渥美清で色々と書いてみる

 けっきょく渡哲也は、渥美清と同じ轍を踏んだと思う - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)を読んで、コメントもしましたが、拙記事でも色々書いてみることにします。

さすらいの月虎/車寅次郎、渥美清・・・
◆芸名・渥美清*1の由来

 結核で療養所に入っている時に、空気の綺麗な渥美半島のお花畑が頭に浮かんでねぇ。 渥美半島の清い空気にあこがれて、"渥美清"って付けたんですよ。

 これは「男はつらいよ」で一躍スターとなった渥美清が、若い時分にインタビューで答えた内容である。このエピソードが多くの追悼本に引用されたらしいが、実際はこれは間違いである。いや、間違いというより事実ではない。何故なら、渥美清結核で入院する以前から"渥美清"の芸名で浅草の舞台に上がっていたからである。本当の芸名の由来は次の通りである。

 駆け出しの頃、たまたま小説を読んでいたら"渥美悦郎"という主人公の名前が目にとまり、それを拝借した。

 しばらくは"渥美悦郎"で舞台を勤めていたが、ある日舞台に上がる直前に支配人か誰かに「悦郎は語呂が悪いから清に変えた方がいい」と言われ、その場で"渥美清"が誕生する事になったという。しかしこの実話より渥美半島の話の方がカッコ良くてドラマチックである。今となっては伝説であるが、渥美清は何故こんな作り話をしたのだろうか。
 渥美清という人はイメージを大切にする人だったのか。イメージというのは"らしさ"である。渥美清らしさ、 車寅次郎らしさ、らしさにも色々あると思うが、私生活の事は親しい仕事仲間にもほとんど明かさなかったのは、 この"らしさ"を守る為だったのではないだろうか。付き人さえも渥美半島の話を真実だと思わせた渥美清。それ程までに"らしさ"に大きな価値感をもっていたという事だろうか。
 役者は役を演じきって初めて役者となる。それによってお客に夢を売るのが商売である。夢を売る為にはイメージが大事である。

 渥美らしい話の気がします。

さすらいの月虎/車寅次郎、渥美清・・・
◆初めて見せた心の素顔
 渥美清は「男はつらいよ」の最終作品となった第48作「寅次郎紅の花」で、NHKの取材に応じている。その取材番組は「寅さんの60日」というタイトルでNHKの「クローズアップ現代」で放映され、さらに「渥美清の伝言」というタイトルで再編集され、平成11年に再び放映された(ボーガス注:後にNHK取材班『渥美清の伝言』(1999年、中央出版)として書籍化。またその後、再編集され『渥美清の肖像~知られざる役者人生~』として放送された)。番組中、渥美清が車寅次郎の格好でインタビューに応じ、自分の胸の内を話している姿があった。
 山田洋次*2監督はこの番組中、これらの発言は後で考えてみると遺言に聞こえると言った。確かにそうかもしれない。車寅次郎を演じるようになってから、渥美清はあまりメディアの前ではこの手の話はしておらず、テレビを通じて自分の胸の内を明かすのはこの時ぐらいしか チャンスはなかったのではないか。渥美清NHKからのインタビューの依頼があった時、「もういいんじゃないかな」と言ったそうである。つまり、(ボーガス注:もはや寿命が長くないことを覚悟し)もう素顔を隠す必要はないだろう、もう寅さんの大変さをさらけ出してもいいだろう、そういう意味だったのではないだろうか。そこまで覚悟を決めて取り組んだ第48作、何度考えても心が痛む話である。
 このインタビューの中で一番印象に残ったのは次の言葉である。
『寅さんが、手を振り過ぎていたのかな。愛想が良過ぎたのかな。スーパーマンを、撮影の時に見てた子供達が、「飛べ飛べ、早く飛べ!」って言ったって言うけども、スーパーマンやっぱり2本の足で地面に立ってちゃいけないんだよね。だから(ボーガス注:渥美個人は本当は寅さんほど愛想の良い性格では無いが)寅さんも、(ボーガス注:ロケでファンに手を振られたり、声をかけられたりしたら)黙ってちゃいけないんでしょ。24時間手振ってなきゃ。ご苦労さんなこったね。飛べ飛べって言われても、スーパーマン飛べないもんね。針金で吊ってんだもんね。』
 この言葉で見えるのは、渥美清は車寅次郎であり続ける為に、限界まで全力で"らしさ"を作り出していたという事である。

