・詳しくは歴史科学協議会のホームページ(http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/)をご覧ください。
特集『新書から広がる歴史学』
■市大樹*1『飛鳥の木簡*2』:木簡から古代を考える(堀川徹)
(内容紹介)
ネット上の記事紹介で代替。
古代歴史文化賞大賞に市大樹氏の『飛鳥の木簡 古代史の新たな解明』 - 産経ニュース
優れた古代史の書籍を表彰する「古代歴史文化賞」の選定委員会が開かれ、第2回大賞に市大樹(いち・ひろき)大阪大准教授の『飛鳥の木簡 古代史の新たな解明』(中央公論新社)が選ばれた。市准教授は会見で「この賞はもっと頑張れという激励だと思うので今後、ますます努力していきたい」と語った。準大賞は寺崎保広*3奈良大教授の『若い人に語る奈良時代の歴史*4』(吉川弘文館)に決まった。
同賞は古代史にゆかりが深い島根*5、奈良、三重*6、和歌山、宮崎*7の5県からなる古代歴史文化普及協議会の主催で、古代の歴史的事実をもとにした一般読者にも分かりやすい本が対象。
大賞受賞作は近年、飛鳥から出土している木簡(文字の書かれた木札)のうち、特に重要なものを取り上げ、背景にある古代国家形成の歴史を読み解く内容。選定委員長を務めた金田章裕*8京大名誉教授は「研究の最先端情報を惜しみなく盛り込み、学術的にも高く評価できる」と述べた。
飛鳥の木簡ー古代史の新たな解明ー | 古代歴史文化賞
■選定理由
本書は著者が長年研究してきた飛鳥・藤原京地域から出土した木簡について、一般向けに記した概説書ですが、木簡研究の最先端の情報を惜しみなく盛り込んでおり、学術的にみても高く評価されます。
本書では、木簡とはなにかをわかりやすく説明したうえで、特に重要な木簡を取り上げ、周辺の資料や考古学の成果などから分析を加えて、その木簡が作られた歴史的背景を読み解いていくもので、本書を通じて最新の研究にふれることができます。叙述は著者の木簡調査の実体験に裏付けられ、臨場感に満ちており、一般の読者も知らず知らずのうちに引き込まれていきます。
全体として、研究史を踏まえたうえで、一点一点の木簡から多くの情報を引き出し、その背景にある古代国家形成史を描き出しており、大賞にふさわしい作品です。
第2回古代歴史文化賞受賞作決定記念シンポジウム | 古代歴史文化賞
◆第1部 第2回古代歴史文化賞大賞受賞者による記念講演
・大阪大学准教授:市大樹氏「木簡からみる文化交流」
近年出土した7・8世紀の木簡(文字の書かれた木札)により、飛鳥時代は朝鮮半島からの文化的影響が大きく、奈良時代は中国からの影響が大きいと分かることなど、木簡の研究が新たな歴史の発見につながっていることについて語っていただきました。
市大樹『飛鳥の木簡:古代史の新たな解明』 - taronの日記漂流先
・奈良文化財研究所で木簡の整理に従事した著者が、木簡の解読から、どのようなことを解明できるのかを述べた本。大体、7世紀後半から8世紀初頭、倭国政権の中枢が飛鳥にあった時代を扱う。
・最古の木簡、改新の詔の信憑性、王宮や工房、飛鳥寺の活動、藤原京の建設、大宝律令の施行の七つの問題について、述べられている。
第一章は最古の木簡について。現在のところ「最古級」は640年代であること。誤記の問題や後になって書かれた年号の可能性など、年号が書いてあるから即その年であるとは言い難く、簡単には決められないというのがよく分かる。文字が書いてある木簡を、C14年代測定法で調べるわけにもいかないしな。670年代の天武朝になってから木簡の利用が急増するというのも興味深い。
第二章は「大化の改新」について。後代の文章でないかという疑惑が指摘され、「郡評論争」が展開され、「阿波評」木簡の出土で決着がついたこと。しかし、国郡里制に先行する評や五十戸と記した木簡の検討から、部民制度ではなく、集落単位の「里」の存在が検出され、「改新の詔」に表明された政策が、7世紀後半に志向されていたことが指摘されるようになった。まあ、この場合の木簡の貢献は、最初の政策表明から実際に制度が整えられるまでのディテールが明らかになったことだと思うが。あとは、国郡里制に向う政策の地域差などが検出できるとさらに研究が豊かになるなと思った。
第三章は王宮の状況、第四章は飛鳥池の国営工房について。石神遺跡や浄御原宮跡周辺から出土した木簡によって、それらの地域に、分散的にさまざまな役所が展開していたこと。その場所にどんな役所があるか、ある程度候補を絞り込める状態ってのがすごいな。また、飛鳥池遺跡出土木簡から釘の大量生産が行われていたこと。製鉄に木簡が偏っていること。木簡に出てくる氏族名から、蘇我氏の配下にあった葛城系の工人を王権が吸収して、配置した工房であることなどが判明する。
第五章は飛鳥寺の活動について。道昭系統の東南禅院と飛鳥寺の中央機関である三綱組織の並存。飛鳥寺の宗教活動や市場での取引、医療活動、学問活動などが紹介される。漢文の発音やローカライズなどで、朝鮮半島の文化的影響が非常に大きいというのが興味深い。漢字の発音も「古韓音」という朝鮮半島の読み方が七世紀末まで大きな影響を持っていたこと。それが八世紀になると消えていくという。ここにある断層みたいなのが興味深い。また、万葉集にでてくるような歌の断簡らしきものも出土しているそうだ。
第六章は藤原京について。木簡や遺構から、藤原京の建設が長く続いたこと。これをもとに日本書紀の読み直しが行われたこと。中枢部は建設が遅れたこと。最終的には、建設を打ち切って、より中国の都城に近い平城京の建設にスイッチされたことなどが指摘される。衛門府や不比等邸など、藤原京内の紹介も興味深い。
最後は大宝律令の施行の影響。宮廷の門で、物資の搬出時などに発給された通行証の変化から、最初は大宝律令施行という古代国家の一大変革に気負って、制度が運用されたこと。しかし、中務省で許可を受け、門司に提出、衛門府で帳簿作成というプロセスがあまり煩雑だったので、数年で簡略化されたプロセスが検出されている。
■鶴間和幸*9 『人間・始皇帝 』(2015年、岩波新書)(小嶋茂稔*10)
(内容紹介)
ネット上の記事紹介で代替。鶴間本紹介がメインですが他についても紹介しています。 個人的には、小嶋氏が紹介する柿沼陽平*11『劉備と諸葛亮:カネ勘定の『三国志』』(2018年、文春新書) が「面白そう」と思います。
娯楽小説・三国志演義では「正義の味方」として描かれる劉備や孔明、そして一方で悪人として描かれる曹操ですが、当然ながら「劉備や孔明はそんなにきれいではない(彼らも権力欲で動いてる)」し、一方で曹操も「劉備らと比べて汚いわけでもない」わけです。
これは「日本における上杉謙信」もそうでしょう。海音寺潮五郎『天と地と』では「正義の武将」として描かれる彼も実際にはそんなきれいごとでもないでしょう。
いわゆる伊達騒動を描いた山本周五郎『樅ノ木は残った(平幹二朗主演でNHK大河ドラマ)』では英雄扱いの「伊達藩重臣・原田甲斐」も、もちろん「実像とは違う」。俺個人は『樅の木は残った』は大好きです。ただし「小説と歴史的史実」を混同してはいけない。混同をしない限り「虚構の産物」である『三国志演義』『天と地と』『樅の木は残った』を娯楽として楽しんで何の問題もない。
それはともかく、小嶋氏は「小説と歴史学は違う」と思いながらも三国志演義で「正義の武将・劉備」に慣れ親しんできた「三国志ファンは、柿沼本が描き出す劉備や孔明の実像にショックを受けるかもしれない」と書いていますがどんなもんですかね。
いずれにせよ「日本で中国史に興味を持つ人のきっかけの多くは三国志」つう小嶋氏の指摘はその通りと思います(最近はヤングジャンプ連載の漫画「キングダム」などもきっかけとしてあるでしょうが)。
小生もNHK人形劇「三国志」(1982~1984年)、横山光輝*12「三国志*13」などで三国志に親しんできたおっさんです。
他にも、三国志関係では、吉川英治*14「三国志*15」、柴田錬三郎*16『柴錬三国志:英雄ここにあり』(講談社文庫または集英社文庫)、陳舜臣『秘本三国志』(中公文庫)、北方謙三『三国志』(ハルキ文庫)とかコーエーのコンピュターゲーム「三国志」とかいろいろあります。
なお、人形劇三国志だと「五丈原の戦い」の「死せる孔明、生ける仲達を走らす」で話が終わります。
なお、小嶋氏はなぜか紹介していませんがググったところ三国志関係では
といった新書があります。
【鶴間本紹介】
■鶴間和幸*18『人間・始皇帝』(2015年、岩波新書)
苛烈な暴君か、有能な君主か 『人間・始皇帝』 - HONZ
2015年10月27日(火)から2016年2月21日(日)まで東京国立博物館にて特別展「始皇帝と大兵馬俑」が開催される。1974年、3月始皇帝陵の東1.5キロの地点で偶然に兵馬俑坑が発見された。兵馬俑の「俑」とは人間や軍馬の姿をありのままに写し取り、墓に埋めたひとがたをいう。2200年前の兵士と馬の姿が等身大で目の前に現れたのだ。その数は8000体にも上るといわれ、20世紀最大の考古学的発見と呼ばれている。
その膨大な俑に守られて埋葬されている始皇帝とはどんな人だったのか。紀元前259年に生まれ13歳で秦王に即位、39歳で天下を統一して49歳で亡くなる。「最初の皇帝」を名乗り、中国大陸に秦という統一王朝を打ち立てた男。暴君とも賢帝とも言われ、古代から日本にも大きな影響を与えてきたこの人物が、昨今の発見により像の形を変えつつある。
本書はこの展覧会にも深くかかわり、始皇帝の陵墓を人工衛星から撮影し、立地条件や建造の秘密にを解明しようと研究する中国史学者、鶴間和幸による最新の始皇帝像の考察である。
始皇帝には残された謎が多い。そのひとつは出生である。彼の父親は誰か。父の秦・荘襄王が、後に側近となる呂不韋の愛姫を見初めて誕生したことで、どちらが本当の父親かは長く議論されていた。まず、このことを解決する。『史記』のなかでさえ、どちらかはっきりさせていないこの問題を、発見された竹簡からの新しい事実を踏まえ、著者は大胆に切り込んでいく。徐々に大商人であった呂不韋の緻密な計画が浮かび上がってくるのだ。
幼くして即位した趙正*19がどのように成長し、国力を上げていったのか。人生の大転換期であったといえる嫪毐(ろうあい)の乱についても、その真相に迫っていく。
趙正が成人する以前、母親の母太后の愛人であると言われた絶倫男の嫪毐と、呂不韋は新王朝を二分するほど強大な権力を握っていた。だが、(ボーガス注:始皇帝は)成人を迎えると彼らふたりと決別する。そのきっかけとなったのが「嫪毐の乱」といわれる反乱であった。
著者はこの事件の時系列を整理した。すると、司馬遷が『史記』で書きたかったことが輪郭を持ち始め、趙正が目論んだ側近の粛清の意図が見える。若き秦王が「皇帝」を手に入れるための第一歩であった。
戦国時代を制し大帝国を築くまでの闘いは、本書ではそれほど詳しく描かれていない。しかしその間にあった刺客の荊軻*20による暗殺未遂事件には1章を割いて裏側を探っていく。ここは読みごたえがあり、征伐されていくまわりの国の思惑や、滅ぼされていく人の怨念が渦巻いているのが見えるようだ。史実でありながら小説より面白い。
統一後、すべての国で度量衡の規格、車輪の幅、文書の形式を統一した。その証書の木版も2002年に発見され、地方にまで徹底されていたことがわかった。占領国へ秦の文化を押し付ける反面、各地を巡幸し祭祀を行っている。潰すだけでなく懐柔も行い、人心を取り入れていく。「皇帝」という称号はどのようにつくられたのかなど、興味は尽きない。伝説の人物、始皇帝の頭の内部に入っていくような興奮を覚える。
最終章では秦の終焉にまつわる黒幕の存在について詳述される。始皇帝の背後で国を動かしていたのは誰か。「人間・始皇帝」に一番近い人物は何を目論んでいたのか。
新発見により2200年も昔の話が現実味を帯びてきた。新しい始皇帝像を浮かべつつ、もう一度『史記』の世界に立ち返ってみたい。
[ 書評]鶴間和幸「人間・始皇帝」 | 演劇とかの感想文ブログ
今、一番読んでいる漫画は文句なしに週刊ヤングジャンプにて連載中の原秦久さん作の「キングダム」です。
今回は、そんな物語の主人公の一人「始皇帝」についての本を読みました。
この本の中では、始皇帝の呼び名は一貫して、趙正で統一されています。名前は、政治の政ではなく正月の正だったとのこと。彼は正月に生まれており、生まれ月から正と名付けられたとあります。
確かに、生まれたときは人質として敵国に送られていた、王太子でもなんでもない、王の何人もいる子供の一人を父として生まれた子供に、政を意味する名前をつけたというよりも、正月に生まれたから正だったというのもわかります(趙正と呼ばれた理由も趙で生まれたからという説も紹介されています)。政治の政とつけたのは、始皇帝の生涯を後から俯瞰してみることが出来た司馬遷による創作の可能性が高いようです。
始皇帝の生涯を解説したこの本は、実は統一までは実にあっさり記載されています。統一後も色々あるからな訳ですが、中でも一章を割かれているのが、一大事業として国中を走る道路建設(馳道)をし、行幸したという事実です。
僕が古代史に興味を持つきっかけになった塩野七生さんの「ローマ人の物語*21」の中でも、ローマが帝国拡大の為の一大事業としての道路整備を行ったということを思い出しながら読みました。
始皇帝の方は、地方への行幸をかなり頻繁に行ないましたが、それも統一の基盤づくり、地固めだったのでしょう。
「ローマ人の物語」でも、ローマ帝国が拡大していくに連れて、道路を拡幅していく様が描かれます。いわゆる「すべての道はローマに通ず」というやつです。
洋の東西を問わず、国造りの基本が同様のであることも新しい発見でした。(と思いましたが、よく調べると始皇帝の作った道路は皇帝専用道路だったようです。物流の活性化や、軍隊の移動を早くするために作ったというローマの道路とはちょっと違うのかもしれません)
ローマにしろ、中国にしろ、紀元前の国の成り立ちの情報が、文献として未だに発見されることに羨ましさを感じます。特に、中国は、漢字と言う現在も使われている中では世界最古といわれる文字体系があり、二千年前の文書を読み解くことが出来るというのはすごいです。
日本だと日本書紀/古事記以外の文書はほとんどなく、あらたな発見も見当たりません。
ここまで書いといて何ですが、キングダムの先をあまり知りたくない人には本書は勧めません。色々先々の展開がわかってしまうので…でも、そういうネタバレ込で読むなら、なかなか面白い本だったとおもいました。作者は、中国まで取材に行っている本格派の研究者。読んで損はありません。
鶴間和幸『人間・始皇帝』(岩波新書) 8点 : 山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期
中国の戦国時代を終らせ、郡県制をしき、万里の長城を修築し、文字や度量衡を統一するというまさに「中国のかたち」をつくり上げる一方で、焚書坑儒や厳しい民衆支配などの残虐性も語られる始皇帝。
その生涯は基本的に司馬遷によって書かれた『史記』によって知られていましたが、1974年の兵馬俑坑の発見や、近年の秦の時代に書かれた竹簡などの発見によって、『史記』の記述とはまた違った始皇帝の姿が現れようとしています。
そんな最新の研究に基づく始皇帝の姿を提示しようとしたのがこの本。『史記』に書かれたエピソードを竹簡の史料などによって批判的に検討しながら、新しい始皇帝像を打ち出そうとしています。
全体的に『史記』の記述に新史料を使ってチャレンジするような形になっていて、例えば第1章では始皇帝の名前が司馬遷の記す「政」ではなく「正」であったとしてます。
近年、海外に流出した秦代や漢代の竹簡が中国の大学に寄贈されており、その中にある『趙正書』では、始皇帝を「趙正」と記述し、始皇帝の死んだ場所や後継者の指名に関しても『史記』とは違ったことが書かれているのです(5p)。
他にも、始皇帝が中国を統一した前221年について、(中略)始皇帝の行った巡幸の意味を考えています。
広大な中国に全く新しい統治システムを植え付けるのは簡単なことではなく、始皇帝といえども各地に伝わる祭祀などを利用して、「統一」というものの内実を示す必要がありました。それが始皇帝を5回に渡る全国巡幸へと駆り立てたのです。
この本では、焚書坑儒に関しても、たんなる儒教への反発ではなく、同じ時期に行われた北の匈奴と南の百越あいての戦争に反対する言論への弾圧として捉えています。
穴埋めにされたのは儒家だけではなく、いにしえの王などを持ちだして、戦時体制下の民衆を不安にさせる言説を唱えた人々だったのです。
さらに始皇帝の死と後継者指名についてもこの本では『史記』の記述とはまたちがった可能性を示唆します。
始皇帝の死後、長子・扶蘇への遺詔が宦官の趙高によって破棄され、趙高は李斯と共謀して末子の胡亥を後継者に祭り上げ、扶蘇と将軍・蒙恬に死を命じ、扶蘇はその命によって死んだとされています。
秦という大帝国が「悪人」である趙高によって滅亡へと導かれるというストーリーですが、前掲の『趙正書』には、始皇帝自身が胡亥を後継者に指名したとの記述があるそうです。この真偽について著者ははっきりと判断していませんが、『史記』の記述が「正しい」とはいえなくなった状況のようです。
一方、第8章では始皇帝陵について、最新の考古学的な研究を踏まえた分析が披露されています。
いまだに発掘に至っていない始皇帝陵。この本を読むと、これからもまだまだ始皇帝に関する様々な発見がありそうです。
このように書いていくと、『史記』をきちんと読んだことのある人向けのかなりマニアックな本だと思う人もいると思いますが、各章ともまずは『史記』の記述を押さえてから、その検討に進むようになっているので、『史記』の内容に通じていない人でも理解できるようになっています。
他にも、巻末に人物紹介を付けるなどこの時代の歴史に詳しくない人にも読めるような工夫がなされており、漫画の『キングダム』を読んだ程度の人でも十分に楽しめる内容になっていると思います(全く知識ゼロだと厳しいかもしれませんが)。
ただ、『キングダム』を読んでいる人にとっては、先のストーリーが分かってしまうという問題点はあるかもしれません。
鶴間和幸著 『人間・始皇帝』を読んでの戦国時代以後の感想など - てくてく とことこ
・鶴間和幸さんの『人間・始皇帝』なかなか面白い良書なのではないだろうか?。「始皇帝=呂不韋の子」説の否定だけでなく、「楚の考烈王の子=太子・幽王」が「春申君の子」説も、(ボーガス注:春申君や李園の)政敵が流した俗説とバッサリ否定しているところなんか個人的にかなりポイント高いですね。
・趙の人間の李園*22が、実は王の子供ではない人間を王位につけようとしたという話は、衛(鄭?)の人間だが、趙と関係が深い呂不韋が自分の子を王にしようとしたという話と構造が全く同じ。本国人・公子でない人間が、長期間宰相・事実上独裁のようになると、こういうデマが流行るということだろう。
・嫪毐=宦官っていう話、どうも胡散臭いわなぁ。嫪毐さらに呂不韋と趙太后*23がデキていたっていうのはありえないって前から言ってるけど、そもそも夏太后*24が前240年まで生存しているわけですよね。趙太后が後宮を独占して支配下に置くことが出来たわけでもないのに、人道に反するとされる不倫を行えたっていうのはありえないですよね。
・呂不韋が洛陽で、嫪毐が太原と山陽に報じられている=最前線の要衝を二人で担う。只の宦官とは思えない。
嫪毐・呂不韋って食客を抱えていた事実から見て、多分戦国四君*25の流れにある存在なんでしょうね。宰相になるレベルの有力者が、その政治力のために多数の賓客を抱えるという。これまでは王族・公子だったのが一商人になったというのが時代の転換点かな。とすると嫪毐も商人だとか?
