今日の産経ニュース(2020年1月3日分)

IR推進、地元議員に接近 職務権限なければ収賄の可能性低く(1/2ページ) - 産経ニュース
 自民党応援団・産経らしいですが、

◆共和製糖事件(1966年)
 社会党の相沢重明参議院議員
◆日通事件(1967年)
 社会党の大倉精一参議院議員
◆撚糸工連事件(1985年)
 民社党の横手文雄衆議院議員
◆砂利船汚職事件(1988年)
 公明党田代富士男参議院議員
リクルート事件(1988年)
 公明党の池田克也衆議院議員公明党副書記長)
ウィキペディア汚職」参照)

ということで「政権与党ではなく、汚職罪での職務権限などありそうにない」野党議員ですら業者からもらった金の見返りで「官庁への陳情」「国会質問」などをした場合「職務権限に辺り収賄罪が成立する」とされて有罪判決がでています。汚職事件での職務権限はかなり広く解釈されるので、今回の「自民4議員」について現時点では「職務権限に該当する行為がない」などとはいえません。
 「国会のIR担当委員会に所属してない」「自民党のIR関連部会に所属してない」「IRA担当の政務三役ではない」程度では「職務権限に該当する行為がない」などとはいえません。まあ現時点では「よくわからない」と言うのが正しい評価でしょう。


IR汚職 現金受領5議員を聴取 複数が認める - 産経ニュース
 超大物とまでは言えないまでも、そして今後検察の捜査がどうなるかはともかく既に逮捕された秋元・元第3次安倍第3次改造内閣IR担当副大臣の他に

【自民】
中村裕之氏:第4次安倍第1次改造内閣文科大臣政務官
船橋利実
岩屋毅氏:第4次安倍第2次改造内閣防衛相
宮崎政久氏:第4次安倍第2次改造内閣法務大臣政務官(現職)

と「自民議員が4人も事情聴取を受けた」というのは安倍にとって決して愉快なことではないでしょう。
 1月の国会で当然野党が追及することが予想されますからね。
 また維新にしても、下地幹郎*1の名前が出たことで「大阪カジノ計画」の反対が強まることが予想されますね。


ゴーン被告が声明「キャロルや他の家族が役割との推測の報道が…」 - 産経ニュース
 ゴーンのような人間のくずには怒りを禁じ得ませんが「根拠のない憶測報道はやめよ」と言う指摘自体は正論です。ゴーンの言うように本当に根拠のない憶測で「ゴーンの家族が逃亡の共犯であるかのように報じてる」のなら、それは許されることではありません。


【主張】金正恩氏の演説 無益な駆け引きはやめよ - 産経ニュース
 そんなことを言ったところで何がどうなるもんでもない。むしろ「その駆け引きに乗った」上で「北朝鮮が飲めるが、こちらにもそれなりの利益がある」、つまり「北朝鮮のやらずぼったくり」でない「ある種のWin-Winの関係」をどう構築していくかでしょう。もちろん楽なことではないでしょうが。
 「北朝鮮がやらずぼったくられること(無条件で核廃棄)」なんか向こうが飲むわけがない。「無条件で核廃棄」を飲ませるために「経済制裁や軍事的圧力を強める」と言うことに合理性や現実性があるとは俺は思いません。それは過去に失敗してきたことではないのか。
 なお、当たり前ですが、俺は別に北朝鮮シンパではないので北朝鮮に日本や米国、韓国がぼったくられることを是としません。だからこそ「ある種のWin-Winの関係」というわけです。ただし「アンチ北朝鮮id:noharra先生がいい例ですが日本では俺のように「太陽政策賛成」「経済制裁反対」「平壌に日本の駐在事務所を置くべき」「早急に北朝鮮と国交正常化すべき」「朝鮮学校無償化除外、補助金不支給反対、それを合法とした裁判所判決は無法」などという人間にはウヨから「北朝鮮シンパ」の称号が授与されます。
 なお、俺のように「ホワイト国除外反対」「徴用工判決には何ら問題ないと思う」というとウヨから「韓国シンパ」の称号も授与されます。
 しかし「ハルノートを飲ませようと石油禁輸をした米国が悪い。日本は悪くない」といって太平洋戦争開戦を正当化する産経が、北朝鮮問題では「制裁して何が悪い。我々の要求をのまない北朝鮮が悪い」とはデタラメなこと、この上ないですね。


