今日の産経ニュース(2019年12月14日分)

タイ新党が大規模抗議集会 解党申し立てめぐり - 産経ニュース
 以前拙記事新刊紹介:「経済」12月号 - bogus-simotukareのブログや、新刊紹介:「歴史評論」5月号 - bogus-simotukareのブログでタイの軍政に触れましたが、タイも前途多難なようですね。
 しかし一般社団法人 アジア自由民主連帯協議会 | Asian Solidarity Council for Freedom and Democracyは「アジアの民主化」などと抜かしながらタイの問題には触れず「中国、北朝鮮非難しかしない」のだから本当にインチキな連中です。そんなことなら「アジアの民主化」などと大風呂敷を広げずにせめて「東アジアの民主化」とでも言ったらどうなのか。


【昭和天皇の87年】悲惨!スターリングラード攻防戦 独軍司令官は極寒の廃墟で降服した - 産経ニュース

 先の大戦を振り返るとき、日米の国力だけを単純に比較して、開戦そのものが無謀極まりなかったと断罪されがちだが、それは結果論だ。日米の間には広大な太平洋がある。それを越えてくる米軍を、日本の勢力圏で着実に迎え撃つ*1戦略に徹していれば、負けたとしても違った展開になっただろう。
 この戦略をとらず、暴走したのは海軍*2である。

 日米の国力差を考えれば結果論ではなく「無謀」以外何物でも無いでしょうね。そもそも昭和天皇は、本当はどの時点で「終戦」を意識していたのか(栗原 俊雄) | 現代ビジネス | 講談社(3/4)も指摘するように日本のもくろみは
1)ドイツが英国を降伏させる
2)日本が真珠湾攻撃し、米国に緒戦で大打撃を与える
3)中国蒋介石政権を打倒することで「米国の戦争目的の一つ(蒋介石政権支援)」をなくす
4)1~3)で米国に戦意を喪失させ短期決戦で終わらせる(国力の差があるため、日本が米国を軍事力で完全に打倒することはさすがに想定されてない。当然、米国本土上陸作戦など最初から考えてない)
というとてつもなく自分に都合のいい設定です。
 つまり、あえて言えば「米国国内の反戦運動による米軍のベトナム撤退」「ソ連国内の反戦運動によるソ連軍のアフガン撤退」のようなケース(いずれもベトナム軍、アフガンゲリラが米軍やソ連軍を完全に壊滅したわけではない)を日本側は想定したわけです(ただしベトナム軍やアフガンゲリラが戦争長期化を前提としていたのに対し日本軍は短期決戦狙いという違いはありますが)。
 2)は実現しましたが、1)、3)は結局、ありませんでした。そもそも3)がそんなに簡単にできるようなら誰も苦労しません。
 また、昭和天皇は、本当はどの時点で「終戦」を意識していたのか(栗原 俊雄) | 現代ビジネス | 講談社(3/4)も指摘するように1)が実現したとしても米国が戦意を喪失する保証はない。
 日本のもくろみは「米国が日本の思惑通り動かないと成立しない」というとてつもなくリスキーな代物でした。「よくそんなんで開戦したな」つう代物です。
 「勝算の見込みが充分あるから開戦した」といえるような代物では全くない。
 大体「ベトナム戦争」「アフガン戦争」のような「米国やソ連から侵攻していったケース」なら「戦争長期化→そもそも侵攻したのが間違いだという反戦、嫌戦世論の高まり→軍撤退、終戦」もありうるでしょうが、日本から戦争を仕掛けていってそう都合良く行くわけもない。これが「米国から攻めてきた」つうなら話も別でしょうが。

