今日の産経ニュースほか(コロナ問題以外:2020年5月30日分)

衆院選は「任期満了近く」 自民選対委員長、コロナで - 産経ニュース
 衆院選がいつになるかはともかく「検察庁法改定への批判」「新型コロナ対応のまずさ」で支持率が減少傾向にある中、とても「解散」なんて出来る話ではないでしょう。
 何とか支持率を改善しなければそんなことは無理であり、場合によっては「安倍おろし、石破擁立」の可能性もあるでしょう。
 それにしても「支持率低下」を理由に出来ず「緊急事態宣言を解除したとは言え第二波が来る恐れを考えたら、解散で政治空白を作れない。福岡では患者が増加している。コロナが完全に収束する前は解散なんか出来ない」と強弁するとは全く滑稽です。いや確かにそう言う考えは「一理あります」がコロナが収束してなかろうと「自民に有利だと思えば」ためらいなく解散するでしょうからね。


韓国の慰安婦疑惑に自民も関心 「メガトン級の証言」か - 産経ニュース
 以前も書きましたが元慰安婦の告発が事実だとしても、「蓮池透氏の巣くう会批判」と似た性格なので自民党のウヨ議員が喜ぶような性格は何もないでしょう。
 河野談話やクマラスワミ報告が否定されたわけでもなければ、安倍と朴クネの日韓合意が支持されたわけでもない。


【萬物相】「芸は熊がやり、カネは熊使いがかすめ取った」-Chosun online 朝鮮日報
 何の事かと言えば『自分はまるで大道芸の熊で、支援団体幹部が熊使いのようだった』という元慰安婦の告発ですが、むしろこの指摘は「自称支援団体・救う会」と「拉致被害者家族会」に該当することかと思います(ここでは慰安婦の告発が正しいかどうかは論じません)。
 なお「救う会のようなトンデモ」は論外として「支援団体」と「支援される側」が別人格である以上、意見対立はあり得ます。問題はその際に「支援団体が、支援される側の保護者面して上から目線で顎で使う(元慰安婦蓮池透氏の告発はそう言うもんです)」とか、あるいは逆に「支援団体が支援される側の言いなりで支援される側を甘やかす」などの「異常な関係が生まれないようにする」にはどうするかという話でしょう。
 「お互いに平等」で、かつ「建設的な関係」を築くのはなかなか難しいことかと思います。


年金制度改革関連法が成立 どう変わる?課題は? | NHKニュース

 年金制度改革関連法案は、29日の参議院本会議で採決が行われ、自民・公明両党に加え、立憲民主党、国民民主党日本維新の会などの賛成多数で可決・成立しました。
 法律では、パートなどで働く短時間労働者の低年金対策として、厚生年金に加入しやすいよう、加入条件のうち企業規模の要件を現在の従業員「501人以上」から、「51人以上」まで段階的に引き下げ、適用範囲を拡大します。
 現在60歳から70歳までとなっている年金の受給開始年齢の選択肢の幅を75歳まで拡大します。法律の主な部分は、再来年4月に施行されます。

 「俺的に」パートへの支給拡大が評価できる点、年金の受給開始年齢の引き上げ(75歳も選択肢に)が評価できない点ですね。
 共産党が「評価できない点」を理由に年金改定案 撤回求める、参院審議入り 倉林氏が主張公的責任を一層後退/倉林氏 年金制度改定法案に反対/参院厚労委として反対したことには賛同します。
 一方で立民や国民民主は勿論批判します。
 しかしマスコミも「コロナばかり騒がず」こうした重要法案についてもっと報じるべきでしょう。
 「安倍の私利私欲でしかない」検察庁法改定に比べ『むしろ厚労省や財界の要望』ということで批判の広がりが今ひとつだった点は残念です。


【産経の本】『立憲君主 昭和天皇 上』川瀬弘至著 『実録』など文献基にした決定版 - 産経ニュース
 もちろん産経なので

【著者名順(著者名が同じ場合は最初の刊行年順)】
井上清天皇の戦争責任』(1975年、現代評論社→1991年、岩波同時代ライブラリー→2004年、岩波現代文庫)
◆纐纈厚、山田朗『遅すぎた聖断:昭和天皇の戦争指導と戦争責任』(1991年、昭和出版
◆纐纈厚『「聖断」虚構と昭和天皇』(2006年、新日本出版社
山田朗大元帥 昭和天皇』(1994年、新日本出版社→2020年、ちくま学芸文庫
山田朗昭和天皇の軍事思想と戦略』(2002年、校倉書房
山田朗昭和天皇の戦争:「昭和天皇実録」に残されたこと・消されたこと』(2017年、岩波書店
山田朗『日本の戦争III:天皇と戦争責任』(2019年、新日本出版社
◆吉田裕『昭和天皇終戦史』(1992年、岩波新書)

などのような「昭和天皇の戦争責任」という問題意識はかけらもありません。「終戦の聖断」というデマが垂れ流されるわけです。

 上皇陛下が譲位に関するお言葉を示されたとき、国民の圧倒的多数が支持した。

 やれやれですね。それは少なくとも産経らウヨが強弁するような「国民多数派は明仁氏の言うことなら何でも支持する」とか、ましてや「天皇、皇族(明仁氏に限らない)の言うことなら何でも支持する」とかいう「天皇万歳」的な話ではない。
 そうした判断の是非はともかく「体力の限界だというなら退位してもいいんじゃないか」という内容評価で支持したにすぎません。
 これが「徳仁がまともな天皇になれるように生前に退位し、天皇としての徳仁の言動にダメ出しをしたい」なんて退位理由を公言していたら果たして国民多数派は支持したかどうか。

