「珍右翼が巣くう会」に突っ込む(9/14分:高世仁の巻)(追記・訂正あり)

■日本でも流行しそうなマインドフルネス瞑想
http://d.hatena.ne.jp/takase22/20160928

 これまで隠されていた都政の不条理*1がどこまで暴露されるのか、楽しみだ。

 小生も「小池の動機が人気取りでアレ」彼女が「豊洲移転問題」で適切な態度をとればそれは評価します。
 しかしそれにしても『ただし改憲極右の彼女を護憲派として手放しで評価はしない』位書きますが、自称護憲派の高世はただ小池を褒め称えるだけです。「いつものことですが」心底高世には呆れますね。

 マインドフルネス瞑想が流行ってきている。
 きょうの「ためしてガッテン」で、認知症うつ病に効くと紹介されたらしい。

 正直「医学的に根拠あるのか、大丈夫なのか?」ですね。
 単に「ストレス解消に一定の効果がある」つうのと「鬱病認知症に効果がある」つうのとでは意味が違うでしょう。「医療評論家でも医師でも何でもない医療の素人」高世にその種の懐疑心がまるでないのが何ともかんとも。

 いまやアメリカではマインドフルネス瞑想が大ブームになっており、グーグルなど多くの超一流企業が会社として瞑想を採用、瞑想指導者を招き、社内にメディテーションルームを設置して休み時間に瞑想を奨励するまでになっている。

 「何だかなあ」ですね。実際どうか知りませんがそれが「マインドフルネス瞑想関係者の宣伝」ではなく事実だとして「まともな精神医学にもとづくメンタルヘルス」ならともかくどう見てもこれはそうじゃないでしょう。企業が自社内に持ち込んでいい代物なのか。
 つうか昨日、id:Bill_McCrearyさんが

ドリアン助川の「般若心経」


 ほんと高世って、こういう馬鹿な話ばっか書きますよね(呆れ)。そんなこと書いている暇があったら、下の蓮池薫さんの意見について論評しろです。賛否はともかく、そんなこともしないで、こんな愚にもつかない記事書いて拉致問題専門家を気取るなです。

とコメントしてましたが、まあ高世も北朝鮮問題にコメントする意欲を失いつつあるんでしょうね。高世は北朝鮮問題ではバカな事しかコメントしないんだからその方がいいかもしれません。


ドリアン助川の「般若心経」
http://d.hatena.ne.jp/takase22/20160926
 タイトルになってる「ドリアン助川*2」を見て「懐かしい、ニッポン放送の深夜放送でパーソナリティやってたよね」と思ったらその人は「ラジオリスナーのオッサン(30代後半以上)」で「誰それ?」と思ったらそれ以外(例:若者、ラジオリスナーじゃないオッサンなど)ですかね。
 ウィキペ「明川哲也」を見てみましょう。

明川哲也(本名:助川哲也、1962年6月17日〜:ウィキペ参照)
 作家・ミュージシャンのドリアン助川の第2ペンネーム 。早稲田大学時代には劇団を主宰し、卒業後は雑誌ライター、放送作家などを経て、ドリアン助川の名で1990年にロックバンド「叫ぶ詩人の会」を結成。1999年のバンド解散後はニューヨークに滞在、バンドAND SUN SUI CHIE (アンド・サン・スー・チー)を結成し、ライブハウスやレズビアンバーで歌う。帰国後は、ドリアン助川以外にも明川哲也の筆名を設け、執筆とライブ活動を主な生業としている。歌うアルルカン(道化師)として朗読と歌をミクスチャーしたステージを、ギタリストのMITSUとともに、「アルルカン洋菓子店」のユニット名で2011年まで展開。現在は、新たにギタリスト・ピクルス田村を得て、「アルルカン・ヴォイス・シアター」のユニット名で活動中。
 ニッポン放送の深夜放送『ドリアン助川の正義のラジオ!ジャンベルジャン!(1995年10月14日〜2000年3月18日)』は若者の人気を集めた。現在はニッポン放送テレフォン人生相談』でパーソナリティを務めている。
■著書(ドリアン助川名義、明川哲也名義双方を含む)
『ドリアン魂』(1996年、小学館文庫)
『メキシコ人はなぜハゲないし、死なないのか』(2008年、文春文庫)
『大丈夫、生きていけるよ:へこんだ日の般若心経』(2008年、PHP研究所
バカボンのパパと読む老子』(2011年、角川SSC新書
『バカをつらぬくのだ! バカボンのパパと読む老子・実践編』(2014年、角川SSC新書
『プチ革命・言葉の森を育てよう』(2014年、岩波ジュニア新書)など

