「珍右翼が巣くう会」に突っ込む(2021年1/25分:荒木和博の巻)

外務省他役所のシステムについて(1月25日のショートメッセージ): 荒木和博BLOG

 令和3年1月25日月曜日のショートメッセージ(Vol.298)。「お役所は間違いを犯さない。だからお役所のやることに間違いはない」ということを前提としたシステムの間違いについてお話ししました。

 7分程度の動画です。一般論としてはもちろん「役所や公務員に限らず」、民間企業なども含めて個人や団体が「自らの過ち(モリカケのような故意の犯罪であれ、医療過誤のような過失であれ)を認めず居直ること」はよくあることです。
 しかし今回の荒木の場合「特定失踪者・山本美保さんは北朝鮮にいる。山梨県警の美保さん遺体発見という発表は捏造だ。DNA鑑定は捏造だ」「自衛隊の特殊部隊で拉致被害者を救出できるはずだ。それを認めない防衛庁は間違ってる」などという「役所を誹謗するデマ」なのだから話になりません。
 その結果、「拉致問題で協力を得るべき存在の一つ」であるはずの警察と防衛庁を「デマもいい加減にしろ」と憤慨させて「救う会や家族会の敵にしている」のだから話になりません。
 むしろ荒木ら救う会の方が「救う会は間違いを犯さない。だから救う会のやることに間違いはない。間違ってるのは山本美保さんの遺体発見を発表した山梨県警だ」などとして「山本美保さんDNA鑑定捏造疑惑」などのデマ(他にもデマはありますが)を飛ばしてるわけで話になりません。しかもそうした荒木らのデマを「デマじゃ無いのか」と批判した蓮池透氏を家族会から除名して、荒木らをかばい、「嘘に嘘を重ねる」のが救う会と家族会だからどうしようもない。そんなことで拉致が解決するわけもないでしょう。そもそも荒木ら救う会には拉致を解決する気は無いわけですが。


日本における外事事件の歴史(1)【調査会NEWS3388】(R03.1.25 ): 荒木和博BLOG

 昭和25(1950)年6月25日、北朝鮮軍が38度線を越えて南進すると、北朝鮮は軍事スパイ網の活動を活発化させ、(中略)同年9月9日、工作組織の主犯格・許吉松が警視庁によって摘発され、翌昭和26(1951)年9月までに組織員の40名(うち2名の日本人を含む)が逮捕されることとなりました。これが治安関係者の間でいわれる「第1次朝鮮スパイ事件」の概要です。

 そんなことが拉致問題の解決と何の関係があるのか。何一つ関係が無い。荒木の馬鹿さには心底呆れます。


予備役ブルーリボンの会「レブラ君とあやしい仲間たち」17回目は宇佐美由美子さん。: 荒木和博BLOG

 宇佐美さんには調査会も大変お世話になっています。ぜひご覧下さい。

 7分30秒程度の動画です。「大変お世話になっています」と書きながら
1)宇佐美さんとは何者なのか
2)どう世話になっているのか
について「動画はともかく」説明文に説明がない辺り「本当に世話になってると思ってるのか?」「拉致問題に興味を失ってるんじゃ無いか?」ですね。

 なお、宇佐美氏ですが

宇佐美由美子 - Wikipedia
◆1991(平成3)年
 NHKのど自慢チャンピオン大会出場を期にスカウトされ、上京。作曲家・野村旬平に弟子入り。
◆1993(平成5)年
 船橋ケーブルTV「伊藤薫の演歌塾」に生徒役で出演。
◆1995(平成7)年
 テレビ朝日系「驚きももの木20世紀」の「昭和歌謡伝説:演歌の竜・馬渕玄三*1」(5/5放送)の回に島倉千代子役で出演(驚きももの木20世紀の放送一覧 - Wikipedia参照)。
◆1998(平成10)年
 静岡ケーブルTVにレポーター出演。
◆2000(平成12)年
 シャンソン歌手・石井昌子に弟子入り。同時期よりご当地ソングなどのレコーディング活動を開始。
◆2004(平成16)年
 福祉施設などの慰問活動を定期的に行う。
◆2016(平成28)年
 北朝鮮向けラジオ「しおかぜ」に『無事を祈りて』が起用され、同年より拉致被害者奪還イベントコンサートに出演。
◆2018(平成30)年
 北朝鮮拉致被害者である曽我ひとみに捧ぐ『帰りたい』のCDリリース。また、同年11月より北海道札幌市にあるFMコミュニティーラジオ「Radio TXT FMドラマシティ(現:RADIOワンダーストレージ FMドラマシティ)」で放送中の『たつ兄、ゆみ姐の俺がやらなきゃ誰がやる!』で、特定失踪者問題調査会の副代表兼事務局長である村尾建兒(むらお・たつる)と共にパーソナリティを務める。
 公式サイト:宇佐美由美子オフィシャルサイト

だそうです。

*1:1923~1997年。音楽ディレクター。五木寛之の小説『艶歌 海峡物語』、『涙の河をふり返れ』、『海峡物語』、『旅の終りに』の主人公「艶歌の竜」こと「高円寺竜三」のモデルとして知られる。1948年(昭和23年)、日本コロムビアに入社。営業・販売・宣伝畑を10年歩いたあと、1958年(昭和33年)、ディレクターとなる。当時、新米ディレクターながら、島倉千代子の『からたち日記』(1958年)を手がけ、大ヒットさせる。1963年(昭和38年)、コロムビアを退社した同社常務・伊藤正憲とともに、日本クラウンの設立に参加。北島三郎や、水前寺清子などを手がける。またかぐや姫のヒット曲『神田川』をシングル盤として発売する際には自らが制作会議で「歴史に残る名曲になるだろう。シングル盤として出さなかったら会社の恥になる」と発言してシングル盤発売を後押し、同曲が120万枚を超えるヒット曲となる道を開いた(馬渕玄三 - Wikipedia参照)。