 ガダルカナル戦の最中、欧州・東部戦線では独ソ両軍がスターリングラード(現ボルゴグラード)で、文字通りの死闘を繰り広げていた。
 独裁者の名を冠したこの都市に、ドイツ第6軍が侵攻を開始したのは1942(昭和17)年8月23日の朝。猛烈な砲爆撃で市内は廃虚と化したが、瓦礫(がれき)の山を防壁とするソ連第62軍の抵抗はすさまじく、以後5カ月間にわたり、市民を巻き込んだ壮絶な市街戦が展開された。
 11月19日、7個軍100万人のソ連軍が猛攻に転じ、装備も士気も劣弱なルーマニア軍の防衛線を突破した。狼狽したヒトラーは包囲された第6軍にスターリングラードの死守を厳命したが、翌43年1月31日、同軍司令官のパウルスは絶望の廃墟で、ついに白旗をあげた。
 奇しくもその翌日、ガダルカナルでは日本軍の撤退作戦が始まり、駆逐艦隊が同島に突入、餓死寸前だった陸海軍将兵1万人以上を救出した。
 こうして日独とも、いわば天王山の戦いで一敗地に塗(まみ)れた
 ドイツは、北アフリカ戦線でも敗走する。独軍司令官ロンメル*3の戦車軍団が快進撃を続けていたが、英軍の最終防衛線エル・アラメインを突破できず、42年11月以降、じりじりと後退。43年5月に独伊両軍の拠点チュニス*4が陥落した。
 日米開戦からおよそ1年半-。
 昭和天皇は、(ボーガス注:ドイツがアフリカ戦線でもソ連戦線でも敗北するという)欧州の戦況も踏まえ、(ボーガス注:ミッドウェー海戦ガダルカナル島攻防戦の敗戦から、太平洋戦争敗戦という)日本の行く末を予見しつつあったようだ。
 昭和18年3月30日《午前十時三十五分、(昭和天皇は)内大臣木戸幸一をお召しになり、正午まで御談話になる。戦争の前途の見通しは決して明るいものではないとして種々お考えを述べられ、木戸よりも腹蔵なき意見をお聞きになる》(昭和天皇実録31巻51~52頁)

 「だったらその時点(1943年3月末)で降伏しろよ」つう話です。
 なお、この時期、ルーズベルトチャーチルカサブランカ会談(1945年1月14~23日)を行い、「ドイツ軍相手のアフリカ作戦の成功後、シチリア島南イタリアへの上陸作戦をとること、及び枢軸国に対して無条件降伏を要求する方針をとること」を確認します。連合軍側もこの頃には「勝利の見通しが立った」と評価したわけです(ウィキペディアカサブランカ会談」参照)。
 しかしその後、ドイツが1945年5月に正式に降伏しようとも、「ソ連軍対日参戦(1945年8月9日)」で「ソ連を仲介役とした和平計画の見込みがなくなり降伏を決意する」まで、昭和天皇は「一撃和平論」「国体(天皇制)護持」にこだわって降伏せず、戦争被害(1945年6月の沖縄戦、1945年8月の原爆投下など)を拡大させます。
 正直、この産経の記事を読んで俺が感じるのは「敗色濃厚になっても国体護持にこだわって早期降伏せず犠牲をいたずらに増やした昭和天皇への憤り」でしかないですが、なぜか産経は違うようです。


【昭和天皇の87年】ああ、ガダルカナル 過酷な戦場で将兵は、天皇の祈りに涙した - 産経ニュース

 昭和天皇は逆境に強い。空前の大敗北となったミッドウェー海戦の一報を受け、海軍上層部が茫然自失と天を仰いでいたときでも、周囲に気落ちした様子をみせなかった。
 大元帥として、自らの言動が前線の将兵に与える影響を、十分に認識していたのだろう。
 7月6日、昭和天皇は《宮内大臣松平恒雄*5をお召しになり、日光への行幸に先立ち連合艦隊行幸し、海軍を激励したき旨を仰せになる》(昭和天皇実録30巻119頁)

 「ポーカーフェイス=逆境に強い」つうんですかね。結局「日本の敗勢」は覆せなかったわけですからね。
 いずれにせよ昭和天皇はお飾りなどではなく「名実ともに大元帥(軍最高司令官)」だったわけです。

 虎の子の空母4隻を失ったとはいえ、太平洋の海軍力は依然として日本が優勢*6だ。戦訓に学んで無理をせず、日本の勢力圏のサイパン、もしくはトラック諸島の線まで兵を引き、南方の資源地帯をがっちり固めて米軍を迎え撃てば、まだまだ勝機はあった。
 だが、海軍上層部は懲りなかった。勢力圏のはるか外側で、米軍と決戦しようとしたのだ。
 舞台となったのは、日本本土から5000キロ離れた南太平洋の島、ガダルカナルである。
 千葉県ほどの面積の、密林で覆われたこの島に、海軍陸戦隊が極秘で飛行場の建設を始めたのは7月1日のこと。しかし米軍は海軍の作戦を察知しており、滑走路が完成した2日後の8月7日、米海兵隊1万7000人が奇襲上陸して横取りしてしまった。
 海軍上層部は我を忘れた。奪還作戦に血眼となり、戦線の拡大に消極的な陸軍を巻き込んで、取り返しのつかない悲劇を生んでしまう。
 以後、半年にわたるガダルカナルの戦いは、太平洋の死闘の、攻守の転換点となった。
 この間、陸軍はガダルカナルのジャングルに3万1000人余の兵力を逐次投入するも、補給が得られない中で悲惨な戦いを強いられ、1万5000人もの餓死・病死者を出した。
 (ボーガス注:1942年)12月31日、大本営昭和天皇臨席の会議で、奪回作戦の中止とガダルカナルからの部隊撤収を決めた。