自分の都合や損か得かで子どもを作る作らないを決める現代人の「社会のありようの根本」が実は問題なのだ。

 いつもながら高世が言ってることはバカバカしい。「自分の都合や損か得か」以外に何で子どもを作るのか。そんなん室町時代だって江戸時代だっていつの時代だって、欧米だって東南アジアだって何処の国だって同じでしょうよ。 
 「子どもが好きだから子どもが欲しい」てのは立派に「自分の都合」でしょう。何処の世界にたとえば「社会に労働力を提供するために子どもを作ろう」なんて「変な使命感」で子どもを作る奴がいるのか。
 「家業(例:歌舞伎などの伝統芸能天皇家)の跡継ぎが欲しい」「老後は子どもに養って欲しい(社会福祉の充実してない発展途上国で良くある話)」「俺は貧乏だけど子どもには出世してもらって俺は豊かになりたい(これまた「社会福祉の(以下略)」)」とかだって別に子作りの理由として全く構わない。それを「利己主義でくだらない」と評価するのは単に高世の価値観に過ぎません。「子どもに対し虐待を働く」などの問題がない限り動機なんてどうでもいい。まあ、正直「家業の跡継ぎが欲しい」と思ったからと言って子どもに愛情が全くないって人もあまりいないでしょうし「そういうスケベ心がない純粋な愛なら子育てがうまくいく」つう単純なもんでもないでしょうが。
 そして「子どもを作る経済的余裕がなければ」子どもを作らないのはごく自然でしょう。「そんな事で子どもを作るのをあきらめるな」と他人が言う資格はどこにもない。

 子どもの自死でも、子どもたちを覆う大げさに言うと「世界観」を何とかしなくては、と思うのである。

 幸いにして小生、自殺(自死)を考えたことは未だないですが、自殺する人は「生きてることがつらいから」「不幸だと思うから」自殺するんでしょう。高世の言う「世界観」なんて大げさなことじゃない。つまりは「何で生きてることがつらいのか」「何故不幸だと思うのか」を理解してその解決策を探るつうことでしょう。
 でそう言う場合「学校でいじめ」「過労自殺」「失業して(あるいは病気になって)家族に迷惑をかけてる」「認知症の親の介護がつらい」とかたいていの場合「こういったら何ですが」そんなに「哲学的な深い(?)」話じゃない。周囲の力を借りて問題を解決しましょう、周囲も問題解決に協力しましょう、て話でしかない。
 当人には「解決が難しく見えて死ぬことでこの世から逃げ出すしかないように思えちゃう」「周囲に救いを求めることができないほど疲れてる」ことが多いわけですが周囲に助けを求めれば何て事はない場合も多いでしょう。
 だから「救いの場」として「いのちの電話」があってそれなりの成果を上げている。
 「健康で人間関係のトラブルもなく学業や仕事はうまくいっている。家族も何のトラブルも抱えてない、俺は幸せだ」、「だが何故人は生きる意味があるのか、深く悩んだ」と言う理由で「どう見ても幸せなのに深い哲学的な常人には理解しがたい理由で自殺」なんて人はまずいない。「当たり前すぎる話」ですが幸せな人は自殺しません。

「死んだら本当にすべてが終わってしまうの?。それならいったいこの自分という存在は何なの?。何のために生きているの?。生きる意味があるの?」といった若い人の悩み

 死んだら全ては終わるでしょう。少なくとも「死後の世界」は証明されてない。仮に「死後の世界」があるとしてそれが「生前の世界」よりマシだという保証もない。
 「生きる意味あるの?」。
 前も書きましたが、誤解をおそれず言えば「意味なんかない」。「生きる意味」は個人個人が「自分にとっての生きる意味」を作り出すもんです。「自動車の目的は短時間で移動すること」みたいな意味があって人間は生まれてこない。
 「医者となって多くの人の命を救いたい」「実業家になって大もうけして贅沢に暮らしたい」とか自分で「自分にとっての生きる意味」を作り出すわけです。だから「あなたにとっての生きる意味は?」「生きてて楽しいときはどんなとき?」「生き甲斐は何ですか?。仕事ですか、家族ですか、趣味ですか?」とか具体的に聞かれるならともかく、抽象的に「生きる意味」なんか聞かれても答えられない。
 でも普段「生きる意味」なんて普通の人はあまり考えない。
 そう言うのを考える時点で「生きる意味がないから死にたい」という危ない方向に入り込んでるんじゃないか。まあ「死んで花実が咲くものか」ですね。死んだら全て終わっちゃう。自分で死ななくてもいずれは死ぬ。平均寿命80歳ですから。不老不死なんてないですから。
 だったら「事故か病死か犯罪被害かはともかく」死が向こうからやってくるまでは自分で死を選ぶようなことはせず、生き続けた方が楽しいんじゃないか、社会の役にも立つんじゃないかってことです。そうはいってもつらいと自殺しちゃう弱い存在が多くの人間のわけですが。小生だって「将来自殺しない」とは言い切れません。
 川端康成田宮二郎*3中川一郎*4とかいわゆる成功者と見なされてる人間ですら心の悩みで自殺する人はいますから。