【参考:昭和天皇の戦争責任】

澤藤統一郎の憲法日記 » 天皇の戦争責任を論じることに臆してはならない
 「天皇の戦争責任」という井上清京都大学名誉教授)の名著がある。私の手元にあるのは、1975年8月15日初版の現代評論社本だが、著者没後の2004年に「井上清・史論集〈4〉天皇の戦争責任」として岩波現代文庫所収となっている。
 この書で明解にされていることは、天皇が単なる捺印ロボットではなかったということである。積極的に東条を首相に据えて、周到に開戦を準備した天皇の開戦責任に疑問の余地はない。
 「遅すぎた聖断」であることは明白な事実である。東京新聞企画も、「逃し続けた終戦機会」として、終戦の決断の可能性があった機会、6時点をとらえて解説している。その最初の機会が、1943年2月のガダルカナル撤退。2番目が1944年7月のサイパン陥落、3番目が1944年9月26日天皇が初めて終戦に言及したことが記録として確認できるこの日だという。そして4番目が1945年3月10日の東京大空襲の被害のあと。そのあと5月にも6月にも、終戦のチャンスがあったとされている。
 この企画の末尾の記事を転載しておきたい。
岩手県の軍人の戦死時期を調べた研究によれば、その9割近くが最後の1年半に集中していた。310万人の日本人が死亡し、アジアに与えた惨禍は計り知れない太平洋戦争。やめ時は何度もあった。」
 なぜやめられなかったか。いうまでもなく、国体の護持にこだわったからである。国民の命よりも天皇制擁護を優先した結果が、遅すぎた敗戦を招いてあたら多くの命を失うことになった。それが、310万人の9割の命だという。
 米軍による本土空襲は200以上の都市におよび、死者100万人といわれる。1945年8月にはいってからだけでも、(ボーガス注:8月1日の)水戸*1、(ボーガス注:東京都)八王子、(ボーガス注:新潟県)長岡、(ボーガス注:8月2日の)富山、(ボーガス注:8月5日の群馬県)前橋*2、(ボーガス注:群馬県)高崎、佐賀、(ボーガス注:8月6日の)広島(ボーガス注:原爆投下)、(ボーガス注:8月7日の愛知県)豊川、(ボーガス注:8月8日の広島県)福山、(ボーガス注:8月9日の)長崎(ボーガス注:原爆投下)、(ボーガス注:青森県)大湊、(ボーガス注:岩手県)釜石、(ボーガス注:8月10日の岩手県)花巻、熊本、(ボーガス注:8月11日の福岡県)久留米、(ボーガス注:鹿児島県)加治木*3、(ボーガス注:8月13日の)長野、(ボーガス注:長野県)上田、(ボーガス注:8月14日の埼玉県)熊谷、(ボーガス注:広島県)岩国、光、(ボーガス注:神奈川県)小田原、(ボーガス注:群馬県)伊勢崎、秋田と、8月15日の終戦当日まで及んでいる。累々たる瓦礫と死傷者の山。国体護持にこだわった一人の男の逡巡が奪った命と言って過言ではない。
 井上清は、その書の末尾に、「天皇の戦争責任を問う現代的意味」という項を設けて次のように結んでいる。
天皇は輔弼機関のいうがままに動くので責任は輔弼機関にあり、天皇にはないという論法に、何の根拠もない。
 東条首相はそのひんぴんたる内奏癖によって、天皇の意向をいちいち確かめながら、それを実現するように努力したのであって、天皇をつんぼさじきに置いて、勝手に戦争にふみ切り、天皇にいやいやながら裁可させたのではない。(以下略)」

弁護士会の読書:「聖断」虚構と昭和天皇
 この本は天皇の「聖断」なるものが、まったくの虚構であることをしっかり暴き出しています。格別目新しい事実ではありませんが、昭和天皇を平和主義者とあがめる昨今の風潮に水を差すものであることは間違いありません。
 昭和天皇がしたことは、「聖断」でも英断でもなく、国体護持つまりは自己保身のために不決断を繰り返したということ。これが本書の結論です。この本を読むと納得します。
 昭和天皇は敗戦後の回想において、東條英機*4の「憲兵政治」について、「軍務局や憲兵が東條の名において勝手なことをしたのではないか。東條はそんな人間とは思わぬ。彼ほど朕(ちん)の意見を直ちに実行に移したものはない」(ボーガス注:と語ったと言います)
 東條は数多くの高級軍事官僚のなかでも、(ボーガス注:『何でもかんでも奏上する奏上癖がある』と陰口をたたかれるほど)天皇への忠誠心が際だって厚く、その東條に昭和天皇は最後まで深い信頼感を抱いていた。
 東條に日米開戦時の戦争指導内閣を担わせ、この忠実な軍事官僚であった東條を通じて政治指導および戦争指導を進めてきた昭和天皇は、最後まで東條に未練を残していた。昭和天皇は、原則的には明確な戦争維持論者であり、これまでと同様に東條内閣の下で進められることを期待していた。
 昭和天皇は、レイテ海戦における海軍特攻機の投入とその過大に伝えられた戦果について、「そのようにまでせねばならなかったのか。しかし、よくやった」と感想を述べた(ボーガス注:この結果、『天皇のお墨付きを得た』ということで特攻に歯止めがかからなくなったと言われる)。
 昭和天皇は、特攻機による攻撃など、捨て身の戦法までつかって米軍に一撃を与え、少しでも有利な「終戦」工作条件づくりのなかで戦争終結にもちこもうとしていた。
 米軍が沖縄に上陸したあとの4月3日、昭和天皇は、参謀総長に対して、「現地軍はなぜ攻勢に出ないのか。(ボーガス注:沖縄の)兵力が足らなければ(ボーガス注:増援兵力を送り、本土から沖縄への)逆上陸もやってはどうか」と、持久戦法ではなく、積極攻勢に出るよう要求した(ボーガス注:この結果、戦艦大和のいわゆる海上特攻がされたと言われる)。
 昭和天皇終戦工作に関心をもち始めたのは、5月に入って、沖縄で日本軍の敗北が決定的となり、5月7日にドイツが連合軍に無条件降伏してからのことである。
 「聖断」のシナリオは、日本の国土と国民を戦争の被害から即時に救うために企図されたものではない。ただ、戦争における敗北という政治指導の失敗の結果から生ずる政治責任を棚上げにするために着想された一種の政治的演出にすぎない。
 もし国民のためだったのなら、即時の戦争終結が実行されてよかった。日本政府は、国体護持の確証を得ようとして、その一点だけのために2ヶ月以上の時間を費やした。
 昭和天皇の「聖断」が8月13日ではなく、もっと早くされていたら、4月1日の沖縄への米軍上陸と沖縄戦はなく、「鉄の暴風」と呼ばれた壮絶な戦いのなかで15万人もの死者を出すことはなかったはず。昭和天皇は「もう一度戦果を挙げてからでないと」と(ボーガス注:近衛文麿など)周囲からの終戦のすすめを一蹴してきたのだった。昭和天皇の戦争責任は重い。