・嫪毐は太原と山陽に国を持ち、呂不韋と並ぶ権勢を持った。唯の宦官ではありえない。
・司馬遷は戴冠式の隙を突いて嫪毐が挙兵。それを迎え撃ってあっさり決着という解釈をしているが、鶴間さんは10日前後で事件がすぐ終わっていることへの疑問と彗星=乱が起こるという人心から、始皇帝がその人心の動揺を利用して式を延期・反乱の容疑で嫪毐を急襲したと解釈している。
※追記
秦の崩壊は人事制度の失敗・当時の大臣クラスになりうる「士」階層を敵に回したことに尽きるんでしょうね。もちろん全体の数から見れば大臣にまで成り上がれるのはそこまで多くなかったでしょうけど。呂不韋ほど食客抱えるレベルはそうそうなかったでしょうが、客身分として諸国を巡る「士」はいくらでもいたでしょう。統一で彼らの仕官・食い扶持が一気になくなってしまうことになれば、当然彼らは不満を持つ(無論一気に仕官ゼロにはなってはないでしょうけど)。となれば、王国を復活させろ!と反秦活動が起こるのは当たり前。張良なんかも食客だったしね 。
学を修める・市や士の間で名を知られるなどで評判を高める。そして上位の食客に招かれるか、それを経ずに宰相などに抜擢。だいたいそんなパターンだったが、秦・法家の制度ではそれはない。吏になって法治・法の運用能力を示さないといけない。これで彼らのキャリアをゼロにした。これがまずかった。
多分、元々秦の版図では法治・官僚制でうまく行っていて問題なかったのだろうけれど、そのやり方をイキナリ適用したから人事行政が混乱したということなんでしょうね、秦の崩壊は。漢がやったように時間をかけろってことでしたよね、結局は。
【鶴間本以外の新書】
■落合淳思*26『古代中国の虚像と実像』(2009年、講談社現代新書)、『殷: 中国史最古の王朝』(2015年、中公新書)
最近読んだ本 - 博客 金烏工房
・昨日病院の待合室で落合淳思『古代中国の虚像と実像』(講談社現代新書)を読んでました。
・この本で言っているようなことは宮崎市定*27の「身振りと文学」「史記李斯列伝を読む」が数十年前に通った道ッ!!*28
・宮崎論文のあらまし:「『史記』の説話は市井の講談や演劇を元ネタにしているんだよっ!」
『古代中国の虚像と実像』その1 - 博客 金烏工房
この本の一体どこがどうダメなのかを考え続けていました。で、出た結論としては、古籍の説話にツッコミを入れること自体が悪いわけではない。また著者が提示する「実像」もそれなりにもっともなのが多い(もっともでない点については次回以降触れていきます。)。しかしツッコンだらツッコミっぱなしで「ではどうしてそのような『虚像』が創作されたのか?」「そのような『虚像』が受容された社会とはどんなものだったのか?」について全く触れていない点ではないかと思い至りました。
少なくとも最後の章あたりでそれについて触れておれば、本書の印象も随分違ったものになったのではないかと思います(あと、本書ではしばしば説話の「捏造」という言葉が使われていますが、「創作」という言葉の方が適切だと思います)。それこそ「『史記』にもっともらしく記載されている個人の密談なんて誰が聞いてたんじゃーーーーっ!」とツッコムだけなら、前回も触れたように宮崎市定が既にやっているわけですから。
中華圏の近年の研究を振り返っても、王明珂『華夏辺縁』は経書などに見える王侯の祖先神話を創作としつつも、それが創作され、受容された背景についてしっかり考察しています。また郭永秉『帝系新研』も「古帝王の説話が史実を踏まえているなんて一体何の根拠が?。あんなの戦国時代に創作された伝説ですよ!」というようなことを述べていますが、これは本書の結論ではなくあくまで出発点です。
つまり現在の研究は既に説話が史実ではないと認識したうえで、その意味を探るというところまで進んでいるのです。となると、本書の問題点はやはり説話を「虚像」と切って捨てるだけでそこから話を広げていないことということになるでしょう。
落合淳思『古代中国の虚像と実像』
・言わんとしていることはわかるものの「密室で会話されたとするモノが史書に書かれているのがそもそもおかしい」という類の事例を押し並べて「だからこの話は作り話だ!」という感じでガンガン断定していくのはどうかと。史書に書かれている”史実”は、そのまま当時起きた”事実”とは違うのは…、何というか今更ご高説垂れて貰うまでもなく常識の範疇ではないかなぁ…とも思うんですけどねぇ…。せいぜいが「密室で行われたことが外に漏れる可能性は極めて低いので信憑性には欠けるモノの、後世の史家及び当時の市井の人々が納得する説話であった」とする方がいいと思うんですけどねぇ。それならば一番わかりやすい四知でも例に出せばいいのに…と思うんですが…。
・有名な話なので楊震、四知とでも検索すれば意味は出てくると思います。要するに、要職にあった楊震の元に夜半、王密という人が任官の便を図って貰おうとして、賄賂を持って行ったところ楊震は受け取らず、王密が「今は夜ですし知っている人もいません」と促すと「天知る、地知る、我知る、君知る…なんで誰も知らないと言うことがあろうか!*29」といったという説話*30ですよね。
本当にこのことを知る人がいなかったのなら、この話は史書に載ることなく二人だけの秘密になったはずですが、史書に残されているところを見ると楊震が恐れていたように誰かに見張られていたのか、恩を感じた王密が喧伝したのか、会心のディベートを楊震自信が吹聴して回ったのかいずれかですよね?。史書にはママどうしてこの話が伝わったんだろう…という話は多くあります。こういうのを一つ一つあげつらって「作り話だ!」というのは…ナンセンスだと自分は思うんですけどねぇ…。むしろ、当時その説話が事実だと信じられた…もしくは史書を書いた人物にとっては事実だと信じ…そして後世の人も事実だと信じた…という社会的な側面の方が中国史では特に留意すべきだと思うんですが…。信憑性が薄いというのであれば同意するんですけど、信憑性が薄い=作り話であるというのは些か飛躍のしすぎだと思うんですが…。
落合淳思『古代中国の虚像と実像』(講談社): 雑記帳
講談社現代新書の一冊として、2009年10月に刊行されました。『史記』などの古典に基づく、事実ではない作り話がいまだに根強く浸透している現状にたいして、2000年以上も昔の話だからこのような誤解は放置してもたいした害はないだろうが、自分は非科学的なものが嫌いなので、あえて虚像を指摘し、それを正す文章を書くことにした、との冒頭の一節から、良くも悪くも精神的に若い人だなあ、との印象を受けましたが、じっさい、著者は1974年生まれとのことで、歴史学の研究者としては若手と言ってよいでしょう。本書で取り上げられている、古典での記述とは異なる「史実」は、「古代中国史」に関心のある人にとっては、それほど目新しいものではないでしょうが、それらを簡潔に新書という形式でまとめたこと自体は、価値があると言ってよいだろう、と思います。
本書のなかでとくに注目したのは第2章で、「夏王朝」の「実在」が本書では否定*31されています。近年、中華人民共和国では「夏商周断代工程」が公式見解として発表されており、「夏王朝」の「実在」はすでに証明された、との雰囲気があるのですが、日本の研究者はこうした風潮に懐疑的なようです。本書では、「夏王朝」とされる二里頭遺跡を、諸文献に見える「夏王朝」と結びつけることが批判されています。それは、「夏王朝」の伝承の原型が成立したのは春秋時代の初めであり、その伝承のなかに二里頭文化を反映した部分がまったくないからで、この批判はもっともなところだと思います。
落合淳思『殷 中国史最古の王朝』: 雑記帳
中公新書の一冊として、中央公論新社から2015年1月に刊行されました。本書は、『史記』などの後世の文献ではなく、同時代の甲骨文字を重視して殷王朝の実態を解明していこうとします。『史記』などの後世の文献による物語的な殷王朝史・殷周交代史でまず歴史に馴染んだ私からすると、本書の叙述にはどこかで違和感が残ります。とはいえ、成人以降に何冊か一般向け概説書を読んでいたので、受け入れられないというほどの違和感ではありませんし、専門家による新書が本書のような方針で執筆されるのは、基本的には歓迎すべきだろう、と思います。
門外漢の私には、本書で提示された甲骨文字の解釈や暦の復元やそれに基づく殷王朝史がどこまで妥当なのか、的確な判断はできませんが、大きく外しているようなことはないだろう、というのが第一印象です。本書によると、殷は首都の商(大邑商)付近を直接統治し、遠方は「侯」などと称される地方領主を通じて間接的に統治して、戦争においては敵対勢力に近い領主しか動員しない(できない)という、緩やかな(脆弱な)支配体制の王朝でした。また、周代とは異なり、殷王と地方領主との血縁関係は見られないそうです。
そうした殷王朝は、中期の混乱と再興、その後の安定を経て、次第に反乱に苦しむようになり、ついには滅亡します。本書は、強い敵対勢力が出現するという新たな状況下で、殷は王権や軍事力の強化で対処しようとしたところ、一旦は成功するものの、結局は集権化に反発する内部勢力からの反乱により滅亡したのではないか、と推測しています。本書は殷の滅亡を「合理性の衝突」と把握しています。地方領主の権限が大きく、分権的な「合理的」支配体制だった殷が、新たな状況に対応して急速な集権化という別の「合理性」を選択したところ、旧来の「合理性」と衝突してしまったのではないか、というわけです。
本書はこの殷周の交代を、分権的で不安定な支配体制だった初期の王朝から、安定した貴族政社会へと転換していく過程と把握しています。さらに本書は、春秋時代・戦国時代に貴族層が衰退し、成文法・官僚制などの成立により君主独裁制が進展していった、との見通しを提示しています。なお、副題にもあるように、殷が「中国史最古の王朝」とされていますから、著者は「夏王朝の実在」が「証明された」とする見解に批判的です。この点では、著者の以前の著書『古代中国の虚像と実像』と変わらないようです。
■佐藤信弥『周:理想化された古代王朝』(2016年、中公新書)、『中国古代史研究の最前線』(2018年、星海社新書)
「周―理想化された古代王朝」佐藤信弥著 | 比企下総のブログ
さて、ページをめくると冒頭から、「封神演義」やら「キングダム」と、漫画の話を連ねてきます。
そういう時代なのだな~*32、等と感慨にふけったものですがかくいう自分も漫画「封神演義」で殷周革命を知った口なので、偉そうな口は聞けません(キングダムは未読です)。
近年発掘された同時代史料(金文、青銅器の銘文)により新たな事実がわかってきたという事です。
日本では邪馬台国の場所すら不確かなのに、中国では三千年前の事までわかるのかと、感心してしまいました。
やはり未来に伝えるには文字が大切なのだなと。
口伝では、いずれ改変してしまうでしょうし。
やはり基礎知識無しで読むにはどうにも難解な内容です。
大変読み易い文章で書いてくれていて、良書には間違いないのですが、聞きなれない人名や用語が続くと、なかなか頭に入ってきません(特に、なじみが無い西周時代)。
わかったのは、周は建国した当初から結構不安定だったという事でしょうか。
外征等のいざこざが多かったようです。
『周―理想化された古代王朝』 - HONZ
・中国では、常に古代の聖天子の時代が憧憬される。伝説の堯や舜はともかく実在が確実視される周の文王*33や武王*34、周公旦*35の時代である。周は約800年続いたが、これまで意外なことに読みやすい通史がなかった。本書は待望の1冊である。
従来の中国の古代史は概ね司馬遷の叙述(史記)など伝世文献に依拠してきたが、当時の金文(青銅器に彫られたもの)や竹簡などの同時代資料が陸続と発掘されるにつれ、古代王朝の実像が少しずつ詳らかになってきた。著者は、伝世文献と出土文献をバランスよく渉猟し、周を読み解くキーワードとして祀(祭祀)と戎(軍事)を取り上げた。
・殷(商)を倒して周が成立した牧野の戦い(BC11世紀後半)。これは関ヶ原のような大決戦ではなくむしろ桶狭間のような戦いであったようだ。2代成王の時代に殷の遺民が反乱を起したが、成王は東征してこれを抑え洛陽に新しい拠点をつくって諸侯を封建した。この時代から周王朝の拡大が始まり、周王は諸侯らを統合する手段として各地で会同型儀礼を行ったが、これは殷の狩猟・漁撈儀礼を引き継いだもので池水で行われた。
従来は、殷と周との間には断絶があるとする見解があったが(殷周革命)、事実は必ずしもそう単純ではなかったようだ。会同型儀礼の参加者には周王から宝貝など物品の贈与が行われ、王室が集積した財貨を再配分することによって、周王は諸侯らとの関係を取り結んだのである。
4代昭王は、領域拡大の過程で、どうやら南征に斃れたようだ。6代共王のあたりから、周王朝の支配領域拡大が頭打ちとなり儀礼も冊命儀礼(王が臣下に職務を任命)に変化する。戎と祀はリンクしていたのだ。10代厲王は暴君として追放され(共和の政)、11代宣王が周王朝を取り戻す努力を傾けたがそれも実らず、12代幽王の時代に周は滅亡する(BC771年、西周の終焉)。
周の王族が洛陽に東遷して、周という国自体はさらに500年生き延びるが、もはや祀や戎をリードする力は残っていなかった。そこで諸侯の中の有力者(春秋5覇*36)が台頭する。彼らが実質的には中国を統治したのである。その中で、東周9代定王は楚の荘王に鼎の軽重を問われた*37というわけだ。
次いで、祭祀の乱れを嘆いた孔子が礼制(祀)の再編を試みる。儒家は西周の祀を復活させたと主張したが、それは当時の東周の礼制をベースに儒家が文献に散見される西周関連の記述をたよりに修復(もしくは創造)したもので、それが代々引き継がれていったのだ。
なお、殷や漢の王墓は発掘が行われ公開されているが、西周の王墓はそれらしきものが見つかったと報道されたものの正確な場所はいまだに不明だという。もちろん発掘も行われていない。長く聖天子と謳われた文王や武王の陵墓はいかなるものだろうか。ここにも想像力を掻き立てるロマンの種が残っている。
佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』: 雑記帳
星海社新書の一冊として、星海社から2018年3月に刊行されました。本書は紀元前21世紀~紀元前1世紀頃までを対象に、伝世文献主体だった中国古代史研究が、近代以降に出土文献も含む考古学的研究の進展によりどのように変わってきたのか、解説しています。「**研究の最前線」というような題の一般向け書籍は、複数の執筆者で構成されていることが多いと思いますが、本書は殷王朝の前から前漢王朝末期までの約2000年間分を一人が執筆しています。しかし、本書は対象を伝世文献と出土文献および主な考古学的な遺物・遺構に限定しており、禁欲的というか、一人の執筆者の扱う範囲として良心的と言えるかもしれません。その分、期待していた環境考古学や古代DNA研究による中国古代史研究の見直しには言及されていないので、今後はそのような本・論文を少しずつ読んでいこう、と考えています。
本書が強調しているのは、考古学的資料を文献の奴隷や脚注にしてはならない、ということです。出土文献など考古学的資料を安易に伝世文献の枠組みのなかで理解することが戒められているわけですが、これはもっともだと思います。近年、中華人民共和国では、殷よりも前の政治勢力の痕跡と思われる二里頭文化をもって夏王朝実在の証拠とし、伝世文献の夏王朝に関する記述が無批判に史料として引用される傾向もあるそうです。本書はこうした傾向に批判的で、二里頭文化を夏王朝と呼ぶことにやや慎重な姿勢を示しています。私も本書の慎重な見解に同意します。
私は小中学生の頃に伝世文献に基づく子供向け中国史を読んで育ったので、成人後に出土文献を取り入れた研究成果に基づく一般向け書籍もそれなりに読んできたとはいえ、今でも、本書が提示するような中国古代史像には馴染めないところがあります。本書を読んで一般向け書籍としてはやや難しいのではないか、と思ってしまったのは、私の勉強不足が大きいのでしょう。とはいえ、本書の提示する中国古代史研究の最新の動向は興味深く、優先順位はそれほど高いわけではありませんが、今後も少しずつ追いかけていきたいものです。
「中国古代史研究の最前線」 研究の最前線、日本に紹介|好書好日
「キングダム*38」「封神演義*39(ほうしんえんぎ)」など古代中国を舞台にした漫画がヒットし、中国古代史に興味を持つ若い人も増えてきた。だが、中国で新しい出土文献が次々と見つかり、研究も進んでいるのに、日本ではあまり紹介されず、教科書の記述も古いままのことも少なくない。「最新の研究状況を知って古代史を楽しんで欲しい」と、3月に「中国古代史研究の最前線」(星海社)を出版した。
関西学院大学で「史記*40(しき)」「春秋左氏伝*41(しゅんじゅうさしでん)」などの文献を下敷きに歴史を読み解く魅力にはまった。2008年に中国東北部の吉林大学の古籍研究所に留学し、殷周(いんしゅう)時代の古文字を研究。現在は立命館大学白川静*42記念東洋文字文化研究所の客員研究員と同大学講師を務める。
出版した本では近年見つかった金文や竹簡(ちくかん)などの出土文献を紹介し、古代史研究がどう変化してきたかを時代ごとに解説。
「最前線と書いたが、新しいものはどんどん出てくる。研究に興味をもってくれるきっかけにもなればうれしい」。
古代の戦争やその思想にも興味があるそうで、研究に対する情熱は深まる一方だという。
覚え書:「中国古代史研究の最前線 [著]佐藤信弥 [評者]出口治明(立命館アジア太平洋大学学長)」、『朝日新聞』2018年05月05日(土)付。 - ujikenorio’s blog
序章でノックアウトされた。僕は、甲骨文発見の経緯は、清朝末期の役人、王懿栄(おういえい)が北京でマラリア治療のため龍骨(りゅうこつ)と呼ばれる漢方薬を買い求めたところ文字らしきものが刻まれているのに気付き、それがきっかけで殷墟(いんきょ)が発見されたと信じてきた。しかし、実は、骨董(こっとう)商が北京で甲骨を売り歩いており王懿栄がそれを入手したという。本書は、近年の出土文献や最新の研究成果をもとに中国古代史の実像に迫ったものである。
本書は夏から秦までの約2千年をカバーするが、各章とも目からうろこが落ちる。例えば、兵馬俑(へいばよう)は一般には殉葬者の代わりとして理解されてきたが、そうではなく始皇帝が滅ぼした東方六国*43の霊魂による反撃を恐れたのでそれを防衛し威圧するために作られた、という説がある。つまり、殉葬者ではなく鎮墓獣の代わりというわけだ。
また、兵法で有名な孫子が孫武と孫ピンの2人から成ることは1970年代に発掘された竹簡により確証が得られた。竹簡とは、竹を細い短冊状に切って文字を1行ずつ書いたもので、竹簡発見の歴史は漢代にまでさかのぼり、中国では古い時代から新たな出土文献が触媒となって学術を発展させてきたと本書は指摘する。
著者は、個々のトピックの紹介にとどまらず、骨太な学問の方法論をも俎上(そじょう)に載せる。出土文献と『史記』や『三国志』などの伝世文献(漢籍)をどう取り扱うか、歴史学と考古学はどのような関係に立つべきか、また、2000年に公表された中国の国家プロジェクトである夏商周断代工程(古代の年代画定の試み)の取り扱いなど興味が尽きない。古代中国を舞台にしたコミック「封神演義」や「キングダム」により、この時代は若い世代にも人気だ。しかし、その最新の研究成果は教科書にも反映されず古い常識がまかり通っている。著者の嘆息が聞こえてくるようだ。しかし、こうした事情は日本史や西洋史も全く同じではないか。
■柿沼陽平『劉備と諸葛亮:カネ勘定の『三国志』』(2018年、文春新書)
アマゾンレビュー
■革命人士『軍事優先だった蜀漢政権』
・横山光輝でも吉川英治でも、三国志を知る人にとって「蜀漢=正義」イメージはなかなか強固だ。
・蜀漢は劉璋から四川盆地を騙し取って成立した。経緯もひどいといえばひどい。
・10年で5度の戦争、当時の総人口の7人の1人が官吏・兵士だったというから、北朝鮮も真っ青の先軍主義国家である。民生を全く顧みず、支配下の益州も南蛮も疲弊していた。さんざん苛政に苦しめられたはずの益州で、劉備と諸葛亮は中原と互角に戦った郷土の誇りになっていた。魏の後身である西晋で、敵将・諸葛亮が高い評価を受けた理由も面白い。西晋の祖(ボーガス注:司馬懿)が5度戦って封じ込んだ相手は名将でないと都合が悪いということだという。
■アンガル『領民泣かせの劉備、諸葛孔明像』
圧倒的な力を持つ魏に対抗するため、蜀では極端な軍国主義が取られたという。そこから、後世名君・名宰相と称えられる劉備、諸葛孔明の治世も領民には厳しい環境だったのではないかとする。紀元3世紀に活躍した英雄伝中の人物像を限られた材料で多面的に浮かび上がらせるのはもとより困難だが、あくまで一つの想像として、自分は楽しんで読めた。
■Amazon カスタマー「史学視点からの英雄批評」
劉備について、『演義』では貧しいむしろ売りとして登場し、救国の志をともに持つ関羽・張飛と義兄弟の契りを結び桃園の誓いを立てる。本書は「桃園の誓い」の実態を大商人からの投資で劉備が活動資金を得たことによって結ばれた関係だと指摘する。帯にも大きく宣伝されている「関羽と張飛はカネでスカウトされた」というわけである。ほかにも劉備の生い立ちについては、貧農出身ではなくむしろ地方有力者の一族だと推察できる点、盧植を師事した事実はあるようだが実態は方便として触れ回っていた学歴詐称に過ぎないことを挙げている。
「漢室再興」「曹魏打倒」のために行った政治手法は「軍事最優先型経済体制」と呼ばれるもので、仁政とは程遠い施政を益州(荊州)の人民に強いたという。
http://jumbomushipan4710.blog.jp/archives/52167689.html
・三国志といえば昔、NHKでやっていた『人形劇三国志』が私の中ではレジェンドだ。そこから一時期三国志にかなりはまったことがある。
・著者は中国古代経済史を専門とする研究者で本書の中でも経済のことになるとさすがに迫力がある。今まで経済で三国志を見るというのはあまりなかったのでかなり勉強にはなった。
本書で一番面白かったのは、劉備のくだりだろう。劉備は劉姓を名乗るただの貧乏人というのが一般のイメージだが、劉備の一族をたどると意外にも祖父はスーパーエリートであった。
現在の感覚からすると劉備の家は「母子家庭」であり「生活大変そう~」であるが、当時の中国は一族が助け合って生活しており、劉備も一族の保護の下に成長していった。
学費なども一族によって出されている。確かに何で貧乏人の子の劉備が(ボーガス注:名門出身の武将)公孫瓚と同じ塾に通っていたのだろうという疑問は以前からあったがそういうことだったのだ。三国志好きなら買って損はないと思う。
柿沼陽平『劉備と諸葛亮 カネ勘定の『三国志』』 - 三国与太噺 season3
オビに「歴史学の最新知見が教える「名君」「天才軍師」のウラの顔」って書かれていることはまあよくあるキャッチーなコピーだとしても、本文中でも何度も、「本当に劉備はよく言われる仁徳の君主なのだろうか」的なことがくりかえし強調されている。
で、こういう仁君としての既存の劉備像ってのは、要するに『三国志演義』的な劉備像のことなので、あんまりそういう話ばかりが出てくると、『演義』マニアとしては正直に言ってあまりいい気分にはならない。一般向けの三国志本でありがちな、『演義』を間違った知識・イメージの象徴として槍玉に挙げるような言いぶりで、僕としては「お?やるのか?」って言いたくなる。
もっとも、こういうわかりやすいテーマを軸にしてくれたほうが普通の読者には読みやすいのだろうし、そういう意味でこれも柿沼先生の「わかりやすさ」に対する心配りなのかもしれない。
それに当の柿沼先生はというと、『演義』については「史実と虚構が絶妙に混ぜ合わされ、一つの壮大なドラマが展開され、古来、中国民衆文学の最高傑作とのよび声が高い」「すばらしい文学作品」と絶賛しているわけで、自分自身のことも「中学校のときに横山光輝の漫画『三国志』を読んで以来、三国志の世界に魅入られてきた。だいたいどこの学校のクラスにも一人か二人はいる、三国志好きであった」と振り返っている。随所に三国志そのものへの愛も感じられて、そこまで言われてしまうと、こっちとしても「ま、今日のところはカンベンしたるわ」となってしまう。
なんか全部、柿沼先生の手のひらの上な気がするけれど。
https://bushoojapan.com/book/2018/06/29/114093
著者の柿沼さんは、1980年生まれで、帝京大学の准教授。
2009年に早稲田大学大学院で文学博士号を取得なさったとの事ですから、お若くて優秀な方なのでしょう。
専門は中国古代史、それも経済史や貨幣史を専門となさっておられまして、そうした関連の史料を駆使しながら、丹念に検証なさっておられます。
また、安直な断定は避けながら、慎重な記述に専念なさっておられます。
御本人は、少年時代に横山光輝の「三国志」にハマり、遂には家族を説得して中国に旅行して関連史跡を訪問なさったという「筋金入り」です。
横山三国志がお好きな方、disらないようにね(苦笑)。
さて、三国志の主人公である劉備と言えば、横山光輝の漫画では親孝行の好青年。
貧しい暮らしながら、母親の為に当時高価だったお茶を買う――という出だしは、皆様も御存知でしょう。
これ、実際はどうだったのか?
本書によると、実は裕福だったのではないかという指摘がされています。
父親が早世したのは漫画の通りなのですが、祖父の劉雄という人物が孝廉という中央省庁の管理職に必要な資格を得ていた。これに柿沼さんは注目なさっています。
当時、この資格を得るにも試験は10年に1回しかなく、そもそも狭き門だったのにパス。
そんなエリートの孫だったというのは、今回初めて知りました。
実際、父親の死後には叔父に育てられ、著名な儒学者である盧植の元で学問を学んでいたとの事です。
母子家庭で細々と暮らしていた訳では無かったのですね。
ちょっとイメージ壊れたぞ(苦笑)。
一方、三国志のもう1人の主人公である諸葛孔明こと諸葛亮にも注目です。
■軍師として有能だったのか?
あんまりネタバレしすぎるものアレなんで、後はサクッと。
諸葛亮は、結局のところ蜀漢の復興に失敗し、五丈原で没したのは皆様もご存知ですね。
悲劇的な最後を遂げたからこそ、今なお多くの人に愛されている所以なのでしょうが、じゃあ、軍師としては有能だったのか?
同時期に(ボーガス注:魏の重臣)司馬懿仲達がいたから天下統一が成らなかったのか?
そこらは第五章以降に詳しいです。
ここでも出てくるのは「カネ」の話のオンパレード。
そりゃぁ、人は情ではなくカネで動くとは言え…と思わされてしまいます。そして、そのカネが絡んだこその、数々の秘話を同書から知らされました。
蜀漢って「ブラック」やってんなぁ(ポツリ)。
ともあれ、ベスト・セラーになるだけはある!
面白い!