「般若心経」といえば、10年ほど前、生命学者の柳澤桂子氏の「心訳」が話題になり、NHKで番組が作られた。彼女の「空」の解釈は実に独特だった。自分と他のものという二元的から執着が生まれるが、一元的な世界が真理であるとし、こう語る。
「私たちは原子からできています。(略)この宇宙を原子のレベルで見てみましょう。私のいるところは少し原子の密度が高いかもしれません。あなたのいるところも高いでしょう。戸棚のところも原子が密に存在するでしょう。これが宇宙を一元的に見たときの景色です。一面の原子の飛び交っている空間の中に、ところどころ原子が密に存在するところがあるだけです。」
 つまり、この世のすべては原子の濃淡の問題に還元できるので、「物事に執着するということがなくなり、何事も淡々と受け容れらることができるようになります」と柳澤氏は言うのである。

というなら是非柳澤氏や高世は横田夫妻に向かって「娘めぐみに執着するな」と言ってみて下さい。
 たぶん激怒されると思いますが。要するに「物事に執着する」のは当たり前だと言う事です。自分が大事にしてた物が壊れれば、あるいは自分の家族が「事故でアレ病気でアレ、犯罪被害でアレ何でアレ」死去すれば悲しい。「天災だから病気だから、犯罪被害や人災じゃないから仕方ない」「東日本大震災で死んだのはウチの家族だけじゃない」つう気持ちには普通なりません。
 「執着したい気持ちは分かるけど執着しても幸せになれない、失われたものはもう戻ってこないのだから」つうのが本当でしょう。
 「横田夫妻に言ってみろ」つう冗談はさておき、本当、あの夫婦は「めぐみ生存説」という「可能性の低い話」に執着しないで「孫やひ孫との交流」に残りの人生を使うべきでしょう。言葉を選ばず言えば「めぐみ生存説に執着するのは馬鹿げた話」です。
 なお、柳澤氏については■朝日新聞『本当に苦しむ死に直面、生命科学者・柳澤桂子さん』(http://www.asahi.com/kansai/kokoro/kataruhito/OSK200901160066.html)を紹介しておきます。

参考

柳澤桂子(ウィキペ参照)
 1960年、お茶の水女子大学理学部植物学科卒業。三菱化成生命科学研究所主任研究員となるが1983年に病気のため退職。サイエンスライターに転じる。
 1993年、『卵が私になるまで』(1993年、新潮選書)で講談社出版文化賞科学出版賞受賞。
 1994年、『お母さんが話してくれた生命の歴史・全4巻』(1993年、岩波書店)で産経児童出版文化賞受賞。
 1995年、『二重らせんの私』(1995年、早川書房→1998年、ハヤカワノンフィクション文庫)で日本エッセイスト・クラブ賞受賞。
 2002年、お茶の水女子大学名誉博士号授与。
■著書
・『左右を決める遺伝子:からだの非対称性はなぜ生じるのか』(1997年、講談社ブルーバックス
・『生命の奇跡』(1997年、PHP新書
・『認められぬ病:現代医療への根源的問い』(1998年、中公文庫)
・『愛をこめいのち見つめて:病床からガンの友へ』(1999年、集英社文庫
・『「いのち」とはなにか:生命科学への招待』(2000年、講談社学術文庫
・『遺伝子医療への警鐘』(2002年、岩波現代文庫)
・『癒されて生きる:女性生命科学者の心の旅路』(2004年、岩波現代文庫)
・『ヒトゲノムとあなた』(2004年、集英社文庫)
・『母なる大地』(2006年、新潮文庫)
・『いのちと放射能』(2007年、ちくま文庫)
・『すべてのいのちが愛おしい:生命科学者から孫へのメッセージ』(2007年、集英社文庫)
・『永遠のなかに生きる』(2009年、集英社文庫)
・『われわれはなぜ死ぬのか:死の生命科学』、『生と死が創るもの』(2010年、ちくま文庫)
・『いのちと環境:人類は生き残れるか』(2011年、ちくまプリマー新書)など