おそるべし!昭和天皇(山田朗『大元帥・昭和天皇』) - 西東京日記 IN はてな
 山田朗大元帥昭和天皇』は軍のトップとして昭和天皇がいかに戦争に関わったかということを明らかにした本。実は著者の山田朗先生は僕の大学時代のゼミの先生でして、この『大元帥昭和天皇』も大学時代にパラパラと読みました。で、最近また興味が出てきちんと再読してみたわけですが、昭和天皇すげえ!
 対米開戦時において「三ヶ月位にて片付ける」と言った杉山*5参謀総長に対して、「支那事変は一ヶ月位にて片付くと言ったではないか(ボーガス注:しかし、未だに片付いていない。今回のお前の3ヶ月発言も信用できるのか)」と指摘し、さらに「支那は奥地が開けており」と弁解を始めた杉山参謀総長に対し、「支那の奥地が広いといふなら、太平洋はなほ広いではないか」と(ボーガス注:皮肉、嫌みを)言ったケース(142ー143p)など、昭和天皇が開戦時において比較的冷静な見方をし、対米戦に不安を抱いていたことなどはそこそこ知られていることだと思いますが、実は昭和天皇は実に細かいところでもすごい発言をしている。
 フィリピンのバターン要塞後略戦において、日本軍は警備兵力として開戦直前に編成された第六五旅団をあたらせたわけですが、昭和天皇は「バタアン攻撃の兵力は過小ではないか」と指摘(180p)。
→(ボーガス注:昭和天皇の危惧が的中し)大損害を出して攻撃は頓挫。
 先の事を考えれば、ここで思い切った戦力を投入せず持久戦に持ち込んだことが「バターン死の行進」につながる。
 ガタルカナル島への戦艦霧島と比叡による艦砲射撃がそれなりに効果を上げると、海軍軍令部は再び同じ計画を立案。昭和天皇は同じ計画に対して「日露戦争に於いても旅順の攻撃に際し初瀬八島の例あり、注意を要す」と、同じ作戦をとることによる待ち伏せの危険を指摘(205ー206p)。
→(ボーガス注:昭和天皇の危惧が的中し)待ち伏せ攻撃にあい、比叡、霧島を失う。
 これ以外にもいくつか昭和天皇の懸念が的中してしまうケースがあるのですが、こういった細かい戦術にとどまらず、戦略面でも昭和天皇の懸念は的確です。
 その中でも一番感心させられるのが、チモールをめぐる懸念。
 近年の東ティモールの独立などで知られているようにチモール島は(ボーガス注:太平洋戦争開戦当時は)西半分がオランダ領で、東半分はこの戦争では中立だったポルトガル*6。海軍はポルトガルの中立を侵して、ここに進駐することを主張します。
 それに対する昭和天皇の懸念は以下の通り。

 本事件に関聯し戦局を拡大することは好ましからず之により葡国*7が気を腐らして敵側に廻るとか「アゾレス」その他の島々を敵側に占領されるるとかいふことも考へられるるにより自体を拡大せざる様特に注意せよ(190p)

 (ボーガス注:ポルトガル領土に勝手に進駐したら中立国ポルトガルが連合国の一員になりかねないから進駐すべきでないという)前半はともかく、後半のアゾレス云々はまず普通の人ではわからない。僕もこの本の解説を読まなければアゾレスがどこかもわかりませんでした。
 ポルトガル沖の大西洋の島なんですね。
 昭和天皇の懸念というのは(ボーガス注:チモール島駐留なんぞをやらかせば、対抗措置としてポルトガル領の)ココ*8を連合軍に占領されて哨戒機の基地でもつくられれば、ドイツのUボートによる通商破壊作戦がやりにくくなるのではないかと(ボーガス注:いうことだと)推測されます。もともと日本の開戦時の計画としてはドイツが潜水艦作戦によりイギリスを孤立させ屈服させるということが日本勝利の条件として入っており、昭和天皇は目先の拠点の確保よりも、こういった戦略的な立場からこのような発言を行ったのだと考えられます。
 おそるべし!昭和天皇
 まあ、この本を読むと昭和天皇は戦争について「知らなかった」などとは言えないことがわかります。戦争責任がないとは言い難い面もあるでしょう。
 ただ、この本を読んでいると、これらの昭和天皇の鋭い指摘が活かされていれば、もうちょっとましな戦争だったのではないかという気もしてきます(もちろん、(ボーガス注:日米の国力差を考えれば)「ましな戦争」というはないのかもしれませんが)。
 アホな固定観念に凝り固まった参謀たちよりも、オーソドックスながらもきわめてまっとうな戦略を述べる天皇。しかしその意見は十分に活かされたとは言えません。
 ある意味で昭和天皇の「孤独」を感じさせる本でもあります。