でも、これを読んだ後では横山三国志を素直に読み返せないかも。
■榎原雅治*44『中世の東海道をゆく*45』:環境史への道(下村周太郎)
(内容紹介)
ネット上の記事紹介で代替。
■書評『中世の東海道をゆく』
・「中世の旅人が記した文学資料を忠実に地図に描いていくとどうなるか」という「素朴な問い」に基づいて中世の京都から鎌倉に至る海道を再現したのが「中世の東海道をゆく」である。選ばれたのは鎌倉時代の飛鳥井雅有である。
・飛鳥井雅有は祖母を大江広元*46の女、そして妻を金沢実時*47の女とする鎌倉幕府に近い公家であった。京都のみならず鎌倉にも住居を持つ飛鳥井雅有は数度、東海道を行き来することとなる。彼の紀行文「東関紀行」「春の深山路」などを手がかりに中世の東海道が再現された。
Y. ITO's Diary:中世の東海道をゆく
鎌倉時代に京と鎌倉を往復したある貴族の旅行記をガイドとして、中世の東海道(沿いの何箇所かの土地)の姿を、地震データや潮汐データをも駆使して、復元していく本。単なる気楽な歴史の読み物なのではなく、こういった手法を用いる近年の歴史学・地理学の雰囲気が伝わってくる。
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鎌倉幕府ができて、京都と鎌倉の往来が多くなるとその旅の紀行文も数多く残されることになった。
それらを注意深く読み、比較し、中世の東海道がどのようなものだったかを明らかにしていく。
東海道というと、江戸時代の東海道五十三次のイメージがあり中世の旅路も似たようなものかと思っていたのだが、違っていた。
特に木曽三川*48や浜名湖、遠州平野、大井川、富士川など海岸線や流路などはだいぶ異なる。
特に面白かったのが、浜名湖の話。
浜名湖の新居の遠州灘側には、中世には橋本宿があった。
明応の地震(1498年)で橋本宿は壊滅し、今切と呼ばれる湖口が出来た。
■佐藤彰一*49『禁欲のヨーロッパ*50』ほか:西洋文化の基層としての修道院(梶原洋一)
(内容紹介)
ネット上の記事紹介で代替。
『贖罪のヨーロッパ』/佐藤彰一インタビュー|web中公新書
■インタビュアー
本書を執筆した動機を教えてください。
■佐藤
2014年2月に出版した前著『禁欲のヨーロッパ』(中公新書)は、修道士の厳しい修行生活を支える自ら進んで行う禁欲実践の起源を、キリスト教以前の古代ギリシアの市民の徳目であり、養生法でもあった「自己への配慮」の思想と、これを継承した古代ローマのエリート層に育まれた禁欲の思想のうちに求めた内容でした。その意味で、修道思想の社会的起源の探究とも呼べるものでした。
それに対して、本書『贖罪のヨーロッパ』は、キリスト教以前の古典古代の身体思想の系譜に立ちながら、その延長線上にキリスト教の救済思想と深く結びついた贖罪の観念を展望しようとしたものです。贖罪と救済とを結びつけるうえで、最も重要な思想は聖アウグスティヌスが生み出したのですが、これが一種の社会思想としてヨーロッパキリスト教世界に浸透するうえで最大の功績を果たしたのは、アイルランドの修道士たち、なかでも聖コルンバヌスでした。
彼らは、大陸からアイルランドに持ち込まれた様々の教父の作品や教義関連の著作で学び、一世紀以上にわたって沈滞していた大陸の修道制に、いわば原初の息吹を再びアイルランドから吹き込んだのです。同時に「リュクスーユ読誦集」で用いられている新たな書体を創りだし、やがてはカロリング朝期に頂点に達した写本文化繁栄のきっかけをつくりました。修道院の歴史的役割として、古典古代の作品を筆写し、それを後世に残したその功績は決して忘れてはならないものです。
このように、宗教・精神世界と書物文化両面にわたる中世修道院が果たした巨大な役割を、自分なりにしかも現在の研究動向もまじえて述べて見たいというのが動機でした。
■インタビュアー
前著『禁欲のヨーロッパ』と本書で描かれる内容で、とくに異なっている点はどのようなところでしょうか。
■佐藤
『禁欲のヨーロッパ』で展開した論理は、自己の欲望を統制する技法が古典古代と末期ローマでどのように展開したかを探究する論理でした。
しかし本書『贖罪のヨーロッパ』の舞台となったのは、すでにキリスト教が社会にかなり浸透した時代のヨーロッパです。そこでは古典古代のストア的禁欲思想とは根本的に異なる、罪障の贖いが信徒すべてに求められた世界です。「欲望」は贖罪の対象である「罪」のなかに解消され、贖うべき「罪」の一部と化してしまったのです。「禁欲」の論理は、6世紀以後はより広範な「罪」の論理として展開して行くというのが私の考えです。
■インタビュアー
今後の課題、テーマを教えてください。
■佐藤
本書の続きとなる1冊を、仮の題ですが「托鉢修道会と騎士修道会:都市化と膨張時代の中世ヨーロッパ修道制*51」というタイトルで書こうと考えています。13世紀から15世紀が時代枠となるでしょう。
『剣と清貧のヨーロッパ』/佐藤彰一インタビュー|web中公新書
■インタビュアー
本書は、『禁欲のヨーロッパ』、『贖罪のヨーロッパ』につづく三作目となりますが、本書で触れられている時代、修道制のあり方の特徴や、前著までの時代との違いについてお教えください。
■佐藤
今回出版した『剣と清貧のヨーロッパ』は時間軸としては、主に12世紀から14世紀までを扱っています。この時期はヨーロッパの歴史的展開にとって極めて重要でした。今日まで続く「十字軍思想」が、一つのイデオロギーと化して、ヨーロッパのキリスト教徒の間に浸透して行く過程が、この時期開始したのです。
確かに8世紀にイベリア半島にイスラーム国家が樹立し、それとの対決が「プレ十字軍」的色彩を帯びたことは確かですが、12世紀に聖ベルナールが鮮明にした聖戦プロパガンダに結実するような動きはありませんでした。8世紀末から9世紀にかけて、カール大帝をはじめとするカロリング朝の王たちは、アッバース朝のカリフと定期的な使節の交換を実践するほどでしたから。ちなみに津田拓郎さんの研究によれば、カール・マルテルが732年にトゥール・ポワティエ間の戦いで、イスラーム教徒の進撃を食い止めたという事実が、称揚されるようになったのは、十字軍時代以後のことでした。
さらに指摘しておきたいのは、この書物のもう一つの主題である托鉢修道会の出現です。ドミニコ会、フランチェスコ会、聖アウグスティノ会、カルメル会など多くの托鉢修道会がこの時代に誕生しました。
本書では最初の2つの修道会しか論じていませんが、この現象はこれに先立つ異端運動の猖獗なしにはあり得なかった事態であると、私は考えています。異端のラジカルさによって、それまでのキリスト教信仰を条件づけていた何かが消し飛んでしまったのです。絶対的無所有という思想、日々生きる糧を完全に托鉢の結果に委ねるという考え。これらは、「神の摂理」に身を委ねるという、托鉢修道会の姿勢の根幹をなすわけですが、異端現象として現れた信仰への根源的な問いかけなしにはあり得なかったでしょうし、さらにこうした心理的、精神的潜勢は、キリストの生誕後千年を経て世界の終末が訪れるという、いわゆる「至福千年」思想がなければ生まれなかったと考えています。
托鉢修道会が唱えた「imitatio Christi キリストのまねび」という思想は、聖フランチェスコに関する本書中の記述でも指摘したのですが、新約聖書に描かれたキリストと使徒の行動にひたすら心を寄せて実践するようにという教えです。それは前著『贖罪のヨーロッパ』が扱った時代まで重きをなしていた、罪を罰する峻厳な神が前景にあった「旧約聖書」から、キリストの愛の思想を根幹とする「新約聖書」への劇的転回があったのではないかと思っています。それを象徴するのが聖フランチェスコという人物だということです。この書物を執筆する過程で、遅まきながらフランチェスコという人間を発見し、心惹かれるようになりました。
■インタビュアー
ところでなぜ、それらの時代や修道会について取り上げようと思われたのか、動機をお教えください。
■佐藤
それは『贖罪のヨーロッパ』が扱った時代が12世紀に入るまででしたから、その続きは12世紀からでしょう(笑)。中公新書で刊行している一連の書物は、キリスト教の信仰実践の一大局面である修道制の歴史を、古代における禁欲の社会的機制の考察から始めて、キリスト教固有の贖罪が誕生した時代、信仰の内面化の托鉢修道会と騎士修道会の時代、それから宗教改革を経ての新たな布教地平(アジアと新大陸)を目指すイエズス会の活動の時代があり、17世紀初めには一転して対抗宗教改革の動きから生まれたサン・モール会という学僧たちの共同体が組織される時代というように、あくまでトピックを連ねた形になりますが、ひとまず近代までの歴史を自分なりに通観したいというのが、特に『禁欲のヨーロッパ』を書き終えた頃からの、私の思いでした。それに日本人が書いた修道院、あるいは修道制と言ったらいいのでしょうか、その通史が存在しないという事情があります。
■インタビュアー
騎士修道会と、托鉢修道会と、一見すると全く別の性質を持つ両者が、同時に現れてきたのはなぜでしょう。
■佐藤
大変な難問ですね。しかしこの設問は案外本質的な意味を持っているかもしれません。つまり、両者は外見上互いに離れた事象のように見えるかも知れませんが、その実(じつ)根っ子のところで繋がっているのではないかという認識です。
騎士修道会は言うまでもなく武器をとってイスラーム教徒を一人でも多く屠り、敵手の数を減らし、聖地の守護を目ざし、キリスト教徒巡礼者の安全を守ることを使命とした組織ですね。この組織は実は対内的にも極めて厳格な規律をもった組織です。
極めつきは個人財産の絶対的否定です。死者が少額の金を隠し持っていたことが埋葬後に判明した場合、死者は墓をあばかれ、飢えた犬の餌食にされるという、苛烈極まりない処断が待っているというのが一例です。それは激烈としか言いようがない、ラジカルさではないでしょうか。
他方でフランチェスコの生涯をたどりながら考えたことは、先にも触れましたが、その思想の根底において当時の通念を覆すラジカルさが、様々な形で感じ取られることです。
そして同時にこうした根源的なラジカル性を具えた挙措を日常とするためには、同じくらいの攻撃的心情を内に秘めていなければなりません。愛と平和の思想は、フランチェスコ個人の「攻撃的」とも言える過激なエネルギーによって支えられていたのです。それは武器を持たないものの、十字軍兵士と変わらない攻撃的心根を蔵していたと見るべきだろうと思います。つまり変革期の12世紀という時代相が生み落とした「双生児」と言えるかも知れません。
■インタビュアー
今後の関心についてお教えください。
■佐藤
もうすでに挙げましたが、次の著作*52はイエズス会が中心になる予定です。むろんこの著作の冒頭は宗教改革と対抗宗教改革について、トレント公会議も含めて論じなければなりません。
読書/ 佐藤彰一 『剣と清貧のヨーロッパ 中世の騎士修道会と托鉢修道会』 (中公新書、2017年12月) : 隗より始めよ・三浦淳のブログ
いくつか興味深い点を挙げておくと、まず南仏などで大きな勢力を持った異端カタリ派について、いかに従来のキリスト教と相容れないかを説明したあと、しかし修道会の一切の財産を放棄した使徒的な生き方は実は異端に近いところにあった、という指摘である(153ページ)。
また、騎士修道会が農牧業や、場合によっては金融などを自ら行うことで暮らしを維持したのに対し、托鉢修道会はヨーロッパの都市化を背景に、托鉢によって都市住民から生活の資をもらい受けることを前提としていた。と同時に、都市化によって一部の者が富を蓄積し、格差が拡大し、逆に貧民の群れも目立つようになるなどの状況への批判という意味合いもあった。
最後に、修道女に準じるベギンと呼ばれる女性(集団)について説明がなされていて、私はその存在すら知らなかったので、興味深く読むことができた。
『宣教のヨーロッパ』/佐藤彰一インタビュー|web中公新書
■インタビュアー
キリスト教の修道会がヨーロッパの精神・文化・経済に果たした役割について、古代から通観する本シリーズ(『禁欲のヨーロッパ』『贖罪のヨーロッパ』『剣と清貧のヨーロッパ』)は、本書では大航海時代にさしかかり、キリスト教はヨーロッパの境界を越えていきます。この時期に生まれたイエズス会について、先生はどのようにお考えでしょうか。
■佐藤
本書の本論部分をルターの宗教改革から書き出していますが、その中でカトリック側からの対応を「対抗宗教改革」ではなく、カトリック側の主体的で内発的な改革の動きとして捉えるという視点を前面に出しています。
「宗教改革」という世界史上の大トピックを見る際の、カトリック側の動向を理解する上での私の基本的立場はそれです。
本書で縷々説明したように、ルターの時代にヨーロッパ社会は様々な意味で転換点に立っていました。前面に出てくるのは、日常の精神生活の核とも言える信仰の問題と、戦争、疫病などがもたらす社会不安です。
信仰の支えとなる教会の機能不全は、末端に至るまで及んでいて、人々は「宗教」というものの意味を、日々自らに問いかけざるを得ない状況に置かれていました。
マルティン・ルターもそうした一人であったわけです。
ここで大事なのは、私が書物の中で「信仰の個人化」という言葉で表現したものの内実です。それは言うまでもなくカトリック世界では、信仰の内実を決めるのは教会であるという伝統からの離反というと、少し言い過ぎかもしれませんが、少なくとも信徒の心の在りようとしては正統的なものではなかったと評することはできるでしょう。
14世紀末にオランダのフローテが唱えた「新しい信心」や、エラスムスの「半ペラギウス」的救済論などはその一端ですし、注目すべきことにこの傾向は、カトリック側にも顕著であったということです。
プロテスタントとの戦いの尖兵であったイエズス会の創始者イグナティウス・デ・ロヨラにあっても、こうした時代の趨勢に染まっていたという印象を持っています。彼が創案し、イエズス会士となるためには、その実践を義務づけられた「霊操」という修行は、誓願者がキリストをそれぞれが思い思いに内面化し、その生涯を想起することが求められるわけですが、それは紛れもない信仰の内面化、個人化なのではないでしょうか。
先行する時代の修道院では、信仰の内実は「教え」によって一律に教授されました。無論キリストの生涯に関わる個別の問題が議論の対象、あるいは論争の種になることはあっても、それは最終的な回答が与えられ、基準化され、各人がその内面で思い思いに捉えるという作法はありませんでした。
その意味でこの時代には、新旧いずれの信徒のもとでも、信仰における指向性の基盤が共有されていたと言えるのではないでしょうか。
それにもかかわらず新旧二つの勢力が決定的に別れた理由は何か。これは難問ですが、典礼のやり方やその意味づけの違いという、狭い意味での宗教問題を別にすれば、神聖ローマ帝国問題が大きく影を落としているように思います。つまりローマ教皇庁が体現しているイタリアとドイツとの抜き差しならない歴史的な対抗関係が根底にあり、この要素が「ドイツの離反」に弾みを与えたように思うのです。
ルターが教皇庁を敵手とした背景に、ドイツの土地で脈々と続いてきた教皇(庁)の呪縛から逃れようとする歴史的血脈のような意識が働いてはいないだろうかと思ってしまいます。ドイツ騎士団の大総長アルベルト・フォン・ブランデンブルクが意外にあっさりとルターを支持して、騎士団領国をプロテスタント勢力に繰り込んだのも、本来教皇には忠誠を尽くすべき騎士団でありながら、結局ドイツ人の自己意識が勝ったことによるのではなかったか、と思ってしまうのです。
プロテスタント勢力のシュマールカルデン同盟がテューリンゲン、ザクセン地方が母体であり、これにプロイセン地方を加えたドイツ北部、東部が勢力範囲であったのは、歴史的にローマとの関係が希薄なこの地方であったればこそという印象が否めません。
トレント公会議を含めて、ヨーロッパ・キリスト教の分裂が、現在見られるような新旧の決定的な分裂に至らないで修復される可能性はあったと思いますが、本書で解説したようにそのチャンスは様々な事情で実を結ぶことなく終わったわけです。
海外宣教、とりわけイエズス会の宣教活動は、こうしてカトリック世界から失われたキリスト教カトリック勢力を、未知の海外で取り戻すという目的があったのです。
ですからイエズス会の海外宣教にかける情熱は半端なものではありませんでした。何しろインドだけでヨーロッパ全体に匹敵する人口を抱えており、その成功のあかつきには、プロテスタントの誕生で失われたカトリック信徒を優に埋め合わせることができたわけですから。奇妙なことにプロテスタントの宣教活動は影が薄く、ドイツ敬虔主義が起こって以降で、ヨーロッパ外の宣教は19世紀になってからです。このあたりの問題は、まだこれから考えていかなければと思っています。
一方托鉢修道会の海外宣教は「宗教改革」以前から行われていたことは、本書の第4章で述べている通りです。こちらの流れは、むしろ反イスラームが深い動機付けになっていると見てよいでしょう。
■インタビュアー
それでは、海外布教の対象となった当時の日本、あるいはその後現代に至るまでの日本に、イエズス会をはじめとする各修道会があたえた影響とはどんなものでしょうか。
■佐藤
本書第7章の最後の部分で書いたように、1614年に徳川幕府が出した「キリスト教禁教令」によって、外国人宣教師や一部の日本人キリスト教徒は日本を離れざるを得なかったわけです。
それでも41人の宣教師が死を賭して、密かに日本に潜伏し、今や非合法となった日本人キリスト教徒の「魂の世話」を続けたわけですが、本腰を入れてキリスト教徒の追及を始めた幕府と、その本気度に押されて、当初は比較的寛容に目こぼしをしていた各藩も厳しく詮索にあたるようになり、結局徳川幕藩体制下では「潜伏キリシタン」のような存在として命脈を保つしかない状態で、明治6年(1873年)の新政府によるキリスト教を事実上黙認する措置を経て、公式には明治32年(1899年)にその信仰と宣教活動が認められました。
したがって、明治に入ってからが、キリスト教の宣教活動の本格的な復活が起こったのです。もっとも新政府が発足する以前から、ヨーロッパ諸国、とりわけフランスの宣教活動が開始されていて、有名なのは長崎に大浦天主堂を建てたベルナール・プティジャン神父が、1865年に潜伏キリシタンの存在を発見し、世に知らしめ、世界のキリスト教世界に衝撃と感銘を与えたことです。
明治以降の日本の宣教活動の特徴は、教育機関の設立と社会救済事業への貢献を通じて行われたことでしょう。
キリスト教的教育によって、感化する方針の最初の具体化は「幼きイエス会」の修道女が建てた「高等仏和女学校」で、これは後に雙葉学園になります。また同じくフランスから派遣されたマリア会士たちは、後の暁星学園を創設しています。
プロテスタントの活動は米国聖公会のチャニング・ウィリアムズが1874年に、築地に立教学校を開設し、後の立教大学の基礎を置きました。
戦国期に日本宣教の口火を切ったイエズス会の明治期日本の教育界への進出は遅く、1913年に上智大学の創設が嚆矢でした。
また社会救済事業も職業訓練学校、児童福祉施設、ハンセン病者療養所など多岐にわたり、近代日本社会生成に寄与するところ大きかったと言えましょう。
こうした努力にもかかわらず、日本のキリスト教徒の数は、カトリック、プロテスタント、ギリシア正教を含め、100万人をなかなか超えられないのが現状で、その理由は何かを多くの宗教学者が論じていますが、何か単一の答えを見つけるのが困難な問いのような気がします。
■インタビュアー
世界宗教となったキリスト教との関連で、修道制はこのあとどうなるのでしょうか。
■佐藤
次作、つまり私の西洋修道制の一連の歴史叙述の最後になる作品ですが、そこでは舞台が再び西ヨーロッパに戻ります。最初の『禁欲のヨーロッパ』を執筆した当初から、最後はサン・モール会を主題にした1冊でシリーズを締めくくる積もりでいました。題はまだ未定ですが「サン・モール会と近代歴史科学の誕生」を内容とする1冊です。
佐藤彰一『宣教のヨーロッパ』(中公新書) 6点 : 山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期
第1章は宗教改革について。ルターやカルヴァン、さらにイギリスの宗教改革がどのように行われ、どのような影響を与えたかということが書いてあります。
基本的にはそれぞれの宗教改革の簡単な記述にとどまっているのですが、ドミニコ会、フランチェスコ会、アウグスティノ会などの托鉢修道会士たちがルターの思想を広めたこと、一方で領主権力は宗教改革によって教会や修道院の財産の没収を狙っていたことなどは注目すべき点です。
第2章はカトリック側の対抗宗教改革について。宗教改革に対して、1522年に教皇に選ばれたオランダ人のハドリアヌス6世は教会の混乱が教皇庁と高位聖職者の腐敗にあることを認め、教会改革を目指しますが、1523年に亡くなってしまいます。歴史家のマルク・ヴナールは「もしハドリアヌス6世が存命であったなら、すべてが違っていただろう」(37p)との言葉を残しています。
ハドリアヌス6世の跡を継いだメディチ家出身のクレメンス7世は危機感が薄く、1527年には神聖ローマ帝国軍によるローマ劫略を許します。
1545年にはじまったトレント公会議も、プロテスタント側の出席はなく、少ない人数での始まりとなりましたが、1563年の閉会時には(18年もかかった!)多くの出席者が集まり、カトリック勢力の結集を印象づけました。
この会議で原罪、秘跡、聖餐、聖職ヒエラルキーといったカトリックとプロテスタントの教義上の違いが整理され、カトリック側の規律が強められていったのです。
第3章ではイグナティウス・ロヨラを中心にイエズス会の誕生が描かれています。
イグナティウス・ロヨラは小貴族の家に生まれ、騎士になるための教育を受けましたが、大砲で右足を負傷して騎士道を断念し、信仰の道へと入りました。
イグナティウスはパリで学びながら、フランシスコ・ザビエルをはじめとする7人の仲間と意気投合し、のちにイエズス会を結成します。
彼らは教皇に直接従属する会派を結成して宣教に出ていくことを決意し、1540年に教皇パウルス3世にそれが認められると、早くも翌年にはザビエルがインドに向けて出発しました。
イエズス会ではイグナティウスの経験に基づいてつくられた『霊操』と呼ばれる会士になるためのイニシエーションが重視され、宗教改革と同じく神と個人の関係が大切なものとされました。
イグナティウスは1556年に亡くなりますが、この頃には会士は1000人を超え、1581年には5000人、1615年には1万3000人を超えました(77-78p)。この背景にはイグナティウスのあとを継いだ総長の手腕と、教育制度の充実などがあります。
第4章は、フランチェスコ会とドミニコ会の活動が取り上げられていますが、時代がさかのぼります。今までが宗教改革とその影響という形の叙述だったので、ここはややわかりにくく感じます。
遠いアジアへの宣教は大航海時代以前から試みられてきました。13世紀にモンゴル帝国がその勢力を拡大させると、モンゴルはキリスト教に理解があるとの噂が広まり、アジアへの宣教に期待がかけられたのです。
こうした中でアジアへと向かったフランチェスコ会の修道士がモンテコルヴィーノです。モンテコルヴィーノは1289年にイタリアを出発し、1293年に北京に着いています。到着直後にクビライが亡くなり、モンゴル王室のキリスト教化という目的は達せられませんでしたが、クビライの子の成宗テムルはモンテコルヴィーノを手厚くもてなしました。
モンテコルヴィーノはいち早くこの地域に広がっていたキリスト教ネストリウス派と対立し、内蒙古のオロン・スムに移動して、ここに教会を建てています。
その後、モンテコルヴィーノはイラン系の遊牧民族であるアラン人の改宗や、ギリシア正教徒の改宗に成功しますが、教皇庁の反応の鈍さや後継人材がすばやく決まらなかったこともあり、モンテコルヴィーノの布教は単発的なものに終わりました。
第5章はイエズス会のアジア進出について。ポルトガルの商業活動は商人だけでなく王権によっても担われており、特に15世紀末から16世紀前半に王位にあったマヌエル1世はエルサレムのイスラーム教徒から奪回を夢見ていました。