 「ホニャララすればまだ勝算があった」と「たられば」の話をしても仕方が無いでしょう。本当に産経の「たられば」が成立するのか疑問ですが。
 そして「海軍上層部は懲りなかった」ねえ。基本的に全ての軍事作戦は「大元帥である昭和天皇」の認可を得ているのですが。
 

 昭和天皇は、ガダルカナルの戦況に特別の関心を抱いたようだ。それが個々の戦闘の域を越え、日本の運命を決すると察していたのだろう。その頃の昭和天皇実録には、内大臣の木戸*7らと戦況について話す様子がたびたび出てくる。激戦の続く12月12日には伊勢神宮を親拝。「戦時下に於て、天皇親しく御参拝御祈願あらせらるゝことは真に未曾有のこと」と、木戸が日記につづっている。
 南太平洋の戦いが戦局全体に重大な影響を及ぼすと察した昭和天皇は、日本に余力があるうちに、好機をとらえて終戦に持ち込みたいと考えていたようだ。親拝前、侍従らに《日露戦争満州事変・支那事変を引き合いに出され、戦争を如何なる段階にて終結するかが重要であることを繰り返し仰せられる》と、昭和天皇実録に記されている(30巻215~216頁)。

 もはやこの時点(1942年12月、真珠湾攻撃による開戦から約1年後)でガダルカナル戦の苦戦(伊勢神宮を参拝した12/12から約2週間半後の12/31には結局ガダルカナルから撤退)から昭和天皇も「米国相手に大勝を続けることなど不可能と判断」し「一撃して有利な状況をつくった上で和平(いわゆる一撃和平論、一撃講和論)」という「例の考え」に傾いていたと言うことでしょうか?。ただしそんな「一撃和平論」は勿論実現しませんでした。
 しかし産経が「1942年12月時点で昭和天皇が負け戦を既に覚悟していたらしい」と堂々と書ける神経は分かりません。それ、昭和天皇批判派からすれば「それなら1945年8月まで戦争を続けるんじゃねえよ!。あんた(昭和天皇)のせいで戦争被害(1945年3月の東京大空襲、1945年6月の沖縄戦、1945年8月の原爆投下など)がどんだけ拡大したと思ってるんだ!」つう話になるんですが。

参考

【昭和天皇の87年】悲惨!スターリングラード攻防戦 独軍司令官は極寒の廃墟で降服した - 産経ニュース
 ガダルカナル戦と同じ頃、昭和17年3月から18年1月にかけ、東部ニューギニアで繰り広げられたポートモレスビー*8攻略戦も、攻守逆転の岐路となった。陸軍将兵が標高4000メートルのスタンレー山脈を越え、米豪遮断作戦の拠点となるポートモレスビー目前まで迫ったが、補給が続かず、海上からも上空からも支援が得られずに、多大な犠牲を出して撤退した。昭和天皇先の大戦後、側近らに「ニューギニアのスタンレー山脈を(敵軍に)突破されてから勝利の見込みを失った」と語っている

昭和天皇は、本当はどの時点で「終戦」を意識していたのか(栗原 俊雄) | 現代ビジネス | 講談社(3/4)
・開戦1カ月半前の1941年11月15日、大本営政府連絡会議で戦争終結構想が決まった。
 主な内容は、
⑴南方作戦で戦略的自給圏を確保する
⑵中国の蒋介石政権への圧力を強める
⑶独伊と連携しイギリスを屈服させる
⑷それによって(ボーガス注:英仏が降伏したため、単独で日独伊三国と戦うことになる)アメリカの戦意を失わせ、講和にもちこむ
というものだった。
 注目すべきは⑶と⑷だ。ドイツとイタリアがイギリスを屈服させる保障はなかった。かりにそれが実現したとしても、アメリカが戦意を失う保障もなかった。つまり大日本帝国は、仮定の上に空想を載せた蜃気楼のような終戦構想で、戦争を始めたのである。
・さて、天皇はいつ終戦を意識したのだろうか。『実録』にはない記述が、『昭和天皇独白録』(文春文庫)にある。もとは天皇の側近、寺崎英成*9が残した記録だ。1990年に存在が分かり、発表された。
 天皇の肉声を生々しく伝える史料である。それによると、天皇は1943年9月の時点で、すでに勝てないことを悟り、講和を意識していたことが分かる。
 すなわち、
〈私に[は]ニューギニアのスタンレー山脈を突破されてから[十八年九月]勝利の見込みを失った。一度何所かで敵を叩いて速やかに講和の機会を得たいと思つた〉
天皇が言うのはいわゆる「一撃講和論」だ。劣勢は承知しながら、どこかで連合国軍に打撃を与えて、その戦果を持って和平に持ち込む、という構想だ。
 この構想に従って沖縄戦が行われた。一撃どころか、沖縄では県民を巻き込んだ地上戦となり被害を拡散させてしまったことは、歴史が証明している。その後米軍に占領され今日に至るまでの基地問題を内包させてしまったことも、「一撃講和論」による負の遺産だ。

