法211条)につき有罪。
3.被告人・班目春樹、同・寺坂信昭、同・近藤駿介は、いずれも、業務上過失致死傷罪(刑法211条)につき有罪。
4.被告人・菅直人*46、同・海江田万里*47、同・枝野幸男*48は、いずれも、業務上過失致死傷罪(刑法211条)につき有罪。
*東電以外の個人の被告人は次の九人である。
 勝俣恒久(取締役会長、以下肩書きは当時)、清水正孝(取締役社長)、武藤栄(取締役副社長兼原子力・立地本部長)、班目春樹(原子力安全委員会委員長)、寺坂信昭(原子力安全・保安院院長)、近藤駿介原子力委員会委員長)、菅直人内閣総理大臣)、枝野幸男内閣官房長官)、海江田万里経済産業大臣

 過去の民衆法廷ベトナム戦争、アフガン戦争、イラク戦争など戦争犯罪の追及を目的としていたことと比べると、この原発民衆法廷はやや異色の民衆法廷ではあるでしょう。
 なお、自民政権時代から原発推進に関与してきた官僚や御用学者はともかく、原発政策が自民党政権時代からの継続であることを考えれば、こうした運動が民主党政権をやり玉に挙げることには疑問を感じますね。
 特に「この民衆法廷開催中は民主党政権だった」ので、「当時の運動」としてはある程度理解できますが、今、民主党が下野し、安倍政権になった今は特にそう感じます。「民主党政権が下野し安倍政権である今」民主党政権をここまで非難してしまったのは少し違う気がします。
 もちろん法的責任はひとまず置くとしても「菅政権メンバー」に原発事故についての政治的、道義的責任が全くないとはいいませんが、「2012年の民主党政権時はともかく」今となっては「まず脱原発運動で追及すべきは安倍自民政権の法的・政治的責任」ではないか。
 なお、前田氏のブログには
朝鮮学校の高校無償化除外問題(一)
http://maeda-akira.blogspot.com/2012/09/blog-post_14.html
朝鮮学校の高校無償化除外問題(二)
http://maeda-akira.blogspot.com/2012/09/blog-post_4285.html
■朴三石『知っていますか、朝鮮学校
http://maeda-akira.blogspot.com/2012/09/blog-post_25.html
といった記事もあり、俺も全く同感ですので「話が脱線しますが」ここで紹介しておきます。

http://maeda-akira.blogspot.com/2012/09/blog-post_9766.html
前田朗Blog『原発民衆法廷第5回広島公判』
 7月15日・広島(まちづくり市民交流プラザ)で原発民衆法廷第5回公判が開かれた。
 広島公判は、原発民衆法廷全体の呼びかけ人に加えて、広島独自の呼びかけ人として、足立修一、岡原美知子、豊永恵三郎、日南田成志、藤井純子、森瀧春子、湯浅正恵、横原由紀夫が名を連ねた。また、元国際司法裁判所判事で、核兵器の投下は国際法違反であるとの判断を下したクリストファー・ウィーラマントリー国際反核法律家協会会長からメッセージが送られた。
 広島公判の主題は、第1に、原発そのもの及び原発事故の違法性・犯罪性であり、第2に、中国電力の島根原発及び工事が強行されようとしてきた上関原発問題であった。
 民衆法廷原発の犯罪性を次のように指摘した。
 「原子力発電事故による最も深刻な被害は、放射能被曝による死亡または多種にわたる癌や白血病などの発病、さらには被曝の恐怖が原因の精神的疾患である。原爆攻撃の被害者、核実験場、核兵器製造工場、ウラン採掘場ならびにその近辺地域で被曝した人たちと同様、原発事故によって放出された放射能による外部・内部両被曝が、後発性の癌や白血病、心臓病などの内臓疾患、眼病など、様々な病気を引き起こすことは、チェルノブイリ事故の被災者、とくに幼児の発病ケースが多いことからも明らかである」。
 「これまで、『人道に対する罪』は、紛争時あるいは戦時にのみ犯される残虐な戦争犯罪の一種と一般的には考えられてきた傾向がある。しかし『人道に対する罪』とは、『戦前、戦中における、一般人民に対しての殺害・殲滅・奴隷的扱い・強制移動などの非人道的行為と、政治的・人種的・宗教的理由による迫害』と定義されており、『戦前』、すなわち平時おいても起こりうる犯罪であるということを忘れてはならない。しかも、地震津波によって引き起こされる過酷事故の場合には、必然的に無数の市民を放射能被曝の被害者にするということを明確に知りながら原発放射能関連施設を稼働することは、『人道に対する罪』を予防しようとする意志が完全に欠落していることを表明している。したがって、原発の建設・設置そのものが、犯罪行為と称せるのではなかろうか。いわんや、地震が起きれば大事故を引き起こすような活断層の存在する地域に原発を建設することは、犯罪行為と言えるのではないか」。