 横田早紀江さんの聖書解釈について何度もここで触れてきたが、やはり、自らの苦悩のなかで聖書を深く「読み込んで」いっている。

 聖書を深く読み込んだ人が「田中均氏や蓮池透氏に悪口するような人間のくず」なんですか(毒)。
 つまりは「彼女は聖書を深く読み込んでないか」「聖書とは人間性を高めたり慈悲の心を養ったりすることには全く貢献しない無価値なゴミ本」かどっちかなのでしょう。
 「聖書とは無価値なゴミ本」といって「全世界のキリスト者」を敵に回す蛮勇は小生にはないので「より可能性の高い話」として『彼女は聖書を深く読み込んでない』説を唱えることにしましょう(苦笑)。
 ちなみに高世が紹介する彼女の聖書解釈はこちら。

http://d.hatena.ne.jp/takase22/20080509
 横田早紀江さんは、めぐみさんが成人になる年にキリスト教の洗礼を受けた。めぐみさんが失踪して7年後の84年だった。
(中略)
 聖書のどの部分が心に訴えかけてきましたか、と私が聞くと、早紀江さんは「たくさんあって選ぶのが難しいのですが」と断った上で、新約の「ヨハネ福音書」第9章を挙げた。第9章はこうはじまる。
《またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」》
 そして、イエスは地面に唾して泥をこね、その泥を盲人の目に塗って、目が見えるようにした。こうしてイエスは「神の子」の証を示した。この人が生まれつき盲目だったのは、奇跡のような「神のわざ」を現すためだったというのである。
 キリスト教の風土で育っていないと、この理屈を素直に受け入れるのは難しい。詭弁ではないかと反発を感じる人も多いのではないか。
 だが早紀江さんは、めぐみさんの失踪に神の計らいを見るという独自の読み込みによって、深い癒しを得たのだ。
 私は99年に出した拉致問題の本『娘をかえせ 息子をかえせ−北朝鮮拉致事件の真相』(旬報社)でこう書いている。
「(ボーガス注:北朝鮮拉致という)めぐみの運命に、神は大きな意味をこめているのかも知れない。いや、きっとそうに違いない。そう信じて生きていこう。 早紀江は長い苦しみを経て聖書の教えのなかに心の支えを見いだしていた。」

 彼女の聖書解釈の是非はともかく「やれやれ(呆)」です。それが事実なら何故

「娘めぐみの死に、神は大きな意味をこめているのかも知れない。いや、きっとそうに違いない。めぐみは死んでも孫ウンギョンやひ孫がいるではないか。そう信じてウンギョンやひ孫と共に生きていこう。早紀江は長い苦しみを経て聖書の教えのなかに心の支えを見いだしていた。」

つうことでどうして「めぐみの死を受け入れること」「ウンギョンさんとともに生きていくこと」ができないのか。何故根拠レスで「めぐみは生きてる」と放言できるのか。
 何故

「中露の北朝鮮支援に、あるいは『北朝鮮の核、ミサイル開発』に神は大きな意味をこめているのかも知れない。いや、きっとそうに違いない。そう信じて『北朝鮮、中露非難なんかしないで』生きていこう。早紀江は長い苦しみを経て聖書の教えのなかに心の支えを見いだしていた。」

つうことで北朝鮮の現状を受け入れることができないのか(もちろん本気ではなく皮肉、嫌みで書いてますが)。俺の皮肉はともかく「中露の支援で北朝鮮崩壊なんかあり得ない、可能性は低い」つうことは横田夫妻も受け入れた方がいいでしょう。つうか他の拉致被害者家族はともかく「ウンギョンさんが日本に帰国しているわけではなく、今あの国にいる状態で」、北朝鮮打倒なんか唱えることほど横田夫妻にとって無茶苦茶な事もないです。よくそんな家族会、巣くう会連中と横田夫妻もつきあえるもんです。

http://d.hatena.ne.jp/takase22/20080509
ある牧師に、私は早紀江さんのこの「読み」について語った。するとその牧師は即座にこう言った。
「ああ、そういう解釈は間違っていますよ」
(つづく)

http://d.hatena.ne.jp/takase22/20080510
 早紀江さんは、聖書を読むことで、娘めぐみさんの失踪に何か大きなものの意図を感じた。それは早紀江さん独自の主体的な「読み込み」である。既成の解釈本に頼って理解したのではないことが重要だと思う。だからこそ、自分が長く求めてきたものを聖書に見出すことができ、深い癒しと生きる希望を得た。その解釈が正しいとか間違っているかは問題にならない。

 その高世の理屈だと「寺越友枝さん」が「息子・武志さん」の『俺は拉致されたんじゃなくて海難事故にあったところを北朝鮮に救出された』という言い分を受入れ、その結果、友枝さんの訪朝や、武志さんの訪日が実現*5

深い癒しと生きる希望を得た

友枝さんに向かって『息子さんは拉致だ』と救う会がいうのは「大きなお世話のお節介」であり

その(ボーガス注:友枝さんの『武志さんの北朝鮮行き』についての)解釈が正しいとか間違っているかは問題にならない

と思いますけどね。全くあるときは「当人(横田母)が納得してれば事実(聖書解釈)は問題じゃない」、あるときは「当人(寺越母)が納得してても事実(武志さんの北朝鮮行きの経緯)が問題だ」。全く高世はデタラメな野郎です。
 ただしその方向性は常に「ウヨとしての北朝鮮バッシング」と言う意味では一貫しています。

http://d.hatena.ne.jp/takase22/20080510
02年の小泉訪朝の日の早紀江さんの訴えは、《神のわざがこの人に現れるためです》というイエスの言葉に呼応していた。