このポルトガルのインド進出に乗ずる形で、イエズス会の宣教活動も進んでいきます。イエズス会はゴアにコレギウムと呼ばれる学校をつくり、宣教活動の担い手を育成していきます。
また、マテオ・リッチはその知識を生かして中国語を習得し、中国人の知識人の間でキリスト教を広めていきました。中国では明から清への王朝交代などもあり、布教が順調に進んだわけではありませんが、イエズス会は中国の宣教師の50%、教会と礼拝堂の85%を占めたといいます(125p)。
第6章は新大陸での布教について。コロンブスによる「発見」の後、スペインが中心となってこの大陸を支配することになります。そして、フランチェスコ会やドミニコ会などの修道士たちがキリスト教の宣教のために、新大陸へと渡って行きました。
メキシコでは、フランチェスコ会はメキシコ高原の南と北西メキシコ、ドミニコ会は南部とメキシコ・シティ周辺、イエズス会は北西部からカリフォルニアといった具合に、それぞれの修道会は地域を分け合うような形で布教を行いました。
南米では旧インカ帝国の領土にまずドミニコ会が入り、ついでフランチェスコ会、イエズス会が入っていきます。
また、北米においてもフランスの植民地を中心としてフランチェスコ会やイエズス会、カプチン会などの宣教師が宣教活動を行いました。
第7章はイエズス会の日本宣教について。1548年、ザビエルがイエズス会の会士に宛てた手紙には、日本という大きな島があること、日本人は知識欲が旺盛であること、アンジロウという日本人に出会ったことなどが書かれています(165ー166p)。
この手紙の影響を受けたのか、イエズス会は日本に優秀な宣教師を送り込みました。日本に派遣されたイエズス会士の82%が最高度の教育を受けていたといいます(166ー167p)。
1549年、ザビエルは鹿児島に上陸します。イエズス会はポルトガル商人と結びついており、ポルトガル船の入港を条件にキリスト教の布教を大名に認めさせようとしましたが、逆にそれは布教が戦国大名の権力争いに巻き込まれることも意味しました。
そこでザビエルは京での布教を目指しましが、これもうまくいかず、山口や豊後を中心とする九州北部での布教に集中していきます。
ザビエルがインドの管区長に任命されて日本を去ったあとも布教は停滞しました。キリシタン大名である大友義鎮が治める豊後を中心に布教を行ったものの、大名が洗礼を受けたからといって配下の武士が自動的に入信したわけではなかったからです。
そこでイエズス会は布教の中心を長崎へと移し、そこから天草や五島列島で信者を獲得していきました。
イエズス会が信者を増やしていくのは1580年代になってからです。1579年にヴァリニャーニが来日し、日本の風習に合わせる「順応政策」をとり(例えば、身分高い人の前では絹の服を身につけるなど)、コレジオやセミナリオといった教育機関を整えると、堺や安土などの畿内にも宣教師が配置されました。
1587年に秀吉が伴天連追放令を出しますが、平戸に集められた120人のイエズス会士のうち、実際に日本を離れたのは3人のみであり(181p)、宣教活動は続きました。
しかし、江戸幕府の成立後、徐々に幕府権力とキリスト教の摩擦が起きるようになり、また、大阪の陣でイエズス会などが豊臣方の勝利を願ったことなどもあって、1614年には禁教令が出されるのです。
第8章では、イエズス会の日本布教の構造とイエズス会以外の動きについて触れられています。
まず、イエズス会の財源ですが、ポルトガル王や教皇庁からの支援があったものの、送金が船の沈没などによって途中で失われることもあり、十分なものとはいえませんでした。
そこで、イエズス会はポルトガル商人の助けを借りたり、また自ら貿易に乗り出します。ヴァリニャーニは生糸の貿易に投資をしたり、日本の大名から預かった日本の銀を中国で金に換える取引を行うことなどによって活動資金を捻出しようとしました(194ー195p)。
しかし、こうした商業活動に関してはイエズス会内部からの異論もありました。
ヴァリニャーニは日本人にキリスト教の一体性を確信させるためにも、イエズス会による独占が望ましいと考えていましたが、1590年代になるとスペインと結びついたフランチェスコ会が日本に入ってきます。
フランチェスコ会は施療院をつくって布教を進めようとしましたが、イエズス会との対立もあり、あまりうまくはいきませんでした。
第9章は「キリスト教の世界化」と題し、まずはチマルパインというキリスト教徒となったインディオの知識人の手記が紹介されています。彼は家康の使者として(ボーガス注:失敗に終わったがメキシコと日本の貿易実現の目的で)メキシコにやってきた田中勝介一行も目にしており、彼らの様子を観察し、「彼らは髭を蓄えることをせず、肌がスベスベして滑らかで青白いところから、その容貌は女のようである」(217p)とった記述を残しています。
また、日本での二十六聖人殉教についても書き記しており、日本人がキリスト教徒になることを願っています。
アジアと新大陸の間をキリスト教によって媒介するグローバルなつながりが生まれていたともいえるのです。
いろいろと端折った部分もありますが、以上のような内容になります。
ここに書いたこと以外にも、キリスト教宣教の背景となる歴史的な出来事の説明は丁寧にしてありますし、事項索引、人名索引がついているのも便利です。
ただ、最初にも述べたようにやや全体の構成がまとまっておらず、内容を追いにくい面もあります。部分部分は面白いだけに、少しもったいない気もします。
■水本邦彦*53『シリーズ日本近世史② 村 百姓たちの近世*54』:日本近世史への入り口(小酒井大悟*55)
(内容紹介)
ネット上の記事紹介で代替。
おじさんのうつつつ株日記 村 百姓たちの近世
シリーズ日本近世史2「村 百姓たちの近世」(水本邦彦、岩波新書)
タイトルを見ただけでほとんどの人が興味をわかないでしょうがそんな人にも興味が持てそうな所を一部紹介します。
江戸時代の村と言えば、時代劇なんかで庄屋とか名主とかが出てきますが、これが必ずしも世襲制ではなかったようです。
(村人の話し合いで決めていたこともある)
あと、時代が下がるに従って(ボーガス注:人糞や牛馬の糞尿、落ち葉などの)自給肥料から(ボーガス注:干鰯、鰊粕、油粕などの)購入肥料に変わる、というのは歴史の授業でも習いましたが、これにより、
「中以上のものでなければ買い肥をすることが出来ず、(下層の百姓は)もっぱら草や下水を採取して肥やしとして農業を営んでいる」
「上層の百姓は買い肥を多く使うので、田地も自然と上田となり、いよいよ勢いを強めている」
(同書185ページ)と、農家の間で格差がどんどん広がっています。
これも今と一緒ですなあ。
さらに、新田開発を行うことによって、肥料用の草木が過剰に採取されて山が「はげ山」になり、地滑り等の自然災害が増える、という環境破壊も、今に通じることがあります。
Kiankou books review 村 百姓たちの近世
本書でいかにも日本的だと思ったのは公儀領主による鉄火調停というものだ。揉め事があったときに両者が焼けた鉄を素手でつかみ、その焼け爛れ方をみて占いで裁判するというもの。(ボーガス注:そんなことで裁判が出来るわけがないし)大変な大怪我に至るので、実際にはその過程で調停に至って解決されることを目的としているとのことである。
先日読んだ『ニッポンの裁判』(瀬木比呂志*56著、講談社現代新書、2015年1月)によると、現在行われている裁判では、ほとんどの裁判官は調停を好む、ということであった。原告としては、白黒をはっきりさせたいから裁判を起こしているのであって、調停でグレーな結末を望んでいるとは私は思わない。思うに、現代の裁判官は、この鉄火調停への憧れがあるのではなかろうか。「喧嘩両成敗」とか、「三方よし」もたしかにひとつの良識ではあるけれども、白いものをはっきり白と言う明晰性が現代の裁判官には求められる場合が多々ある。
霜月の十 / 『村 ~百姓たちの近世』 水本邦彦 - moonshine
昔話でよく、「おじいさんは、山へ芝刈りに行きました」って文章があるけど、以前は、「草むしり的な?。それとも(ボーガス注:芝を)燃料にするの?」と思ってた。田畑の肥料だったんだね。
・江戸時代は金肥より自肥(自給の肥料)がメイン
・自肥は人糞尿、厩肥(牛馬のし尿・飼料の残滓・敷草を混ぜる)、刈敷(山野の草木)
・日本の草山、芝山はもとは森林。伐採や火入れによって草原に変えられ、その後も草刈りや火入れ、放牧によって草原を維持した。それらをいっさい停止すれば、数年たらずで陽樹が侵入し、森林へ移行していく。つまり、近世の里山の風景は、刈敷をとるために人間が手入れをしてきた半人工的な景観といえた。
■石田勇治*57『ヒトラーとナチ・ドイツ*58』 (柳原伸洋)
(内容紹介)
ネット上の記事紹介で代替。なお、メインは石田本の紹介ですが、他にもナチス関係の新書として
【発表順】
・大澤武男『ヒトラーとユダヤ人』(1995年、講談社現代新書)
・宮田光雄*59『ナチ・ドイツと言語:ヒトラー演説から民衆の悪夢まで』(2002年、岩波新書)
・大澤武男『ローマ教皇とナチス*60』(2004年、文春新書)
・芝健介*61『ホロコースト:ナチスによるユダヤ人大量殺戮の全貌』(2008年、中公新書)
・大澤武男『青年ヒトラー』(2009年、平凡社新書)
・大澤武男『ヒトラーの側近たち』(2011年、ちくま新書)
・高田博行『ヒトラー演説:熱狂の真実』(2014年、中公新書)
・アンネッテ・ヴァインケ著(板橋拓己*62 訳)『ニュルンベルク裁判』(2015年、中公新書)
・對馬達雄*63『ヒトラーに抵抗した人々:反ナチ市民の勇気とは何か』(2015年、中公新書)
・リチャード・ベッセル『ナチスの戦争1918~1949:民族と人種の戦い』(2015年、中公新書)
などが紹介されています。
ナチ・ドイツと現代日本〜ヒトラーは「恣意的な憲法解釈」から生まれた(石田 勇治) | 現代新書 | 講談社(1/5)
■インタビュアー
ヴァイマル憲法という民主的憲法をもったドイツに、なぜ民主主義を否定する政権が誕生したのでしょうか?
■石田
「ヒトラーは選挙(民意)で首相になった」とよく言われますね。たしかにヒトラー率いるナチ党はヴァイマル共和国末期の経済的危機、社会的混乱に乗じて台頭し、1932年7月の国会選挙で第一党(得票率は37%)になりました。
しかしナチ党の勢いはここまででした。その年の11月の国会選挙で約200万票を失い、得票率も33%に下落します。地方選挙でも大敗を喫し、12月には党のあり方をめぐって分裂の危機に直面します。
経済はこのころ好転の兆しが見られ、このままいけば民意はさらに離れ、ヒトラーもナチ党もやがて政界から消え去るのではないかとの観測も出てきます。ヒトラーが大統領によってドイツの首相に任命されたのはその直後、33年1月30日のことでした。
「ヒトラーは選挙(民意)で首相になった」という言い方は事柄の本質を半分しか言いあてておらず、なぜヒトラーが首相になったのかという問いへの答えとしては不十分です。
いま述べた32年11月の国会選挙の投票率は80%でしたから、ヒトラーが首相になる直近の国会選挙で有権者の26%しかナチ党に投票していなかったことになります。
大衆はヒトラーの虜になっていたように言われますが、ヒトラー政権が誕生するまではそれほどではなかった。大衆はそんなに愚かではなかったのです。
むしろ落ち目のヒトラーを救い出し首相の座に引き上げた大統領と、その周りに集まった既成の権力者たちの行動が問題でした。
■インタビュアー
ヴァイマル共和国末期の国会はすでに形骸化していたようですが、具体的にどのような状況だったのでしょうか。
■石田
ヴァイマル憲法は、現在のドイツや日本と同じように、国会に基礎をおく議院内閣制を定めていました。しかしヴァイマル共和国末期の国会には、政党間のイデオロギー対立と相互不信が深刻化し、妥協と調整による多数派(合意)形成能力がすっかり失われていました。
ヒトラーに先立つブリューニング、パーペン*64、シュライヒャー*65といった共和国末期の政権はどれも国会に基盤らしい基盤のない少数派政権で、まともな議会運営ができません。そこで「大統領の大権」が用いられたのです。
ヴァイマル憲法は大統領に大きな権限(首相・閣僚の任免権、国会の解散権、非常時の緊急命令権)を与えていました。この時期の政権は、その力を借りて政権運営をはかります。
たとえば国会で否決された法案は大統領緊急令として公布されました。国会がその緊急令を否決すると、大統領が国会を解散することもありました。大統領の大権をこのように行使することは憲法が想定したものではないのですが、非常時を乗り切るためと称して頻繁に用いられ、これが国会の形骸化をもたらしました。
ナチ党が国会第一党となり、第三党となった共産党とあわせて議席の過半数をおさえた1932年の後半には、国会はもう何も決められない状況に陥ります。
当時の共産党はソ連型独裁を志向しており、議会制民主主義をブルジョワ支配の道具だといって攻撃していました。政府は国会を解散して大統領緊急令による統治を続けますが、世論はいっそう反発し、国会不要論が噴出してきます。
当時の大統領はヒンデンブルクという人物です。ドイツ帝国陸軍元帥で、プロイセンの伝統を引く帝政主義者でした。25年に大統領に初当選。32年春に再選されたとき、すでに84歳でした。共和国の大衆民主主義を衆愚政治とみなし、それに代わる権威主義的な新国家の建設をめざして大統領緊急令を出していきます。
ヒンデンブルクがヒトラーを「ボヘミアの一兵卒」と呼んで見下していたことは有名な話ですが、共産党の躍進を恐れる財界の要請をうけてヒトラーをついに首相に任命しました。
■インタビュアー
発足時、ヒトラー政権にナチ党員は3名しかいませんが。
■石田
ヒトラー政権はナチ党の単独政権ではなく、保守派の国家人民党*66との連立政権として発足しました。ナチ党から入閣したのはヒトラー首相のほか、フリック*67内相、ゲーリング*68無任所相だけです。ヒトラー政権は当初、やはり少数派政権で、大統領の大権に依存していたのです。
反ヴァイマル右翼運動を率いるヒトラーと野合した保守派は、それで何を達成したかったのでしょうか。答えは三つです。議会制民主主義を廃止し、共産党(マルクス主義)を撲滅し、強いドイツ(再軍備・軍拡)を実現することです。
これらはヒトラーが求めていたことでもあり、両者はこの目的のために手を組んだのです。これらが達成できれば、あとはまた大統領の力でヒトラーを政権から追い出せばよい。保守派はそのように高を括っていたのです。
■インタビュアー
保守派に両脇をしっかり固められたヒトラーですが、それがどうしてヒトラー独裁へと向かうのでしょうか?
■石田
ヒトラーは当初、世間からも過小評価されていました。国政担当の経験がなく、専門的な知識もない、どうせ保守派の閣僚の手玉にとられてさっさとお払い箱になるだろうというわけです。
そんな甘い予想に反して、ヒトラーは一気に攻勢に出ます。国会を解散、選挙にうって出ました。
選挙戦の最中に大統領緊急令を出させて言論統制をおこない、国会議事堂炎上事件(33年2月27日)が起きるとこれを徹底的に利用して、共産主義者など左翼反対派を一網打尽にします。
そして言論・集会・人身の自由など憲法が定める国民の基本権をすべて停止したうえで政府の独裁権を求めるのです。国難危急にあたり「強い政府」が必要だというのです。
ヒトラーが目をつけたのが授権法です。授権法は全権委任法とも呼ばれ、政府に立法権を委ねるものです。これが成立すれば政府は国会から自由に、また大統領に依存することもなく法律を思うがまま制定できます。
じつはヒンデンブルク大統領も授権法の制定に賛成していました。ここ数年来の大統領統治には憲法違反の嫌疑が向けられており、ヒンデンブルクはそのことの精神的負担から早く免れたいと思っていました。議会制民主主義の限界を言いたてる与党の国家人民党も、自党の政策が容易に実行できる授権法の制定に意欲を示します。
授権法成立には国会議員総数の3分の2の出席と、出席議員の3分の2の賛成が必要です。この選挙(33年3月5日)でナチ党は44%、国家人民党は8%をとり、政府は過半数の議席を手に入れます。しかしまだ十分ではありません。
政府は共産党の国会議員81名全員と一部の社会民主党議員を国会議事堂炎上事件の容疑者として拘束(逃亡を含む)していましたが、議決にあたり社会民主党の「欠席戦術」を防ぐため、議長が認めない事由の欠席は出席とみなすという議院運営規則改正案を直前に国会に提出して、賛成多数で通過させます。じつに姑息な手段です。議場内に入ったナチの突撃隊員が見守るなか、授権法案は可決成立します。結局、反対投票したのは社会民主党だけでした。
成立した授権法には、「国の法律は、憲法に定める手続きによるほか、政府によっても制定されうる」(第1条)、「政府が制定した国の法律は憲法と背反しうる」(第2条)と記されています。ヴァイマル憲法はこうして改正されることも廃止されることもなく形骸と化したのです。
ナチ体制下のドイツではおびただしい数の法律が制定されました。かつては議論が百出して日の目をみることのなかった法案も易々と成立します。「決められる政治」が実現したのです。ホロコーストへいたるユダヤ人迫害は合法的に進みましたが、それはこの授権法によって可能になったのです。
授権法の成立は1933年3月23日。ヒトラー政権の誕生からわずか50日あまりで、ドイツはもはや民主主義国家に戻れない不可逆地点を乗り越えてしまったのです。
■インタビュアー
いまの日本を考えるうえで、ヒトラーの「政権掌握」やナチ・ドイツの歴史から何が言えるでしょうか?
■石田
当時のドイツといまの日本とでは、それぞれを成り立たせている前提条件が違います。ヒトラー独裁政権は、第一次世界大戦から間もない、世界恐慌の最中に起きたものです。当時のドイツには議会制民主主義の考え方が十分に定着しておらず、民主主義と独裁は矛盾しないとまで言われていました。
これに対して現在の日本では、日本国憲法が定めた議会制民主主義は少なくとも制度として広く国民に支持され、浸透しています。ただ「決められない政治」に嫌気がさして、強い首相や「決められる政治」を待ち望む声はいまの日本にも存在しますね。
そして一昔前は考えられなかったヘイトスピーチや排外主義的な風潮の広がりは、日本の社会から寛容さが失われつつあることを物語っています。これがエスカレートすればどのような事態に行き着くか、ヒトラーとナチ・ドイツの歴史はそのあたりをよく示しています。
さらに気がかりなのは、日本の政治指導者の誤った歴史認識です。一昨年夏の「麻生発言」は私にとって大きなショックでした。
「憲法はある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口に学んだらどうかね」
麻生氏*69は(ボーガス注:各方面からの批判で発言を)撤回しましたが、更迭されたわけではありません。この発言で日本が失った国際的な信頼は計り知れないと思います。政治家こそ歴史をしっかり学んでほしいですね。
石田勇治『ヒトラーとナチ・ドイツ』(講談社現代新書) 8点 : 山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期
まず、ヒトラーといえばクーデターなどではなく、ある程度民主的なやり方で政権を獲得したのですが、第三章ではその「からくり」が解き明かされています。
ナチ党は1932年の国会選挙で第一党になったものの、得票率は37.3%で、ヒトラーが首相に任命される前の33年の国会選挙では得票率を33.1%に落としています。つまり、ナチ党を支持した国民は1/3ほどなのです。
しかし、ヒトラー以前の内閣も実は国民の支持を得た内閣ではありませんでした。ヒトラーに先立つブリューニング、パーペン、シュライヒャーといった内閣は、いずれもヒンデンブルク大統領が任命した、国会に基盤らしい基盤を持たない内閣で、大統領の緊急令に依拠しながら政権を運営していました。ヒトラー登場前に、、ドイツの民主主義はすでに崩れかけていたのです。
ヒンデンブルクらの保守派は、もともと議会制民主主義に否定的で、その破壊をヒトラーに期待し、それが終われば再び自分たちが政権を握る気でいました。ところが、逆にヒトラーに利用されることになるのです。
次にナチ政権の経済政策の「からくり」について。
失業問題の解決はヒトラーの「功績」としてよくあげられるものですが、この本の第五章を読むとその「功績」を手放しで認められないことがわかると思います。
景気対策はパーペン、シュライヒャー内閣の時から行われていましたし、失業者の現象にも「からくり」があります。ヒトラーは若者の勤労奉仕を導入し、さらに徴兵制を復活させます。これによって若い男性は労働市場から退出し、失業者ではなくなりました。また、女子就労者を家庭に戻すために、「結婚奨励貸付金制度」をもうけました。これは結婚を機に家庭に戻り、二度と就労しないという条件で上限1000マルクを貸し付ける制度で、出産すれば子どもの数に応じて返済が免除されました。これによって女性を労働市場から退出させ、失業者を減らしたのです(210ー214p)。
他にも第五章では、ヒトラーの「独裁」についても、むしろ「多頭支配(ポリクラシー)」であると分析してます。
ナチ党に一元的な意思決定機関は存在せず、ゲーリングやゲッペルス*70、ヒムラー*71、フリック*72といったサブリーダーがいくつもの組織を指導し、それぞれヒトラーに評価されることを競っていました。そしてヒトラーにも見通せないような「ジャングルのような権力関係」(202p)が出来上がっていくのです。
第六章と第七章では、ヨーロッパに広く見られた「反ユダヤ主義」がなぜホロコーストにまで行き着いてしまったのか、ということが分析されています。
ナチのユダヤ人政策の背景にあったものは、「極端なレイシズム」と「優生学」と(人種的な)「反ユダヤ主義」の3つで、これが絡まってその政策がエスカレートしていくことになります。
当初、ナチはユダヤ人のドイツから「追放」を政策としていました。ユダヤ人は公職から追われ、その資産や家屋を没収されていくのですが、同時にドイツ人の中にはユダヤ人のついていたポストにありつき、ユダヤ人の住んでいた家を手に入れるものもいました。「追放」政策は、ドイツ人にも利益をもたらすものだったのです(291ー293p)。
ところが、強制収容所での処刑となるとそういった利益だけでは説明できません。
ユダヤ人の「追放」政策が行き詰まったのは、第2次世界大戦が始まり、ドイツが東ヨーロッパに占領地域を広げてからでした。新たな占領地域には、ドイツ本国以上のユダヤ人が暮らしており、「追放」しようにもその行き先はありませんでした。一方、ヒトラーはポーランドやバルト諸国などのドイツ人の帰還を進めようとしたため、そのための土地を確保する必要もあり、ますますユダヤ人の行き場はなくなっていったのです。
結局、ドイツ本国で優生思想のもとに行われていた障害者や遺伝病患者などへの「安楽死政策」がユダヤ人に対しても採用されることになり、アウシュビッツをはじめとする「絶滅収容所」が建設されていくのです。
ヒトラーの「妄想」とも言っていい反ユダヤ主義(ドイツの対米開戦についても「反ユダヤ主義」が背景にあることが指摘されている(323ー326p))と、官僚機構のつじつまを合わせるための愚かな決定の積み重ねが、ホロコーストにまで行き着いてしまったわけで、改めてその怖さを感じます。
このようにこの本はかなり盛りだくさんの内容になっていて、ヒトラーやナチ政権を知る上で基本図書となるものだと思います。
■吉田裕*73『アジア・太平洋戦争*74』:アジア・太平洋戦争を読む(佐々木啓*75)
(内容紹介)
ネット上の記事紹介で代替。なお、吉田『アジア・太平洋戦争』がメインの紹介ですが、吉田『日本軍兵士』にも触れられています。
【書評】吉田裕『アジア・太平洋戦争』(岩波新書、2007年) - Say Anything!
