今日の産経ニュースほか(4/29分)(追記・訂正あり)

安倍晋三首相が帰国の途 ロシア・英国訪問終え
http://www.sankei.com/politics/news/170429/plt1704290031-n1.html
 問題は「官僚でも外相でもなく首相がわざわざ行ったからには何か成果がないとおかしい」つうことですがその辺り果たしていかがな物か。
 まあ成果があればそれなりに宣伝するでしょうが、なければ黙りでごまかそうとするんでしょうね。


主権回復記念日民集会 「日本は独立国家なのか」 めでたい日にも嘆きの声 憲法改正も、拉致解決もまだ…
http://www.sankei.com/politics/news/170429/plt1704290004-n1.html
・4/28の「サンフランシスコ講和条約締結の日」を「独立回復の日として祝う」という考えは「建国記念日2/11」などという「フィクションの上に極右反動」、「昭和の日4/29」という「フィクションではないが設立趣旨が昭和天皇をあの戦争も含め偉大だと賛美する*1という極右反動」という「全く賛同できない日」と比べたら、分からないでもありません*2。一方で「サンフランシスコ講和の日=米軍基地がその後も日本に置かれ続け、沖縄が佐藤*3政権時代に日本復帰するまで日本から切り離された屈辱の日」とみて祝日化などに批判的な意見も分かります。

参考

http://ryukyushimpo.jp/news/entry-268569.html
琉球新報『きょう「4・28」 沖縄「屈辱の日」を知ってますか?』
 1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効してから28日で64年となった。敗戦後、連合国軍の占領下にあった日本は条約発効で独立を果たしたが、沖縄や奄美は日本から切り離された*4。沖縄が日本復帰するまで米施政権下にあった27年間、本土から沖縄へ基地が移転。日本国憲法が適用されず、人権が蹂躙(じゅうりん)された。過重な基地負担など現在の沖縄差別の源流ともなったこの日は「屈辱の日」と呼ばれる。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik16/2016-04-24/2016042403_01_0.html
赤旗『沖縄の「屈辱の日」って?』

 なぜ沖縄で4月28日を「屈辱の日」と呼ぶの?

 1952年4月28日は、日本が連合国とサンフランシスコ講和条約を結び、国際社会に復帰した日。同時に、日米安保条約によって米国の軍事的支配の鎖に縛りつけられました。沖縄から見れば、沖縄を分離することで日本国が独立を回復したので、「屈辱の日」と呼ばれています。米国の統治下では、日本国憲法は適用されず、人権侵害が横行しました。

・「ゴールデンウイークが増える」つうことで一般国民も気軽に賛成するかも知れない(一方で「5/1のメーデーを祝日にしよう、ゴールデンウイークが増えるし」という声がほとんど聞こえない辺り、「5/1を祝日にすることの是非」はひとまずおいても、「日本社会の反動右翼性」を象徴していると思います)。
 問題は「何ゆえにウヨにおいてはサンフランシスコ条約締結を祝うことがウヨ的な運動に結びつけられるのか」が理解できない、つうことですね。
 繰り返しますが「サンフランシスコ講和の日=米軍基地がその後も日本に置かれ続け、沖縄が佐藤政権時代に日本復帰するまで日本から切り離された屈辱の日」と言う要素は明らかにあるわけです。そうした事はウヨにとって屈辱ではないのか。
 かつ「サンフランシスコ講和できた」のは建前では「日本があの戦争の非を認め2度とああいうことはやらない」と国際社会に誓い、それを国際社会も認めたからです。「サンフランシスコ講和を祝いながら」、その前提である「日本はあの戦争の非を認めた」をチャラにしようなど無茶苦茶ですが、日本ウヨにはそう言う常識は通用しないようです。

 集会には拉致被害者の家族も参加した。被害者の増元るみ子さん(63)=拉致当時(24)=の弟、増元照明さん(61)は、姉を失った直後は北朝鮮による国家主権の侵害という認識がなかった*5と振り返り、「学校では日本の主権に関することは学ばなかった。子供のうちに近代史を学び、日本という国を考える機会をつくることが必要だ」と語った。

 増元以外には家族会から参加者はなかったようですが、さすが「次世代の党から出馬する人間」らしい極右ぶりです。せめてもの救いは増元が「家族会事務局長を辞めたこと」でしょう。
 なお、もちろん子どものウチに「近代史も国家主権に関すること」も皆学んでいます。問題はそれらの学びが「ウヨの増元にとって気にくわない」つうことにすぎません。


■【主張】昭和の日 元号あればこその歴史だ
http://www.sankei.com/column/news/170429/clm1704290002-n1.html
 そもそも元号とは中国文化です。日本に縄文時代からあったわけではない。ウィキペ「元号」によれば日本で「記録上、元号の制定が確認できる」のは「大化の改新」で知られる「大化(645年)」が一番最初です。
 元号の元ネタと成ってるのも「中国の古代文献」で、漢学者などから意見を求めることが多い。

