今日の中国ニュース(2022年1月24日分)

ウイグル弾圧の深層をえぐる川嶋久人写真展 - 高世仁の「諸悪莫作」日記

 川嶋久人さんの写真展「失われたウイグル」を観てきた。
 以下は『アサヒカメラ』の記事から引用する。
中国政府がタブー視する「ウイグル問題」を追った写真家・川嶋久人がとらえた“弾圧の現実”(1/3)〈dot.〉 | AERA dot. (アエラドット)(アサヒカメラ・米倉昭仁)
写真家・川嶋久人さんの作品展「失われたウイグル」が1月21日から東京・六本木の富士フイルムフォトサロンで開催される(大阪は2月4日から)。
【MEMO】川嶋久人写真展「失われたウイグル
富士フイルムフォトサロン 東京 1月21日~1月27日
富士フイルムフォトサロン 大阪 2月4日~2月10日
 川嶋さんに聞いた。
 川嶋さんは昨年末、中国・新疆(しんきょう)ウイグル自治区の民族問題に追った作品で名取洋之助写真賞を受賞した。今回はその受賞作品展。
 新疆ウイグル自治区を訪れるようになったきっかけを聞くと、2009年にこの地で起きたウイグル族の学生らと治安部隊との衝突という。
 「それをニュースで見て、すごく興味を持ったんです。大学も夏休み中で、暇だったから、現地に行ってみた」と、最初は軽い気持ちだったことを打ち明ける。
 さらに、「イスラム教にも関心があった」。中国で多数派の漢民族とは異なり、ウイグル族の多くはイスラム教を信仰している。
 12年、早稲田大学を卒業すると同時に、新疆ウイグル自治区ウルムチにある新疆大学に留学。さらに14年からは日本写真芸術専門学校で本格的に写真を学んだ。
 「専門学校に入ったころから撮影のテーマがはっきりと見えてきました」
 しかし、意外なことに、それは「政治的な問題ではなかった」と言う。
 「伝統文化に生きるウイグル族の日々の暮らしを撮ること。客人をすごく大切にもてなすシルクロードの文化にめちゃくちゃ惹かれちゃって」と、川嶋さんは顔をほころばせる。
 川嶋さんはインタビュー中、タクラマカン砂漠の周囲に点在するオアシスの街で人情味あふれるウイグル族の人々にもてなされた、よき時代の記憶を繰り返し語った。
「最初、道端を歩いていたら、おじさんから、『どこから来たんだ?』と、声をかけられたんです。『日本から来ました』と、答えると、『じゃあ、家に来なさい』と、招かれた」
「家の中に入ると、じゅうたんが敷かれて、すごくきれいなんです。そこにぼくみたいな見ず知らずの人間を招いて、ナンやチャイ、果物でもてなしてくれた。言葉には少し不自由を感じたんですけれど、家族や仕事の話をして、すごく楽しかった」
 そんな素朴な人々の魅力に引かれた川嶋さんは09年以降、ほぼ毎年のように同自治区を訪れ、住民の暮らしを丹念に撮影してきた。それだけに、18年に目にしたあまりの変化にがくぜんとし、憤りを感じたという。
 「もう、まったく状況が変わっていたんです。どこに行っても、警察官、監視カメラ、検問所の数が劇的に増えていた。人々の顔からは笑顔がなくなっていた。その背景にあるものは何かと言えば、当局の監視ですよ。イスラム教を信仰する彼らをテロリスト予備軍と見なして、何もできないようにしていた。もう、この政治的現状を撮るしかないな、と思いました」
 川嶋さんは状況が大きく変化した理由について、「16年8月に新疆ウイグル自治区のトップが、陳全国*1という人に変わったんです」と、説明する。
 「彼の前任地はチベット自治区で、チベット民族の弾圧で辣腕(らつわん)をふるった人なんです」
 17年4月、新疆ウイグル自治区で「脱過激化条例」が施行されると、ひげをのばしたり、顔全体を覆うブルカを着用したりすることが禁じられた。
 「以前はイスラム教のお祈りの時間になると、道端に車を止めて、礼拝している人を見かけたんですけれど、もう、決められた場所でしか礼拝はできません。スカーフを頭の部分に巻くのは禁止されてはいないんですが、みんな当局に目をつけられるのを恐れて、ふつうのスカーフでさえ身につけていない」
「中国政府は、『信仰の自由はある』と言っているんですが、実際には、1日5回礼拝するような信仰心が強くて、影響力がある人はどんどん強制収容所に入れられている。みんな、それを知っているから、お祈りに行くのはやめよう、スカーフを巻くのはやめようと、どんどん萎縮してしまっている」
 以前の街の様子と比較するように撮影した作品を見せてもらうと、その変わりように言葉を失った。
 かつて多くの人々でにぎわっていたモスクや市場は閑散としている。入り口には物々しいゲートが設けられ、警察官に身分証明書を提示しなければ中に入れない。モスクが破壊され、駐車場になってしまった場所もある。
 写真撮影を断られることが多くなり、自宅に招かれることともほとんどなくなったという。
 写真を撮っていると、警察に通報されることも増えた。
「警察署に連れて行かれて、『どこから来た?』『目的は何だ?』と、取り調べを受ける。だいたい2~3時間。長いときは6時間くらい。取り調べが終わると、車に乗せられて、その場所から強制退去させられる」
 川嶋さんが前回、同自治区を訪れたのは19年夏。
「これがコロナ前に訪れた最後になりました。3週間、滞在したんですが、もう何もできなかったです。常に誰かにつけられているのが気になって、写真を撮るどころではなかった。知り合いに会っても、すごくよそよそしくされました」
 当局の尾行には、相手に気づかれないように尾行するやり方と、それとは逆に、あからさまに尾行していることを相手に見せつけて威圧するやり方がある。川嶋さんの場合は後者だった。
 実はこのとき、川嶋さんには撮影以外に、もう1つ別の目的があった。
「在日のウイグル族の人に、『親と連絡がとれない』と言われ、『生存しているのか、故郷を見てきてほしい』と頼まれたんです」
 しかし、「無理でしたね。たどり着けなかった」と、声を落とす。

