今日の中国ニュース(2023年12月21日分)(副題:天皇訪中の舞台裏)

外務省が公開した「天皇訪中をめぐる外交文書」を検証してわかった「マスコミの正体」(現代ビジネス) - Yahoo!ニュース長谷川幸洋*1

 1月20日藤尾正行*2議員は谷野*3アジア局長に電話し「現在の中国に陛下がおいでになるのは、自分として認められない。中国の社会主義は続くのか」と語っていた。つまり「中国が共産主義である限り、訪中には反対」という立場である。いまとなっては、これこそが正論だった。

 反中国ウヨの長谷川らしいですが「中国が共産主義である限り、天皇訪中には反対」とは全く非常識です。とはいえ、長谷川も「本気ではない」でしょうし、藤尾も何処まで本気だったか?

 藤尾氏の指摘に対して、谷野氏は「中国は社会主義を掲げつつ、他方で改革・開放を進めるとの現状が当分は続くと見ざるをえない」と答えている。先に紹介した橋本大使の「長期的に見れば、中国は民主化・自由化する」という見方と、時間軸の違いはあれ、正反対だ。当時の外務省が相手によって答弁を変える「ご都合主義」だったことが分かる。

 橋本発言は「一党独裁という制約はあるが、長期的には一定の民主化、自由化はされる」という解釈が可能(つまり谷野発言と矛盾しない)なので当時の外務省が相手によって答弁を変える「ご都合主義」とは言えないでしょう。


誤った対中認識に基づき天皇ご訪中推進 外務省、平成4年外交文書で明らかに - 産経ニュース

「今後長期的に展望すれば、中国社会は必然的に民主化・自由化の方向をたどらざるを得ない。その際、(中略)予測は困難であるが、いずれにせよ多少の混乱は不可避であろう。今後の1年ないし2年はその前夜の小康状態と言えよう。従って、天皇御訪中のタイミングとして明年を選ぶことは賢明な選択である」
 平成3年(1991年)11月28日、橋本恕(ひろし)*4駐中国大使(当時、以下同)は、渡辺美智雄*5外相に宛てた公電でこうした考えを示した。

 「複数政党制国家」と同一視はできないとはいえ、大きな目で見れば「以前(例えば天皇訪中時の1992年)より民主化、自由化」ではあるでしょう。
 まあ、橋本発言は本心と言うより「訪中に反対するウヨへの釈明」と言う面が大きいでしょうが。
 訪中時期のタイミングとして考えられていたのも「天安門事件での制裁に苦しむ中国に恩を売りたい」「いずれ欧米も制裁解除するだろうがその時に天皇訪中しても恩に着せづらい」「制裁のために欧米企業が中国市場に本格進出してない時期に日本企業が進出すれば有利」と言った要素も大きかったでしょう。

 平成4年(1993年)7月には中国課が天皇陛下ご訪中の意義と反対論に対する応答のポイントを作成。「中国は天皇訪中によって日本からより一層の経済協力を引き出さんとしている」との意見への回答として、「わが国が陛下訪中と経済協力を結びつけることはありえず。中国側にもこのような期待は一切ない」としていた。
 政府が8月25日にご訪中を閣議決定するのに際し、当時の中国課長が24日に記者向けに行った事前ブリーフィングでは「中国も陛下の御訪中を政治利用しないことを明確にしている」と説明した。
 しかし、中国の外相として日本側との折衝に当たった銭其琛*6天皇陛下のご訪中について、後に回顧録*7で「西側の対中制裁を打破するうえで、積極的な作用を発揮した」と政治利用の成果を指摘した。

 普通に考えて「天皇訪中を日中政府双方とも経済交流につなげる意思はない(これだって嘘でしょうが)」はともかく「経済交流につながる効果もない」わけがない。


【以毒制毒】外交文書公開 宏池会政権の悪夢「天皇ご訪中」の教訓 有本香 - 産経ニュース
 確かに首相の宮沢氏は宏池会ですが、外相の渡辺氏は中曽根派ですし、宏池会政権云々という話ではない。


【大手町の片隅から】乾正人 やはり外務省は国を誤らせた - 産経ニュース
 産経らしいですが外務省の上には「当時の宮沢首相、渡辺外相」がいるので「おいおい」です。ここで「当時の自民党、宮沢内閣(宮沢首相、渡辺外相ら)が天皇訪中で国を誤らせた」といえないところが「自民応援団」産経らしい。
 なお、当時の宮沢内閣には「村上正邦労働相(反中国ウヨの一人、当時、ウヨ宗教だった「生長の家」の支持を得ていた)」がおり「天皇訪中について、別に抗議辞任もしてないこと」をどう思うか産経に聞きたいところです。村上に限りませんが所詮「自民党ウヨ議員の多く」にとって右翼思想など「閣僚ポストなど実利>右翼思想」にすぎないわけです。

