珍右翼・高世仁に悪口する(2022年12/31日分)(副題:極右活動家・渡辺京二を褒める朝日新聞に呆れる、ほか)

年頭、中村哲医師の哲学にまなぶ - 高世仁のジャーナルな日々

 現地の人々の立場に立ち、現地の文化や価値観を尊重し、現地のために働くこと

 「言うは易く行うは難し」ですね。現地の人といったって日本人だって例えば「田中均氏と横田早紀江」では拉致問題についての考えが違うし、アフガンだって「タリバンと反タリバン」では考えが違うでしょう。
 多くの場合「国民の考えが一枚岩ではない」。
 「多数派に従えばいい」と言う話では必ずしもないでしょうし、多数派の意見が簡単に分からない場合もあるでしょう。「現地の人々の立場に立ち」とは総論としては正論でも、具体論、各論としては抽象的すぎて、ほとんど意味が無い主張でしょう。

 どうしてパキスタンの僻地の「らい病」の治療などに携わることにしたのか(しかも奥さんと小さい子どもまで連れて)と問われて、中村さんは「浪花節的ですが、大和魂がだまってられん、ということでしょうね」と微笑みながら答えている。

 「子ども食堂」などでわかるように日本にも「困ってる人間」は山ほどいるし、勿論「アフガン以外の外国」にも困ってる人は山ほどいるのでこういう中村発言は「何だかなあ」ですね。
 日本でも「他の外国」でもなく「アフガン」を選んだことについては彼なりの必然性があったでしょうに、それを何故語らないのか?

 スタッフを前にして「議論は不要、行動あるのみ!」と檄をとばすシーンは印象的だが、とにかくできるところから手を付けろというのが中村流なのだ。

 勿論「議論ばかりして動かない」のは論外ですが、一方で「議論して、ある程度方針を決めないと動けない」という面もあるでしょう。
 その辺りはバランスですね。

 自己実現とか自己責任とか「自分」のことしか考えなくなっている今の日本

 自己実現も自己責任も何ら問題は無い「当たり前の話」です。「自分」のことしか考えなくなっているという話ではない。問題は「(行政や社会が支援すべき弱者に対して)あいつらの自己責任だから俺は関係ない。国や社会が支援する必要は無い。努力が足りないからワーキングプアになるのだ。俺はちゃんと定職を持って生活している」「(女性が社会進出しづらい社会構造の問題を無視して)女性の社会進出(政治家や企業幹部など)が少ないのは日本女性の努力が足りないからだ。男女共同参画、女性活躍だの国や自治体が旗振りするのはおかしい」「自己実現のためには他者を踏みにじってもいい」等の変な考えになることです。

 祖父の玉井金五郎と祖母マンは石炭を船に積み込む沖中仕(港湾労働者)から身を起こして、多くの沖中仕を束ねる玉井組を率いていた。今でいう労働組合の先駆のようなもの

 いかに玉井が「主観的には港湾労働者のために動いていた」としても、港湾労働者の選挙で選ばれたわけでは無いのだから「労組とは違う」でしょう。

 「弱い者いじめはいかんと、徹底的に周囲の環境から叩き込まれた。たとえ少数であっても正しいことは正しいことなんだと言って、自分より強い者にはむかうということは美徳だというのが一つの教えだったんですよ。それが昔の日本人にしみついていたことですね」。(ビデオより)
 中村さんが自らを「古い日本人」と称するゆえんである。

 仮に「祖父・玉井」がそのような人物だったとしても、昔の日本人にしみついていたことなどと過去をいたずらに美化するのも大概にして欲しい。例えば、昔は被差別部落の生活は本当に悲惨だったでしょうが、今は戦後の「同和対策事業」でそんなことはないでしょう。差別がなくなったかどうかはともかく少なくとも居住地の生活環境についていえば「見るからに悲惨」なんて同和地区は何処にもないでしょう。だからこそ「全解連(全国部落解放運動連合会)」も「人権連(全国地域人権運動総連合)」に発展的解消した。
 あるいは「関東大震災(今年で100周年です)での朝鮮人虐殺や「甘粕事件、亀戸事件(左派活動家の虐殺)」。在日差別、反共労務差別がなくなったわけではないにせよあんなことは戦後日本では起きてないわけです。阪神大震災でも東日本大震災でもそんなことはなかった。それは単に「震災対策が進んだ」だけではなくそこまで酷い差別意識が薄れたということではないか。