【主張】ゴーン被告逃亡 保釈を認めたのが誤りだ - 産経ニュース
 産経らしいですが正直こんなことは誰もが想定外でしょう。
 明らかにレバノン政府がぐるだし、報道に寄れば「スパイ大作戦*2的な特殊組織でコントラバスボックスで隠れて自宅から脱出」「プライベートジェットで国外脱出」です。こんなことは大金持ちゴーン以外できることではない。一般の刑事事件被告人には「やりたくてもやれない」「それ以前に思いつくことすら出来ない」話です。
 「保釈条件が『国外逃亡防止のためのパスポート保管』なので、パスポートは保管していた、どうやってゴーン氏が脱出したか分からない」という弁護団の主張が事実なら「偽造パスポートの用意の疑い」すらある。
 そんなことは保釈を請求した弁護団も裁判所も、それどころか検察すら想定外でしょう。
 「結果的に問題が起こったら、すべきではなかった」というなら、例えば

・1945年の敗北をもたらしたから日本は対米開戦すべきではなかった*3
原発事故を起こしたから福島原発は稼働すべきではなかった*4
・逃亡後、北朝鮮の命令で日本人拉致に加担した疑いがあるから、佐藤*5内閣はよど号ハイジャック事件で犯行グループとの取引に応じて、北朝鮮への逃亡を許すべきではなかった

ともいえるでしょうが、自分に都合の悪い太平洋戦争や福島事故などでは「開戦は間違っていない、ハルノートで追い詰めた米国が悪い」「想定外の津波だから仕方が無い*6」などというくせに全くデタラメです
 なお、よど号事件だと産経は反北朝鮮路線を一貫し「佐藤内閣は間違っていた!」というのか、はたまた「自民党重鎮・佐藤が批判できず」、佐藤批判はしないのか気になるところです。まあ、俺個人は「アンチ自民」「アンチよど号グループ」ですが佐藤を責める気はありません。逃亡後、拉致への加担なんかやると佐藤政権も思ってないし、あの事件で強硬策なんかとったら「事件発生時点では」死人が何人出るか分からない恐怖(当然、佐藤内閣崩壊もあり得た)があった。拳銃や爆弾が模造品だった、強行突入しても問題なかったというのは後智恵でしかありません。まあともかく人質を取られたら立場が弱いのだから無茶苦茶なことなんかできやしません。
 福田*7内閣のダッカ事件解決(いわゆる超法規的措置=身代金支払いと赤軍派解放)もそうですが、そうしたことを考えれば「経済制裁拉致被害者救出(救う会)」なんてのは正気の沙汰ではありません。
 それはともかく、大体「拉致被害者を取り戻すために北朝鮮経済制裁を!」という産経の理屈なら言うべきことは「ゴーンを取り戻すためにレバノン経済制裁を!」ではないのか。
 そのように言わないことで「拉致被害者を取り戻すために北朝鮮経済制裁を!」が本心であるかは実に怪しい。俺個人は本心ではなく「北朝鮮を痛めつけたいがためのへりくつ」だと思っていますが。
 まあ「レバノンへの制裁の是非」はともかく「どうやってゴーン引き渡しをレバノンに要求するか」が当面の問題だろうにそれに何一つ触れない産経は本当に異常です。
 産経抄でも

【産経抄】1月3日 - 産経ニュース
 ゴーン被告の引き渡しを求めても、逃亡先のレバノン政府が応じる可能性は小さい。だから、いわんこっちゃない。逃亡の恐れを理由に保釈に強く反対してきた、検察側の歯ぎしりが聞こえてくるようだ。