 小生もこの番組(『渥美清の肖像~知られざる役者人生~』版だったかと思います)を以前少しだけ見ましたが、渥美清が寅さんを演じることに複雑な思いを覚えていたことが伺える話です。

Cafe Tsumire 「渥美清の肖像~知られざる役者人生~」9月4日、NHK
 さて昨日見た「プレミアム10 渥美清の肖像~知られざる役者人生~」(NHK、9月4日22時)は浅草時代から亡くなるまでの渥美清の姿を追った特集番組。
 私が子どもだった頃は父に連れられて盆と正月と言えば寅さんだった。それがいつのまにやらあまり見なくなって、大学に入ってからは全く見なくなったものだったが、その代わりごくたまにではあるが寅さん以外の渥美清のドラマを目にするようになった。土曜ワイド劇場第一作「時間よとまれ」(1977年7月2日放映、テレビ朝日系)とか「東芝日曜劇場 放蕩一代息子」(1973年10月14日放映、TBS)、「東芝日曜劇場 放蕩かっぽれ節」(1978年5月14日放映、TBS)、映画「拝啓、天皇陛下様」などなど。あー、そういえば「八つ墓村」(映画)も見ましたよ。あれ?。もしかして私ってば渥美清の追っかけ?。まあそれはともかく、私の中では渥美清の寅さん成分はかなり薄いほうなので、昨日の番組のような構成はなかなかようございました。
 昨日の番組の中で印象的だったのは、「渥美清は寅さん役以外の仕事もやりたがっていたんじゃないのか?」という(ボーガス注:NHKの)インタビューに対して、「男はつらいよ」の監督をやっていた山田洋次が「(渥美清は)見ている人たちから俳優名よりも(寅さんという)役名で呼ばれるようになるのが役者としてが一番だといっていた」、「寅さん(ボーガス注:を演じること)に対して(ボーガス注:インタビュアーが言うような)疑問や躊躇はなかった(ボーガス注:と思う)」というのに対して、脚本家の早坂暁が「(渥美清が)寅さん演るの、飽きちゃったよ」と言うのを聞いていたという話と、「せきをしても一人」で有名な俳人・尾崎放哉のドラマ製作が早坂暁脚本・渥美清主演で進んでいたが直前でだめになってしまい、以降渥美清は寅さんのみになっていった、という話である。渥美清はかつて「寅さんは24時間(いつでも見てくれる人に)手を振ってなくちゃならないからね」と言っていたらしい。寅さんは、渥美清にとって何よりも得がたい役柄でありながら、こういう言い方をするのも失礼かもしれないが、「寅さんという名の牢獄」でもあったのではないかという気もする。
 番組の中ではもちろんかつて放映された寅さん最終作密着ドキュメンタリー番組の一部も流れた。それには私が昔見たときに思ったように、やはり老いて疲れた渥美清が映っていた。このときにはもう癌にかかっていたということを知っている今見ると、なおいっそう病気のせいもあってやつれているのだということがわかる。でも同時に映し出された最終作「男はつらいよ 寅次郎紅の花」のスクリーンの中の寅さん(渥美清)はそれほどの老いも疲れも感じられなくてびっくりだ。それは渥美清の演技力や執念だったのか、それとも映画のマジックだったのか。うーむ。素人の私にはまったくわからんが。

咳をしても一人 : シンコペーションな日々
 昨日、BS朝日で、「昭和の偉人伝 渥美清 3つの素顔」が放映されていたのを観た。
 寅さんとしてみてくれている人の夢を壊すことが出来ない喜劇役者 渥美清。やはり、すごくまじめな人だったんだと思う。
 番組の中で、「一度だけ別の人物を演じてみたい」と、友でもある脚本家にお願いをする場面がある。結局、「寅さんを裏切ることが出来ない」と、お願いした本人が断ることになるのだが、その時に、演じたかったのが、俳人の尾崎放哉だった。
 東大出のエリートだった放哉は、アル中のために会社勤めが出来なくなり、そして家族を失い、寺の掃除人として、転々と移り住み、回りに迷惑をかけながら、最後は小豆島で極貧のうちにその生涯を閉じるわけだが、そのすざましく落ちぶれてゆく生き方と自由な俳句に、何故かしら惹かれる人が多いのも事実。
 そして有名な句が、  
◆咳をしても一人
 みすぼらしい部屋で一人、コホンと咳が出たが、回りには誰も居なく、冷え冷えとした部屋に響くだけ。散々好きなことしてきた事のつけだと思うが、つくづく自分は、ダメ人間だと思うと、寂しさも相まって、皮肉な笑いがこみ上げてくる。たぶんそんな心境だろうか?。あくまで勝手な解釈ですが。
 まじめな渥美清は、そんな放哉の生き方に、憧れがあったのかもしれない。