第1章で筆者は戦争の性格について3つの論点から議論を進める。
第一の論点は対米戦と対英戦の区別だ。「日米間には決定的な利害対立が必ずしも存在しなかった」ことや、真珠湾攻撃の1時間前に日本軍が英領マレー半島コタバル上陸を開始していることは見落とされがちな事実である。つまり日本は開戦当初、あくまで対英戦を主眼としていたのであった。まとめるならば対米戦の開戦は、日中戦争の打開とドイツの躍進に対する期待から始まった「日本の武力進攻政策が対英戦を不可避なものとし、さらに日英戦争が日米戦争を不可避なものとした」と捉えるべきである。
第二の論点は対米戦の戦争責任である。ここでは「自衛戦争論」に対して、日中戦争との不可分性、開戦決意の時点、国際法上の違法性から反証を行っている。
第三の論点は反植民地主義戦争としての性格の問題である。戦時日本が東南アジアへの侵略を「大東亜共栄圏」として正当化したことはよく知られているが、一方で日本政府は人種戦争論的な論調を取り締まった。それは同盟国ドイツ・イタリアや中立条約を結んだソ連、親独ヴィシー政権下のフランスへの配慮であったが、この矛盾は戦争目的の分裂をもたらした。
また第1章では直接的に対米戦開戦の戦争責任について考察がなされている。海軍は権益主義体質のため軍備を拡張し、勝算が低いとみていた対米戦に追い込まれていった。そして統帥権の独立と首相の権限の弱さという明治憲法の制度的欠陥が軍部の発言力を強め、「軍事の論理によって外交が規定されてしまうという倒錯した関係」までをも引き起こした。日米交渉における瀬戸際外交が開戦の決定打となってしまったことも指摘されている。昭和天皇の戦争責任についても言及がなされているが、これについては吉田裕『昭和天皇の終戦史』(岩波新書、1992)が詳しい。第1章全体から、戦争目的も勝算も開戦の意思決定もすべて曖昧のまま“未必の故意”的に開戦し、遂行されていったアジア・太平洋戦争の性格が浮かび上がってくる。
第2章では初期作戦の成功と国民的人気を得た東条内閣について書かれている。華々しい軍事的勝利の裏側に見過ごされた個々の作戦の致命的失敗と大局的な見通しの悪さは確かに敗戦への道筋を示していた。また一定の権力集中、天皇の信頼、メディアの利用などが東条内閣の「独裁」を可能にした一方、天皇制という制度そのものが抱えるその限界が鋭く指摘されている。
第3章、4章ではミッドウェー海戦、ソロモン海戦、マリアナ海戦と次第に日本が敗戦へと追い込まれていくなかで、アジア・太平洋戦争自体がはらむ矛盾が表出すると同時に、植民地・占領地支配や国民の戦争への徴兵・徴用が強まり、厭戦ムードが高まっていく経過が詳細に描かれている。興味深いのは戦時体制が社会変容をもたらし、戦後の日本社会の底流を形作ったという逆説めいた指摘である。筆者は「所有と経営の分離」の促進、寄生地主制の後退、労使関係の変容、女性や学生の意識の変化を例に挙げてこれを説明している。また第5章では闇市の公然化によって「『戦後民主主義』の歴史的前提」が作り出されたとまで言っている。
第5章ではアジア・太平洋の最終局面が書かれているが、沖縄戦の敗北が決定的になっても「国体護持」に拘泥し「天皇も含め誰一人として、戦争終結に向けての主導権を発揮しようとはしなかった」と批判的に述べられている。それゆえ「戦死者の大部分が、マリアナ陥落後の絶望的抗戦期に発生しているという事実」は注目に値する。また、戦地の兵士の中で疫病死を含む広義の餓死者が戦死者のうちの6割にも及ぶこと*76や、植民・占領下のアジアの民衆の犠牲者が1900万人以上ともいわれることは一般にあまり注目されないが、驚くべき事実として取り上げられている。
筆者は最後に戦後の日本人の平和意識について分析している。冷戦と経済成長に伴った一連の事態が被害者意識の先行による加害意識の忘却、曖昧化された戦争責任に対して判然としない国民意識、戦争の歴史の軽視という風潮がもたらした。そして冷戦末期から再燃し始めたアジア諸国に対する戦争責任の問題や戦争体験者世代の減少、ナショナリズムの高まりに直面する現在、「戦争を知らない」わたしたちが過去の歴史とどう向き合うかが問われている、として締めている。
この指摘はまさに冒頭に挙げた「戦争責任」、「リアルな想像力の回復」という問題意識の支柱といえる。そしてかなり的を射た分析なのではないかと思う。戦後、(ボーガス注:昭和天皇免罪など日米支配層の)政治的な要請からうやむやにされた戦争責任という問題は今も国内外で議論の対象となり続けている。東アジアの緊張が続いているが、隣国との平和で友好な関係を築いていくためにも歴史を学び、省み、清算するという作業を怠り続けることが得策でないのは明らかだ。そのような中、歴史と向き合ううえで筆者のような問題意識を持つことは大変重要だろう。
以上述べてきたように本書はアジア・太平洋戦争全体を掴むうえでも、歴史認識や戦後賠償といった現在も生きている課題を考えるうえでも、さらには「戦争」という普遍的な命題を考えるうえでも読みやすく、詳細で、かつ重大な示唆を与えてくれる一冊としてお勧めできる。
日本はなぜ真珠湾攻撃を行ったのか その1 - 庭を歩いてメモをとる
吉田裕「アジア・太平洋戦争」では、開戦の意思決定とハル・ノートは関係がない、という指摘をしています。なぜそう言えるのかというと、実質的な開戦意思は、1941年11月5日の御前会議で決定しているからです。具体的には、この御前会議で決定された「帝国国策遂行要領」に「武力発動の時期を十二月初頭と定め、陸海軍は作成準備を完整す」と記されているとのこと。一方、ハル・ノートが翻訳され関係者に配布されたのは11月28日。ハル・ノートを読む前から、日本政府は開戦の意思決定を行っていたことになります。
また、東京裁判の国際検察局文書によると、東条英機や木戸幸一*77は、裁判で11月5日の御前会議の存在を極力否認しようとしたそうです。実際裁判当初はアメリカにこの御前会議の存在は知られていなかったのですが、後日別ルートからそれが存在したことが明らかになり、その結果東条が「記憶の錯覚」があったとし、最終的には11月5日の御前会議の存在を認めるに至っています。11月5日の御前会議は、戦争責任論においてそれだけ重要なものだったと日本側元首脳が認めていた(だから隠そうとした)ようです。
そうなると、アメリカに追いつめられてはいたものの、開戦に踏み切ったのはあくまで日本の判断、と考えるのが自然な気がしてきます。
続いて出てくる疑問は、なぜアメリカと日本では圧倒的に国力に差があるのに日本は開戦に踏み切ったのか、というところです。やむにやまれぬ戦争ならまだしも、自発的に始めた戦争なら、本来勝算があってこそのはず。
吉田裕「アジア・太平洋戦争」は、これについてもこんな記述をしています。まず、大きな理由として臨時軍事費による軍備拡充が行われていたこと。開戦前の臨時軍事費の総額は256億1800万円。満州事変(1931年)の直接軍事費が4億6130万円であることを考えると、相当な額です。このため、吉田氏によると、「開戦時の太平洋地域においては、日本の戦力はアメリカを凌駕していた」とのこと。ここから、「短期決戦に持ち込めば、(ボーガス注:ヨーロッパで快進撃を続けるドイツが同盟国だし、)英米を屈服させる見通しがあるという幻想」が生まれたそうです。
吉田裕「アジア・太平洋戦争」 - 庭を歩いてメモをとる
■日本兵の意識の変化最初の「玉砕」であるアッツ島の場合は、捕虜となった日本兵は29名で、これは全兵力の1%強に過ぎない。これに対してサイパン戦の場合は、全兵力の約5%が捕虜となった。
投降が禁じられていた中でも、戦況の変化によって兵の心理にも確実に変化が起きていたのですね。個人的には、日本兵は最後まで(ボーガス注:戦陣訓の)「生きて虜囚の辱めを受けず」を貫徹していたのかと思っていたので、意外に思いました。
■戦争と女性の社会的地位
男性労働者を兵隊にとられたことで起こった深刻な労働力不足は、ご存じの通り多数の女性労働者を生み出しています。製造業における女性労働者の数は、30年10月時点で144万1000人、それが44年2月には、220万2000人にまで増大している。・・・当時、中流以上の家庭の娘は、高等女学校卒業後、家にあって家業や家事を手伝い、裁縫や料理などの「花嫁修業」をしながら結婚を待つのが一般的だった。・・・戦局の悪化にともなう未婚女性の工場への勤労動員は、こうした伝統的な労働観に変容をせまるものとなり、学校を卒業した女性が結婚までの一定期間、職につくという新たな慣行を定着させる契機になったと考えられる。
戦争による価値観の変化はいろんな面で起こったと思うのですが、戦後の女性の地位向上につながるような変化があったとは知りませんでした。
■捕虜の死亡率
アメリカの民間抑留者団体の調査によれば、第二次世界大戦中にドイツ軍の捕虜となったアメリカ兵は9万6614名、捕虜期間中の死亡者数は1121名で、死亡率は1.2%である。これに対して、日本軍の捕虜となったアメリカ兵は3万3587名、死亡者数は1万2526名で、死亡率は37.3%にも達する*78。
映画「大脱走」を観て(別にドキュメンタリーじゃないので事実にどこまで沿っているかは別としても)、あのドイツのアメリカ兵捕虜収容所の待遇のよさを見て「日本じゃありえない」と思っていたのですが、あながち見当違いでもなかったようですね。
吉田裕「日本近現代史6 アジア・太平洋戦争」 - Close To The Wall
・いくつか本書での議論を拾ってみる。
まず、「ハルノート」について、これはもともとハル国務長官の覚え書きとでもいうべきものであり、最後通牒と見なすこと自体に無理がある、という議論を紹介している。
・真珠湾奇襲についても、ハル国務長官に手渡すのが遅れたという最終覚書が、そもそも宣戦布告を宣したものではなく、奇襲前に渡されたとしても国際法違反は避けられないものだったと指摘している。これは知らなかった。また、最近の研究*79では、従来出先の日本大使館の過失で覚書の手交が遅れたという理解だったが、そうではなく、外務省自身が最終結論部分の発電をギリギリまで遅らせた上、「至急」「大至急」の指定無しに、「普通電」として発電していたことが分かってきたという。無警告奇襲攻撃を重視する陸軍の意図がそこに働いているのであり、計画的な奇襲だと言える。
また、開戦時には、イギリス、オランダ、タイに関しても違法性の強い戦闘をしかけている。なんと、「(ボーガス注:マレーシアの英国軍を攻撃した)日英戦争の場合には、外交交渉も最後通牒もないままに、真珠湾攻撃の一時間ほど前に、いきなりマレー半島への強襲上陸を開始しているのだから、国際法上の違法性はこちらの方がきわだっている」という。(ボーガス注:インドネシアのオランダ軍を攻撃した)オランダ、タイに対しても、石油資源の都合や進駐に対する同意がとれなかったという理由から宣戦布告なしの武力干渉が行われている。
大東亜共栄圏構想がそもそもの後付の理由(自存自衛と食い違う)なことはある程度知られていると思うが、実際に占領した地域においては「国防資源取得と占領軍の現地自活の為民生に及ぼさざるを得ざる重圧は之を忍ばしめ」、「現住土民に対しては皇軍に対する信倚肝炎を助長せしむる如く指導し、その独立運動は過早に誘発せしむることを避くる」と、資源獲得を重視し、独立運動を抑圧する占領政策が取られていた。
ちょっと面白いのは、東條英機*80の当初の人気の高さだ。しきりにメディアに姿を現し、積極的な言動と行動の人というイメージを作り上げ、それが非常に支持されていたらしい。ここらへんのメディア論的な状況は(ボーガス注:小泉*81首相時代の政府のマスコミ利用など)現代との共通性を思わせるものがあり興味深い。
現代に通じるブラック体質 『日本軍兵士 アジア・太平洋戦争の現実』〈吉田裕〉|好書好日
旧日本軍のやり方は、自らの無策を補うため兵士の生命を徹底的に軽視して死に追いやるなど、近年社会問題化しているブラック企業のそれと酷似している。このブラックさは日本人ならではの伝統、体質に由来すると思った人も多いのではないか。
日本人が本当にそういう体質の持ち主であるかはひとまずおくが、本書が凡百の日本人論とは明らかに質が違うことは強調しておきたい。けっして情緒に流れず、日本軍の酷(ひど)さを数字と具体例にもとづき淡々と述べているからだ。
たとえばインパール作戦の兵士が行軍で担いだ荷物は40~50キロだったという。当時の20歳男子の平均体重に近い。
歯科医の話も印象的だ。1945(昭和20)年の陸軍総兵力は550万人に達していたのに、敗戦時の陸軍歯科医将校は約300人に過ぎなかった。虫歯に苦しんだことのある人なら慄然(りつぜん)とする数字だろう。
吉田裕『日本軍兵士』(中公新書) 8点 : 山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期
・序章において、著者がまず指摘するのはアジア・太平洋戦争が長期戦だったということです。
1937年の日中戦争の勃発から考えると、1941年の対米英開戦まで4年ちょっと、さらに終戦までは4年弱かかりました。当然、兵士の間には厭戦気分が広がり、士気は低下していきますし、長期戦ならでは問題も出てきます。
それが例えば、虫歯の問題です。戦場では毎日歯磨きをする余裕はなく、虫歯になる兵士は増えていきましたが、その歯を治療する体制を日本軍はつくっていませんでした。1940年にようやく、陸軍歯科医将校制度がつくられています。
・戦場での死には戦闘による死である戦死と、病気による戦病死があります。戦病死は医学の発達によって徐々に減少し、日露戦争では全戦没者に占める戦病死者の割合は26.3%まで低下しましたが、日中戦争では戦病者の割合は50.4%にまで上がっています(29p)。
アジア・太平洋戦争期における統計は存在しませんが、部隊の記録などを見る限り、かなりの割合に上ったと考えられます。
しかも、その中でも餓死、または栄養失調から来る病死がかなりの部分を占めたと思われます。日本軍兵士約230万人の死者のうち、藤原彰*82は餓死と栄養失調から来る病死が61%を占めると推計し、秦郁彦*83はそれは過大だとして37%という推計を出しましたが、いずれをとっても異常な高率であるといえます(31p)。
・この本では特攻死についてもとりあげられています。特攻に関しては数々の著作でとり上げられていますが、この本で注目したいのは特攻が思ったような破壊力を生まないという指摘です。
・また、自殺者もかなりの数に上ったと考えられます。1938年に憲兵司令部が調べたところによると、軍人・軍属10万人に対して自殺者は30人強、一般の国民の割合より高く、「日本国民の自殺率は世界一であるから、日本の軍隊が世界で一番自殺率が高いということになる」(59p)と結論づけています。
この原因として兵営内部での私的制裁の横行などがあげられますが、軍ではそれに対する抜本的な対策は取られませんでした。
・戦争が進行するにつれ、兵士の体格や精神状態が悪化するだけでなく、服装や装備も悪化していきます。
軍服のつくりも次第に悪くなり、軍靴の質も落ちました。動物の不足から鮫皮の靴もつくられましたが、見た目と違ってけっして水を弾くことはなかったそうです(128p)。
では、なぜこのような悲惨な状態になってしまったのか? 第3章ではその要因をいくつか探っています。
まずは日本軍の短期決戦思想です。1918年の「帝国国防方針」では、第一次世界大戦の影響を受けて長期の総力戦を戦い抜くという思想が取り入れられましたが、1923年の改定では再び短期決戦思想に回帰してしまいました(138-139p)。
また、作戦、戦闘をすべてに優先させる作戦至上主義、極端な精神主義も原因の一つです。
米英軍に対する過小評価もありました。1942年の段階でも陸軍の教育内容は対ソ戦を想定したものばかりで、大本営陸軍部が1941年に配布した『これだけ読めば戦は勝てる』には、イギリス軍を想定して「今度の敵を支那軍に比べると、将校は西洋人で下士官、兵は大部分、土人であるから軍隊の上下の精神的団結は零だ」などと書いてありました(142-143p)。
ようやく1943年になって教育の重点が対米戦に移され、44年に大本営陸軍部が発行した『敵軍戦法早わかり(米軍の上陸作戦)』には、「合理的かつ計画的」な米軍の姿が分析されるようになりましたが(146-148p)、遅すぎたと言わざるを得ません。
・このように日本軍兵士のおかれた悲惨な状況を多面的に描き出しているのがこの本の特徴です。終章では「戦争の傷跡」として、水虫が半世紀完治しなかった政治家の園田直*84の話が紹介されていますが、こうした今まで注目されてこなかった戦争の被害に光をあてているのがこの本の特徴です。
アジア・太平洋戦争における日本軍の愚かさというものは、今までもさまざまな形で指摘されてきたと思いますが、この本を読むと、改めてそれを実感するとともに、日本軍兵士が経験した「痛み」の一端を感じます。
https://twitter.com/hayakawa2600/status/1024561618032648192
早川タダノリ
「衆議院議員園田直(のち、外相・厚相)は、歩兵少尉として一九三八年の武漢作戦に参加している。ひどい「泥檸戦で、ほとんど半年も靴を脱がない時があった」という。この作戦時に「言語に絶するほど」の悪臭を放つ水虫に感染し、戦後も長い間、悩まされることになる」吉田裕『日本軍兵士』
戦地で水虫に罹患したほかの兵士の回顧に「昭和が平成に改まり、やっと私にあった治療薬に巡り会い、二年越しの根気ある治療が実って、やっと退治したのだった。 じつに、半世紀に及ぶ年月を水虫とつきあってきたわけで、オーバーな言い方をすれば、これで私の戦後が終わった。それが実感であった」同
吉田裕「日本軍兵士」を読む - 尾形修一の紫陽花(あじさい)通信
ベストセラーになって映画化もされた火野葦平*85「土と兵隊」なんか、ひたすら歩きだけのような記録である。そういうことはよく言われていたわけだが、ただひたすら歩く戦場ではちゃんと食べて歯を磨くこともできない。
それがいかに戦力を落とすか。考えてみればすぐに判る。栄養も取れなくなり、体力も落ちて来る。今じゃ歯が痛ければすぐに歯医者に行けるから、何カ月も歯をちゃんと磨かずに無理を続けるとどうなるかを思いつかない。欧米の軍隊ではそれに気付いて軍隊内の歯科医制度があったが、日本軍では歯科医の整備が遅れていた。また無理な行軍を続ければ、足も蒸れて水虫になってしまう。元外務大臣の園田直は戦場でかかった水虫に戦後も長く悩まされ続けたというエピソードが出てくる。
「日本軍兵士」吉田 裕: 書評「ブック・ナビ」
・軍靴についても触れられている。軍靴は兵士として行動するためにきわめて重要な装備。しかし軍靴や背嚢など革製品をつくるのに不可欠な工業用ミシンは外国製品に依存していた。日中戦争後、国産化が図られたが不足は歴然としている。また縫糸は丈夫な亜麻糸でなければならなかったが、亜麻は国内では北海道でしか栽培できない。生産が需要においつかず、質の悪い人造繊維スフで代用された。そのため「軍靴の底が泥と水のために糸が切れてすっぽり抜けて」しまう事態が続出した。また牛革でなく、馬革や豚革、戦争末期には鮫革の軍靴まで出現した。
先週、仕事で九段坂上の靖国神社を訪れる機会があった。境内の一隅に、インパール作戦の跡地で収集された兵士の遺品が展示されている。そのなかに、本書で描写されているように上部の革がすっぽりはがれた軍靴の底があった。兵士はこんな靴をはかされて、どんな思いでミャンマーの山地を敗走していたのか。この国に総力戦の能力も準備もなかったことは、こんな装備の末端からもうかがうことができる。
■末廣昭*86『タイ 中進国の模索*87』:東南アジアの社会(岡田泰平*88)
(内容紹介)
ネット上の記事紹介で代替。岡田論文は「3月の民政移管選挙」前提の文章です。正直「歴史評論」のような一般向け歴史雑誌では記事内容は
1)ほとんど日本史関係
2)日本史以外だとヨーロッパ(その場合、西欧が多い)かアメリカ合衆国か中国
で、タイのような東南アジアは滅多に取り上げないので、今回の記事はかなり珍しい。
なお、メインは末廣本紹介ですが、関連して
【東南アジア全般:出版順】
・柿崎一郎*89『東南アジアを学ぼう :メコン圏」入門』(2011年、ちくまプリマー新書)
・岩崎育夫*90『入門 東南アジア近現代史』(2017年、講談社現代新書)
【インドネシア:出版順】
・小川忠*91『インドネシア』(1993年、岩波新書)
・加納啓良『インドネシア繚乱』(2001年、文春新書)
・水本達也『インドネシア』(2006年、中公新書)
・佐藤百合『経済大国インドネシア』(2011年、中公新書)
・村井吉敬*92『インドネシア・スンダ世界に暮らす』(2014年、岩波現代文庫)
【カンボジア:出版順】
・冨山泰『カンボジア戦記』(1992年、中公新書)
・熊岡路矢*93『カンボジア最前線』(1993年、岩波新書)
【シンガポール:出版順】
・田村慶子*94『「頭脳国家」シンガポール』(1993年、講談社現代新書)
・岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』(2013年、中公新書)
【タイ:出版順】
・柿崎一郎『物語タイの歴史』(2007年、中公新書)
・岩佐淳士『王室と不敬罪:プミポン国王とタイの混迷』(2018年、文春新書)
【フィリピン:出版順】
・鈴木静夫『物語 フィリピンの歴史』(1997年、中公新書)
・井出穣治『フィリピン』(2017年、中公新書)
【ベトナム:出版順】
・坪井善明*95『ヴェトナム:「豊かさ」への夜明け』(1994年、岩波新書)
・古田元夫*96『ベトナムの現在』(1996年、講談社現代新書)
・小倉貞男『物語 ヴェトナムの歴史』(1997年、中公新書)
・松岡完*97『ベトナム戦争:誤算と誤解の戦場』(2001年、中公新書)
・小倉貞男『ドキュメント・ヴェトナム戦争全史』(2005年、岩波現代文庫)
・坪井善明『ヴェトナム新時代』(2008年、岩波新書)
【ミャンマー】
・根本敬*98『物語 ビルマ*99の歴史』(2014年、中公新書)
【ラオス】
・青山利勝『ラオス』(1995年、中公新書)
といった東南アジア*100関係の新書も紹介されています。ぱっと見て分かることですが第一に中公新書のラインナップが充実しています。
第二に「インドネシア」「ベトナム」といった大国についての新書が充実しているのに対し「ラオス」など小国は充実していません。
なお、新書ではないですが「新書という縛りをなくした場合」の本として「明石書店のシリーズ本」を紹介しておきます。
【東南アジア全般】
・『東南アジアを知るための50章』(2014年)
【インドネシア:出版順】
・『インドネシアを知るための50章』(2004年)
・『現代インドネシアを知るための60章』(2013年)
【カンボジア】
・『カンボジアを知るための62章【第2版】』(2012年)
【シンガポール】
・『シンガポールを知るための65章【第4版】』(2016年)
【タイ】
・『タイを知るための72章【第2版】』(2014年)
【東チモール】
・『東ティモールを知るための50章』(2006年)
【フィリピン:出版順】
・『現代フィリピンを知るための61章【第2版】』(2013年)
・『フィリピンを知るための64章』(2016年)
【ベトナム】
・『現代ベトナムを知るための60章【第2版】』(2012年)
【ミャンマー】
・『ミャンマーを知るための60章』(2013年)
【ラオス】
・『ラオスを知るための60章』(2010年)
■末廣本の紹介
『タイ 中進国の模索』末廣昭(岩波新書) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG
・本書は、日本のタイ研究の高水準を示す誇るべき成果である。タイの現状を、これだけ詳細に深く、そしてわかりやすく書いたものは、タイ本国にもどこにもないだろう。本書のなかでは、ほかの日本人研究者によるいくつかの文献がしばしば参照されている。したがって、本書は著者個人の成果というより、これらの参照文献の著者たちとの共同研究の成果といってもいいだろう。そして、それらの共同研究をリードしたのが、著者の末廣昭であった。