 手前味噌だが、外務省幹部の説得工作に節を曲げなかったのは、産経新聞の清原武彦*8編集局長と住田良能*9外信部長だけだった(役職は当時)。

 興味深いのは当時、産経がこの一件を「政治の不当介入」として暴露しなかったことです。恐らくそれをすれば「自民党、宮沢内閣」と全面戦争になり、産経にとってかえって不利益という判断があったのではないか。


「総理がぐらぐらしている」初の“天皇中国訪問”の内幕 ”極秘”の外交文書公開 | NHK政治マガジン

 日中国交正常化から20年後の1992年10月。
 当時天皇だった上皇が初めて中国を訪問された。
 実現に至るまでには、紆余曲折があった。
 12月20日に公開された外交文書には、当時の宮沢*10総理大臣が尖閣問題への対応と訪中実現の間で揺れ動く姿が記されていた。
(加藤雄一郎)
 1992年1月、渡辺美智雄外務大臣が訪中し、中国・銭其琛外相と会談。
 外交文書からはこの時、渡辺大臣が「10月22日から27日、5泊6日の日程*11で訪中を」と、10月下旬の具体的な日程を提示し、中国側も受け入れていたことがわかった。
 しかし、2月になると雲行きが怪しくなる。
 立ちはだかった障壁の1つが、沖縄県尖閣諸島をめぐる問題だった。
 1992年2月25日、中国が、尖閣諸島を自国の領土と明記した「領海法」を制定したのだ。
 党内の反対論を受けて、宮沢総理大臣は慎重な姿勢に傾いていった。
 谷野アジア局長「総理がぐらぐらし始めているらしい」
 渡辺外務大臣「困ったものだ。宮沢はいざとなると度胸がない」
 公開された文書には議員の名前が記された「根回しリスト」もあった。
 そこには福田*12元総理、中曽根*13元総理、竹下*14元総理、金丸*15副総裁、三塚*16外務大臣といった重鎮が並んでいた。
▼6月29日(中曽根元総理ー橋本大使)
中曽根元総理「近く、自分が竹下、金丸とこの問題をじっくり話し、3人で党内をまとめるべく努めるつもりだ」
▼6月30日(金丸副総裁ー橋本大使)
金丸副総裁「過日、中曽根、竹下、田村元*17と飯を食った。中曽根は賛成といった。党内をまとめる努力をするので、橋本大使から中国の要人に伝えて欲しい」
谷野
『宮沢総理は私のような一局長にも『中曽根さんどうだったか』と聞いてきた。『これは総理、あなたのお仕事じゃないか』と思ったけれども、政治の要路の方々やメディアも回りました。難しいのは日本の中なんですよ。私は『対中外交』は対中ではなくて『日日外交』と言っていました』
 こうした水面下の働きかけが奏功して、党内の反対論は徐々に収まり、中国訪問は8月25日に閣議決定された。

 天皇訪中の根回しですね。NHK記事には名前の記載が何故かありませんが、記事に掲載されている「公開文書の写真」には根回しの相手として「当時、訪中に反対したウヨ議員(奥野誠亮*18藤尾正行)」の名前もあります。
【参考:藤尾正行

政府、自民反発で公表中止=「天皇訪中」賛成7割の世論調査―外交文書 | 時事通信ニュース
 藤尾氏は外務省に「(ボーガス注:天皇訪中は)陛下の政治利用になり許されない。宮沢(首相)と、とことんやり合うつもりだ」とも伝えた。


天皇訪中で共同通信に圧力 橋本大使「筆曲げろとは言わぬが」―外交文書:時事ドットコム

 外交文書によると、橋本大使は92年6月26日に犬養*19社長を訪問し、同社の記事について「対日民間賠償(請求)、従軍慰安婦の問題などを、これでもかと針小棒大に書き立てている」と批判。「天皇訪中をぶち壊すためプレス・キャンペーンを続けるつもりなら、中国側は支局閉鎖とか特派員の国外退去とかの措置に出ると思う」と述べ、「その際、大使館としては助けることはできないと覚悟してほしい」と強調した。
 犬養社長は「天皇訪中に反対など決して考えていない。橋本大使に大変ご迷惑をかけて申し訳ない」と陳謝。「本社は賛成である旨十分徹底させる」と語った。