 昨今は、年数計算が便利で合理的だといった理由から西暦が重視される傾向にある。

 そりゃそうでしょう。明治以前の元号は「頻繁に変わっていた」ので全然不便です。
 明治以降は「頻繁に変わらなくなり」多少便利になりましたがそれでも「人間(天皇)の寿命」はまちまちなので非常に不便です。
 例えば1918年生まれです(例:中曽根*6元首相)といえば、単純に「2017年マイナス1918年」で「98or99歳ですか?」と分かるわけです。これが「大正7年生まれです(注:内容的には『1918年生まれ』と同じです)」では「平成29年マイナス大正7年?。ええとちょっと待って下さい。」となって非常に不便です。
 しかも元号が意味を持つのは国内だけでしょう。国外で元号なんか持ち出しても意味がない。
 つうか以前、「自称・尺貫法支持者」永六輔が書いていたと思うのですが「太陰暦(旧暦)を国際化を理由に廃止して太陽暦新暦)に移行*7したり、尺貫法を国際化を理由に廃止してメートル法に移行したりした連中が、元号にこだわる理由が分からない」ですね。それ伝統文化維持じゃなくてただの「天皇制万歳」でしょうよ(まあ天皇制も伝統の一つですけど)。
 だから「天皇制と関係ない太陰暦や尺貫法は伝統として保護されない」わけです。

【参考:尺貫法と永六輔について】

http://motoda.exblog.jp/1250295/
 永先生が展開した一大復古運動。日本においては明治以来物を測る単位として尺貫法とメートル法が並存していたが、計量法の改定により昭和34(1959)年からは尺貫法の使用が禁止され、メートル法の使用が義務付けられた。これにより曲尺鯨尺は公には使用できないこととなり、これに違反した場合には法律違反として処罰が課されることとなっていた。
 昭和51(1976)年、知り合いの指物師から曲尺で仕事をして警察に呼び出された、という話を聞いた永先生は、この計量法の在り方に疑問に感じ政治家に相談するが改正は不可能と告げられる。義憤を発した先生は、自らのラジオ番組「誰かとどこかで」で尺貫法復権を提唱、全国の職人衆に決起を呼びかけたほか、自ら尺貫法を使用し警察に自首するデモンストレーションや、曲尺鯨尺の密造密売、プロパガンダ芝居「計量法伝々」の全国公演などの形で尺貫法復権運動を大々的に展開した。
 その結果、法律自体の改定は行なわれなかったものの処罰は行なわれなくなってゆき、尺貫法の使用は黙認されるようになったという。
■参考文献
 永六輔『さよなら芸能界』(朝日文庫 2001年)

 もともと中国由来の元号制度ではあるが、特筆すべきは、中国の威に屈する形で中国の元号を遵奉(じゅんぽう)し、自らの元号をほとんど建てられなかった周辺の多くの国とは異なり、わが国では独自の元号を使い続けてきた事実である。

 まあどうでもいい話ですね。前近代の日本に置いては「中国から独立して元号をつくること」はある種の「ブランド」だったわけですが今そう言う時代じゃない。むしろ「元号主体暦金日成*8の生誕が主体元年)と何処が違うんですか?」「主体暦が個人崇拝で問題なら元号だって問題じゃないですか?」つう話になるわけです(なお、ウィキペディアに寄れば主体暦金日成の死後に制定されました。さすがに生前にそう言うコトをやる度胸はなかったようです)。
【追記】
 産経は「日本以外は独自の元号がなかった」かのような書き方をしていますが、ウィキペ「元号」によれば

 ベトナムでは、970年、時の丁朝が太平の元号を制定して以来独自の年号が使われ、1945年の阮朝滅亡*9まで続いた。

だそうです。
 ただし

 19世紀後半にフランス植民地支配が始まると、新たに公用文となったフランス語文書で元号が使われることはなく、元号の認知度は次第に低下した。

ということで独立前からベトナムでは元号は廃れていきます。

中国では既に失われ、今や日本にのみ存続している元号は、いわば国家独立の象徴でもあり、今後も大切に守っていきたい。

 いやそう言う話じゃないでしょう。
 不便だし「元号なんかつくる理由、メリットがない」から中国は辞めたわけです。
 しかし中国において「主体暦」のような「毛沢東*10生誕をスタートとするある種の元号」ができなかったのは興味深いと思います。
 なお、ウィキペ「元号」によれば「政府が法律で制度として定め公式に採用してるかどうか」はよく分かりませんが台湾では「辛亥革命をスタートとする民国紀元」なる物が使われているそうです。

*1:何も考えず、旅行に出かける人間はともかくウヨにおいてはそう言う日です。

*2:ただしこうした「独立回復記念日」を「建国記念の日」とせず「フィクション」を「建国記念の日」とすることはよく分かりません。

*3:吉田内閣郵政相、建設相、岸内閣蔵相、池田内閣通産相科学技術庁長官などを経て首相

*4:奄美は1953年に、沖縄は1972年に日本に復帰した。

*5:「拉致と知った直後」ならともかく「失った直後」なら「北朝鮮拉致と分かってない」のだから「国家主権の侵害という認識がなかった」のは当たり前でしょう。「拉致と分かった直後」の誤記でしょうか?

*6:岸内閣科学技術庁長官、佐藤内閣運輸相、防衛庁長官、田中内閣通産相自民党幹事長(三木総裁時代)、総務会長(福田総裁時代)、鈴木内閣行政管理庁長官などを経て首相

*7:まあ中国、韓国なんかは未だに太陰暦を併用して旧正月を祝ってるようですが。

*8:北朝鮮国家主席朝鮮労働党総書記、朝鮮人民軍最高司令官

*9:ホーチミンによって阮朝が打倒されるが、フランスは「阮朝最後の王」バオ・ダイを担ぎ出してベトナム国(国王バオ・ダイ)を作り出し、植民地支配復活を画策、インドシナ戦争(1946〜1954年)が勃発した。インドシナ戦争では結局フランスは植民地支配をあきらめベトナムから撤退。しかし今度は米国がゴ・ジン・ジェムを大統領に担ぎ出し、1975年の南北ベトナム統一までベトナム戦争が展開された。

*10:中国共産党主席