・著者は、本書執筆にあたって、いろいろ整理をしていることが、「はじめに」でわかる。まず、テレビ報道で映し出されるような「黄色のシャツ*101」と「赤色のシャツ*102」の対立というような単純なものではないことを、4つに分けて説明する(「第一に、国民の大多数は、「黄色のシャツ」であれ「赤色のシャツ」であれ、彼らのなりふりかまわない実力行使にうんざりしている」「第二に、「黄色のシャツ」を民主化の推進勢力と捉える議論には賛同できない」「第三に、「黄色のシャツ」(PAD*103)は王室擁護派、「赤色のシャツ」(UDD*104)は王室ないがしろ派と区分することもできない」「第四に、「黄色のシャツ」の活動を都市中間層、「赤色のシャツ」の活動を農村貧困層に代表させる見方にも疑問が残る」)。
・つぎに、2つの切り口、2つの課題をあげる。2つの切り口とは「政治の民主化」と「タイの中進国化」で、キーワードとして「民主化、現代化、そして王制」を選んでいる。2つの課題とは、「ひとつは、民主主義をどのように発展させ、王制との調和をどのように図るのかという政治的な課題である。もうひとつは、グローバル化時代の世界にどのように対応するのか、いいかえれば、グローバル化の流れの中でどのように「タイらしさ」(Thainess)を維持するのかという経済社会的な課題である」。これら「二つの課題は将来のタイ社会をどのように構想するか、その違いによって、それぞれいくつかの選択肢に分けることができる」という。
本書は、前著『タイ 開発と民主主義』(岩波新書、1993年)の続編にあたるため、1992年から再開するのが筋であるが、著者はつぎの2つの理由から1988年を起点とした。
「第一の理由は、一九八八年がタイにとって経済ブームの出発の年になったことにもとづく。その後の経済拡大や社会変化はすべてここから始まった。経済拡大はバブルを引き起こし、バブルの崩壊は通貨危機に発展する。そして、この通貨危機が、一方では「国の開発」より「国民の幸福」を重視する開発計画の転機となり、他方ではタックシン首相の「国の改造」の発想の源となった」。
「第二の理由は、一九八八年が政党政治の本格的な開始年になったことによる。ただし、政党政治の開始は政治の腐敗のさらなる増殖でもあった。そのため、クーデタが勃発し、五月流血事件、憲法改正運動をへて、一九九七年憲法へと帰結する。ところが、「人民の憲法」と賞賛されたこの憲法は、タックシンという「強い首相」を創り出した。そして、二〇〇六年のクーデタ以後の政治は、タックシン体制の根絶か、それともその復活かを軸に、先行き不透明な政治抗争を繰り返している」。
この政治抗争の根源は、2009年3月末にタックシン元首相が支持者の集会で、ビデオを通じて述べた「今回のクーデタの首謀者はプレーム*105枢密院議長とスラユット*106枢密顧問官である」という爆弾声明につきるかもしれない。王室に絶大なる影響力をもつこれら2人を中心とする勢力が、反タックシン運動の黒幕だというのだ。しかし、著者は、そのような表面的な対立構造だけではなく、タイの基層社会・文化のなかで現在の状況を理解しようとし、タイの現状をつぎのように総括している。
「「黄色のシャツ」と「赤色のシャツ」の衝突は、一面ではタックシン元首相の政界復帰をめぐる対立の側面をもっているものの、両者が過激な実力行使に走る背景には、間違いなくタイ経済の悪化、失業者の増加、将来への見通しへの不安が存在した。経済の不安定が政治の不安定を増幅させ、政治の不安定が経済の建て直しの足をひっぱるという悪循環に、タイは陥っている」。
著者は、今後の大きな課題として「王位の継承と今後の王制の在り方」をあげ、終章を「タイ社会と王制の未来」とした。日本の皇室とは違い、タイの王室は社会に影響を与えうるだけの内帑金(君主の所有に属する財貨)をもって経済開発や社会福祉事業などを行っている。日本の皇室やイギリスなどのヨーロッパの王室がおこなう政府とは別次元の外交などと違い、政府の政策と矛盾し対立することもある。今日の混乱の原因のひとつは、タックシンの「国の改造」政策が王室が目指した「足るを知る経済」と衝突したためである。そして、著者は、つぎのようにこの終章をむすんでいる。
「結局のところ、中進国タイには二つの道があると言ったが、ありうる選択は「現代化への道」と「社会的公正の道」を折衷したものに行き着く。ただし、それは時代の流れに柔軟に対応し、バランス感覚を大切にするタイのひとびとにとっては、もっとも現実的な道と思えるが、どうであろうか」。
たしかに、この20年間にタイ社会を取り巻く環境は大きな変貌を遂げた。にもかかわらず著者は、前著と同じくつねに「タイらしさ(Thainess)」を考えながら、本書を書いている。読者であるわたしも、ぶれない視点で本書を読むことができ、数々の疑問が解けた。しかし、わかりにくいことも多々ある。空港を占拠したり国際会議を妨害したりしても、本気で再発を防ぐ方策はとられていないようにみえる。しばしば変わる憲法に基づいた憲法裁判所による、もっともとも思えないような理由での首相解任や党の解散命令を、なぜ当事者たちがすんなり受け入れたのか。タイ人のいう「民主主義」とはどういうもので、あきらかに国益を損なうことがなぜ繰り返されるのか、そして「タイらしさ」とはなになのか。タイ人自身によるタイ研究の飛躍的な進歩に連動する日本人のタイ研究者の考察・分析に注目し、著者のいう3つのキーワード「民主化、現代化、そして王制」とともに、今後のタイの情勢をみていきたい。タイ人が微笑みを取り戻すことを願いつつ・・・。
末廣昭『タイ 中進国の模索』(岩波新書) 8点 : 山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期
タイと言うと、「穏やかな国民性」、「仏教への帰依」、「偉大なる国王」という感じに、政変の多い東南アジアの国にあって例外的に安定した国であったかの印象があります(もちろん、これは印象であってよく歴史を見てみると違うのですが)。
ところが、タクシン政権(本書ではタックシン表記)の誕生後、イスラムゲリラとの戦闘、クーデター、空港占拠などの直接行動など、何かと血なまぐさい出来事が耐えません。
こうしたタイの変化の背景を経済、社会の面から解き明かし、さらに政治の現状とこれからの展望を分析した本。
近年のタイのことを知るために非常に有益な本だと思います。
タイの混乱に関しては、日本の新聞を読んでいる限り、「地方の農民の支持を受けたタクシン派」対「都市のインテリ勢力」という、「農村」対「都市」、あるいは、「ポピュリズム」対「インテリ層」のような形で捉えてしまいがちです。
この見方は確かにわかりやすい図式ですが、これだけではタクシンの一時の圧倒的な人気や、何が(ボーガス注:反タクシン派の)クーデターまでを引き起こしたのか?ということは理解出来ません。
こうした近年のタイの情勢を著者は、タイの経済ブームが起こった1988年から説き起こし、経済発展とタイにおける消費社会の到来、そして通貨危機といった中で、民主化と「強い首相」が求められていった状況を説明していきます。
通貨危機後、グローバル経済への対応が求められたタイには、国王が提唱する「足るを知る経済」とタクシンのグローバル路線の二つの道が用意されます。
タイの文化を生かした調和的な発展を目指すエスタブリッシュ・グループと、ポピュリズム的人気を背景に既存の秩序の破壊を目指したタクシン。タイの抱える問題とは、タイのローカルな問題ではなく、各国が等しく向き合うグローバルな問題なのです。
こうした変化とその帰結を政治・経済・社会の面から丁寧に描いてみせたのがこの本。イスラムゲリラの問題があまり触れられてないといった物足りない面もありますが、タイに興味のある人、あるいはアジアの政治や経済に興味がある人はぜひ読むべき本でしょう。
http://www.fben.jp/bookcolumn/2010/04/post_2488.html
・タイは、農業国ではなく、工業国である。輸出額のトップはコメではなく、コンピューター部品なのである。
・1973年に軍事政権が倒れてから2008年末までの35年間に、クーデターが4回、憲法制定が6回、総選挙は14回、政権交代は27回も経験している。首相の平均在任期間は1年半という短さである。タイは決して政治的に落ち着いた国ではない。黄色シャツは反タクシン勢力、赤色シャツは親タクシン勢力である。この対立を民主主義を推進する勢力と阻害する勢力の対立、王制を守るグループとないがしろにするグループの対立、都市の中間層と農村の貧困層の対立というとうに、国を二分するグループ間の衝立という構図に読みかえるのは適切でない。国民の大多数は黄色にも赤色にも、そのなりふりかまわない実力行使にうんざりしている。
タクシン元首相は1949年生まれですから、私と同じ団塊世代ということになります。警察中佐でしたが、コンピューターのレンタル事業に乗り出し、またたくまにタイ最大の通信財閥に発展させた。1998年、51歳の若さで首相に就任し、2006年9月のクーデターまで5年8ヶ月、政権を維持した。
タクシン首相による「国の改造」は国王と王室の威信と権威を傷つけ、国軍の人事や国防予算といった軍の聖域を土足で踏み荒らし、官僚を政策決定機構から排除していった。当然、そこに反発と不満を引き起こした。
タイという国を多角的に分析していて大変分かりやすく読みすすめることができました。
■最近のタイ情勢(今後の動向によって書き換える可能性あり)
「アジアの民主化ガー」と抜かす「エセ人権団体(本当はただの反共右翼団体)」一般社団法人 アジア自由民主連帯協議会 | Asian Solidarity Council for Freedom and Democracyが、「現在ホットな問題であるタイの民政移管」について何もコメントしないとは「ある意味すげえな」と心底呆れます。「ほとんど中国と北朝鮮しかネタにしてない」のだから「アジア」といわずにせめて「東アジア」といったらどうなのか。
・「タイの民政移管」も「サウジの記者暗殺」も「ベトナムやラオスの一党独裁」も「独裁色を強めるトルコのエルドアン*107政権やカンボジアのフンセン*108政権」も「ミャンマーのロヒンギャ問題」も取り上げない連中が、「中国と北朝鮮しか取り上げない連中」の何が「アジアの民主化」よ?。
・まさか中国、北朝鮮以外のアジア国家には民主主義上、人権上問題はないとでも言う気か?
て話です。で、こんなエセ人権運動にコミットしてる「つくる会理事」「チャンネル桜常連出演者」三浦小太郎(守る会事務局長)という「デマ極右」「排外主義者」と付き合いながら「アンチネトウヨ」を自称する例の「守る会会員」Nさん(本名Yさん)には心底呆れます。
【主張】タイ総選挙 軍政との決別が最優先だ - 産経ニュース
・重要なのは、軍事独裁の長期化という異常事態を終わらせることだ。国民が納得できる形で民政復帰を果たしてほしい。
・タイを含むインド太平洋地域では、中国が巨額の経済支援で各国の強権的な政権を支え、自らの影響力拡大を図っている。
力を頼む軍事独裁では、そうした中国の手法に取り込まれてしまう。
少し古くて今年1月の産経記事です。「軍政は早く終わらせろ」とは「今は建前では産経もこういうのか」と一寸びっくりです。
ただ「中国ガー」と中国批判にこじつけるあたりはやはり産経です。そもそもタクシン時代が反中国で、軍政になって中国に接近したという事実はない。中国的にも中国と仲良くしてくれるならば、「軍政でもタクシン派など反軍政でもかまわない」でしょう。
タイの「タクシン派」、どんな人たちですか?: 日本経済新聞
通信業界で巨富を成して政界に進出し、2001年~06年に首相を務めたタクシン・チナワット氏を信奉する勢力です。東北部や北部の農民、都市部の露天商やバイクタクシー運転手など、低所得層が中心といわれます。
首相在任中、1回100円の低額医療や農民の債務繰り延べ、全土で7万超のコミュニティーに投融資枠を設ける「村落基金」の創設など、斬新な政策を実行に移しました。大分県を参考にした地域振興策「一村一品運動」は、工芸品や食品、化粧品など6000以上の商品を生み出し、現在の年間売上高は5000億円を超えています。
一連の施策により、タクシン氏は「初めて貧困対策に本気で取り組んだ首相」と称賛されました。タイでは長く富裕層・中間層が経済権益の大半を占め、時の政権の経済政策もそうした「持つ者」を念頭に置いていました。しかし、置き去りにされてきた「持たざる者」は、タクシン氏の登場によって自分の1票が生活水準の向上につながることを実感し、政治意識に目覚めたといわれます。
半面、タクシン氏の強権的な政治姿勢や金権体質は保守層から嫌われ、06年の軍事クーデターで失脚する一因となりました。
タクシン氏はその後、汚職罪での収監を逃れ、中東ドバイを拠点に逃亡生活を送っています。議会では「影の党首」として采配をふるタイ貢献党、街頭ではシンボルカラーの赤いシャツを身につけて支援活動を繰り広げる市民団体「反独裁民主統一戦線(UDD)」を権力基盤の両輪とし、タイ政治に影響力を行使しています。
11年には妹のインラック氏を首相に据えましたが、タクシン氏への恩赦を強引に進めようとして反発を買い、政情混乱の中で14年に再びクーデターを招きました。
地方農民は人口が多く、タイ貢献党はその前身を含め、過去4度の総選挙で全て勝っています。復権を阻みたい今の軍事政権は今回、特定の政党が大勝しにくい選挙制度を導入。不利になるタクシン派は、政権奪還に向けた驚きの「隠し玉」を繰り出しました。
タクシン派政党のひとつが2月、ワチラロンコン国王*109の姉*110を首相候補に担ぎ出そうとしたのです。国王がすぐに反対意見を表明したため断念せざるを得なくなったうえ、立憲君主制に反する行為だったとして、憲法裁判所から解党命令を下されました。残ったタイ貢献党は、苦しい戦いになります。
誤算だったはずですが、タイ貢献党の人気は健在です。選挙の結果次第では、軍政から民政へ復帰した後も、タイ政治が再び迷走を始める懸念は拭えません。
■結論
タクシン派は文字通りタクシン元首相を支持する人たちで、多くは地方農民などの低所得者層です。人口に占める比率も高く、これまでの選挙では連戦連勝を果たしています。
タクシン人気 農村で健在 タイ総選挙 地方振興策懐かしむ声も (1/2ページ) - SankeiBiz(サンケイビズ)
24日のタイ総選挙で、タクシン元首相派のタイ貢献党は親軍政政党に押されたが、なお一定の強さを示した。首相在任中に進めた地方振興政策は、目立った産業のない東北部や北部の農村に希望を持たせてくれた。こうした地域では今もタクシン氏に感謝する有権者は多く、強固な地盤となっている。
■一村一品運動
のどかな田園風景が広がる東北部ウドンタニ県コーケオ村。自宅の軒先に置いた質素な木の板に腰掛け、シャラムさんが休みなく機織りを続けていた。散歩中の近所の女性と時折笑顔で雑談を交わすが、完成しつつある織物を見る目は職人そのものだ。
「タクシンさんが首相だったころは、たくさん売れたんだ。彼には今でも感謝している」と懐かしむような表情を浮かべた。床などに敷くマットは1枚250バーツ(約870円)。70バーツのスカーフも作っている。
流通を促進させたのはタイ版「一村一品運動」だ。農村ごとに特産品開発を奨励し、現金収入源をつくる狙いでタクシン氏が始めた。コーケオ村では、各家庭に伝わる織物の販売に力を入れ「それまでは個人でほそぼそと売っていたが、村の人と協力して販路を開拓し、売り上げが伸びた」(シャラムさん)という。
しかし、旗振り役のタクシン氏は2006年のクーデターで失脚。政権が代わって政府の財政支援がなくなると運動は下火になった。流通も停滞気味になり、シャラムさんの妻ナリーさんは「年収が半分になった」とため息をつく。
村民のまとめ役カムコーンさんによると、タクシン政権時、この一帯の1人当たり年収は3万~4万バーツだったが、失脚後は1万バーツほどに激減した人も。「実業家出身ならではの収入につながる実践的政策が良かった。また首相になってほしい」と待望する。
ウドンタニで小さな雑貨店を営むピンパーポンさんは、店先にタクシン氏の写真やポスターを飾っている。タクシン氏が導入した30バーツで誰もが治療を受けられる医療制度のおかげで「病気をしたときも生活が崩壊しないで済んだ」と感謝の気持ちを今も忘れない。
タクシン氏の政策には、ばらまきや人気取りとの批判がつきまとう。だがピンパーポンさんは「他の政権は首都圏や富裕層ばかり気にして地方には目も向けなかった。タクシン氏は農村部の民衆に寄り添ってくれた」と言葉に力を込めた。
タクシンは田中角栄に似ている - ‘View from Tokyo’
田中氏は逮捕された後も自民党の最大派閥を率い、病に倒れるまで大きな影響力を保持し続けた。大平*111、中曽根*112の両氏は田中氏の支援がなければ首相にはなれなかったと言われる。中曽根内閣は「田中曽根」内閣などとかげ口を叩かれた。「田中曽根」とは田中と中曽根を結び付けた造語である。
タクシン氏は海外に逃亡しているものの、タイ国内に強い影響力を保持している。インラック現首相*113はタクシン氏の実妹であるが、兄と頻繁に連絡を取り、兄の操り人形であるとのうわさは日本でもよく耳にする。
田中氏もタクシン氏も政治家を多く輩出してきた階層の出身ではない。田中氏は早くに父を亡くし、貧しい中で育った。小学校しか出ていない。タクシン氏はチェンマイの中華系の家系の出身で、警察官僚から実業家に転じており、タイの伝統的な支配層とは無縁だ。また、タイで多くの首相を輩出した陸軍とも関係がない。田中氏ほどではないにしても、タクシン氏もエリートではない。
両人の政権運営は強引であった。強引かつ緻密であったために、田中氏には「コンピューター付ブルドーザー」と言うあだ名がついた。タクシン氏の強引さについては、筆者よりタイの人の方が良く知っていると思う。
つうことで「農村の支持が強いこと」「政治的に失脚したが復権を狙ってること(田中はロッキード事件での逮捕起訴、タクシン氏は軍部クーデターで国外亡命で、意味が違いますが)」で、日本で「タイの田中角栄*114」と呼ばれるタクシン氏です。
タクシン派が下院第1党に タイ総選挙、選管発表 - 産経ニュース
タイ選挙管理委員会は8日、3月24日の下院(定数500)総選挙に関し、比例代表(150議席)の公式結果を発表した。すでに明らかになっている小選挙区(350議席)の結果と合わせると、タクシン元首相派政党「タイ貢献党」が136議席を獲得し、下院第1党となった。
ただ新首相は軍が任命する上院(定数250)と下院の計750議員で選出するため、親軍政政党「国民国家の力党」の首相候補であるプラユット首相が続投する可能性が強まっている。
下院第2党は国民国家の力党で115議席、第3党は新未来党で80議席。
「選挙結果が軍部政党2位」「未だ強い影響力を持つ王家が軍部を公然と支持」では、しばらく問題が続くのでしょう。
とはいえ民主主義の観点からは「タクシン派1位」はよかったと思います。ただし、「タクシン派に次ぐ2位政党」軍部政党が当初予想よりのびたこと(当初予想では絶対に3桁行かなかった)、その結果「タクシン派1位でも圧勝とは言えないこと」が気がかりです。「軍部政党を有利にする不正選挙があった*115」か、はたまた「またクーデターが起こるくらいなら軍部政党でいい」という諦めや、「民主主義の観点はともかく軍部政党でも経済的には問題ない*116」つう経済重視の考え*117が予想以上に大きいのか。
一方で「反軍の新政党・新未来党」の躍進は明るい材料です。従来は、「タクシン派」「軍」と拮抗する第三勢力だった「民主党」の退潮が興味深い。タクシンとも軍とも距離を置いて独自性をアピールしようとして「ただのコウモリ政党」と見なされ「新未来党(反軍派)にまで追い抜かれた」ということでしょう。
あとタイの問題点と言えば高世仁も
ほんとうは怖いタイ - 高世仁の「諸悪莫作」日記
タイの政争の裏にはあのお方が - 高世仁の「諸悪莫作」日記
タイ国王の死を悼む - 高世仁の「諸悪莫作」日記
で指摘してましたが、ヨーロッパや日本と違い、「未だに王家が政治力持ってること(そして公然と軍部に肩入れしてること)」でしょう。軍部だけが問題じゃないわけです。
タイ国王、タクシン元首相の勲章はく奪 理由は国外逃亡:朝日新聞デジタルということで選挙後も「軍部アシスト狙い」で王家はいろいろと動いています。
しかし高世(過去にタイに駐在)も以前タイ関係記事を書いてるし、今回「民政移管選挙」つうホットな話題があるんだからタイ民政移管選挙についての記事でも書いたらどうなのか。「安田解放で身代金は払われなかった!」という趣旨の安田純平さんの解放に身代金は支払われたのか?(7) - 高世仁の「諸悪莫作」日記など、どうでもいい記事書いてないで。
それにしても北朝鮮相手には「打倒金正恩」なのにタイ相手には「打倒軍政」ではないあたり「高世ってホンマにデタラメだ」ですね。
タクシン派の善戦に終わったタイ総選挙:日経ビジネス電子版高木佑輔(政策研究大学院大学助教授)
2019年3月24日、タイの総選挙が終わった。3月26日付の日本貿易振興機構(ジェトロ)の「ビジネス短信」は、タイの公共放送PBSの報じた選挙結果を伝えており、それによれば、タイ貢献党が135議席で第1党、国民国家の力党が119議席、新未来党が87議席、民主党が55議席となっている。
ただし、2017年憲法によれば、首相の選出にあたっては、今回公選された500議席の下院に加えて250議席の上院にも投票権がある。そして、上院は事実上軍政の任命議員によって占められている。その結果、首相選出に必要な議席数は、750議席の過半を超える376議席以上となる。PBSの速報通りであれば、軍政側は、既に369議席獲得しており、52議席を獲得したタイ誇り党との連立や、その他の未定を含む52議席のうちから、7議席を切り崩せば首相を指名することができる。
また、そもそも軍政寄りの民主党がどのように最終的な判断をするかは予断を許さない。
■軍政寄りの民主党は惨敗
以上の情勢を踏まえた上でも、やはりタクシン派の善戦というのが今回の選挙結果の一つの総括であることに変わりないだろう。今回の選挙は、小選挙区で選出される議席を減らしており、小選挙区制の特性を活用してきたタクシン派のタイ貢献党には厳しい選挙制度となっていた。
また、民主党が惨敗したことも今回の選挙の一つの総括であろう。同党はタイ貢献党と対立し、一時は親軍政党、タイ貢献党との三つどもえを演じるとも思われた。そもそも、政党でありながら軍政との距離を測りかねていた民主党は、新興政党である新未来党に惨敗したともいえる。
現職の強みを生かして軍政支持政党である国民国家の力党が政権を発足させるとしても、やはり国会運営や、次の選挙(?)でタクシン派の動向を無視することはできないだろう。ところで、タクシン派とはそもそもどのような人々なのだろうか。
■タクシン派の中心はチナワット家だけではない
タクシン派とは、もちろんタクシン・チナワット元首相に端を発する。その地盤として、しばしば北部や東北部が取り上げられる。しかし、タクシン氏の出身は北部であっても東北部ではない。また、東北部の多数を占めるラオ系の人物でもない。
また、タクシン氏の妹であるインラック氏がタイ貢献党を率いて首相を務めたことから、タクシン派はチナワット家のものであると思われるかもしれない。しかし、タイ貢献党の現在の党首は、同家との血縁にはない。スダラット現党首は、タクシン氏とともにタイ愛国党を結党した政治家で、地盤はバンコクである。
それではタクシン派とは何であろうか。また、なぜタクシン派は北部のみならず東北部を地盤とすることになったのであろうか。
タクシン派の起源を考えるためには、タクシン政権の政策を考える必要がある。デュアル・トラックとして知られる同政権の経済政策については、その生みの親とされるソムキット氏の来歴とともに、しばしば論じられてきた。