 意味がよく分かりません。小泉訪朝は「神の業」なのか?。それにしては横田母は「めぐみが帰ってこなかった」と小泉氏に悪口雑言しかしてなかった気がします。「めぐみが帰ってこなかったこと」を何故「神の深い考え」と思えないのか。

http://d.hatena.ne.jp/takase22/20080510
 ブッシュ大統領と会う前日の06年4月27日、早紀江さんは米下院公聴会で証言し、アメリカの政治家を感動*6させた。これは歴史に残る名スピーチである。

と高世や横田の奥さんなど仲間内で「イヤー、奥さんのスピーチは良かったよ、感動した」なんて言ったところで何がどうなるもんでもない。そういうくだらないことばっかしてるから拉致は解決しない。

「ひどい人権侵害に苦しんでいる北朝鮮の人々も助けなければなりません」とも主張

と当時、横田母が言い、それに高世が共感したのなら「今、水害に苦しむ北朝鮮の人々」について人道支援を訴えるべきでしょう。正直な話、「サッカー日本代表観戦平壌ツアーに文句つけた」横田母と「横田母の提灯持ち・高世」にそんな事期待してませんけど。はっきり言って「早紀江、高世、お前ら言うとること本当にデタラメだらけやのう」と皮肉る意味で「ならば人道支援を早紀江や高世は今こそ訴えよ」と書いてます(毒)。


金正日が命じた映画監督拉致が映画に
http://d.hatena.ne.jp/takase22/20160925

 大乗仏教で「憤り」が根本煩悩の一つになっているのが分かる。気を入れて坐禅しよう。
 「憤り」がいけないなら、なぜお前は、北朝鮮による拉致やいまだに解決をみない水俣病問題に怒っているのか、それも煩悩ではないか、と反論がきそうだ。
 私の理解では、自分の都合で怒る「私憤」は煩悩だが、「公憤」、「義憤」はよいのだ。「義憤」には「慈悲」がベースにあるから。つまり、その怒りは自分の都合からではなく、みんなが(衆生が)苦しむことへの救済の願望から発している。