 特にコメントはせずに、紹介だけしておきます。
【参考:陳全国】

新疆ウイグル自治区を『収容所群島』に変えた能吏 - 柴田哲雄|論座 - 朝日新聞社の言論サイト
 陳全国の経歴から見ていくことにしましょう。陳全国は1955年11月に河南省駐馬店市平與(へいよ)県で生を享けました。
 陳全国は習近平などと違って、有力な政治家・官僚を親にもつ「太子党」ではなく、叩き上げのエリートなのです。
 陳全国は、数少ないチャンスを確実にものにすることで、出世の足掛かりをつかんできました。
 陳全国に訪れた最初のチャンスは、大学入試の再開でした。陳全国は、大学入試が再開された最初の年に、非常に高い倍率を突破して、河南省の名門・鄭州大学経済学部の合格を見事に勝ち取っています。ちなみに陳全国と同い年の李克強もまた同時期に最難関の北京大学法学部に合格しています。
 陳全国は1978年に大学に入学しましたが、在学中に二度目のチャンスが訪れました。1980年に「選調生(選抜生)」制度が再開されたのです。この制度は、各省の党委員会が大学生のなかから優秀者を選抜して、地方の現場で経験を積ませた後に、将来の指導者の候補にするというものです。陳全国はこのチャンスもものにして、最初の「選調生」に選ばれています。習近平と違って、特別なコネクションをもたない陳全国にとって、鄭州大学に合格したことに続いて、「選調生」に選ばれたことは、党官僚としての出世の足掛かりをつかんだことを意味していました。
 陳全国の出世は順調そのものであり、その出世振りは雑誌に取り上げられているほどです。陳全国が1981年に大学を卒業した後、最初に赴任したのは故郷の平與県の辛店人民公社(現在は辛店郷政府)でした。その7年後の1988年に、陳全国は河南省遂平県のトップ(党委員会書記)に就任しましたが、文化大革命後の同省の県のトップたちのなかでは最年少でした。1998年に陳全国は、河南省漯河(らが)市のナンバー2(党委員会副書記・市長)から一躍同省の副省長に抜擢され、以後、2000年に同省の人事部門のトップ(組織部長)、03年に同省党委員会副書記などを歴任しました。その後、2009年に河北省のナンバー2(党委員会副書記・省長)に昇格し、11年にはついにチベット自治区のトップ(党委員会書記)に君臨するようになります。
 なお2002年から04年にかけて、李克強河南省のトップ(党委員会書記)を務めており、その間、陳全国は部下として李に仕えていたことになります。こうした経緯から、陳全国は李克強の腹心と見なされ、胡錦涛派に分類されています(『日本経済新聞』)。ただし陳全国には、胡錦涛李克強らの権力基盤である共産主義青年団系統での職務経験はありません。
 また陳全国は勤務のかたわら、武漢の大学から1997年に経済学の修士学位を、2004年には管理学の博士学位を、それぞれ取得しています。博士論文の題目は「中国中部地区における労力資本の蓄積と経済発展との間の相関性についての研究」というものです。陳全国は、河南省の指導者として多忙な日々を送りながらも、公務の合間を縫って、同省の経済状況に関する知見を学術的に集大成していたのです。日本の財務省のキャリア組のなかにも、激務の合間を縫って、博士号を取得するような強者がいますが、陳全国はそうした強者同様に、抜群の能吏だと言ってよいでしょう。
