そういえば「高倉健・エイズ死亡説」つう無責任な噂があったことを思い出す(追記あり)

【追記】
 やはり高倉健の寵愛を受けていたのだろう(高倉健主演のテレビドラマ『刑事 蛇に横切られる』にわき役出演していた高倉作品常連の俳優について) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)の「追記」でこの拙記事をご紹介いただきました。いつもありがとうございます。
【追記終わり】
やはり高倉健の寵愛を受けていたのだろう(高倉健主演のテレビドラマ『刑事 蛇に横切られる』にわき役出演していた高倉作品常連の俳優について) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)

 高倉健さんというとどうしてもゲイだという話題になるし、このあたりやっぱりかこっていたのかなあとかそれに準ずる関係だったのかとかいろいろ考えます。昨今昔ほどゲイだとかLGBTQとかでうるさいことは言われませんから別にいいですが。なお健さん自身は、自分はゲイではないと否定していました。

つう文をを読んでいて

高倉健エイズ死亡説」つう無責任な噂があったこと

を思い出しました(後で紹介する記事によれば1987年頃)。

志村けん - Wikipedia
 1996年9月頃、突如として「志村けん死亡説」がパソコン通信などを通じて全国的に流布する。
 噂は尾ひれがついて拡大し、「たばこの吸い過ぎが原因の肺がんで、栃木県立がんセンターで死んだ」「今放送している番組は生前に撮り溜めしたもの」などと具体的な内容の噂に発展。栃木県立がんセンターが「志村(康徳)さんは入院していない」という異例の声明を出すに至り、9月28日には本人がインターホン越しに記者会見し、健在をアピールする事態になった。
 この件について、当時「志村の付き人兼ドライバー」だったお笑い芸人「乾き亭げそ太郎*1」は、志村のゴールデンタイムの全国ネット番組が終了し、関東ローカルの深夜帯に移り露出が減ったことやスケジュールに余裕が出来たことで宇都宮市のゴルフ場へ行くことが増え、その近所に栃木県立がんセンターがあったことで目撃者が誤解したとしている。

という「志村けん死亡説」などと全く同じで「メディアへの露出が減った」だけでの、本当に「無責任な噂」ですが。
 ちなみに

ロック・ハドソン - Wikipedia
 1985年にAIDSを発症後、同性愛者(ゲイ)であることを公にした。
 同年、AIDSにより他界。タフガイのイメージで大衆に受け入れられていたので、ゲイの告白は世間に大きな衝撃を与えたが、彼がゲイであることは、共演者をはじめ映画界ではもともと公然の秘密だったため、そのカミングアウトは演劇界で好意的に受け入れられた。
 当時の著名人としては世界で初めてAIDS患者であることを公言した人物である。

フレディ・マーキュリー - Wikipedia
 1986年10月、イギリスのマスコミはフレディがロンドンの診療所でHIV血液検査を受けたと報じた。本人は対外的には噂を否定していたものの、英国のマスメディアは、フレディのやせた外観、クイーンのツアーへの不参加などから、エイズに感染しているのではないかと盛んに報じた。

ということで

【1】ゲイかどうかは真偽不明の高倉とは違い「本当にゲイ」のロック・ハドソンが「エイズ闘病」をカミングアウトし、メディアに騒がれた
【2】ゲイかどうかは真偽不明の高倉とは違い「本当にゲイ」のフレディ・マーキュリーが「エイズ」ではないかとメディアに騒がれた(生前は否定されたが、死後エイズだったことを公表)

のが「高倉健エイズ死亡説」とほぼ同時期です。明らかに「ハドソン&フレディ→高倉」の連想がありますね。
 で「高倉健エイズ死亡説」でググってヒットした記事を紹介しておきます。なお、下記の記事はいずれも「同性愛説」に否定的ですが、高倉健が「生前否定し続けた」以上、今更「同性愛説が事実」でも肯定もできないでしょうから「俺のような部外者にとっては真偽不明」ですね。勿論「両性愛」の可能性があるので「江利チエミとの結婚(後に離婚)」や「有名女優との熱愛の噂」などは「同性愛説」の否定にはなりません。

