珍右翼・高世仁に突っ込む(2022年12/17日分)

アフガンで亡くなった南条直子さんのこと - 高世仁のジャーナルな日々
 南條氏については以下を紹介しておきます。

南條直子 - Wikipedia
 1955~1985年。アフガン取材中にソ連軍が仕掛けた地雷を踏んで死亡(享年33歳)。著書『戦士たちの貌:アフガニスタン断章』(1988年、径書房)、『アフガニスタンムジャヒディン』(1989年、IPC)、『山谷への回廊:写真家・南條直子の記憶1979ー1988』(2012年、アナキズム編集委員会
◆経歴
 社会の矛盾や不条理に関心を持っていた南條は写真学校卒業後は山谷の寄せ場、日雇い労働者たちを撮影テーマと決め、生活費をアルバイトで賄いながら、撮影に入る。この時期に知った労働運動活動家に山谷争議団リーダーの山岡強一*1がおり、南條は「私は世界でただ一人、文句なしに尊敬している人物がいる。それは山谷の山岡さんだ」と言い、山岡洋子のペンネームで雑誌に寄稿したこともあるほど山岡を尊敬していた。南條が山谷を撮影し始めた1980年代前半、山谷の労働運動は激しさを増し、山岡も1986年1月に暴力団によって殺害される。南條は表現者としての自分に自信を失い、山谷から離れたくなってしまった。そのことを自身で「こんな人間では、山谷の労働者は撮れない」「出口のない日本の生活から逃げ出したい」と表現している。1986年6月、南條は住まいを山谷から練馬に変え、アフガニスタンへ傾倒していく。

 私は「南条さんの墓標を立てた武道家」に電話して事情を聞いた。彼は私の古い知り合いだった。

 何故か武道家の名前を出さない高世ですが、

南條直子 - Wikipedia
 南條が死亡した1988年当時は日本とアフガニスタンには国交は無く、彼女の両親は遺骨を引き取ることもすぐには叶わなかった。没後2年の1990年、武術家田中光四郎*2らの努力によってようやく遺骨は荼毘に付され日本に帰ることができた。

ということで「田中光四郎」と言う人物のようです。


アフガニスタンの航空会社に女性CAがいた - 高世仁のジャーナルな日々

 女性の勤労に否定的なタリバン政権でもいわゆるスチュワーデスがいる

 スチュワーデス物語 - Wikipedia(1983~1984年にTBSで放送)の時代の日本が「女性差別的でなかったか」と言えばそんな事は全くないので、こうした物言いには「何だかなあ」感があります。

 通訳が「私のいとこに著名人がいる」という。ハトル・モハマドザイ准将。この国初の女性パラシュート兵にして女性で初めて将軍に抜擢された軍人だ。
 米国や西側メディアは、女性活躍の代表として彼女の存在をアピールしたという。
 このハトル准将、去年のタリバンの権力掌握でいったんは外国に逃げたが、馴染めず、今はカブール*3に戻って、ソ連時代に作られた古いアパートにひとり寂しく暮らしているという。
 いまもタリバンは彼女を処罰していない。やはり96年以降の第一次タリバン政権のころとは違っているようだ。

 勿論、「第一次タリバン政権のころとは違っている」と言う要素はあるでしょうが、それだけが理由ではないでしょう。
 古いアパートにひとり寂しく暮らしていると言う部分が重要でしょう。
 結局、彼女の「准将への登用」は「言葉を選ばず身も蓋もなく言えば」、「アメリカやアフガン前政権が男女平等を宣伝する」為に行った「安倍による稲田重用(自民党政調会長や第三次安倍内閣防衛相)」のような「分不相応な抜擢」だったのでしょう。
 だからタリバンが実権を握ると古いアパートにひとり寂しく暮らしているとなる。彼女には反タリバン運動を組織するだけの能力がない。
 だからタリバンにとって彼女は「人畜無害などうでもいい人物」なので処罰する必要性に欠ける。
 むしろ何の処罰もしない方が「大した能力もないのに米国や前政権が分不相応に持ち上げた人物」として「彼女が生き恥をさらすこと」になってタリバンに取っては好都合ではないか。処罰したらかえって殉教者になってしまう。
 一方で彼女の能力を評価してないからタリバンも彼女に政権への協力を依頼しない。

 これからは取材のまとめをなるべくいろいろなメディアで紹介していきたいと思います。

 どんなメディアで紹介するのか期待しないで見守ることにします。

*1:1940~1986年。1970年6月から山谷現場闘争委員会を立ち上げる。1980年に全国日雇労働組合協議会が結成されると、山谷支部となる山谷争議団のリーダーに名乗りを上げる。山谷を舞台に悪徳手配師暴力団・日本国粋会(現在は山口組傘下の国粋会)系金町一家(現在は国粋会傘下の落合金町連合))が行ってきた悪行を世に知らしめるため、佐藤満夫監督が制作を開始した映画『山谷(やま):やられたらやりかえせ』の撮影に協力する中、1984年12月22日、佐藤が暴力団によって殺害される。監督を買って出た山岡が、佐藤の遺志を継ぎ、映画は1985年11月に完成し、12月から上映を開始。しかし、山岡も1986年1月に暴力団によって殺害される。著書『山谷(やま) やられたらやりかえせ』(1996年、現代企画室)

*2:著書『照準のなかのソ連兵:日本人ゲリラ、アフガニスタンに死す』(1987年、ジャプラン出版)、『不二流体術』(1999年、壮神社)、『アフガンの侍:日本人ゲリラ、アフガニスタンに死す』(2001年、福昌堂:1987年著書の改題改訂版)

*3:アフガンの首都