■書評『ベトナム戦争・ソンミ村虐殺の悲劇』(評者:生井英考
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。

https://mainichi.jp/articles/20171028/dde/041/070/042000c
毎日新聞ベトナム戦争の真相知って』藤本博・南山大学教授、岩間龍男さん
 若い世代で風化が進むベトナム戦争の真の姿を知ってほしい。
 藤本博・南山大学教授(68)と元高校教諭の岩間龍男さん(63)が監訳した「ヴェトナム戦争・ソンミ村虐殺の悲劇:4時間で消された村」(明石書店・6264円)が刊行された。

https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/book/222615
日刊ゲンダイヴェトナム戦争・ソンミ村虐殺の悲劇」
 ベトナム戦争当時、世界中で巻き起こった反戦運動。特に50年前の1968年は「パリ五月革命」や東京・新宿の「10・21闘争」(別名「新宿米タン闘争」)がベトナム反戦の機運と連携していた。そんな中、メディアの暴露で発覚したのがベトナム中部にあるソンミ村で約500人の村民を米軍がなぶり殺した「ソンミ村虐殺事件」だ。本書はこの事件に関するドキュメンタリー番組を制作したイギリスのジャーナリストによる詳細な再現記録の書である。
 本文だけで500ページを超える大冊が描くのは、虐殺の詳細な顛末に加え、事件後に隠蔽を図った軍上層部のもくろみがことごとく崩れていく過程。ウォーターゲート報道に先立つ3年前、フリーの記者による徹底した調査報道が軍の分厚い機密の壁を破る一方、現場の兵士たちからも疑問の声が上がり、「権力に立ち向かう」ことと「愛国者であること」は矛盾しないという現代的な常識を生む一助となったのだ。
 (ボーガス注:モリカケロシアゲートを追及される)日米の権力者(ボーガス注:安倍晋三&トランプ)が平気でマスコミを「フェイク」呼ばわりする今、(ボーガス注:調査報道で軍の隠蔽を打破したこの事件を)改めて振り返りたい。

http://www.fben.jp/bookcolumn/2018/01/post_5303.html
弁護士会の読書『ヴェトナム戦争・ソンミ村虐殺の悲劇』
 私の大学生のころ、ベトナム戦争が真最中で、何度も何度も「アメリカのベトナム侵略戦争、反対」を叫びながらデモ行進したものです。
 ベトナム戦争が終わったのは、私が弁護士になった年の5月1日、メーデーの日でした。たくさんのベトナム人が殺されました。そして、ベトナムのジャングルで意味もなくアメリカ兵が死んでいきました。5万5000人もアメリカの青年が死んだのです。でも、ベトナム人の死者はその10倍なんかではありません。数百万人です。
 いったい何のためにアメリカは遠いベトナムに50万人もの大軍を送り込んだのか、まったく壮大な誤りとしか言いようがありません。ベトナム戦争で利益を得たのは軍需産業と一部の軍トップだけです。
 ベトナムアメリカ軍は残虐な集団殺人を繰り返しました。それは、ベトナムの共産化を防ぐため、ベトナムの国民を共産主義の脅威から救うため、ベトナムに民主主義を定義させるためというのが口実でした。しかし、現実には、アメリカ人はベトナム人を人間とは思っていなかったのです。それは、ナチスヒトラーユダヤ人を人間と思っていなかったのと同じです。
 この本は560貢もの大作です。
 ソンミ村の大虐殺事件が起きたのは1968年3月16日。わずか4時間のうちに500人以上の罪なき村民が、子どもをふくめて虐殺された。犯人は第20歩兵連隊第1大隊チャーリー中隊の45人の隊員。アメリカ全土からベトナムにやってきた20歳前後の典型的なアメリカ青年たち。その出身は中流階級から労働者階級。
 大虐殺事件が明るみに出て、小隊長1人だけが刑務所にわずか数ヶ月間だけ入れられ、そのあと(ボーガス注:ニクソン大統領による恩赦で)「無罪」放免となった。むしろ、アメリカ国民の一部からは「英雄」かのように迎えられた。
 このソンミ村大虐殺事件は、次のことを教えている。
 戦争では、現場で戦っている軍隊に統率力と道徳的決意の明確な意義がないときには、まともな家庭の善良な若者たちでさえ、事件に巻き込まれ、罪のない無力な人々を故意に残虐に殺害するという恐ろしい悪習に巻き込まれることになる。
 第1小隊の隊長カリー中尉は、無防備な老人を井戸に投げ込み射殺した。カリー中尉は、死者で一杯になった用水路から這い出てきた赤ん坊を見て、その足をつかんで穴の中に再び放り込んで射殺した。そして、ソンミ事件で有罪となったのはカリー中尉の一人だけ。1971年に重労働をともなう終身刑を宣告された。ところが、ニクソン大統領は一審判決の30日後にはカリー中尉の釈放を命じた。1974年にカリー中尉が保釈されたが、実はそれまでも基地内で特権的な自由を享有していた。
 ソンミ事件で虐殺したアメリカ兵の平均年齢は20歳前後。アメリカル師団第11軽歩兵旅団の部隊であるチャーリー中隊は、ベトナムに駐留してまだ3カ月ほどしかたっていなかった。
 1968年3月というと、私も彼らと同じ19歳なのです。まったく私と同じ年齢の「善良」なアメリカの青年たちが、武装していない老人、女性、子どもたちを冷酷に4時間にも及んで殺害し続けたのです。信じられないことです。しかも、強姦、肛門性交、四肢の切断など。想像を絶するあらん限りの虐待を繰り広げました。
 今では、アメリカ人のなかにソンミ村の大虐殺は完全に忘れ去られている。せいぜい、ベトナム戦争中に起きた不愉快な事件として、あいまいに記憶されているだけでしかない。
 ベトナムでは、そうではない。ソンミ村の現場には、2階建の立派な博物館があり、毎年3月16日には、追悼式典が開かれている。
 ベトナム戦争の最盛時、50万人のアメリカ兵がベトナムに滞在し、毎月20億ドルも費やしていた。世界最強の軍隊が50万人いても、侵略者は最終的に勝利することが出来ないことを実証したのが、ベトナム戦争でした。
 1968年というのは、1月にテト攻勢があり、サイゴン(現ホーチミン市)にあったアメリカ大使館が解放戦後(べトコン)の兵士によって1日中、占拠されたのでした。この様子がアメリカ全土に実況中継され、アメリカ政府の言っていることは信用ならない、ベトナムから手を引けというベトナム反戦運動を一気に高掲させました。
 ソンミ村で虐殺した兵士たちは正常な心理状態を奪われてしまいました。今もなおPTSDに苛まれているアメリカ人が28万人いて、12万人が治療を受けているのです。
 しかし、アメリカ社会は全体として、カリー中尉たちを容認し、アメリカ兵が虐殺したことを忘れることに努めているようです。それはアメリカが戦争国家だからです。私は日本がそんな国にならないことを、ひたすら願います。貴重な本です。ぜひ図書館で借りてお読み下さい。          