序章 京都の隠れ家(1) - 高倉健 | SlowNews (スローニュース)森功*2高倉健:隠し続けた七つの顔と「謎の養女」』(2020年、講談社文庫))
 映画の仕事を終えると、一人ふらりと海外に出かける。高倉健は、一九八五(昭和六〇)年公開の「夜叉」(東宝)のあとも、しばらく所在不明だった。
 エイズ騒動は、そんなふだんの雲隠れが導火線となった。もとをただせば、当人がHIV研究で知られるパリのパスツール研究所を訪れたときの目撃談が発端だ。そこから怪しげな情報が流れ始めた。一九八七年四月一五日夕刻のことだ。
 「高倉健がパリで死んだ」
 今のようにインターネットが普及していない時代なのに、そのパリの目撃情報は瞬く間に世界中に拡散した。エイズによる高倉健死亡説である。どこでどう噂を聞きつけたか、映画会社だけでなく、スポーツ各紙に大勢のファンから問い合わせ電話が殺到した。
 東映時代の高倉は、スケジュールが空くと、プロデューサーやスタッフにみずからの連絡先を伝えてきたが、独立したあとは誰にも行く先を告げず単独行動をとることが多かった。とりわけいったん海外に出かけると、事務所の秘書でさえ居所を知らないので、連絡をとるのは至難だったといえる。
 前々作の「南極物語」でコンビを組んでいた映画監督の蔵原惟繕なら、安否情報がわかるのではないか。蔵原がしばらくして高倉本人に電話連絡をとると、つながったという話が広まった。
 「ラスベガスでおこなわれたWBCミドル級タイトルマッチを観戦したまま米国に滞在していたらしい」
 そんな結論に落ち着いた。そうしてエイズ騒動は空騒ぎに終わったが、あとからそれを知った本人はさすがに怒った。
 ひと月後の五月二一日、パリ・ダカールレースを描いた映画「砂の冒険者」(公開時に「海へ─See you─」と改題)(東宝)の制作発表で、高倉健は、珍しく三〇〇人の芸能記者相手に気色ばんだ。
 「女の噂とかであれば笑って済まされるが、故郷には肉親もいるんです」
 このエイズ死亡騒動には、いまだ語り尽くされていない秘話がある。
 「ヤッさん、大変なのよ。ロック・ハドソンが死んだニューヨークの病院で、健さんが亡くなったらしい。ヤッさんは迎えに行かないの?」
 騒ぎの渦中、「ヤッさん」なる人物にそう電話をかけてきたのが吉永小百合だった。繰り返すまでもなく、「ジャイアンツ」「武器よさらば」など数々の名作に出演したハリウッドスターのロック・ハドソンは同性愛者で、二年前の一九八五年、実際にエイズで死亡している。それを聞きつけた吉永が慌てて電話した相手の「ヤッさん」とは、京都市内で西村石油を経営する西村泰治(にしむら・やすじ)である。
 京都の素封家の息子である西村は映画俳優のタニマチだった父親の影響で、一〇代の頃から太秦にある東映京都撮影所に出入りし、二〇歳で制作進行役を務める。能や歌舞伎など伝統芸能を育んできた京都は、映画に対して理解があり、タニマチやファンも多いが、西村家は並外れた贔屓筋だ。西村石油というガソリンスタンドを経営しながら、映画俳優たちが撮影に来ると付きっ切りで世話をしてきた。
 なかでも付き人を自任する高倉健との付き合いは別格だった。その高倉と懇意の吉永小百合とも、一九七一年のテレビ時代劇「女人平家」(ABC放送)の撮影時から親しくしてきたという。
「『もしもしヤッさん、聞いてるの? 健さんが亡くなったのよ』と、吉永さんが悲しい声を出すのや。けど、俺は困ったがな。そばに旦那がいるんやさかい」
 西村が当時を思い出し、笑い飛ばした。
 「旦那は電話の声を聞きながら、ニヤニヤしてる。あんまり彼女に悪いさかい、『吉永さん、誰にもいうたらあかんで。旦那は今うちに隠れてはるんや』と教えてやったんです。わしの家にいるいうことが世間に知れるのはまずいけど、ちゃんと生きとる、とさすがに吉永さんだけには伝えなアカン思うたからな。で、吉永さんはそれはびっくりして、そのあとは『そうだったの、安心したぁ』というてました。あのときも旦那はひと月ほど、僕の家におりましたで」
「そうしたら、次は田中邦衛さんから『ヤッさん、健さん(米国に)迎えに行かへんのか』と電話がかかってきた。『なにいうてんねんな、そんなの信用したらアカンで』というてやったりしてね」
 もとよりエイズ騒動は、完全なデマだ。実は、高倉健HIV研究で有名なパリのパスツール研究所を訪ねたのは、次回作「砂の冒険者」の準備で予防接種するためだった。
 もとより高倉健自身も、映画発表の記者会見で噂を一蹴した。
「病院に行ったとか、同性愛だとか、僕にとっては馬鹿げた話です」

高倉健さん激怒のエイズ死亡説 ゲイバーママが「私のせい」|NEWSポストセブン週刊ポスト2019.11.13号)
 俳優・高倉健(享年83)が悪性リンパ腫で死去してから5年。孤高の印象が強かった高倉の“ベール”に包まれた私生活を明かす『高倉健、その愛。』(文藝春秋刊)が発刊された。著者は高倉の死後、極秘で養子縁組をしていたことが発覚した養女・小田貴月(たか)氏。共に生活していた彼女しか知らない高倉の素顔が紹介されている。
 同書では、食事や筋トレなど高倉との穏やかな日常が綴られるが、珍しく高倉が激怒したエピソードとして登場するのが、1987年の「エイズ死亡報道」である。
 映画の撮影が終わるたびに次の撮影が開始するまで姿を消すことが常だった高倉だが、近しい関係者が連絡が取れなくなったことや、エイズ治療で有名な施設での目撃情報が飛び交ったことなどが重なり、「高倉健エイズで死亡した」と報道されて大騒動になった。
 同書では、高倉が当時を思い出して、〈僕はマスコミに一度殺された〉〈誰も何も確かめずに一方的に書いて(中略)完全なる悪意〉と、怒りに震えていたことが明かされている。
 同時に、〈同性愛者を差別することはなく、ゲイの方々ともお付き合いがありました〉として、一人のゲイバーママとの親交も綴られる。それが、「吉野ママ」こと吉野寿雄氏(88)だ。

*1:著書『我が師・志村けん:僕が「笑いの王様」から学んだこと』(2021年、集英社インターナショナル)(乾き亭げそ太郎 - Wikipedia参照)

*2:著書『血税空港』(2009年、幻冬舎新書)、『許永中』、『同和と銀行:三菱東京UFJ“汚れ役”の黒い回顧録』(以上、2010年、講談社+α文庫)、『平成経済事件の怪物たち』(2013年、文春新書)、『泥のカネ:裏金王・水谷功と権力者の饗宴』(2013年、文春文庫)、『腐った翼:JAL消滅への60年』(2016年、講談社+α文庫)、『日本の暗黒事件』(2017年、新潮新書)、『ゴルフトーナメントスポンサー興亡史』(2019年、幻冬舎新書)、『悪だくみ:「加計学園」の悲願を叶えた総理の欺瞞』(2019年、文春文庫)、『菅義偉の正体』(2021年、小学館新書)など