 まあ確かに「Uボート作戦に目配り」つうのは「鋭い」「細かい」とはいえるでしょう。

【書籍紹介】山田朗(2017)『昭和天皇の戦争』、岩波書店 | こころにピース ときどき辛口和而不同
 著者は、「実録」から消されているものを次々に指摘する。例えば、
・1941年、現在のマレーシア・シンガポールインドネシアの各国にあたる領域を「帝国領土ト決定シ」た御前会議の決定について、記述していない。
・1942年、天皇が作戦指導の主導性を発揮した(ガダルカナル島への陸軍航空部隊の派遣)参謀総長とのやり取りと翌日の陸軍統帥部の決定について全く記述していない。
・1943年、アッツ島「玉砕」を契機にして、統帥部に対して強い口調で「決戦」を要求するようになる天皇の言動は全く記録されていない。
といったものだ。
 そして、昭和天皇について「過度に「平和主義者」のイメージを残したこと、戦争・作戦への積極的な取り組みについては一次資料が存在し、それを「実録」編纂者が確認しているにもかかわらず、そのほとんどが消されたことは、大きな問題を残した」と総括する。

会長日記::昭和天皇の戦争「昭和天皇実録」に残されたこと消されたこと
 実録では、(ボーガス注:いわゆる一撃和平論など)天皇の発言を裏付ける資料「真田穣一郎*9少佐日記」があるにもかかわらず、また、そういった資料を確実に参照しているにもかかわらず、歴史叙述として採用されずに消されてしまっている。史料批判の結果、「真田穣一郎少佐日記」の当該箇所は採用しない、という判断は歴史叙述の常として当然あるだろう。
 しかし、本書で検討するように「実録」においては、天皇の戦争・戦闘に対する積極的発言と見なされるものは、極めて系統的に消されてしまっているのである。

晩年の昭和天皇は、なにに笑い、なにに怒ったのか。新発見資料『昭和天皇 最後の侍従日記』の読みどころは日常部分にあり。 | 本がすき。
 「何とかして『アメリカ』を叩きつけなければならない*10」。
 昭和天皇は、アジア太平洋戦争下の1943年に、こう漏らした。参謀本部作戦課長、同第一部長などを歴任した陸軍軍人、真田穣一郎の日記にそう記されている。
 天皇の発言は、式典などで述べられる公式のものだけではない。こういう非公式な発言も、その言動を考えるうえで欠かせない。側近などの日記は、この点で比類なく重要な位置をしめている。

大元帥たる昭和天皇「作戦にも介入」 吉田裕さんに聞く [空襲1945]:朝日新聞デジタル
◆記者
「そうした戦場の現実を昭和天皇は知っていたのでしょうか。」
◆吉田
「かなり把握していたと思います。1943年9月には(ボーガス注:蓮沼蕃*11)侍従武官長に、将兵を飢餓に陥らせるのは耐えがたい、『補給につき遺憾なからしむる如(ごと)く命ずべし』と言っています。ただ、最後まで日本軍の戦力を過信していたので、実情よりは楽観的だったとはいえるかもしれません」
◆記者
「実際の戦況をどの程度把握していたのですか。」
◆吉田
「どこでどの軍艦が沈んだかなど、日本軍が受けた被害については、ほぼ確実に把握していました。ただ、石油の備蓄量などは数字を改ざんして上奏されていたとも言われ、100%正確に知っていたかは疑問も残ります」
「一方で、敵に与えた損害は、誇大に報告されがちでした。台湾沖航空戦などが典型ですが、パイロットからの報告を精査せずに積み上げていったので、11隻もの航空母艦を沈めたことになっていました。実態とかけ離れた戦果が天皇のもとに情報として集められ、敵も苦しいはずだという楽観が生まれてしまいました(ボーガス注:台湾沖港空戦については例えばNHKスペシャル 幻の大戦果~台湾沖航空戦の真相~ | NHK放送史(動画・記事)参照)」
◆記者
「「まだ戦える」と思ってしまったわけですか。」
◆吉田
「45年2月に元首相の近衛文麿が戦争の終結を上奏したときに、天皇は『もう一度戦果を挙げてからでないとむずかしい』と答えています。その時点でも、まだ戦果を挙げられると信じていたんですね。米軍に打撃を与えて、できるだけ有利な条件で講和に持ち込むという『一撃講和論』をずっと支持していました。そのために戦争終結がずるずると遅れてしまった面はあると思います」
沖縄戦でも、当初は、特攻作戦がうまくいっていると誤認していたようです。天皇が戦争をあきらめるのは45年5月ごろです。ドイツの降伏と、沖縄がもう持ちこたえられないとわかって、ようやく終戦を決意したのです」
◆記者
沖縄戦に、どの程度具体的に関わっていたのでしょうか。」
◆吉田
沖縄戦では、陸軍と海軍では当初の作戦方針に違いがありました。海軍は沖縄で最後の決戦をしようとしたのですが、陸軍は本土決戦を主張し、沖縄はその『捨て石』と見なしていました。持久戦にして米軍に損失を強い、本土決戦に備えようとしたのです」
天皇は海軍を支持しました。陸軍は持久戦に備え陣地に立てこもる戦略をとろうとしましたが、天皇は出撃して決戦するように促しました。沖縄戦の場合は、天皇は海軍の側に立って、作戦に介入していたといえます」