としてろくにレバノン批判もせず、弁護団と裁判所に悪口する有様です。
 そんなに簡単にゴーン引き渡しを諦めていいのか。
 その理屈なら

 拉致への関与の疑いを理由によど号グループの引き渡しを求めても、逃亡先の北朝鮮政府が応じる可能性は小さい。だから、いわんこっちゃない。佐藤内閣に対し、よど号グループとの取引に強く反対してきた、法務省側の歯ぎしりが聞こえてくるようだ。

ということにならないのか。「佐藤栄作内閣が悪い。もうよど号グループ引き渡しなんか諦めようぜ」となぜ産経は言わないのか。
 それにしても「こんなことをすれば、ゴーンの共犯者が不利になる」「保釈を争うケースに今後悪影響を与える」「弁護団が『ゴーンの共犯ではないのか』と非難をあび、業務に支障が生じる恐れがある」ことくらいのことはゴーンも分かるでしょう。
 それでも逃亡したのだから呆れたクズです。まさか「日産やルノーの社長を務めた大物財界人」がここまでクズだとは思いませんでした。
 正直「裁判を有利にするために証拠隠滅(あるいは逆にアリバイでっち上げのような証拠捏造)や偽証を裏でしかける」程度の事は想定していましたが、「明々白々たる違法行為(国外逃亡)」に及んで裁判自体から逃げ出し「不当な裁判だから逃げて何が悪い」と強弁するとはね。