https://www.asahi.com/articles/ASL4244FTL42UHBI00H.html
朝日新聞『幼子に銃口、血のにおい…ソンミ虐殺50年、消えぬ記憶』
 ベトナム戦争中、無抵抗の村民が殺害された「ソンミ村虐殺事件」から50年が過ぎた。地元には今も生々しい記憶を抱える生存者がいる。一方で、対戦国だった米国や韓国の市民が村を訪れ、それぞれのつぐない方を模索している。
 1968年3月16日早朝、朝食の支度をしていたファム・ティ・トゥアンさん(80)は銃声が響くのを聞いた。
 「家畜が撃たれたのかしら」。
 外を見ると米兵が村民を襲っていた。
(中略)
 村で虐殺された504人の大半は子ども、女性、高齢者だった。
■米韓市民、それぞれの償い
 虐殺50年の記念式典には米国人も参加した。
 正装のアオザイ姿のマイク・ベイムさん(70)は68〜69年にベトナムに従軍。戦闘には参加しなかったが、帰国後に米軍の行いを知り、衝撃を受けた。92年からクアンガイ省に学校や診療所をつくり、貧しい人々を支援している。
「過去から目を背ける米国人は多いが、私は私にできることを続ける」
 道に転がる子らの遺体、にらむようにカメラを見る高齢の男性。村の資料館に展示された写真を撮影したロナルド・ヘイバリーさん(76)は米国の元従軍カメラマン。米誌「ライフ」や新聞に掲載された写真は米国で反戦運動が高まるきっかけにもなった。なぜ助けなかったのかと問う声もあるが、「写真を撮ることが抵抗だった。ここへ来たのは私なりの償いのため」。
(中略)
 「両国間の不幸な歴史に遺憾の意を表する」。
 韓国の文在寅*49(ムンジェイン)大統領は3月、訪問先のハノイ*50で述べた。
 韓国は米国の同盟国として南ベトナム側に参戦。50年前、ソンミ村に近いハミ村で住民135人を虐殺したとされる。今年2月には韓国の市民41人が村を訪ね、土下座で謝罪する姿が報じられた。韓国ではベトナムでの行いへの反省と交流を促す市民団体の取り組みが続き、文大統領を後押ししたという。
ベトナム政府、謝罪や補償求めず
 「ソンミの人々は痛みを乗り越え、米国の訪問者を受け入れてきた。過去を閉じて未来へ向かうことは、党と政府のみならず個々のベトナム国民の生き方でもある」。
 式典で地元クアンガイ省の当局者があいさつした。周辺ではデモなどの動きもなかった。
 ベトナム政府は米国などに戦争被害の謝罪や補償を求めていない。京大大学院の伊藤正子*51准教授(ベトナム現代史)は「謝罪や補償に国民の関心が及び、対戦国への感情が悪化して外交に影響が出ることをベトナムは懸念している。逆に『過去を閉じて未来へ向かおう』というスローガンを国民に貫徹させ、記憶にふたをしようとしている」と話す。
 米国はベトナムにとって繊維製品などの輸出先で、最大の貿易相手国だ。韓国もサムスンなどが対ベトナム投資に力を入れてきた。
 米調査機関ピュー・リサーチ・センターが2017年に実施した意識調査によると、ベトナム人の84%が米国に「好意的」と回答。また15年の調査ではベトナム人の80%以上が韓国に「好意的」との結果だった。
 旧ソンミ村で住民支援を続ける財団代表のチュオン・ゴック・トゥイさんは「忍耐強く、利他的なのがベトナム人の気質だ。逃げた人を責めても、謝罪に戻ってきた人まで追及しようとしない」と話す。
 「ベトナム人に権利意識が根づいていない」との見方もあり、国策に反してまで補償を求める動きは高まりにくいようだ。
■ソンミ村の虐殺
 1968年3月16日朝、ベトナム中部クアンガイ省ソンミ(現ティンケ)村にカリー中尉率いる米軍部隊がヘリコプターで降り立ち、無抵抗の村民504人を殺害、家を焼き払った事件。69年に米誌などが報じて世界に衝撃を与えた。