 上記の早坂の話については

渥美清 - Wikipedia
・脚本家・早坂暁とは20代に銭湯で知り合い、早坂を「ギョウさん」と呼んで、何度もプライベート旅行に行くなど終生の友であった。
・1985年頃、渥美は俳人尾崎放哉を演じたいと早坂に相談し、早坂と渥美は取材旅行に訪れ、脚本も完成した。ところが寸前にNHK松山放送局が放哉をドラマ化したため(『海も暮れきる~小豆島の放哉~』1985年8月1日放映、放哉役は橋爪功で、第23回ギャラクシー賞奨励賞を受賞)、急遽題材を種田山頭火に変更することになり、渥美と早坂は今度は山頭火の取材旅行に訪れ、脚本も完成したにもかかわらず、クランクイン寸前になって、突然渥美から制作のNHKに「山頭火」降板の申し出があった。降板の理由は体調不良やスケジュールの都合がつかないことなどといわれるが、周囲(特に松竹)が「寅さん」のイメージ損失を嫌ったことの軋轢かと思われる。ちなみに渥美降板により主役がフランキー堺となったこのドラマ「山頭火・なんでこんなに淋しい風ふく」で、フランキー堺*3モンテカルロ国際テレビ祭最優秀主演男優賞を受賞している。早坂は渥美のために、テレビドラマ「泣いてたまるか」(1966~1968年、TBS)や、テレビ朝日「土曜ワイド劇場」の「田舎刑事」シリーズ(1977~1979年)などの脚本を書いており、いずれも「寅さん」ではない渥美の魅力が引き出された名作となっている。

ザッピング:早坂と渥美清と山頭火 - 毎日新聞
・先月死去した脚本家の早坂暁は俳優の故・渥美清と公私にわたる交流があった。
・俳号を持っていた渥美は自由律俳句の尾崎放哉に興味を持つ。相談すると、早坂も乗り気。
(以下は有料記事なので読めませんが)

なんて指摘があります。
 まあ山田洋次の発言は彼の立場上仕方が無いでしょう。

『渥美清の伝言』/NHK「渥美清の伝言」制作班 - 寅さんとわたし
 シリーズ最終作『男はつらいよ 紅の花』の公開に先立ち、NHKクローズアップ現代では、撮影の密着ドキュメント『寅さんの60日~役者・渥美清の素顔~』という番組を放送した。
 渥美清の没後、この番組は追加取材、再編集され『渥美清の伝言』という特別番組として放送される。クローズアップ現代の取材テープが40時間、渥美清没後の追加取材が20時間分あり、これを1時間の内容にまとめるわけだから、取材のほとんどが番組内に収まらない。
 本書は、その収まりきらなかった貴重なインタビューを中心に採録し、番組制作秘話とあわせて一冊にまとめたもの。番組ディレクターの回想、渥美清インタビュー、『紅の花』密着取材、渥美清没後に取材された山田洋次黒柳徹子倍賞千恵子*4ら関係者のインタビューで構成されている。
 渥美清を知る誰もが、”珍しい””めったにない”と驚く『紅の花』ロケ中の渥美清インタビューは、当時の渥美清の心中をリアルに反映している。
 「くたびれちゃう」「疲れた」「もう精一杯」。
 インタビューには、生きることに疲れ果てたような言葉が並ぶ。渥美は、映画を離れても「飛べ飛べ!」と言われたスーパーマンを引き合いに出し、いつでもどこでも寅次郎のキャラクターを求められる自身の心境を語っている。
 そこにはもはや怒りも苦悩の色もない。ひとつひとつの言葉はカラリと乾き、諦めに満ち、読む人の心に寒々しい風を吹かせる。
 このインタビューや関係者の証言から推察するに、渥美清の諦観は、ガンという病気によってさらに深度を増していたと思しい。しかし唯一、長年の付き合いである黒柳徹子との親交の中では、その苦しい胸の内を忘れることができたようだ。
 本書には、黒柳徹子の15,000字近くにも及ぶロングインタビューが採録されており、そのエピソードに登場する渥美清は実に可愛らしく、黒柳との親交においては、子どものように無邪気でいられた彼の姿を想像することができる。
 黒柳徹子が、渥美清に最後に会ったのは最終作『紅の花』撮影前のこと。黒柳は、渥美清に連絡を取りたいとき、渥美の留守電にメッセージを入れておくようにしていたという。いつもはすぐに返事があるのだが、その時は一ヶ月、二ヶ月たっても連絡がない。どうも渥美は体調がすぐれず、返事が返せなかったようだ。
 そんな事情を知らない黒柳は、久しぶりに再会した渥美に、「どこ行ってたのよ?温泉だわ、温泉でしょ?きっと女の人を連れて温泉に行ってたんでしょ?」と問いただす。すると渥美は、かぶっていた帽子を取り、ハンカチで涙を拭うほどに大笑いしたという。その笑いは「渥美さんが、あんなに笑ったの、見たことがなかった」と黒柳がいうほどであった。