参考

よど号ハイジャック事件ウィキペディア参照)
 1970年(昭和45年)3月31日に共産主義者同盟赤軍派赤軍派)が起こしたハイジャック事件。日本における最初のハイジャック事件である。
◆概要
 羽田空港発板付空港(現・福岡空港)行きの日本航空351便(愛称「よど号」)が赤軍派を名乗る9人(以下、よど号グループ)によってハイジャックされた。よど号グループは北朝鮮へ亡命する意思を示し、北朝鮮に向かうよう要求した。よど号福岡空港と韓国の金浦国際空港での2回の着陸を経たあと、4月3日に北朝鮮の美林飛行場に到着。よど号グループはそのまま亡命した。
 運航乗務員を除く乗員と乗客は福岡とソウルで順次解放されたものの、山村新治郎*8運輸政務次官が人質の身代わりに搭乗し、運航乗務員とともに北朝鮮まで同行したあと帰国した。
◆事件の経過
 1970年(昭和45年)3月31日、7時33分、羽田空港発板付空港(現・福岡空港)行きの日本航空351便が、富士山上空を飛行中に日本刀や拳銃、爆弾などを持ったよど号グループによりハイジャックされた。よど号グループは石田機長と江崎副操縦士平壌に向かうよう指示した。
 この要求に対し江崎副操縦士は「運航しているのは福岡行きの国内便であり、北朝鮮に直接向かうには燃料が不足している」とよど号グループに説き、給油の名目で8時59分に当初の目的地である板付空港に着陸した。なお実際は予備燃料が搭載されていたため、平壌まで無着陸で飛行することが可能であったという。
 福岡県警は国外逃亡を阻止すべく機体を板付空港にとどめることに注力し、給油を遅らせたり自衛隊の戦闘機が故障を装い滑走路を塞ぐなどの妨害工作を行うが、かえってよど号グループを刺激する結果になった。焦ったよど号グループは離陸をせかしたが、機長の説得によって戦闘機をどかすことを条件に人質の一部を解放することに同意。13時35分に女性・子供・病人・高齢者を含む人質23人が機を降りた。
 3月31日、13時59分、よど号北朝鮮に向かうべく板付空港を離陸。機長が福岡で受け取った地図の隅には「121.5MCを傍受せよ」(MCとはメガサイクルの略。現在のメガヘルツと同じ。民間航空緊急用周波数)と書かれており、機長と副操縦士はこれに従って飛行した。北朝鮮に入ったと考えた副操縦士は、指示された周波数に対して英語で「こちらJAL351便」と何度も呼びかけたが、なかなか応答が返ってこなかった。その後、同機に対し「こちら平壌進入管制」という無線が入る。無線管制は、周波数を121.5MCから134.1MCに切り替えるよう指示してきた。これは、「理由のいかんを問わず、よど号金浦空港に着陸させろ」との韓国大統領・朴正熙の命令を受けていた韓国空軍の管制官が、北朝鮮の航空管制を装ったものであった。機長と副操縦士は管制の指示に不自然な点が多く、ソウルに誘導されていると感じていたが、そのまま管制の指示に従って徐々に進路を南に変更した。よど号グループは、亡命希望先の北朝鮮公用語である朝鮮語はおろか英語もほとんど理解できなかったため、これらのやりとりに対して疑問を呈することはなかった。金浦国際空港では、よど号が到着するまで8時間弱の間に平壌国際空港に偽装する工作が韓国中央情報部(KCIA)によってなされていた。しかしよど号グループの一人が金浦国際空港内にノースウエスト航空機が駐機しているのを発見し異常に気づく(この点については、「シェル石油のロゴのついた給油トラック」「よど号グループが持っていたラジオをつけたらジャズやロックが流れた」「ジープに乗ったネグロイドの兵士がいた」「フォードの車が動いていた」など、諸説ある)。
 さらによど号グループは機体に近づいてきた男性に北朝鮮における五カ年計画について質問したところ、答えに窮したという。これを見たよど号グループは、畳みかけるように「金日成の大きな写真」を持ってくるように要求したが、北朝鮮の敵国である韓国においてこの写真は当然用意することもできず、よど号グループは偽装工作を確信する。
 このため、31日の午後には日本航空の特別機が山村運輸政務次官ら日本政府関係者や日本航空社員を乗せて羽田空港を飛び立ち、4月1日未明にソウルに到着。韓国政府の国防部長官や交通部長官、内務部長官とともによど号グループへの交渉にあたることになった。
 このあと、よど号副操縦士よど号グループの隙を見て、機内にいるグループの数と場所、武器などを書いた紙コップをコックピットの窓から落とし、犯人のおおよその配置が判明した。韓国当局はこの情報を基に特殊部隊による突入を行うことも検討するが、乗客の安全に不安を感じた日本政府の強い要望で断念する。
 日本政府は、ソ連や国際赤十字社を通じて、よど号が人質とともに北朝鮮に向かった際の保護を北朝鮮政府に要請した。これに対して北朝鮮当局は「人道主義に基づき、もし機体が北朝鮮国内に飛来した場合、乗員および乗客はただちに送り返す」と発表し、朝鮮赤十字会も同様の見解を示した。日本政府はさらに、よど号グループが乗客を解放した場合には、北朝鮮行きを認めるように韓国側に強く申し入れ、韓国側は最終的にこれを受け入れた。
 1日午後には橋本登美三郎*9運輸大臣もソウルへ向かい、金山政英駐韓大使らとともに韓国当局との調整に当たった。数日間の交渉を経た4月3日に、山村運輸政務次官が乗客の身代わりとして人質になることでよど号グループと合意。乗客を順次解放した。また、乗員のうち客室乗務員も機を降りることが許された。4月3日の18時5分によど号は金浦国際空港を離陸、19時21分に美林飛行場に着陸した。対応した北朝鮮側は武装解除を求めたため、よど号グループは武器を置いて機外へ出た。なお、武装解除により機内に残された日本刀・拳銃・爆弾などは、すべて模造品であったことがのちに判明した。よど号グループ9人、乗員3人、人質の山村の計13人の身柄は北朝鮮当局によって確保された。4月4日、北朝鮮は、「人道主義的観点から機体と乗員の返還を行う」と発表。同時に「飛行機を拉致した学生」に対し必要な調査と適切な措置をとるとして、よど号グループの亡命を受け入れる姿勢を示した。これを受け、日本政府は北朝鮮に対し謝意を示す談話を発表。後に公開された佐藤首相の日記でも「一同おおよろこび。北鮮(原文のまま)の厚意を感謝する」とある。
◆ハイジャックの目的
 幹部が逮捕され組織が弱体化した赤軍派は、1969年(昭和44年)12月から1970年(昭和45年)1月にかけ、「労働者国家(共産圏国家)に武装根拠地を建設して世界革命根拠地とする」とする「国際根拠地論」を打ち出す。北朝鮮が選ばれたのは、北朝鮮の体制を支持したからではなく、もっとも身近にある「日本帝国主義と敵対関係にある国」だったからにすぎない。
◆その後
・実行犯グループには加わらなかったものの、ハイジャック計画を共謀したとして赤軍派幹部の塩見孝也、高原浩之、前田祐一、上原敦男、川島宏が事件後に起訴されている。裁判では塩見に懲役18年、高原に懲役10年、前田に懲役8年、上原に懲役5年6か月、川島に懲役4年の実刑判決がそれぞれ確定している。
・この事件後、1970年6月にハイジャック防止法が制定された。ただし憲法39条の遡及処罰禁止規定によりよど号グループには、この法律は適用されず、後に逮捕起訴された柴田泰弘と田中義三は「乗員乗客に対する略取・誘拐罪」「機体や旅客運賃に対する強盗罪」に問われた。なお国外逃亡していることから刑事訴訟法第255条の規定により、公訴時効は停止している。
 また、日本刀・拳銃の模造品が犯行に使われたことから、模造拳銃の所持および模造刀剣類の携帯をそれぞれ禁止し、刑事罰を規定する銃刀法改正案が1971年(昭和46年)に可決された。
よど号グループは八尾恵*10証言などから日本国外での日本人拉致事件有本恵子、石岡亨、松木薫の拉致)への関与が疑われているが、現時点では詳細は不明な点が多い。
 その後、吉田金太郎、岡本武、田宮高麿の3人は北朝鮮国内で死亡したとされる。また柴田泰弘と田中義三の2人は後に逮捕起訴され、裁判で有罪判決を受け、服役。柴田は刑期満了による出所後の2011年(平成23年)6月23日に大阪市内のアパートで、田中は2007年(平成19年)1月1日に服役中に、それぞれ死亡した。現在、北朝鮮にいるのは小西隆裕・魚本公博・若林盛亮・赤木志郎の4人とされる。