https://www.sankei.com/world/news/180506/wor1805060003-n1.html
■産経『ソンミ村虐殺から半世紀 ベトナム対米配慮の中…生存者が語る「あの日」』
 1955年から20年続いたベトナム戦争では、多くの市民が犠牲となった。中でも、68年に米陸軍部隊が無抵抗の住民504人を殺害した「ソンミ村虐殺事件」は、米国や日本で反戦運動が盛り上がるきっかけとなった。事件発生から50年目の今年3月16日、中部クアンガイ省ティンケ(旧ソンミ)村の虐殺現場跡に整備された記念公園では、ベトナム政府要人や元米兵ら約千人が、追悼式典を開いた。ただ、生存者たちの声はあまり伝えられなかった。背景には、南北内戦の歴史を封印し、米国との関係強化を狙う、ベトナム政府の思惑が指摘される。
 記念公園にほど近い自宅で、事件を生き残った女性、チュロン・ティ・レイさん(87)は、当日のことを淡々と話した。
 早朝、「VC、VC」と叫ぶ米兵に追い立てられ、地区の住民全員が農業用水路沿いに並ばされた。VCとは、当時の北ベトナムが支援し米軍が手を焼いた、南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)を指す。
 地区には女性や子供しかいなかったが「動く物は牛にもVCと叫んでいた」。銃で掃射され、当時6歳だった息子を抱えたまま、水が抜かれていた水路に落ちた。覆いかぶさってきた人が弾よけとなった。じっとしていた。事件を知り駆けつけてきた親類が、遺体の山の中から見つけてくれた。母、娘、もう1人の息子の3人を含む地区の102人が死亡。助かったのは、自分と抱いていた息子の2人だけだった。
 一方、共産党一党支配のベトナムでは、厳しい言論統制が続く。ある地元記者は、ベトナム政府は式典当日、政府方針に沿った発言を行う者だけを取材に応じさせ、レイさんら生々しい証言をする生存者は、メディアから遠ざけられたと指摘する。
 統制理由のひとつは、いたずらに市民の反米感情を招かないための配慮だ。ベトナムは米国と95年に国交を正常化し、近年は最大の輸出相手国となった。今年3月5日には、追悼公園から約150キロ離れたダナン港に、ベトナム戦争終結以来初めて米空母が寄港し、南シナ海の領有権で衝突する中国を牽制した。政府としては、経済と安保で関係強化を目指す中、「米軍の虐殺の犠牲者にも、未来志向の両国関係だけを強調してもらう必要がある」(地元記者)というわけだ。
 同じく記念公園近くに住むド・バさん(59)も、10人ほどという「ソンミ事件」の生存者だ。
 ソンミ事件は発生翌年に米誌報道で表面化し、米軍法会議は70年、関与した14人を起訴。指揮官だったカリー中尉だけが有罪判決を受け、74年に仮釈放された。バさんは、この米側の対応を「不公正」とし、中尉らが「VCについて経験も知識もなかった」と批判する。
 ベトナム政府からも米国からも、補償は受けたことはない。
 ベトナム政府が米国に補償を求めない理由には、内戦に絡む全ての歴史を封印したいとの思惑もある。当時の虐殺加害者は、米国に限らない。補償問題が、旧南北ベトナムによる戦争被害者の救済要求などに発展すれば、国内の対立を呼び覚まし、党の支配体制をも揺るがしかねない。

 ベトナムにおいて「米国との友好関係万歳、商売万歳」で「ベトナム戦争被害」での米国批判が封じ込められてることは、「日本との友好関係万歳、商売万歳」で朴チョンヒ、全斗煥政権が「植民地統治や日中戦争、太平洋戦争被害」での日本批判を封じ込めてきたことと全く同じ構図でしょう。ただし「韓国民主化」によって押さえ込みが効かなくなってきたように、ベトナムもいつまで押さえ込みが効くか疑問です。