 ただし、海外のネット上には、陳全国の博士論文が剽窃だらけだという噂が出回っています(ちなみに習近平も地方政府在任中に、農村の市場化に関する研究によって清華大学から博士号を取得しましたが、やはり代筆疑惑が持ち上がっています)。
 しかし、たとえ剽窃の噂が確かだとしても、陳全国が抜群の能吏であることはまちがいありません。陳全国が2011年にチベット自治区のトップに抜擢されたのは、党中央によって、長年にわたる地方での職務経験に加えて、河南・河北両省での治績が高く評価されたからです。
 もっとも、この場合の治績とは、経済発展よりも、危機管理に比重が置かれていたと言ってよいでしょう。それを端的に示しているのが、日本でも話題になった「俺の親父は李剛だ」事件です。
 2010年10月、河北大学の構内で2人の女子大生が自動車に轢かれた時に(しかも1人は死亡しました)、加害者である運転手の男性が「文句があるなら訴えてみろ、俺の親父は李剛(河北省保定市の公安分局の副局長)だ」と放言して立ち去ったところ、これがインターネットを通して大々的に広まりました。
 「俺の親父は李剛だ」事件の騒ぎがここまで大きくなったのは、「太子党」の特権階級化を象徴する事件だったからだと言えるでしょう。それだけに、同事件の解決を一歩でも誤れば、世論の批判の矛先は党中央に向かいかねませんでした。
 陳全国は当時、河北省のナンバー2でしたが、時宜を得た声明を出すことで、沸騰する世論の沈静化に成功しています。陳全国は「法律に従って厳粛に処理する」と述べた上で、すでに同事件を担当する専門チームを編成して、河北大学で処理に当たらせているなどと伝えたのです(もっとも後日被告に下された判決は予想よりも軽いものでしたが)。
 「俺の親父は李剛だ」事件のエピソードからも明らかなように、陳全国は危機管理能力を十二分にそなえていたと言ってよいでしょう。党中央は一貫して政治的安定を最重要視してきましたが、その実現の鍵の一つは、言うまでもなく指導者の危機管理能力です。そこで陳全国に、複雑な民族問題を抱えて政治的に不安定化していたチベット自治区のトップとして、白羽の矢が立ったのでしょう。
 陳全国がチベット自治区で政治的安定を実現するために行ってきた危機管理の施策を見ることにしましょう。それはムチを主としてアメを従とする方針に基づいていたと言えます。ムチについては、以下のようなことを行ってきました。第一に、派出所(便民警務站)の大幅な増設です。第二に、警察関係者の大幅な増員です。
(以下、ほとんど有料記事部分で読めないこともあって略)

なお、
1)「習近平の父(副首相、全人代副委員長など歴任)」は、中央幹部とはいえ、毛沢東主席、劉少奇国家主席周恩来首相ほどのビッグネームではない
2)習近平氏は福州市党委員会書記、福建省長、浙江省党委員会書記、上海市党委員会書記を歴任
ということで「親の七光り」は立場を有利にするとはいえ、それだけで出世できるわけでもない。

*1:河北省長、チベット自治区党委員会書記、新疆ウイグル自治区党委員会書記など歴任(陳全国 - Wikipedia参照)