もう1つ、タクシン政権が後のタイ政治を左右する一大潮流を生み出した政策として知られているのが「30バーツ医療制度」と呼ばれる社会政策改革である。様々な経緯を経て、タイ貢献党の党首となったスダラット氏は、まさにこの制度を導入した際の保健大臣であった。ただし、同制度の導入についての詳細な研究によれば、同制度に主体的にかかわったのはスダラット氏本人というよりも、彼女の下で副大臣となったスラポン医師であった。
幸いなことに、同制度の成立過程については、河森正人氏の労作『タイの医療福祉制度改革*118』を参考にしてその起源をたどることができる。同書をもとに、同制度の特徴とその起源について考えてみたい。
まず、30バーツ医療制度の特徴は、初診費用を下げ、疾病が進む前に診療を開始することで、医療費全体を下げる点にある。また、医療費負担について、受けた医療サービスの多寡ではなく、医療機関がカバーする人口に対応するようにした点も変更点である。そうすることで、医療機関が多い一方、人口の少ない都市部の負担を上げつつ、医療機関が少ない一方人口の多い農村部の負担を軽減する効果がある。このことは、人口は多いものの経済的機会に恵まれない北部や東北部の住民にとって魅力的であったとされる。
■「世論」ではなく「政策の専門家」に乗る
こうした医療制度が実現できた背景について、河森氏の研究を踏まえると、3つの勢力の存在が浮かび上がる。第1に、タイの民主化運動の一大高揚期であった1970年代に学生運動を率いたマヒドン大学出身の医師たちの存在である。実際、30バーツ医療制度の導入の旗を振ったのは、マヒドン大学出身の医師官僚で、タクシン政権の保健副大臣となったスラポン氏であった。
第2に、保健省内の農村医師官僚たちが重要であったという。保健省は、医療技術の発展を重視する保守派と、農村における医療の普及を重視する農村医師グループの間に緊張関係があるとされる。タクシン率いるタイ愛国党は、保健省内の両派の緊張関係を破ることで、30バーツ医療制度を実現する3つ目の勢力となった。
タイ愛国党は、政権を取る前から政策分野ごとにチームを作って政権構想を練っており、保健医療のチームにスラポン医師を招いていた。政権発足後、そのスラポン医師を保健副大臣に任命し、30バーツ医療制度が実現することとなった。
3つの勢力の存在が示すように、タクシン政権は、社会改革を目指す専門家の知恵を活用した。タクシン派の起源は、風のような世論ではなく、専門知に依拠した実務家との連携にあったと考えられる。
■次期政権で専門家との連携は進むか
30バーツ医療制度成立の経緯から、保健分野での改革は、民主化を目指す医師、改革派官僚と政治家の連携によって実現したことが分かる。タクシン派が、タイ政治の一大潮流となった背景には、タイ社会の改革を目指す専門家の存在があった。
これから発足する新政権が、タイ政治史の新時代を切り開くことができるか否か。その成否は、社会経済改革を実現する意思と能力を持った専門家との連携の有無に左右されることになるだろう。
明らかに高木氏や、高木氏が紹介する河森氏はタクシン政権に好意的ですが、彼らの見方「保健分野での改革は、民主化を目指す医師、改革派官僚によって実現」が事実ならば、タクシン政治は単なるポピュリズムではなく「専門家によるそれなりのプランに基づいた、それなりに評価できる物」であると言えるでしょう。
【書評】『王室と不敬罪 プミポン国王とタイの混迷』岩佐淳士著 君主と民主主義と - 産経ニュース
「微笑(ほほえ)みの国」ながらクーデターが繰り返されるタイ。(ボーガス注:タクシン派と軍の対立の)本質は、軍や官僚、財閥など都市の特権階級と地方の貧困層との対立と見立て、特権階級の頂点に立つのが王室だとする。選挙では、貧困層の圧倒的支持を得たタクシン派が毎回政権を取るが、軍がクーデターを起こす。さらに特権階級で構成の裁判所が(ボーガス注:軍政を)後押しする判決を出す「司法クーデター」。プミポン前国王の王妃はデモで死亡した反タクシン派側の葬儀のみ参列した事実も。王室への重い不敬罪の存在で報じられぬ実態を知ることができる。日本人として、君主と民主主義の関係を考える契機となる一冊。
高世も以前、タイ警察が不敬罪でBBCに立入り捜査 - 高世仁の「諸悪莫作」日記で指摘しましたが未だに不敬罪が存在し、それがメディア弾圧に使用される国がタイです。にもかかわらず、中国や北朝鮮に比べたらタイに甘いデタラメな男が高世です。
タイずさん総選挙に批判 投票者数と開票数合わず 一部で再投票や再集計|【西日本新聞ニュース】
タクシンが非難するように不正はやはりあったのか。実際には難しいでしょうが真相解明を望みたい。
タイの選挙管理委員会は23日、3月に実施した総選挙で反軍政を掲げて躍進した新党、新未来党のタナトーン党首を選挙法違反容疑で告発すると発表した。タナトーン氏がメディアの株を保有していたことが選挙法に抵触するとしている。違反が確定すれば、同氏は議席獲得の権利を失う。
「選管=軍の手先」とは唖然ですが、軍政もやることがえげつない。もちろんこうした軍の無法が簡単に通用するほど反軍側も甘くないでしょうが、民政移管も前途多難です。
https://www.jnpc.or.jp/archive/conferences/35340/report
■会見リポート『対立構造転換の兆し』高木香奈 (毎日新聞社外信部)
タイ政治研究の専門家である浅見靖仁法政大学教授の約1時間の話の後、司会者は「活弁を聞いているようで、血湧き肉躍った」と話した。
民政復帰に向けた8年ぶりの総選挙が3月24日に実施されたタイの政治は、取材対象としてそんな興奮するような局面を迎えている。
今に至るタイ政治の混乱の始まりは2001年のタクシン首相就任にさかのぼる。タクシン氏は農村振興や貧困対策に力を入れ、政治的に無視されてきた地方農村部に大票田を築いたが、伝統的エリート層の反発を招き、06年のクーデターで退陣した。翌07年と11年の総選挙はいずれも「タクシン派」と「反タクシン派」政党の争いとなり、タクシン派が圧勝した。
浅見氏によると、今回の総選挙結果には、対立構造が「タクシン派」対「反タクシン派」から「反軍政」対「親軍政」へと転換する兆しが見えるという。有権者の反軍感情が広がる一方で、タクシン派の得票率は伸び悩んだ。新興勢力の新未来党は、汚職のイメージの強いタクシン氏とは一線を画し、軍政継続を望まない人々の支持を得て躍進した。
選挙管理委員会による選挙結果確定はワチラロンコン国王の戴冠式後の5月9日の見込みとなる。続いて招集される国会では、会見時点ではプラユット氏が首相に再選され、親軍政政党を中心にした連立政権が誕生する可能性が高い。タクシン派の小政党も加えた連立政権誕生の可能性や、3月の総選挙が無効となる可能性もあると話す。
タイはこれから「ピンチ(窮地)に陥る」と言う。1980年代から2000年代の政治混乱はプミポン前国王がいたからこそ収まった面があるが、現国王の行動は予想しにくく、大きなリスクになると指摘する。タブー視されがちな王室の話題を含めて「愛情を込めて見守り、勇気を持って報道してほしい」と力を込めていた。
タイ「半分の民主主義」への逆流が映す危機: 日本経済新聞
3月24日に行われたタイ総選挙は「世界一、不可思議な選挙」と呼んで差し支えないだろう。投票から2週間半が過ぎ、開票作業はとっくに終了しているにもかかわらず、勝敗は5月9日まで判然としないのだから。
2014年5月のクーデター後の軍事政権から民政復帰に道を開く今回の選挙は、軍政の事実上の延命の是非が争点だった。政党が議席数を争うのが選挙だが、肝心のその数を「行司役」の選挙管理委員会が公表しない。不正告発が330件寄せられ、選挙違反が認定されれば結果が変わり得る、というのが理由だ。
地元紙バンコク・ポストは、タクシン元首相派で反軍政のタイ貢献党が137議席で比較第1党、親軍政でプラユット暫定首相の続投を目指す「国民国家の力党」が118議席で第2党とはじく。
5月4~6日にワチラロンコン国王の戴冠式を控え、選管と背後にいる軍政はその前に結果を明かしたくない事情はあるだろう。開票の集計ミスや比例区の算定方式を巡るいざこざも起きている。それらを引っくるめて、結果公表を先延ばしにし、恣意的な「操作」の余地を残している、とみるのはうがち過ぎか。
現時点で明らかなのは、タイ貢献党も国民国家の力党も、単独では下院の安定多数や、意中の首相擁立に必要な上下院合わせた過半数に手が届かない現実だ。5月9日の結果発表を挟み、閣僚ポストの提示や当選議員の寝返り・引き抜きなど、第3党以下への連立工作の神経戦は激しさを増すだろう。
東南アジア周辺国と同様に、第2次世界大戦後のタイは経済開発を優先して国民の政治的自由は制限する「開発独裁」の体制を敷いた。主導権を握ったのは軍だ。
一応は議会制民主主義の体裁をとったものの、批判勢力が邪魔になると自分の政権を自ら倒す「自家クーデター」に訴え、議会と政党を廃止し政権の安定度を高める「負の連鎖」を繰り返した。1970年代に民主化要求が高揚すると、軍は市民に銃口を向け、2度も流血の事態を招いた。
そんな悪弊を断ち切ったのが、80~88年に長期政権を担ったプレム元首相だ。軍出身ながら、政権が内部対立で行き詰まった時も、内閣改造や解散総選挙の手続きを踏んだ。欧米や日本のように国民が首相を選ぶ「完全な民主主義」ではないものの、議会制の原則を尊重した政治手法こそが「半分の民主主義」だった。
85年のプラザ合意後の円高対応で日本企業が進出を加速すると、タイは「アジアの工場」として高度成長を謳歌した。その背景に、「半分の民主主義」がもたらす政治安定があったのは見逃せない。
さらなる民主化を目指した97年憲法は、軍の政治介入を防ぐため首相は下院議員でなければいけないと規定し、上院に下院と同じ公選制を導入した。「アジア民主化の優等生」。タイはそう呼ばれる存在になった。
それが今になって「半分の民主主義」へ回帰するとはどういうことか。
形式上は首相の決め方だ。14年のクーデターで廃止した旧憲法に代わり、17年に制定した現行憲法は、非民選の首相を容認しているうえ、任命制に戻した上院議員が首相指名選挙に参加する史上初の制度を導入した。要は政変の首謀者だったプラユット氏の続投を確実にする仕組みである。
もっと注目すべきは民意の反応だろう。選管の暫定結果では、得票数で首位だったのは国民国家の力党(843万票)。選挙で圧倒的な強さを誇ってきたタイ貢献党(792万票)を上回った。
得票数はどんな意味を持つのか。かつての「プレム後」の状況と比べれば深刻さを理解できる。
88年に発足した初の本格的な民主政権はしかし、閣僚が利権あさりに精を出す「ビュッフェ*119内閣」と皮肉られた。目に余る腐敗への批判をとらえ、軍は91年にまたクーデターを決行する。軍を応援した国民はしかし、首謀者だった陸軍司令官が前言を翻す形で政治権力に居座ると、それを許すまじと街頭で大規模な抗議活動に打って出た。
92年、軍の武力鎮圧で多数の死傷者が出て、当時のプミポン国王の仲裁で事態はようやく収拾した。軍の政治介入を防ぐ97年憲法は、その反省から生まれたものだった。
翻って今回の選挙である。軍は不意打ちで権力に居座ろうとしているのではない。親軍政党がプラユット氏の続投を公言して選挙戦に臨み、最多得票を手にしたのだ。
それは「完全な民主主義」への諦めかもしれない。97年憲法の申し子だったタクシン氏は(ボーガス注:タクシン支持者からの)高い人気の半面、強権的な政治手法や金権体質が(ボーガス注:反タクシン派の強い)反発を招いた。タクシン派と反対派の間の政争と06年、14年の2度のクーデターで、国内の分断は深刻になった。今回の親軍政党への意外なほどの支持の高さは、「民主化疲れ」で理想より安定を望む心情が色濃くにじんでいる。
世界銀行の「民主化度ランキング」によれば、98年に東南アジア最上位の81位だったタイは、直近の17年は下から4番目の161位に沈む。「優等生」の面影を失ったうえ、現状に甘んじようとするタイ。その姿こそが、アジアの民主主義に迫る危機を投影しているように思えてならない。
当面すっきりしない状態が続くのでしょう。しかし「いずれ民主化の日が来る」と思いたい。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2019060500701&g=int
・タイ国会は5日、2014年5月のクーデター後に発足した軍事政権を率いてきた元陸軍司令官のプラユット・チャンオーチャー暫定首相(65)を首相に選出した。新内閣が発足すれば5年ぶりに民政に移行するが、引き続き親軍勢力が政権中枢を担い、軍の政治への影響力が維持されることになった。
・反軍勢力は新未来党党首のタナトーン氏を統一候補として擁立した。
・総選挙で第2党となった親軍政党の国民国家の力党(116議席)は多数派工作を展開。
第4党の民主党(53議席)、第5党のタイ誇り党(51議席)と連立で合意したほか、中小政党16党の支持を取り付けた。
反軍勢力は第1党となったタクシン元首相派のタイ貢献党(136議席)、第3党の新未来党(81議席)を中心に政権樹立を目指した。しかし、政権奪取に不可欠だった民主党と誇り党の協力を得られなかった。
ということで当面軍政が続くわけですが、民主化勢力の奮闘に期待したい。
■服藤早苗*120『平安朝の父と子*121』:ジェンダー史から権力の変遷を考える(嶽本新奈*122)
(内容紹介)
ネット上の記事紹介で代替。
http://www.fben.jp/bookcolumn/2010/11/post_2728.html
まず第一番に驚いたのは、平安朝の貴族の男性は料理が出来たということです。とりわけ、魚や鳥などの動物性食料は、男性が料理するのが古来からの日本の伝統であった。
そして、蔵人の頭(くろうどのとう)は妻が出産するについて、産休をしっかりとっていた。うひゃあ、本当でしょうか。驚きです。
平安初期、9世紀のころには、天皇のキサキは、摂関期に比べて、はるかに多かった。嵯峨天皇のキサキ数は20数人、子どもは50人もいた。
10世紀中ごろ、女御や更衣の生んだ子どもたちは7歳まで父の天皇に会うころはなかった。
平安中期、貴族の子息は12~16歳で元服という成人式を迎える。平安前期の9世紀は、上層貴族から庶民層まで16歳が元服年齢だった。その後、天皇から次第に元服年齢が若くなり、上層貴族にも浸透していく。
男子は、大人になれない下人的隷属者をのぞいて、どんな庶民でも一般的に大人名を付けてもらえるのに対し、女子は朝廷と正式に関係を持つ者しか大人名前は付けられなかった。そして、父の存在が大変に重要だった。
一夫多妻妾を認める平安中期の貴族層にあっては、妾や数度の関係しかもたなかった女性が出産したとき、女性が強い意志表示をしないかぎり、男性は父としての自覚をもたず、認知さえしなかった。
父の認知がない子どもは、「落胤」(らくいん)と呼ばれた。身分秩序の固定化と、いまだ母の出自・血統を重視する双系的意識のもと、父は子を認知することさえ不可能の場合があった。
父に認知されない「落胤」者は、貴族層にとってさげすみの対象だった。天皇の孫でも、母の出自・血統が低いと、貴族の正式の妻になることさえ難しかった。父の認知によって子は父の血統や身分的特権を継承できるが、母の出自・身分の格差が大きいと、認知さえもらえなかった。
しかし、院政期になると、父系制が定着し、母の出自はあまり問題にならなくなる。
平安時代の父と子の関係については、知らないことも多く、大変勉強になりました。
平安朝の父と子 貴族と庶民の家と養育 - 平安夢柔話
・「御堂関白記*123」「小右記*124」などの貴族の日記、「今昔物語」「栄花物語」「大鏡」などの古典から貴族と庶民の父子関係、父権から見た家の成立などを論じた本です。
第1章では主として、父親の子育てについて論じています。
・第2章では、父権から見た家の成立についてが論じられています。
・平安中期までは母親の身分が重要だったという話にも興味を惹かれました。
特に親王の子の場合、母の身分が重要だったようです。
例えば具平親王が身分の低い雑仕女との間にもうけた頼成は、具平親王に認知されず、家人の藤原伊祐の子として育てられます。
また「蜻蛉日記」に(ボーガス注:作者)道綱母の恋敵として登場する町の小路の女も、「さる親王のご落胤」だったようです。多分、母親の身分が低く、認知されなかったのでしょう。道綱母も「取るに足りない身分の女!」と切り捨てていますし。町の小路の女はその後、兼家に捨てられてしまっています。このようにたとえ天皇の孫でも、母の身分が低いと貴族の正式な妻になることも難しかったようですね。
それが次第に「腹は借り物」という考えが生まれ、母親の身分がそれほど重要視されなくなるのは院政期頃からだそうです。そして父権がさらに強くなっていくのです。婿取り婚から嫁入り婚が主流になっていくのもこの時代ですよね。そして権力も貴族から武士へ…。院政期って歴史の大きな転換点だったのですね。そんなこともこの本を読みながら興味深く感じました。
■科学運動通信『陵墓立ち入り観察関連行事、洞村跡地の見学に参加して』(白谷朋世)
(内容紹介)
2018年2月23日に実施された「綏靖天皇陵(四条塚山古墳)」調査と「洞村跡地見学」の実施報告。ネット上の記事紹介で代替します。
奈良・橿原の綏靖天皇陵に立ち入り調査 研究者ら円墳と確認 - 産経WEST
宮内庁が第2代綏靖(すいぜい)天皇陵として管理する奈良県橿原市の四条塚山古墳に23日、日本考古学協会などの考古学・歴史学の研究者ら16人が立ち入り調査を行った。
同古墳は直径約30メートル、高さ約3・5メートルの円墳とされる。江戸時代には修陵が行われ、初代神武天皇陵に治定(指定)されていた。だが、明治以降は綏靖天皇陵として管理されている。
宮内庁が管理する陵墓は立ち入ることができないが、日本考古学協会などはリストを提出して調査を申し入れ、平成20年に初めて認められた。今回で11回目で、昨年は崇神天皇陵*125(同県天理市)の調査が行われている。
産経は「簡単に書いてます」が、「江戸時代は神武→しかし明治になったら綏靖」てあたりが「江戸、明治期の天皇陵認定」がいかに怪しいかを示しています。
なお、神武(神話上の初代天皇)も綏靖(神話上の二代天皇、神武の子)も実在ではなく、当然、「先日、天皇皇后夫妻が訪問した神武天皇陵」も「綏靖天皇陵(四条塚山古墳)」も天皇陵じゃない。そもそも神武天皇陵は「学界通説では天皇陵ではないとされるが本物の古墳である大山古墳(宮内庁曰く仁徳天皇陵)」などとは違い、
画像で見る「神武天皇陵」でっち上げの経緯 - 読む・考える・書く
・現在の「神武天皇陵」は、幕末の文久2(1862)年、恐らく神武の埋葬地ではない「ミサンザイ」に決定された。その後、明治から昭和にかけて、このミサンザイは巨大で荘厳な「天皇陵」に作り変えられていくことになる。
まず、この地が神武陵に比定される前はどうだったか。「文久の修築」前の状態を示す絵図が残っている[1]。当時のミサンザイは、田圃の中の小さな塚に過ぎない。そこには榎一本と茨のような灌木が一株生えていた[2]。ちなみに、旧洞村の古老の話によると、ここはもともと糞田(くそだ)と呼ばれており、牛馬の処理場だったかも知れない[3]、という。
これが、15,062両(現在の価値に換算して約3億円)をかけた修築を経て、次のような姿に変貌する[4]。
・神武陵は、その後も修築という名の改変を繰り返され、変貌を続けていく。1879(明治12)年から1907(明治40)年にかけて編纂された官製百科事典「古事類苑」には、次のような陵図[5]が掲載されている。中央奥に見えるのがもとのミサンザイだが、盛り土と石垣で八角形に固められ、もはや原形をとどめていない。
大正期になると、いったん八角形に作ったこの墳形が、今度は円墳に変えられている[6]。さらに、新造したこの陵の周囲の土地を収用し、クロマツ、ヒノキ、カシなどを植えて、厳粛な雰囲気を醸し出す広大な森が新たに造成された[7]。
・あなたが橿原の「神武天皇陵」を訪れ、そこに悠久の歴史や神秘を感じるなら、あなたは下克上を目指す幕末の下級武士たち*126がでっち上げたペテンに、いまだに騙され続けていることになる。
が指摘するように、古墳でないものを明治になってから「補修を口実に」古墳に捏造した代物です。立場上、仕方ないのでしょうがそんな「捏造されたインチキ天皇陵」を「先祖の祀られた古墳」として参拝する天皇皇后夫妻も「言葉を選ばず言えば」滑稽です(さすがに彼らもアレが本物の天皇陵でないことはよく分かってるでしょう)。
なお、「洞村」については以下の記事を紹介します。
■洞村移転問題(ウィキペディア参照)
1917年から1920年にかけて奈良県高市郡白橿村(現在の橿原市)大字洞の住民が神武天皇陵拡張のために宮内省に土地を「献納」した問題。洞村が被差別部落であったこと、「献納」が「(神風特攻の「志願」のような)事実上の強制であったこと」から今日では部落差別事件と評価されている。
神武天皇が架空の存在であることは後世の我々には明白だが、古代においては「神武天皇陵」が存在し祭祀が行われていたことは『延喜式』によって知ることができる。だが、中世以後荒廃して「神武天皇陵」の所在地が不明となり、江戸時代以後の調査の結果、1863年になってミサンザイの地が「神武天皇陵」であったとされて江戸幕府が修繕を施し、1898年に拡張工事が行われた。ところが、初代天皇の陵墓としてふさわしいものに整備すべきであるとしてよりいっそうの拡張を求める意見が出された。加えて、ミサンザイに隣接していた200戸余りの集落である洞が被差別部落民の集落であったことを問題視する意見が出された。例えば、大正天皇の即位に合わせて1913年に刊行された後藤秀穂の著書『皇陵史稿』においては神武天皇陵に面した地に被差別部落民の遺骸が土葬で埋められて聖域である陵墓を穢していると非難し、暗に住民を神武天皇陵から一掃すべきことを述べた。
移転は3年間かけて行われ、洞の全域が宮内省からの下賜金26万5千円(後に5万円追加)で買い取られる形で行われ、住民には代替地が与えられることになった。だが、実際に支給された土地は献納地4万坪に対して1万坪に過ぎず、しかも周辺住民からの反発により洞の元住民は更なる差別に晒されるようになった。
ともあれ、洞の全域を潰す形で行われた拡張工事は1940年の神武紀元2600年に合わせる形で完成された。
神武天皇没後2600年式年祭という差別の祭典 - 読む・考える・書く
4月3日、奈良県橿原市の「神武天皇陵」で、神武の没後2600年を祭るという宮中祭祀「式年祭」が行われ、当代天皇・皇后もこれに参列した。
(中略)
「天皇」などではなかった一地方豪族の墓を、差別ゆえに間違った場所に仰々しくでっち上げ、差別ゆえに墓守の民をその住処から追い払い、デタラメな年代比定に基いて「没後2600年」と称する祭祀を行う。まさに、天皇制というものの愚劣さを象徴する差別の祭典である。
http://www.liveinpeace925.com/action/hora_fieldwork.htm
・2600年以上前から日本という統一国家が存在し、その支配者として天皇が存在したという作り話のために、畝傍(うねび)山のふもとに暮らしていた人々が、“聖域”に被差別部落が隣接しているとののしられた挙げ句、追い出されてしまいました。その差別の理不尽さ、天皇陵において今なお身分差別が残っているおかしさ、そして、厳しい差別の中でもそれに対して抗ってきた人々の営みを知ることができました。
現在、畝傍山の北東部のふもとから中腹にかけて広がる「洞部落」の跡地は「神武陵」も含めて宮内庁の管轄地とされ、事前に許可を得なければ一般の人が立ち入ることができません。畝傍山の南東部にある橿原神宮方面から何も知らずに迷い込んできた観光客が、見回りの宮内庁の役人に見つかると大目玉を食らったりもします。かつてそこに人の住まいが存在したとことを一般の人の眼から遠ざけようとする宮内庁の姿勢は、何を物語っているのでしょうか?