https://www.sankei.com/premium/news/180526/prm1805260016-n1.html
■産経『韓国軍による虐殺が50年後も隠蔽されている ベトナム・ハミ村』吉村英輝、から一部引用
 ベトナム戦争中(1955〜75年)の1968年、米軍部隊が当時の南ベトナムのソンミ(現ティンケ)村で住民500人以上を殺害したことは、よく知られている。一方で、同じ時期に韓国軍部隊による住民虐殺事件があったことは、あまり報じられていない。
 ベトナム中部クアンナム省ハミ村は、水田が広がるのどかな集落だ。路地を進むと、テニスコート2面分ほどの慰霊施設に着いた。石碑には、68年2月25日、ここで亡くなった村民135人の名前が刻まれている。南ベトナム政府に協力して参戦していた、韓国海兵隊の青龍部隊に殺害された住民たちだ。
 この虐殺は、現地を99年に訪れた韓国人研究者により広く知られるようになり、慰霊施設は、韓国の民間団体と同村が翌2000年に建てた。だが、施設のどこにも、虐殺の記述はおろか名称もない。
 案内してくれた生存者のド・コイさん(73)は石碑の裏面を指し、「実はここに虐殺について記してあるが、02年に石板で覆い隠した」と打ち明けた。
 コイさんによれば、00年の完成式典に参加した退役韓国軍人が、碑文の修正・削除を求めた。村は反発したが、韓国側は外交ルートで圧力をかけてきたという。共産党一党支配が続くベトナムで、「地方や農民に抵抗する力はない。仕方なく石板で歴史を“隠蔽”することにした」と振り返る。
 韓国外務省に事実関係をただすと、「ベトナム政府には石碑に関して何の要請もしていない」と否定した。
 一方、ハミ村から十数キロ離れた同省フォンニィ・フォンニャット村では1968年2月12日、住民74人が韓国軍により殺害された。
 この虐殺が、広く知られるようになったのは、韓国の民間団体が調査に来てからだという。同団体と村で2004年ごろ建てた慰霊碑には、犠牲者名と「韓国兵士に74人が虐殺された」と簡潔な説明があり、地方政府が史跡指定している。
 地元記者によると、ベトナム政府は、外交問題に発展しないかぎり、地域レベルで虐殺の慰霊碑などを作ることなどは、不満の「ガス抜き」の意味もあり、自由にさせているという。
 韓国の文在寅ムン・ジェイン)大統領は今年3月23日、訪問先のベトナムで、「両国間の不幸な歴史に対し遺憾の意を表する」と述べた。韓国の聯合ニュースは、ベトナム戦争時の韓国軍による民間人虐殺に対し、初めて公に遺憾の意を表明したとした。
 韓国国内では、文氏の「遺憾」表明に、左派紙のハンギョレが社説で「当然すべき発言で評価する」「ベトナム政府は公式に韓国に謝罪を要求していないが、被害を与えた韓国としては機会のあるごとに過去の誤りに対し頭を下げることが必要だ」と主張した。しかし、その他の主要メディアは、文氏の遺憾表明については事実関係を報じた程度で、あまり関心を示していない。
 国交樹立(1992年)以降の韓国政府の対応を見ると、98年に当時の金大中(キム・デジュン)大統領がベトナムを訪問した際、「不幸な時期があった」と「遺憾」を表明。2001年に金氏が訪韓したチャン・ドク・ルオン国家主席(当時)に対し首脳会談で、「不幸な戦争に加わり、本意ではなかったがベトナム国民に苦痛を与えたことについて申し訳なく思う」と初めて公式に謝罪した。
 金氏の発言に対し当時、(ボーガス注:右派)野党や退役軍人らから「謝罪は行き過ぎだ。参戦将兵の名誉を傷つける。大統領の歴史認識を疑う」などとの批判が出た。特に、野党ハンナラ党副総裁だった朴槿恵(パク・クネ)前大統領は、ベトナム参戦を進めた朴正煕(パク・チョンヒ)元大統領の長女で、「自由民主義体制に対する確固たる信念がない」と語り、金氏の国家観に疑問を呈した。
 一方、言論統制の厳しいベトナムのメディアは、今回の文氏の発言を伝えなかった。ベトナム政府は韓国政府に虐殺事件の補償も謝罪も求めていない。背景には、経済的な結びつきを強める韓国への反感を押さえ込もうとの配慮と、「国内対立に再び発展しかねない、南北内戦に絡む全ての歴史を封印し、国家の団結と前進を図る思惑」(地元記者)があるようだ。

 「ベトナム戦争での韓国軍の振る舞い」を批判すること自体はいいのですが産経の場合
1)目的は単に嫌韓国で、人道主義でも何でもない
2)韓国内においてもリベラル派、左派から「こうしたベトナム戦争の問題についてきちんとベトナムに謝罪すべきだ」という声が出てることを「可能な限り*52」無視し、韓国を不当に悪魔化
3)日本もベトナム戦争を支持した以上、こうした問題の共犯者であることをガン無視
4)この件で「ベトナムに経済的圧力をかけるなんて汚い」と抜かしながら慰安婦問題ではフィリピンなどに経済的圧力をかけて慰安婦銅像を撤去することを平然と主張
5)「韓国は自分のした戦争犯罪を認めろ」と抜かしながら自分たちは南京事件慰安婦といった旧日本軍の戦争犯罪を「蒋介石の捏造」「反日謀略」などとデマを飛ばして否定
ですからねえ。ダブスタとご都合主義で話になりません。

http://www.afpbb.com/articles/-/3174616
■AFP『ソンミ村虐殺部隊率いた元米軍将校が死去 A・メディナ氏、81歳』
 ベトナム戦争中の1968年に起きた「ソンミ(ミライ)村虐殺事件」で、数百人の村人を殺害した米部隊を率いたアーネスト・メディナ(Ernest Medina)米陸軍大尉が、ウィスコンシン州で死去していたことが分かった。81歳だった。
 今月8日に亡くなっていたことを家族が公表した。
 1968年3月16日に起きたソンミ村虐殺事件では、当時の南ベトナムクアンガイ(Quang Ngai)省ソンミ村で、米軍部隊が武器を持っていない村人多数を殺害。犠牲者の多くは子どもや女性、高齢者だった。事件は米軍史上、最大の暗部の一つとされる。
 米軍は当初、虐殺の事実を隠蔽していたが、後に村人347人が殺害されたと認めた。ベトナム側は犠牲者数を子ども173人を含む500人超としている。
 メディナ氏は当時、虐殺に関与した小隊が属する歩兵中隊を指揮していたため、軍法会議にかけられた。裁判では、虐殺が行われていることに気づかなかったと主張。責任は問われず無罪となった。
 2009年には米紙に「あの日ミライで起きたことについて、良心の呵責を覚えない日は一日もない」と述べ、事件について謝罪している。