【参考:台湾沖航空戦】

大本営発表はなぜ「ウソの宣伝」に成り果てたか : 深読み : 読売新聞オンライン
 誤報の極みとされるのが、1944年(昭和19年)10月の台湾沖航空戦に関する大本営発表だ。5日間の航空攻撃の戦果をまとめた発表は、「敵空母11隻、戦艦2隻、巡洋艦3隻を轟撃沈、空母8隻、戦艦2隻、巡洋艦4隻を撃破」。米機動部隊を壊滅させる大勝利に、昭和天皇(1901~89)からは戦果を賞する勅語が出された。だが、実際には米空母や戦艦は1隻も沈んでおらず、日本の惨敗だった。
 熟練度の高い搭乗員はすでに戦死し、作戦に参加したのは初陣を含む未熟な兵卒が大半だった。多くは米軍の反撃で撃墜され、鹿屋基地(鹿児島県)に帰還した搭乗員の報告は「火柱が見えた」「艦種は不明」といったあいまいな内容ばかりだった。だが、基地司令部は「それは撃沈だ」「空母に違いない」と断定し、大本営の海軍軍令部に打電した。翌日に飛んだ偵察機が「前日は同じ海域に5隻いた空母が3隻しか発見できない」との報告が「敵空母2隻撃沈」の根拠とされ、さらに戦果に上乗せされた。
 さすがに疑問を感じた海軍軍令部は内部で戦果を再検討し、「大戦果は幻だった」ことをつかんだが、それを陸軍の参謀本部に告げなかった。陸軍は大本営発表の戦果をもとにフィリピン防衛作戦を変更し、レイテ島に進出して米軍を迎え撃ったが、台湾沖で壊滅させたはずの米空母艦載機の餌食となり、壊滅した。
 大本営発表は軍の最高の発表文で、起案された文書は主要な部署すべてのハンコがなくては発表できない。陸軍を例にとると、参謀本部参謀総長、参謀次長、作戦部長、作戦課長、情報部長、主務参謀などがいて、陸軍省陸相、次官、軍務局長、軍務課長らがいた。特に、作戦部にはエリート中のエリートが集まり、他の部署を下に見ていたという。他の部署は作戦部を快く思わず、何かにつけていがみあっていたから、すべてのハンコをそろえるのは大変な作業だった。
 それでも勝っているうちはよかったが、日本が負け始めると、どの部署もハンコをなかなか押さなくなった。「そのまま発表すれば国民の士気が下がる」というのは建前にすぎず、「敗北を認めると、その責任を負わされかねない」というのが本音だった。発表が遅れれば、報道部の責任が問われる。報道部はハンコが早くもらえるように、戦果をさらに水増しし、味方の損害を減らした発表文を起案するようになった。

 ということで一般には知名度の低い「台湾沖航空戦」ですが「いわゆる大本営発表の典型例」として歴史学の世界では割と有名なようです。
 もちろん「天皇からお褒めの言葉が出たこと」で「後に事実誤認であること」が判明しても面子の問題から「公式には」何ら戦果は修正、撤回されません。