 いつもながら高世が言ってることはバカバカしい。小生は「私憤」大いに結構と思っています。大乗仏教が何言ってるかなんて全く関係ない。大乗仏教が「くだらない私憤(逆恨み、逆ギレなどとも言います)」を否定してるのならともかく「私憤一般」を否定してるのならくだらないだけです。それ単に泣き寝入りしろと言ってるだけじゃないですか。たぶん大乗仏教はそんな馬鹿な事は言ってないでしょうが。
 うろ覚えですが、以前本多勝一氏の文章で「私憤と公憤に違いなんかない」てのがありました。
 で俺はそれに大いに共感した。共感したのでうろ覚えですが覚えてるわけですが、大体以下のような内容です。
 「世間がお前の言うことには社会的意義がある」とか「俺もお前に同感だ」とか言うのが公憤で、そうじゃないのが私憤に過ぎないと。
 確か、本多氏は「外部から依頼された原稿の執筆料が安すぎる、日本の出版業界はけちだ」という主旨の事を雑誌か何かに書いて、別の某ライターから「私憤を書くな」「朝日の記者で月給もらってるのにカネに汚い」呼ばわりされ「私憤で何が悪い、正当な原稿料を要求するのはライターの当然の権利だ。そんなん俺が朝日から月給もらってるかどうかと関係ない」「俺の私憤で他のライターの原稿料も上がるかも知れないじゃないか、そうなれば公憤と違うか」「俺しか上がらないで不愉快だというならライターのあんたらも俺みたいに上げろと言えばいいじゃないか。何であんたらに『私憤を書くな』なんて言われなければいかん」と反論してたかと思います。
 小生も本多氏に同感です。そもそも公憤は本当に公憤なのか。まあ多くの場合公憤でしょうが「レアケースとして」公憤でないもんが公憤扱いされてる場合もあるんじゃないか。たとえば一部の犯罪被害者の厳罰論なんてただの私憤でしょう。自分の復讐感情を満足させたいだけで「それが社会にとって利益になるだろうか」なんて判断は全くない。そんなんは私憤でしかない。それもこういったら失礼ですが私見では「相当くだらない私憤」です。もちろん「自分や身内が犯罪被害に遭ったとき」に犯罪者を恨むのは自然の感情です。それは否定しない。ただその感情を「冷静な分析も何もしないで」厳罰論に爆発させて、「厳罰論には疑問がある」という人間を罵るなんてのはくだらない私憤でしかない。
 一方、私憤はくだらないのか。
 たとえば「信じてた人間にだまされた」なんてのは多くの場合私憤でしょう。「自転車を駐輪してたら盗まれた」「家を留守にしてたら空き巣に入られた」なんてのも私憤です。でじゃあその場合憤ったら、恨んだらいけないのか。
 たとえ私的なことでアレ酷い目にあったら憤慨するのは当然でしょう。問題は憤慨することではなく「その憤慨をどう建設的な方向に持っていくか」でしょう。まあ、「自転車を盗まれた」「空き巣に入られた」だったら「自転車に二重ロックする」「空き巣に入られないように番犬を買う、家の鍵を全部二重ロックにする」とか自己防衛するくらいしかないですが、私憤の対策が「社会制度の変更」など社会に意義をもたらすものなら、私憤万々歳でしょう。
 また「私憤が公憤扱いされるケース」とは逆に「公憤とされるべきものが非常識な私憤扱いされるケース」もあるわけです。
 たとえば「黒人差別」「女性差別」なんかそうでしょう。昔は「黒人と白人、男性と女性が違うのは当たり前だ、それに反対するのは身勝手な私憤だ」みたいな扱いだったのを「何が私憤だ、私憤じゃない」「仮に私憤だとしても身勝手じゃない。こんな差別はおかしい」と言い続けて「確かに私憤じゃないね、公憤だね」となって今があるわけです。
 あるいは「いくら欲しいんだ」と暴言を吐いたワタミ創業者ワタミ氏にとって「娘の過労自殺を抗議したワタミ社員の両親」は私憤なのか、公憤なのか。ワタミ氏にとってはくだらない私憤だったのでしょう。「自殺されてこっちが迷惑してるのに何だ、お前、ふざけんな。そんなにカネが欲しいのか(ワタミ氏)」と。しかし、世間は逆に公憤扱したわけです。
 一方「いくら欲しいんだ」と逆ギレしたというワタミ氏を世間は「醜い私憤」と軽蔑したわけです。
 さて高世がネタにしてる「北朝鮮拉致水俣病」ですがこれは当事者に取っては完全な私憤です。当事者に高世の言うような慈悲の心があるかは疑問です。だからといって「私憤だからくだらない」とはならないのは「チッソ北朝鮮のした行為は犯罪行為(あるいは犯罪行為と見なされても仕方のない行為*7)で容認できないから」です。高世の言うようなくだらない公憤云々なんて話ではない。
 「北朝鮮自衛隊で軍事攻撃しろ」「朝鮮総連破防法を適用しろ」とか「チッソの社長に水銀の入った水を飲ませたい」「チッソの社員を日本から追放したい」とか当事者が仮にどんなに非常識なことを言おうが「あんなくだらない事言ってるから私憤だ、あいつら救済しなくていいし、チッソを処罰しなくてもいい」などとはならない。
 大体、

田中均氏に悪口雑言して外務省退職に追い込んだり
蓮池透氏を家族会から不当追放したあげく、後に蓮池氏の書いた家族会批判本に逆ギレしたり
・日本男子サッカー代表チームの試合を観戦する平壌ツアーなどやるな、と筋の通らないことを旅行会社に要求したり
・拉致が最優先だとほざき、残留邦人遺骨回収や日本人妻帰国を妨害し、残留邦人遺族や日本人妻に迷惑をかけたりする連中・家族会

『拉致解決のため横田夫妻は孫に会うな』と冷酷なことを言いながら実際に孫に会うと掌返しで「会えて良かった」といいだす
『拉致解決のために九条改憲が必要』と拉致を政治利用し、『九条改憲は関係ないだろう。拉致を政治利用するな』と批判した蓮池透氏を家族会タカ派と組んで家族会から追放した連中・巣くう会