https://mainichi.jp/articles/20180321/ddm/001/030/167000c
毎日新聞『ソンミ村虐殺50年 「射殺の瞬間、2枚撮った」 米カメラマン証言』
 米軍が1968年3月、当時の南ベトナムで女性や子ども多数を含む504人を殺害した「ソンミ村の虐殺」で、現場にいた米軍カメラマン、ロナルド・ヒーバリーさん(76)が「複数の米兵がM16自動小銃ベトナム人を射殺する瞬間の写真2枚を撮影した」と毎日新聞に明らかにした。

https://mainichi.jp/articles/20180321/k00/00m/030/188000c
毎日新聞『ソンミ村虐殺50年、狂うか殺されるか 民間人殺害各地で』
 1968年3月16日午前7時45分。米陸軍カメラマンだったロナルド・ヒーバリーさん(76)は、ヘリコプターで南ベトナムのソンミ村(当時)に降り立った。銃の連射音が響く。「激戦地だ」と身構えた。だが誰も反撃してこない。それが「動くものはすべて殺す」という狂気に駆り立てられた「ソンミ村虐殺事件」の現場だった。

https://mainichi.jp/articles/20180323/ddm/007/030/101000c
毎日新聞『この50年の世界・1968〜2018:第2部・ベトナム戦争の傷痕/下 枯れ葉剤 今も戦う米兵と家族』
 ベトナム戦争中、米軍は1962年から約10年に北ベトナム軍やゲリラの隠れ場所や食料を奪うため、ベトナムの森林に約7570万リットルの枯れ葉剤を散布した。結局、米軍は敗退。枯れ葉剤が引き起こしたと考えられている健康被害は、現地の人々だけでなく多くの米帰還兵とその子供も苦しめている。

http://www6.nhk.or.jp/wdoc/backnumber/detail/?pid=101202
■NHKBS・世界のドキュメンタリー『ソンミ村 虐殺の真実』
 ベトナム戦争中、アメリカ陸軍が南ベトナムのソンミ村ミライ集落を襲撃し、無抵抗の村民数百人を殺害、集落を壊滅状態にしたソンミ村虐殺事件ベトナム反戦運動の象徴となり、国外でもアメリカ軍が支持を失うきっかけとなった。
 ソンミ村ミライ地区での掃討作戦の民間人犠牲者は300人とも500人とも言われている。しかし作戦終了後の報告では、解放戦線の死者123人との嘘の報告が上げられ、民間人大量虐殺の事実は隠蔽された。その後、C中隊をはじめ、事件に関わった兵士の多くは、ベトナムの奥地で孤立させられたり、危険な任務に就かされたりしたと語る。
 翌年、新聞のスクープで事件は発覚。ベトナム反戦運動の活発化を招くとともに、軍のあり方をめぐる社会論争が起きた。事件が明るみになる過程を、調査の担当者や聴取を受けた元米兵などへのインタビューを通じて改めてたどる。

ソンミ村虐殺事件ウィキペディア参照)
 ベトナム戦争中の1968年3月16日、アメリカ軍兵士がクアンガイ省ソンミ村で非武装ベトナム人住民を虐殺した事件。ソンミ虐殺はベトナム反戦運動のシンボルとなり、また国外でも大きな批判の声が起こってアメリカ軍が支持を失うきっかけとなった。
■報道
 当初は村民に対する虐殺ではなく「南ベトナム解放民族戦線のゲリラ部隊との戦い」という虚偽の報告がなされたが、翌1969年12月に、フリージャーナリストのシーモア・ハーシュ*53が、雑誌『ザ・ニューヨーカー』で真相を報じたことが端緒となり、『ライフ』誌の報道などでも、アメリカ軍の歴史に残る大虐殺事件が明らかになった。ハーシュの記事は本にまとめられ、1970年度ピューリッツァー賞を受賞した。これは日本でも、1970年に「ベトナムに平和を!市民連合ベ平連)」の活動で知られる作家、市民活動家の小田実*54によって、『ソンミ:ミライ第四地区における虐殺とその波紋』(草思社)の題で邦訳された。
軍事法廷
 1970年に開かれた軍事法廷でこの虐殺に関与した兵士14人が殺人罪で起訴されたものの、1971年3月29日に下った判決ではカリー小隊長のみに終身刑が言い渡されただけで、残りの13人は証拠不十分で無罪となった。また、カリー自身もその後10年の懲役刑に減刑された上、3年後の1974年3月には仮釈放される。陸軍のこの不可解な処置は世界中から大きな非難を浴びた。