『渥美清 晩節、その愛と死』/篠原靖治 - 寅さんとわたし
 渥美清の逝去まで、足かけ14年にわたり付き人をつとめた篠原靖治によるノンフィクション。
 「いい年してね、いつまでも、女のケツばかり追いかけてちゃいけないよな」
 渥美がはじめて”寅次郎をやりたくない”といったニュアンスの言葉を漏らしたのは、第45作の頃。
 次いで、第46作。
 「シノ、オレはもうできないよ」「お前から見りゃ、オレは給料みたいな顔してるかもしれないけど、できないよ」
 さらには、第47作。
 「オレはもう、生きているのが不思議なくらいだよ。しんどくてたまらないんだ。でも、誰もわかっちゃくれないよな。あーあ、誰かオレに代わって、寅をやってくれるやつがいないかねぇ」
 もはやこの頃には、撮影の休憩時間には力なくゴロンと控室に横たわり、胃腸薬だとうそぶき抗癌剤を飲んでいたという。ストレートに”寅次郎をやりたくない”と篠原に弱音をぶつけるほどに、ガンは進行していたのだ。
 そして最終の第48作撮影時、渥美は衝撃の告白をする。
 「実はな、シノ、オレはガンなんだ」「オレはガンなんだからねー、ハハッ」
 その瞬間、篠原は言葉を失い、身動きが取れなかったという。
 当時、『男はつらいよ』シリーズは松竹の屋台骨をがっちりと支えており、また、製作者はもちろん、ファンも寅さんの新作を心待ちにしていた。どんなに辛く、体に激痛が走ろうとも、シリーズを止めるわけにはいかなかったことは、当の渥美清自身が、わかり過ぎるほどわかっていたのだろう。
 車寅次郎に殉ずる、と覚悟を決めながらも、本当に親しい人には心の内側を訴えずにはいられなかった。そんな渥美清の悲痛な叫びが、本書には記されている。

「渥美清の伝言」(NHK「渥美清の伝言」制作班) - 一日一冊一感動!小野塚テルの『感動の仕入れ!』日記
(篠原靖治)
 48作の打ち上げから帰る時に、「渥美さん、お疲れ様でした。じゃ、また49作をやるときはお願いしますね」と言ったら、こうやって手を振って「できないぞ」って言うんですよ。青木さんという方に電話した時にも「もう、オレだめだよ。仕事できないよ」って。「オレはね、全然知らないところへ行って、枯れ葉のようにふわっといなくなっちゃうのがいちばんいんだ」って行っていました。尾崎放哉さんですか。あの方をとても思っていました。ああいう詩人の役をやりたい、黙って静かに亡くなっていった、自分もそうしたいと言って、本当にそのように逝ってしまいました。