 政治介入という意味で非常に問題ですが、「橋本氏も故人(2014年死去)であり、もはや過去の歴史になった」と言う判断での公開でしょう。


平成4年の天皇ご訪中に外務省がマスコミ工作 「反対か賛成か」共同通信社長に詰め寄る - 産経ニュース

 2月25日午後には、当時の谷野作太郎アジア局長が、中曽根康弘元首相を訪ね、「御訪中問題」を説明。このとき谷野氏は「新聞については産経でも賛否両論を載せており、他の新聞についても大丈夫と考える」との認識を示しつつ、「読売あたりでもう少し声を出してくれるとありがたいのだが。(ボーガス注:中曽根が親しい)渡辺(恒雄)社長に働きかけて頂けないか」と要請した。中曽根氏は「今晩会うので話しておこう」と応じた。

 谷野氏もナベツネも存命ですが、文書公開は、中曽根が故人(2019年死去)なのでいくらでもごまかせる、下手に突っ込むと中曽根批判になるのでウヨも逃げ腰だろうという判断でしょうか。
 なお、「中曽根とは親しい仲にある産経」に、中曽根からこの種の働きかけがなかったか気になるところです。中曽根を使って読売に働きかけたのなら「産経にも働きかけてもおかしくはない」。
 中曽根を使うことで「産経が劣勢であること」を自覚させることには宮沢内閣や外務省にとって「大いに意味があること」でしょう。

*1:中日新聞ブリュッセル支局長、論説副主幹等を歴任。2018年3月、中日新聞を定年退職。著書『経済危機の読み方』(2001年、講談社現代新書)、『謎とき日本経済50の真相』(2003年、講談社現代新書)等

*2:鈴木内閣労働相、自民党政調会長(中曽根総裁時代)、中曽根内閣文相など歴任

*3:外務省アジア局中国課長、アジア局長、インド大使など歴任

*4:外務省アジア局中国課長、ロンドン総領事、外務省情報文化局長、アジア局長、シンガポール大使、エジプト大使、中国大使を歴任

*5:福田内閣厚生相、大平内閣農水相、鈴木内閣蔵相、中曽根内閣通産相自民党政調会長(竹下総裁時代)、宮沢内閣副総理・外相など歴任

*6:1928~2017年。外相在任中(1988~1998年)に中ソ国交正常化(1991年)、中韓国交正常化、天皇訪中(1992年)を実現。また香港返還(1997年)に立ち会った(香港返還自体は1984年の英中共同声明で決定)

*7:銭其琛回顧録:中国外交20年の証言』(邦訳は2006年、東洋書院)のこと

*8:1937年生まれ。産経新聞ワシントン支局長、東京本社政治部長、編集局次長、編集局長、論説委員長、常務、専務、社長等を歴任

*9:1944~2013年。産経新聞政治部次長、外信部長、編集局次長、編集局長、常務、専務、社長、相談役等を歴任。編集局長時代に産経新聞に「教科書が教えない歴史」を連載

*10:池田内閣経企庁長官、佐藤内閣通産相、三木内閣外相、福田内閣経企庁長官、鈴木内閣官房長官、中曽根、竹下内閣蔵相等を経て首相。首相退任後も小渕、森内閣で蔵相

*11:実際も「10月23日から28日、5泊6日」(中華人民共和国ご訪問に際し(平成4年)参照)で近い日程

*12:岸内閣農林相、自民党政調会長(池田総裁時代)、幹事長(佐藤総裁時代)、佐藤内閣蔵相、外相、三木内閣副総理・経企庁長官等を経て首相

*13:岸内閣科技庁長官、佐藤内閣運輸相、防衛庁長官、田中内閣通産相自民党幹事長(三木総裁時代)、総務会長(福田総裁時代)、鈴木内閣行管庁長官等を経て首相

*14:佐藤、田中内閣官房長官、三木内閣建設相、大平、中曽根内閣蔵相、自民党幹事長(中曽根総裁時代)等を経て首相

*15:田中内閣建設相、三木内閣国土庁長官福田内閣防衛庁長官自民党国対委員長(大平総裁時代)、総務会長、幹事長(中曽根総裁時代)、副総裁(宮沢総裁時代)等を歴任

*16:三塚派領袖。中曽根内閣運輸相、竹下内閣通産相、宇野内閣外相、自民党政調会長(宮沢総裁時代)、幹事長(河野総裁時代)、橋本内閣蔵相など歴任

*17:金丸の子分。田中内閣労働相、福田内閣運輸相、自民党国対委員長(鈴木総裁時代)、中曽根、竹下内閣通産相衆院議長を歴任

*18:田中内閣文相、鈴木内閣法相、竹下内閣国土庁長官など歴任

*19:共同通信人事部長、総務部長、社会部長、論説主幹、社長、相談役を歴任。犬養毅首相の孫。犬養健・吉田内閣法相(造船疑獄で指揮権発動)の子