第52回歴史教育者協議会全国大会準備号『歴史における危機と復興の諸相Ⅲ』
■米軍基地下の京都:占領から日米安保体制へ(大内照雄*55
■中東における占領と復興:イスラエル建国とイラク、そして日本(田浪亜央江*56
■戦国京都都市論:首都の社会変動と戦乱(仁木宏*57
■二度の開封陥落と中心性の移動:中国都城史の転換点としての靖康の変*58(久保田和男*59
■30年戦争と帝国都市アウグスブルク:二宗派共存都市の危機と復興(高津秀之)
(内容紹介)
 2018年12/1、12/2に開催予定の第52回歴史教育者協議会全国大会『歴史における危機と復興の諸相Ⅲ』での報告テーマについて各報告者が自らの報告予定内容を簡単に説明しています。
 小生の力不足のためうまく説明できないので内容紹介は省略します。
 なお、12月の報告については、後に歴史評論誌上に掲載される予定です。

*1:著書『東京裁判:第二次大戦後の法と正義の追求』(2008年、みすず書房)、『不確かな正義:BC級戦犯裁判の軌跡』(2015年、岩波書店

*2:戦前、東条、小磯内閣外相。戦後、禁固7年の判決を受け公職追放もされるが、冷戦激化による米国の占領政策変更(いわゆる逆コース)によって追放を解除され政界に復帰。鳩山一郎内閣で外相。

*3:台湾軍司令官、上海派遣軍司令官、中支那方面軍司令官を歴任。戦後、死刑判決。後に昭和殉難者として靖国神社に合祀。

*4:第一次近衛内閣文相、厚生相、平沼内閣内務相、内大臣を歴任。戦後、終身刑判決を受けるが、冷戦激化による米国の占領政策変更(いわゆる逆コース)によって後に仮釈放。

*5:東条、鈴木内閣外相。戦後、禁固20年の判決を受け服役中に病死。後に昭和殉難者として靖国神社に合祀。

*6:斎藤、岡田、第一次近衛内閣外相、首相を歴任。戦後、死刑判決。後に昭和殉難者として靖国神社に合祀。

*7:なお軍人では畑俊六(阿部、米内内閣で陸軍大臣終身刑判決を受けるが、冷戦激化による米国の占領政策変更(いわゆる逆コース)によって後に仮釈放)だけは無罪認定している。

*8:とはいえレーリンクはパルと違い「全員無罪」ではないですし、レーリンクやパルのような人間がいたこと自体「東京裁判が結論ありきだとは言い切れないこと」の証明ですが。また結論ありきというなら「天皇、皇族や731部隊長・石井四郎の不訴追」も「米国の占領政策に基づく結論ありき」ですがこちらはもちろん産経らウヨは無視します。

*9:著書『政権交代の悪夢』(2011年、新潮新書)、『総理、あなたこそ復興の障害です:菅直人政権の「大罪」』(2014年、PHP研究所)、『偏向ざんまい:GHQの魔法が解けない人たち』(2016年、産経新聞出版)、『だから安倍晋三政権は強い』(2018年、産経新聞出版)、『安倍晋三の闘い』(2018年、ワック文庫)など

*10:著書『イスラエル』(2010年、新潮新書)、『イスラム化するヨーロッパ』(2015年、新潮新書)など

*11:つうかそういうこと言ってるのは主として産経などのウヨで目的は「日本全面正当化」ですが。

*12:著書『フィリピン独立問題史:独立法問題をめぐる米比関係史の研究 1929〜46年』(1997年、龍溪書舎)、『歴史経験としてのアメリカ帝国:米比関係史の群像』(2007年、岩波書店)、『東南アジア占領と日本人:帝国・日本の解体』(2012年、岩波書店

*13:著書『ヴェトナム戦争研究:「アメリカの戦争」の実相と戦争の克服』(2014年、法律文化社

*14:個人ブログ(http://maeda-akira.blogspot.com/)。著書『戦争犯罪と人権:日本軍「慰安婦」問題を考える』(1998年、明石書店)、『戦争犯罪論』(2000年、青木書店)、『ジェノサイド論』(2002年、青木書店)、『鏡の中の刑法』、『刑事人権論』、『平和のための裁判(増補版)』(以上、2003年、水曜社)、『民衆法廷の思想』(2004年、現代人文社)、『侵略と抵抗:平和のための戦争犯罪論』(2005年、青木書店)、『民衆法廷入門』(2007年、耕文社)、『軍隊のない国家:27の国々と人びと』(2008年、日本評論社)、『人道に対する罪』(2009年、青木書店)、『9条を生きる』(2012年、青木書店)、『増補新版 ヘイト・クライム:憎悪犯罪が日本を壊す』(2013年、三一書房)、『なぜ、いまヘイト・スピーチなのか:差別、暴力、脅迫、迫害』(編著、2013年、三一書房)、『ヘイト・スピーチ法研究序説:差別煽動犯罪の刑法学』(2015年、三一書房)、『黙秘権と取調拒否権:刑事訴訟における主体性』(2016年、三一書房)、『「慰安婦」問題の現在:「朴裕河現象」と知識人』(編著、2016年、三一書房)、『「慰安婦」問題・日韓「合意」を考える』(編著、2016年、彩流社ブックレット)、『旅する平和学:世界の戦地を歩き 傷跡から考える』(2017年、彩流社)など

*15:著書『武装SS:ナチスもう一つの暴力装置』(1995年、講談社選書メチエ)、『ヒトラーニュルンベルク第三帝国の光と闇』(2000年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『武装親衛隊とジェノサイド』(2008年、有志舎)、『ホロコーストナチスによるユダヤ人大量殺戮の全貌』(2008年、中公新書)、『ニュルンベルク裁判』(2015年、岩波書店