・2010年2月13日、阪南中央病院労働組合主催の「洞(ほら)部落フィールドワーク」に、リブ・イン・ピース☆9+25も共催で加わり、総勢29人が参加しました。
奈良県橿原市にある洞部落は、「神武天皇陵」のために、畝傍山のふもとから強制移転させられた被差別部落です。「神武陵」が近代になって作られたのに対して、洞部落の人々はそれ以前から畝傍山に住んでいました。それなのに、「神武陵」を見下ろす地点に被差別部落が存在するのは「恐懼(きょうく)に耐えざる(おそれおおい)こと」であるとして1917年から20年にかけて移転させられてしまったのです。
この「神武陵」と洞部落の跡地などを部落解放同盟大久保支部の方に案内していただきました。彼女は天皇制に対する怒りを根底に、ユーモラスな口調で部落の歴史を語ってくれました。
「神武陵」が現在の場所だと決められたのは江戸末期でした。それまで3カ所の候補地があり、江戸初期には別の古墳が「神武陵」だとされていましたが、幕末に再論争があり、そこは「綏靖(すいぜい)陵」だということになり、「神武田(じぶでん)」とも呼ばれていた洞部落の一部が「神武陵」だとされました。しかし、洞部落の言い伝えでは、そこは「糞田(ふんでん)」とも呼ばれ、死牛馬の解体をおこなっていた「草場(くさば)」の可能性があるという話でした。動物の屠殺(とさつ)や処理を「賤業(せんぎょう)」と呼んで忌避する差別意識を持つ人々からすれば、「神武陵」がそうした“過去”を持つことは耐え難いことでしょう。宮内庁が洞部落の存在をできる限り人目に触れさせまいとしているのは、こうしたことがあからさまになっては天皇制の権威が失墜すると考えているからかもしれません。
しかし、案内の方からは、大いに権威が失墜するような話をたくさん聞かせていただきました。
まず、「神武陵」は参拝者から見ればいかにもうっそうとした森の中にあるように見えるのですが、その森は実はハリボテで、航空写真で見ればわかるのですが、森の部分はわずかで、その先は田んぼなのです。(今は立ち入り禁止で誰も耕していませんが。)
また「神武陵」への道沿いに杉の木がたくさん植わっていますが、これは1940年のいわゆる「紀元二千六百年」記念行事(神武天皇の即位2600年を祝う)の一環として洞部落の人々が労役にかり出されて植林したものでした。この時の作業の報酬として「金鵄(きんし)」という煙草が2本(2箱ではなく2本!)配布されたそうです。
■書評『ホロコーストと戦後ドイツ』(高橋秀寿*127 、2017年、岩波書店)(評者・今井宏昌*128)
(内容紹介)
アマゾンレビューの紹介で代替。
アマゾンレビュー
■鱸一成
・過去と正面から向き合うのは本当に難しい。『ホロコーストと戦後ドイツ』によれば、ドイツ人がホロコーストと正面から向き合うには30年以上の歳月が必要であった。
・このレビューでは、本書を読んで特に印象に残った3つの点に言及したい(ボーガス注:第一点目と第三点目は俺には意味がよく分からないので省略)。
第二点目は、ホロコーストとドイツ人のナショナル・アイデンティティの関係を考察した際、米国が果たした役割をクローズアップしていることである。
例えば、
・1979年に、米国のテレビ映画『ホロコースト』によって、ドイツ人が、ホロコーストの犠牲者に自己同一化できる物語を見出したこと然り。
・1993年に、スピルバーグ監督の『シンドラーのリスト*129』がドイツでも上映され、ホロコーストを題材とした映画の撮影が困難であった状況を打破したこと然り。
つまり、戦後のドイツ人のアイデンティティ再構築の過程は、米国という「他者」の存在を抜きにしては語れないことを本書は明らかにしている。
*1:著書『飛鳥藤原木簡の研究』(2010年、塙書房)、『すべての道は平城京へ:古代国家の〈支配の道〉』(2011年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『日本古代都鄙間交通の研究』(2017年、塙書房)
*3:著書『長屋王』(1999年、吉川弘文館人物叢書)、『藤原京の形成』(2002年、山川出版社日本史リブレット)、『古代日本の都城と木簡』(2006年、吉川弘文館)など
*4:2013年刊行
*5:出雲大社があり、また数少ない現存する風土記「出雲風土記」でも知られる。
*7:古代神話では神武天皇の誕生の地(日向国)とされている。
*8:著書『古代・中世遺跡と歴史地理学』(2011年、吉川弘文館)、『古代国家の土地計画』(2017年、吉川弘文館)、『江戸・明治の古地図からみた町と村』(2017年、敬文舎)など
*9:著書『秦漢帝国へのアプローチ』(1996年、山川出版社世界史リブレット)、『秦の始皇帝』(2001年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『始皇帝陵と兵馬俑』(2004年、講談社学術文庫)など
*10:著書『漢代国家統治の構造と展開:後漢国家論研究序説』(2009年、汲古叢書)
*11:著書『中国古代貨幣経済史研究』(2011年、汲古叢書)、『中国古代の貨幣:お金をめぐる人びとと暮らし』(2015年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『中国古代貨幣経済の持続と転換』(2018年、汲古叢書)
*12:1934~2004年。代表作に『鉄人28号』(1956~1966年連載)、『伊賀の影丸』(1961~1966年連載)、『魔法使いサリー』(1966~1967年連載)、『バビル2世』(1971~1973年連載)など。赤塚不二夫(1935~2008年)、石森章太郎(1938~1998年)、藤子F不二雄(1933~1996年)らとともに戦後初期の漫画界を牽引した代表的な漫画家の一人。晩年の作品は『三国志』(1971~1987年連載)、『項羽と劉邦』(1987~1992年連載)、『史記』(1992~1997年連載)、『殷周伝説』(1994~2001年連載)など中国史を題材にした物が多い。
*13:1971年から1987年まで、潮出版社の月刊漫画雑誌『希望の友』(後に『少年ワールド』を経て『コミックトム』に改名。現在は休刊中)に連載。単行本は全60巻(文庫版は全30巻)が潮出版社から発刊。
*14:代表作として『宮本武蔵』、『新・平家物語』、『私本太平記』など
*15:新聞連載小説として、戦時中の1939年から1943年までほぼ4年間連載され、戦後に単行本として刊行され、絶大な人気を博した(現在では講談社文庫、新潮社文庫で入手可能)。
*16:代表作として、市川雷蔵主演で映画化されブームを巻き起こした『眠狂四郎』シリーズ。
*17:著書『儒教と中国』(2010年、講談社選書メチエ)、『「三国志」の政治と思想』(2012年、講談社選書メチエ)、『魏志倭人伝の謎を解く:三国志から見る邪馬台国』(2012年、中公新書)、『始皇帝・中華統一の思想:『キングダム』で解く中国大陸の謎』(2019年、集英社新書)、『漢帝国』(2019年5月刊行予定、中公新書)など
*18:著書『秦漢帝国へのアプローチ』(1996年、山川出版社世界史リブレット)、『秦の始皇帝』(2001年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『始皇帝陵と兵馬俑』(2004年、講談社学術文庫)など
*20:燕の太子の命を受け、秦王・政(後の始皇帝)を暗殺しようとするが、失敗し逆に殺された。後に燕は秦によって滅ぼされた。
*22:考烈王死後、春申君を暗殺し、楚の宰相として権力を振るうが、幽王死後、反対派によって暗殺された。
*25:斉の孟嘗君、趙の平原君、魏の信陵君、楚の春申君のこと。
*26:著書『甲骨文字の読み方』(2007年、講談社現代新書)、『甲骨文字に歴史をよむ』(2008年、ちくま新書)、『甲骨文字小字典』(2011年、筑摩選書)
*27:著書『大唐帝国』(1988年、中公文庫)、『九品官人法の研究』(1997年、中公文庫)、『隋の煬帝』(2003年、中公文庫BIBLIO)、『中国史の名君と宰相』(2011年、中公文庫)など
*28:元ネタは板垣恵介のマンガ『グラップラー刃牙』(週刊少年チャンピオン(秋田書店)に連載された)での登場人物(中国拳法の使い手)の台詞『キサマ等の居る場所は既に我々が2000年前に通過した場所だッッッ!!』のようです。
*29:こういう考えがかけらもないクズが例えばモリカケの安倍です。モリカケを容認する安倍支持者には怒りを禁じ得ません。
*30:こういう説話があることで分かるように、中国でも「清廉潔白な官僚」は「民衆の理想」です。「中国は昔から不正常習でしかもそれを何とも思わない民族」つう石平らの物言いは明らかにデマです。まあ、言うまでもない話ですが。
*31:中国史素人の俺ですが、「懐疑的姿勢」ならまだしも「否定」はおそらくまずいでしょう。夏王朝は「神武天皇」「水戸黄門の諸国漫遊」みたいな完全な虚構ではないでしょう。
*32:古代中国史のイントロ(導入)で学生の興味を引くためにマンガ持ち出すのは「珍しい(つうか最近まで中国古代史をネタにした人気漫画がなかった)」でしょうが一般的には「ベルばら(フランス革命)」「アドルフに告ぐ(太平洋戦争)」など、歴史学のイントロにマンガは昔から良くあるかと思います。
*33:武王の父
*35:文王の四男
*36:誰を以て五覇とするかは文献によって違いがある。ただし、「斉の桓公」と「晋の文公」は必ず入るので春秋五覇の代表として「斉桓晋文」と言う。
*37:『春秋左氏伝・宣公三年』にある逸話。天下を取りたい楚の荘王が、周の定王をあなどって、周王室の宝物である九鼎の軽重を問うた(九鼎は夏王朝・殷王朝から周王朝に渡った王位の象徴であり、その重さを問うというのは、暗に九鼎を楚に持ち帰る事、つまり楚が周に取って代わる事を示していた)という故事。そこから「統治者を軽んじ、これを倒して天下を取ろうとすること」「権威ある人の能力を疑い、その地位から落とそうとすること」を「鼎の軽重を問う」という。
*38:原泰久の漫画。『週刊ヤングジャンプ』(集英社)で2006年9号より連載中。第17回手塚治虫文化賞マンガ大賞(2013年)受賞作。中国の春秋戦国時代を舞台に、後の大将軍・信と後の始皇帝・政の活躍を描いている。
*39:『週刊少年ジャンプ』(集英社)に1996年28号から2000年47号まで連載された藤崎竜の漫画。中国の古典怪奇小説『封神演義』を原作としている。
*40:中国前漢の武帝の時代に司馬遷によって編纂された中国の歴史書
*41:孔子の編纂と伝えられている歴史書『春秋』の代表的な注釈書の1つ
*42:立命館大学名誉教授。著書『中国の神話』(2003年、中公文庫BIBLIO)、『回思九十年』(2011年、平凡社ライブラリー)など
*43:斉、楚、燕、韓、魏、趙のこと
*44:著書『日本中世地域社会の構造』(2000年、校倉書房)、『室町幕府と地方の社会』(2016年、岩波新書)
*47:北条実時とも言う。4代執権北条経時、5代執権北条時頼政権における側近として引付衆、評定衆を務める。金沢文庫の創設者としても知られる。
*49:著書『カール大帝』(2013年、山川出版社世界史リブレット人)、『贖罪のヨーロッパ:中世修道院の祈りと書物』(2016年、中公新書)、『剣と清貧のヨーロッパ:中世の騎士修道会と托鉢修道会』(2017年、中公新書)、『宣教のヨーロッパ:大航海時代のイエズス会と托鉢修道会』(2018年、中公新書)など
*51:佐藤『剣と清貧のヨーロッパ:中世の騎士修道会と托鉢修道会』(2017年、中公新書)のこと。
*52:佐藤『宣教のヨーロッパ:大航海時代のイエズス会と托鉢修道会』(2018年、中公新書)のこと。
*53:著書『近世の村社会と国家』(1987年、東京大学出版会)、『近世の郷村自治と行政』(1993年、東京大学出版会)、『絵図と景観の近世』(2002年、校倉書房)、『草山の語る近世』(2003年、山川出版社日本史リブレット)、『徳川の国家デザイン』(2008年、小学館)、『徳川社会論の視座』(2013年、敬文舎)
*55:著書『近世前期の土豪と地域社会』(2018年、清文堂出版)
*56:著書『民事訴訟の本質と諸相』(2013年、日本評論社)、『絶望の裁判所』(2014年、講談社現代新書)、『黒い巨塔・最高裁判所』(2016年、講談社)など
*57:著書『過去の克服:ヒトラー後のドイツ』(2002年、白水社)、『20世紀ドイツ史』(2005年、白水社)
*59:著書『ボンヘッファーを読む:反ナチ抵抗者の生涯と思想』(1995年、岩波セミナーブックス)、『十字架とハーケンクロイツ:反ナチ教会闘争の思想史的研究』(2001年、実教出版社)、『キリスト教と笑い』(2002年、岩波新書)など
*60:ナチス政権誕生当初においてバチカンが反共主義からそれを好意的に評価したという史実が批判的に取り上げられているようです。
*61:著書『武装SS:ナチスもう一つの暴力装置』(1995年、講談社選書メチエ)、『ヒトラーのニュルンベルク:第三帝国の光と闇』(2000年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)など
*62:著書『アデナウアー:現代ドイツを創った政治家』(2014年、中公新書)など
*63:著書『ナチズム・抵抗運動・戦後教育』(2006年、昭和堂)など
*64:1933年のヒトラー内閣ではヒトラーに協力した論功行賞として、彼に次ぐ副首相の座に就いた。しかし「長いナイフの夜」事件で失脚し、その後はオーストリアやトルコでドイツ大使を務めた。第二次世界大戦後、ニュルンベルク裁判で戦犯として起訴されたが、無罪とされた。
*65:パーペン内閣国防相、首相を歴任。1934年6月30日に「長いナイフの夜」事件においてナチス親衛隊により夫人とともに殺害された。彼は現役の陸軍将校だったが、国防軍はナチスに何の抗議もしなかった。捜査はポツダム市警察長官ヴォルフ=ハインリヒ・フォン・ヘルドルフ(後に1944年のヒトラー暗殺未遂事件に関与しヒトラーによって処刑)の指令により停止された。事件の唯一の目撃者だった家政婦は翌年不審な溺死を遂げ、公式には自殺と発表された。ナチス党機関紙「フェルキッシャー・ベオバハター」は事件の2年後に「1933年1月29日のシュライヒャーによるクーデター計画」という記事を掲載し、シュライヒャー粛清を正当化した。
*66:党首のフーゲンベルクが経済相兼食糧農業相としてヒトラー内閣に入閣するが、後にヒトラーの圧力によってフーゲンベルクの大臣辞任、国家人民党解散に追い込まれる。
*68:プロイセン州首相、秘密警察ゲシュタポ長官、ドイツ経済大臣、航空大臣など歴任。戦後、ニュルンベルク裁判で死刑判決を受け、その直後に服毒自殺。
*69:橋本内閣経済企画庁長官、森内閣経済財政担当相、小泉内閣総務相、第一次安倍内閣外相、自民党幹事長(福田総裁時代)を経て首相。現在、第二次~第四次安倍内閣副総理・財務相
*70:ドイツ宣伝大臣。敗戦直前に家族とともに自殺
*71:親衛隊全国指導者、ドイツ警察長官、内務大臣など歴任。敗戦直前に自殺
*72:テューリンゲン州内務相兼教育相、ナチドイツ内務相など歴任。戦後、戦犯裁判で死刑判決
*73:著書『昭和天皇の終戦史』(1992年、岩波新書)、『日本人の戦争観:戦後史のなかの変容』(1995年、岩波現代文庫)、『日本の軍隊:兵士たちの近代史』(2002年、岩波新書)、『兵士たちの戦後史』(2011年、岩波書店)、『日本軍兵士:アジア・太平洋戦争の現実』(2017年、中公新書)など
*75:著書『「産業戦士」の時代:戦時期日本の労働力動員と支配秩序』(2019年、大月書店)
*76:これについては例えば藤原彰『餓死した英霊たち』(2018年、ちくま学芸文庫) にも指摘がある。
*77:第一次近衛内閣文相、厚生相、平沼内閣内務相、内大臣を歴任。戦後、終身刑判決を受けるが後に仮釈放。
*78:米兵捕虜の死亡事件で特に悪名高いのが第14軍(フィリピン)司令官・本間雅晴が戦後、戦犯として死刑判決を受けたフィリピン戦の「バターン死の行進」です。
*79:たとえば井口武夫『開戦神話:対米通告を遅らせたのは誰か』(2011年、中公文庫)
*80:関東憲兵隊司令官、関東軍参謀長、陸軍次官、第二次、第三次近衛内閣陸軍大臣を経て首相。戦後、戦犯として死刑判決。後に昭和殉難者として靖国に合祀。
*81:宮沢内閣郵政相、橋本内閣厚生相を経て首相
*82:著書『南京大虐殺』(1985年、岩波ブックレット)、『昭和天皇の十五年戦争』(1991年、青木書店)、『南京の日本軍:南京大虐殺とその背景』(1997年、大月書店)、『中国戦線従軍記』(2002年、大月書店)、『天皇の軍隊と日中戦争』(2006年、大月書店)、『餓死した英霊たち』(2018年、ちくま学芸文庫)など
*83:慰安婦違法性否定論の主張により、西岡力と共に2014年、第30回正論大賞を受賞した歴史修正主義者。著書『慰安婦と戦場の性』(1999年、新潮選書)、『歪められる日本現代史』(2006年、PHP研究所)、『現代史の虚実:沖縄大江裁判・靖国・慰安婦・南京・フェミニズム』(2008年、文藝春秋)『慰安婦問題の決算:現代史の深淵』(2016年、PHP研究所)など右翼著書多数。
*84:自民党国対委員長(池田、佐藤総裁時代)、佐藤内閣厚生相、福田内閣官房長官、外相、鈴木内閣厚生相、外相など歴任。
*85:著書『花と龍(上)(下)』(2006年、岩波現代文庫)、『土と兵隊・麦と兵隊』、『花と兵隊』(以上、2013年、社会批評社)、『フィリピンと兵隊』(2015年、社会批評社)、『インパール作戦従軍記』(2017年、集英社)など
*86:著書『タイ 開発と民主主義』(1993年、岩波新書)、『キャッチアップ型工業化論』(2000年、名古屋大学出版会)、『ファミリービジネス論』(2006年、名古屋大学出版会)、『新興アジア経済論』(2014年、岩波書店)など
*88:著書『「恩恵の論理」と植民地:アメリカ植民地期フィリピンの教育とその遺制』(2014年、法政大学出版局)
*89:著書『タイ経済と鉄道:1885~1935年』(2000年、日本経済評論社)、『鉄道と道路の政治経済学:タイの交通政策と商品流通 1935~1975年』(2009年、京都大学学術出版会)、『王国の鉄路:タイ鉄道の歴史』(2010年、京都大学学術出版会)
*90:著書『リー・クアンユー』(1996年、岩波書店)、『アジア政治を見る眼:開発独裁から市民社会へ』(2001年、中公新書) 、『アジア政治とは何か:開発・民主化・民主主義再考』(2009年、中公叢書)、『アジアの国家史:民族・地理・交流』(2014年、岩波現代全書)など
*91:著書『インド 多様性大国の最新事情』(2001年、角川選書)、『インドネシア イスラーム大国の変貌』(2016年、新潮選書)など
*92:著書『エビと日本人』(1988年、岩波新書)、『エビと日本人2』(2007年、岩波新書)など
*93:著書『戦争の現場で考えた空爆、占領、難民:カンボジア、ベトナムからイラクまで』(2014年、彩流社)
*94:著書『シンガポールの国家建設』(2000年、明石書店)、『多民族国家シンガポールの政治と言語』(2013年、明石書店)
*95:著書『近代ヴェトナム政治社会史:阮朝嗣徳帝統治下のヴェトナム 1847‐1883』(1991年、東京大学出版会)、『ヴェトナム現代政治』(2002年、東京大学出版会)
*96:著書『ホー・チ・ミン』(1996年、岩波書店)、『ドイモイの誕生』(2009年、青木書店)
*98:著書『ビルマ独立への道:バモオ博士とアウンサン将軍』(2012年、彩流社)、『アウンサンスーチーのビルマ』(2015年、岩波現代全書)
*99:根本氏は「ミャンマーという国名は軍事政権が国民の意見も聞かずに勝手に改名した」という理由から「ビルマ表記」を使っています。
*100:ウィキペディア「東南アジア」によれば「インドネシア」「カンボジア」「シンガポール」「タイ」「東チモール」「フィリピン」「ブルネイ」「ベトナム」「マレーシア」「ミャンマー」「ラオス」が東南アジアに当たる。
*101:反タクシン派のこと。タイでは曜日ごとに色があり、月曜日は黄色で、プミポン国王(当時)の誕生日の曜日が月曜日であることから、「王室擁護」を主張する反タクシン派は黄色をシンボルカラーにしている。
*102:タクシン元首相派のこと。タイ国旗の中にある「国民の団結心と国家」を表す赤をシンボルカラーにしている。
*105:タイ陸軍司令官、国防相、首相を歴任。現在、枢密院議長
*106:タイ陸軍司令官、首相など歴任。現在、枢密顧問官
*108:外相、副首相を経て首相
*109:1952年生まれ。2016年、父ラーマ9世の崩御を受けラーマ10世として即位。ワチラロンコンの評価については、タイ国内では不敬罪になるため、公共の場で議論されることはないが、一般的にかなり悪い。3度に渡る離婚や、ドイツに囲っている愛人問題など、若い頃から王室の人間にそぐわない数々の行動は、一般市民にも広く認知されている。
*110:1951年生まれ。外国人と結婚したため、王族籍は消滅したが、離婚したため、王族籍は戻っていないものの王族的な扱いを受けている。2019年2月8日、タイ国家維持党の首相候補として2019年タイ総選挙に出馬する意思を表明したが、実弟のラーマ10世が直ちに「たとえ王族籍はなくとも、現国王たる私の姉であることに変わりはなく、いかなる形であれ政治職につくことは不適切な行為だ」として反発する声明を発し、わずか1日で撤回に追い込まれた。
*111:池田内閣官房長官、外相、佐藤内閣通産相、田中内閣外相、三木内閣蔵相、自民党幹事長(福田総裁時代)などを経て首相
*112:岸内閣科学技術庁長官、佐藤内閣運輸相、防衛庁長官、田中内閣通産相、自民党幹事長(三木総裁時代)、総務会長(福田総裁時代)、鈴木内閣行政管理庁長官などを経て首相
*113:この記事の書かれた2013年当時
*114:岸内閣郵政相、池田内閣蔵相、佐藤内閣通産相、自民党政調会長(池田総裁時代)、幹事長(佐藤総裁時代)などを経て首相
*115:「票数が投票者より多い」とタクシン氏非難 タイ総選挙:朝日新聞デジタルやhttps://www.jiji.com/jc/p?id=20190326092053-0030004191によればタクシンが不正の疑いを指摘しています。
*116:実際どうか知りませんが。
*117:こうした考えによって例えば中国共産党は「一定の支持を国民から得てる(全く支持がなかったら政権が崩壊してます)」し、そのためにも一帯一路など経済政策に力を入れるわけです。一方、経済がズタボロだった旧ソ連・東欧の共産体制は崩壊した(民主主義オンリーが崩壊理由ではないでしょう)。「それがいいことだと、安倍批判派としてもちろん全く思いませんが」、安倍支持者の大半も右翼的理由よりも「経済(アベノミクス)の安倍」なる理由での支持でしょう。古今東西珍しい話ではないです。
*119:昔風に言うと「食べ放題のバイキング料理」
*120:著書『家成立史の研究』(1991年、校倉書房)、『平安朝の母と子』(1991年、中公新書)、『平安朝の女と男』(1995年、中公新書)、『平安朝の家と女性』(1997年、平凡社選書)、『平安朝 女性のライフサイクル』(1998年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『平安朝に老いを学ぶ』(2001年、朝日選書)、『平安王朝の子どもたち』(2004年、吉川弘文館)、『平安王朝社会のジェンダー』(2005年、校倉書房)など
*122:著書『「からゆきさん」:海外〈出稼ぎ〉女性の近代』(2015年、共栄書房)
*125:行燈山(あんどんやま)古墳のこと。儒学者・蒲生君平が『山陵志』で第12代景行天皇陵に比定したが後に国学者・谷森善臣が『山陵考』で第10代崇神天皇陵に比定。明治期、宮内省(現・宮内庁)により崇神天皇陵に治定された。
*126:下級武士出身の薩長出身の政府幹部(伊藤博文、山県有朋など)のこと
*127:著書『時間/空間の戦後ドイツ史:いかに「ひとつの国民」は形成されたのか』(2018年、ミネルヴァ書房)