【参考:尾崎放哉】

尾崎放哉 - Wikipedia
東京帝国大学法学部を卒業後、東洋生命保険(現・朝日生命保険)に就職し、大阪支店次長を務めるなど出世コースを進んだエリートでありながら、それまでの生活を捨て、無所有を信条とする一燈園に住まい、俳句三昧の生活に入る。その後、寺男で糊口しのぎながら、最後は小豆島の庵寺で極貧のなか、ただひたすら自然と一体となる安住の日を待ちながら俳句を作る人生を送った。癖のある性格から周囲とのトラブルも多く、その気ままな暮らしぶりから「今一休」と称された。その自由で力強い句は高い評価を得ており、代表的な句に「咳をしても一人」などがある。
・酒を飲むとよく暴れ、周囲を困らせたという。
・放哉の伝記的小説『海も暮れきる』を書いた吉村昭によると、性格に甘えたところがあり、酒がやめられず、勤務態度も気ままなため、会社を退職に追い込まれたという。妻に「一緒に死んでくれ」と頼んだこともあり、呆れた妻は放哉のもとを去った。放哉は寺男などを転々とし、小さな庵と海のある場所に住みたいという理由から、晩年の八か月を小豆島の西光寺奥の院寺男として暮らしたが、島での評判は極めて悪かった。吉村が1976年に取材のため島を訪ねたとき、地元の人たちから「なぜあんな人間を小説にするのか」と言われたほどで、「金の無心はする、酒癖は悪い、東大出を鼻にかける、といった迷惑な人物で、もし今彼が生きていたら、自分なら絶対に付き合わない」と、吉村自身が語っている。それでも、島の素封家で俳人の井上一二(いのうえ・いちじ)と寺の住職らが支援し、近所の主婦が下の世話までして臨終まで看取った。吉村の小説『海も暮れきる』は、海が好きだった放哉にちなんで、放哉の句「障子開けておく、海も暮れきる」から取ったもの。

海も暮れきる - 佐々陽太朗の日記
 困ったことに、読んでいて尾崎放哉という俳人を全く好きになれない。むしろ読み進むにつれてどんどん嫌いになっていくのである。伝記的小説を読んでこのような体験は初めてだ。東大出を鼻にかける。金の無心など周囲に甘え、拒絶されると逆恨みする。酒癖が悪い。(ボーガス注:天才的俳人として後世、評価されなければ)およそ伝記的小説の主人公たり得ない人物なのだ。本書の題名の元となった「障子開けておく、海も暮れきる」という句はちょっといいかなと自由律俳句に興味を覚えたものの、作中紹介された句のほとんどに「どこがいいの?」とツッコミを入れていた。つまり私には自由律俳句を解するセンスも人を恕すだけの雅量も無いのだ。肺病に冒され死期の近づいた放哉を世話したシゲや西光寺の住職・宥玄に比べて、私の何と未熟なことか。

とあるブロガーの備忘録(仮): 吉村昭「海も暮れきる」(1980)
 この本を読み始めてすぐに後悔した。あまりに悲惨すぎてもはやホラーだと思った。読んでいて他人事だと思えず苦しすぎた。
 端的に説明すると、身寄りもお金もない独居中年男闘病孤独死日記。こんなに読んでいてつらい本は初めて。
 俳人なのだから、俳句で生活していたのかと思っていた。間違っていた。俳句で食べてはいられない。
 一高から東京帝国大学法学部を経て生命保険会社で要職を勤めるエリートだったのに、あまりの酒癖の悪さから人生を転落。満州へ渡りそこでも酒で問題を起こす。酔うとやたらと狂暴になって他人を見下し攻撃し顰蹙を買う。
 会社をクビ。夫人と別れ京都、須磨、浜田を寺男として流浪。托鉢などして生きながらえる。やがて寺での勢力争いに嫌気がさす。やっぱり酒で問題を起こして追い出される。
 大学時代の先輩で「層雲」を発行していた俳人荻原井泉水の紹介で小豆島へ渡る。井上一二という醤油蔵を営む俳人を頼るのだが、この人は大して親しくもない他人。
 あとは寺の庵に住んで巡礼者の賽銭を糧に、足りないぶんは食べ物を分けてもらう極貧生活。日々俳句を作って暮らす。
 この人は生活をする能力がなかった。働く気力も体力もなかった。ひたすら金の無心をする手紙を書く。それも大して親しくもない人々へ甘える。プライドが高いのに卑屈で心が不安定。相手の表情から蔑みや困惑を敏感に読み取る。井上も住職も不親切だと心で罵りいらだつ。で、金もないのにやっぱり酒に逃げて問題を起こす。
 自業自得、自己責任という人もいるかもしれないがこの人は肺病を患っていた。寒さに震えるも炭も買えない。はげしく咳をして熱を出して寝込むのに薬も買えない。
 それでも自分の俳句を評価してくれる少ない人がたまに多少のお金を与えてくれたりする。ガリガリに痩せ廃人同然になっていく。貧乏が寿命を縮めた。
 肺病は悪化すればするほど頭が冴えるらしい。絶望の中で傑作を残した。
◆なにがたのしみで生きてゐるのかと問われて居る 
 とにかく暗い気分になる1冊なので、よほど人生が充実して豊かな人以外は読んではいけない。自分もこんな最期を迎えるかもしれない…って気分になる。