 己が何のために生きているかと問うことは徒労である。
 人は人のために働いて支え合い、人のために死ぬ。

 「中村氏の言葉」だそうですが、以前、別記事「珍右翼が巣くう会」に突っ込む(2021年7/12分:荒木和博の巻)(ボーガス注:トルストイ『人は何で生きるか』のネタバレあり) - bogus-simotukareのブログ珍右翼・高世仁に悪口する(2022年12/27日分)(副題:未だに『つくる会理事』三浦小太郎を褒める高世に呆れる) - bogus-simotukareのブログで紹介したトルストイ小説「人は何で生きるか」はまさにこれですね。小説において「主人公」は「人は愛のために生きる(正確には妻子、知人、友人など愛する者のために生きる)」と語ります。


それでも声を上げ続ける香港の記者たち - 高世仁のジャーナルな日々

 アフガニスタン取材報告のご案内です。
 1月21日(土)午後2時から「タリバン政権と故中村哲氏のレガシー」というオンライン講演会をやります。主催は日本ジャーナリスト会議

 とはいえ、高世の講演会以外にも

〈JCJ Online講演会〉ロシアのウクライナ侵略と日本の安全保障 〜敵基地攻撃と軍事費大幅増の危うさ〜 講師:歴史学者 纐纈 厚さん(明治大学国際武器移転史研究所 客員研究員) | 日本ジャーナリスト会議(JCJ)(2月4日(土)午後2時から4時まで)
〈JCJ神奈川支部 Online講演会〉ヘイト批判報道――スラップ訴訟を闘って 講師・石橋 学さん(神奈川新聞川崎総局編集委員) | 日本ジャーナリスト会議(JCJ)(2月18日(土)午後2時から4時まで)

など講演会があるので高世の講演会が主催者に取り立てて高く評価されてるわけでもないでしょう。

 去年、座付き作者の桃山邑さんが亡くなり姿が見えないのがとてもさびしい。私とほぼ同年だった

 ググったところ桃山が1958年生まれ*1、高世が1953年生まれ*2です。年齢的に近いことは事実ですが「5歳の差」はほぼ同年とは言えないでしょう。高世が桃山の年齢を勘違いしてるのか、高世にとって「5歳の差」が「ほぼ同年」なのかは不明です。

 これを皮切りに年頭からいろんな場で取材報告をやっていくので、どうぞよろしく。

 期待しないで注目することにします。

 SNSを含むインターネットメディアの活用、大上段にかまえたテーマではなく市民生活に密着した取材に活路を見出そうとしている点は、日本のジャーナリズムも学ぶべきだろうと思った。

 「私、高世も学ぶべきだと思った」ではなく「日本のジャーナリズムも学ぶべき」と「上から目線」で日本メディアに説教する高世には吹き出しました。「拉致問題」という「市民生活に密着」しない「大上段にかまえたテーマ」ばかり扱って、挙げ句の果てにジンネットを倒産させた無能が何様のつもりなのか。


いのちには終る時ありそれ故に互いの“今”をいかしあひたし - 高世仁のジャーナルな日々

 アフガニスタン取材について年内に二つネット記事を公開しました。

 一本はデイリー新潮で商業記事ですが、もう一本はブログ記事に過ぎません。高世もジンネット時代に比べれば明らかに活動は停滞してるでしょう。

 今月亡くなった渡辺京二さんの言葉が朝日新聞朝刊の『折々のことば』に取り上げられていた。

 やれやれですね。珍右翼・高世仁に悪口する(2022年12/27日分)(副題:未だに『つくる会理事』三浦小太郎を褒める高世に呆れる) - bogus-simotukareのブログでも批判しましたが「自虐史観」という言葉を使用する極右活動家・渡辺をよくも朝日や高世は好意的に評価できるもんです。人として恥ずかしくないのか。

*1:1958年生まれの著名人としてはプロ野球巨人監督の原辰徳などがいる(1958年 - Wikipedia参照)

*2:1953年生まれの著名人としてはブレア元英国首相、習近平中国国家主席岡田克也立憲民主党幹事長などがいる(1953年 - Wikipedia参照)