 戦後「ポートモレスビー攻略戦の敗北(1943年9月)で勝ち目がないと思った」と平然と言える昭和天皇もなかなかの強者です。「ならその時点で降伏しろよ!」「約2年(1943年9月~1945年8月)も戦争を引き延ばすな!」ですよねえ。それにしても、昭和天皇に批判的な記事である昭和天皇は、本当はどの時点で「終戦」を意識していたのか(栗原 俊雄) | 現代ビジネス | 講談社(3/4)が「ポートモレスビー攻略戦の敗北で勝ち目がないと思った」発言を紹介するのは理解できます。
 昭和天皇に大甘な産経が【昭和天皇の87年】悲惨!スターリングラード攻防戦 独軍司令官は極寒の廃墟で降服した - 産経ニュースで「ポートモレスビー攻略戦の敗北で勝ち目がないと思った」発言を紹介するのは理解に苦しみます。


【産経抄】12月14日 - 産経ニュース

▼「(ボーガス注:桜を見る会疑惑について)お前*10はすでに(ボーガス注:政治倫理的に)死んでいる」。
 共産党小池晃書記局長は10日、街頭演説で人気漫画『北斗の拳』の主人公の決めゼリフを引いて安倍晋三政権に対し言い放った。「桜を見る会」の件で追い詰められていると強調したかったようだが、大人が人前で言うことか*11
▼さかのぼれば、10月15日の参院予算委員会ではこんなことがあった。国民民主党森裕子*12参院議員が、政府の国家戦略特区ワーキンググループ座長代理を務める民間人、原英史氏について決めつけたのである。
「国家公務員だったら斡旋(あっせん)利得収賄で刑罰を受ける」。
 原氏が事実関係を明確に否定しているのを無視し、一方的に犯罪者呼ばわり*13したのだった。
▼森氏は11月7日の農林水産委で、原氏の自宅住所が記載されている資料を配布した。さらにそれを自身のホームページで公開し、ツイッターで拡散するという個人情報漏洩(ろうえい)も行った。それでいて原氏に謝罪の一つもしていない*14
▼「レイシズムファシズムに加担するような人物*15」。
 立憲民主党の石垣のり子参院議員は11月28日にツイッターで、何の根拠も示さず嘉悦大の高橋洋一教授*16について断言した。いつどこで高橋氏が、人種差別や独裁政治に肩入れしたというのか。重大な名誉毀損(きそん)以外の何物でもない。
▼好き勝手に暴言を繰り返す野党議員に、マスコミに甘やかされてきたゆえのおごりと緩みを感じる。

 やれやれですね。
 「麻生*17財務相ナチス暴言」「萩生田文科相の身の丈暴言」「安倍首相のニッキョーソヤジ」などをろくに批判しない新聞が良くも言ったもんです。
 むしろ「マスコミに甘やかされてきたゆえのおごりと緩み」は自民党の方でしょう。
 まあ産経がこんなことを言ったところで「森氏のうかつな個人情報漏洩」以外はほとんどの人間は「価値観の違いであり、少なくとも暴言ではない」と問題にしてないし、森氏の行為だって「ただのミスじゃん」「後で削除しただろ」つう話ですが。