吉村昭「海も暮れきる」
◆「こんなよい月を一人で見て寝る」
◆「咳をしても一人」
 東京帝大を卒業し、大手保険会社のエリートコースを歩みながら、酒におぼれ、仕事を捨て、家族に捨てられ、小豆島の小さな庵で最期を迎えた尾崎放哉。
 種田山頭火と並ぶ自由律俳句の大家でありながら、人間的には極めて厄介な人物であったことが知られている。吉村昭によるこの評伝小説では、その不安定な性格が細かく描写されている。タイトルは「障子あけて置く海も暮れきる」から。
 荻原井泉水俳人仲間に手当たり次第に金を無心し、酒を飲んでは人に迷惑をかけ、反省したかと思えば逆恨みし、また酒を手にして孤立していく。
 放哉の人物像の描写とともに、強く印象に残ったのが結核の病勢の描写。病の進行とともに放哉の句は透明感を帯びてくる。
◆「足のうら洗えば白くなる」
◆「肉がやせてくる太い骨である」
 肺に次いで腸が冒され、喉が冒され、食べることも喋ることもままならなくなっていく。酒を飲んで、海に入って死のうと考えていた放哉は、酒を飲むことも、海まで歩くこともできない絶望の中でただ身を横たえる。寂しい小豆島の冬が過ぎ、待ちに待った春が訪れた時、放哉はもう起き上がることができなくなっていた。

『海も暮れきる』吉村昭 : 鵠沼日乗
 「咳をしてもひとり」「いれものがない 両手でうける」で有名な漂白の俳人、尾崎放哉の最後の8ヶ月を描いた吉村昭の小説。
 一高、東大という栄達のキャリアを歩みながら、酒で身を滅ぼした尾崎が妻とも別れ、肺結核による死への恐れと向き合い、俳句仲間の温情にすがりながら小豆島で過ごした凄絶な生活を描いた渾身の作品です。同じ肺結核に犯され、死を見つめた吉村昭ならではの視点が際立っている。
 ひと言で言えば、恵まれたエリートとしての生涯を歩むことも出来たであろうに、酒にのめり込むと人格が変わる破滅型の典型のような生涯です。
 読んでいて、人間は死の直前にここまで墜ちることが出来るのかという感慨に襲われました。創作への意欲だけに突き動かされ、素直に感じたままの諸々を俳句として結実させることが出来るのかと驚きもします。同時に、無私というか、かように狂的な境地に到達しないと「咳をしてもひとり」という「言霊」のような言葉を吐けないのかとも思います。
 ここでも冷徹なまでに尾崎の生を見つめる吉村昭の視点はぶれないし、感傷に浸ることもありません。まぁ、そこが吉村昭の良さでもあるのですが…。

*1:1928~1996年。1969年『男はつらいよ』でキネマ旬報賞主演男優賞、毎日映画コンクール男優主演賞を、1982年に『男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋』、『男はつらいよ 花も嵐も寅次郎』でブルーリボン賞主演男優賞を受賞。1988年に紫綬褒章を、1996年(没後)に国民栄誉賞を受章(渥美清 - Wikipedia参照)

*2:1966年に『運が良けりゃ』(ハナ肇主演)でブルーリボン賞監督賞を、1977年に『幸福の黄色いハンカチ』(高倉健主演)でキネマ旬報賞監督賞、日本アカデミー賞最優秀監督賞、ブルーリボン賞監督賞、毎日映画コンクール監督賞を、1993年に『男はつらいよ 寅次郎の縁談』、『学校』で、2002年に『たそがれ清兵衛』で日本アカデミー賞最優秀監督賞を受賞するなど受賞歴多数(山田洋次 - Wikipedia参照)。

*3:1929~1996年。1957年に『幕末太陽傳』でキネマ旬報賞主演男優賞、ブルーリボン賞主演男優賞を受賞(フランキー堺 - Wikipedia参照)

*4:1970年に『家族』『男はつらいよ 望郷篇』でキネマ旬報賞主演女優賞、毎日映画コンクール女優主演賞を、1975年に『男はつらいよ 寅次郎相合い傘』でブルーリボン賞助演女優賞を、1980年に『遙かなる山の呼び声』で日本アカデミー賞最優秀主演女優賞、報知映画賞主演女優賞を、1981年に『駅 STATION』でキネマ旬報賞主演女優賞を受賞(倍賞千恵子 - Wikipedia参照)