のどこに「公憤や慈悲の心」があるのか。そんなもんはどこにもない。『ウヨの党利党略』と『拉致被害者家族の感情論(私憤)』というくだらないもんしかない。そんな状態を黙認する高世も『公憤も慈悲の心』も何一つない。
 高世の物言いをぱくれば「家族会や巣くう会に、公憤も慈悲の心もない」から拉致は風化したわけです。
 「公憤も慈悲の心もない人間」「くだらない私憤と党利党略しかない人間」家族会や巣くう会なんかと誰がつきあいたがるんですか。俺はつきあいたくないですよ。個人的にも社会的にもメリットが何もないし精神的に俺が不愉快になるだけです。そんなんとつきあうのは「そんなくだらない人間の同類」でしかない。
 「荒木和博・特定失踪者問題調査会代表や島田洋一・巣くう会副会長などろくでもない人間ばかり拉致被害者家族会が周囲に集めて」、一方「蓮池透・元家族会事務局長や田中均・元外務省アジア大洋州局長のようなまともな人を敵視して遠ざければ」そりゃ、拉致は風化するし解決のめども立たないのは当然です。
 北朝鮮や日本政府にも当然いろんな問題はあるでしょう。「日本政府や北朝鮮を完全に免罪してる」と誤解されたくないので、それを認めた上での話と断っておきますが私見では「拉致解決の最大の障害は家族会と巣くう会」ですよ。あいつらが馬鹿な事ばかりやってるからいけない。
 つう内容の家族会、巣くう会批判を以前から小生ずっと書いてるわけです。
 まあ、しつこいですが「私憤と公憤に本質的な違いなどない」「世間が『一理ある』『俺も同意見だ』などとして評価したもんが公憤に過ぎない」「私憤であることそれ自体はくだらないことではない。くだらない私憤が世の中にあるだけの話だ」つうのが俺の考えであることを改めて最後に書いておきます。

ベトナム戦争中、何人もの僧侶がガソリンをかぶって抗議の焼身自殺をとげたが、その心は義憤でいっぱいだったのではないだろうか。

 前も「ベトナム戦争抗議の意味で焼身自殺した」アリス・ハーズや由比忠之進をネタに俺の考えを書きましたが、そんなんベトナム戦争阻止という意味で何の意味もない。焼身自殺を美化すんじゃねえよ、高世のくず。だったら「先ず隗より始めよ」、『理由は何でもいいから』義憤に燃えるお前がガソリンかぶって焼身して死ねよ、高世。

日本の仏教者が、義憤をもとに行動を起こすことがないのはいかがなものか。

 おいおいです。高世は日本の仏教者に一体何をして欲しいのか(さすがに焼身自殺じゃないでしょうが)。大体、日本の仏教者が政治的活動、社会的活動を全くしないかと言ったらそんな事もないでしょう。戦争法については
赤旗『戦争法案「黙っていられない」、宗教者も法衣姿で国会抗議』
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik15/2015-07-03/2015070301_04_1.html
が報じるように仏教関係者から批判意見も出ましたし、「宗教者九条の和」(宗教者版・九条の会)なんて運動(http://www.shukyosha9jonowa.org/)もあります。
 まあ、今挙げた例は「俺が知ってる例」に過ぎず「深い意味はありません」。上げた運動以外はくだらないとかそう言うんじゃない。とにかく俺が挙げた例一つとっても「日本の仏教者が何も政治運動、社会運動をしていないかのような高世の発言」は端的にいってデマであり、高世は日本の仏教者に失礼です。

【追記】
 コメ欄で指摘があった貧困と自殺に取り組む僧侶たち - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)の仏教者達も勿論「義憤をもとに行動を起こす」仏教者の一人でしょう。

極東では有名*8なこの拉致事件は、欧米ではほとんど知られていない。多くの米国人に観てもらいたい。

 まあ世の中なんてそんなもんです。たいていの人間は自分に関係ない事に興味ないし、ましてやその関係ない事が「北朝鮮の拉致」なんて見ても愉快になれるとは思えないもんではなおさら興味ない。たいていの米国人はそんなもんよりディズニーアニメでも見たがるでしょう。
 だからこそ家族会がブッシュやオバマを訪問しても「できる限りのことはします」というリップサービスで終わるわけです。ぶっちゃけ訪問してもあまり意味がない。
 このドキュメンタリー映画だってどれほど海外で見られるかは疑問です。いや見た人が「何とかせにゃあかん」と思っても何もどうにもならないんですが。やるべきことは日朝外交交渉、ただそれだけでしょう。


■遺伝子に「私」はない
http://d.hatena.ne.jp/takase22/20160920

 今の学生の多くは「ゲリラ」は気象用語だと思っているというが

 「ゲリラ豪雨(局地的な大雨)」のことを言ってるんでしょうがさすがにそれは冗談でしょう。今だって紛争で「ゲリラ」という言葉は使われるし、学生も「チェ・ゲバラ」の名前位は知ってるんじゃないか。ゲリラライブ(予告無しで突然、広場などで行うライブのこと*9)なんて言葉もありますしね。

生命誌研究者の中村桂子*10の《少子化・・進む生殖医療〜遺伝子に「私」はない》(東京新聞9月16日夕刊)
(中略)
(ボーガス注:中村氏曰く)生殖医療を用い、どんな苦労をしてでも「自分の子ども」を持ちたいという考えには、小さなことへのこだわり過ぎがある。