*1:それが現実問題、無理だ(日本の近くに来るまで米軍を放置したらかえって敗戦リスクが高い)と判断したから、「打って出た」んでしょうに。

*2:以前も指摘しましたが軍事作戦は当然ながら細部はともかく「大きな枠組み」は大元帥(軍最高司令官)である昭和天皇の了承を得ています。産経の主張は「会社の社運をかけたビッグプロジェクトの失敗(勿論社長の了承がある)」について「担当重役が悪い、社長は悪くない」というレベルの暴論です。安倍について「一帯一路参加は二階ガー(安倍首相は悪くない)」などと強弁する産経は太平洋戦争でも「太平洋戦争の敗戦は海軍ガー(昭和天皇は悪くない)」をやってるわけです。安倍でアレ、昭和天皇であれ「国の重要方針」について「国のトップ」に責任がないわけがないでしょうに。

*3:1891~1944年。1944年7月20日シュタウフェンベルク参謀大佐(後に銃殺刑)主導のヒトラー暗殺未遂事件が発生。ロンメルの部下も計画に参加していたことからロンメル本人の関与も疑われた。10月14日、ヒトラーの使者として自宅を訪れたヴィルヘルム・ブルクドルフ中将(1895~1945年。陸軍人事局長。敗戦直前に自決)とエルンスト・マイゼル少将(1896~1978年。陸軍人事局長代理)は、ロンメルに「反逆罪で裁判を受けるか、名誉を守って自殺するか」の選択を迫った。裁判を受けても死刑は免れず粛清によって家族の身も危うくなることを恐れたロンメルは家族の安全を保証させた上で1人自宅の森の中へ入り、2人から与えられた毒をあおり死亡した。その際自宅周囲には抵抗に備えて、親衛隊の部隊が配置されていたという(手持ちの兵での強行突破を進言する副官に、ロンメルは「自分ひとりではないから(家族がいるから)」と拒否している)。英首相チャーチルをして「ナポレオン以来の戦術家」とまで評せしめた、圧倒的な戦功で知られたロンメルの死は「戦傷によるもの」として発表され、祖国の英雄として盛大な国葬が営まれた。しかし、ヒトラーは会葬していない。生前のロンメルヒトラー暗殺計画への関与の有無について一切明言しなかったため、関与の有無は不明である。戦後、夫人は「夫は(事前に計画を知りながら部下をかばって密告はしなかったものの)ヒトラー暗殺計画には反対していた」と主張した。しかしその反面、ロンメルは自分の反ナチ的態度を特に隠そうとしてはおらず、長男マンフレートがアーリア民族の人種的優越の話をしていると「私の前でそういう馬鹿げたことを喋るな」と叱責したといわれる。また、マンフレートはSS(武装親衛隊)への入隊を希望していたものの、それを禁じたという(ウィキペディアロンメル」参照)。

*4:チュニジアの首都

*5:外務次官、駐英大使、駐米大使、宮内大臣など歴任

*6:本当にそう言えるんですかね?

*7:第一次近衛内閣文相、厚生相、平沼内閣内務相、内大臣を歴任。戦後、終身刑判決を受けるが後に仮釈放

*8:パプアニューギニアの首都

*9:1947年2月、宮内省御用掛(通訳)に任命され、昭和天皇マッカーサー元帥との会見の通訳を務めた。

*10:もちろん安倍のこと

*11:「政治倫理的に死んでない」といえず「言い方が無礼だ」としかいえない辺り産経にも躊躇があるんでしょうか?

*12:野田内閣文科副大臣、「国民の生活が第一」幹事長代行、「日本未来の党」副代表、「生活の党」代表代行、自由党幹事長兼参議院会長などを歴任

*13:何ら問題ない蓮舫氏に対して「二重国籍ガー」と犯罪者扱いも同然の誹謗を実行した産経が良くも言ったもんです。

*14:「裁判所で名誉毀損が認定されたデマ記事」についてろくに辻元氏に謝罪しない阿比留を出世させた産経が良くも言ったもんです。偉そうなことを抜かすならまず阿比留を処分したらどうなのか。

*15:れいわの山本太郎が勉強会に高橋を呼んだことへの批判です。

*16:『韓国、ウソの代償:沈みゆく隣人と日本の選択』(2019年、扶桑社新書) なんて嫌韓国本なんか出して恥じない高橋は立派に「レイシズムに加担」でしょう。ファシズムというのは「モリカケ桜を見る会について無茶苦茶な安倍擁護をしていること」でしょう。安倍を「ファシスト」と評価すれば安倍擁護はファシズムへの加担になります。

*17:橋本内閣経済企画庁長官、森内閣経済財政担当相、小泉内閣総務相、第一次安倍内閣外相、自民党幹事長(福田総裁時代)を経て首相。現在、第二~四次安倍内閣副総理・財務相