http://www.kt.rim.or.jp/~r_kiyose/review/rv0402.htm
 太平洋戦争に「台湾沖航空戦」という戦いがあったことをいまどれだけの人が知っているだろうか。ある程度、軍事史や太平洋戦史に詳しい人だけではないかと思う。それだけに、NHKという「公共」性の高い媒体でこの台湾沖航空戦がとり上げられたことに私はまず驚いた。なお、この本は平成14(2002)年8月に放送されたNHKスペシャルをもとにしたものらしい。
 台湾沖航空戦とは、日本の敗色がすでに濃くなっていた1944(昭和19)年10月の12~16日にかけて、太平洋を西進してくるアメリカ合衆国海軍の空母機動部隊を日本の航空部隊(海軍を主体とする陸海軍混成。当時の日本に空軍はなく、陸海軍がそれぞれ航空部隊を持っていた)が台湾沖で全力を挙げて迎え撃った戦いである。このときすでに「絶対国防圏」とされていたサイパンは陥落し、フィリピンが米軍の攻勢の危機にさらされていた。
 しかし、この台湾沖航空戦での日本航空部隊の最大の戦果はアメリカ軍の巡洋艦2隻を大破させたことだった。沈めた艦は一隻もなかった。ほかにも被害を受けた艦はあったが、大部分は「かすり傷」程度である。
 一方で日本の航空部隊はこの航空戦で大打撃を受け、このあと立ち直ることができなかった。この航空戦で日本軍の航空部隊が消耗し尽くしてしまったために、この台湾沖航空戦につづいて10月22日から展開されたフィリピン沖海戦(レイテ沖海戦)では、日本海軍は十分な航空機の援護を得られず、主力戦艦「武蔵」や歴戦の空母「瑞鶴」・「瑞鳳」・「千歳」・「千代田」、重巡洋艦「鳥海」・「鈴谷」・「筑摩」などを空襲で失って惨敗した。また、このフィリピン沖海戦で、航空攻撃力の弱体を補うための最後の手段として、体当たり攻撃、つまり「特攻」が組織的に採用された。いわゆる「神風特攻隊」の始まりである。もし台湾沖航空戦で航空兵力が壊滅せず、そのぶんの航空兵力をフィリピン沖海戦に投入できていれば、勝てなかったにしてももう少しましな戦いができていたはずだ。その意味で台湾沖航空戦は帝国陸海軍の命運を決した戦いだったといえる。
 しかしこの台湾沖航空戦は日本国内では大戦果を挙げたと報道された。この本によると一時は敵アメリカの空母を11隻撃沈、8隻撃破したと報道されたようだ。巡洋艦2隻撃破という実際の戦果とあまりに開きがありすぎる。
 この誇大戦果の件は台湾沖航空戦にまつわるエピソードとして有名だから私も知っていた。ただ、その誇大戦果を海軍がほんとうに信じていたのか、信じていないのに威勢を張ってそう公表したのか、もしその戦果が過大だと知っていたとしたらどこまでそれを知っていたのか、だれが、なぜそれに気づいたのかということは詳しくは知らなかった。それをできるかぎり解明したのがこの本である。
 台湾沖航空戦の大本営発表は、ミッドウェーやガダルカナルの例と較べてどこが問題だったのか。本書によると、それは、この台湾沖航空戦から大本営発表は自分をも欺くための単なる数字の羅列になってしまったということだ。ミッドウェーやガダルカナルではまだ国民に真相を知らせていなかっただけで、軍の指導部はそのほんとうの戦果と被害を把握していた。国民に嘘をつくのはよいことではないが、戦略上の判断から国民に広く実際の状況を知らせないという情報戦略自体はあり得る。ミッドウェーやガダルカナルでの実際がそういう情報戦略の正しい適用例だったかどうかは別にしてではあるが。
 ところが、本書によれば、台湾沖航空戦で、軍の指導部自身が真相を知ることを拒絶するようになった。それは、一面では軍の最高指導部で正確な戦果がまったく把握できなくなったからでもあり、また、一面では敗北の現実を認めまいとする心情が戦争遂行に必要な情報の把握より優先したということでもある。戦争に負けているときにはとくに戦線を離れれば楽観主義が現実に取ってかわる(中略)ということの典型的な例証である。その結果、国民に嘘をつくつかないという以前に、軍の指導部自身が正確な情報を持たなくなってしまった。国民をだます以前に軍の指導部自身が自分自身をだますような状況が生まれてしまった。それはこの台湾沖航空戦から始まったのだというのが本書の主張である。
◆なぜ戦果は誇張されたのか?
 台湾沖航空戦の戦果が果てしなく拡大して報告されたのは、本書によれば、現場での誤認が基地での戦果確認の段階で大きく増幅され、上層部がその水増しを抑制できずに発表し、さらに数字がおかしいことに気づいてからも修正しなかったからだという。
 アメリカ軍は、戦闘機についても高角砲弾・機銃弾(高角砲は陸軍でいう高射砲、同じく機銃は機関銃)についても圧倒的な物量を誇っていた。そのうえ、高角砲弾にはレーダー内蔵の「VT信管」(可変式時限信管。ただし実際は「時限信管」ではない)を使用していて、レーダーが至近距離に日本軍機を感知すれば自動的に爆発する仕組みになっていた。命中させなくても撃墜できるのである。
 そのような防壁のなかに飛びこんでいくことのすさまじさは、本書で何度も体験者によって語られている。撃墜されてあたりまえと感じられるような凄絶な戦場だったのだ。
 このような戦闘であるから、まずゆっくりと戦果を確認している余裕がない。爆弾や魚雷を投下してすぐに逃げなければ撃墜されてしまう。苛酷な戦闘で未帰還機が多く、とくに経験ある各隊長機がすべて未帰還だった攻撃もあり、あとで数をつき合わせて確認するための情報も少ない。しかも、未熟な戦闘員だから、撃沈したのかどうかという判断がつかない。それで、敵の対空砲火や自爆した味方機の炎上している炎を、敵艦に爆弾や魚雷が命中した炎だと誤認したのだという。これがこの過大な数字を生んだ可能性は以前から指摘されていた。
 本書によると、しかし、戦果の果てしない過大化はその後に起こった。その経験の浅い搭乗員が帰還したあと、基地で戦果を聴取する際に、「もっと沈めたはずだ」という方向で「誘導尋問」が行われたというのである。
 未帰還機が多く、未帰還者に対する心情的思い入れや「思いやり」が働いたということがあるようだ。これだけ死者・行方不明者が出ているのは、その搭乗員たちが勇猛果敢に戦い、敵と差し違えて死んだからであって欲しい、いやそうに違いない、ならば大きな戦果が挙がっているに違いないという思いこみである。部下に犬死にはさせたくない、部下が犬死にしたとは認めたくないという心情が、戦果をまとめる段階で過大にする方向に働いたと本書はいう。
 基地の司令部が部隊の能力を過大に評価していたことも影響しているのかも知れない。台湾沖航空戦に投入された主力部隊は精鋭部隊として集められ訓練された「T攻撃部隊」と呼ばれる部隊だった。精鋭といってもやはり緒戦の1941~42(昭和16~17)年の搭乗員のレベルには及ばないし、アメリカ軍の防禦も進歩しているのだから、そうかんたんに大きな戦果を挙げられるわけはない。だが、上層部はどうしても過大な期待を持つ。それで出撃して一方的に敗退したとは上層部は信じないだろう。帰還した隊員だって「ぜんぜん成果が挙がっていません」とは言えない。
 また、最初の攻撃は夜間攻撃であった。夜間なので炎は目立つし、しかしその炎が何のどの程度の損害を意味しているのかがわかりにくい。味方機が撃墜された炎を敵艦に爆弾が命中した炎と誤認すれば現実にはなかった「戦果」が作り出される。それが積み重なって現実離れした「戦果」が生まれた。そして、この最初の攻撃の「戦果」が基準になり、次の攻撃でも、そのまた次の攻撃でも同じぐらいの「戦果」が挙がっているはずだという臆断が積み重なって、気がつけば日本軍が1941(昭和16)年開戦時に持っていたのを上回る空母をたった3日で沈めたという「大戦果」が生まれてしまったという動きがあるのではないだろうか。