*16:1950年ノーベル文学賞受賞者。著書『哲学入門』(2005年、ちくま学芸文庫)、『論理的原子論の哲学』(2007年、ちくま学芸文庫)、『現代哲学』(2014年、ちくま学芸文庫)など

*17:1964年ノーベル文学賞受賞者(ただし受賞を辞退)。著書『マラルメ論』(1999年、ちくま学芸文庫)、『存在と無(1)〜(3):現象学存在論の試み』(2007年、2008年、ちくま学芸文庫)、『自由への道(1)〜(6)』(2009〜2011年、岩波文庫)など

*18:著書『ラムゼー・クラークの湾岸戦争:いま戦争はこうして作られる』(1994年、地湧社)

*19:ケネディ政権副大統領を経て大統領

*20:テキサス州知事を経て大統領。ブッシュ(親)元大統領の息子。ブッシュ・元フロリダ州知事の兄。

*21:宮沢内閣郵政相、橋本内閣厚生相を経て首相

*22:エストラダ政権副大統領を経て大統領

*23:スウェーデンの首都

*24:弁護士。家永教科書訴訟、横田基地騒音訴訟、横浜事件再審訴訟の弁護団長をつとめた。著書『昭和人権史への証言』(1980年、時事通信社)、『教科書と裁判』(1990年、岩波新書)、『権力に対する抵抗の記録』(2001年、創史社)

*25:国際政治評論家。著書『ベトナム帰還兵の証言』(編著、1973年、岩波新書)、『ハリウッドとマッカーシズム』(1990年、筑摩書房)など

*26:デンマークの首都

*27:エジプトの首都

*28:ネパールの首都

*29:レバノンの首都

*30:中国の首都

*31:ケニアの首都

*32:キューバの首都

*33:ニューサウスウェールズ州の州都

*34:バングラデシュの首都

*35:北朝鮮の首都

*36:アーカンソー州知事を経て大統領

*37:著書『連合国捕虜虐待と戦後責任』(共著、1993年、岩波ブックレット)、『なぜ戦争観は衝突するか:日本とアメリカ』(2007年、岩波現代文庫)、『好戦の共和国アメリカ』(2008年、岩波新書)、『増補新装版・未完の占領改革:アメリカ知識人と捨てられた日本民主化構想』(2016年、東京大学出版会)、『ベトナム戦争に抗した人々』(2017年、山川出版社世界史リブレット)など

*38:もちろんソンミ村がモデル

*39:もちろんソ連ベレンコ中尉がモデル

*40:アイゼンハワー政権副大統領を経て大統領

*41:吉田内閣郵政相、建設相、岸内閣蔵相、池田内閣通産相科学技術庁長官などを経て首相

*42:ニクソン、フォード政権で国務長官

*43:いずれも後に朝日文庫に収録

*44:退官後、加計問題、朝鮮学校問題、道徳教育問題などで安倍政権を批判している。

*45:退官後、日本大学教授、明治学院大学教授、広島市立大学広島平和研究所所長など歴任。外交評論家。護憲、平和主義の立場から、日本外交を批判している。

*46:社民連副代表、新党さきがけ政調会長、橋本内閣厚生相、鳩山内閣副総理・財務相などを経て首相

*47:菅内閣経産相民主党代表を歴任

*48:鳩山内閣行政刷新担当相、菅内閣官房長官、野田内閣経産相民主党幹事長(海江田、岡田代表時代)、民進党代表代行(前原代表時代)を経て立憲民主党代表

*49:盧武鉉政権大統領秘書室長、「共に民主党」代表を経て大統領

*50:ベトナムの首都

*51:著書『民族という政治:ベトナム民族分類の歴史と現在』(2008年、三元社)、『戦争記憶の政治学:韓国軍によるベトナム人戦時虐殺問題と和解への道』(2013年、平凡社)、『原発輸出の欺瞞:日本とベトナム「友好」関係の舞台裏』(編著、2015年、明石書店)など

*52:とはいえ「慰霊碑をつくったのはそもそも韓国の民間団体」と書かざるを得ず完全には無視できませんが。

*53:著書『アメリカの秘密戦争:9・11からアブグレイブへの道』(2004年、日本経済新聞社)など

*54:著書『何でも見てやろう』(1979年、講談社文庫)、『「ベトナム以後」を歩く』(1984年、岩波新書)、『「難死」の思想』(1991年、岩波同時代ライブラリー→2008年、岩波現代文庫)、『「殺すな」と「共生」:大震災とともに考える』(1995年、岩波ジュニア新書)、『中流の復興』(2007年、NHK生活人新書)など

*55:著書『米軍基地下の京都:1945年〜1958年』(2017年、文理閣

*56:著書『「不在者」たちのイスラエル:占領文化とパレスチナ』(2008年、インパクト出版会

*57:著書『空間・公・共同体:中世都市から近世都市へ』(1997年、青木書店)、『戦国時代、村と町のかたち』(2004年、山川出版社日本史リブレット)、『京都の都市共同体と権力』(2010年、思文閣出版)、『日本古代・中世都市論』(編著、2016年、吉川弘文館)など

*58:宋(北宋)の首都・開封が金によって陥落し、宋が滅亡した事件

*59:著書『宋代開封の研究』(2007年、汲古叢書)