 いやいや子どもが欲しい人間からすれば「俺が子どもほしがったらいけないのかよ」「小さなことにこだわるなて、お前何様だ」「お前が子ども欲しくないからor不妊治療せんでも子どもが生まれるから、そういうこと無神経に言ってるだけやろ。ワシは子ども欲しいし、不妊治療せえへんと産まれないのや」でしょうね。
 子どもが欲しくないのに「周囲の期待で仕方なく不妊治療するケース(皇室とか?)」ならともかく「子どもをほしがること」にぐちゃぐちゃ言われる筋合いはないですよね。誰かに迷惑かけてるわけでもないのに。
 ハゲに向かって「ハゲのママでええやん、育毛とかカツラとか、小さなことにこだわるなよ、はげのママで生活してる人だっておるヤン、中曽根とかゴルバチョフとか」とか、白髪の人に向かって「白髪のママでええヤン、染めないでも。白髪のママで生活してる人だっておるやん」とか、乳がんでも「何らかの方法で乳房を残存したいと思う人」に向かって「乳房全部取ったってええやん」とかいうようなもんで当事者からすれば

「ワシ、はげのママでは嫌なんや」
「ワシ、白髪は嫌や」
「あたし、乳がんでも乳房は残したい」

ですよねえ。高世の紹介が正しかったら単に「中村氏、東京新聞、高世」の三者が「他者に対する想像力が異常なまでに欠落してて無神経なだけ」です。
 正直「不妊治療に携わる医師や不妊治療を受けてるご夫妻」に抗議されても仕方ないレベルの無神経さでしょう。
 まあ高世の紹介が間違ってたら「高世が馬鹿」で「高世が中村氏や東京新聞に抗議されても仕方ないレベルの馬鹿さ」でしょう。
 高世の紹介が間違ってようが、正しかろうがどっちにしろ「高世が馬鹿」なことには変わりありません。まあ高世が馬鹿なのはいつものことで今に始まった話ではありませんが(毒)。 

【追記】
 後で気付いたんですがもしかしたら、中村氏の言う「どんな苦労をしてでも」の中には「一般的な不妊治療だけでなく」、『代理母』のような『倫理的な問題が指摘されてるもの』が含まれるのかもしれません。まあ、小生も代理母には正直「反対していいのか躊躇する」ものの積極的に賛同する気にもなれません。
 ただその場合でも「小さなことにこだわるな」云々てのは物言いとしておかしいですよね。
 たとえば「臓器移植をするためにクローン人間を作ることを計画する」なんて場合「倫理的に問題だ」というならともかく

 臓器移植をし、どんな苦労をしてでも「長生きしたい」という考えには、小さなことへのこだわり過ぎがある。

とは言わないわけです。「長生きしたい」という考えは小さなことではないでしょう。

*1:つうか、豊洲移転や知事、議員の『視察旅行』については既に共産が石原時代から追及していますが。「隠されていた」つうより「メディアや他党が共産の指摘をまともに取り上げず、あほな都民もそれを容認した」つう面は明らかに大きいんですが「そう言う指摘をしない」のはさすが反共の高世です。

*2:個人サイト(http://durian-sukegawa.com/

*3:俳優。代表作としてテレビドラマ『白い巨塔

*4:福田内閣農水相、鈴木内閣科学技術庁長官など歴任

*5:最近はこの辺り厳しいのかも知れませんが

*6:まあ本心はともかく口では「感動した」と言うでしょうね。「くだらねえスピーチだな、聞いて時間を損した」「自己陶酔してるんじゃねえよ、キモイんだよ、ババア」なんて言ってケンカを売ってもメリットないですから。問題は「感動した」なんて言ってた議員連中が動いてくれたかどうかですが、まあ「動きようがない」し「選挙民でもない、献金してくれるわけでもない日本人のために動いてもメリットないし」でほとんど動いてないでしょうね。しかしそうした現実を直視することから逃げる拉致被害者家族会、巣くう会、拉致議連や高世です。どう見ても拉致解決をまじめに考えてるようには見えません。

*7:こう書いたのは北朝鮮の行為はともかくチッソの行為『排水を海に垂れ流し』は犯罪と言えるか当時としては微妙な気もするからです(今は確実に犯罪ですが)。

*8:いや極東じゃなくて「日本と韓国限定」じゃないですかね。中国でそんなに有名でもないでしょう。それとも高世の言う極東って「日本と韓国」のことでしょうか。

*9:役所の許可を取っていれば法的問題はないが無許可で行い後で問題になる事も多い。

*10:著書『あなたのなかのDNA』(1994年、ハヤカワ文庫NF)、『生命科学』(1996年、講談社学術文庫)、『食卓の上のDNA』(1999年、ハヤカワ文庫NF)、『生命科学者ノート』(2000年、岩波現代文庫)、『ゲノムが語る生命』(2004年、集英社新書)、『自己創出する生命』(2006年、ちくま学芸文庫)、『科学者が人間であること』(2013年、岩波新書)、『生命誌とは何か』(2014年、講談社学術文庫)など