*1:野田内閣防災等担当相、国民新党国対委員長政調会長、幹事長、日本維新の会政調会長等を歴任

*2:1966年から1973年まで放送されたアメリカのテレビドラマ(日本では、1967年から1973年までフジテレビで放送された)。1988~1990年には続編『新スパイ大作戦』が放送された(日本では1991年に日本テレビで放送された)。また、リメイク映画『ミッション:インポッシブル』(1996年)、『ミッション:インポッシブル2』(2000年)、『ミッション:インポッシブル3』(2006年)、『ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル』(2011年)、『ミッション:インポッシブル/ローグ・ネイション』(2015年)『ミッション:インポッシブル/フォールアウト』(2018年)が作成されている(ウィキペディアスパイ大作戦』『ミッション:インポッシブル』参照)。

*3:「対米戦争が敗北する可能性が高いことは当時ですら分かっていた」「ハルノートを受諾した方がまし」なので俺個人は全くその通りだと思いますし、一部極右を除くほとんどの人間は同意見でしょうが

*4:俺個人は脱原発派の一人として全くその通りだと思いますが

*5:自由党幹事長(吉田総裁時代)、吉田内閣郵政相、建設相、岸内閣蔵相、自民党総務会長(岸総裁時代)、池田内閣通産相科学技術庁長官などを経て首相

*6:実際には「事故原因が津波かどうか(津波がなくても事故ってたという指摘もある)」も、「津波が想定外かどうか(想定内という指摘がある)」も疑問符がつきますが

*7:大蔵省主計局長から政界入り。岸内閣農林相、自民党政調会長(池田総裁時代)、幹事長(佐藤総裁時代)、佐藤内閣蔵相、外相、田中内閣行政管理庁長官、蔵相、三木内閣副総理・経済企画庁長官を経て首相

*8:佐藤内閣運輸政務次官、中曽根内閣農水相、宇野内閣運輸相など歴任

*9:池田内閣建設相、佐藤内閣官房長官、建設相、運輸相、自民党総務会長(佐藤総裁時代)、幹事長(田中総裁時代)など歴任。後にロッキード事件で有罪判決

*10:よど号グループの柴田泰弘の元妻。著書『謝罪します』(2002年、文藝春秋