 あえて言っておけば、1942(昭和17)年前半までの状況下では、一日の航空攻撃で空母3隻を撃沈するというのはあり得ないことではなかった。現にミッドウェーでは日本海軍の空母が一挙に3隻撃沈されている。日本側でも、ミッドウェーでは先に述べたように「飛龍」一隻ぶんの航空隊で2隻の敵空母を撃沈または撃沈寸前にまで追いこんだと考えていたし、その後の南太平洋海戦でも「ホーネット」を二回攻撃していながら「ホーネット」と「エンタープライズ」の2隻を撃沈したと信じていた。緒戦のマレー沖海戦では、空母よりもずっと防禦が分厚いはずの戦艦を2隻同時に撃沈している。その後、攻撃側の技倆の低下と、戦力格差の開きと、航空母艦を中心に配置した防禦陣形の発達などから、このような大戦果はなかなか挙げられなくなった。だが、状況の変化に目をふさいでしまえば、一日の航空攻撃で空母を2~3隻撃沈し、他に何隻かに損害を与えているというのは、けっして不自然な数ではないと感じられたはずだ。
◆上層部の問題点
 さらに、本書は、上層部がその「幻の大戦果」をチェックしきれなかった理由も分析している。
 一つは上層部の「現場」へのコンプレックスである。上層部で「これはおかしい、いくらなんでもこんなはずは……」と気づいても、現場に近い報告者の側が「何を根拠におかしいと言うのか、戦果が挙がっていないと言うならば挙がっていない証拠を見せろ」と言えば退いてしまう。現場のほうは、部下を死なせているわけだから、「戦果が挙がっていない」と断定されることはその部下が戦果を挙げずに死んだと言われているのと同じであり、それに強く抵抗する。自分が腹を切るとまで言い出す。上層部は、おそらくそのたいへんな第一線に自分たちがいないという引け目もあって、強いて「おかしいはずだ」という判断を通すことができない。そういう弱腰が上層部の判定者にあったらしいのである。
 こうなれば、台湾沖航空戦の大戦果を疑ったりしないほうが楽である。疑えば、現場からは激しく抵抗されるし、(中略)しかも大戦果を疑う決定的な証拠があるわけでもない。そこで身命を賭して「いやそんなはずはない」という気概を持つエリートなんかいるわけがない。それが台湾沖航空戦の大戦果の発表につながっていったのだ。
 さらに上層部には別の事情もあった。「縦割り」のシステムである。この苦しい戦況の下で、陸軍と海軍は乏しい予算や物資を奪い合う関係にあった。海軍が大攻撃を仕掛けてじつは戦果が挙がりませんでしたとは言えない。そんなことをすれば海軍は何をやってるんだという話になって陸軍に予算や物資を取られてしまう。折しも10月で来年度予算編成の時期でもある。それだけではない。海軍内部では作戦課がエリート集団で、エリートを集めたわけではない情報課はその作戦課に軽視されていた。情報課が台湾沖航空戦の戦果は過大だと気づいても、エリート集団の作戦課はその情報課の判断を無視した。
◆作戦部のエリート意識
 この作戦課のエリート意識についてはこの本ではじめて知った。そして、太平洋戦争末期に同じような失敗と現実離れした作戦とが繰り返された原因が理解できたように私は感じた。
 日本海軍はこの台湾沖航空戦のひと月ほど前にダバオ誤報事件という大失態を演じている。第一航空艦隊の司令部が置かれていたフィリピンのダバオにとつぜん敵が上陸したという報告が舞いこみ、現地の守備隊が大騒ぎになった。不自然だと思いつつも第一航空艦隊はこの事態を連合艦隊(海軍の主要部隊)司令部に連絡した。連合艦隊アメリカ軍のフィリピン上陸を受けてフィリピン方面での決戦に備えるよう命令を下した。こうして全軍が動き出した段階でダバオへの敵上陸という報告が事実無根だったことが明らかになり、決戦指令は取り消された。しかし、この誤報のおかげで、決戦に備えてセブ島に集中していた戦闘機の主力部隊が空襲で壊滅し、第一航空艦隊の航空兵力は大打撃をこうむったのである。決戦指令が出なければ航空機が敵の空襲を受ける危険の大きい基地に集中しているなどという事態にはならなかったわけで、誤報がなければこれほどの壊滅は起こらなかったはずだった。
 このダバオ誤報事件は、現場の勘違いが増幅され、ついには全海軍に誤報が流れて海軍全体が動き、航空兵力の大損失を招いたという事件である。台湾沖航空戦のばあいと似た面がある。この誤報事件を機に、誤った情報をチェックするような何かの対策をとっておけば、台湾沖の失敗は防げたかも知れない。ところがそれをやっていなかったのであろう。
 また、太平洋戦争での日本海軍の作戦には、現実離れした複雑でロマンチックな作戦が目立つ。それが1944(昭和19)年以後の追いつめられた敗勢の下でも繰り返されている。
 台湾沖航空戦の10日ほど後に起こったフィリピン沖海戦がその典型だ。この作戦は、海軍の艦隊が、航空機の援護を十分に得られないまま、長距離にわたって二手に分かれて進撃し、アメリカ軍の上陸地点にほぼ同時に突入するという作戦であった。途中で進撃のペースが狂ったら二つの部隊の連携を取り直すのは困難になる。実際、その進撃ペースの狂いから、旧式戦艦2隻を主力とする西村(祥治)艦隊が集中攻撃を受け、駆逐艦一隻を残して全滅している。
 この作戦は何もかも自分たちの思ったとおりに進むと考えたときに始めて効果を発揮する作戦だった。「戦場では何が起こるかわからない」ということを軽視しすぎているように思うし、しかも、自分たちが主導権を握っているならともかく、相手に主導権を握られている段階でこのような作戦を立てるのは無謀に思える。
 1945(昭和20)年の有名な戦艦「大和」の水上特攻に関しても同じである。
 いかに防禦力の強い戦艦「大和」でも、水雷戦隊(軽巡洋艦1隻+駆逐艦部隊)1個を率いただけで戦闘機の援護も得られないままに沖縄まで到達できる可能性は低かった。
 それでもそういう作戦が強行された。もちろん「大和」と水雷戦隊は九州沖で航空攻撃を受け、大和は沈没、水雷戦隊も壊滅的損害を受けた。
 どうしてこういう現実離れした作戦を立てて失敗を繰り返したのか。その一つの理由が、作戦課のエリート意識だったのである。失敗しても、どう失敗したかの情報を重視しない。情報を上げてくる情報課を信頼していない上に、エリート的な心情として自分の立てた計画が失敗した状況を見るのは苦痛である。全体に余裕があれば失敗の検討もするのだろうけれど、負けがこんでいるときには「どう負けたか」を検討している心理的余裕がない。それで「こうやれば勝てるはずだ」という複雑な計画を立てたり、実現可能性を無視した心情的な計画を立てたりして艦隊を動かしていたのである。
 台湾沖航空戦の戦果が誇張された原因として、本書の指摘していない可能性を一つ述べておきたい。当時の内閣は小磯・米内連立内閣(ボーガス注:首相は陸軍出身の小磯国昭*12海軍大臣の米内光政*13(元首相)が副首相格の扱い)である。この内閣はサイパン陥落を受けて当時の東条英機内閣が総辞職したのを受けて組織された。倒閣運動には陸海軍の一部もかかわっており、この内閣の交替で陸海軍の主導部も入れ替わっている。東条内閣を総辞職に追いこんだ以上、東条内閣を上回る画期的な成果が必要だったはずだ。東条内閣の下で、日本海軍の航空部隊はマリアナ沖海戦を戦い、空母3隻を沈められて惨敗している。その結果サイパンは陥落した。その失点を新内閣下で取り返したとすれば、倒閣が正しかったことが証明できる。そのことが台湾沖航空戦の大戦果を創出する一つの要因になった可能性もあると思う。
 この大戦果は大々的に発表されて国民を熱狂させた。菊池寛が喜んだというのはまだわかるが、サトウハチロー古関裕而が「台湾沖の凱歌」という歌まで作っていたとはちょっと驚いた。しかし、この戦果は「幻」であり、その少し後に始まったフィリピンの戦いで日本軍は圧倒的劣勢に追いこまれていくことになる。

 横田奥さん「めぐみは生きてるはずだ」
 政府「根拠は何ですか」
 横田奥さん「何を根拠に死んだと言うのか、死んだと言うならば死んだ証拠を見せろ」
 こうなれば、横田奥さんの言い分に反論しないほうが楽である。反論すれば激しく抵抗されるし、しかも死亡を証明する決定的な証拠があるわけでもない。そこで身命を賭して「いやその理屈はおかしい」という気概を持つエリートなんかいるわけがない。
というのが今の拉致敗戦の惨状なんだよなあと、改めてしみじみ。

*1:茨城県県都

*2:群馬県県都

*3:2010年に蒲生町姶良町と合併して現在は姶良市

*4:関東憲兵隊司令官、関東軍参謀長、陸軍次官、陸軍航空総監、第二次、第三次近衛内閣陸軍大臣を経て首相。戦後、死刑判決。後に靖国に合祀

*5:林、第一次近衛、小磯内閣陸軍大臣参謀総長、陸軍教育総監を歴任。戦後、自決。

*6:1974年のいわゆるカーネーション革命ポルトガル民主化すると東チモール独立の動きが出てくるが、1975年にどさくさ紛れに東チモールに侵攻してインドネシア領にしたのがスハルトインドネシア大統領です(西チモールは以前からインドネシア領)。その後、長く、東チモール独立運動が行われ2002年に独立を達成します(例えば東ティモール - Wikipedia参照)

*7:ポルトガルのこと。当時は中立国だった。

*8:もちろんアゾレス諸島のこと

*9:陸軍省軍務局軍務課長、参謀本部作戦課長、参謀本部第一部長、陸軍省軍務局長など歴任

*10:『降伏するためには一度米軍にそれなりの打撃を与えないといけない(負けたままでは降伏できない)』といういわゆる『一撃講和論(一撃和平論)』のこと。

*11:第9師団長、駐蒙軍司令官、侍従武官長など歴任

*12:陸軍省軍務局長、陸軍次官、関東軍参謀長、朝鮮軍司令官、平沼、米内内閣拓務大臣、朝鮮総督、首相など歴任。戦後終身刑判決を受け服役中に病死。後に靖国に合祀

*13:戦前、林、第一次近衛、平沼、小磯、鈴木内閣で海軍大臣。戦後、東久邇宮、幣原内閣で海軍大臣